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文藝散歩 

死と愛と孤独の詩人 「原民喜」

T.梯久美子著 「原民喜」 岩波新書(2018年7月) U.原民喜小説集 「夏の花」 岩波文庫(1988年6月) V.「原民喜全詩集」 岩波文庫(2015年7月)

繊細な精神は過酷な運命を生きた 死と愛と孤独の文学

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民喜と貞恵

留学先のフランスで原の自死の報を受け、遺書を読んで「あなたの死はなんてきれいなんだろう、あなたの生はなんてきれいなんだろう」と日記に書いた遠藤周作、36年後「死について考える」という著作のなかで次のように書いている。「原さんは私だけでなく、周りの多くの人に強烈な痕跡を残して行きました。あの人の何百倍も強烈なのがイエスかもしれない」と原の生き方とイエスの生涯を重ねて考えている。人々の悲しみ、苦痛、惨めさを引き受け、寄り添おうとしたそれが遠藤が信じたイエスの像である。この人はこの世では無力であった。奇蹟など行わなかった。自分を裏切った者に恨みの言葉は発しなかった。彼は悲しみの人で自分たちの救いだけを祈ってくれた。イエスのその惨めな死こそが弟子たちの胸に突き刺さり、彼らの人生を変えていくのだと遠藤は書いている。遠藤が原をイエスに重ね、轢死という悲惨な自死を「なんてきれいなんだ」という理由が見えて来る。友人の庄司総一は、原は自分を痛めつけ不幸に落とし込んだ者への抗議は言わなかったという。反抗の精神を持たなかった原の文学の美しさがある。原は小さい声で死者のための歌を歌った。これを庄司は「無償の愛」と呼んだ。被爆体験を持ちながら社会に抗議しないで生を終えた作家に物足りなさを覚える人は多い。自分への反省もなくしゃにむに前に進む社会にあって、悲しみの中に留まり続け嘆きを手放さなかった原にかえって強靭さを覚えると筆者は言う。切り替えが早いだけで悲しみと嘆きを置き去りにする人は精神に連続性をなくし、空洞を生む。個人の発する弱く小さな声が意外に遠くまで届くことがある。それが文学の力かも知れない。原民喜の生き方は、どこか太宰治に似ている気がする。下に原民喜略年譜を掲げる。

原民喜略年譜

明治38年(1905年)0歳: 11月15日父信吉、母ムメの間に五女七男(長男・次男は早世)の五男として広島市幟町(現 中区幟町)で生まれる。生家は、陸海軍・官庁御用達の縫製業を営む。父は1866年生まれ、日清戦争のとき繊維商「原商店」を創業。1914年合名会社に発展する。日露講和条約(ポーツマス条約)調印
明治45年(1912年)7歳: 広島県師範学校附属小学校(現 広島大学附属東雲小学校)に入学。6月19日弟六郎が4歳で死去
大正6年(1917年)12歳: 父信吉胃がんで死去。享年51歳。小学校6年生、 次兄守夫と原稿綴じの同人誌「ポギー」を作る。
大正7年(1918年)13歳: 広島高等師範学校附属中学校(現 広島大学附属中学校)の受験に失敗、 広島県師範学校付属小学校の高等科に進む。 6月24日慕っていた姉ツル腹膜結核で死去。享年21歳。
大正8年(1919年)14歳: 広島高等師範学校附属中学校に入学。国語が得意だった、クラスの会誌に「絵そら琴をひく人」という筆名で小説を発表。
大正9年(1920年)15歳: 中学2年生、家庭誌「ポギー3号」に「楓」「キリスト」他を寄せる。
大正10年(1921年)16歳: 中学3年生、家庭誌「ポギー4号」に短編小説「槌の音」を寄せる。
大正12年(1923年)18歳: 広島高等師範学校附属中学校4年を修了。大学予科の受験資格が与えられたため、5年に進級後はほとんど登校しなかった。 同人誌「少年詩人」に参加、詩作を始める。同人に熊平武二、末田信夫(長光 太)、銭村五郎らがいた。ゴーゴリ、チェーホフ、ドストエフスキーやヴェルレーヌ、宇野浩二、室生犀 星など文学に親しむ。 関東大震災・ソビエト連邦の成立
大正13年(1924年)19歳: 慶應義塾大学文学部予科に入学。この頃、熊平武二の影響から句作をはじめる。芝区三田の金沢館に下宿、同期に山本健吉、庄司総一、瀧口修三、厨川文夫、北原武夫らがいた。
大正14年(1925年)20歳: 「糸川旅夫」のペンネームで「芸備日日新聞」にダダ風の詩を発表する。
昭和元年(1926年)21歳: 同人誌「春鶯囀」創刊。熊平清一、熊平武二、長光太、銭村五郎、木下進、永久博朗、山本健吉らが参加した。資金難で4号で廃刊。 また、熊平武二、銭村五郎、長光太らと原稿綴じの同人誌「四五人会雑誌」 を創刊する。俳句、小説、随筆を発表。次兄守夫と原稿綴じの家庭同人誌「沈丁花」「霹靂」を作り、俳句を寄せる。 長光太、山本健吉らとマルクス主義文献を読み左翼運動にも関心を持つ。読書、創作にふけり単位不足で留年、学部進級が2年遅れた。
昭和4年(1929年)24歳: 慶應義塾大学文学部英文科に入学。主任教授は西脇順三郎。在学中はマルクス読書会に参加、日本赤色救援会など左翼運動に一時参加、酒やダンスにも傾倒した。 世界大恐慌
昭和5年(1930年)25歳: 慶応大学生の小原の指示で広島地区の救援オルグとして派遣される。
昭和6年(1931年)26歳: 広島の胡川清に日本赤色救援会の地区委員会を組織するよう働きかける。4月胡川は逮捕され、原も東京で逮捕される。その後運動から離れる。
昭和7年(1932年)27歳: 慶應義塾大学卒業。卒業論文は、「Wordsworth論」。港区の長光宅に寄寓する。ダンス教習上の受付の仕事につく。横浜本牧の身請けした女性と同居するが、逃げられカルモチン自殺を図る。千駄ヶ谷の明治神宮外苑のアパートに長光太と移る。原に実家から縁談が持ち込まれる。 満州事変
昭和8年(1933年)28歳: 1911年生まれの永井貞恵(文芸評論家 佐々木基一の姉)と見合い結婚。永井家は尾道で肥料商、米、酒造を営む。池袋のアパートに新居をもうけるが、 淀橋区(現 新宿区)柏木町の山本健吉宅の向かいに転居。井上五郎の同人誌「ヘリコーン」に参加。
昭和9年(1934年)29歳: 不規則な生活を不審に思われ、妻とともに淀橋署特高警察に検挙されるが、一晩で釈放される。山本健吉と絶交する。千葉市登戸町(現 千葉市中央区登戸)に転居。妻が病死するまで10年間同所に居住する。この時代が原にとって最も幸せな時期だったようだ。
昭和10年(1935年)30歳: 短篇集「焔」(白水社)を自費出版。妻と共に句誌「草茎」へ俳句を発表。俳号「杞憂」。
昭和11年(1936年)31歳: 母ムメ尿毒症のため死去。享年62歳。 この年より「三田文学」を中心に雑誌への作品発表が続く。「狼狽」「貂」「行列」 ニ・ニ六事件
昭和12年(1937年)32歳: 「幻燈」「鳳仙花」を三田文学に寄稿
昭和13年(1938年)33歳: 小説「不思議」「玻璃」「迷路」「暗室」「招魂祭」「自由画」「魔女」「夢の器」を三田文学に寄稿
昭和14年(1939年)34歳: 妻貞恵、肺結核(糖尿病を併発)を発病。千葉医科大学付属病院に入院するなど5年間の闘病生活を送る。作品数は次第に少なくなる。「曠野」「華燭」「沈丁花」を三田文学へ寄稿 欧州で第二次世界大戦起こる
昭和15年(1940年)35歳: 「小地獄」「青写真」「眩暈」「冬草」を三田文学へ寄稿
昭和16年(1941年)36歳: 「雲雀病院」「夢時計」
昭和17年(1942年)37歳: 船橋市立船橋中学校の嘱託英語講師となる。「面影」 「淡章」 「独白」を三田文学に寄稿
昭和18年(1943年)38歳: 「望郷」を三田文学に寄稿
昭和19年(1944年)39歳: 船橋市立船橋中学校退職。夏ごろより、朝日映画社脚本課嘱託となる。 9月28日、妻貞恵死去。享年33歳。リルケの「マルテの手記」を読み強い感銘を受ける。 「弟へ」「手紙」を三田文学へ寄稿、三田文学休刊
昭和20年(1945年)40歳: 妻を看病していた義母が帰郷する。2月4日広島市幟町に住む長兄信嗣宅へ疎開、家業を手伝う。 8月6日、長兄宅で被爆。爆心より1.2Kmの位置で被爆する。2晩野宿して8日より、次兄守夫の家族とともに広島市郊外の八幡村(現 広島市佐伯区)に移る。原爆被災時の手帳をもとに小説「夏の花」(原題「原子爆弾」)を執筆、佐々木 基一宛に原稿を送る。 ポツダム宣言受諾・終戦
昭和21年(1946年)41歳: 三田文学復刊。近代文学創刊。上京、大森区馬込東(現 大田区南馬込)の長光太宅に寄寓する。 慶應義塾商業学校・工業学校夜間部の嘱託英語講師となる。 「三田文学」の編集に携わる。 亡き妻との思いでを書いた「忘れがたみ」(三田文学)「雑音帳」(近代文学)「小さな庭」(三田文学)「冬日記」(文明)「ある時刻」(三田文学)「猿」
昭和22年(1947年)42歳: 長光太宅を出て中野の甥の下宿など居所を移す。 中野のアパートを移って、丸岡家が所有する能樂書林へ転居する。「夏の花」を「三田文学」6月号に発表。 慶應義塾商業学校・工業学校夜間部の嘱託を退職。三田文学の編集と創作に専念する。「吾亦紅」「秋日記」「廃墟から」「雲の裂け目」「氷花」を四季、三田文学に発表。
昭和23年(1948年)43歳: 神田神保町の能楽書林(丸岡明の自宅であり、当時の三田文学発行所)の一室 へ下宿する。遠藤周作と知り合う。「近代文学」の同人となる。 「夏の花」で第1回水上瀧太郎賞を受賞。「昔の店」を若草に、「愛について」「戦争について」「火の踵」を近代文学に「災厄の日」を個性に発表する
昭和24年(1949年)44歳: 能楽書林より、小説集『夏の花』を出版する。「三田文学」の編集を辞める。祖田裕子と知り合う。「壊滅の序曲」「魔のひととき」「死と愛と孤独」「火の唇」「鎮魂歌」を発表し戦後の創作活動が膏に乗る。 中華人民共和国成立
昭和25年(1950年)45歳: 武蔵野市吉祥寺に転居する。遠藤周作、祖田裕子と3人で多摩川でボートに乗って楽しい時間を得た。 日本ペンクラブ広島の会主催の平和講演会へ参加するため帰郷。遠藤周作がフランス留学に出発する。「美しき死の岸に」「讃歌」「原爆小景」「火の子供」 朝鮮戦争起こる
昭和26年(1951年)45歳: 3月13日、中央線の吉祥寺・西荻窪間にて鉄道自殺。享年45歳。 3月16日、佐々木基一宅で「近代文学」「三田文学」合同の告別式が行われる。葬儀委員長は佐藤春夫。「ガリバー旅行記」(主婦の友社)、「原民喜詩集」(細川書店)刊行される。 広島城跡に詩碑建立。(昭和42年に原爆ドーム東側に再建) 「うぐいす」(童話)「碑銘」「悲歌」「ガリヴァ旅行記」「心願の国」 「永遠のみどり」(小説)「誕生日」(童話)「死の中の風景」(女性改造)「死について」(日本評論)「原民喜詩集」(細川書店)「もぐらとコスモス」(童話)「屋根の上」「ペンギンの歌、蟻、海」(近代文学)「杞憂句集」(俳句研究)


T.梯久美子著 「原民喜ー死と愛と孤独の肖像」 岩波新書(2018年7月)


原民喜が自死したのは1951年(昭和26年)3月13日の夜更けであった。前日原は三田文学の後輩で作家の鈴木重雄夫婦の暮らす井の頭線沿線の久我山の家にふらりと訪れた。普段から行き来のあった中なので驚きはしなかったが、その日も無口で何もしゃべらずうまそうに焼酎を飲んだそうだ。原に持たせようとしたクロッカスの鉢が原が帰った後縁側に置いたままであった。鈴木は表に出て原を追ったが原の姿は見えなかった。原が中央線の西荻窪ー吉祥寺間で鉄道自殺を遂げたのは翌日のことである。原の自死には二人に女性の目撃者がいた。吉祥寺から西荻窪に向かって歩く男にすれ違ったが、彼は土手を上って線路に横たわった。そこへ11時30分西荻窪発の電車がやってきて姿を認めて急ブレーキをかけたが間に合わず原を引きずって50メートル先で停止した。後頭部破損、両足切断で即死であった。自宅には友人17人への遺書が残されていた。着ていた服は詰襟の国民服であった。一張羅の背広は詩人の藤島宇内に差し上げますと遺書に書いてあった。文学青年たちに贈るため、数少ない衣類に名札を付けて下宿の壁にぶら下げてあった。最大の理解者であり庇護者でもあった妻を戦争末期になくし、戦後の東京生活は孤独と貧困に苛まれた生活であった。その中で執筆をつづけついに力尽きたのだった。詩人の長光太は、原は若い時から何度も轢死の幻想を口にしていたという。1939年三田文学に発表された短編小説「溺没」には、轢死した死体の上を走る省線の床を踏みつける女の幻想が、怖いもの見たさのように描かれている。長氏は彼が自分の死を予告しているようだという。原は慶応の学生のころから動く乗り物に異常なまでの恐怖心を抱いていた。それに原爆の光が新たな層の恐怖を植え付けたようだ。原の小説「鎮魂歌」には「自分のために生きるな、死んだ人達の嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。お前たちは星だった、花だった」原は死者たちによって生かされている人間だと考えていた。そこには敏感すぎる魂、幼いころの家族の死、交通災害の予感、そして妻との出会いと死別が深く関わっている。警察から電話があって自死の翌朝現場に駆け付けたのは庄司総一氏、鈴木重雄氏であった。それから友人・親戚への連絡が始まった。まず能楽書林の丸岡明、群像編集部の大久保房雄氏、近代文学の佐々木基一(義弟)らであった。広島から兄の守夫氏がやってきて火葬が始まり、通夜を経て阿佐ヶ谷の佐々木基一氏の家で「三田文学」と「近代文学」の合同葬が営まれた。葬儀委員長は三田文学の長老佐藤春夫氏である。弔辞を読んだのは三田文学の柴田錬三郎氏、近代文学の埴谷雄高氏であった。埴谷氏は「あなたは死によって生きていた作家でした。あなたの作品はこの地上に生きるものの悲しみの果てを繊細に描き出しています」と述べた。自死する前年1950年朝鮮戦争が勃発、トルーマン大統領は原爆使用も辞せずと発言したことを受けて、原は「明日再び火は天から降り注ぎ、明日ふたたび人は灼かれて死ぬでしょう、悲惨は続き繰り返すでしょう」と書いた。原の死は周到に準備されていた。数か月前から友人たちを訪れさりげなく別れを告げていた。最後に訪れたのは鈴木宅であった。残された物の中には17通の遺書と数通のあて名を書いた葉書があった。押し入れの中に大久保の名札のついた風呂敷があり、遠藤周作宛の遺書には切手が張られていた。そして「心願の国」原稿、数本のネクタイとタオルであった。佐々木氏あての遺書には「さりげなく別れてゆきたいのです。妻と死別してからの私の作品はすべて遺書だったような気がします。」と書かれていた。カバンの中にはこれまでの原の作品がすべてまとめてあった。生きている世界は点となって遠ざかってゆくやがて自分の文学も消えて亡くなる。編集する場合山本健吉と佐々木の二人でやってください。印税は原時彦(甥)に相続させると付け加えてあった。原は結婚したばかりのころ「遥かな旅」に「もし妻と死に別れたら、1年だけ生き残ろう。哀しい美しい一冊の詩集を書き残すために」と書いた。妻が病死することの予期不安を抱いていたのである。しかし運命は原を原爆に遭わせ、自分の見たものを書き残さなけれ死ねないという気にさせ戦後6年近くを孤独の中で生きたのである。それに比べると同じ慶応出身の文学者江藤淳氏は妻が亡くなって、すぐ後を追って自殺された幸せな方であったのかもしれない。死の2年前1949年エッセイの中で、原は「私の自画像に題する言葉は、死と愛と孤独の言葉になるだろう」と書いた。少年期以来彼の人生は死の想念にとらえられ、妻の愛情に包まれて暮らした青年期があり、孤独の中で書き続けた晩年の日々があった。原民喜の命日は「花幻忌」と称して友人たちが集まる。

1.死の章

原民喜は日露戦争で勝った1905年11月父新吉、母ムメの5男として広島市中区幟町に生まれた。長男と次男は早世したので、3男の信嗣が長兄、4男の守男が次兄にあたる。その他に弟2人、姉2人、妹2人がいた。上の弟も4歳で亡くなっている。生家の原商店は1894年に創業した陸海軍・官庁御用達の繊維商で、軍服・制服・夜具・天幕等の製造・卸をやっていた。それ以来原商店は順調に業績を伸ばした。原商店は工場のほかに貸家を持ち1914年には合名会社となった。原家は裕福な実業の家となった。原爆が投下されたとき生家は爆心より1.2Kmの近くにあった。この家は父信吉が1908年に建てたが地震で隙間ができたので、新たに頑丈な家に作り替えたという。ほとんどが1階で2階部分は2間しかなかった。原は成人してから「自分の家は戦争成金なんだ」と自嘲気味に話した。原民喜の小説のテーマは、子ども時代の回想、妻との死別、被爆体験の三つに大別される。「幼年画」では主人公を敏感すぎる神経のために外界に怯える子どもとした。「小地獄」では恐怖心のために様々な幻想を見る子どもを描いている。少年期を描いた「死と夢」では幻想の世界に、昏く陰惨なイメージが加わり、自分の死体を見る自分が描かれてる。世界との断裂(断層)の感覚である。原民喜は小学生だった7年間で3人の家族を失った。1年生の時弟の6郎が4歳で亡くなり、5年生の時父が51歳で亡くなり、高等科1年生の時次姉のツルが21歳で亡くなっている。小説「昔の店」には父の死を境に世界が一変した様子が描かれている。それまでは自宅や店は心休まる安全地帯で彼にとって親密なものであった。このころを境に日向から日陰へ移されたような気持になったと書いている。学校から帰ると自分の部屋に引きこもり誰とも口を利かなくなった。そして家業に嫌悪の気持ちを抱くようになる。この小説の主人公はほとんど彼自身であった。まだ物語を構築するのではなく、自分の記憶と感覚を頼りに独特の自身の世界を描く作品の対象は身近な事への彼の心象の移り変わりである。子どもらしい衝動や喜びを忘れ、学校の授業にも友達との遊びにも全く興味を失った。父を失って父性的な威圧感や荒々しいことが苦手となり、青白い内向的な少年になった。短編集「幼年画」の1篇である「朝の礫」には弟の死が描かれ、死んだ弟の前で父が泣く姿に原少年は繊細な感情を見ている。父がガンの手術のため大阪の病院に入院したとき、父が妻に与えた手紙を読んで、父の孤独さに思いをはせている。この年齢で人の孤独と悲哀を深く感じ取る繊細な少年になったのである。小説「雲の裂け目」では、父が亡くなって1年ほどしたころから、庭の隅にある大きな楓が特別な存在に見え出したと語られています。父が死んだ部屋の前にあって、楓の木は親しい存在となり、彼は人より楓の樹に心を慰められるようになった。樹を父との媒介としてとらえているのである。中学校に入ってから原は学校の勉強に興味を失い、彼が声を出すのを教師も旧友も誰も聞いたことがない。原が次兄守男と二人で作っていた家庭内同人誌「ポギー」3号には、楓の詩がある。楓だけが彼の心と存在をすべて知ってくれるという内容である。散文詩集「小さな庭」に「かけかえのないもの」という1篇がある。妻が亡くなった後に書かれたもので、限り無い悲傷、悲しみ自体が慰めである。「空に消えたいのち、木の枝に帰ってくるいのち」への哀しみの歌である。広島被爆体験をへた戦後「鎮魂歌」に「自分ために生きるな、死んだ人達の嘆きのためだけに生きよ」と繰り返され「少年の僕は向こう側にある樹木の向こう側に幻の人間を見た」と。すべての樹に特別の意味を与えたのは、父との死別であり、その父を象徴する楓であった。妻が亡くなった後の俳句に「戦慄のかくも静けき若楓」という句があるが、「壊滅の予感」を感じさせる。小説「夏の花」ではこの楓は原爆によって「倒れた楓」となり、無残な懐かしい樹の最後であった。エッセイに「母親について」という文がある。兄弟姉妹が多くいて、3人も若死にしたなかで、母親の愛情は民喜だけに灌がれたのでない。民喜が13歳の時最もかわいがってくれた次姉が父親が亡くなった翌年腹膜結核で22歳でなくなった。この人から一番決定的な影響を受けていたと書いてある。1949年に書かれた小説「魔のひととき」に次姉の思い出が美しいおとぎ話のように書かれている。愛する死者は「聖別」される。父と姉、そして妻というかけがえのない愛情の対象をみな亡くしてしまった原が、脆く繊細な心を支えるために行った「聖別」であったろう。姉の死が承服できない民喜は、「遥かなところで僕の姉との美しい邂逅を感じることができる」という。民喜は姉から聖書を読んでもらって死後の再会を信じていたようである。次兄守夫と一緒に始めた家庭内同人誌「ポギー」3号(1920年)になかに「キリスト」という題の詩がある。この同人誌「ポギー」は12年間続き、原家の文化的土壌の豊かさが分かる。中学時代の原は誰とも口を利かず、運動はからっきしだめでみんなの笑いものでしかなかった。中学5年生の原は学校にはほとんど出ず、同級生の熊平武二、銭村五郎、長光太らが始めた同人誌「少年詩人」に原は詩を寄稿した。ここで原の文学回路が開かれた。原は読書に耽溺する時間を持つことができ、ロシア文学に開眼した。1924年原は慶応大学文学部予科に入学した。内向とデカダンスがせめぎあう東京での生活が始まった。

2.愛の章

原民喜は慶応大学文学部予科フランス語クラスに入った。原と同じクラスには山本健吉、瀧口修造、北原武夫、芦原英了、厨川文夫、庄司総一らがいた。最も親しい友人が山本健吉(評論家)であった。そして本科は西脇順三郎教授の英文科に進んだ。山本健吉は原民喜と熊平武治が文学に通暁して読書もかなり進んでいることを知って驚いたという。1926年に熊平武治と早稲田大学に進学した長光太らと詩の同人誌「春鶯囀」を始めた。同人は「少年詩人」メンバー、熊平の兄清一と山本健吉が加わった。原はダダ風を避けて、俳句風の感傷的抒情詩を寄稿した。「春鶯囀」は資金がなくすぐに廃刊し、「四五人会雑誌」を始めた。原稿を綴じただけの回覧雑誌であった。熊平武治は広島の金庫製作所次男として生まれ、原と同じ広島師範学校付属小学校・同江東師範学校附属中学校から慶応大学と全く同じコースを歩んだ詩人で詩集「古調月明集」を刊行し、広島に戻って家業を継いだ。熊平は「早熟な擬悪家」と評され、死の恐怖を吹聴し快楽主義を唱えたと言われるが、原が熊平と行動を共にしたのは死の想念と共通点を持つ原の心情と通じる所があったのかもしれない。原は学生時代、親から仕送りを受け高級煙草を吹かすデカダン的要素と幼児からの自閉症的内向性がない雑じった不思議な生活をしていた。家族以外のコミュニティを得て酒もはいるとそれなりに無駄口も聞くこともあった。友人長は原のこの性格を「酒が入ると舌も手も自由になることの原因は、すべての原因が心にあることを示す」と見ていた。長が言う「幼少期の心の傷」とは、父や姉ら肉親を早くなくしたことにあるのだろう。原が左翼思想に接近するのは、長光太や山本健吉と共に20歳から21歳にかけてのことであった。このころ原は昼夜逆転の生活をしていて授業に出ていなかったので学部に進級することができず、留年を繰り返して予科に5年間在籍した。1929年慶応大学文学部英文科に進み、マルクス主義文献読書会や宣伝活動を行った。原が所属したのは日本赤色救援会東京地方委員会城南地区委員会であった。広島にオルグにゆき地方委員会の設立をやったりしたが、検挙された経験をきっかけにして原は活動を止めた。左翼運動した時期は原が能動的に働きかけた唯一の時期であった。この運動の挫折と娼妓の問題で原は人間不信となり、自殺未遂事件を引き起こした。ちょうどそのころ広島の実家より原の縁談が持ち込まれ、結婚しなければ仕送りを止めると言われ、父の17回忌に帰って6歳下の永井貞恵という女性と見合いをした。1933年3月17日広島市内で挙式し、原は27歳、貞恵は21歳であった。貞恵は尾道高等女学校卒、実家は広島市三原で米穀業、肥料問屋と酒造業を営んでいた。3歳下の弟に原の終生の理解者だった佐々木基一氏がいる。2人は池袋で新生活を始めた。新居を訪ねた長光太は相好崩した原を観察して「原は貞恵さんを通して日常を学びなおし、常識の世界に渡りをつけようとしている」と書いた。貞恵を追想した連作「美しき死の岸に」、夫の執筆を励ます妻の姿が描かれている。「忘れがたみ」には原の書いた原稿を別室で読んでいる妻の物音がする。よく賭けた時は妻の顔も晴れやかで、いいものが書けないときは台所でコトコト包丁でたたく音に憂鬱が籠っていたという。結婚当時は原は同人誌に投稿する文学青年に過ぎず、稼ぎの無い定職を持たない彼に実家は仕送りをつづけた。それでも妻は文学に専念できる環境を整えた。アパートを池袋から北新宿に移したころ、2人の昼夜逆転の生活は近所の人の不信を招き警察に通報され、夫婦そろって警察に拘留されたがすぐ釈放された。近くに住む山本健吉まで拘留され左翼運動を疑われたので、原は山本と絶交し千葉市のアパートに引っ越した。絶好状態は14年間続いてが遠藤周作の仲介で戦後1948年に和解したという。千葉での穏やかの生活で心身共に安定を得た原は精力的に執筆に打ち込み、三田文学に寄稿するようになった。先輩作家佐藤春夫に作品の批評をお願いしにゆくときも妻貞恵が付き添い、無口な原の代弁を買っている。こうしてまだ21歳だった貞恵は原の母親のような存在になっていた。千葉時代の原は小説の執筆の傍ら、精力的に句作をおこなった。俳誌「草茎」の会員に妻とともになり、「原杞憂」という俳号で投句した。1944年妻貞恵が病死した後の句に「心呆け 落ち葉の姿 眼にあふる」がある。妻との「夢のような暮らし」によって、安心して幼い頃の記憶が立ち返ってきた。貞恵と死別した後の原は、彼女に呼びかける文章を書き続けることになる。貞恵が肺結核を発症したのは結婚6年目の1939年9月のことであった。貞恵は千葉医科大学付属病院に入院した。貞恵が自宅療養、再入院を繰り返し病床で過ごすようになって、原の三田文学への投稿がその数が次第に減っていった。1942年より原は船橋中学校で英語の嘱託講師になった。結婚後初めて職に就いた。連合軍との間で太平洋戦争が始まった1941年12月より原には「崩壊の予感」が現実的なものになって、原は貞恵の病室に行く時だけが心安らいだ。文壇の大物たちが慰問団となって中国や南方で活躍する中、原は1944年三田文学に「弟へ」という6篇の短文を発表した。常套句を使わず、声高にならず、平易な文章で何でもない日常を描く、それは非日常の極みである戦争への原の静かな抵抗であった。1944年自宅で療養生活をしていた貞恵の枕元で原は貞恵に支えられて生活していたが、9月28日貞恵は死去した。享年33歳、結婚してから11年半が経っていた。死の直前まで意識は清明で、最後に「あ、はやい、はやい星・・・」と言って昏睡となった。貞恵の死後も原は彼女への思いを詩に書きつけた。1944年―1945年の散文詩「小さな庭」に書かれている。貞恵の看病をしていた義母は郷里に帰った。1944年11月よりB29による東京空襲が始まったので、原は千葉の家をたたんで広島の長兄信綱のもと疎開した。原は自分の書いたものを整理して義弟佐々木基一に託した。鞄ごと佐々木の実家(貞恵の実家でもある)の蔵にしまわれて焼失を免れた。

3.孤独の章

1945年2月原は広島の実家に「受刑者」のような気持で戻ったという。そして広島の惨劇に遭うために移った運命であった。幟町の実家は長兄信綱が、次兄の守男は上柳町に住み会社のある幟町に通っていた。3月より原製作所の縫製工場は広島高等女学校の勤労学徒60名を受け入れた。6月23日に沖縄守備隊が全滅してから、本土への空襲が増え29日には岡山が空襲を受けた。7月1日軍港呉市が空襲を受けすべて焼き払われた。広島市も空襲の危険が迫ったので、8月7日に郊外の八幡市に疎開する運びとなった。8月6日朝、原は起きて便所に入ると、突然頭上で一撃を受けた。離婚して実家に出戻っていた妹恭子が飛んできて目から血を流している原に目を洗うようにいわれ、服を着替えた。妻が用意しておいてくれた避難用の肩掛け雑嚢をもち、隣の製薬会社から火が出たので、いよいよ逃げ出す時期と思い、庭の折れ曲がった楓の傍らを通って家を出た。まず泉邸(旧広島藩主の別荘)に向かった。途中栄橋のたもとには避難者が集まっていた。以降カタカナ書きの文章は原が見た惨状をメモし、小説「夏の花」のもとになった手帳のメモである。原爆投下の日と翌日の2日間は広島市内で野宿し、八幡村に着いたのは8月8日のことである。「向う岸ノ火ハ熾ンナリ・・竜巻オコリ泉邸ノ樹空ニ舞イ上ガル・・河ニ浸リテ死セル人、惨タル風景ナリ」(ココマデ東照宮野宿ニテ記ス)栄橋で次兄と家族に会う。原たちは筏で対岸に移り姪らと合流する。対岸で重症を負った兵士は「肩ヲカセ・・死ンダホウガマシダ」という。一同は岸で一夜を送り、翌朝長兄らは幟町の家に向かい、次兄は東練兵場の施療所にいった。東照宮の鳥居の下に施療所が設けられ、夥しい数の負傷者が路傍に伏していた。はぐれた姪と兄嫁と合流した。「先生、カンゴフサン、誰かタスケテクダサイ」と叫ぶ青年、雑嚢に入れてあった缶詰を親族で分け合って食べ、救急用具はけがの手当てに役立った。こんな細かいところまで気を配った妻貞恵の心使いに涙ぐむ原であった。貞恵の死をかいた「死のなかの風景」で、原は「一つの生涯はすでに終わったといってよかった。妻の臨終を見た私には自分の臨終も同時に見届けたようなものであった。・・このありさまを伝えないうちには死ぬわけにはゆかなくなった。生き延びて仕事をしなければならなくなった」と書いた。原爆投下後の地獄のような広島で隣人となった死者達が、原を生き返らせ惨状を伝える仕事を与えた。被爆の2日目の昼過ぎ、八幡村に行っていた長兄が荷馬車を調達して東照宮に現われた。一行は馬車に乗って東照宮を後にし南下して饒津の橋を渡り、泉邸の前の道で甥の文彦の死体を発見した。次兄は文彦の爪を剥ぎ、バンドを形見にとって、名札をつけてそこを立ち去った。最も悲惨な甥の死を前に、静かに克明に人の行為を描いて愁嘆せず乱れない文章を大江健三郎氏は「若い読者が巡り合うべき現代日本文学の最も美しい散文」と評した。小説「夏の花」でも全体を通じて譬喩表現もなく、このような抽象度の高い表現をするのである。「アカクタダレテ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム スベテアットコトカ、アリエタコトカ・・・」 原は原爆を前に、目と耳で捉えた事象の記録に徹する文体を選んだ。原の言葉はあくまで低く、言葉は静かである。原家の一行が八幡村に着いたのは8月8日夕方であった。農家の離れに次兄一家と妹と原は腰を落ち着けた。8月15日終戦の詔はよく聞こえなかったが戦争は終わったらしい。それから4,5日経った頃、原は左目の隅に光を感じ、下痢にも悩まされた。頭髪も薄くなっていった。食糧は日に日に窮乏した。八幡村で暮らした日々は短編小説「小さな村」に収められている。障子貼りの糊を食べたり、蔵書の9割以上は空襲で焼けてしまった苦労を綴っている。当時茨城県の高萩に疎開していた佐々木基一への手紙で、食糧事情を嘆き、佐々木が計画している雑誌「近代文学」への期待と意欲を語っている。戦争はおわったのだという感動が間もなく原に「夏の花」を書かせた。自分が体験した8月6日の生々しい惨劇を出来るだけ平静に描いたつもりであると「長崎の鐘」に述べた。当初「夏の花」の題名はずばり「原子爆弾」であった。同時に「原子爆弾」と題した俳句の連作を佐々木に送った。カタカナ書きの被爆メモをほとんどそのまま小説にしたのが「夏の花」であった。違うところは「夏の花」の冒頭の、妻の1回忌のため広島市中区円光寺にある原家の墓に、可憐な黄色い花をもって訪れたという出だしの部分である。妻の死は一つのまとまりのある世界として静かなゆっくりとした時間の中で営まれた。それに比べて原爆の死はなんと荒々しい無造作な死でこれが死と言えるだろうかと投げかける。GHQの検閲を逃れるため「原子爆弾」は「夏の花」と題名を変え、1947年「近代文学」ではなく事前検閲の無い「三田文学」に、占領軍を刺激しないよう3カ所削除して発表された。「夏の花」は雑誌掲載の1年半後1949年2月能楽書林から刊行された。

八幡村での避難生活は、原爆病の症状は治まったものの、食糧事情の悪さは救いようもなく、原の立場は厄介者視されるので、佐々木氏の手紙を書き東京に出たい旨を打診した。長光太氏より上京を促す手紙をもらって、1946年4月3日とりあえず大森の長宅に転がり込んだ。慶應義塾商業高校・工業高校夜間部に嘱託英語教師の職を見つけたが、体の衰弱が進み長氏の奥さんから肺病患者扱いされるので病院に行くと白血球の数が4000で体重は34Kgまで落ちていた。原は妻の3回忌(1947年9月)のころ「吾亦紅」の連作を書いた。すべて貞恵との思い出を綴ったものである。惨劇の記憶に耐えて生きているのは、貞恵との幸福な思い出の日々と彼女がいつも側にいるという気持ちがあったからである。花を見ると貞恵に話しかけた。原は1946年10月より「三田文学」の編集に加わった。三田文学は丸岡明を中心に復刊された。神田神保町にあった丸岡の父が営む能楽書林のビルの1室に編集部を置いた。原が長の妻から立ち退きを要求されたのは、長が恋愛問題から札幌へ逃げて別居になったからである。原は中野にある甥の下宿先転がり込んだが、いつまでもいられるわけでなく同じ中野の怪しげなアパートを借りた。原は「僕の晩年には身を落ち着ける一つの部屋がほしい、誰にも邪魔されない場所で安らかに息を引き取りたい」と「災厄の日」に書いた。丸岡明は能楽書林のビルの1室を提供してくれた。丸岡は親身になって原の世話を焼いた。原は慶応高校の夜間部の嘱託教員を辞して翌年から三田文学の編集と執筆に専念するようになった。1947年12月11日「夏の花」が水上滝太郎賞を受賞し、毎日新聞ホールで三田文学祭が行われた。原は三田文学編集部で特集の企画や新人の発掘に力を注いだ。慶應の後輩作家や詩人との交流が始まった。遠藤周作と初めて会ったのは1948年6月である。卒業間もない遠藤とは加藤道夫の紹介で三田文学の合評会で会った。貧しい身なりをした無口な原になぜか心をひかれたと遠藤は言う。時に遠藤は25歳、原は42歳で年の離れた2人の不思議な交流が始まった。そこにある日進駐軍のタイピストをしていた22歳の祖田祐子という女性が二人のまえに現われた。1949年の夏、遠藤と根岸茂一が散歩している時向う側から鶏が現れ、その後を若い女性が追ってきた。それが出会いだった。後日遠藤は原に祖田という女性を紹介し喫茶店に行くようになった。遠藤は祐子のことを「原さんが死ぬまで荒涼とした生活をほのかに温めてくれる存在になった」と「死について考える」の解説に書いている。原の没後発表された最晩年の小説「永遠のみどり」、「心願の国」に祐子が登場する。そこには「それは恋ではなかったが、ある優しいものによってゆすぶられた」と書いている。「心願の国」には「僕はこの世ならぬ心の戦慄きを覚えた。それは僕にとって地上の別離が近づいていること、急に晩年が滑り落ちる予感だった」と、原は若い生命力を祐子に感じながら死の予感が迫っていた。妻貞恵が待っている死の道を照らす光のようなものだった。1949年5月「群像」から小説を依頼された原は翌月「鎮魂歌」「心願の国」を書きあげた。祐子にあう直前のことである。「鎮魂歌」は、原の耳に聞こえてくるさまざまな声と言葉、一瞬の幻のように現れては消えてゆく父や姉や友人、妻、原爆の死者たちの姿、原が死を選ぶ過程を考えるうえで欠かせない作品である。「アア、オ母サン、オ父サン 早ク夜ガアケナイノカシラ」「断末魔ノカミツク声」真夏の夜瀕死の人の声が響く。「夏の花」と同じように被爆メモに書き留められた瀕死の隣人たちの声と姿が登場する。「鎮魂歌」は死に向けて歩みを進めた原の軌跡が現れた作品である。「僕は突き離れた人間だ、帰るところを失った人間だ・・僕にはまだ嘆きがある。僕には一つの嘆きがある。無数の嘆きがある。堪えよ」と叫ぶ。原が生きる理由は「嘆き」だけになった。遠藤周作への遺書には「これが最後の手紙です。去年の春は楽しかったね、では元気で」とあり、祐子あての遺書には「とうとう僕は雲雀になって消えてゆきます。この荒涼とした人生の晩年に、あなたのような美しい優しい人と知り合いになれたことは奇跡のようです。あなたと一緒に過ごした時間はほんとに清らかで素晴らしい時間でした。」いたずら好きな遠藤と無口な中年の原、天女のような祐子の3人の関係は本当に奇蹟のようです。「昨年の春の楽しかったこと」とは3人で多摩川へボート遊びに行ったことです。祐子あての遺書の末尾に「悲歌」という詩が添えてあった。「・・・すべての別離がさりげなく取り交わされ すべての悲痛がさりげなく ぬぐわれ、祝福がほのぼのと向うに見えているように、私は歩み去ろう、今こそ消え去ってゆきたいのだ、透明の中に永遠のかなたに」あの1年は、つかの間の陽ざしにあたためられたような特別の一日であった。原は「そう人生は一輪の花のまぼろし」と「碑銘」に書き残した。原は自死したが、書くべきものを書き終えるまでは苦しさに耐えて生き続けた。最晩年の小説「永遠のみどり」と同じ題名の詩が自死の直前に中国新聞に送られた。1951年3月15日原の死亡記事と同じ紙面に掲載された。「ヒロシマのデルタに 若葉うずまけ/死と焔の記憶に 良き祈りよこもれ/とはのみどりを 永遠のみどりを/ヒロシマのデルタに 青葉したたれ」


U.原民喜著 小説集「夏の花」」 岩波文庫(1988年6月)


原民喜の小説作品(同人誌寄稿は除き、ジャンルとしては童話、翻訳、俳句、詩は除く)を冒頭に掲載した年譜より抜粋して採録すると次のようになる。
昭和11年(1936年)31歳: 三田文学へ「狼狽」「貂」「行列」
昭和12年(1937年)32歳: 三田文学へ「幻燈」「鳳仙花」
昭和13年(1938年)33歳: 三田文学へ「不思議」「玻璃」「迷路」「暗室」「招魂祭」「自由画」「魔女」「夢の器」
昭和14年(1939年)34歳: 三田文学へ「曠野」「華燭」「沈丁花」
昭和15年(1940年)35歳: 三田文学へ「小地獄」「青写真」「眩暈」「冬草」
昭和16年(1941年)36歳: 三田文学へ「雲雀病院」「夢時計」
昭和17年(1942年)37歳: 三田文学へ「面影」 「淡章」 「独白」
昭和18年(1943年)38歳: 三田文学へ「望郷」
昭和19年(1944年)39歳: 三田文学へ 「弟へ」「手紙」
昭和20年(1945年)40歳: 原爆被災時の手帳をもとに小説「夏の花」(原題「原子爆弾」)を執筆、佐々木 基一宛に原稿を送る。
昭和21年(1946年)41歳: 三田文学へ「忘れがたみ」「小さな庭」「ある時刻」、文明へ「冬日記」、近代文学へ「雑音帳」「猿」
昭和22年(1947年)42歳: 三田文学へ「夏の花」「吾亦紅」「秋日記」「廃墟から」「雲の裂け目」、四季へ「氷花」
昭和23年(1948年)43歳: 若草に「昔の店」を、近代文学に「愛について」「戦争について」「火の踵」、個性に「災厄の日」
昭和24年(1949年)44歳: 能楽書林より、小説集『夏の花』、「壊滅の序曲」「魔のひととき」「死と愛と孤独」「火の唇」「鎮魂歌」
昭和25年(1950年)45歳: 「美しき死の岸に」「讃歌」「原爆小景」「火の子供」
昭和26年(1951年)45歳: 3月13日、中央線の吉祥寺・西荻窪間にて鉄道自殺。享年45歳。
死後の発表作品:    「心願の国」 「永遠のみどり」(小説)、「誕生日」(童話)、「死の中の風景」(女性改造)、「死について」(日本評論)、「原民喜詩集」(細川書店)、「もぐらとコスモス」(童話)、「屋根の上」「ペンギンの歌、蟻、海」(近代文学)、「杞憂句集」(俳句研究)
なお原民喜は詩集は生前には発表していない。そして本書は前半の 「夏の花」、「廃墟から」、「壊滅の序曲」は原爆と戦争に関するひとまとまりをもつ部分をなし、後半の「小さな村」、「昔の店」、「氷花」も被爆前の著者の親族を中心とする思い出に関するひとまとまりをもつ部分となっている。筆者は「後記」において三篇は正・続・補の三部作と言っている。詩「燃エガラ」、エッセイ 「戦争について」「平和への意思」はコラムのような挿入章である。

T-1.夏の花

「私は街に出て花を買うと、妻の墓を訪れようと思った。8月15日(1945年)は妻にとって新盆にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑わしかった。・・原子爆弾に襲われたのはその翌々日のことであった」で始まる。8月4日に円光寺の原家の墓所を訪れたことになる。8月6日原は朝8時に起きて厠に入ったため一命を拾ったと書かれている。目が見えなくなり(気圧による眼底出血か)うあーと叫んでいる自分の声が聞こえた。そこへ出戻りの妹恭子が駆け込んできて、私の目を見て目を洗いなさいと叫んだ。洗面所の水道で目を洗い、慌てて着替えをした。この地域では大概の家はぺしゃんこに潰れていたが、我が家はしっかりした普請のおかげで毀れることはなかった。会社の事務所のKという従業員は膝をやられ「あ煙が出だした、早く逃げよう 連れて逃げて」という。庭の崩れた土塀の脇に大きな楓が幹から折れていた。持ち逃げ用の雑嚢カバンを肩にかけたところで、隣の製薬会社の倉庫から炎が見えた。いよいよ逃げ出す時機であった。あの大きな楓は少年時代から夢想の対象となっていた樹であった。その楓の木を踏み越えて出ていった。Kと私の二人は道路に出て歩くと、顔を血だらけにした少女が「おじさん」と助けを求めてついてくる。老女が「家が焼ける」と道の真ん中で叫んでいた。私は泉邸の藪の道を取ったが、Kとははぐれてしまった。木の蔭にうずくまる中年の婦人の呆けた顔、工場から逃げ出した学徒の一群は皆軽いけがをしていた。そこに長兄の顔が見え、まず異常なさそうであった。川岸の道に腰を下ろすと、もう大丈夫だろうという気がした。自分が生きながらえていることの意味がぱっと私にはじけて、このことを書き残さなければならないと心に呟いた。対岸の火事が勢いを増しほてりを感じるので、水に浸した座布団を頭からかぶった。黒煙が川中まで迫ってくると思うや、頭上の空が暗黒と化して沛然として大粒の雨が落ちてきた。長兄は事務所にいたがそこから這い出すと学徒を救い出した。妹は階段の下に隠れて無傷であった。川は満潮のままで水位は引かない。玉ねぎが流れ降ってきたので拾っていると、川に少女が流されて浮き沈みしている。私は大きな木を押すようにして近づき少女を救い出すことができた。対岸の火がまた強くなって竜巻が発生し頭上に近づいた。この竜巻が過ぎ去るともう夕方の気配となった。そこへ次兄が背中にやけどをしながらやってきたが、すこぶる元気であった。彼は自宅で被爆し、妻と女中を救出、子ども二人は女中に託して逃がし、t隣家の老人の救出に手間取った。向う岸から女中の呼ぶ声がして早くこちらに来てくれという。泉邸の森も燃え出した。そこで次兄と私は上流の橋を目指して歩きだしたが、言語に絶する人々の群れを見た。顔がくちゃクチャに腫れあがり、虫の息で横たわっていた。「水を少し下さい」、「助けてください」と訴えるのであった。私たちは筏を見つけ向う岸に漕いで渡った。あたりは薄暗かった。一人の兵士が「お湯を下さい」というので一緒に歩いたが、途中「死んだほうがましだ」と吐き捨てるように呟いた。私は言葉が出なかった。愚劣なものに対するやりきれない憤りが私たちを無言で結び付けているようだった。横に顔を腫らした女が横になっていたが、それが女中であった。次兄の長女と赤ん坊を連れて逃げたが、途中で長女とははぐれ赤ん坊とこの岸についたそうである。私たちは饒津公園に入った。女学生が数人横伏していた。河原の方では若者の断末魔の呻き声がする。「水を、水を、水を下さい、ああ、お母さん、お姉さん、光ちゃん」 夜が明けると昨夜の声は止んでいた。長兄と妹は家の焼け跡に戻り、次兄たちは東練兵場の施療所に出かけた。私は大けがをした兵士に肩を貸し練兵場に向かって歩き出すと、兵士は疲れ果てもう一歩も歩けないから置き去りにしてくれという。そこで私は一人で饒津公園のほうに歩くと、姪が東照宮の避難所で保護されているということを聞いて、東照宮へ行くと母親と姪が一緒にいた。施療所は東照宮の鳥居の下に設けられて、炎天下負傷者は長い行列で待たされていた。警防団の男が火傷で腫れた顔をして「誰か助けてください、ああ看護婦さん、先生」と弱い声で訴えていた。次兄の女中の加療がすんだので、負傷者でごった返す狭い境内で24時間過ごさなければならなかった。夜明け前から念仏の声がしきりにしていた。たえず死んでゆくらしかった。人は次々に死んで、死骸はそのまま放ってある。そこへ長兄が荷馬車をもって戻ってきた。兄嫁の疎開先である廿日市町で荷馬車を雇い、私達はその馬車に乗ってここを引き上げた。荷馬車は長兄の家族と私を載せ東照宮から饒津へ出た。西練兵場近くの空き地に見覚えのある死体を次兄は見つけた。それは甥の文彦であった。他にも二人の死体があったが、次兄は文彦の爪を剥ぎ、バンドを形見にとって、死体に名札を付けそこを立ち去った。涙も乾き果てた遭遇であった。馬車は住吉橋を渡って己斐の方へ出たので目抜き通りの焼け跡に死体が転がっていたのが一望できた。それは新地獄に違いなく、すべて人間的なものは抹殺され、死体の表情さえ機械的であった。浅野図書館は死体収容所になっており死臭に満ちている。こう言った状況の描写は片仮名で書きなぐる方がふさわしいらしい。草津を過ぎると郊外に出て青田の上を蜻蛉の群れが飛んでいた。八幡村に着いたのは日もとっぷり暮れたころであった。女中の傷が酷く化膿し1か月後には死んだ。この村にきて4,5日経った頃、消息が分からなかった中学生の甥が帰ってきた。中学校では教室で被爆し這い出して生き延びたのは4.5名で、ほとんどの者は一撃で死んだ。甥は1週間ほどすると頭髪が抜けて鼻血を出した。医者は駄目だろうと言ったが何とか持ち応えた。ある人はトンネルの中で被爆したので助かったが、すぐに引き返して汽車に乗った。そして妻が勤めていた学校に出かけ妻を探したが見つからなかった。自宅にもそれからあちこちの死体置き場に出かけて首実検をしたが妻を発見することはできなかった。三日三晩男は収容所の重症者の顔を覗き込んだがやはり妻を見出すことはできなかった。この挿話はこのような戦争は突然人を奪い去るものだということを知らしめるために書かれたようだ。

T-2.廃墟から

前の「夏の花」を受け継いで、避難先の八幡村での生活をつづった章である。八幡村に移ったころ私はまだ元気で、負傷者を車に乗せて病院へ連れて行ったり、配給を受け取りに出かけ、廿日市町の長兄との連絡をしていた。農家の離れを次兄が借りたのだが、私と妹が一緒に転がり込んだ形となった。小さな姪と次兄は火傷にハエがこないように蚊帳の中で寝ころんでいた。病院は何時行っても負傷者で立て込んでいた。小さな姪はガーゼを取り換える時狂った様に泣く。「痛いよ、痛いよ、羊羹をおくれ」と言って医者を困られせた。家に帰って休んでいると、妹が「君が代の放送がするがどうしたのかしら」という。私ははっと気が付いてラジオを聞くと休戦(停戦)は疑えなかった。又病院へ行って次兄にこの話をすると、次兄は「おしかったね、もう少し早く戦争がおわってくれたら」と愚痴のように繰り返した。夕方八幡川の堤に居りて、シャツのまま水に浸ると大きな息をついて黄昏色の風景を見た。まるで嘘のような風景であった。もう空襲の恐れはない、いまこそ大空は深い静謐を湛えている。しかしあの時元気で私たちの側に居た人たちも、その後敗血症で倒れてゆくし、何かまだ惨として、割り切れない不安が付きまとうのである。食糧は日々に窮乏していった。罹災者に対して何の救援の手も差し伸べられなかった。かすかなかゆをすすって暮らしていると、だんだん精魂が尽き果てた。夜は灯火管制がなくなったので、久しぶりに見る灯火は懐かしかった。長兄の嫁の実家槙氏は大手町の川べりにあった。大手町は原爆の中心といってもよい。家の下敷きになって台所で救いを求めている奥さんの声を聴きながら槙氏は自分の身体一つを逃すのが精いっぱいであったという。こういった話は幾つも転がっている。工場では動員された学徒が3人下敷きになり白骨で発見された。どうかすると私の耳は何でもない人声に脅かされることがあったし、左目の隅にふわりと光るものがあった。そしていつもひどい下痢に悩まされた。船入川口町にある姉の一家は助かったという知らせが長兄から届いた。義兄や息子も病弱で苦しんでいるので応援を頼んできたのだが、妹がとりあえず見舞いに行った。9月に入ると雨ばかりが降り続けた。頭髪が抜け元気をなくしていた甥にが変調をきたし血の塊を吐いた。今夜が危ないというので親戚があつまった。次兄は必死に看病し不安な夜が明けると甥は持ちこたえた。一緒に逃げた甥の友人が死亡したという通知が来た。私の下痢は緩和されていったが体の衰弱はどうにもならず、昏々と眠った。そしてしきりに妻の臨終を思い出した。さまざまな思い出とともに崩落直後の家屋を思い出した。この中で内心の高揚を感じ、何か書いて力いっぱいぶつかってみたい気が起きて来た。亡妻の実家から義兄の死亡が伝えられた。翌日は晴れたが又強い雨となり、側を流れる川の堤が崩れたので母屋のほうへ避難した。「戦争に負けるとこんなことになるのでしょうか」と農家の主婦は嘆いた。橋梁が流され鉄道は不通となった。妻の1週忌が近づいたので本郷町の方へ行きたいと思ったので、まず広島行きの切符を買えたので電車に乗った。五日市まで爆撃の惨状はなかったが、己斐駅から戦禍の跡が展望されるようになった。横川駅から激しい壊滅地区に入り常盤橋の岸には黒焦げの樹木が痛々しかった。饒津公園から東練兵場の焼野がみえ東照宮の石段が悪夢のように閃いて見えた。広島駅で降りて宇品行きのバスを待つ長蛇の列を見て今日中に帰れそうにないので諦めた。広島駅から廃墟の通りをすぎて実家の跡を見に行った。家跡にぼんやり佇み原爆の一撃後の様子が思い浮かびしばらくものに憑かれたような気分でいた。翌日も広島駅まで来て船に乗るつもりであったが、行列がすごいので諦め、ふと舟入川町の姉の家を見舞うことにした。焼野の焼け残りの一郭に姉の家はあった。蚊帳の中に姉と甥と妹が病臥していた。助けに行った妹も病気なってしまったようだ。義兄は2階の蚊帳の中で寝ていた。4人とも病人の家であった。かえりに廿日市町の長兄の家に立ち寄り、翌日妹の息子の史郎を次兄のいる八幡村に連れて帰ることにした。ある朝舟入川町の義兄が亡くなったと知らせを受け、葬式に次兄と一緒に出掛けた。義兄は肺を犯され寝たきりになっていたが、長い間陸軍技師をしていたので、この戦争は惨敗に近づいていると予想し、軍部に騙されたと悲憤を漏らしていた。葬式と野焼きがすみ辺りは漆黒の闇に包まれたが、こんな焼け野原でも人々は生活を営み、赤ん坊さえ泣いている。何とも言い知れぬ感情に襲われた。焼け跡には気の早い人間がバラックを建て始めていました。軍都として栄えたこの街が今後どのような姿で更生するのだろうか。

T-3.壊滅の序曲

「正三」という原民喜、「清二」という次兄、「順一」という長兄の3人の生き方と葛藤を、戦争末期の1945年春という背景の中で原爆投下40時間前までの些末な日常を描いた話で、上の二つの原爆投下後の話とは時間が前後している。題名が「壊滅の序曲」と仰々しいが、「崩壊の予感」という方がぴったりする。些末な日常が「最後の審判」の日に崩れ去るのではないかという予期不安のことである。「朝から粉雪が降る風情に誘われて、本川橋に出た。本川橋は彼が中学生だった頃の記憶がそこに残っていた。本川饅頭という古びた看板を見て突然彼は不思議なほど静かな昔の風景の中に浸っている錯覚を覚えたが、ぶるぶると戦慄が沸くのを禁じえなかった。この静けさのなかに最も痛ましい終末の姿が閃いたのである。」というふうにこの小説の幕は開けるのである。想像を絶した地獄変、それは一瞬にして巻き起こるように思われる。やがて彼はこの街とともに亡び失せるのか、それとも生まれ故郷の末期を見届けるために舞い戻ったのであろうか。次兄からは何とかしろと身の振り方を迫られる。長兄のところに舞い戻ってからもう1か月となるが、彼は何の職業に就くわけでもなくただ朝寝と夜更かしの生活を送っている。この次兄は毎日を規律と緊張の内に送っている。事務的な決まった書類を役所に届け、夜遅くまで働いている。夜間警報が出ると次兄は事務所に駆け付けた。正三は事務所の2階に生活していて、次兄のせわし気な様子にいつもの警告を感じている。長兄と兄嫁のこのごろの関係はおかしいことは正三は感じているが、長兄は何も語らないし、険しい陰影がみられ、兄嫁の高子の顔にも鬱としたものがあり、学徒勤務している二人の中学生の甥も妙に黙り込んでいる。高子は何度も失踪を繰り返していた。そのたび長兄は忙し気に高須への外出が始まり、家計は寡婦の妹泰子に任せられた。高須には誰か調停者がいるらしかった。戦争のためにあらゆる困苦を強いられる自分よりは、戦争によって家業は栄えた会社の兄嫁に何の不自由もないはず。妹は有閑マダムの湯鬱だという。次兄は勤労精神がないからだという。高子は1週間も家を出ると戻ってくるのである。次兄に5月の召集令状が来た。次兄は今となっては内地勤務だろうと高を食った様子である。散歩をしていて泉邸が絶好の避難場所になるだろうという念頭が閃いた。広島の街には幼年期の懐かしい思い出につながるものは何もなかった。家業である製作所に60人ばかりの女子学徒が縫い工場にやってくることになった。正三も受入式の準備を手伝った。早朝から発せられた空襲警報のため式典は狂ってしまった。その翌日校長と教員に引率された女学生一クラスがやってきて式典が執り行われた。この時期は艦載機は豊後水道から北上し佐田岬で迂回し北九州に向かった。この街には何もなかったが、にわかに人の動きが浮足立った。軍隊が出て街の建物を毀し、疎開の車馬が絶えなかった。次兄が帰ってきて長兄のことを聞いたが正三は何も知らなかった。長兄一家の高子とのごたごたのため長兄が会社に出ることが少ないのだ。次兄が言うには今日被服支廠に出頭すると工場疎開を命じられたという。街の取り壊しが始まって、この工場も疎開しなくてはいけないらしい。そこへさえない顔をした長兄が戻ってきた。四月になると疎開の荷馬車の往来はさらに延々と続き、長兄は事務所の2階からそれを見て、情けないものだ、中国が悲惨だとか何とか言っていたが日本だって中国のようになってしまったと呟いた。硫黄島守備隊が全滅したとき、長兄は東条なんか八つ裂きにしてもあきたらないと漏らした。正三もゲートルを巻いて工場の雑用に町出ることがあった。電気休みで工場が止まっている日は、饒津公園へ歩いて行くと、桃の花が満開でその下で老婆と小さな娘がひっそりと弁当を広げていたが、何かまともな季節感がなかった。恐ろしく調子がくるっていた。従業員の処に召集令状が来て送別会が行われた。長兄と高子の間に何か妥協が成り立ったようだ。高子は別居し五日市町に一軒もたせる、家の台所は妹泰子に委ねる。妹と晩酌をするなどで長兄の機嫌はよくなった。ある朝B29が広島上空を通過した。翌日高子の引っ越しが終った。正三は妹泰子の口から近所の人の人間関係やモノの流れをいやというほど聞かされ、酒はどうやれば手に入るかそれぞれが遣り繰りしているようであった。正三などの及びもつかないほどの生活力、虚偽を平気に振舞う本能を持っているらしかった。(永井荷風が谷崎潤一郎の兵庫の疎開先を訪問して、すき焼きを御馳走になって驚いたことは有名な話である) 5月に入ると国民学校の講堂で点呼の予習が行われていることを知り正三は参加した。若い軍人に怒られ、ここでは蛮声の大きい事だけに価値を置く軍隊の愚劣さをしみじみ味わった。バカバカしい極み、日本の軍隊はただ形式に陶酔しているだけであると気が付いた。

長兄は疎開の荷づくりに余念はなく、家の中はきちんと整理した。長兄の持ち逃げ用のリュックには食料品が詰め込まれ、鼠にやられないよう天井から紐で吊るしてあった。定期乗車券は手に入れ米は事欠かないよう流れ込む手筈であった。妹泰子は病弱な夫を死別し幼児を抱えて長兄の家に移り住んでから、人の気持ちを推測することだけは巧みになり世渡りはうまくなった。30も半ばとなってふてぶてしいものが身についてきたようだ。妹は本家の台所を預かるようになって、長兄の子つまり甥の中学生は妹によくなつき、学徒動員の三菱工場から帰ると棚の中に蒸しパンやドーナツが拵えてあった。妹も甥も太ってきたほどだった。戦況はドイツは無条件降伏をし、日本では本土決戦が叫ばれ、築城・竹槍という時代錯誤な言葉が飛び交った。嘘でもいいから空元気で話さないと世間が許さないようである。なんと愚劣なことが横行する世の中になった。日本の軍人の頭の中はその程度のものであった。そのころ正三は持ち逃げ用の雑嚢を欲しいと思って、生地を求めて長兄順一の家に行ったが、商売のリュックならいくらでもあるがいって取り合ってくれなかった。そこで次兄清二の家に行き小さなカバンにちょうどいい生地を手に入れた。そして妹泰子にカバンの制作を頼んだ。妹は逃げる事ばかり考えてどうするのと皮肉を言う。京浜地方にB29が500機来襲したことを夕刻のラジオが伝えていた。東警察署の2階で市内の工場主を集めて防空対策の訓示が行われたので代理として正三は出かけた。警察官は空襲より流民(避難民 疎開者)の心配をしており、空襲は簡単に防げると講釈する。体格の立派な男だけならいくらでもいた。このような難事にあたって警官の頭の中は空っぽで何も真剣に考えていないのであった。正三は、マリアナ基地を飛び立ったB29の編隊は北上し八丈島のうえで2手に別れ、一つは富士山の方関東ら関東地方に向けて旋回し、他方は熊野灘に沿って紀伊水道から阪神地方へ向かう。さらにその中から数機が室戸岬を超え土佐湾に入り四国山脈を越えると鏡のような瀬戸内海に出る。島々を下に見ながら広島上空に向かって旋回する空想を思っていた。琉球列島の戦いが終わったころ、岡山市に大空襲があり、6月30日夜呉市が延焼した。縫製工場には泰子と正三と甥の三人が住んでいたが、警報の度に庭の防空壕にもぐりこんだ。長兄はもはや踵に火がついている、一刻も早く工場を疎開させると宣告した。工場のミシンの取り外し、荷馬車の申請を県庁に行い、家財の再整理など要件は山積みだった。7月に入って広島の空襲の噂がたった。そのころ正三は1階で寝るようになった。ラジオが土佐沖警戒警報から高知県空襲警報を告げた。正三はゲートルを巻いて雑嚢と水筒を肩に清二の家に急いだ。清二らはすでに逃げた様子で栄橋から饒津公園、牛田の堤まできた。彼にすぐ前に避難中の一群に遭った。しばらくすると空襲警報は解かれ堤の上の人々は引き上げていった。軍と警察は防空要因の疎開を認めず街を死守させようとしたが追い詰められた人々は巧みに逃げた。正三も7月3日から8月5日の晩まで、土佐沖警戒警報がでると身支度をはじめ広島県の警戒警報が出る頃には玄関先で靴を履いた。妹泰子も同じである。空襲警報がうなり出す頃は街の中を清二の家に向かって逃げ出していた。警防団に見つかると怒られるが、小さな甥を楯に遁れた。この戦争が本土決戦に移り、広島が最後の牙城となるなら、自分は戦うことができるだろうかという妄想が渦巻くのである。本家の工場疎開は父として進まなかった。運ぶ荷馬車が獲得できないからだ。それでも荷馬車が畳なども運び出した後のがらんとした景色は、いよいよこの家の最後も近いようだと悟らせた。宇部などには重要工業地帯があるが、広島には兵隊が居るだけで工場も少ないから空襲はないだろうという楽観論もあった。せめて小さい子供たちだけでも疎開させたらと泰子が言うが、清二は乗り気ではなかったが、長兄の順一の骨折りで田舎に一軒借りることができた。しかしすぐに運ぶ荷馬車がない。こうしてしばらくは疎開の準備で家の中はごった返した。それだけでなく家の強制取り壊し地区になったという。ところが市会議員の田崎という者がこの建物疎開(取り壊し)計画の張本人だというので、談判に出かけてこの件を取り下げることにさせた。原子爆弾がこの街を訪れるには、まだ40時間あまりあった。

U-1.小さな村

これは戦後の疎開先の村のことである。青田の上の広い空が次第に光を失っていた。村の入り口は三方に別れ家並みが途切れ国民学校も門が見え村役場の小さな建物があった。田の中を一筋に貫く道はまた家並みがあって微かにモーターの音が響くある軒先に荷馬車は止まった。出てきたのは製粉所を営む深井氏である。その製粉所の三軒先の農家を借りる約束になっていた。次兄の家族と妹と正三の私が二昼夜の野宿の挙句たどり着いた場所がそれである。深井氏はせっせと世話を焼いてくれた。村役場に転入の手続きをしにゆくと頭の禿げあがったぼんやりした目の老人が書類を受け取った。帳面に何やら書き込んで転入手続きは済み米穀通帳その他はその日から村で通用することになった。広島で被爆してから5日目に(この村に来てから4日目に)男が死んだ(工場の使用人か?)。村人に手伝ってもらい山の中腹にある火葬場に運んで遺体を焼いた。米穀通帳をもって農会に出かけると、お金を出せば物が買えることに妹は驚いた。復員青年もぽつぽつ現れた。村役場の爺さんは荷馬車で朝早く玩具を貰いに出かけた。宣撫用として永く軍の倉庫に眠っていたものを吐き出すというのだ。近くの婦人らはお米の一升でもくれたらとあまり喜ばなかった。そして軍から引き渡された物品が隣組長のところで配給されることになった。なんだか使い道のないものばかりであった。或る夜人が階下で呼ぶ声がするので、出てみると、「あなたの処はどうして当番にでないのか」と詰問された。国民学校の校舎が重症者の収容所に充てられ、部落から2名づつ看護に出ることになっている、次兄の嫁は、死にそうになっている息子がいて、次兄も火傷で動けない、妹は留守だと言い訳をしたが、義務を果たさないものには配給もやらないと怒鳴り散らして帰っていった。それからは罹災者の弱みを持つ私たちは戦々恐々として村人の顔色を窺わなければならなくなった。村人は街のものに何か敵対心のようなものを持っているようだった。たしかに農民の複雑さは理解が困難である。役場の空き地で油の配給が行われた。そこへ村長があらわれて悠然と皆を見下ろして、油をあげた分この次には働いてもらわねばと嫌味たっぷりに話しかけるのであった。1戸ごとに勤労奉仕が課せられ、校庭の後ろに立つ崖の切り崩し作業であった。お粥腹では力が出ないという親父もいた。向うの低い山のは見る角度でいろいろな表情を見せる。真ん中が少し窪んでいるので何か巨人の口に似て、やはり巨人の口もひもじそうであった。兄嫁と私は薪をくれるという人の家に出かけた。崖の下に川が流れその向こうに農家が見える。一本の朽木の橋を渡らなければならない。負い子を貸してもらって二把の薪を積んで私は橋を渡り、そのおじさんは二把を手に橋を渡った。村から長兄が仮寓する家は川に沿って約一里半あるが、何か食わしてもらえるのでよく通った。ひだるい思いが今も消え失せない。そして帰り路がまた侘しかった。罹災以来私と一緒にいた妹は他に移り、それと入れ替わりに次兄の二人の息子が学童疎開から戻ってきた。長兄は姿を現しては一体どうするつもりかと催促気味に尋ねられるのがつらかった。私は降りしきる雪のなかを何か叫びながら歩いているような気持ちであった。早くこの村を出なければ、だが汽車は制限されているし、東京への転入はすでに禁止となった。駅では送る荷物をかっさらう強盗団がでるというはなしでどこを向いても路は暗く閉ざされていた。一年ほどお世話になった深井氏のお別れのあいさつに出かけた。深井氏は1945年1月京城を引き上げ広島市にそしてこの村に来た人で先の見える人であった。この人のおかげで生き延びたような気がする。東京に出てきた私は忽ち幻滅を味わった。私を待ち伏せしていたのは飢えと業苦の修羅でしかなかった。私は今でもひもじい侘しい路を歩いているようだ。見捨ててしまえこんな郷土はといつも叫んでいる。

U-2.昔の店

これは原民喜(小説では清三という名前)の父親と幼少(小学生)のころの思い出である。父は大正6年(1917年)で胃がんで亡くなっている。そのとき民喜は12歳であったが。ここに一枚の古い写真がある。静三が学校から帰ってきたとき、お店の笹岡がお店の間で静三を撮った写真である。この朦朧とした写真は昔の雰囲気を懐かしく伝えていた。簷の上には思い切り大きな看板が2階を目隠しするように据わっていたが、四角形の大きな門灯、店の前には軒から吊るす4つの板看板が並んで、路上には台八車が一台停まっていた。そこから薄暗い店の奥を思い出すことができる。父や店員たちが並んでいた場所は、正面の土間の脇にありその板の間にはズックや麻布が積み重ねてあった。往来に面した側はガラス張りで、外から赤いメガホンや箒や物差しが乱雑に片隅に立て掛けてあった。その反対側の土間には秤や釘箱や自転車の空気入れが置かれ、荷物が道路にはみ出していた。そこに自転車が停めてあった。正面の土間には椅子が2,3脚、板の間の上がり口には真四角な木の火鉢が据えてあった。荷馬車が到着すると土間は荷物でいっぱいになる。すると二階の天井板が外され綱が下りてきて滑車で荷物を引き上げた。静三らにとってこの綱は店が引けた後格好のブランコとなった。遊び場に変身するのだ。荷物の山は天井まで届きそうなことがった。そのてっぺんに上がると静三は何か歓呼の声を出したくなる。すると弟の修造が下から這い上がってくる。二人の冒険と空想のひと時が過ぎてゆく。店の看板は「帝国製麻株式会社取次店」とか「日本石油商会代理店」という文字が彫込まれている。夕刻には板看板は丁稚が取り外し土間に置く。それは静三らにとって滑り台、橋になるのである。簷の四角形の門燈がともるころはもう夜の領域である。毎晩変わった劇が演じられた。王様ごっこ、猛獣狩り、兄の敬一、弟の修造、お店の丁稚も加わった。庭の闇は静三に恐怖を抱かすこともあった。板の間に置かれた商品がそのまま遊び道具になった。ここでは幻燈会が催されることもあった。父が大阪で買ってきたもので、いろいろな絵を差し替えて世界が替わる。修造は近所の友達を呼んできて始まる前から興奮気味であった。電話室の脇にある戸棚の引き出しには、ボタン、腕章、襟章らが詰められていた。軍人さんの勲章好きとおなじ子供心が興奮するのである。店から工場への4、5町の距離が楽しかった。工場の粗末な門をくぐると前が花畑になっていた。ここには静三が幼い時から数えきれない記憶があった。門の横にある物置小屋、黒いトタン屋根の縫製工場には高い棟の下の数台のミシンの響きと女工の乱れた髪を静三は良く知っていた。工場の裏の空き地の叢は遊び場であった。その叢から土手になって川が見えた。あの辺りがあんなにも素晴らしく思えたのはそっくり父の影響だったかもしれない。工場の地続きの土地に借家を何件も持ち父もそこへ行くと何か解放された気分になるらしく、父と子の距離は縮まった。しかし店の奥にいる時の父は近寄りがたい存在であった。父の部屋は事務室の隣にあった。静三は母のいいつけでよく3時に牛乳を父の部屋に運んだ。父は病弱で陰気な顔であった。しかし休業の日に父は息子3人を連れて郊外に昆虫採集に出かけた。事務所で夜遅くまで夜業が行われ燈がともっていることもあった。仕事が終わると皆ほっとくつろいで、笹岡や吉田らが帰り支度をした。仕事が終わる夕方笹岡が静三を呼んで橋の方へ行き舟に誘導された。それは畳を敷いた牡蠣船で父をはじめ店の人が集まっていた。お店は大正3年(1914年)のころから大分模様替えがなされ、事業規模が拡大していったようであった。部屋にストーブがたかれ、父は新しい背広を誂えた。つまり戦争景気ではぶりがよくなってきたのである。川の近くにあった縫製工場が店の近く引っ越してきたので店は急に賑やかになった。翌年父が病気になり大阪で療養していたが、家に帰ると様態が急変し帰らぬ人になった。父の葬儀にお供えされた米俵は街の貧窮者に分けられた。義米の配分ともいえる行為であった。父の49日の日に大勢の人が集まったが、ちょっとしたことで静三と修造が喧嘩になった。酔っていた店の吉田が仲裁に入ったが、静三を投げ飛ばした。何度も挑んだが吉田に跳ね飛ばされた。兄の敬一が静三をしかりつけたので、それ以来静三の世界は引きちぎられ、お店の思い出も味気ないものになった。あとで考えるとこのころを境に静三は日向から日陰に移されたような気持ちになった。父が生きていた時は、店の者が密接なつながりをもって生の感覚と結びついたのであるが、父の死後兄弟間の序列に変化が起き静三は外された感が否めなかった。兄の敬一は東京の学校に行っていたし、店のことは代表社員の伯父が母の処に相談に来ると静三は隣の部屋で不安に襲われた。彼はもう店の誰とも口をきかなくなっていた。店の由来が陸軍御用達商として発展してきたことが静三にとって厭わしく思えてきた。東京で学校を終えた兄敬一が戻ってくると間もなく結婚して2階に住み、社長としてお店に出るようになった。代表社員の伯父はすぐ店を止めて、兄はその粉飾決算を非難していた。母ムメが亡くなったのは昭和10年であった。母の2回忌のころから急に注文が殺到し、戦争景気で店は拡大した。従業員も増え、モーターミシンが設備され残業も続いた。しかし次第に景気は下火となりやたら統制や規制で営業の様子は随分変わった。昭和19年創立50周年記念祝賀会が行われ、その式典の最中空襲警報が鳴った。(これから先は小説上のつじつま合わせに過ぎず、事実ではないので省略する。そうしないと年譜を読んだ人が混乱するからである)

U-3.氷花

戦後東京に出てきて三畳足らずの板敷の部屋に居ると息が詰まりそうになるので、よく街を歩いた。「僕を入れてくれる屋根はどこにもない、雨は容赦なく僕の目に沁み込むのだ」という読んだ文句がそのまま自分の身になっていた。「今コンクリートの上で死んではならない、今は死んではならない」と思うが、彼を支えている板敷は今にも墜落しそうで木っ端微塵に飛び散るものの幻影があった。彼が原爆で受けた感動は人間に対する憐憫と興味といっていいくらいだった。急に貪婪の目が開かれ、彼は廃墟の中を歩いて人間を観察した。これからは百姓になるか闇屋になるかしなくては生きてゆけないと、実家の社員だった者が百姓になって言う。人間万事からくり一つと割り切って金の力で生きてゆく貪欲さが彼には無かった。長兄や姉は彼にこれからどうするとか再婚しろとかいうので近いうちに東京へ出たいとあてのない返事をしていた。大森の知人が宿が見つかるまでおいてやってもいいというのを真に受けて東京行きの列車に滑り込んだ。東京へ出て先生に就職のあてを相談すると、慶応義塾大学付属の夜間学校の講師の口があった。サラリーはわずかで生活は食うや食わずであった。夕方の通勤の電車はものすごい混みようでこれで彼は体力をなくすのであった。かれは「新びいどろ学士」という小説を書こうとした。壊れやすいガラスでできた人間つまり彼のことである。DDT散布で殺されそうになり、恐ろしく繁雑で人間関係の強い力に耐えられないかれの脆い(繊細な)精神は何時でも毀れる予感に満ちているという話である。病院にゆくと医者は栄養と静養第1、白血球数4000、体重37Kgで用心しながらやってゆくしかないと言われる。今書きたくてうずうずしていると友人に相談すると、書くだけの体力がないという。といって飢餓線上を救う手立てはないのだが。蔵書をもって古本屋に通う。夕方5時半からの勤務なのに、彼は三時ごろから歩いて三田に向かう。秋の日が沈んでゆく一刻一刻の変化が涙を誘うばかりに心に迫ることがあった。心を潤すもの、彼はしきりに今それを求めていた。無性に郷愁に突き落とされていた。石炭不足のため汽車は8割減の運転の中、倉敷にいる姉(このモデルは彼が中学生のころ亡くなった最愛の姉ツルのことだと思う)を訪れた。3年生の姪が讃美歌「諸人 こぞりて 讃えまつれ」を謳うのを聞いた。翌日広島に降りた。駅前にはバラックの雑踏がが続いていた。長兄の家に泊まり次の日原爆の後一度も行っていない妻の墓を訪れた。途中次兄のバラックの家を訪れ、川口町の姉を訪れた。慌ただしい旅を終えて東京に帰ると、彼の部屋はシーンと冷え切っていた。夜具にくるまって旅のことを回想すると、倉敷の姪の讃美歌を思い出し姪の成長の夢を見るのであった。

V.詩「燃エガラ」

夢ノナカデ 頭ヲナグリツケラレタノデハナク メノマエニオチテキタ クラヤミノナカヲ モガキモガキ ミンナモガキナガラ サケンデソトヘイデユク シュポトオトガシテ ザザザザトヒックリカエリ ヒックリカエッタ家ノチカク ケムリガ紅クイロズイテ 川岸ニニゲテキタ人間の アタマノウエニアメガフリ 火ハ向岸ニ燃エサカル ナニカイッタリ ナニカサケンダリ ソノクセヒッソリトシテ 川ノミズハ満潮 カイモクワケノワカラナヌ 顔ツキデ男と女ガ フラフラト水ヲナガメテイル ムクレアガッタ顔ニ 胸ノホウマデ焦ゲタダレタ娘ニ 赤と黄色ノオモイキリ派手ナ ボロキレヲスッポリカブセ ヨチヨチアルカセテユクト ソノ手首ハブラント揺レ 漫画ノ国ノ化ケモノノ ウラメシアノ格好ダガ ハテシモナイハテシモナイ 苦患ノミチガヒカリカガヤク

W.エッセイ 「戦争について」「平和への意思」

「戦争について」: コレガ人間ナノデス 原子爆弾ニヨル変化ヲゴランクダサイ 肉体が恐ロシク膨張シ 男モ女モスベテヒトツノ型ニカエル オオ ソノ真黒焦ゲノメチャクチャノ爛れた顔ノムクンダ唇カラ漏レテクル声ハ「助ケテ下サイ」 トカ細イ 静カナ言葉 コレガ 人間ナノデス 人間ノ顔ナンデス
原子爆弾による地球大破滅の縮図をこの目で確かに見てきた。人間は戦争と戦争の谷間に惨めな生を営むのみであろうか。
「平和への意思」: 戦災死を免れた我々にとって「平和への意思」は繰り返い繰り返しなさなければならない。1945年8月6日広島の惨劇を体験してきた私にとって8月6日という日が巡り来ることは新たな戦慄とともに烈しい疼きを呼ぶ。三度目の夏(1947年)に何がお前に生き延びさせようと命じたのか、答えよ、答えよ、その意味を語れ。原子力兵器が今後地球で使用されるなら恐らく人類は滅亡するだろう。一人の人間が戦争を欲したり肯定する心の根底には、何百万人が死のうと自分だけは助かる(逃げられる)という気分が支配している。平和の擁護、平和への協力は耐えざる緊張と忍耐が必要である。この地獄と抵抗して生きるには無限の愛と忍耐が必要である。 


V.原民喜著著 「原民喜全詩集」 岩波文庫(2015年7月)


1941年(昭和16年)、原民喜はリルケの詩に出会い強く打たれたという。原にとってリルケは心惹かれる懐かしい作家の一人である。リルケは詩人を志す若者に宛てた手紙の中(若き詩人への手紙)でこう書いた。「あなたが書かずにはいられない根拠を深く探ってください。それがあなたの心の最も深いところに根を張っているかどうかを調べてごらんなさい。何よりもまず、あなたの夜の最も静かな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい。私は書かなければならないのかと」 詩人とは単に詩を書き記す者の呼称ではない。むしろ詩によって生かされている者のみに捧げられるべき名である。そういう意味で民喜は詩人である。小説「夏の花」がよく読まれているとしても、民喜は稀有な詩人である。民喜の生涯も死に始まり死で閉じられた。民喜は10代の初め家庭内同人誌にすでに詩を書いている。しかし生前に詩集を世に問うことは無かった。彼が亡くなって4か月後1951年7月に「原民喜詩集」が細川書店から刊行された。1944年9月妻貞恵が病のために亡くなる。まさに伴侶というべき存在で、うまく世間と付き合えない夫の通訳として相談相手として彼を支えた。妻と死別してから彼は妻あてに手記を書き続けた。半身をもぎ取られた形の民喜は書き続けることでどうやら命をこの世に繋ぎとめている。「もし妻と死別したら、1年間だけ生き残ろう、悲しい美しい1冊の詩集を書き残すために」原民喜詩集はそういう作品集である。義弟の佐々木基一氏に宛てた遺書で民喜は「妻と死に別れてから後の僕の作品は、ほとんど全てが、それぞれ遺書だったような気がします」と書いている。原爆に遭遇して書き残すべきことが生じたため余計に5年間生きたような形になったが、妻が亡くなって6年半後に命を断った。詩集の原稿は遺書17通と共に自宅に置かれていた。そこには衝動的な他の要因は全く考えられず、計画されたとおりに実行されたこの世との別れであった。今も愛する妻を待たしてはいけない、心に誓った妻との約束をまもった律儀な夫であった。散文詩「一つの星に」には失意の原を慰めるために星の光となって現れる貞恵が描かれている。「わたしが望みを見失って、暗がりの部屋に横たわっている時、どうしてお前はそれを感じ取ったのか。この窓の隙間に、さながら霊魂のように滑り落ちて来て憩らっていた稀なる星よ」本書の「拾遺詩篇」に「かげろう断章」として収められている作品は、原民喜自身が遺稿として整理していたものである(未完であるが)。1956年青木文庫版「原民喜詩集」に初めて収められた。これらの作品のほとんどは4行詩である。民喜は俳句の枠を破って創造した形式である。夜は、民喜にとって妻と言葉を交わすひと時であった。昼間の喧騒は使者からの呼びかけはかき消されてしまう。星あるいは月の光は彼にとって妻の来訪をを告げるものであった。月光は「新しい望み」であることを啓示する。青木文庫版「原民喜詩集」は大きく3つに分けられる。散文詩群、「原爆小景」、「魔のひと時」である。「原爆小景」の最初に置かれた「コレガ人間ナノデス」を記す。
* コレガ人間ナノデス 原子爆弾ニヨル変化ヲゴランクダサイ 肉体が恐ロシク膨張シ 男モ女モスベテヒトツノ型ニカエル オオ ソノ真黒焦ゲノメチャクチャノ爛れた顔ノムクンダ唇カラ漏レテクル声ハ「助ケテ下サイ」 トカ細イ 静カナ言葉 コレガ 人間ナノデス 人間ノ顔ナンデス
原民喜は自身が見たものを言葉に刻むことにおいて極めて誠実であった。「自分のために生きるな、死んだ人の嘆きのためにだけ生きよ」と小説「鎮魂歌」に書いた。最初は妻に向かって紡いでいた言葉もいつしか無数の死者たちへの献花となっていた。「永遠のみどり」と題する詩で語るのは希望であった。しかも民喜の詩篇の中で最も優れた作品となった。
* ヒロシマのデルタに 若葉うずまけ 死と焔の記憶に 良き祈りよこもれ とはのみどりを 永遠のみどりを ヒロシマのデルタに 青葉したたれ
原民喜にとって「碑銘」とは「墓碑銘」のことであった。極限までに切り詰められた彼自身の魂の告白であった。かれは知人宛ての遺書に「碑銘」を書き添えている。長光太への手紙に題名を記さず書き送った「碑銘」を示す。
* 遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻
この詩は明らかに「碑銘」である。民喜の自殺は計画的であった。遺書を19通書き、詩集を含む意向を整理し、遺る者に託した。「はるかな旅」で民喜は花に妻の幻をみるという。彼の生涯は「一輪の花の幻」を見ることに集約された。幻は空想の産物ではない。むしろ人間の世界における真実性の顕れであったと思われる。幻は消えない、人間が見失うだけである。原民喜は遠藤周作への遺書に「悲歌」と題する詩を書いた。
* 濠端の柳にはみどりさしぐみ 雨靄につつまれて微笑む空の下 水ははっきりとたたずまい 私の中の悲歌を求める すべての別離がさりげなく取り交わされ すべての悲痛がさりげなく ぬぐわれ、祝福がほのぼのと向うに見えているように、私は歩み去ろう、今こそ消え去ってゆきたいのだ、透明の中に永遠のかなたに
この一篇を自らの詩集の最後に置くことを託し、原民喜は「一輪の花」の世界へ一人歩いて行ったのだ。


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