文藝散歩 

「中世的世界の形成」

石母田 正著  岩波文庫(1985年9月)

「中世」と聞いて、皆さんは何を連想されますか。「暗い」、「宗教支配」、「蒙昧」、「不合理」などなどマイナスイメージが多いのではないだろうか。欧州フランス「啓蒙思想」の目標は人の知を啓くことであった。その流からすれば「中世」は宗教という不合理なものが人の知を塞いでおり、文明の光がさしていない状況であろう。歴史は否定も肯定もできない1回きりの事実であったとすれば、中世は厳然として存在した。外国の侵略という不連続点がなかったので、日本の歴史は連続して綿々と変化してきた。日本では平安時代後半の11世紀前後から室町時代末の16世紀までを中世という。約500年ほど続いたこの時代は、日本文化が形成された非常に画期的な時期で、「停滞」とか「蒙昧」では理解し得ない。本コーナー「文藝散歩」において「日本の乱世  室町時代を歩く」で中世の終末である室町期を取り上げた。そこで私は序で「日本史の中でも、室町期の二百年ほど、乱れに乱れて、不思議に豊かな文化が生んだ時代はないとされる。生け花、連歌、水墨画、能、茶の湯、庭園などをはじめととして、五山禅刹の成立、貨幣経済、貿易など経済的発展、食べ物や住居にいたるまで、日本文化といわれるものが乱世のなかから創造された。逆に失われた物も多い。天皇家は完全無力化し、藤原摂関家が支配した宮廷文化は和歌の伝統をはじめとして消滅した。つまり日本の政治と社会が根底から崩れたのである。絶対的権威のない室町時代に続く戦国時代になって寺社の経済的基盤であった荘園制とその結果の軍事力も織田信長によって完全に破壊された。織田信長は古代の残滓を徹底的に嫌った。これで古い日本は消滅した。古い日本が消滅する時期に日本人は混乱の最中にさまざまな創造を成し遂げた。それは近世の入り口であった。ではこの創造の源であるカオスの世界を歩いてゆこう。」といった。ここでアンダーラインを引いた寺社の荘園制の変遷を取り上げたのが本書石母田 正著「中世的世界の形成」である。

恐らくは歴史書に興味がなければ、著者の名前を知らない人が殆どであろう。私も本書で始めて著者に接したのである。カビの生えた文献・考証主義の歴史学という先入観を覆す手法の斬新さに驚いた。著者石母田正なる歴史家のプロフィールを記しておこう。石母田 正(1912年9月9日 - 1986年1月18日)は、日本史学者。専攻は古代史および中世史で、多数の著作がある。正統派唯物史観の持ち主として広く知られ、戦後の歴史学に多大な影響を与えた。戦後、歴史学を志した人々の多くが石母田の著書を読んだことにより、歴史学を専攻することを決意したと告白している。二高を経て、東京帝国大学文学部西洋哲学科に入学。後に国史学科へ転科し、1937年に卒業。朝日新聞記者を経て、1947年から法政大学法学部講師、1948年に同教授。この間、1963年から法学部長、1967年から附属図書館長などの役職にあり、1981年に定年退職、名誉教授となる。また、歴史学研究会幹部を歴任。1973年にパーキンソン病に罹患し、以降は闘病生活を送った。 代表作である『中世的世界の形成』は戦前に脱稿していたが、戦時中の空襲で自宅とともに原稿は焼失した。しかし、敗戦により今こそ発表すべきと考えた石母田は自宅にこもり、雨戸を閉め切ったまま一夏で再び書き上げたという「神話」は今でも多くの大学で指導教官から学生に語られている。皇国史観の強要とその崩壊によって停滞と混乱の最中にあった戦後の日本史学界に大きな一石を投じて、その再建を促した。

本書「中世的世界の形成」は昭和19年10月に書き終えられ、戦後昭和21年6月伊藤書店から出版された。伊藤書店が営業停止となり絶版したため、1957年9月東大出版会より改訂版が発行された。岩波文庫本となったのが1985年9月のことである。私はこの岩波文庫本を15年前に購入して読み出したが、途中で挫折しそのまま打っちゃっておいた。年の功というか心にゆとりが出来た今日、この赤茶けた文庫本の埃を払って再度手にした。なぜ昔挫折したのか分らないくらい夢中で読んだ。まるでマルクスの「資本論」、ヘーゲルの「弁証法」を読むように面白かった。やはりこの本は私には縁があったのだ。「矛盾の棄揚」とか源頼朝の不徹底性と古代権力との妥協を叱咤する著者の著述法が却って新鮮に覚えた。歴史は死んだものではない、現代政治と同じように生きているのだという観がした。本書が舞台とするのは、伊賀の国名張郡黒田庄であり、革命前夜の暗い闇に閉ざされていたというような雰囲気が漂う古代権力東大寺と黒田庄の百姓との闘いである。平安時代中期に発生し古代律令制に破綻をもたらした、落陽の有力摂関家・貴族階級と台頭する源平の武士階級の庄園(荘園とおなじこと)が、矛盾の出発点である。本書の内容は要するに歴史学でいう「庄園史」の概説書(専門論文では誰も読んでくれないから)であり、戦後日本の古代・中世史学界で圧倒的な声価を勝ち得た本である。人はこの本を「中世史学の最高傑作」という。無味乾燥な専門学術書は排して「庄園の歴史は私にとって何よりも先ず人間が生き,闘い、かくして歴史を形成してきた一個の世界でなければならなかった」と著者は序文に言う。

本書は4章からなる。第1章は「藤原実遠」という平安時代の中頃の伊賀の国28箇所の大領主のことからはじまる。藤原実遠は大農場主として、作業所・倉庫である田屋を建て農奴を使役して直接経営にあたった「当国の猛者」であった。しかし農民が独立を求めて狩り出される事を嫌って逃亡を繰り返すと、直接経営はついに破綻した。第2章は平安時代末期「東大寺」が、荒廃した藤原実遠の子孫が持っていた土地を買い取り、寄付させて、もともと黒田庄の近くの板蝿杣(大和国と伊賀国の境)という寺院建設用木材切り出しの山林から出発し始め20町に過ぎなかった黒田庄を12世紀前半には田地三百余町に拡大し支配した経過を描いている。寺奴のものは寺のものという「寺奴の論理」で寺社領化していったのが、南都の悪僧覚仁という稀代の政治僧であった。第3章は源平時代に領主=武士団が成長してくるが、東大寺と所領を争った名張郡司源俊方の戦いである。しかし武士団が他の地域と連合することなく孤立して戦ったために、対峙する東大寺の武力の前に敗退するのである。第4章は一円寺領化し不入権を獲得して蘇った古代権力東大寺は神人を置いて支配を強化したが、これに対する黒田悪党の戦いを描いている。黒田悪党とは庄民から出て庄民の利益のために働いたのであろうが、匪賊・山賊の一面もあった。すなわち古代権力と同様に悪党も道徳的に腐敗していたのだ。従って悪党には倫理的な共感もなく庄民から浮き上がった行動は孤立していたが、また東大寺にもこれを直接抑圧するだけの力を無くしていた。庄民を「寺家進止の土民」として支配する論理に東大寺の政治はあらゆる面で腐敗していた。悪党と東大寺の抗争は半世紀以上続いたが、東大寺は鎌倉幕府の六波羅探題に鎮圧を依頼し、南北朝時代に幕府守護の力で鎮圧された。黒田庄の東大寺寺領時代が斯くも長く続いたことには、庄民自体の蒙昧と奴隷根性がこの支配を受け入れていた事を著者は糾弾する。黒田庄が山奥で文明から遮断されていたといえ、統治者の腐敗が住民と無関係であったなら、庄民の長い悲劇は続かなかったはず。庄民も道徳的な腐敗を一部分東大寺と分かち合っていたのだと著者は指摘する。そのような時、古代権力は何度でも復活する。その度に庄民の悲惨さは倍加するのである。まことに黒田庄の歴史は暗鬱である。古代権力に戦いを挑んでは敗北と蹉跌を繰り返す。このメッセージは天皇制に対する日本国民の戦いに酷似していないだろうか。自分自身への反省をこめて、戦時中の日本国民に与える叱咤激励であった。このメッセージを直接言えば治安維持法で監獄行きであろうが、当時の本土空爆で天皇制軍閥政府も風前の灯であろうが。戦後日本人が自身を改革することなく、アメリカに革命をしてもらったため、不徹底な天皇制解体となった。何度でも同じ過ちを繰り返す国民、この蹉跌もいまだにブルボン王朝の流れであるカルロス王室を頂くスペインの暗黒の歴史と同じである。

第1章 「藤原実遠」ー大規模庄園領主の台頭と律令土地所有制の綻び

岩波文庫本には3枚の地図が付されている。1枚は伊賀国、大和国、山城(京都)国、近江国の国境が集約する地域の図であり、2枚目の図は伊賀国の図、3枚目の図は黒田庄(黒田本庄と黒田出作新庄)の図である。もともと東大寺は大和国と伊賀国の国境にある山である板蝿杣を寺院建築の材木を供給する山として保有していた。ここが東大寺の伊賀黒田庄への進出の拠点となった。小さな出張地が拡張して大きな寺領庄園に化けたのである。平安時代の中葉伊賀国名張郡には大蔵大夫藤原清廉(大和国、伊賀国、山城国にまたがる大領主であった)と左馬允散位藤原実遠(父より伊賀国のみを譲り受けた)という大領主2代が君臨していた。10世紀末ごろの藤原実遠の所領は伊賀全土28カ所の多数に及んだ。伊賀郡16箇所、阿拝郡6箇所、名張郡5箇所が中心である。所有する土地の形態は、耕地のみからなる「条里坪付き」の面積が記載されているものと、耕地と原野からなる4辺(4至)が記載されるだけの広大な土地の2種類からなる。後者の4至のみを示して町段を示さない土地の所有は9世紀始め弘仁年の官符では禁じられていた。つまり律令制の公地公民制度(奴隷制)の土地所有形態の崩れを示しているのである。律令制においては「公有地」という国家の所有と個人の所有の二重所有権形態から成り立っていた。このような原野占定の形態は独力で開墾することを前提とする開発領地である。こうして村民の治田と大土地所有とが入り乱れる複雑な形態が成立した。しかし平安時代の大土地所有は単なる開墾開発行為・先占主義だけでなく、あきらかに村落の入会地の囲い込みの性格も併せ持っていた。かかる原野の囲い込みは南都大寺においては「山手」という貸借料収入を約束するので、「地子」を生んだ。このような入会地の囲い込みは王臣家貴族(藤原実遠も地方在住化貴族だった)や社寺の非合法な土地占拠ともいえるが、これには国衙の承認のもとに行われていた。入会地の分割私有は入会権より上位の所有権として合法的に存在した。奈良時代末期から平安時代に急速に始まった入会地分割は、律令制の解体的現象ではあるが、これも律令制自体の変化運動として捉えられる。個人の治田所有者(田堵、名主)と大土地所有者の墾田は対立する。開発領主的な土地占有は農民を直接支配して労役に使用するのと「地子」を取るために、支配できる農民の数によって限界ができる。東大寺が板蝿杣四至を不当に拡大するについて、在地名主は「刀禰」という村役人を通じて抗議文を国衙に出して抵抗した。

藤原実遠の所領の基軸をなすのは耕地と原野からなる4至が記載されただけの広大な土地所有であった。彼の経営は田屋を建て、農民は直接従者として使役し、地子をとらなかったという。つまり領主の直接経営が特徴であった。平安時代の在地領主の私営田の基本的構造は、所領内の百姓が隷属的奴婢ではなく、保有地を持ち自己の生活資源はそこから得ているところの半独立的自営農民として領主と対抗しているところに特徴がある。従って直接経営は百姓の徭役労働によって経営されている。奴婢的労働とは処従・下人という名称で呼ばれる家内隷属民にとどまる。田をレンタルして地子をとるところまでにはまだいっていない。平安時代の私営田の歴史的段階である。これは藤原実遠の私田の古代経営方式の伝統を守ろうとすると、力をつけてきた農民と対立が深まる。実遠の晩年は常に農民の逃散による経営破綻に直面した。

藤原実遠の領主制の没落は農民との対立という構造を持っていたが、この地方への東大寺の進出と密接に関連した。1041年実遠が東大寺深観に30町を「売進」したことからうかがい知れる。「売進」は「寄進」ではなく、金をもらって領主権を売ることで、「領家職売進」といわれる。そして実遠は東大寺から所当の一部を受け取る権利を有するのである。領主権とは徭役賦課権、裁判権、司法警察権のことに他ならない。平安時代末期から鎌倉時代に在地領主が顕門勢家に所領の所有権を寄進し、自己の領主権を確実ならしめる寄進系荘園の成立は次第に地子だけを確保する在地領主の増加となった。実遠の経営破綻は黒田庄民の出作地となって、東大寺は黒田庄民に対する領主権を通じて特別な関係を形成していた。王臣家、大神宮、興福寺に較べて、東大寺にとって伊賀国への進出が遅れており、実遠の領主権を買ったことは後の伊賀国進出の起点になった。東大寺は在地領主の廃墟の上に自己の権益を形成してゆくのである。東大寺は土地所有権、住民に対する支配権(進止権)、加地子取得権も獲得した。1134年黒田新庄の田畠を取って東大寺の領主権が確立した。そして1174年「不入制獲得」となって、黒田庄の東大寺支配が完結した。

第2章 「東大寺」ー国家鎮護大寺院の「不輸不入制」寺領の拡大

黒田庄に東大寺が目を向けたのは東大寺光智が板蝿杣の拡張に努力した頃に始まる。950年の「東大寺封戸庄園並寺用帳」によると、全国3463町の広大な田地のうち、見開田はわずか212町にすぎない。実入りのある地は1割にも満たないという惨めな実体である。律令制国家機構と不可分の関係にある東大寺庄園にとって、奈良時代以来の地方庄園の荒廃は死活問題であった。従って南都東大寺近くの地で実収入のある田畠を増やす事は東大経営の緊急の課題であった。大和国では藤原氏の台頭に伴う興福寺からの圧迫という、力関係の変化が追い討ちをかけていた。東大寺が板蝿杣四至を不当に拡大するについて、在地名主と国衙の戦いに敗れた。そこで東大寺は合法的な土地所有をめざし、「開田使」という在地農民と結んで開発を進めた。1033年板蝿杣の庄園化(立券)が発展の原点であった。板蝿杣の住民「杣工」は木材の切り出し・植林整備の合間に、田を耕して自給生活をしたのが始まりである。「杣工」は国役を免除された階級で、「寺の奴にして、公民にあらず」といわれた。その段階では東大寺の所領は確立していない。ところが農業生産力の向上と、肥沃な田畠開発によって「杣工」村落が形成されて、「杣工」が農民になってくると次第に庄園の形を取る。「杣工」が土地に定着したのだ。

1033年板蝿杣を庄園として立券したことは、国衙の課役を免除された「本免田」から「出作地」という普通の庄園経営に移行したことを示す画期的な施策であった。国衙との抗争という知恵比べで、東大寺はあらゆる不正と不法、姦計を駆使して無能な国衙を欺いて公田を寺領に変えていった。そして1174年には院宣をえて黒田庄の「不輸不入制」を確立した。板蝿杣の庄園化から黒田庄の「不輸不入制」の確立までの140年間の東大寺の課題は、「杣工」=庄民の出作した公領をいかに一円寺領化するかにあった。国衙の反対する論点は黒田本庄25町の「不輸不入制」は認めるが、その庄園四至内の公田に作出した土地には税負担を、庄園四至外の公田に対しては税負担と国役を義務付けるというものであった。国衙(税務署)の言い分は住民居住地決定主義である。それに他する東大寺の言い分は庄民は寺の人間(寺奴)だから、庄民の所有する土地は東大寺のもので、国家鎮護寺である東大寺に対する課税や国役は認めないという強引な主張であった。庄民の属性決定主義といえる。神の使いには税金を課すことは出来ないという古代神権思想で強弁した。これを「寺奴の論理」という。庄園を本免田として一部容認する事自体が土地の国有制からなる律令制の崩壊になるのだが、国衙の論理はそこは慣習法として私有を認めて領地主義から課税する法理である。古代法である古代奴隷制の律令制は、中国の「均田制」の輸入でもともと理念上の普遍法として成立し、出発点の時点で現実の土地所有形態と矛盾していたのだから、これが慣習法と調整を取るということは政治上の問題である。古代の律令制と仏教は観念上の産物で、古代支配階級の国家理念であった。それが時代とともに変質し現実と擦り合わせが行われる時、古代理念と現実との抗争が起きるのは当然である。東大寺は古代理念を振りかざして、変質した古代貴族の矛盾をつけば正論となるのである。「泣く子と正論には勝てない」とはこのことである。

第3章 「源俊方」ー源平から鎌倉時代の武士団の台頭

東大寺の「古代的原理」(空理空論)は現実の中世的農村的精神の体現者としての在地武士団の抵抗を受ける。平安末期に庄園・公領の区別なく発生した在地武士団に、東大寺と抗争した名張郡司の源俊方の武士団がいた。源俊方はもと丈部近国という一族に由来した。伊賀にはもと伊賀氏という名門郡司がいたが、古代以来の名門国造勢力の退潮によって新しい土豪の進出が伊賀国にもおきて、11世紀末に丈部一族が新たな郡司となったようだ。名張郡司となった丈部近国は源蔵人という国司と協調して所領の拡大に努め、院政と源平争乱の時代に源俊方は東大寺の寺領と最期の抗争を展開した。源俊方の2代目と東大寺は公然たる武力衝突に突入した。1175年興福寺の武力を背景に源俊方一族は2,30名で黒田庄に乱入したが、多勢に無勢の悲しさ300名以上の東大寺覚仁の僧兵に蹴散らされ源俊方一族4代100年の抗争は東大寺の名張での勝利として確定した。武士団としての源俊方の勢力があまりに小さいことが敗因であるが、伊賀国の武士団の成立となぜもっと強力な武士団に成長しなかったかのほうが問題である。

伊賀地方の歴史にとって田堵名主層の成立は平安時代の農村社会の基底をなしている。それは律令制班田農民が地主層へ転化発展する過程である。農民の耕作主体単位「名」の規模は大体4,5町歩程度である。律令公民が庄民化する過程は、東大寺「杣工」と公民が次第に村落的結合をする時期と一致している。名主の同族組織は村落を超えた政治的結びつきを形成し、ヤカラ「族」という呼び名が与えられた。名主層が自然発生的に拡大してゆく過程とこれらを所領の構成要因として組織化し支配する領主層の出現が社会的政治的体制に進行した。名主層の構成単位は家族と「寄口」という家人奴婢・下人所従を基本労働力とする自家経営であった。したがって領主制の根本構造には領主と名主の対立関係が拮抗する。これを弁証法では「矛盾」という。土地の領有は「見知」という名主の承認と署名が必要であった。そして国衙という役所が認める「証験」に領主制存立の根拠とした。源俊方の一族丈部は平安末期から鎌倉初期にこの地方に台頭した武士在地領主である。武士団の族的結合は婿、舅、甥などの姻族結合が基本である。武士団の主従関係は契約ではなく血縁的・人格的結合である。軍事的統率者を頂点とする一族の軍事機構である。土地争いを軍事的に解決する組織である。鎌倉御家人の「一所懸命」という言葉はそういう意味である。目的は土地を軍事的に確保する事であるから、族的結合は便法にすぎず、歴史の進展で政治的な諸々の関係が出来上がるのは不思議な事ではない。族間で争う事も日常茶番事であった。古代権力と結んで権威の笠を着て他人の土地を奪う事もやった。これは必ずしも政治的進歩と合致しない。室町時代の下克上の争乱はまさに鎌倉的惣領・一族郎党結合は衰微し、誰と誰が結ぶかは一時の便宜に過ぎず、まさに「乱れた麻の如し」という有様である。中世とは族的結合が個人的結合方式に変わったことが特徴である。そして中世封建制の土地所有制は、開発領主による入会地の分割所有が村落的共同体を破壊することにあった。領主が武力で奪い取った所領を主従関係にある家子郎党に分配する事によって封建的政治関係が成立した。

南伊賀地方に在地武士団が台頭するのは平安末期の源平争乱期である。黒田新庄の下司紀七景時は「三日平氏の乱」で名が残っている。北伊賀地方では平家貞という平家の一族がいた。平家の郎党紀七景時は源平の争乱時けっして政治的に動いたとは思えない。在地領主武士団として階級的に動いて右往左往したに過ぎない。源平争乱で草深い農村武士が一族とともに呼応して戦ったことは中世の開始を物語る。名張郡の平康行が東大寺の「御家人禁制の法」を無視して源氏の御家人として活躍したことは、鎌倉関東武士団が天皇の古代権威や国家権威を無視して武力に訴えた歴史の背景と連動している。ところが1175年から1184年にかけて源俊方が東大寺領に攻め入った事件は東大寺側の武力が勝利した。伊賀の唯一の武士団が敗北したことにより東大寺の「不輸不入制」は実質的に完成された。1185年源頼朝は国衙領・庄園を問わず全国に幕府の御家人を守護地頭(総追捕使)として設置する権利を獲得したことは、中世政治史の最大の功績であった。ところが平家による南都焼滅という打撃を蒙った寺社に対して、頼朝は1183年院に対して神社仏事の崇敬を第一義とし、平家の横領にかかる所領を本寺本社に還付することを奏した。すなわち頼朝は平家没官領における地頭設置を出来たはずなのに寺社に譲歩した。平安末期の旧大寺のトップは皇族や貴族階級出身者で占められていたので、頼朝は貴族階級との対立を避けたのである。御家人に給付した地頭職は庄園に依存しており、頼朝自身が一大庄園領主であった。黒田庄の武士団は頼朝より所領安堵の下文を与えられたが、それは空文に過ぎず、東大寺の一元支配を打ち砕くものではなかった。戦いに敗れた黒田庄武士団は東大寺の支配下に入った。

第4章 「黒田悪党」ー匪賊化した黒田武士団と東大寺の最期の抗争

領主制と武士団の成立が直ちに東大寺の支配の動揺にならなかったのは、庄官組織の矛盾にある。黒田庄の統治組織として、刀禰、頭領、専頭、公文、下司らであり、下司は黒田庄では在地有力者の中から東大寺が任命した。庄官組織は東大寺の統治機構の中に取り込まれていた。また東大寺側の統治機構は寺家政所から覚仁により「預所」という高位僧侶からなる支配政治に代わった。東大寺のガバナビリティが貫徹され、村民に対する負担の増加と反抗に対する僧兵という軍事組織の対処が強化された。覚仁のずば抜けた政治的才覚と雄弁に対抗できるパーソナリティは存在せず、在地武士団を圧倒する軍事組織をもって平家による南都焼き討ちに対抗した実力で在地武士団を粉砕したのである。そうして治外法権である「不輸不入制」で古代王国を守り再建した。古代的政治と中世的清冶の対立は政治形態としては中央集権的傾向と地方分権的傾向の対立として存在し、社会的分業の未発達の上に成立する中央集権制は、地方における社会関係の成長がその存立基盤を侵蝕するのである。東大寺の支配機構である庄官組織を裏から支えたのが、東大寺支配の精神的支柱となる「神人」制度である。「神人」の意義は土地的隷従関係から人的隷従関係の強化発展というべきであろう。1277年には庄民が御家人になることを禁止した興福寺の解状に「伽藍の奴婢」という古い伝統的観が使われている。庄民の少数部分(富裕有力者)を自己の側にひきつけ、それを特殊な身分として制度化したのである。寺領内の犯過人への検察権を執行したのが神人であった。寺領を神が支配する古代観念は神格化による専制支配(天皇制)の合理化に使われることは今も昔も同じ事であった。在地武士団の衰退は東大寺と庄民の直接対決に向かわざるを得なかった。その支配の道具に古代神権思想が動員されたのだ。興福寺の例で寺院側の支配体制とその没落を見てみよう。庄民は寺の統治機構に「衆徒国民」として動員され寺院の警備・消防・検察・犯人逮捕など「権力の犬」として使われた。興福寺の寺院組織は、学侶、堂衆、衆徒の集団で構成され、各々の集会が意思決定機関であった。最高機関は寺務と最高学侶からなる「御房中集会」であったが、武力を持つ「学侶六方衆」が実権を握り、独断的専横を極めた。戦争中の軍部の如き独裁政治であった。さらに衆徒集会は学侶を凌ぐようになり、日本社会の特徴である下級専横体制、すなわち「下克上」によって寺院自体が半身不随的に解体に向かった。その組織の解体は内部の精神的腐敗によるもので、在地庄園を支配できなくなると同時に、自らの組織もコントロール不能に陥った。興福寺の崩壊は在地豪族の跋扈を生み、越智、十市、箸尾、筒井、楢原の五党聳立となって、室町時代15世紀中ごろに筒井氏が大和の覇権を取った。

開発領主による土地の実質支配は同時に慣習の支配する世界である。古代律令法と中世慣習法である鎌倉幕の「貞永式目」を比較して考えよう。庄園領主の土地所有権は国衙の承認という国家機構の裏付けがなければ成立しなかった。国衙法はまさに慣習法である。公地公民制の崩壊を認めたうえで、土地支配権を国家機構が追認すると云うのは自己矛盾であるが、それにより現実的な課税をするのである。在庁官人は名主,土豪、領主であり、中央に対しては租税請負人で、在地に対しては法の管理人であった。在地国税庁と在地法務省を兼ねているような複雑な存在である。しかもそれは中央官僚が管理するのではなく在地私領主の共同管理である。慣習の世界から法の世界への転換は、法治主義の古代文化と在地領主農村文化の折衝の上に成り立つ中世的世界であった。古代の法は神判的な文化であったが、中世的慣習「道理」の争いとなる。神々の世界から人間の世界の規範を「道理」に求めた鎌倉幕府の武家法「貞永式目」は現実を重視する。貞永式目の八条に「時効の制」があって、20年の実質支配があれば理非を論じないで所有権を与えるという。遺命や証験を煩雑に議論するより、現実を見よというものだ。法律万能社会は明治維新後にドイツ法から移入されたが、一方イギリス法という慣習法もあった。いまのドイツ法の流れからすると中世の慣習法は法治社会ではないかもしれないが、それが中世的転換であった。中世は古代の没落である。政治的には皇室・王朝貴族から在地領主・武士階級への政権交代である。古代律令体制の班田農民や東大寺板蝿杣の寺奴らが社会階級の分化と経済成長によって、在地領主化し中世的武士団を形成したのは、律令制および東大寺を否定する過程、すなわち古代の自己崩壊である。政治的時代画分として中世の開始を、保元・平治の乱から鎌倉幕府の成立の頃とする意見は正しい。ただ文学的には中世の開始を平安時代に置く意見もある。平安後期の文化を代表するのは浄土思想と散文文学である。浄土信仰は国家鎮護宗教、氏寺氏神を否定し個人の平安に向かった。10世紀古代貴族であった藤原氏の一人勝ちによって広大な庄園領主となって律令国家体制が崩壊寸前となった。藤原道長の時代には公卿25人のうち19人が藤原家が占めたのは律令国家の否定であった。「藤原王国」の成立である。王朝文学は和歌を中心としたが、「蜻蛉日記」、「宇津保物語」、「枕草子」、「今昔物語」、「将門記」など物語文学が主流になり、それは鎌倉時代の「平家物語」で完成した。叙事詩と浄土思想の結合が「平家物語」となって中世の叙事詩が結実した。「貞永式目」と「平家物語」と「歎異抄」は日本の中世的世界を支える三本の柱であり、ここにようやく国民が登場した。そして鎌倉時代には重苦しい国家鎮護宗教の自縛を解かれた宗教界の改革が堰を切ったように流れ出した。空也、法然、親鸞、日蓮などは民衆の救済を説き、武士階級は禅宗から帝王学を学んだ。

東大寺の黒田庄の統治様式の政治的帰結(矛盾の棄揚)は、第1次が源平争乱時の源俊方武士団の抗争に象徴され、第2次が鎌倉時代末期から室町時代の動乱期に起きた黒田の悪党に反映された。黒田庄の悪党が東大寺に戦いを挑んだのは1282年弘安年が最初である。黒田の下司であった大江氏の末裔である、清定、清直、康直の在地武士団関東御家人3人衆であった。悪党は東大寺対関東御家人の対立に決着のつかない延長戦でもあったが、1291年には越後房観俊と伊賀房覚舜が黒田庄を襲い、東大寺はすでに自力の軍事力で撃退する状態ではないほど衰退しており結局京都の鎌倉幕府「六波羅探題」に征討を御願いする始末であった。その後伊賀国御家人服部持法が悪党に組することにより、悪党の争乱は続いたが伊賀国守護仁木典厩によって退治されたのが1343年であった。60年間の悪党時代はいずれにも勝利をもたらさなかった。これほど黒田庄で暴れまわった悪党であるが、不思議に室町時代の特徴である「土一揆」の性格がないのである。寺の所当課役に対立して立ち上がった割には、庄民を組織していない。むしろ庄民から遊離した乱暴な山賊という性格である。庄民から遊離していたが故に頽廃的傾向が必然になっている。東大寺側の神人・公人の腐敗は憎悪の対象であったにもかかわらず、悪党側のモラルの高揚がない。南都大寺の悪僧と神人の暴力が支配した世界の暗さが長い間に庄民の心を蝕んでいったのだ。庄民と悪党にも精神的荒廃が起きていたのであった。しかし黒田の悪党にもそれなりの歴史的意義はある。それは東大寺の衰退が如実である事を天下に知らしめた。自力で庄民に対峙しえないほど東大寺の政治的能力は解体していた。それは宗教的にも鎌倉新仏教改革によって、国家鎮護という古臭い宗教は見向きされなくなっていた。このように弱体化していた東大寺をどうして悪党が始末できなかったのだろうか。それは鎌倉幕府の御家人制度の衰微がある。悪党はただ地侍の集団を全体として組織しうる地域封建制、すなわち守護領の完成によってのみ力を得ることが出来る。鎌倉幕府中央御家人制から地方分権性への移行の段階であった。鎌倉幕府の政治的創造である守護(総追捕使)職は地方分権性を準備した。それが完成したのが室町時代であった。残念ながら黒部庄の古代支配は中世が終るころ(織田信長の近世)になって終った。1週遅れの同時ゴールであった。「ちぐはぐ」 それが歴史でもある。


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