文藝散歩 

 大鏡

   武田友宏編 角川ソフィア文庫 ビギナーズ・クラシック(2007年12月)


平安摂関政治の黄金期藤原道長の栄華の歴史 「この世をばわが世と思う望月の・・・」


まず上の絵は「大鏡絵詞」より「雲林院菩提講」の絵である。この大鏡と云う歴史物語は、雲林院の菩提講に集まった人々の中にいる繁樹と世継と云う二人の超老人(180歳くらい)が、菩提講が始まる前のおしゃべりとして若侍や講に集まった人を相手に自分の見知っている藤原摂関家の繁栄や天皇の歴史を語ると云う筋書きでスタートする。絵の左上部にいる二人の僧の右にいるのが繁樹の妻、さらに右で顔を向き合って話しているのが繁樹と世継である。若侍は右端の縁側にいて立てひざで身を乗り出している男である。話は1025年(万寿二年)の雲林院菩提講が時間の基点であるが、内容は850年文徳天皇から1025年の後一条天皇にいたる176年の藤原摂関家の歴史を仮名物語風に庶民に語りかけるものとなっている。話の趣旨は藤原道長の栄華物語と言ってもいい。同時期の歴史物語に「栄華物語」(赤染衛門説)があるが、この大鏡の作者は本書の書き手がはしなくも漏らす皇太后妍子・中宮禎子家の近くにいるというから、中宮家につかえた貴族の男性らしい。「大鏡」は構想、形式、文体などで「栄華物語」とはやはり一線を画くし、批判精神に溢れた面白さを有する。

「大鏡」と云う書名は最初から付けられたのではなく、「世継物語」、「世継の翁が物語」などと呼ばれていた。同時期、同種の「栄華物語」が「世継」と呼ばれていたので混合を避けるため「大鏡」(歴史の真実を映し出す鏡)と改名したものと思われる。成立年代は本書の翁の予言「一品の宮禎子の子である後三条天皇が位につく」ということではしなくも曝露されるので、1119年以降の作に違いない。老翁の対話形式で藤原道長の権力掌握までの過程を興味深い挿話を盛り込んで論評している。そのため「大鏡」は紀伝体にならって五部形式をとっている。第一部は「序」で老翁らが登場して歴史講釈の目的を語る。第二部は「帝紀」では歴代天皇の事績を語りながら、藤原家が天皇家の外戚として政権を掌握する経緯が語られる。第三部は「大臣列伝」では道長に至る藤原家の同族間の争いを中心にして先祖の大臣の行跡を語る。左大臣 冬嗣 、太政大臣 良房(摂政)、 左大臣 良相、 権中納言従二位左兵衛督 長良、 太政大臣 基経(摂政・関白、) 左大臣 時平、 左大臣 仲平、 太政大臣、 忠平(摂政・関白、) 太政大臣 実頼(摂政・関白)、 太政大臣 頼忠(関白)、 左大臣 師尹 、右大臣 師輔 、太政大臣 伊尹(摂政)、 太政大臣 兼通(関白、) 太政大臣 為光、 太政大臣 公季、 太政大臣 兼家(摂政・関白)、 内大臣 道隆(摂政・関白)、 右大臣 道兼(関白)、 太政大臣 道長(摂政) という順で藤原摂関家の列伝が語られる。第四部「藤原氏の物語」では道長の法成寺造営が讃えられ、第五部は「雑々物語(昔物語)」である。帝紀より大臣列伝のほうが充実しているのは、「大鏡」の目的が藤原道長にいたる摂関家の歴史を書くことにあったからだ。

藤原道長の略年譜

藤原道長の略年譜を示して、年代の理解を助ける。
966  0歳   道長誕生
980  14歳  従五位下となる
982  16歳  昇殿 殿上人になる
987  22歳  左京大夫従三位になる  源雅信の娘倫子と結婚(正妻鷹司殿 この子供は道長の直系 頼道、教道は摂政関白、娘彰子、妍子、威子、嬉子は三代の天皇に嫁ぐ) 
988  23歳  娘彰子誕生(母倫子)   源高明の娘明子と結婚(第二夫人高松殿 子供右大臣頼宗以外、能信、顕信、長家は無官) 源氏の二家の娘と結婚したのは皇族間のバランスを取るため
990  24歳  父兼家死亡 長兄道隆摂政関白となる
991  25歳  姉の詮子(円融女御、一条天王の母)出家
995  29歳  兄の道隆・道兼死亡 内覧(関白同格)になる 氏の長者となる
996  30歳  正二位左大臣になる 長兄道隆の子伊周・隆家を左遷し藤原摂関家の長者を確保
1000 34歳  彰子一条天皇の中宮となる。定子(道隆の娘)を皇后に祭り上げて遠避ける
1008 42歳  彰子に後一条天皇生まれ、外祖父となる
1011 45歳  関白就任辞退 内覧(関白同格)留任
1012 46歳  娘妍子 三条天皇中宮になる
1016 50歳  後一条天皇即位(母彰子) 摂政になる
1017  51歳  摂政辞任 従一位太政大臣となる 娘寛子(母明子)小一条院に嫁ぐ
1018  52歳  太政大臣辞任 娘威子(母倫子)後一条天皇中宮となる
1019  53歳  出家 長子頼通関白となる  刀伊族壱岐を襲う
1022 56歳  法成寺の金堂供養
1027 61歳  道長死去

藤原道長の家族、子

道長の父は兼家(第入道殿、東三条殿) (摂政・関白)
道長の兄弟姉妹は
長兄 道隆      (中関白殿) (摂政・関白)  その子 伊周、隆家は道長と覇を争って破れ左遷された
次男 道綱      (右大将、傅の大納言)   長兄 道隆と相次いで死亡
三男 道兼      (栗田殿) (七日関白) 父兼家とともに花山天皇の出家陰謀に加担  念願の関白となるが7日で死亡
四男 道長      (入道殿、法成寺殿)(御堂関白) (内覧、摂政)
女  超子       冷泉女御 三条天皇母
女  詮子       (東三条院) 円融女御 一条天皇母
女  綏子
道長の子は以下であるが、権力は母倫子(鷹司殿)系に引き継がれる
長男 頼通      (宇治殿) (摂政・関白)              母倫子(鷹司殿)
次男 頼宗      (第二条殿) (関白)                母倫子(鷹司殿)
女  彰子       一条中宮 後一条天皇と後朱雀天皇の母   母倫子(鷹司殿)
女  妍子       三条中宮 三条后 一品の宮禎子の母    母倫子(鷹司殿)
女  威子       後一条中宮                     母倫子(鷹司殿)
女  嬉子       後朱雀女御 後冷泉天皇の母          母倫子(鷹司殿)
男  頼宗       (堀川右大臣)                   母明子(高松殿)
男  能信                                   母明子(高松殿)
男  顕信                                   母明子(高松殿)
男  長家                                   母明子(高松殿)
女  寛子       小一条院女御                   母明子(高松殿)
女  尊子       源師房室                      母明子(高松殿)


「大鏡」 序

この序では大宅世継と夏山繁樹と云う二人の超自然老人が雲林院での菩提講において出会うところから始まる。話の仕立ては一人の女性である筆記者(書き手)がこの菩提講に参加して大宅世継と夏山繁樹の歴史講釈を拝聴することになる。時は万寿二年(1025年)の、季節は不詳だが紫野の雲林院(現在の大徳寺の南に位置するが、現存していない)に参集する善男善女の群れが菩提講の僧の到来を待っているあいだのおしゃべりに始まる。その群れの中にいた老人二人が只今の天下人藤原道長の隆盛振りを語っておきたいという。それが天下の政道を明らかにするためで「おぼしきこと言わぬは、げに腹ふくるる心地しける」というのである。180歳を越える夏山繁樹という老人の自己紹介によると、故藤原忠平(太政大臣)が蔵人の少将といっていた時に仕えていた使い走りであった。190歳を越えるという大宅世継は宇陀天皇の皇太后(班子)の御所に仕えていた。繁樹が藤原摂関家の歴史を、世継は天皇家の歴史を語ると云う任務分けになっている。そこに第三の男として貴族に仕える軽輩の従人が話しに参加する。合槌を打ったり、話を促進させる役回りで登場する。繁樹の身の上話では小さい時に金で買われた貰い子であったそうだ。こうして大宅世継、夏山繁樹、軽輩の従人、筆記者の四人が設定された。そして話の趣向として、民衆にわかり易い政治歴史を語るとだと世継が宣言する。老人は古い話を知っているいて世の中の役に立つという歴史教育の強みを強調する。話の内容としては、道長の全盛期にいたるまでの歴代の天皇・皇后・大臣らを語らなければならない。そして天皇紀として文徳天皇の即位(850年)から1025年までの176年間の「帝紀」を語るというのである。文徳天皇から始めるにはわけがある。当時の大臣列伝は藤原冬嗣から始まるのである。この時より外戚による摂関政治の種がまかれた時期であるからだ。


「大鏡」 上

花山天皇退位の謀略

この角川ソフィア文庫本は「大鏡」の中から藤原道長関連をピックアップしてまとめている関係で、「帝紀」のほうは殆ど語られていない。いきなり花山天皇の出家物語が最初に出てくる。花山天皇は冷泉天皇の子で藤原伊尹(師輔の長男)の娘懐子が冷泉天皇の女御となって花山天皇を生んだ。したがって藤原伊尹が花山天皇の外戚として勢力を振るっていた。この花山天皇の女御は藤原伊尹の兄弟為光の娘でであったが急に逝去されたので,花山天王の嘆きは深かった。それに目をつけたのが藤原伊尹の兄弟兼家(師輔の三男)であった。皇統を冷泉系から円融系に取り返すため、兼家の娘詮子は円融の女御で一条の母であったので一条を天皇にするべく花山天皇を退位させることを子の道兼と企んだ。084年に17歳で即位した花山天皇は道兼の謀略に乗って花山寺で出家してしまった。粟田殿道兼公は花山天皇の出家の気持ちが変わらぬうちにと、内裏を出る前に神璽と宝剣を皇太子(一条)に遷してしまい、護衛を源頼光・頼信でかため強引に花山寺(元慶寺 山科)に行幸させた。粟田殿道兼公はいっしょに出家しようと誘ったのだが、花山寺に着くや一度父の兼家公に顔を見せてからとその場を逃れた。騙されたと知った花山天皇は泣く泣く出家されたと云うことである。

三条天皇の悲劇と藤原摂関政治の闘争

皇位は65代花山天皇から66代一条天皇に移り、再び冷泉系の67代三条天皇に移った。三条天皇はまた円融系の68代後一条天皇に位を譲られ、上皇に退かれた後視力を失われた。三条上皇の子である一品の宮禎子内親王(母は道長の娘妍子)が遊びにこられた折、髪をなでながらこのかわいい髪が見られないのが悲しいと泣かれるのが涙を誘うのでした。平安時代の摂関政治とは幼少で即位させた天皇に代わって外祖父が摂政関白となって政治を専横することである。藤原家の兄弟は娘を次々に天皇の后にして自分の孫である次期天皇の擁立を狙うことが権力掌握の最短距離であったことだ。天皇もこうなると実力のない政権争いの玩具と化した。藤原家は鎌足・不比等の荒あらしい権力闘争の時代から、奈良時代に四家(北家、南家、式家、京家)に分裂し、一時は疫病で死ぬ人も多かったが、冬嗣の北家が天皇家に深く食い込んだ。藤の蔦のように天皇家の血筋に入り込んで、藤原家・天皇家はあざなえる縄のように交雑を繰り返し、血筋の点からは分離不能なくらいとなっていた。藤原北家は冬嗣から良房、基経、忠平、師輔、兼家、道長、頼通の方向へ権力が継承された。兄弟間の激しい摂政関白争い(娘の入内争い)に打ち勝って政敵を一掃し安定的な権力を築いたのが道長である。けだし稀代の政略家であった。

菅原道真の左遷と左大臣時平

醍醐天皇の御代、左大臣時平は基系経の長男であったが、その時の右大臣は菅原道真であった。左大臣時平28歳、道真54歳であったので、天皇は学問・政治の経験の豊かな道真を重用された。901年左大臣時平は長年の恨みを道真讒訴のかたちで大宰府へ左遷した。903年道真は59歳で配所2年、憤懣の末他界した。左大臣時平は世間では悪者扱いであるが、「大鏡」では優れた醍醐の改革の政治家として誉めそやされている。清涼殿に道真の霊が雷神になって襲った時、時平は刀を抜いて鬼を追い払った大和魂と絶賛されている。

能書の佐理(左近少将敦敏の子)  三蹟の一人

大宰府大弐佐理が任期を終えて船で帰京する時、天候が優れず舟が出せなかった。占ってもらうと三島大山祇神社の神の祟りだそうである。神社の額を書いてもらいたいというので佐理が喜んで受諾すると、舟は滑る様に三島に着き額を奉納した。これで佐理殿は三蹟の一人(小野道風、藤原行成)となったという。

大納言公任(太政大臣頼忠の子)  和歌の道

入道道長が大堰川(嵐山)で舟遊びをなされた時、漢詩、和歌、管弦の舟三隻を用意され、頼忠の息子公任は和歌の船に乗った。そこで優れた和歌を読んで有名になったと云う話。

村上天皇の女御宣耀殿芳子 美貌と美髪の后(左大臣師尹の娘)

62代村上天皇の女御宣耀殿芳子は左大臣師尹の娘で、髪の長い美貌の誉れ高い后でご寵愛を受け、白居易の「長恨歌」の連枝の枝、比翼の鳥の喩であった。宣耀殿芳子殿は古今和歌集を全卷を暗記して何処からでも質問に答えるなど才女振りを発揮し村上天皇のご寵愛は厚かった。しかし村上天皇の后安子(兼家の妹)がなくなると、村上天皇は芳子を嫌っていた安子が哀れになり、すっかり芳子への寵愛は衰えた。このことは芳子には皇子がなかったため権力が左大臣師尹から伊尹・兼家・兼通兄弟へ移ったと云うことである。


「大鏡」 中

村上天皇の后安子(右大臣師輔の娘)への恐妻振りと安子の兄弟思い

村上天皇の后安子と寵妃芳子の争いは有名である。これは師輔(安子)と師尹(芳子)の兄弟の権力争いでもあった。后安子の嫉妬は強烈で、清涼殿の藤壺の上の局にいる寵妃芳子の部屋に村上天皇がいる時に陶器のかけらを投げ込むなどの嫌がらせはさすがに村上天皇を怒らせ、これは女房だけで出来るいたずらではない、裏で指図しているのは伊尹・兼家・兼通兄弟であると断じて謹慎を命じられた。これに怒った后安子は天皇を自分の部屋に呼びつけ早速処分の取り消しを要求して、天皇の袖を捕まえて離さなかった。やむなく天皇は三人の謹慎を解いたと云うことである。九条殿師輔公は大変霊感の強い人でしたが、朝廷を支えるべき正夢を女房に語ったため夢が破れて幸運を逃した方です。正しく夢解きをする人以外には、夢語るべからず。

行成(伊尹の孫)の才覚  四納言

伊尹公の孫の侍従大納言行成卿は多彩な才覚の持ち主で、後一条天皇が幼少の折、玩具に独楽を作って奉じたところ大変面白いので気に入られた。侍従大納言行成卿は能吏で「四代納言」の一人(権大納言藤原公任、権中納言藤原斉信、権中納言源俊賢)であった。

兼通と兼家の関白争い 安子の遺言状で兼通が関白になる

伊尹・兼通・兼家は同母の三兄弟である。関白だった伊尹は50前で倒れ、その後継をめぐって兼通・兼家の間に争いが生じた。その争いを制したのは『関白は兄弟の順で」という安子(村上天皇の后、円融天皇の母)の遺言状であった。兼通は関白になったが、病気になっていよいよ危ないと云う時まだ兼家が信じられず官位を奪う除目を決行した。

兼家の巫女と妻(道綱の母)

師輔の三男兼家公の長男は道隆公、次男は道綱公で、三男は道兼公(花山天皇御退位事件の)、四男が道長公であった。姉妹超子は冷泉の女御に、詮子は円融天皇女御になっている。兼家公は屋敷内に好く当たると云う巫女を入れ、正式の装束で占いを聞いたと云う。巫女や遊女、白拍子といった怪しげな女を家に入れると云うことはスキャンダルの元である。道綱公の母は倫寧の娘で和歌の名人であった。またこの道綱の母は「蜻蛉日記」の作者である。

道隆(兼家の長男)酒で早死

兼家公の長男で中の関白道隆公は大変な酒豪で、しかも乱れないと云う点でも立派であった。しかし酒毒で42歳でなくなられた。最後の言葉が酒友達と酒を飲むことであった。

道長と伊周・隆家(道隆の息子)の権力闘争

中の関白道隆公がなくなられると、道長と道隆の長男伊周との確執がしだいに表面化してきた。道長が大和の金峯山に参詣した時、伊周の輩が道長を襲うと云う噂があったが、無事道長は帰洛した。伊周はこの噂を聞いて道長邸に謝罪の挨拶に出かけたところ、道長公は打ち解けた様子で伊周公と賭け双六をやって散々打ち負かしたということである。道隆の次男隆家公は太宰の大弐として赴任している時、中国の刀伊族が壱岐・対馬を襲って住民を捕虜として拉致する事件が起きた。隆家公は全九州に非常招集をかけて守りを固め、高麗と交渉して住民を奪回(金参百両で)した。隆家公の声望は高まり、家の前には車がひしめき合ったと云うことである。

道兼の七日関白

道兼公は父兼家公の49日にも喪に服しなかった。これは花山院の謀略の実行犯を勤めながら、父兼家公が関白を長男道隆に譲ったのが気に食わなかったからである。花山天皇の出家仕掛け人を演じて,宮中一の嫌われ者になった道兼だが、その見返りの関白位が兄に行ったことを恨んでいた。兄弟順と云う詮子の遺訓によってようやく道兼にも関白が回ってきた。しかし流行の病で7日間の関白で終わった。年35歳であった。粟田殿道兼の子供は出来が悪く、不運であった。


「大鏡」 下

道長の二人の奥方 源雅信の女倫子(鷹司殿)、源高明女明子(高松殿)と娘の立后

道長は22歳で源雅信の娘倫子と結婚(正妻鷹司殿 この子供は道長の直系 頼道、教道は摂政関白、娘彰子、妍子、威子、嬉子は三代の天皇に嫁ぐ)、亦23歳には第2夫人源高明の娘明子と結婚(第二夫人高松殿 子供右大臣頼宗以外、能信、顕信、長家は無官) 源氏の二家の娘と結婚したのは皇族間のバランスを取るためであるとされる。源の姓は親王と生まれ天皇の位につけない2男、3男のために儲けられたもので、藤原家は天皇の外戚として栄えてきたので、源使と仲良くしておかないと怨まれる可能性がある。道長の娘院四人は彰子(母倫子)が一条中宮 後一条天皇と後朱雀天皇の母、 妍子(母倫子)が三条中宮 三条后 一品の宮禎子の母、 威子(母倫子)は後一条中宮、嬉子(母倫子)は後朱雀女御 後冷泉天皇の母となった。亦別腹の娘寛子(母明子)は小一条院女御となってあがった。このように道長の閨閥は蜘蛛の巣のように張り巡らされた。しかし道長の権力はもっぱら女倫子(鷹司殿)系の子供に伝えられた。

道長の負けじ魂

頼忠公の長男公任は学問・芸術にすぐれており、道長の父兼家にとって政敵に当たるのでいつも自分の息子道隆・道兼の出来の悪さを気にかけていた。そのなかで道長はひとり気をはいて「影をば踏まで、面をや踏まぬ」と気持ちの上で公任を圧倒していた。

花山天皇五月雨の夜の肝試し

道長の胆力の優れていた挿話を一つ。花山天皇が五月の梅雨明けの蒸し暑い暗い不気味な夜、近習を集めてつれづれの遊びをしていて肝試しをやろうということになった。清涼殿から道隆は豊楽院へ、道兼は仁寿殿の塗籠へ、道長は大極殿へ行く事になった。道隆や道兼は途中から逃げ帰ったが、道長は天皇から拝借した小刀で大極殿の高御座の柱を削って持って帰ってきた。これには天皇を初め皆は唖然としたと云う話である。この話は道長の豪胆振りを示すだけでなく、何か天皇の位を脅かす意図もあったのではないだろうか。危険な行為である。

道長 兄道隆邸で伊周を競射で破る

道隆公の屋敷で師殿伊周公が弓の競射をしていた時、道長公がふらりとやってきて弓の競射に参加した。道長公は伊周公より2本勝たれていたが、あと2本延長することになって、道長公は「道長が家から帝、后たち給うべきなら、この矢当れ」といって矢を放たれると命中した。また「摂政関白すべきものならば、この矢当れ」といって矢を放たれると命中した。当時の矢には競技と云う意味より的中の如何で神意を占う意味が強かった。しかし大胆な道長の心意気であった。

関白位をめぐる伊周(一条天皇后定子)と道長(一条の母詮子)の闘い 姉詮子の工作で内覧の宣旨を得る

一条天皇は皇后定子(伊周の妹)を非常に寵愛していたので、兄の伊周はいつも天皇の近くにはべっており、何かに付けて道長や姉の詮子皇太后(円融天皇の女御で一条天皇の母)の悪口を云うのであった。こう云う事情で兄粟田殿道兼公の死後、道長が関白となって政治をとることに一条天皇は難癖を付けて許可しなかった。道長の長兄道隆公(定子の父)がなくなった後定子の後ろ盾がいないことを天皇は憂慮されたことによるものであった。しかし姉の詮子はわが子の一条天皇に迫り、道隆公の死後道兼公には宣旨を出しながら、道長公に宣旨を出さないのは関白は兄弟順にと云う道理に合わないと強く意見をした。天皇は詮子をうるさく感じたのか避けていたが、詮子皇太后はある夜天皇の夜の御殿に出かけて泣き落としの説得を続けた。こうしてようやく道長公に内覧(関白扱い)の宣旨がおりた。道長公はこのことをいつまでも恩義に感じ、詮子皇太后の葬儀をねんごろに執り行った。この後伊周公は大宰府権師に、弟隆家は出雲権守に左遷になった。ついに道長は政敵の一族を一掃して最高位の左大臣に昇進した。そして一条天皇には道長の娘彰子を中宮に入れ、定子を皇后に祭り上げた。権力闘争は天皇の愛人の位置関係にまで及ぶのである。

庶民は道長政治を絶賛する

道長は庶民の生活ぶりを申文で知り、家が貧乏なら相当の贈り物をして人気を得ていたようだ。中宮彰子は法成寺で仏門に入り女院と呼ばれるようになった。これを機に女房達が受戒する者が多発したと云う。法成寺の造営は道長晩年ぼライフワークとなった。壮麗な大伽藍は古今東西見たことがないほどであったという。道長の日記「御堂関白記」によると、御堂とは無量寿院のことで、1027年道長はここで往生した。

醍醐天皇の人柄、古今集を編む

時代は遡って、醍醐天皇はいつも笑顔を絶やさない人柄で、人々が話しやすい雰囲気を作っておられた名君である。さらにその上を行く村上天皇はおっとりとした人柄で。醍醐村上天皇の治世は「延喜・天暦の治」として王朝政治の理想と仰がれたようだ。醍醐天皇は「古今和歌集」の編集を紀貫之・壬生忠岑・凡河内躬恒らに命じられた。全員が地下人でこの実力主義の人材適用で勅撰和歌集が出来上がった。

兼家の豪胆さ 一条天皇即位式を強行

時代は遡って、兼家・道兼の陰謀により花山天皇は出家させられ、一条天皇が即位されことになった。即位式の大極殿の飾り付けをしていた時、天皇のすわる高御座に何か動物の死骸が見つかった。責任者が慌てて兼家に指図を求めに来たが、兼家は居眠りの振りをして聞かなかった。そんな事件はなかったことにして無事即位式は整ったということである。兼家の豪胆さは道長公にも受け継がれている。

一品の宮中宮禎子の立后と国母実現

ここで世継翁が変なことを言い出す。後朱雀天皇の后一品の宮禎子(道長の女妍子の娘)が国母になる(後三条天皇の即位)という予感がすると云うのである。大鏡は現在時を1025年に設定しているので、何故こんな破綻を仕出かしたのだろうか。これで「大鏡」が1068年4月以降の作品である事を曝露したような物だ。結局「大鏡」の作者は妍子・禎子の勢力圏内にいた者が書いたと云うことがわかる。このことを「二の舞いの翁物語」で追認をするというご丁寧な筋書きである。


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