180509
文藝散歩 

「文語訳 旧訳聖書 T 律法(モーゼ五書)」
岩波文庫(2015年5月)

旧約聖書全39書のうち律法は、モーゼ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を収める

1) 総 序

1−1) 旧約聖書とは

旧約聖書といえば、私は岩波文庫で関根正雄訳の「創世記」(1956年版)、「出エジプト記」(1969年版)、「ヨブ記」(1971年版)、「エレミヤ書」(1959年版)、「詩篇」(1973年版)を現代語訳で読んだ。岩波文庫出版の関根氏訳旧約聖書はこれだけであり、膨大な全39書の現代語訳は日本聖書協会より「口語訳 旧約聖書」(1955年版)から発刊されている。今回私が読んだ岩波文庫「文語訳 旧約聖書T、U、V、W 全4巻39書」(明治20年)は敢えて文語訳である。文語訳といっても「源氏物語」を読むのではなく、明治時代の文章であるので、誰でも素直に読むことができる。宗教書としては文語調の方が格式が高そうだという効果もある。日本聖書協会の「口語訳 旧約聖書」が入手が出来なかっただけのことである。しかし電子書籍版で読むことはできる。電子書籍版は著作権フリーの「口語訳旧約聖書」から見ることができます。岩波文庫「文語訳 旧約聖書全4巻」hは、1887年(明治20年)に訳され、翌年刊行された文語訳の旧約聖書を四分冊として納めている。本書は第1分冊めの「律法」の部にあたる。明治時代にキリスト教と聖書を日本で広めるため、聖書委員会が設置された。翻訳委員会の新約聖書は1917年に改訳された。同時期に旧約聖書は改訳されなかった。本書の底本はこの明治版による。旧約聖書はもともとユダヤ教の聖典である。AD2世紀ごろにキリスト教においてはキリストの教えを新約として新約聖書が作成され、それまでの神の約束は旧約聖書と称した。旧約聖書はおもにヘブライ語で書かれている。そこに収められた文書は、「律法」、「預言者」、「諸書」の3部にわかれる。しかし紀元前3-1世紀の作成されたギリシャ語訳では「律法」、「歴史」、「諸書」、「預言」と四区分と順序が定められた。各部の文書は次の表に観る諸巻が収められた。「文語訳 旧訳聖書」岩波文庫に収録された文書を整理すると、以下である。全39文書である。
T 律法: 創世記、出エジプト記、レビ記、民数機略、申命記
U 歴史: ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記前後、列王記略上下、歴代志略上下、エズラ書、ネヘミヤ記、エステル書
V 諸書: ヨブ記、詩篇、箴言、伝道之書、雅歌
W 預言: イザヤ書、エレミヤ記、エレミア哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデア書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニア書、ハガイ書、ゼカリア書、マラキ書

旧約聖書の分類配列と内容の概略
分 類 書 名 概 要
T 律 法
(モーゼ五書)
創世記楽園の追放と人間の堕落、カインとアベルの殺人、ノアの箱舟、バベルの塔、アブラハム・イサク・ヤコブの三代の族長の話しとイスラエル十二氏族、ヨセフのエジプトでの苦労が語られる。悪徳の町ソドムとゴモラの滅亡など
出エジプト記エジプトでの奴隷生活から指導者モーゼによる出エジプト、シナイ山でのモーゼの十戒と戒律、ヤハウエ神との契約が語られる。信仰と生活の原点となる。紅海を渡る際、海が割れてエジプトの追手を防いだ話など周知の話も多い。
レビ記イスラエル民族のうちレビ人は祭儀を扱う聖職者部族に定められた。前半は供物・犠牲・儀礼など細かく記載される。倫理規定、禁忌規定では「落穂を拾うべからず」はミレーの絵画となった。「汝の隣人を愛すべし」は新約聖書のキリストに受け継がれた。
民数記イスラエル民族の人口数を記載していることで有名。時代はシナイ山から始まるので出エジプト記と重複する。約40年の荒野での放浪生活からヨルダン川の東岸に到着、神との契約の地カナンに定着するまでの戦闘記。律法の記載
申命記申命とは繰り返し述べた律法(神の定めた倫理規定、禁忌規定)の書のこと、モーゼの十戒が繰り返される。モーゼはヨシュアを後継者に指名、カナンの地での生活を指示した。「人はパンのみで生きるものにあらず」は有名な聖句
U 歴 史ヨシュア記ヨシュア記、士師記、サムエル記上下を「前預言書」とするが、それは歴史書であると同時に預言者(ヨシュア、サムエル、エリシア)であったからだ。「モーゼ六書」に入れられたこともある。モーゼの後継者(預言者)ヨシュアに率いられたイスラエル民族はカナンの地に進出、奪った地を12部族に分割した。紀元前13世紀ごろの歴史である。全体が、エホバがヨシュアに向かって言った言葉「我が僕モーゼが汝に命じた律法を守ったなら、なんじは幸福を得必ず勝利する」に貫かれている。ヨルダン川の渡河にも水止めの奇蹟が経験され、各地の戦争で勝利し支配地を拡大する。ヨシュアは死を前にして律法を守ることを厳命する。
士師記イスラエル民族はカナンの地に定着したが、先住民族との抗争が続く。エホバはイスラエルの民の宗教的・道徳的背反を懲らしめるために先住民との戦争を利用した。士師とは部族連合の指導者のことでデボラ、ギデオン、サムスンの活躍を描く。女性預言者デボラも士師の一人でカナンの王を滅ぼした時エホバへの賛歌「デボラの歌」を歌った。これは旧約聖書最古の詩文だとされる。モアブ人と闘ったエホデ、ミデアン人と闘ったギデオン、ペリシテ人と闘ったサムスンについては詳しく描かれた。イスラエルに統一王国ができる紀元前12世紀の歴史である。
ルツ記イスラエルの王ダビデの系譜を語る。ベツレヘムに住んでいたナオミと夫、二人の息子は飢饉により異郷の地モアブに移住する。二人の息子はモアブの娘と結婚するが、ナオミは夫と2人の息子に先立たれた。ベツレヘムに帰るナオミに付き添ったのは息子の嫁ルツだけであった。ベツレヘムでは夫の親戚のボアズの麦畑で2人は落ち穂拾いで生活をした。ボアズは刈り入れで落ち穂を多くして生活を助け、やがてボアズとルツは結婚し男子オベデが生まれ、エッサイ、ダビデと家系は受け継がれた。律法の「レビ記」にも落ち穂を遺すして貧しきものを救う話は申命記にも記されている。ミレーはこの話を題材に落ち穂拾いを描いた。
サムエル記(上・下)サムエルは紀元前11世紀のイスラエルの士師・預言者であった。サムエルの息子は不正と収賄を働き、イスラエルの民は王の選出を希望した。王に選ばれたサウルによるイスラエル部族連合体が王政に移行し、サウル、ダビデ、ソロモン王が南北を統一しイスラエル王国を拡大した。ダビデはペリシテ人を倒し、あまりに強いダビデにサウルは反感を抱き殺害を図るが、サウルの子ヨナタンはダビデを助ける。戦死したヨナタンを悼んだダビデの「ああ勇者は仆れる」という言葉は名高い。王位に就いたダビデも部下ウリアの妻を横取りするため、ウリアを前線に送り戦死させるという過ちを犯す。ダビデの子アムノンは異母妹を犯して兄に殺される。詩篇にはダビデの歌を遺す。
列王紀略(上・下)王位はダビデの子ソロモンに継承され、イスラエル王国は全盛期を迎えた。エルサレムに豪華な神殿が作られ、「ソロモンの知恵」と讃えられたように智恵と聡明にすぐれていた。智恵を試さんとしたシバの女王の驚きの話は名高い。しかしソロモンの子レハベアムの時代にヤラベハムの反乱が起き、レハベアムの北のイスラエルとヤラベアムの南のユダ王国に分裂。王国の危機は異教のバール神への傾斜によってたびたび引き起こされた。警告は預言者エリア、エリシア、アモス、ホセア、イザヤによって発せられた南北の王朝史を語る。最期に北イスラエルは東の大国アッシリアによって紀元前722年に亡ぼされ、南のユダ王国はアッシリアによって紀元前585年に亡ぼされた。イスラエルの民はアッシリアの首都バビロンに連行され捕囚の生活となった。
歴代志略(上・下)サムエル記(下)、列王紀略(下)と重複する内容が多いが、イスラエル民族の系図の詳述とダビデによるエルサレム神殿計画と、ソロモンによる神殿建設に重点が置かれている。従ってダビデの過ちやソロモンの異教徒支援の話は描かれていない。イスラエル王国分裂後の北のイスラエル王国と南のユダ王国の記述では、エルサレム神殿のある南のユダ王国の歴史にくわしい。イスラエル民族の浮沈はすべてエホバ神への信仰の度合いとか異神への信仰かによっている。最後はアッシリアのネプカデネザル王によるエルサレムの陥落とバビロンへの捕囚となるが、ペルシャ王クロスによる解放まで(紀元前538年)で終わっている。
エズラ書バビロニアがペルシャに亡ぼされ、ペルシャ王クロスによるバビロン捕囚からの解放後、イスラエル民族は神殿復活・律法の復興運動にいそしむ。後半は祭祀エズラによる罪の反省と祈りが中心となる。これを「エホバの戒め」と呼ぶ。 
ネヘミヤ記書いてある内容はエズラ書と同じで、バビロンの捕囚から解放後のエルサレム神殿の再建、そして罪の反省と祈りが中心である。ペルシャの寛容政策によってユダヤ律法の復興運動が盛んとなった。イスラエルの指導者ネヘミヤによって記された。
エステル書紀元前5世紀ペルシャ王クセルクス1世の時代にペルシャに住むイスラエル人の話である。バビロンの捕囚の経験者モルデカイの幼女エステルはユダヤ人であることを隠して育った。後年アハシュエロス王の皇后になり、権力者ハマンのユダヤ人絶滅計画を、王への働きかけで未然に防いだ。
V 諸 書ヨブ記諸書は「知恵文学」とも呼ばれ、詩文が多い。神への賛歌、信仰の人生の教訓・格言集である。紀元前3世紀ごろの作品集とみられる。信仰も厚く行いも正しい人ヨブは、家庭・財産に恵まれた生活を送っていた。悪魔サタンはヨブの信仰を試すように、神に試練を課すよう持ちかける。ヨブに災難が襲い家庭は崩壊し財産をすべて失っても信仰は捨てなかった。次の段階でヨブの身体に重い皮膚病が発症し、皆に嫌われる生活に一変した。ここでは正しい行いの人がなぜ不幸に逢うのか、はたして神は正義なのかという「神義論」がテーマとなっている。ヨブは人間が神を知るとはどういうことなのか、神と人間の関係を突き詰めて考える。
詩篇詩篇は神に対する賛美と感謝、懇願。信頼が中心となった全150篇からなる。約半数はダビデの作と書かれているが、真偽のほどは分からない。119篇にある「アレフ」、「ベテ」、「ギメル」・・・はヘブライ語のアルファベットで段落を示している。文語訳「詩篇」は長年にわたりヨーロッパ近代文学へ影響が大きい。
箴言箴言とは「戒めとなる言葉」であり広い意味では教訓・格言・処世訓である。狭い意味では「エホバを畏るるは知識の本なり」という思想が根幹にある。「ソロモンの箴言」と言われることもあるが、ソロモン以前から本書が書かれた紀元前3世紀までにわたる言葉の集積である。
伝道之書集会で語る人を伝道者という。ヘブライ語聖書では「コヘレトの言葉」という題名になっている。著者はソロモンと言われることもあるが、ソロモンではない。伝道者にせよコヘレトにせよ、固有名詞ではなく広い意味では自由な思想家のような存在である。冒頭に「空の空なる哉、すべて空なり・・日の下には新しきものなし」といった衝撃的な言葉で始まり、厭世的な内容でヘレニズム文化の影響が大きい。
雅歌男女が愛し合い讃えあう歌という旧約聖書では極めてユニークな詞華集である。多くはソロモンの作といわれるが、ソロモンとは直接な関係はない。古代オリエント世界の中でイスラエル民族の愛の賛歌の集成となった。ヨーロッパ近代文学への影響は大きい。
W 預 言イザヤ書「三大預言書」とは、イザヤ書、エレミア書、エゼキエル書を呼ぶこともある。預言という言葉は神からその言葉を預かり伝えるものという意味である。預言者はただ未来を予言する予言者、呪術師とは異なる。イザヤ書は北イスラエル王国及び南ユダ王国の分裂時代の預言者イザヤの預言集である。イザヤはすべて同一人ではなく、紀元前736年ー701年ころに活躍したイザヤ自身の言葉を第1イザヤ(T-39章)、第2イザヤは紀元前6世紀後半解放前の苦難の時期、バビロン捕囚の嘆きの書 黙示文学と言われる。第3イザヤは紀元前538年ペルシャ王クロスによりイスラエル人キア人解放のころで信仰と律法の順守を求める。成立は紀元前5世紀前半とみられる。歴史的には3段階のイザヤという預言者の話である。
エレミヤ記預言者エレミヤの活動時期は、大国アッシリアによる北イスラエル王国の滅亡(紀元前722年)、つづくバビロニアによる南ユダ王国の滅亡(紀元前586年)、さらに「バビロンの幽囚」とペルシャ王クロスによるイスラエルの解放(紀元前538年)というイスラエル民族の最も激動期にあたる。エレミヤの預言はエホバの教えである律法の順守であることは変わりないが、その形式的な順守より心の在り方を厳しく問うものであった。「心は万物よりも偽る者にして甚だ悪し」とか、祭祀の虚言を糺した。エレミアはまさに預言者中の預言者であるといえよう。バビロンの幽囚の嘆きの書であると同時に、イスラエル民族自身による信仰の回復に絶望し、「エホバいい給う見よ我がイスラエルの家とユダの家に新しき契約を立つ日来たらん」といい、新しい契約を希望するに至る。つまり旧約から新約への意向を考えていたようだ。エレミヤ記の成立は、エレミヤの書記バルクの記述が含まれるので紀元前6世紀前後とみられる。
エレミヤ哀歌単に「哀歌」と言われることもあるが、この書はエレミヤ記の後に置かれ「エレミヤ哀歌」となる。しかしエレミヤの言葉ではなく、異なる作者によるものからなり、それぞれに韻文としての特徴がある。紀元前597年のアッシリアによるエルサレムの占領以降のエルサレムと民族の悲惨な生活を余すところなく描いた。
エゼキエル書バビロン捕囚の嘆きの書。預言者エゼキエルはバビロニアによる第1回「バビロンの捕囚」の一人であった。神からエルサレムの滅亡の理由を説明するよう求められ、あたかも新約聖書のヨハネ黙示録を思わせる神との間の幻視を語る。イスラエル民族の宗教的、倫理的罪の糾弾は厳しい。最後にはエルサレムへの帰還と神殿の再建を、「枯れたる骨」の再生、新しいダビデの出現を願う希望の預言となる。
ダニエル書ダニエルはエゼキエルと同じように、「バビロン捕囚」期の預言者であった。この書もエゼキエル書と同じように黙示録または幻視が多いが、知恵の書としても名高い。バビロニアの王ネプカデネザルの命により、王の夢から来るべき諸国の興亡を予言した。「獅子の穴」に放り込まれる危機に遭遇するが、諸国の興亡の預言を説いて止まなかった。「人の子ごとき者雲に乗りて来たり」という新約聖書の救世主のような預言がある。ダニエルは智慧と判断に秀でた預言者とされた。シェークスピアの「ヴェニスの商人」にもその名が出ている。
ホセア書ホセア書以下12篇の預言書は、アウグスチヌスの「神の国」以来「十二小預言書」と呼ぶことがある。アモスとホセアはイスラエル王国のヤラベアム2世の時代から滅亡期までにかけての預言者。「十二小預言書」全体の成立時期は紀元前3世紀から前2世紀とされる。ホセア書に同時代人として挙げられている王の名はイスラエル王国・ユダ王国末期のものであり、これを信ずるなら紀元前8世紀末の人物である。作者がホセアであることと、その預言期間がウジヤの治世からヒゼキヤの治世にまで及ぶとされる。神に度々反抗したイスラエルに対する裁きの音信であり、神はイスラエルを見放すという内容である
ヨエル書ヨエル、ヨナ、ハガイ、ゼカリヤ、マラキは捕囚後開放時代の預言者である。黙示文学。作者はペトエルの子ヨエルであるという。ヨエル書の作製年代を、エルサレム帰還後で、エルサレム神殿再建完了(BC516年)の前に置く。
アモス書アモス書 にも、主の日(神による審きの日)の到来という、ヨエル書と同じテーマを扱っていることなどから、執筆年代はアモスやホセアと同年代(BC8世紀前半のヤラベアムU世統治のころ)と考えている。作者はアモスで、南ユダ王国テコア出身の牧夫であったという。時期については、ウジヤ(ユダ王国)、ヤラベアム2世(イスラエル王国)の分裂王国時代であった。内容は大きく4つに分けることが出来る。@近隣諸国の民と、南ユダ王国、北イスラエル王国に対する神の裁きの宣告、Aイスラエルの支配者たちへの悔い改めの要求、B裁きについての5つの幻(イナゴ、燃える火、重り縄、夏の果物、祭壇の傍らの主)、Cダビデの系統を引くイスラエル民族の回復である。
オバデヤ書オバデア、ミカ、ナホム、ハバクク、ゼバニアはバビロン捕囚期の預言者である。筆者は伝統的にオバデヤ(オバデア)という名の人物とされる。この名は字義通りには「主(ヤハ)の僕(または崇拝者)」を意味する。オバデヤ書は大きく分けると「エドムの傲慢と滅亡」と「イスラエルの回復」の項目から成る。エドムとイスラエルの先祖は、エサウとヤコブの兄弟であり、したがって2つの民族は兄弟であるとみなされた。このような血族への暴虐によって、エドムは恥と滅びを永遠に蒙ると宣告される。作製時期は「エドムは兄弟であるイスラエル民族が攻撃されたときに見捨てたため、滅ぼされなければならない」という預言について考えると、紀元前605年から586年 - バビロンのネブカドネザル2世によりエルサレムが攻撃され、最終的にユダヤ人のバビロン捕囚が起こった時期が妥当である。オバデヤ書全体の主題は神の民の敵の滅びである。エドム人とは、イスラエルのかつての敵すべてを意味しており、文字通りのエドム人を指しているわけではないとする説がある。
ヨナ書内容は預言者のヨナと神のやりとりが中心になっているが、ヨナが大きな魚に飲まれる話が有名。前半は、ヨナ自身の悔い改めの物語を描き、後半は、ヨナの宣教によってニネベの人々が悔い改めたことを述べる。ヨナ書の主題は、預言者として神の指示に従わなかったことと、ニネヴェの人々が悔い改めたことに対して不平不満を言ったことに対するヨナの悔い改め (=神に仕える者としての生き方を正す) と、神は異邦人でさえも救おうとしておられることの二つである。
ミカ書作者は紀元前8世紀の預言者ミカに帰される。構成は7つからなり、本書の中でミカは支配階級に抑圧されている人たちの苦しみに共感し、横暴な人たち(その中には賄賂によって都合の良い預言をする預言者や祭司も含まれる)の不正を厳しく糾弾している。
ナホム書全3章から構成される。著者はナホムという名の人物とされる。 預言の主題はニネベの陥落とアッシリアへの裁きである。成立時期はエジプトのテーベの滅亡が記されているので、紀元前663年より後、ニネベが陥落した紀元前612年より前である。
ハバクク書本書は3章からなる。ハバクク書はユダヤが直面する民族的困難が増大する時代にあって、疑念が付されてきた神への絶対的な信頼と能力の妥当性という問題を扱っている。ハバククは「民の悪行に対する神の怒り」「異民族による怒りの執行」という観点に立つことによって、民族的困難と神への信頼を両立させる。また神の絶対性と将来の救済、「怒りのうちにも憐れみを忘れぬ神」という観念がみられる。
ゼフェニア書伝統的にゼファニヤが作者とされる。ヨシヤ王(在位紀元前640年頃から前609年頃)の名があることから、紀元前7世紀後半ないしそれ以降に成立した。本書の目的は、エルサレム住民へ行いを改めるべく警告することであったろうと考えられる。
ハガイ書作者はバビロン捕囚後の最初の預言者ハガイである。エルサレム神殿の再建(紀元前515年)がその預言の主題となっている。ハガイとはヘブライ語で「祝祭」という意味である。
ゼカリア書本書は14章からなり、小預言書の内では、比較的大部にわたる。内容としては、幻視に関する8つの記述、エルサレムに臨んだ災いを記念する断食に関する質問、諸国民に対する裁き・メシアに関する預言・神の民の回復に関する記述からなる。
マラキ書本書は3章からなる。預言の主題は宗教儀式の厳守、及び雑婚の禁止である。マラキは当時の形式的な礼拝を咎めた。マラキとはヘブライ語で「私の使者」という意味である。当時、捕囚から帰還した頃は市民権は無く、旱魃や大量発生したイナゴのため凶作が続き、更には周囲に敵意を持つ民族が居住していたため、非常に衰退していた。そのような状態でイスラエルの民は神殿を再建した。祭司の堕落や、軽薄な雑婚・離婚、捧げ物の不履行などが蔓延していた。ネヘミヤがエルサレムに不在で人々が混乱に陥っている際にマラキがメッセージを語ったのである。


ザビエルによって1549年に開始されたキリスト教の日本伝道によって、旧約聖書の話は各地に伝えられた。1553年のクリスマスには修道士シルヴァにより、人間の創造と原罪、ノアの洪水、ヨセフの話、モーゼの十戒など旧約聖書の話が朗読された記録がある。キリスト教が禁教になって以降も根強く旧約聖書の話は流布した。密入国した宣教師シドッチを尋問した新井白石は「西洋紀聞」を著してシドッチから聞いた旧約聖書の話を伝えた。平戸の松浦藩主が集めた蘭書の中には、ヘンリーの聖書註解書があり旧約聖書も含まれていた。江戸幕府の蕃書調所の箕作阮保甫は旧約聖書を読んでいた。隣の中国ではプロテスタント伝道者モリソンが「旧遺詔書」(旧約聖書のこと)を1823年に刊行した。1843年にはアメリカ人宣教師ブリッジマン、カルバートソンによる「新約全書」、「旧約全書」が刊行された。この中国語訳本が後に日本の聖書翻訳に大きな影響を与えることになった。1858年日米修好通商条約の結果、日本で最初のプロテスタント宣教師M・ウイリアムス、ヘボン、ブラウンらが来日した。1872年にはヘボンは十戒を含む「三要文」を翻訳した。ウィリアムスは1877年に「十戒問答」を刊行した。多くの教派の宣教師が来日し1872年に聖書翻訳委員会が組織され、委員としてヘボン、ブラウン、グリーンらが選ばれた。聖書日本語翻訳は1874年から開始された。1876年、横浜聖書翻訳委員会が新約聖書の翻訳に集中しているので、旧約聖書の翻訳のために東京聖書翻訳委員会が設けられた。タムソン、コクラン、バイパー、ワデルの四人が委員に選ばれた。タムソンを除くとイギリス系宣教師たちであった。こうして1882年より旧約聖書の分冊が次々と刊行され始めた。翻訳はヘボン、ファイソン、フルベッキの翻訳委員が中心となり、中でもヘボン(ヘボン式ローマ字の開発者でもある)の活躍が著しかった。翻訳は1887年(明治20年)までに分冊集として全巻の刊行を終えた。書の題名の漢字表記からして(マラキ書:馬拉基など)いずれも中国語訳訳聖書(ブリッジマン、カルバートソン訳)の題名と同じである。中国語訳聖書に訓点をつけた旧約聖書も日本で出回っていたので、日本人信徒の間で定着してと思われる。「訓点 旧約聖書」だけで理解できる人々も少なくなかった。当然日本語訳聖書の文章もその読み下し文に近いものとなった。ルビが大和言葉で振られているので、聞いただけで内容が分かるようになっていた。1888年旧約聖書の翻訳完成祝賀会において、ヘボンはその経緯を述べた。松山高吉、高橋五郎の日本人助手の功績を高く評価し、新旧聖書の文体が統一されていることを賛辞した。また同年1冊本の旧約聖書が刊行された。文学者の上田敏は「かくも雅馴の文をなししかと驚嘆せしむ」と称賛した。翻訳は英語訳、ドイツ語訳を参照したというが、やはり中国語訳に負うところが大であり、詩篇・雅歌・エレミア哀歌・ヨブ記は詩歌とみられるが、日本語訳では散文との区別がつかないほど全体の格調が高かった。新しい日本語の文体を模索しつつあった近代日本で、この旧約聖書は漢文調であったが、広く思想、文学、社会に与えた影響は大きかった。1917年(大正6年)に新約聖書は改定されたが、旧約聖書は見送られた。戦後になって本格的な改訳作業が行われ、1955年(昭和30年)に口語の旧約聖書が作成された。日本聖書協会の「口語訳 旧約聖書」がそれである。

1ー2) 山我哲雄著 「聖書時代史 旧約篇」(岩波現代文庫2003年2月)

旧約聖書の舞台となるパレスチナ地方は、乳と蜜の流れる「カナンの地」とよばれ、地中海東部沿岸の南端に位置する。この地はメソポタミアから延びる「肥沃な三日月地帯」の南西端にある。規模は「ダンからベエル・シェバ」までの南北約240km、東はヨルダン渓谷から西は地中海までのおよそ四国ほどの大きさである。気候は全体として地中海気候で冬の雨季と夏の乾期からなり、農産物が取れるのは冬期である。主要な産物は大麦、小麦、豆、オリーブ、葡萄などが栽培されている。山岳部では羊や山羊の放牧に利用されていた。天然資源に恵まれないこの狭い地方が歴史時代を通じて「オリエントの火薬庫」というべき理由は、エジプト、メソポタミア、シリア、アナトリア(トルコ高原)、さらにアラビアの文化圏を結ぶ陸橋地帯を形成していたからだ。南北に「海の道」と「王の道」の2本の軍隊と商隊が通る戦略上の拠点となる幹線道路があり、時によってはこの地に富と繁栄をもたらし、時には隣接する大帝国の軍靴に踏みにじられたのである。これが民族の繁栄と悲劇(殆どが悲劇であるが)の歴史の契機となった。カナンの地は初期青銅器時代(紀元前3300−2200年)から多数の国家が形成された。中期青銅器時代をすぎて紀元前1800−1600年ごろから都市国家が再建されて経済的・文化的に活況を呈するようになった。カナンに居住した人は人種的には北西セム語を話すシリアのアモリ人で主であったらしいことが旧約聖書にも出てくる。北のフェニキア人とも交流があった。紀元前1500年ごろから、カナンのほぼ全土がエジプトの影響下に入る。そして紀元前1200年ごろ牧羊系文化を持つ集団が定住しアンモン、モアブなどの領土国家を形成し、相前後してカナンの地に進出してくるのが、旧約聖書時代のイスラエル人であった。

1、伝承と神話の時代(創世記・出エジプト記)
イスラエル人とは文学的にいえば「旧約聖書でカナンの地に住んだ12の部族からなる民族である」ということだが、民族学的には多数の民族混合で、歴史的にいえば多くの離合集散を繰り返した集合体であろう。決して単一民族(民族の定義さえ怪しいのだから)ではありえない。旧約聖書では神ヤハウエに祝福され「大いなる国民」となる約束を与えられた族長アブラハムから三代目の族長ヤコブの息子の子孫がイスラエル十二部族である。イスラエルの祖先となるヤコブの一族は、遊牧民であったがエジプトに下ったが、エジプト王によって奴隷にされ苦しんだ。神ヤハウエはモーゼを遣わしてエジプトから脱出させシナイ山で神と契約を結ばせる。その後イスラエルの民はカナンの地に至り、後継者ヨシュアに率いられてカナンの地を征服し、12の部族に分配したという。この話は「モーゼ五書」と「ヨシュア書」の説くところである。これらはあくまで伝承であって史実ではない。イスラエル人が文字を持つようになったは前1000年頃で、伝承が文字化されたのは統一王国以降のことである。日本の「古事記」と同じく多くの部族の伝承が反映しているようだ。「モーゼ五書」と「ヨシュア書」が最終的に出来上がるのが「バビロン捕囚」(前6世紀)以降のことである。とはいえ伝承のなかには歴史的「核」があったと思われる。勿論現在では、イスラエル民族が共通の祖先から出たとか出エジプトという共通の記憶を持つという観念は、歴史性を否定されている。アブラハムーイサクーヤコブーイスラエル十二部族という系譜は日本の古事記の神の系譜と同じように創作に過ぎない。イスラエルの祖先が牧羊的背景を持つ事は確からしい。アブラハム・イサクはユダ南地方を、ヤコブは北のサマリア地方を背景としている。申命記ではアラム人を祖先とすると述べられている。 「出エジプト記」は「ダビデ」、「バビロン捕囚」とならんで旧約聖書のイスラエル民族の自己理解と神の理解を根本的に特徴づける三大事件である。出エジプト記に書かれている「ピトムとラメセス」の町の建設に従事したことには歴史的核がある。紀元前13世紀のエジプト第19王朝のラメセス二世の頃の話である。しかし膨大な書を持つエジプト側には「出エジプト記」に相当する事は何も書かれてはいない。恐らくは少数の奴隷の逃亡に過ぎなかったのだろう。イスラエル民族としてはこれを共通の歴史とするため規模を60万人に拡大したのであろう。「過越祭り(すぎこし)」として出エジプトの経験を永遠に残した。シナイ山での契約は神出現伝承と契約ー律法授与物語として結び付けられた。前7世紀の申命記運動の頃に成立した「十戒」の編集も混入している。「ヨシュア書」にいわれるヨシュアの指導のもとでカナンの地を一気に征服したということも嘘であろう。多部族が少しづつ支配地拡大に励んでいたのだろう。

2、カナンの地へイスラエル民族の定住(前12世紀ー前11世紀前半)(「ヨシュア書」、「士師記」)
前15世紀中頃、強大なエジプト第18王朝のトトメス三世がシリア・パレスチナ遠征を行い、カナンの地全体を支配下に置いた。前13世紀にエジプトで18王朝が成立しラメセス二世がシリアに侵略したヒッタイト帝国と闘い和議となった話は有名である。前12世紀にかけて海洋民族ペリシテ人などがエーゲ海から大挙して南下してきた。エジプト第20王朝のラメセス三世が彼らのエジプト侵入を食止めた。この時期に山岳地帯から平野部のカナンに進出してきた集団がイスラエル人の祖先である。時は鉄器時代でカナンの都市国家群との戦いは熾烈であった。この中で部族戦闘集団が形成された。「旧約聖書」の「ヨシュア書」、「士師記」に書かれたその部族指導者を「士師」という。「士師記」はハツォルを中心とした北部の都市国家連合軍を「デボラの戦い」で打ち破ったことを記す。この頃にイスラエルという部族連合の統一体が出来上がったのであろう。これを隣保同盟(アンフィクチオニー)という諸部族連合体と捉える歴史家もいる。

3、統一王国の確立(前11世紀後半ー前10世紀) (サムエル記)
ユダヤ人はこれまで大国の圧政下において被害者の役割ばかり演じてきた。そのことを反映してヤハウエ神は人間が人間を支配することを認めない,本質的に反王制的性格を持つ宗教であった。その弱小民族にも、山岳地帯の牧羊生活から平野部に進出して豊かな農産物を得る都市生活に移ると、部族社会や村落共同体の構造が根本的に変わり、強い軍事力や強制力を持つ集権国家へ、そして王権の出現への要請が高まってきた。当時海洋民族のぺリシテ人は鉄兵器で重装備した軍隊を持ちカナンの平野部へ進出してきたので、イスラエル民族は存亡の危機に瀕した。結局イスラエル初代の王となったのはサウルであった。王権派サウルと反王権派サムエルの対立の争点は永遠の宗派の争いとなった。サウルの王権は領土国家というよりは連帯感と帰属意識を基礎とする民族国家であったといわれる。サウルの死後、ユダ部族の王となったダビデは部族間の権力闘争を経て、前1004年ついにユダ王国とイスラエル王国の二つの国家の王となった。ダビデの支配は二つの国に一人の王という体制で、二つの国は並存する形である。ダビデはぺリシテ人を討伐してヨルダン川西のカナンの都市を支配し、北王国と南王国の中間にあったエルサレムを征服して都を置いた。ダビデはエルサレムに神殿を建設しようとしたがこれは彼の息子ソロモンの時に完成した。これによって、「奴隷を解放する神」、「人間による人間の支配を認めない神」から、エルサレムにおいてはダビデ王朝を正当化する王朝の守護神に変身した。ダビデはエジプトにならって官僚組織を整備し中央集権制を確立して、4辺の諸民族を支配下に置いた。エドム人、モアブ人、アンモン人、アラム人を討って小規模ながら帝国を樹立した。2本の交易路、海の道と王の道を支配下においてイスラエルの経済繁栄の基礎を築いた。イスラエル民族初めての王であるダビデはこうして民族永遠の英雄となったのである。再び苦境におちいるたびに人々はダビデの再来を熱望した。 ダビデの死後王権を兄弟で争い勝利したのは弟のソロモン王であった。ソロモン王は前965年に即位後は戦いを殆ど行わず、父ダビデの築いた王国の経済的・文化的繁栄をもたらした。活発な平和外交を展開し、イスラエルに多くの外国使節を招いた(南アラビアのシバの女王ら)。商業船団を編成して紅海交易をおこなって富をなした。その富でイオンの丘に神殿を築いてエルサレムを聖地とした。前926年ソロモン王が死ぬと、北王国の反乱(ヤロブアムの乱)が起き、北部12部族は離反して北イスラエル王国をつくり、南にはソロモンの息子レハブアム(在位926−910年)がユダ王国を作った。

4、王国分裂と南北王制、北イスラエル王国(前10世紀ー前8世紀前半)、南ユダ王国(前10世紀ー前6世紀前半) (「列王記」、「歴代誌」) 北イスラエル王国のヤロブアム1世(在位926ー907年)はシケムを都としたが、北王国の王朝は比較的短命で、政変で王が殺害され激しく王朝が替わった。ヤロブアム1世は2代20年で、パシャ(前906−883年)も2代24年で、ジムリは7日で、前878年に出来たオムリ王朝は4代33年で、前845年に出来たイエフ王朝は五代98年で、シャルム(前747年)は1年内で、前747年のメナヘム王朝は2代11年で、ぺカ、ホシュアは一代で亡んだ。前926年から前721年に亡ぶまでの約200年間に19人の王が交代した。それに対して南ユダ王国ではダビデ王朝そのものは不動で、あくまで王朝内部から次の王がでた。ダビデ王朝は前1004年から前587年までの約400年間22代の王が交代した。王朝の変遷事蹟については煩雑になるので一切省く。それでも前926年から約350年間はイスラエル民族は王国としてまがりながらも存在した。

5、アッシリアの進出と北イスラエル王国の滅亡(前8世紀後半ー前7世紀) (「列王記」)
前8世紀前半まではイスラエル、ユダ王国がともに王国として安定した時代をおくることができたが、メソポタミア北方の大国アッシリアの西方進出によって太平の夢は破られた。北のアッシリアの進出に対して南のエジプトがシリア・パレスチナにさまざまな干渉を加え、イスラエル民族はこの2大超大国に挟まれて翻弄される運命を辿る。アッシリアのティグラトピレセル三世がシリア・パレスチナに遠征した。前737年に北イスラエル王国を倒し、北イスラエル民族の集団移住政策と、別の民族のイスラエルの地に移入政策を行った。北王国を構成していた10の部族は散逸して移住先の民族に吸収された。これを「失われた10部族」とよぶ。前721年の北王国の滅亡によって多くの難民が南のユダ王国に逃げ込み、さまざまな伝承が旧約聖書に伝えられた。南のユダ王国王ヒゼキアは表面上はアッシリアへの忠誠を誓った。前705年にアッシリアのサルゴン王の死去に伴う混乱に乗じてユダ王ヒゼキアは反乱を企てたが、エジプトの援軍も破れて降伏した。再びアッシリアに忠誠を誓ってユダ王国は存続した。この時期のアッシリアはサルゴン王朝の王の下で強大になり、前671年にはついエジプトまでを支配する真の世界帝国となった。ユダの王ヨシュア(前639―609年)はヤハウエ主義に基づく宗教改革は、アッシリアからの離脱と民族国家の再生を念願したものである。前7世紀後半にはさしものアッシリアも衰退を迎え、ヨシュアの改革も各地の民族が反乱を起こした時代を背景とするものだ。アッシリアの滅亡後、前600年ごろには帝国は4大国が分立した。イランから中央アジアを支配する「メディア」、メソポタミア・シリア・イスラエルを支配する「新バビロニア」、「エジプト」、トルコを支配する「リュディア」である。こうして南のユダ王国は「新バビロニア」によって前587年に亡ぼされた。

6、南ユダ王国の滅亡、バビロン捕囚(前6世紀前半) (「列王記」、「イザヤ書」、「エレミヤ書」、「エゼキエル書」) イスラエル・ユダ民族にとって前6世紀の百年間は他のオリエント諸民族以上に激しい受難期を迎えた。この時期に王国の滅亡。バビロニア捕囚、そしてパレスチナ帰還を体験する。支配者はアッシリアから、エジプト第26王朝、新バビロニア帝国、アケメネス朝ペルシャとめまぐるしく変わった。アッシリア帝国滅亡後、シリア・パレスチナの覇権を争ったのはネブガドネツァルの新バビロニアとネコ二世のエジプト第26王朝であった。前598年エルサレムを征服した新バビロニアのネブガドネツァルはユダヤ王ヤヨキンを捕らえてバビロンに移した(第1次バビロン捕囚)。この時点ではユダ王国は解体されなかった。ユダ最後の王ゼデキヤはエジプトの援助を頼んで反乱し、前587年にエルサレムはネブガドネツァルによって征服された(第2次バビロン捕囚)。ネブガドネツァルはエルサレムを徹底的に破壊し、神殿に火を放った。そしてユダをバビロニアの属州に編入し、ゲダルヤを総督に任命したが、反バビロニア勢力はこの総督を暗殺してエジプトに逃げた。前582年第3次バビロン捕囚があったとされる。アッシリアの占領政策と違って、新バビロニアはイスラエル民族を比較的まとまった形でバビロンに移住させ、エルサレムには他民族を入れなかった。こうして生き残ったイスラエル十二部族は旧ユダ王国のユダ部族だけとなり、彼らはユダヤ人と呼ばれた。王国の滅亡と捕囚という事態は、深刻な信仰の危機をもたらした。こうして民族の国家はなくなったが、ユダヤ人の信仰はユダヤ的生活習慣(安息日、割礼、食物規定)を中心とした律法の体系の中に離散した民族の同一性を保った。捕囚後の律法を中心とした宗教を「ユダヤ教」と呼び、捕囚以前の宗教「ヤハウエ宗教」と区別する。強力な新バビロニア帝国も100年を待たず、前539年にペルシャのキュロスによって亡ぼされた。

7、アケメネス朝ペルシャの支配(前6世紀後半ー前4世紀中) (「エズラ記」、「ネヘミヤ記」)
アケメス朝ペルシャ帝国の建設者キュロス二世(前559―530年)によってユダヤ人は解放(?)された。キュロス二世は徴税を除いて寛大な征服者であった。最終的に東はインダス川のインドから西はマケドニア、北はカスピ海、南はエジプトまでの大帝国となった。そして前538年にバビロン捕囚のユダヤ人を解放し、パレスチナ帰還と神殿再建を許した。シェシュバツアル総督を指導者としてユダヤ人は帰還して神殿再建に取り掛かった。実行したのは総督ゼルバベルとツァドク家の祭司ヨシュアであった。前515年に神殿は再建された。ペルシャの州制度のなかで、ユダヤは独立性は持たずに地方総督の支配下におかれた。ユダヤ帰還人の総督ネヘミヤはエルサレムの城壁の再建をおこない、総督エズラは神殿祭儀と律法を復活させ、律法教育にも尽くして「ユダヤ教の父」とも呼ばれた。ネヘミヤとエズラの活動で再編された帰還後のユダヤ人共同体はペルシャの支配下で、ユダヤ人の自己同一性を維持する宗教共同体として存続した。エルサレム周辺のイエフド地方に居住したユダヤ人は、北のシケムを中心とするサマリア人とは同じヤハウエ神を崇拝したが、「モーゼ五書」のみを聖典とするサマリア教団とは対立関係にあった。

8、ヘレニズム時代(セレウコス朝・プトレマイオス朝)の支配(前4世紀中ー前2世紀中) (「ダニエル書」、「マカバイ記」、「コレントへの言葉」、「ヨナ書」)
マケドニアはコリント同盟を統合してギリシャ的世界の統一を果たした。アレクサンドロス三世(在位前336−323年)は前333年シリアのイッソスの戦いでペルシャのダレイオス三世を退けシリアからエジプトを征服し、前331年ガウガメラの戦いでアケメネス朝ペルシャを亡ぼした。アレクサンドロス大王はさらに軍を東進させ前326年にはインドのガンダーラも征服し一代帝国の版図を広げたが、前323年熱病で死亡した。アレクサンドロス大王の広大な領土内の融合政策は文化面でギリシャ文明とオリエント文明との結合を成し遂げ、世界市民主義コスモポリタンの基になった。この文化をヘレニズム文化という。アレクサンドロス大帝国は前4世紀末にはリュシマコス朝トラキア、カッサンドロス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトのヘレニズム四大王国が成立した。かってのイスラエルは南北に分断され、北はセレウコス朝シリアに、南はプトレマイオス朝エジプトが支配した。パレスチナの地はこの両王朝の覇権に翻弄され、6度も「シリア戦争」が戦われた。第1次シリア戦争は前274−271年、第2次シリア戦争は前260―253年、第3次シリア戦争は前246―241年、第4次シリア戦争は前219ー217年、第5次シリア戦争は前202−198年に戦われついにパレスチナの地はセレウコス朝シリアの領土になった。そうするうちにポエニ戦争に勝った共和国ローマが西から進出してくるのである。ユダヤ人はペルシャ時代以降異民族の支配には慣れきっており、自分達の神殿礼拝と律法遵守を中心とした宗教生活が保障される限り反抗はしなかった。エルサレムの神殿の大祭司はツァドク家であり、納税と部族内の治安の責任を負った。前175年にアンティオコス4世が即位すると、セレウコス王国内のヘレニズム化を徹底して進め、ユダヤ教にヘレニズム化を受け入れるように逼った。前169-168年に第6次シリア戦争がおこり、アンティオコス4世はエジプトに侵入したが、ローマが介入して撤退を余儀なくされた。彼はその帰りにエルサレムを破壊し、多くのユダヤ人は殺されたり奴隷に売られた。アンティオコス4世はユダヤ教に対する寛容策を捨て、宗教弾圧を開始した。弾圧に対する反乱は前167年ユダのマカベアが起こして、シリア軍を破った。アンティオコス4世の死後東方政策からパレスチナが手薄になると、ユダはローマを後ろ盾にして反抗運動を続け、殆ど事実上の支配を回復した。前141年シモン大祭司はセレウコス朝の支配を終了させた。前587年のユダ王国滅亡後実に450年ぶりに独立国家として再生した。前30年にローマによる征服までを「ハスモン王朝時代」と呼ぶ。

9、ハンモン王朝時代・ローマの支配 ヘロデ大王(前141−前30年)
ユダヤ人はハスモン王朝のもとで一時的ではあるが事実上の再独立を果たした。ハスモン家の支配は大祭司という宗教的地位と王という政治的地位を兼ねる聖俗一体の政権である。抵抗運動の指導者がシリアの属王としてユダヤ人を支配する構図は宗教者の反発と正統性に疑義を生じるものであった。シモン(在位前141−134年)からヒルカノス(在位134―104年)において諸宗派内に対立が顕在化する。サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派、クムラン派と分かれていった。ハンモン王朝はヨタナン(在位前103ー76年)の戦闘力に指導され、戦いに明け暮れた時代であった。その版図は前100年ごろにはダビデ統一王国に匹敵するものになった。国内の宗派に対しては恐怖政治の独裁者として振舞ったので、ハンモン王朝内には内紛が広がり、ローマの介入を招いた。ヒルカノス二世とアリストブロス二世の兄弟戦争の間、セレウコス朝を亡ぼしたローマのポンペイウスが前63年にエルサレムに侵攻した。王制を廃止しローマのシリア総督スカウルスの支配下に置いた。ローマのポンぺイウスとシーザの権力争いにハンモン王朝の末裔が巻き込まれ、ユダヤの王ヘロデがローマの後ろ盾のもとにユダヤを支配するというイエスの時代となった。


2) 「文語訳旧約聖書 T 律法」(岩波文庫2015)

2-1) 創世記

創世記は50章(岩波文庫本で106頁)からなる。古代ヘブライ語によって記された、ユダヤ教、キリスト教の聖典で、イスラム教の啓典である聖書(旧約聖書)の最初の書であり、正典の一つである。創世記は「ベレシート」とはいわれ、「起源、誕生、創生、原因、開始、始まり、根源」の意である。日本の「古事記」の上巻である神話の時代に相当する。しかし古事記上巻の神話時代の記述は、曖昧でぼやーとしているが、旧約聖書創世記の記述は、恐るべき記憶力、人間関係の複雑さ、ノアからイスラエル(ヤコブ)までの系統の正統さへの執念深さは驚くばかりである。
第1章: 神が作り始めたものの順番は、一日目に天と地、光と闇、2日目に青の分割(空と水)、3日目に地と海、草と樹、4日目に昼と夜、日月を定め、5日目に水には魚、空には鳥、6日目には昆虫と獣、すべての生物を治める人を神の形に似せて創った。天・空・地のすべての物と草を食物として与えた。全ては善きものであった。
第2章: 神はすべてを創り終えて、7日目は安息された。エホバは神雨を降らせて土地の表面を潤した。土の塵をもって人を創り生霊とした。樹を土地より生ぜしめて生命の樹とし、善悪を知る樹となした。エデンの河は園を潤し、4つの川の源となった。ピソン川はハビラの地を潤し、ギボン河はクシの土地を巡り、ヒデゲル河はアッシリアの東を流れ、ユウラテ河である。神はエデンの園を人アダムに守らせ「善悪を知る樹の実は食うべからず」と固く戒めた。人は一人のときは善からずとして、アダムの肋骨から女エヴァを創った。2人は夫婦となり、裸体のままで恥じなかった。 
第3章: 尤も狡猾な蛇が女に囁いた。「あの樹の実を食べても死なないよ、あの実を食べると目が開け善悪を知ることができる」そこで女はその実を食べ、かつ夫にも食べさせた。すると自分が裸なることを知り、イチジクの葉でもって裳を作った。そして神の眼を恐れ身を隠した。神がアダムに何故隠れるかと問うと、アダムは樹の実を食べたことを白状した。神は約束を破った男と女に恨みを持ち、女には懐妊の苦しみを与え、夫に従うべきと決めた。そして食べ物は額に汗をして食を探し、死んで土に帰る運命を与えた。アダムは妻をエヴァと呼んだ。(全ての生の母という意味)神は彼らをエデンの園から引き出し、土を耕させた。
第4章: アダムとエヴァはカイン(土を耕す者)、アベル(羊を牧する者)の兄弟を産んだ。兄弟の仲が悪く神への貢ぎ物の羊をめぐって争いとなり、カインはアベルを殺した。神エホバはこれを知り、カインの土地は耕しても収穫物はできないし、おまえは放浪の民になるといってカインを追い出した。カインの裔は、エノクーイラデーメトサエルーレメクーアダ、チラと続いた。
第5章: アダム130歳で産んだ子はセツ、セツの裔はエノスーカイナンーマラハルモーセレドーエノクーメトセラーレメクーノアーセム、ハム、ヤペテと続いた。(このころのアダムの末の寿命は極めて長い、500歳、700歳、900歳はざらである。古事記の天皇の寿命と同じで、要は気が遠くなるような年月が過ぎ去ったということの文学的表現であろう)
第6章: エホバは人の悪がはびこり暴虐世に満ちるのを見て、人を創ったことを後悔した。そこで人やあらゆる生物を滅ぼそうと考えた。有名な「ノアの伝説」の始まりです。ノアは義人で正しき人・完全な人であったので、洪水を起こして生物を絶滅させるが、神はノアに、方舟を作りノアと3人の子ども(セム、ハム、ヤペテ)の家族だけを助け、動物はあらゆる種類のつがいの二匹だけを舟に乗せ、食物を積み込むように命じた。
第7章: 神は地上に40日間雨を降らし続け地よりあらゆる生物を根絶やしにした。洪水が起きた時ノアは600歳であった。方舟は、水の表を漂い150日間洪水はひかなかった。
第8章: 150日後に水は減り、方舟は7月17日アララテの山に止まった。10月に山々の頂上が姿を現した。それから40日経っても地面は乾かなかったが、ノアが鳩を放つと若葉を咥えて帰還したので水の引いたことを知った。翌年2月27日にノアらは方舟を出て、あらゆる動物を放った。ノアは祭壇を設けてエホバに貢物を捧げた。エホバは人と地を呪うことはないだろうと語った。
第9章: 神はノアの家族を祝福して「産めよ増えよ地に満ちよ、地球上の生物をすべてノアに与える。ノアの家族とその子孫と契約を立てよう」と言い、契約の徴として雲の中に虹を起こした。全地の民はノアの3人の子供らの子孫である。カナンの父であるハムは裸で寝ているノアの生殖器をみて2人の兄弟に告げ口をしや。これ故にカナンは呪われる存在となった。エホバはカナンを兄弟の僕になるべしと命じた。
第10章: ノアの寿命は950歳であった。ノアの子ヤペテの子孫は、ゴメルーマゴクーマデアーヤワン・・・であった。ゴメルの子孫はアシケナズーリパテートガルマ、ヤワンの子孫はエリシアータルシシ―ドダ二ムであった、これらから諸国の民は分かれて、方言と宗族および邦に従って住んだ。ハムの子孫はクシーミツライムープテ―カナン、クシの子孫はセパ、二ムロデで初めて権力あるものになった。二ムロデの邦の始まりはシナル、バベル、エレク、アッカデ、カルネであった。その後アッシリアに出て、二ネべ、カラ、レセンを建てた。ルデ族、アナミ族、レハビ族、ナフト族、パテロス族、カスル族・・が出た。セムの子孫はエラムーアシュルーアルパクサデールデーアラムであった。アラムの子孫はウズーホルゲテルーマンである。彼ら一族の住むところはメシアから東の山セパルに至るまで。
第11章: それまで全地は一つの言葉しかなかった。人々がシナルの地に住むようになって、レンガを焼く技法を憶え邑と塔を建て塔を天まで届かせる野望を抱いた。エホバこれを見て、一つの言葉で集まってことを行えば止めることができない。そこで彼らの言葉を乱し互いの言葉が通じなくなれば、これを阻止できるためこれをバベル(混沌)という。次にセムの末裔を述べる。ノアの子セムーアルパクサデーシラーエベルーベレグーリゥーセルグーオホルーテラである。テラはアブラム、ナホレ、ハラシを産み、ハラシはロトを産んだ。テラはカナンの土地にゆこうとして、アブラム、ロト、アブラムの妻サライを引き連れハランまで行ってそこに定住し200歳で亡くなった。
第12章: エホバの神はアブラムを祝福して「汝は私の示す地カナンにゆけ」といった。アブラムがハランを出た時75歳であった。アブラム、妻サライ、ロトを連れてカナンの地に至った。エホバはアブラムにこの地を与えることを約束し祝福した。アブラムは祭壇を設けた。カナンは飢饉のためアブラムはさらに南下してエジプトに移った。アブラムがエジプトに入る前に妻サライを妹と偽った。それは災難を避けるためであった。パロの大臣の推薦で妻はパロの家の召使となった。パロはアブラムに家畜を贈ったのでアブラムは裕福になったが、妻であることがばれて、パロはサライを妻にするつもりであったので大騒動となった。そしてアブラムはエジプトから追放された。
第13章: エジプトから追い出されたアブラムは妻とロトを連れて南に下り、べテルとアイの間の地に天幕を張った。そこにエホバのために祭壇を設けた。アブラムとロトの財産や家畜が多かったので別々に天幕と祭壇を設営した。アブラムとロトの家畜の牧者の間に争いがおこった。そこで争いを避けるためアブラムとロトは別々の道を行くことになった。ロトはヨルダンの低地を選らんで進みソドムに至り、アブラムはカナンの地に住むことになった。ロトが去った後エホバの神はアブラムに欲しいと思うところの土地を与えると約束した。そこでアブラムはヘブロンのマムレの林に住んだ。
第14章: シデムの谷を挟んで、4人の王の同盟軍(エラム、ゴイム、シナル、エラサルの王たち)が、5人の王の同盟軍(ソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイム、ベラの王たち)と闘った。ロトはソドムニ住んでいたので略奪され連れ去られた。このことをへブル人のアブラムに告げた。この時アブラムはヘブロンのマムレの林に住んでいたが、契約を結んでいたアモリ人ソドムの王と盟約をび援軍を得て、アブラムはエラムの王ケダラオメルの王の軍を打ち破りロトを奪い返した。
第15章: エホバの言葉がアブラムの夢に出て、かくいう。「我汝の楯なり、汝に賜物を与える」と。アブラムには子がなかったが、エホバは星の数だけアブラムの子孫は増えるだろうと約束した。エホバは牝牛、雄羊、山鳩、家鳩を貢に差し出せば、アブラムの願いと土地が与えられるといった。しかし400年間はイスラエルの民は他の国に仕え苦労するであろうともいった。エホバはアブラムと契約して言うには、エジプトの川から東ユフラテ河に至る土地を彼の子孫に与えると。この地はケニ人、ケナズ人、カデモ二人、ヘテ人、ペリジ人、レパイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地であった。
第16章: アブラムの妻サライは子を産まなかったので、アブラムに側女を与えて子女を得るように勧めた。エジプト人ハガルを選んでアブラヌに与え子を得た。男の子の名前はイシマエルとなずけた。妻サライと側女ハガルの感情のもつれからハガルは家を出たが、途中エホバの使いアテエルロイに諭され家に戻った。
第17章: アブラムが99歳の時、エホバが顕れていう「我は全能の神なり。我と汝の間に契約を立てよう。汝の名をアブラハム(衆多の人の父)と命名する。衆多の国民の父となるから。この契約は子孫との間の永遠の契約である。汝および子孫、その他の子どもも生後8日に「割礼」を受けるべし。妻サライはサラと呼ぶべし、サラの子どもを授ける男の子の名はイサクと呼ぶべし」と。イシマエルは多くの子孫を産み12の国主となろう。しかしエホバとの契約はサラの子イサクと立てるという。ときにアブラハム100歳、サラ90歳であった。
第18章: アブラハムがマムレの林に天幕を張っていた暑い頃、3人の使者が天幕の前に現われた。アブラハムは急いで足を洗う水と仔牛とパンを差し出してひれ伏して接待した。3人の使者がいうにサラに男の子が生まれると告げた。(旧約ではサラの受胎告知であるが、新約のマリア受胎告知と同じ場面である) そして使者はエホバの意図をアブラハムに伝えた。正しい道を歩むアブラハムは必ず強い国民となる。今ソドムとゴモラが騒がしいのでこれらを撃てという。アブラハムはエホバに尋ねた。正しい人も悪い人もすべて滅ぼすべきかどうかと。エホバは少数でも正しい人が居るならその邑は皆殺しにはしないというので、アブラハムは戦いに臨んだ。
第19章: 2人の天使がソドムに入り、ロトの家の前で勧められて家の中に招かれた。するとソドムの人々が家を取り囲み、二人の行方を追っているので差し出せと迫った。2人の娘を持つロトは窮地に陥った。天使は娘二人と家を出て山に逃げるように指示したが、ロトはこの村は小さいので逃げられないと拒んだが、天使らは後を守るので夜中にロトと娘はゾアル逃げた。日が昇ると神エホバは硫黄と火で邑を劫火に包んで焼き払った。ロトらはこうして救い出されたが、ゾアルを出て山の岩窟に隠れ住んだ。姉妹はこの地の者は正しい人はいないし、父は老いたので、酒を飲まして寝ている間に父と交わって子どもを得るように考えた。姉はモアブ(モアブ人の祖)を産み、妹はベニアミン(アンモン人の祖)を産んだ。
第20章: アブラハムはさらに南へ移動しゲラルに留まった。ここでもアブラハムは妻を妹と称したため、ゲラルの王アビメレクはサラを召し入れた。神はアビメレクの夢に現われて、サラに近づくと汝の命はなくなる。妻サラを帰せば命は全うできるが、さもなくば汝の一属は亡びるだろうといった。驚いたアビメレク王はアブラハムに問いただして、アブラハムに贈り物をしてサラを帰した。アブラハムはこのことを神に祈れば、神はアビメレク王一族を祝福したという。
第21章: アブラハムがエジプト人の女ハガルに産ませた子イシマエがサラの顔を見て笑った。サラは不愉快になってハガルとイシマエルを追い出そうとしたが、アブラハムはこのことを憂いて神の意見を聞いた。神は正妻サラのいう通りにするがいい、直系の世継ぎはサラの産んだイサクなのだからと諭した。アブラハムは食料を与えてハガルとイシマエルを去らしめた。ハガルらはエルシバの地に彷徨い水が尽きて子供が泣き叫ぶので困り果てていたところ、神が泉の地を見つけこれを救った。息子は成人して狩人となりエジプト人の妻を迎えたという。アブラハムとアビメレクの間に家畜の井戸をめぐる争いがあったので、アビメレク王はアブラハムと同盟の契約を結んだ。その契約の井戸をペエルシバと名付けた。アビメレク王と軍長ピコルは軍を収めてペリシテ人の国に帰った。アブラハムは長くペリシテ人の地に留まった。
第22章: エホバはアブラハムの信仰心を試さんと、息子イサクを燔祭の生贄に捧げるべしとモリアの森に来るように命じた。アブラハムは焚き木と火と刀をもって息子イサクを携え神の指定した森に入った。イサクは生贄はどうするのかという質問を父にしたが、父は神が用意なされるといってごまかした。燔祭の準備が完了してアブラハムはイサクを縛り上げ薪の上において刀で殺そうとした時天使が現れ、今汝が神を畏れることが分かった、生贄の羊は林の樹に吊るしてあるといった。こうして燔祭が執り行われエホバはアブラハムを祝福した。こうしてアブラハムはぺエルシバに留まった。アブラハムの兄弟ナホルの家系は、ミルカの間に子はウズ、ブゾ、ケムエル、ケセデ、ハゾ、ピルダシ、エデラフ、べトエルの8人であった。
第23章: アブラハムの妻サラが127歳で亡くなった。アブラハムは嘆き悲しみ、ヘテ人にこの地に妻を葬ることを許してほしいと願った。良い地を選んで墓を建てることをヘテ人は快く了解したので、アブラハムはゾハルの子エフロンの与えるマクベラの洞穴(カナンのヘブロンにある)を墓所としたい。エフロンもヘテ人の前でこれを与えると約束した。値は銀貨400シケルを払って墓所を買った。
第24章: 神が祝福するアブラハムも年を取ったので、僕に息子イサクの嫁を探すように命じた。カナン人から選んではならない、祖国に帰って親族の中の娘から探すようと言った。僕はメソポタミアのナホルの村に行き、水汲み場に集まる婦女に声をかけて、甕の水を飲ませてほしいと言うと気前よく水をラクダにも与えてくれた娘をこれこそ主人の息子の嫁だと思った。その娘はリベカといい、アブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子べトテルに生まれた娘であった。(22章参照)その娘に宿を借りたいと申し込むと娘は母の家に急いで帰り、兄ラバンに会わせた。ラバンはその僕のお世話をして、アブラハムの僕はアブラハムから仰せつかった役目を彼に語った。これを聴いたラバンとべトテルはエホバの神のいう通りリべカをイサクの嫁にすることに同意した。10日の余裕を置いてリベカと乳母とアブラハムの僕と従者は出発した。こうしてイサクはリベカを娶とった。
第25章: 妻サラが亡くなった後アブラハムは後妻を娶った。名はケトラ、産んだ子はジムラン、ヨクシャン、メダン、イシバク、シュワ。ヨクシャンの家系からシバ、デダンが生まれた。デダンの子孫はアッシュリ族、レトシ族、リウミ族である。ミデアンの子孫はケトラ族である。アブラハムの正統はイサクに受け継がれた。アブラハムの側女ハガルが生んだイシマエルの家系よりネバヨテ、ケダル、アデビエル、ミブサム、ミシマ、ドマ、マッサ、ハダテ、テマ、エトル、ネフシ、ケデマのイスラエル12氏族が出た。アブラハムは175祭で亡くなった。イサクはアブラハムの亡骸をマクベラの洞穴に葬った。神はイサクを祝福した。イサクはリベカを妻にして、双子を授かった。兄はエサウ(後にエドム)、後から胎を出た弟はヤコブと名付けた。ヤコブはエサウより家督の権を譲り受けた。エサウは家から去った。
第26章: この章はアビメレク王とアブラハムとサラの時代の話が、イサクとリベカの時代の話と重なっており、何か記憶に齟齬があったようだ。
第27章: この章の話はイサクの家督相続のことであるが、25章でエサウは家督に興味がなく弟ヤコブに禅譲したことになっているが、本章では妻リベカがヤコブに家督を継がせたいばかりに策略を用いたと異なったことをいうのである。イサクが老いて目が見えなくなって臨終の床にある時、リベカはイサクがエサウに家督を継がせる遺言する時に、エサウの代わりにヤコブにすり替えてしまうのである。こうしてイサクはエサウだと思い込んで家督相続を言い渡して亡くなった。エサウはヤコブを殺そうとしたが、リベカがヤコブをハランに逃がした。こちらの話の方がドラマチックでギリシャ悲劇を見るようで面白い。
第28章: イサクの息子ヤコブに嫁を取らせる話である。24章のアブラハムが息子イサクの嫁を取らせる話と、イサクが息子ヤコブに嫁を取らせる話と重なっている。話がパターン化していると考えられる。ヤコブは嫁探しにハランに向かったが、途中石を枕にして寝たところへエホバの神が現れこの地を汝に与えると祝福した。こうしてヤコブはルズという邑に神殿(ぺテル)を建てた。
第29章: ヤコブはさらに東に進み野に出て、牧羊のための石井戸に至った。そこに集まる人々らにナホルの子ラバンを知るやと問うと、その娘ラケルが羊と共にやってきた。ヤコブはラケルに一目ぼれをしたようだ。ヤコブはラバンの家に行き、1か月逗留した。ラバンは二人の姉妹を持ち姉は目の悪いレア、妹は美しいラケルという。ヤコブはラケルを欲いので7年間仕えた。ラバンは姉から先に嫁ぐのが慣例だといって、レアを差し出した。ラケルがほしければさらに7年間仕えることを条件とした。そして姉妹2人をヤコブに与え侍女をつけた。ヤコブはラケルを愛したが子が生まれなかった。神エホバがラケルの胎をみると産めない胎であった。レアが生んだ子はルベン、シメオン、レビ、ユダの4人であった。(女子デナを加えて5人)
第30章: ラケルは自分に子がないので姉レアを恨み、ヤコブに侍女ビルハを入れて子を産めば自分の子として育てるといった。ビルハがヤコブの子であるダンとナフタリの二人を産んだ。姉レアは産むことが終ったのでヤコブに侍女ジルバを差し出し、ガド、アセルを産んだ。レアの子ルベンが摘んできた恋茄をレアが食べてヤコブと寝ると子を孕んだ。イッサカル、ゼブルン、デナである。神はラケルを憐れんで子をもうけさせた、その名はヨセフである。そうしてヤコブは務めは終わったので、ラバンに故郷に帰ることを告げた。ヤコブが14年間増やし続けた羊より一定の部分を自分のものとした。その基準は、ヤコブの持つ羊は黒色、山羊は斑入りがヤコブに由来するからであった。
第31章: ところがラバンの子らはヤコブは父の財産を横取りしたと言いふらした。そこでヤコブは野にラケルとレアを呼び寄せ、神エホバがヤコブを導いているといい、汝らの父ラバンは約束を何回も破って20年間もヤコブを働かせた。神エホバは斑入りの羊はヤコブのものと言っている。見よ、山羊の群れはすべて斑入りであろうと言い聞かせた。ヤコブのいうことをラケルとレアは尤もだと思った。ヤコブは子供たちと妻らをラクダに載せ、自分の財産である家畜を従えて、カナンの地に居る父イサクのもとへ帰り路を急いだ。神の説得にも納得しないラバンは娘ラケルが家の神テラピムを持ち出したのを返せと迫り、ヤコブの天幕に乱入した。ヤコブは怒ってラバンと対決した。そこでヤコブとラバンは契約を結び、証として石の柱を立てた。これをラバンはエガルサハドタ(証しの塚)と呼び、ヤコブはギレアデとなずけた。そこを境界線として不可侵条約を結んだ。
第32章: ヤコブが帰り道で神の使者に会った。そこをマハナイム(二つの陣営)という。ヤコブはセイルの地エドムにいる兄エサウのもとへ使者を送った。この地を通して頂くためである。使者が帰ってヤコブに告げるに、エサウは武装兵400人でヤコブを迎え撃つつもりだと。ヤコブは財産を二つの隊に分け全滅を防ぐ一方、兄エサウへの贈り物(山羊・羊・ラクダ・牛・ロバ)を選び、兄の通行許可を願った。ここに不思議な相撲の話が挿入され、ベニエル(神の面)という地名の由来が語られる。意味は不明である。
第33章: エサウが400人を率いてやってきたので、ヤコブは仕え女とその子を前にし、レアとその子を次にし、ラケルと子ヨセフを後にして兄の前で7回伏して挨拶をした。エサウは彼が見た家畜の群は何のためかと問うた。ヤコブはこれは兄の恵みを得るための贈り物だと答えた。そこで兄を先頭に数人の道案内に立てて、家畜の群れを挟んでヤコブ家族はゆっくりとセイルに向かって進んだ。やがてスコテにおいて盧屋を立てた。カナンの地のシケムに至って天幕を張り壇を築いて「イスラエルの神の神」と名付けた。
第34章: エサウの一族ヒビ人のハモルの息子シケムがレアの娘デナをみて辱めた。シケムはデナを妻としたいと父ハモルに願い出た。ハモルはヤコブと相談して、シケムはデナを愛しているので結婚させたい、またここにいる間ヤコブ一族は我らの娘を娶っていいといった。ヤコブ一族は彼らが割礼を受けるなら一つの民として相互の婚姻を認める考えであった。ハモルとシケムに異存はなかったが、デナの兄弟であるシメオンとレビは剣をもって彼らの邑を襲い、ハモルとシケムを含む男子をことごとく殺した。そしてデナを奪い返した。ヤコブはシメオンとレビに、我々は小数であり、彼らは多数をもって我々を滅ぼすだろうといった。
第35章: ヤコブがエサウから逃げると時、神はヤコブにべテルに上って壇を築けと命じた。そこをエルベテルと名付けた。ヤコブがパダンアラムより帰った時、神はヤコブを祝して、ヤコブという名は捨て今後イスラエルという名にすべしといった。ヤコブがべテルからエラフタに至るまでに、ヤコブの妻ラケルが産気づき、難産であったがべノ二という男の子を得て、ラケルは死んだ。ヤコブはこの子をベニヤミンと名付けた。ラケルを葬ったところをべテレヘムという。ヤコブは合計12人の子ども持った。ヤコブはようやくマムレに到着し父イサクと面会した。その地はヘブロンである。イサクは年老い亡くなり、子エサウとヤコブがこれを葬った。
第36章: エサウの家系が記される。エサウはエドムである。エサウはカナンの女を妻とした。ヘテ人アダ、ヒビ人アホリバマ、イシマエルの娘バスマテを娶った。アダの子はエリバスで、アホリバマの子はエウシ、ヤラム、コラで、バスマテの子はリウェルであった。エサウとヤコブは双子の兄弟である。弟の地を離れセイル山に住んだエドムで、エドミ人の祖となった。エリパズの子はテマン、オマル、ゼホ、ガイム、ケナズである。リウエルの子はナハテ、ゼラ、ヤンマ、ミザである。エドムの先住民ホリ人セイルの子孫は、ロタン、ショバル、ジべオン、アナ、デシヨシである。イスラエルの子孫が率いる王国ができる前のエドムを治めた王は、べオルの子ベラーゼラの子ヨバブホシャムーハダデーサムラーサウルーバアルハナンーハダルであった。
第37章: ヤコブの家系が記される。ヤコブは父伝来の地カナンに住んだ。ヤコブと妻ラケルの子であるヨセフが17歳の時、側女ビルハ、ジルバの子らの悪事をヤコブに告げた。ヤコブがヨセフを深く愛するのも見て嫉妬から憎んだのである。ヨセフは夢の中で見た兄弟の順列を彼らに説いたためますます彼らはヨセフを憎んだ。父ヤコブ(イスラエルに改名)はヨセフに彼らの羊飼いの様子を見て自分い告げるように指示した。彼らは牧地シケムからドタンに移動していた。ヨセフがドタンに近づくと、彼らはヨせフを殺そうと企てた。彼らのうちルベンが血を見るのはいやだということで、穴を掘ってヨセフを捕まえ、エジプトへ行くイシマエル人の行商隊にヨセフ銀20枚で売った。ミデアン人はエジプトではパロの侍衛長ポテパルにヨセフを売った。ルベンが穴を見てヨセフが居ないことを知り、衣を裂いて血を塗り父ヤコブにヨセフが殺されたと報告した。老いた父ヤコブは深く悲しみ死にたいと漏らすほどであった。
第38章: ヤコブと姉レアが生んだ子のひとりユダの話である。そのころユダは兄弟を離れてアドラム人の地ヒラの近くに天幕を張った。カナン人の娘シュアの娘を妻とし、産んだ子はエル、オナン、シラである。ユダの長男エルはタマルという娘を嫁に取った。エルは神エホバに対し悪を行ったので神はこれを亡き者とした。次男オナンは妻の兄夫婦に子供がいないので、その妻と交わった。そのために神の怒りによって死亡した。ヤコブは兄の嫁タマルを寡婦として実家に戻し、シラが成人するまで待つことにした。しばらくしユダの妻が亡くなった。ユダはテナムというところで遊び女と間違ってタマルを交わり、その子ペレズ、ゼラを産んだ。
第39章: エジプトで売られたヨセフの話に戻る。神エホバがヨセフを祝福(ゴッド ブレス ユー)し栄える恵みをエジプト人の主人ポテパルにも与えたので、ヨセフは彼の近侍となりエジプト王国のために働いた。ヨセフが見目麗しいので主人ポテパルの妻がヨセフを誘惑したが、ヨセフは断った。すると主人の妻は逆恨みしてヨセフに襲われたと狂言芝居に及んだ。主人は怒ってヨセフを獄に入れた。神エホバはヨセフを恵み、典獄役人はヨセフを典獄の代人に出世させた。
第40章: エジプト王パロの臣である、酒人と膳夫が不正を働いて、ヨセフが典獄をしている獄につながれた。二人の罪人はある夜夢をみて、夢解きをヨセフに打ち明けた。ヨセフは、酒人は3日後に解放され、膳夫は3日後首つりに賭けられるという夢であった。3日後は王パロの誕生日の宴の日であった。
第41章: その2年後、王パロが夢を見て夢解きを博士に依頼したが誰も解けるものはいなかった。その時酒人の夢解きをしたへブル人ヨセフのことを思いだしパロに告げた。ヨセフがその夢は飢饉の周期を告げるものであるので、全国の食料を集めて蓄えるように王に提言した。そのとおり7年後に飢饉がやってきて備えがあったので国は滅亡を免れた。ヨセフは賢人と称せられエジプト全土の家宰となって王に次ぐ位置についた。ヨセフの名はザフナテパネアとなずけられ、祭司ボテバルの娘アセナテを妻とした。アセナテはマセナ、エフライムを産んだ。エジプト中の飢饉がますます激しくなると、諸国の人々がエジプトにやってきてヨセフより穀物を買うようになった。
第42章: この章で父ヤコブと息子ヨセフ再会の場面となる。ヤコブはエジプトに穀物があること見たので、生きるために10人の子ども達にエジプトへ行って穀物を買ってくるように命じた。ヤコブは妻ラケルの子でヨセフの弟ベニヤミンを災難を恐れてエジプトに派遣しなかった。その時ヨセフはエジプトの総督として、穀物の備蓄をすべての人に売る役に就いていたヨセフはやってきた兄弟を見て知っていたが知らぬふりをして荒らしく取り扱った。兄弟はヨセフのことは忘れて気が付かなかった。ヨセフは兄弟のことをスパイだといって3日間獄につないだ。3日目ヨセフが言うには、シメオン一人人質として置いて釈放し穀物を与えるが、末弟のヨセフを連れてきてスパイでないことを明かさないと人質シメオンは殺すといった。彼らはカナンの地に帰り、袋を開けるとその中に金が入っていた。ヤコブは、ヨセフはいないのでシメオンを殺すことになるのでお前たちは代わりにベニヤミンを取ろうとするのだろうといって泣いた。
第43章: カナンの地の飢饉は激しかった。エジプトから持ち帰った穀物も底をつき、ユダがエジプトに行き穀物を買いたいといえば、ヨセフは末弟を連れてこなけらばダメ、もし末弟が居ないならお前たちの顔を見たくないとぴって追い返されたという。イスラエル(ヤコブ)はお前たちは末弟がいるといって事態を難しくしているといって責めた。ユダは末弟ベニヤミンを連れていけば我々は生き延びることができるといって、礼物、返すべき金、そしてベニヤミンを連れてエジプトに行きヨセフの前に立った。ヨセフは家督に命じてヨセフの家に行き食事をとらせた。シメオンも同席した。そこにヨセフが現れ、弟ベニヤミンを見て涙ながらに歩み寄り、別室で焼けるばかりの親愛さでベニヤミンを抱いた。
第44章: ここでヨセフは父ヤコブを呼び寄せるために手の込んだ芝居を打つ。家督に命じて金と銀の杯をベニヤミンの袋にいれ、彼が帰途について村を出たところで検閲し、金と銀の杯が見つかると、盗んだのであろうと嫌疑をかけ再度拘束した連れ戻した。ヨセフは酒杯を盗んだ人は奴隷とするといい、ベニヤミンを人質にとってその事を帰って父に告げよと命じた。二人を失う父の悲しみを予測しての名演出であった。
第45章: ここまで冷静に芝居を打っていたヨセフは、ここに至って感極まりて、別室に入って号泣したという。我はエジプトに売られたヨセフなり、父は健在なるかと兄弟に問うた。兄弟は驚いて答えることが出来なかった。神が私をエジプト全土の宰相になした。お前たちはゴセンの地に住め、後5年は飢饉なのでここで命を養え、ここで見たこと、私が神の恵みによって繁栄していることを父に伝えよと言えば、ベニヤミン始め兄弟全部が涙が止まらなかった。ヨセフの兄弟が来たということは王パロに聞こえ、ヨセフに言った。カナンにいるヨセフの父の家族をすべて呼び寄せなさい。エジプトの穀物を与え、代わりに汝らの国の家畜を食べることができる。パロの命に従って彼らに車を与え食料を与えた。イスラエル(ヤコブ)は彼らのいうことを聴いて、私は満足した、死ぬ前に往って我が子ヨセフを見たいと。
第46章: ヤコブは他のものと旅立ち、ベエルシバにおいて神エホバに犠牲を捧げた。その夜幻視(異象)が現れ、ヤコブを呼んだ。神はヤコブがエジプトに下るのを祝福し、汝を導くという声を聴いた。イスラエル(ヤコブ)とともにエジプトに下った者の名前を列記する。
ヤコブの12人の子どもたち、長子はルベン、ルベンの子はヘノク、パル、ヘゾロン、カルミ
シメオンの子はエムエル、ヤミン、オハデ、ヤキン、ゾハル、シャウル レビの子はゲルション、コハテ、メラリ
ユダの子はエル、オナン、シラ、ベレズ、ゼラ
ベレズの子はヘズロン、ハルム
イッサカルの子はトラ、ブワ、ヨブ、シムロン
ゼブルンの子はセレデ、エロン、ヤリエル他合計33人
カドの子はゼポン、ハギ、シュニ、エゾボン、エリ、アロデ、アレリ
アセルの子はエムナ、イシワ、イスイ、ベリア、ヘベル、マルキエル他合計16人
ヤコブの妻ラケルの子はヨセフ、ベニヤミン、エジプトで生まれた子はマナセ、エフライム
ベニヤミンの子はベラ、ペケル、アシベル、ゲラ、ナアマン、エヒ、ムッピム、ホパム、アルデ他合計14人
ダンの子はホシム
ナフタリの子はヤジエル、グニ、エゼル、シレム他合計7人
ヤコブと一緒にエジプトに下った人の数は66人、エジプトで生まれた人も入れて合計70人であった。彼らはヨセフに導かれて牧羊の地ゴセンの地に住んだ。エジプトは農業国であり牧羊の人は穢れているという考えであったので、カナンの地から来たヤコブ一族の将来は決して順風ではなかった。その矛盾が後に出エジプトにつながるのである。
第47章: ヨセフはエジプト王パロに、ヤコブ家と家畜が無事ゴセンの地に到着したことを報告し、兄弟の5人はパロにまみえた。パロは彼らの業を問うと、兄弟は家系は牧者でありエジプトに牧羊できる土地を請うた。パロはヤコブの齢を問うた。ヤコブは130歳になり目も弱くなりましたが、まだあの世へ行く歳ではありませんと答えた。そこでパロはヤコブ一族にラメセスの地を与えた。エジプトとカナンの地の飢饉は続いて国力は弱った。穀物を買うために、エジプトの人々は穀物の種や田地をヨセフに売った。こうしてヨセフはエジプトの田地をことごとく買い取り、王パロの所有とした。そして人々を境界から町に移した。ただ祭祀は国の給与で生きているので家・田地を売ることを禁止した。ヤコブがエジプトの地に居ること17年となり、147歳で亡くなるときエジプトから先祖の土地に葬ることを願った。
第48章: ヤコブの病が重くなったので、ヨセフは子マナセとエフライムを連れてヤコブを見舞った。ヤコブは床に座って神がカナンの地ルズにてヤコブを祝したことを述べ、ヨセフの子マナセとエフライムをヤコブの子にして神の家系を相続させたいと申し出た。ヨセフは当然長男のマナセにと思ったが、ヤコブはエフライムの頭に手を当て祝福した。こうして相続の序列が決まった。
第49章: イスラエル(ヤコブ)は家族を全員集めて遺言を述べた。ルベンは乱暴のため、シメオンとレビは暴虐のため、イスラエルの中に追放する。ユダは勇敢であり皆の尊敬を集めているので、国を任せ法の番人とする。ゼブルンは海洋族になり海岸地帯を領有しシドンまで支配する。イッサカルは牧羊の産業を起こし国を富ませ国民となる。ダンはイスラエルの他の氏族のように憲兵となれ。ガドは軍人となれ。アセルは農産物生産に励め。ナフタリは預言者となれ。ヨセフは国を富ませ悪者を懲らしめ神の導きにしたがって繁栄するだろう。ベニヤミンは狩猟者になれ。彼らはイスラエルの12の支族となる。私の遺骸はエフロンの洞穴に先祖とともに葬れ。そこはアブラハムが所有した墓場である。アブラハムと妻サラ、イサクと妻ベカ、レアが眠っている。
第50章: 医者の塗る薬によってヤコブは40日生き永らえ亡くなった。70日の哀哭の日が過ぎ、ヨセフは王パロの赦しを取って父を葬るため、家族・牧畜をゴセンに残してカナンの墓に上る旅に出た。車や騎兵がヨセフにそい大きな隊列であった。彼はヨルダンの外にあるアタデに至った。カナンの人はエジプト人が嘆くのを見て、そこの名をアベルミツライムと呼んだ。ヤコブの子らはマクペラの畑にある洞窟に亡骸を葬った。兄弟はヨセフに犯した罪を謝罪し許しを請い、ヨセフの僕になることを誓った。ヨセフは父の家族とエジプトに住み110歳で亡くなった。ヨセフはエジプトに埋葬された。

2-2) 出エジプト記

出エジプト記は40章(90頁)からなる。モーゼの律法と契約したイスラエルの民の受難の原点を記す。
第1章: イスラエル(ヤコブ)一族70人がエジプトに移住して以来、当時の人はすべて死に絶えたが、イスラエルの子孫は栄え国に満ちた。すでにヨハネのことを知らない新しいエジプトの王の時代となり、イスラエル一族の繁栄を見て恐れをなし、彼らは賢くいつエジプトに背いて国から出てゆくかを心配した。そこで彼らに重税をかけ苦しめたが、イスラエル一族は苦しいながらますます強くなった。エジプト王は産婆のシフラとブワに命じて、へブルの婦が子供を産んだら男の子はすべて殺せといったが、産婆は王の命令を聞かなかった。エジプト王(パロ)に申し開くに、へブルの婦は強く産婆の来る前に子を産んでいるという。これには神の恩がはたらいていたのだ。そこでパロは男の子が生まれたら川に投げ入れよと命じた。
第2章: ここにレビの家の女男の子を生んだが、この子を水が入らないよう樹脂を塗った箱に入れて川に流した。その子の姉が行方を追ったが、王パロの女が水浴びをしている所に流れ着き拾われた。姉はパロの女に養子にしたいなら乳母が必要と言って、その子の母を乳母として養育費を貰って育てた。この子が成長してパロの女のところに連れて行った。その名をモーゼと名付けた。モーゼが成長してある時イスラエル人がエジプト人に鞭打たれるの見て、そのエジプト人を殺して埋めた。王パロはこのことを聞いて、モーゼを殺さんとしたが、モーゼは逃げうせミデアンの地に隠れ住んだ。ミデアンの祭司に7人の娘がいて羊に水をやっていたが、牧羊者に追い払われのでモーゼは娘らを助け羊に水を与えた。娘らは父リウエルに報告したら、彼を呼んで御馳走しなさいといった。モーゼは祭司の家に住むようになり、その娘チッポラを妻とした。男の子を生んだのでゲショムと名付けた。イスラエルの子孫の労苦を嘆き叫ぶ声を聴いて、神エホバはアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を記憶していたのでイスラエルの子孫を認識するようになった。
第3章: モーゼは羊の群れを牧って神の山ホレブに入った。エホバの使者が棘の火炎より現れるのを見て、「モーゼよモーゼよ」と呼ぶエホバの声を聴いた。我は汝の父アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神なりという。(ここでエホバとは家の神、一族の神であることがわかる)エジプトに居る我が民の苦しみを知り泣き叫ぶ声を聞く、我下りてエジプト人の手から救い出し、カナン人・ヘテ人・アモリ人・ベリジ人・ヒビ人・エブス人のいる「乳と蜜の流る地」へ連れ戻そうと思うと神は言った。汝モーゼよエジプトより導きい出すとき汝神に仕えよという。我は全能なり、イスラエルの長老たちエジプト王のもとに行き、へブル人の神エホバのために犠牲を捧げることを許せといえ、エジプト王が許さないときは、エホバがエジプトを撃つ、その間に逃れることができる。
第4章: モーゼが答えて言う。イスラエルの民は私を信じないし、エホバ(唯一神ヤハウエ)が私に現われるわけがないというだろう。そこで神はモーゼに杖を与えて、それがヘビに変わるしまた元の杖に戻る奇蹟を起こさしめ、神がモーゼに現われたことを信用させようという。また手を懐に入れると手がライ病になって晴れ上がり、また懐に手を入れると元の皮膚になる奇蹟を見せた。それでも信じないなら川の水を地に注ぐと血となる奇跡を示した。それでもモーゼは私は口が重いので、誰か使者をつけてほしいというので、神はレビ人アロンをモーゼの口に代わる人とす、汝モーゼは神に代わる人になれと命じた。そこでモーゼは杖をもって奇蹟を行った。モーゼはアロンとともにイスラエルの民をエジプトから去らしめ、モーゼに従うように長老に諭した。モーゼがエホバから言われた奇蹟をすべて行うと、民はモーゼを信用し、これに拝した。
第5章: イスラエルの民の信を得た後、モーゼとアロンはエジプト王パロに面会して、民をエジプトから去らせることを懇願した。しかしパロは我はエホバを知らない、だからイスラエルの民を解放することはできないといった。またパロに、荒野においてエホバの神を3日間祀ることを請うたが、これも拒否され逆に民は怠け者だとして民の労働の負担を重くした。かえって民を苦しめることになって、モーゼは神に訴えた。モーゼという人の人格は、とにかく泣き言をいい、困難を先に憂うる人であり、エホバをいつも怒らせ困らせる人である。
第6章: エホバはモーゼに、私は汝らを我が民とし汝らの神となる、汝ら二人(レビ人モーゼ、アロン)はエジプト人の重荷の下から民を救い出すことである。モーゼはイスラエルの人が言うことを聴かないので困っていると訴えた。ここで「創世記」第46章に述べたイスラエル(ヤコブ)の12人の子の系図の中でレビ族の系譜が述べられる。レビの子ゲルション、コハテ、メラリの家は世が移って、ゲルションの子リブ二、シメイ、コハテの子はアムラム、イズハル、ヘブロン、ウジェル、メラリの子はマヘリ、ムシである。アムラムの子はアロンとモーゼ、イズハルの子はコラ、ネペグ、ジクリ、ウジェルの子はミサル、エルザパン、シテリ、アロンの子はナブダ、アビウ、エレアザル、イタマル、コラの子はアッシル、エルカナ、アビアサフ、エレアザルの子はピネハスである。神エホバはモーゼとアロンにイスラエルの子孫をエジプトの地から導き出せと厳命した。
第7章: こうしてモーゼは神エホバの代理、アロンはモーゼの預言者として活動を始めた。モーゼは神エホバの命じることを述べ、アロンはエジプト王パロの説得にゆくべしという。この時モーゼ80歳、アロン83歳であった。モーゼとアロンはパロの前に出て、杖を投げて蛇にする奇蹟を行ったが、パロのお抱え法術師もその秘術はできた。次に川の水を血に変える奇蹟を行いエジプト中の河川は血なまぐさくなり魚は住めなくなった。さらに湖水の水も血に変えたので人は水を飲むことができなかった。しかしパロは心を頑固にしてモーゼのいうことを聴かなかった。
第8章: 次にエホバはエジプト王パロに嫌がらせ作戦を開始し。第1蕃は蛙をエジプトの全土にばら撒くこと、第2蕃は蚤をばら撒くこと、第3番は虻をばら撒いた。困ったパロはモーゼとパロンを呼びつけ、国の中でエホバの神に犠牲をささげることを許すといったが、エホバのいうには異教の地で祭りはできない。3日荒野を歩いたところでで祭りを行うとパロに伝えよ。パロは遠く離れたところはダメだということで、心を頑固にしてイスラエルの民を去らせることはしなかった。
第9章: 神はモーゼに告げて、パロに話せ、イスラエルの民をエジプトに拘留し続けるなら、神エホバはエジプトの家畜を疫病で殺すと。翌日エジプトの家畜は1匹残らず死んだ、それでもパロは拒み続けるので、次に神は竈の灰を一つかみ播いたら、エジプト全土に拡散し人と家畜は腫れものにかかるだろうと予言した。しかしパロはイスラエルの民を解放することを拒んだので、次に雹を降らしてこれに当れば死ぬといったが、エホバを信じないエジプトの人は家畜や人を屋内に避難させなかったので死んだ。イスラエルの子孫が居るゴセンの地には雹は降らせなかった。これによってパリはようやくエホバのいうことを信じてイスラエルの子孫を解放すると誓った。モーゼが杖を空に伸べると雹は止んだ。しかしパロはまた心を翻し、頑固にイスラエルの民を解放することを拒んだ。
第10章: 神エホバとモーゼ、アロンの共同嫌がらせ作戦はパロとの根比べとなった。次の手はモーゼの杖の合図で蝗の大軍を国に侵入させた。これまでの作戦で相当数の家畜や人が死んだエジプトに最後のローラー作戦である。蝗は全土の穀物の草木を食い尽くした。これで参ったパロはモーゼとアロンを呼び出し白旗をあげた。モーゼが蝗を退散させると、パロの心は又翻って彼らの要求を拒否した。そこで今度はモーゼが杖をあげるとエジプトの国は暗黒となった。ここにおいてパロはモーゼに要求を承認すると約束した。二度と顔を見たくないのはお互いさまで、とにかくモーゼ達にエジプトを去ってほしかったのである。しかしそのあとパロはまた拒否した。
第11章: しかしまだモーゼとパロの駆け引きは終わっていなかった。パロが拒否するたびにエジプトの災難が増えていったのである。エホバとモーゼの作戦会議でエジプト人の長男皆殺し作戦であった。エジプト中に子を失った泣き叫びの声にも拘わらずパロは頑なに拒否した。
第12章: エホバは今月を正月となし、15日後の逾越祭を設定した。この節はイスラエル人にとって忘れてはならない民族受難の日である。その逾越祭のやり方を細かく記述する。まず正月は人の数に相当した子羊を捧げる。これを14日間守りおくこと。犠牲を殺してその地を家の門の柱と鴨居に塗ること。その夜に肉を必ず焼いて食うこと。種を入れないパンを焼き苦菜を添えて食うこと。イスラエルの民の家の門に血を塗るのは、エホバがエジプト人の長子を皆殺しにするので、間違われないように徴をつけヤコブにやり過ごして(逾越)もらうためである。14日から21日までの7日間は種を入れないパンを食らうこと。種(発酵)させないパンを食らうのは、急いでエジプトを追われた記憶を記念するためである。第11章と一部内容が重複しているが、着るもの食物もなく逃げる際にエジプト人のものを奪えとヤコブはモーゼに命じた。こうしてラメセスからスコテに逃げたイスラエル人は男60万人であった。イスラエルの民がエジプトに捕えられていた期間は430年であった。
第13章: モーゼはイスラエルの民に、エホバが導いてエジプトから出た日(アビブの月)を忘れてはならない、エホバが示した礼式を守れといった。汝らにカナンの地を与えたエホバは、牡牛を好まれる。この故初めて生まれた牡は犠牲に捧げるべし。こうしてカナンの地を避けて紅海の荒野からでたイスラエルの隊列は、昼夜兼行でスコテから進みエタムで天幕を張った。
第14章: 神エホバはモーゼに作戦を指示した。ミグドルと海の間のピアヒロテの前のバアルゼポンで海に向かって天幕を張れ、エホバがパロの心を頑なにするので、パロの軍勢が必ずイスラエル人の後を追ってやってくるだろう。そこで背水の陣で目にものを見せてやろうという。パロは戦車600輌とエジプト中の軍勢をピアヒロテの前に集結させた。パロとモーゼの口合戦のあと、モーゼが杖を高く上げると東風がやみ海は陸地に変わった。イスラエルの民が海の中の乾いたところを進むと水は両側に垣をなし、イスラエル人が通り過ぎると海は閉じていった。ここにパロの軍勢は海に飲み込まれ、イスラエルの民をエジプト人から救った。ここにおいて民はエホバを畏れエホバと僕モーゼを信じた。
第15章: モーゼおよびイスラエルの人々はエホバに歌を捧げた。「エホバは我が力なり、エホバは救いなり、彼は神なり・・・」 アロンの姉なる預言者ミリアム鼓を打って婦たち皆従いて踊る。こうしてモーゼ紅海を渡ってシュルの廣野に入り3日歩んで水が見つからなかった。メラの水は塩辛く飲めなかった。エホバが1本の木を水に投げ入れると水は甘くなった。こうして民はエリムにいたって水を得て天幕を張った。
第16章: イスラエルの民はエリムを発って、エジプトを出て2か月半にシンという曠野に着いた。ここでイスラムの民よりモーゼとアロンに向かって不平不満が噴出した。エジプトに居た時は肉やパンを食べられたのに、エホバは我らを導き出して飢え死にさせる気かという。その民の声を聴いたエホバはモーゼに、普段の2倍の量のパンと肉を与えよう、彼らが我が律法に従うかどうかを見ようといった。ところが民は食料が多すぎるため食べ残しを腐らせる始末であった。安息日には食料配布は無い、余分の食料は蓄えて置くべしというエホバの命に従い、マナという菓子を保存食とした。イスラエルの人が生活できる地に至るまでの40年間マナを食べたという。
第17章: イスラエルの民はシンの曠野を出てレピアムに天幕を張ったが、この地には飲む水がなかった。又民はモーゼに向かって石をもって打つがごとく不平をいった。エホバはモーゼに、ホレブの磐の上に立って磐を打てば水が出ると教えた。その地をマッサと呼ぶ。この時アマレクがイスラエルの民を襲った。モーゼはヨシュアに人を選んで明日アマレクと戦へと命令し、モーゼとアロン、ホルは丘の頂にたち手をあげてイスラエルを勝利に導いた。
第18章: モーゼの舅にあたるミデアンンの祭司エテロが、モーゼがイスラエルの民を導いたことを聞き及び、モーゼの妻チッポラと二人の子どもを連れてやってきた。子の名はゲショルムとエリゼルである。エホバを褒め称え、燔祭と犠牲を持って、イスラエルの長老らも集まって神の前で食した。エテロはモーゼが一日中民に執政するところを見て、モーゼが民を裁く労が重く体が持たないだろうと心配して提案をした。民の長を決め行政と組織を整備することであった。10人、50人、100人、1000人の司を決め、常は彼らが小事を捌き、大事はモーゼに報告することである。つまり国家の行政の体制である。
第19章: イスラエルの民がエジプトの地を出てから3か月が過ぎて、シナイの曠野に至って天幕を張った。山よりエホバはモーゼを呼んでいった。汝イスラエル(ヤコブ)の家に、エホバのいうことを聴き我が契約を守るならば汝らは我が宝になり、汝に全土を与える。汝は祭司の国になり聖なる民になることをイスラエルの民に伝えよと。モーゼはイスラエルの長老を集めてエホバの言葉を伝えた。エホバは3日後シナイ山に降りるので、民は衣服を改め、山に上らず境で待て、ラッパを長く吹き鳴らしたらモーゼとアロンだけは山に登るべしといった。
第20章: モーゼはエホバの言葉を聞いて、山を下りイスラエルの民に次の神の言葉を伝えた。神この一切の言葉を伝える。我は汝らを奴隷の家のエジプトから導き出したものである。
@ 汝は我以外を神としてはいけない。
A 汝何の偶像も彫むべからず。これを拝むことを禁じる。
B エホバは妬み深い神なので我に反意を示すものには、3・4代憎む。我を愛し戒めを守るものには千代に恵みを施す。神エホバの名をみだりに口にしてはいけない。罰をあたえる。
C 安息日は潔くし、何の業もしてはいけない。
D 汝の父母を敬え。汝に与えた地において命を長らえるためである。
E 汝殺すなかれ。
F 汝姦淫するなかれ。
G 汝盗むなかれ。
H 汝隣人に虚妄の証言をしてはいけない。 
I 汝隣人の家を貧るなかれ、隣人の妻、財産、所有物を貧るなかれ。
さらにエホバがモーゼにいうことは、銀の神も金の神をも造ってはいけない。土の上に壇を築きその上で燔祭と酬恩祭、犠牲をそなえるべし。石の壇を作るなら切石、鑿を用いてはいけない。壇の階より登ってはいけない。
第21章: 前章は「モーゼの十戒」と言われるものであるが、エホバが述べた民の前に立つ律法(道徳律、刑法、民法、商法に相当する)の具体例を次の3章に述べる。雑多にわたるので箇条書きにして記す。第21章は殺人・傷害などの刑法、奴隷の処分に関する民法・商法に関する事例集である。
* 僕を買うときは6年間の年季奉公とし、7年目には釈放しなければならない。独り者なら独りで、妻が居たなら妻もともに釈放する。主人がこれに妻を与え子どもが出来た時はその子は主人のものである。もし僕が釈放はいやだというなら、士師の裁きを得て証しとして僕の耳に錐で穴をあける。そうすればいつまでも使うことができる。
* 人が娘を売って婢とするときは、僕として釈放はしない。女が主人の気に入らないときは別に売ることはできる。そうでないなら女を異邦人に転売してはいけない。息子に与えるときはこれを女子として扱え。息子に娶ることがっても、婢には衣食を与え、セックスは断絶してはいけない。
* 人を撃ち殺した者は殺されるべし。故意ではなく神に仕える者を殺したものは、駆け込み場所に逃れることができる。隣人を謀って殺した場合は殺されるべし。人をかどわかした者は殺されるべし。
* その父、母を罵る者は殺されるベし。人と争い相手を死に至らない程度の怪我を負わせた者は赦される。しかし傷が癒えるまでの生活費は償う。主人が杖をもって僕あるいは婢を撃って死なしめたときは罰せられる。
* 争って妊婦を撃ちその子を堕胎させたとき、その夫の訴えにより裁判を受ける。命には命をもって贖い、目には目をもって贖い、手には手を、歯には歯を、足には足を、傷には傷をもって贖う。
* 僕あるいは婢の一つの眼(歯)を撃って潰したら釈放しなければならない。
* 牛が人を殺したら、その牛を必ず石にて撃ち殺す。ただしその牛の所有者には罪はない。人を襲う癖のある牛を忠告があったにもかかわらず放置すれば、その牛は殺されその主も殺される。牛が僕あるいは婢を衝いたなら銀30シケルを払うこと。
* 穴を掘って覆わなかったことで、牛、ロバが穴に落ちたら、穴の持ち主は家畜の所有者に賠償金を払う。家畜が死んだならそれは穴の持ち主のものとなる。
* 2匹の牛が片方の牛を衝き殺したならば、二人の牛の所有者は生きている牛を売って、その価を2分する。死んだ牛も2分する。
第22章: 本章は盗みの刑法、民法、宗教、国際法に関する事例である。 
* 人の牛・羊を盗み殺し売るときは5倍返しで賠償する。盗人が討ち入るのを殺しても、血で贖う必要はない。盗まれた家畜が生きているならば2倍返しで贖う。
* 人の畑に家畜を放って畑のものを食わせた場合、自分の畑の収穫物で贖う。火が飛んで穀物や田畑を焼いたなら、火を焚いた者は贖うべし。
* 人が物や金を人に預けて盗まれたときは、盗人が見つかれば2倍返しで賠償させる。盗人が現れないときはその家の主を裁判所において吟味し、どう見ても咎めがない時は法官の裁定による。
* 家畜を隣人に預けて、家畜が死ぬか傷つけられるか盗まれたとき、証人がいないならば、神に誓って隣人が主張するならそれを承認する他は無く、隣人は罰せられない。しかし盗まれたなら隣人は所有者に償う。隣人より借りた人が傷付けられたり殺されたとき、所有者がその場にいなければ隣人が償うべし。
* いいなずけの居る娘と寝たならば、贈り物をしてその娘を妻とすべし。相手の父がこれを拒むならば、慰謝料を支払うこと。
* 魔女は殺すべし。家畜を姦す者は殺すべし。
* エホバ以外の神に生贄を捧げるものは殺すべし。異国の人を圧迫し苦しめてはいけない。無法に苦しめたときはエホバは汝らを殺す。
* 神を罵ること、民の司を呪うことは許されない。神には犠牲と祭りを行うこと。
第23章: 本章は道徳律、エホバの宗教律に関する事例集である。
* 偽りの風説を言いふらしてはならない。悪人と手を組んで人を陥れる企みに組してはいけない。
* 汝の敵の家畜が迷い出て保護したら、持ち主に必ず返すこと。善良な人が倒れていたらこれを助けて荷を持ってあげなさい。
* 貧しい者が訴訟をしたとき、その判決を曲げてはいけない。正しい人と罪なき者を殺してはならない。賄賂は人の目をくらまし正しい人の言葉を曲げるもの。賄賂を受けてはならない。
* 6年間は耕して収穫しなさい。第7年目は休耕地にすること。また6日間働いて7日目は休むこと。家畜、僕あるいは婢を休ませ息をつかせなさい。
* 神のいうことに配慮すること。他の神々の名を称えてはいけない。
* 年に3回神の節筵を守り、無発酵のパンの節礼を守ること。収穫および収蔵の節筵を守ること。汝生贄の血は種入りパンとともに捧ぐべからず。 
第24章: エホバよりモーゼにお呼び出しがかかった。汝はアロン、アビウ、ナダブおよび70人のイスラエルの長老と一緒に来たれ、ただしモーゼを除いて皆ははるか遠くから拝むべし、モーゼ一人エホバに近づくことができる。モーゼは翌日朝早く山のふもとに壇を築き、12のイスラエル支流の柱を立て、燔祭を献じて牛をもって酬恩祭を供えた。ウシの血の半分を鉢に入れ壇の上に注いだ。契約の書を民に聞かせた。長老たちは遠くからイスラエルの神を見た。6日間雲が山を覆い、7日目にエホバが雲の中からモーゼを呼んだ。モーゼ雲の中に入り40日間山に籠った。ここにおいてエホバは律法と戒めを書いた石板を与えた。
第25章: 第25,26,27章は聖所(神殿)の構造や器具について詳細な規則を記述している。この章は祭壇、礼拝所の実に細かい規則を述べる。神はイスラエルの民より献物を取ることをモーゼに命じた。献物とは金、銀、銅、染色した糸、麻、山羊毛、雄羊の皮、合歓木、灯油、塗膏、香料、胸牌に嵌める玉である。神のために聖所を作るべし。幕屋の様式、器具の様式を定めその中に神は宿る。契約書を入れる箱は合歓木をもって作る。箱の長さ、幅、高さを定めた。そして純金を持って箱を覆うこと。贖罪所をつくる。贖罪所の中央に契約の箱を置きその両側に大きな翼を持つケルビムを二つ置くこと。ケルビム寸法は定めの通り(省略)。金を持って2つのケルビムを作り贖罪所の両側に置くべし。その中央から神はモーゼに言い伝えることを語りかける。合歓木をもって供物をささげる机を作れ、寸法は定めたとおり。純金で机を覆い、金の縁を作る。皿、匙、杓、酒杯をおき、常にパンを供えよ。純金を持って灯台を作れ、台座は花模様とし6つの枝をつけ、7つの燈火とする。
第26章: この章では幕屋の様式についのて規則を述べている。幕屋のために10の幕を作ること、麻の撚り糸と染色された糸で幕を作りケルビムを織り出す事。幕寸法は定めた通りに作り連ねて5枚づつ2組の幕を作る。一組の縁は50枚の青色の襷をつける。幕の蓋いには山羊の毛で幕を作る、寸法は定めた通りに。それには銅の輪をつけた50の襷をつける。合歓木で幕屋の竪板を作る、寸法は定めた通りに。南北の方には各々20枚の板を作り、西の方には6枚の板を使用する。合歓木で正面に5本の横木を作り、合計15本の横木を作る。青紫紅の糸および麻で幕を作りケルビムをその上に置く。金をかぶせた4本の柱の上に幕を掛ける。また青紫紅の糸および麻の糸で帷を織り幕屋の入り口に掛ける。帷を掛けるため合歓木で5本の柱を作り金をかぶせる。
第27章: この章では壇の様式について述べる。合歓木でもって壇を造れ、寸法は定めの通り。4隅の角には銅をかぶせる。灰を受ける壺、鉢、火鼎を造れ、器は皆銅で作るべし、銅で金網を作り壇の中ほどの縁の下におく。南側に幕屋の庭をつくれ、寸法は定めの通り。細布の幕を掛ける柱の数は20本、座は銅、鉤・桁は銀で作れ。幕の寸法と枚数は定めの通り。幕屋には燈火を欠かせるな、アロンとその子孫がその燈火を管理すること。
第28章: 第28、29、30、31章はアロンとその子孫の祭司職に就いて述べる。この章は祭司アロンの衣裳についての規則を述べている。エホバはモーゼの兄弟アロンとその子ら、ナダブ、アビウ、エレアザル、イタマルを我に仕える祭司とすると言明した。
第29章: 祭司職アロンの務めについて記述する。若い牡牛と2頭の山羊を取り、無酵パンに油を混ぜた無酵菓子、無酵煎餅を取り一つの篭に入れる。アロンの子らは集会の幕屋の入り口で水を持って浄めること。服を脱いで明衣エポデおよび胸牌をアロンに着せ、エポデの帯を締めさせる。首には頭巾をかぶらせ聖なる金の板を戴かせそこへ灌油を注ぐ。燔祭(火祭)のやり方は以下のごとし。集会の幕屋の前にて牡牛を殺し、牡牛の血を取りて、指で壇の角に塗り、血を壇の下にことごとく灌ぐ。牡牛の内臓を包む脂、肝臓の膜、腎臓を壇の上で焼く。山羊を殺しその血を取り、アロンとその子らの耳、手と足の親指に付け、その血を壇の周囲に灌ぐ。無酵パンに油を混ぜた無酵菓子、無酵煎餅1個をそえてエホバの供え物とする。山羊の胸を取ってエホバに供える。アロンとその子らは集会の幕屋の戸口で山羊の肉と無酵パンを食べる。7日間アロンとその子らは任職の礼を行う。毎日1頭の牡牛を贖うべし。
第30章: 香を焚く壇の様式を定める。合歓木をもって壇を作る、寸法は定めた通りに。4隅の角柱には金をかぶせ、両面に2個の金の環をつけ棹を貫く所とする。香の壇を律法の函の傍らの幕の前に置いて、贖罪所に対面させる。ここはアロンと神が会う場所である。朝と夕べに香を炊くこと、1年に1回燔祭を執り行うこと。贖いの金を幕屋の用にするため供えること、すべての名だたる人は半シケルを差し出すべし。アロンと子らが手と足を洗い清めるため、銅の洗盥を集会の幕屋と壇の間に設けるべし。香物、没薬、肉桂に値段を決めて徴収すること。
第31章: この章は茶道具の「千家十識」と同じように、祭壇の用具の制作者を指名する。金銀銅の加工製作にはユダの支流なるホルの子なるウリの子のベザレルがあたる、彫金・埋め金に優れた技を持つからである。幕屋、函、贖罪所の壇と器具、机、灯台、香壇、衣、洗盥の製作には、ダンの支流なるアヒサマクの子アホリアブがあたる。京都には仏具専門店が東本願寺と西本願寺の間の正面通り町に集中している。それと同じことであろうが仏具屋は民間企業の店であるが、むしろこのユダヤ教祭壇製作は朝廷御用達の専売公社みたいな組織であるところが異なる。
第32章: 第32、33、34章は神と民の関係が一層複雑で不協和の様相を示す。エジプトを出て以来エホバ、モーゼ、アロン、民衆の思いが試行錯誤の時代を迎える。モーゼはエホバと民衆の間の調整(調停、とりなし)に翻弄される。モーゼが山に登って久しく時間がたつので、民はアロンに尋ねた。アロンは民の女から金の飾り物を取り立ててそれを鋳直して仔牛を作り燔祭を行った。神エホバはモーゼに言った。エジプトの地から導き出した民は悪いことを始めた、エジプトの神を拝んでいると。エホバは怒りこの民を殺そうとしたが、モーゼは必死にとりなしたので事なきを得た。モーゼは急いで山を下り、仔牛の像とと踊りを見たので律法を刻んだ2枚の石板を投げて仔牛の像を壊した。そしてアロンに問い詰めると、民が我々を導く神を作ろうとしただけであるという。民のやりたいようにやらせば仔牛(エジプトの神)になったのである。モーゼはレビの子孫を集めエホバへの信仰を促した。そしてエホバに向かって罪の赦免を乞うた。
第33章: 神は昔ヤコブに約束した乳と蜜の流れる地カナンに向かうべし、その前にカナンに居るカナン人、アモリ人、ヘテ人らを追い払っておくが、神はイスラエルの民と一緒には行かない、この民は強情でいつ裏切るかわからないからだといった。この悪しきお告げを聴いた民は憂えた。モーゼはエホバを信じる人々を集会の幕屋に集めた。幕屋に雲の柱が立ちエホバがモーゼに現われた。モーゼは天幕(生活と牧畜にための移動用テント)に帰ったが、ヌンの子ヨシュアは幕屋を離れなかった。モーゼは神がともにゆかないならどうして神の恩を知ることができるのかとエホバに問うた。こうして神とモーゼの押問答が展開されるのであるが、エホバは神にして人ではないということに尽きる。
第34章: エホバは神との約束である石の板を再度作れとモーゼに命じた。翌朝準備を整えたモーゼは一人でシナイ山に上った。雲の中から神が現れ、モーゼは我らの中に神がいまして頑迷な民を導き給えと乞うた。エホバはモーゼを前にして、いまだ世界になかった奇蹟を行うので良く見ろ、アモリ人。カナン人らをカナンから追い払う。他の国の民と契約を結ぶべからず、他の神を拝むべからず、偶像アシラ像を破壊せよ、我は嫉妬深い神である。汝らは偶像を鋳ってはならない。パンの節莚を行うべし、6日働いたら7日目は休息すべし、これを破ったら殺される。年に3回イスラエルの神の前に出るべし、過越の節の犠牲は翌日まで残しておくな。これらの約束を言葉に書き記せ、これらの言葉を持ってイスラエルと契約を結ぶ。
第35章: 第35,36,37,38,39章は第25,26,27、28、29、30,31章と重複している。その理由は分からないが、再度祭壇の器具の様式や製作職人の話となる。本章は第25章の祭具およびそれを作る職人集団に関する記述と重複するので、省略する。
第36章: (幕屋に関する第26章と重複)省略
第37章: (律法を入れる函、灯台、香壇に関する第27章と重複する)省略
第38章: (壇、盥、庭に関する第27章と重複)省略
第39章: (祭司の衣類に関する第28章と重複)省略 
第40章: (幕屋内の配置に関する第30章と重複)省略

2-3) レビ記

レビ記は27章(66頁)からなる。ユダヤ教の祭司レビ一族の守るべき、祭礼、道徳、生活、宗教の戒律を記す。
第1章: 第1、2、3章はエホバへの礼物の規定を述べる。エホバ、モーゼに告げて言う。エホバへの礼物は牛あるいは羊である。祭燔の礼物は完全な牡牛とする。これを納める者は贖罪となる。エホバの前において仔牛をほうむり、アロンの祭司はその血を器に入れて、集会の幕屋の門である壇の周囲にその血を灌ぐこと。アロンの祭司は壇の上に火を焚き焚き木に上に切り裂いた脂を並べる。犠牲の臓物と足は水で洗い、一切を壇の上で焼く。燔祭(火祭)にはエホバに香ばしき匂いとなる。礼物が羊や山羊の燔祭(火祭)には完全な牡を選んで捧げる。壇の北にてほうむり、その血を壇の周囲に灌ぐ。燔祭のやり方は牛の場合と同じ。礼物に鳥を捧げるなら山鳩、若き家鳩とする。その翼は切り取ることなく壇の上で焼く。祭司の男たる者は皆これを食うことができる。彼らは聖職者であるからだ。祭司は燔祭の壇の火は消してはいけない。
第2章: 素祭の礼物をモーゼに指示した。麦粉に油をそそぎ、乳香を加えて祭司アロンに持参する。アロンの子らはこれを壇の上で焼く。これも火祭でエホバに良い香を捧げるもの。残りはアロンの家のものとなる。焼いたものすなわち、油を混ぜて作る無酵菓子や煎餅も礼物となる。余り物はアロンの家のものとなる。エホバに供える火祭の礼物には発酵の種や蜜を入れ焼いてはならない。塩だけで味付けをすること。初穂の捧げものは殻を除いて、油や乳香を添えて礼物とする。
第3章: 酬恩祭の礼物として犠牲を献じるときは、完全な牛(牡牛でなくてもいい)を燔祭のやり方(第29章に述べた)に準じて行う。羊を犠牲にするときも燔祭のやり方に準じる。山羊の場合も同じ。脂の芳ばしい香はエホバのもの、汝らは脂と血は食うべからず。犠牲の肉はその日のうちに食うべきで、翌朝まで残してはいけない。3日経っても食わない肉は悪しきもので食うと罪を得る。
第4章: 第4、5、6、7、8、9章は罪祭(つみ)、愆祭(あやまる)、酬恩祭(感謝)、任職祭のやり方の規定である。本章は罪祭について述べる。エホバの戒に背いた時は、その犯した罪のため完全な仔牛をエホバに献じる。牡牛を集会の幕屋の前の門に連れてきてほうむる。祭司はその血を指で聖所の幕の前で7度灌ぐ。祭司はまたその血を幕屋にある壇の角に塗る。すべての血を燔祭の壇のもとに灌ぐ。牡牛の脂はすべて罪祭に用いる。臓物の脂、肝臓・腎臓の上の脂を取って壇の上で焚く。皮・肉・首・足・臓物・糞は幕屋の外で焼いて灰棄処に棄てる。イスラエルの全民衆が過ちをなした時は、仔牛を罪祭に献じて、民の長老が仔牛を葬り、罪祭のやり方で執り行う。牧伯が罪を犯した場合、牡山羊を献じる。やり方は罪祭に同じ。国の民が罪を犯した場合は牝山羊を献じる。やり方は罪祭に同じ。
第5章: この章は愆祭について記述する。もし証人として見たことを正しく述べないなら罪になる。穢れた死体に触れると自身が穢れる。妄りに言い放つも罪になる。その犯した罪により牝羊、牝山羊を贖いとしなければならない。礼物を用意できなければ山鳩か若い家鳩でもいい、さらにそれも用意できない者は麦粉1エバの10分の1を礼物とする。祭司は罪を犯した者のために贖いをすれば罪は赦される。もし知らずにエホバの聖物を侵したり、エホバの戒めによりしてはいけないことをしたら罪になる。完全な牡羊を持ってきて愆祭を行うべし。祭司にはその5分の1を与えるべし。
第6章: 人のものを奪ったり、拾ったり、エホバに不信をなすと罪になる。完全な牡羊を持ってきて愆祭を行うべし。アロンとその子らの祭司が行うべき職務を述べる。燔祭のやり方は第1章の述べた通りで重複しているので省略する。素祭のやり方については第2章に述べたので省略する。罪祭のやり方は第4章に述べたので省略する。
第7章: 愆祭のやり方については第5章の述べたので省略する。酬恩祭のやり方は第3章に述べたので省略する。
第8章: モーゼはエホバの命に従い、祭司アロンらの衣服と灌膏と罪祭の牡牛と2頭の牡羊と無酵パン一籠を携え、会衆を集会の幕屋の門に召集した。モーゼはアロンと子らを水でもって洗い清め、アロンに裏衣を着せ帯を締めさせ上着を纏わせ、エポデの帯を結い付け胸牌をこれに着け、首に頭帽をかむらせ額に金の板をつけた。モーゼは灌膏を幕屋と一切のものに灌ぎ浄め、アロンの首に膏を灌いで聖別した。罪祭の牡牛を率いてアロンが頭に手を置いてこれを殺し、臓物の上の脂と肝臓の膜の脂と腎臓の脂を取って壇の上で炙った。皮や肉や胃腸などは幕の外で火に焼いた。燔祭の牡羊の犠牲を殺して壇の上で焼いた。任職の牡羊はアロンとその子が頭に手を置いて殺し、モーゼがその血をアロンの右耳と右手の親指に付け、その血を壇の周りに灌いだ。臓物の上の一切の脂に無酵パンと無酵菓子・煎餅を載せて焼いて揺祭とした。モーゼは灌膏と壇の上の血をアロンとその衣類に灌いで浄めた。アロンらに,幕屋の門で肉を焼いて任職祭のパンとともにそこで食え、任職祭が終る7日間は幕屋の門から出るべからずと命じた。
第9章: 任職祭の8日目、モーゼはアロンとその子らおよび長老を集め、アロンには罪祭のための若い牡牛と燔祭のための牡羊を取ってエホバに献じるべしといった。また酬恩祭のために牡牛と牡羊をとり油を混ぜた素祭を行うべし。アロンは脂を壇の上で焚きその胸と右の腿をエホバの前で揺って揺祭とした。アロンは民に向かって手をあげこれを祝し罪祭、燔祭。酬恩祭の行事はすべて終った。
第10章: アロンの子ナブダとアビウが火盤を取り異火をエホバに捧げたが、エホバの命じた物ではないといって二人を殺した。エホバは聖であり全体の民に栄を示す神であるからだ。またアロンの子ミサエルとエルパザンを呼びその一族を追放した。こうして残ったアロンの子エレアゼルとイタマルに、頭を見せるな、衣類を裂くな、集会の門より出るなら殺すと言った。又エホバはモーゼとアロンに集会の幕屋に居るときは葡萄酒や濃い酒を飲むなら殺す、これらは代々守るべき掟であると告げた。モーゼはアロンとアロンの子に、素祭の残りを壇の傍で食え、酬恩祭と揺祭の聖なるものである。罪祭の犠牲も聖なるものであるから聖所にて食えと命じた。
第11章: この章は食べられるもの、食べられないものの区別、穢れた物と潔き物の区別を明確に述べる。エホバはモーゼとアロンに告げて言う。食べられる獣は蹄の別れた反芻動物(牛・羊・山羊など)である。ラクダ、山ねずみ、兎、ブタは食えない、穢れた物であるからだ。水中の動物でヒレと鱗のあるものは食べられる。鳥の中で忌むべきものは食べられない。鷲、鳶、隼、烏、駝鳥、梟、鴎、雀、鷹、鵜、鷺、白鳥、鶴、鸚鵡、蝙蝠などである。また羽があって歩く昆虫忌まわしきものである。ただし飛脚のある昆虫は食べられる。蝗類である。穢れのある動物の死体に触れると穢れる。匍匐する動物で穢れのあるものは、鼬、鼠、蜥蜴、守宮、蛇である。また死んだ動物は食べてはいけないが、他国に売るのは赦される。また子山羊をその母の乳で煮てはいけない。
第12章: 婦人のお産による穢れと成潔の期間、贖罪について述べる。婦人男の子を生めば7日穢れ、8日目に割礼を行い、成潔の期間は33日である。女の子を産めば27日穢れ、成潔の期間は66日である。成潔が終れば子羊を持って祭司のところに参り贖罪を行う。子羊がない場合、家鳩二羽でよい。
第13章: 祭司による皮膚病の診断、特にライ病かどうかの判定についてのべる。ここで祭司は今でいう医者の役目を果たす。もしライ病なら穢れた者となる。祭司は疑わしい患者を7日間隔離禁固し、症状を観察する。患処が薄らぎ蔓延しなければ治ったので潔き者とする。腫物、やけどからライ病に移行する場合もある。頭や髪に患処があるなら経過観察をする。
第14章: ライ病人の潔められる日の定例(やり方)を定める。ライ病が癒えたなら、司祭および観察司はそれを確認し、生きた鳥2羽に香柏、紅の糸、ヒソブ草を用意し鳥1はねを器の水の上で殺し、血の中に生きた鳥を浸しライ病より癒えた人に7回灌いで潔める。潔められる人は衣服を洗い毛髪をことごとく剃り、水で身を洗い、7日間は己の天幕の外にいる。そして8日目に2匹の子羊の牡と牝と麦粉と油を混ぜた素祭と油1ログを用意する。集会の幕屋の前に置き、祭司が子羊牡1匹を油とともに愆祭に捧げる。エホバの前で振って揺祭とする。愆祭の物は聖なるものである。祭司は油を左手に取リ右手の指で7回エホバに灌ぐ。残りの油は潔められる者の右の耳と右手の親指、右足の親指に灌ぐ。こうして祭司は贖いをなして罪祭を執り行う。貧しい人には子羊牡1匹、麦粉10分の1、油を用意する。さらに財力に従いて山鳩2羽または若い家鳩2羽を用意する。ライ病の患処を生じた家が出た時には祭司に告げて届けること。家は空にして7日間家を閉じる、そして家の壁にライ病の患処のシミがあるならば壁、漆喰、石を剥がして汚穢所に棄てる。家の中を塗り替えして患処が広がらなければ穢れはなくなったとみる。そしてその家を潔めるため、鳥2羽と香柏、紅の糸、ヒツブ草を用意し、1羽を水の器で殺してその血を7回家に灌ぐ。生きた鳥は野に放って家の贖罪をなす。
第15章: 肉の流出(出血、吐血?)で人と物は穢れる。流出のあったひとが座っていた場所に触れた人も穢れる。その人は衣服を洗い、身を洗浄しなければならない。流出あった人は止まって潔くなったら7日間後に己の潔斎のため衣服を洗い、その体を洗わなければならない。8日目に山鳩2羽または若い家鳩2羽を用意し、集会の幕屋(遊牧民のための教会の前身)の門にきて祭司に渡して、贖罪のため祭司に罪祭と燔祭を依頼する。男女二人の片方が流出があり両者に交接があったなら二人とも穢れる。贖罪の定例は前と同じやり方で行う。
第16章: 第10章に述べたアロンの子二人が贖罪所の火の献じ方を誤って神に殺された事件について、神エホバはモーゼに罪祭を執り行ってアロンとその家族のために贖罪せよと言い渡した。アロンの子は幕の内の聖所に入り箱の上の贖罪所を穢した。そこは常時雲の上に居るエホバが降りる場所であるからだ。それを妨げたら殺すという。祭司は麻の裏衣、麻の褌、麻の帯を締め、麻の帽子をかぶって、その身を水で清めたうえで着るべし。牡山羊2頭、牡山羊2頭を携えて燔祭の用意をする。アロンは己のためなる罪祭の牡牛を葬り、火鼎をエホバの前の壇におこし、香を火にくべ香の煙で贖罪所を満たせ。罪祭の山羊を葬りその血を幕の内に持ち入り贖罪所の上と前に灌ぎ、贖罪をする。己と己の家族とイスラエルの全会衆のための贖罪が終るまで誰も集会の幕屋の内に入ることを禁じる。この法は永く守らなければならない。
第17章: 犠牲の牛羊山羊を営(遊牧民の居住区)にて祭司が居ないのに勝手に殺し、これを集会の幕屋の門まで生きて連れてこない者は、血を流したのと同じで神によって殺される。彼らはこれを率いて来て祭司がこれに就きエホバに捧げるべきである。肉の命(魂)は血に在れば、命ある故によって贖罪をなすからである。イスラエルの子孫は血を食らうことは許されない。
第18章: イスラエルの子孫はエジプトの国に行われる事を真似してはいけない。汝らは我が法を行い例を守るべきである。我が法と例(律法)を守る人は生かされる。我はエホバなり。近親の相姦は禁止される。汝の姉妹と交わることはご法度である。父の兄弟の妻と交わることも禁止される。嫁と交わることも禁止される。妻の生きている間に妻の姉妹を交わることも禁止される。婦人の経の穢れのある時交わってはいけない。隣の妻、男同士、獣と交合することは禁止される。イスラエル人、およびその居住区に居る外国人も同じである。
第19章: この章は第21章「モーゼの十戒」、第22章「律法」に述べられていることに重複するので省略する。ただし追加的な掟が書かれている。
* 兄弟を憎んではならい、隣人を愛し、隣人を戒める必要がある、彼のために罪を作ることを防ぐためである。子孫に恨みを抱いてはならない。
* 家畜を異種と交配させてはいけない。奴隷の女にして結婚の約束のあるものとは交合すると二人とも戒めるべし。ただし殺すには及ばない、愆祭の牡羊を持って贖うならば罪は赦される。
* 果物の樹を植えるとき3年間は割礼を受けていないとみなして食べてはいけない。4年目に果物をエホバに感謝の祭りをなす。5年目から果実を食べてよろしい。
* 何ものも血のまま食べてはいけない。また魔術を行ってはいけない。占いも禁止する。口寄せを恃んではいけない。
* 頭の鬢を丸く切ってはいけない、髭の両方を切ってはいけない。死ぬ人のために己の身を傷つけ、刺文を彫ってはいけない。
* 娘に娼妓の業をさせてはいけない。安息日を守り聖所を尊ぶべし。
* 老人の前では立つべし、老人を敬い、神を畏れるべきである。自国内に居る他国の人を虐げてはいけない。裁判において不義をなしてはいけない。
第20章: 本章はモーゼの十戒の解説で繰り返しになる部分は省略する。イスラエルの子孫や自国内に居る他国の人の子を異教のモロクに献げるものは殺される。石を持って撃つべし。口寄せ、占い師に恃む人は殺される。父母を呪うものは殺されるべし。人の妻と姦淫する者は殺されるベし。嫁と寝るものは殺される、男と寝るものは殺される、妻をめとるときその母も娶るなら二人とも殺される。獣と交合する者は殺される。妻、夫は互いの陰部を見てはいけない、姉妹と淫すれば殺される。母の姉妹、父の姉妹の陰部を露わにすれば二人とも罪を犯したことになる。
第21章: この章は祭司アロンとその子孫への戒め、祭司は清くあれということを述べている。頭の髪をそって坊主になってはいけない。妓女又は穢れた女を妻にしてはいけない。離縁された女を妻としてはいけない。祭司の娘淫行をなすなら父を穢したことになる。火あぶりの刑に処すべし。アロンの子孫の兄弟が職に任じられて祭司の長になれるものは、頭を現さず衣服を裂いてはいけない。死人のところへ行くべからず、聖所を穢すなかれ。妻には処女を娶るべし。アロンの一族のうち疵ある者(障害者)は火祭の天幕に近づかず、エホバの食物を献げてはいけない。
第22章: アロンとその子らにいう。妄りに聖物を扱ってはいけない、エホバを穢すことになるから。ライ病患者、血の流出のあるもの、死体に触れた者、けがれのある4足動物に触れた人は穢れが落ちるまで聖物を食べてはいけない。外国の人、祭司の客は聖物を食べてはいけない。もし聖物を食べたなら、その5分の1を添えて祭司に払うこと。もし外国人が礼物としてエホバにっ献げて燔祭とするものは、完全な牛・羊・山羊を献ぐべし。疵のある者(障害者、病人)は献げてはいけない。エホバは受け入れないから。牛羊または山羊が生まれて7日以内は母に付けて、8日目以降はエホバの火祭に供することができる。感謝の生贄はその日のうちに食いつくすべし。
第23章: 節期(エホバを祝うけじめの日)について述べる。聖会となるエホバの節期は、まずエホバの安息日である。6日間働いて第7日目は休むべき安息日にして聖会である。何の業もなしてはいけない。1月15日は逾越節になる7日間発酵させないパンを食べること、初めの日は聖会をなし業をしてはいけない。7日間エホバに火祭を献げる。7日目も聖会を行う。穀物を収穫するとき、まず穀物の初穂一束を祭司に持ち来ること、そして安息日の翌日祭司はこれを揺る。1歳の牡羊を燔祭としてエホバに献じる。またその素祭には油を混ぜた麦粉を献じて火祭とし芳ばしい匂をエホバに献じる。灌祭には酒一瓶の4分の1を用いる。第7回の安息日の後50日めに新素祭をエホバに献じる。無酵麦粉のパン二つを持ちて揺るべし。1歳の子羊7匹と牡山羊二匹をそのパンと共に献じるべし。素祭、灌祭、燔祭となる。7月においては朔日を安息日とする。ラッパを吹いて記念する聖会である。7月10日は贖罪の日で聖会である。火祭をエホバに献じる。エホバの前で贖罪をなすその日は何も業をしてはならない。7月15日は結茅節である。7日間の間火祭をエホバに献ぐ。8日目は聖会を開き火祭をエホバに献じる。この間は何の仕事もしてはならない。7日間茅廬に籠り祈る祭りである。
第24章: 橄欖(オリーブの実)からとった油を燈火にして献じること。アロンとその子らは燈火を準備し集会の幕屋において、律法の幕の外において燈火を絶やしてはならない。安息日毎のエホバの前に整えるものは、菓子12個を焼きこれをエホバの机の前に2重ねにして6個づつを置く。清き乳香をその上に置き、パンの前に並べる。アロンとその子の永遠の契約である。この章に異質な話が挿入されている。エジプト人を父としイスラエル人を母とする男がエホバを穢して呪いの言葉を吐いたので、エホバはモーゼに命じた。彼を営の外に引き出し全会衆は石を持って撃ち殺せという。神を呪うものはその罰を蒙る。
第25章: シナイ山にてエホバがモーゼに告げた。我がイスラエルの民に与えた地でも汝らの安息を約束する。6年間畑に種をまいて収穫し、7年目に地に安息を与える。安息の年の収穫は汝らのものになる。7回目の安息日の間は49年である。7月10日にラッパを吹いて贖罪の日とする。50年目の日を浄めヨベルの日(自由の日)という。この年には種をまいてはいけない。各々の産業(土地と家)に帰る年である。隣の人から物を買うときは欺いてはならない。土地の売買は無制限に行ってはけない。もとは神のものであったからだ。もし落ちぶれて産業を売ることになれば、親戚の者が買うべきである。6年間買い手に償いをしてゆき、ヨベルの年までに返済を完了すべきである。そうすればその地に帰ることができる。住宅を売るときは1年間に返済すれば家を買い戻すことができる。ただし耕地の田畑は売ってはいけない。その人の永遠の家産だからである。兄弟が落ちぶれて体も不自由ならば、これを収容し助け命を保たせるのは当然である(扶養の義務)。兄弟からは利息を取ってはいけない。兄弟が落ちぶれても奴隷にしてはいけない。奴隷は異邦人の中からとるべきである。骨肉の親たるものが贖うべきである(借金立て替え)。身代金の額を決め、年雇いの雇い人とすべきである。目の前で落ちぶれた人を厳しく扱ってはいけない。
第26章: 己のために偶像、木像、柱の像、石像を刻んではいけない。我が契約を守り戒めを守るならば、汝の土地は産物を生み田野の木の実は結ぶだろう。安らかに住むことができる。平和を与えるので安らかに寝て業に励むことができる。もしエホバのいう律法を嫌い戒めを守らないならば、契約を破ることをするならば、汝らに恐れ、心労、熱病となり、敵が収穫物を奪うだろう。敵は汝らを殺し、汝らの土地は荒れ果て実を結ぶことは無い。神を敵にして言うことを聴かないなら7倍の災いがもたらされる。汝らの邑を滅ぼし聖所を荒らす敵がそこに住む。彼らがした罪と先祖たちの罪、己の咎を懺悔することになる。その罪を受けるならば神エホバはアブラハムと約した契約を思い出すだろう。
第27章: エホバに請願をかけるなら、それ相応の献納物が必要だ。その値積りは銀シケルにして以下である。5歳までの男には5、女は3、6歳から20歳までの男は20、女は10、21歳から60歳までの男は50、女は30、60歳以上の男は15、女は10シケルである。礼物としてエホバに捧げる家畜の値段は祭司が定める。家を捧げる値段は、田畑を捧げる価は祭司が見積もる。家・田畑を買い戻すときは利息5分の1を加える。エホバに捧げた家畜、家、田畑はみなエホバの聖物であるから一切売買を禁じる。

2-4) 民数記略

民数記略は36章(95頁)からなる。イスラエルの氏族の民の数(人口)を克明に記した。日本でいえば総務省統計局「国勢調査」のような記載です。事実かどうかは不明ですが、その記憶力に驚きます。固有名詞と数値の羅列が続きます。表にすればもっと見やすいのに残念です。歴史は、40年間の放浪生活からカナンの地に落ち着くまでの困難な時期を描いています。物語性に優れた記ですが、あまりに詳細でイスラエルの地名や歴史に一定の知識がないとついてゆけません。ゆっくり読むことが一番大事です。
第1章: エジプトの国から出て次の年の2月1日、エホバはモーゼに命を出した。イスラエルの全子孫、全会衆をその宗族に従って調べ、20歳以上の男丁(戦力、納税の規模を知るため)の数と頭数を軍旅組織に従って報告せよという達しであった。そして支派の父祖の家の長一人を長老とせよ。(行政、軍事組織の責任者となる)モーゼとともにイスラエルの民を指導する人(支族ー頭)は、イスラエル12支族について、ルベンーエリズル、シメオンーシルミエル、ユダーナション、イッサカルーネタニエル、ゼブルンーエリアブ、エフライムーエリシヤマ、マナセーガマリエル、ベニヤミンーアビダン、ダンーアヒエゼル、アセルーパギエル、ガドーエリアサフ、ナフタリーアヒラである。彼らは支派の牧伯、千人の長である。モーゼとアロンンは、2月1日シナイの野において全会衆(20歳以上の男子)を集め数えた。その結果を支流ごとに記す。ルベン46,500人、シメオン59,300人、ガド45,650人、ユダ74,600人、イッサカル54,400人、ゼブルン57,400人、エフライム45,500人、マナセ32,200人、ベンヤミン35,400人、ダン62,700人、アセル41,500人、ナフタリ53,400人であった。従ってイスラエルの全男丁は60万3550人であった。ただしレビの支流は祭司なので数えない。
第2章: イスラエルの軍揃えを記す。集会場の幕屋の周囲(四方)において支流の隊の旗のもとに営をはる。
東の方にはユダの営の旗の下につく軍旅は、ユダ74,400人、イッサカル54,400人、ゼブルン57,400人で合計186,400人である。
南の方にはルベンの営の旗の下につく軍旅は、ルベン46,500人、シメオン59,300人、ガド45,650人で合計151,450人である。
西の方にはエフライムの営の旗の下につく軍旅は、エフライム40,500人、マナセ32,500人、ベニヤミン35,400人で合計108,100人である。
北の方にはダンの営の旗の下につく軍旅は、ダン62,700人、アセル41,500人、ナフタリ53,400人で合計157,600人である。
以上の4つの軍旅の合計は603,550人である。(総男丁の数に一致する)
第3章: レビ族支派の子孫について述べる。アロンの子は、ナダブ、アビウ、エレアザル、イタメルの四人である。レビ記第10章で述べたように、ナダブ、アビウの二人はエホバに異火を献じたために死に、エレアデル、イタメルは膏を灌がれて祭司となった。レビの支派はアロンの職に替わり幕屋の役事を担った。レビ人の長子はエホバの世話に当たる祭司となる運命となった。エホバはモーゼにレビの子孫(1か月以上の男子)をその宗族に従って数えるように命じた。レビ支派の子の名前は、ゲルション、コハテ、メラりである。ゲルションの子等はリブ二、シメイ、コハテの子等はアムラム、イズハル、ヘブロン、ウジェル、メラりの子等はマヘリ、ムシである。
ゲルション族(リブ二族、シメイ族)の1か月以上の男子の数は7,500人で幕屋の西に営を張る。その仕事は幕屋と天幕とその蓋い、幕屋の入り口の帷、庭の幕、庭の入り口の帷、縄などを管理する。
ウジェリ族(アムラミ族、イズハリ族、ヘブロン族、ウジェリ族)の1か月以上の男子の数は8,600人、幕屋の南に営を張る。その仕事は律法の函、机、灯台、壇に用いる器具、帷の管理である。
メラり族(マヘリ族、ムシ族)の1か月以上の男子の数は6,200人、幕屋の北に営を張る。その仕事は幕屋の板、横木、柱と座、庭の周りの柱、釘、縄、そして器類の管理である。
モーゼ、アロンの族は幕屋の東に営を張る。その仕事は聖所の職守を務める。
レビ族の1か月以上の男子の数の総数は23,000人である。
第4章: レビの子等ゲルション、コハテ、メラリの中より30歳―50歳までの男子の数を数えるように、エホバからモーゼに命が下った。コハテの子孫の仕事は、聖物に関わることであり、営の移動中の運搬において律法の函を幕で蓋い、まみの皮で包み、青の布と紅の棹で運ぶ。机には青の布をかけ匙・杓・盃・パンを覆い紅の布をかけ、まみの皮で包み紅の棹ではこぶ。青い布の上に灯台・皿・灯盤・油の器を覆いまみの皮で包んで紅の棹で運ぶ。金の壇、役目の器も同じ要領である。アロンとその子らが聖所の一切の器具を包み終わったら、コハテの子等はこれを担ぐべし。彼らは聖物に触ってはいけない。死ぬことになる。アロンの子エレアザルが燈火の油、素祭の灌膏、幕屋のの全体とその中の一切の聖物、器を司る。またコハテの一族を決して絶やしてはいけない。ゲルションの子孫の仕事は、第3章に述べたように幕屋の天幕とその蓋い、その上のまみの皮、集会の天幕の入り口の帷を担当する。メラりの子孫の仕事は第3章に述べたように幕屋の板、横木、柱と座、庭の周りの柱、釘、縄、そして器類の管理である。30歳―50歳までの男子の数は、コハテの子孫2,750人、ゲルションの子孫2,630人、メラリの子孫3,200人、合計8,580人であった。
第5章: 神はイスラエルの子孫より、ライ病患者および血の流出ある者、死者に触れて穢れある者は居住区の外へ排除することをモーゼに命じた。営には神が居給うからである。罪を犯した者は男女を問わず、相手に対して代価に5分の1を加えて弁償すること。イスラエルの祭りに祭司に携えてきたものは皆祭司の物になる。女の密通者が夫に罪をなした場合その事実関係が不明であっても夫が疑う時には、夫は妻を祭司のもとに連れてきて大麦粉を礼物として差し出す。これには油を注がず、乳香を加えてはいけない。苦い水を持って女に誓わせる。これが「猜疑の律法」である。
第6章: イスラエルの子孫が籠ってナザレの請願を立てるときは、葡萄酒および濃い酒、酢となった酒、葡萄の実を一切食べてはいけない。頭の髪の毛は剃ってはいけない。父母兄弟が亡くなって喪に服するとき穢れてはいけない。額にその標をつけておくこと。もし穢れることがあるなら7日目に清めるために頭を剃り、8日目に山鳩か家鳩2羽を携え祭司の幕屋にきて罪祭、燔祭を捧げて汚れた罪を贖うべし。牡羊、子羊を犠牲にして罪祭、燔祭、酬恩祭、素祭、灌祭を行うのが「ナザレ人の律法」である。
第7章: イスラエルの12支族の長老(牧伯)たちの壇奉納の礼物について記述する。モーゼは幕屋を建て終りこれに膏を灌いで聖別し、一切の器、壇に膏を注いで聖別した。イスラエルの牧伯ら献物をした。覆いのある車6台と牛12匹を幕屋の前においてレビ人祭司に手渡した。レビ人のゲルションの子孫は車2両と4牛匹を受け取り、メラリの子孫は車四両と牛8匹を受け取った。担ぐ役目のコハテの子孫は受け取る必要はなかった。そしてアロンの子イタマルが監督した。エホバは1日に一人宛その壇奉納の礼物を献寺ることと言ってあるので、12日に渡る壇奉納は次のような次第であった。礼物は銀の皿、銀の鉢、金の匙、燔祭には若き牡山羊1匹、牛2匹、罪祭には牡山羊5匹、酬恩祭には牛2匹、牝山羊5匹、1歳の子羊5匹であり、全員同じ礼物であった。第1日:ユダ支派のナション、 第2日:イッサカル支派のネタ二アル、第3日:ゼブルン支派のエリアブ、第4日:ルベン支派のエリブル、第5日:シメオン支派のシルミエル、第6日:ガド支派のエリアサフ、第7日:エフライム支派のエリシヤマ、第8日:マナセ支派のガマリエル、第9日:ベニヤミン支派のアビダン、第10日:ダン支派のアヒエゼル、第11日:アセル支派のパギエル、第12日:ナフタリ支派のアヒラの順である。
第8章: 灯火をともすとき7つの灯皿を灯台の前において照らせ、灯台は槌で台座から花びらまで作ることをエホバは命じた。レビ人をイスラエルの子孫から区別して彼らを聖者として神エホバの所属とする。レビ人は身を浄め衣服を洗い、揺祭を行った。エホバは軍団の兵士は25歳以上50歳までと決め、50歳以上は引退とした。
第9章: エジプトの地を出た翌年2月、エホバはモーゼに命じた。2月14日の夜シナイの地で逾越節を行え。屍に身を汚した人も。離れた地にある人も皆エホバに逾越節を行うべきである。逾越節をしない人は罪で命を絶たれる。幕屋を立てるとき、雲が幕屋の上を離れるときは人は進み、雲が止まる場所に営を張れ。
第10章: 2本の銀のラッパを槌で鍛って作れ。2本のラッパが鳴るときは全会衆が集会の幕屋の前に集まれ、1本のラッパが鳴るときは長老(牧伯)がモーゼの前の集まる合図である。アロンの司祭の子らがラッパを吹く。エジプトを出て2年目の2月20日雲が幕屋を離れたのでイスラエルの子孫らはシナイを出て道を進めたたが、雲はバランの野に至って雲は止まった。第1章に述べた軍団の長により、ユダの軍旅の先頭にはナション、イッサカルの軍旅の長はネタ二エル、ゼブルンの軍旅の長はエリアブであった。コハテ人は聖所を担って運ぶ。エフライムの軍旅の長はエリシヤマ、マナセの軍旅の長はガマリエル、ベニヤミンの軍旅の長はアビダン、ダンの軍旅の長はアヒエゼル、アセルの軍旅の長はパギエル、ガドの軍旅の長はエリアサフ、ナフタリの軍旅の長はアヒラ、ルベンの軍旅の長はエリズル、シメオンの軍旅の長はシルミエルである。
第11章: イスラエルの民が移動中の生活の苦しさが原因で、多くの会衆の中に不平・不満の声が広がった。これを聴いた神エホバは怒りを発し民の営の端から火が上がった。この地をタベラ(燃え)と呼ぶ。満足な食がないことでモーゼに向かって肉を食わせよと叫び出した。ここで神はモーゼにイスラエルの長老と有司70人を集会の幕屋の前に集めよと命じた。そこに神が降りて彼らに告げることがある。雲の中から神が現れモーゼの上に在る霊が彼らのうえにも宿った。彼らも預言したが、このことは後には重ねて行われることは無かった。この時風が起こり海より鶉が営の周りに落ちてきた。鶉を食べても食べてもなお欲心が起こるのでエホバは怒りを発し彼らを滅ぼした。その場はキブロテハッタワ(欲心の墓)と呼ばれた。60万人の民を食べさせるのは大変なことだ。民はハゼロテに移動した。
第12章: モーゼはエチオピアの女を娶ったが、ミリアムとアロンはそのことでモーゼを誹謗した。仲間割れである。神の言葉がモーゼのみに降りることに差別感を抱いたのである。そこで神エホバはモーゼとミリアムとアロンを幕屋の門に呼びつけて言った。モーゼは預言者であリ神の口であると。エホバは怒ってミリアムにライ病が生じた。モーゼがとりなしをして、7日間営の外で隔離したのちライ病は癒えたので再び帰ることができた。その間は民は進むことはできなかった。その後民はバランの廣野に営を張った。
第13章: ここでエホバはモーゼに、バランからカナンの地を調査するため、イスラエルの12支派の頭なる者より1名づつで構成される一隊を派遣するよう命じた。ルベン支派よりシャンマ、シメオン支派よりシャバテ、ユダ支派よりカルブ、イッサカル支派よりイガル、エフライム支派よりホセア、べニヤミン支派よりパルテ、ゼブルン支派よりガデエル、ヨセフ(マナセ)支派よりガデ、ダン支派よりアンミエル、アセル支派よりセトル、ナフタリ支派よりナヘビ、ガド支派よりギウエルである。モーゼ、エフライムのヌンの子ホセアをヨシュアと名付けた。偵察派遣隊へのモーゼの指示は、カナンの南の山にのぼり、地形、軍の強弱、民の人口の多少、土地の豊かさ、天幕暮らしか城壁の町か、果物(葡萄)を調べることである。一隊はレホブ、ヘブロン、エルコシの谷に至った。彼らは40日間偵察をおこないカデシの地に帰った。そこにいるアナクの子孫、アマレキ人、ヘテ人、エブス人、アモリ人、カナン人の報告を行った。攻め入るかどうかを巡って意見が出されたが、弱気な意見が多数を占めた。
第14章: カナンに進出することに悲観的な者は恨み言を泣き叫んだ。そして長を立てエジプトに戻ると言い出す始末である。しかしユシュアとカルブはイスラエルの全会衆に向かって進軍を説いた。エホバは弱気な人の泣き言を聞いて、民はエホバの言葉を信用せず侮っている、だから彼らを滅ぼし強い民にするという。モーゼは「エジプトより今に至るまでこの民を赦しし如くにこの民の悪を赦し給え」ととりなした。神エホバはモーゼの願い通りに民を赦し、中でもカルブは信じる心が強いので、子孫に至るまで彼らを導こうという。しかしいつまでも怨みごとをつぶやいている連中は20歳以上の者はすべて殺す。カルブとヨシュア以外の民はカナンの地には行けない。つまり40年間はこの廣野に彷徨いつづけるであろう。
第15章: この章は燔祭、素祭、灌祭、火祭、罪祭に供える礼物について詳述した箇所であるが、すでに何度も書かれており、省略する。挿入する場所を間違ったのか、旧約聖書では常習となっている重複かはわからないが、せっかくの激動期のストーリ展開の邪魔になっている。
第16章: レビーコハテーイズハルの子コラ、ルベン―エリアブの子ダタン、ペレテの子オン、アビラムら250人の族長がモーゼに反抗した。モーゼとアロンはその分を越えて何故全会衆の上に君臨するのかという権力構造への反旗である。部族間の主導権争いであった。モーゼは明日エホバの前でエホバが選んだ人は誰、聖者はだれか示してもらおうと、コラらの党派に宣言した。この呼びかけにダタンとアビラムは出席を拒否した。モーゼとアロンはイスラエルの民を乳と蜜の流れ出る地に導かず、田畑んも葡萄園も我々に与えなかった。どうして同席出来ようかといった。ここにあの温柔なモーゼも怒った。コラの党派とアロンは250個の火皿に香を焚いて幕屋の門に立て、そこにエホバが顕れ裁定を下すだろう。エホバは、反乱する人を直ちに殺すのでモーゼとアロンに場を離れろといった。モーゼは全長老たちに、コラとダタンとアビラムの営から離れるように告げた直後地が裂け彼ら一族を飲み込んだ。また反意を示した250人を焼き尽くした。その翌日イスラエルの会衆が集まって、モーゼとアロンに向かって怨嗟の声をあげたので、エホバは激しい怒りを発し、反乱者を粛正した。その数は14,700人にのぼった。
第17章: エホバはイスラエルの全会衆の長老(牧伯)を集め、12本の杖を各自に与え杖に名前を書いて提出するよう命じた。エホバが選んだ人の杖には目が吹くだろう。選ばれたレビ族のアロンの杖には芽を吹き蕾が出て花が咲き実がなった。モーゼにはアロンの杖を律法の函の前に立て、背反者への徴にすることを命じた。杖に花は咲かなかった人らは嘆き悲しんだ。
第18章: この章はレビ族アロン家の使命と財源について述べる。アロン家は聖所に関わるだけに、また祭司の職に関わる罪を引き受けなければならない。アロンとその子等は律法と壇の前に侍るべき務めがある。集会の幕屋の祭司の職守を守り、ただし聖所の器具と壇に近づいてはいけない。外人を近づけてはけない、死ぬことになるからである。レビ人をイスラエルの子孫から選び、エホバのために集会の幕屋の役を授けるのである。アロン家の家計は挙祭、揺祭で捧げられた礼物のうち焼かなかった物を取り分とする。膏、酒、穀物の初物をアロン家に与える。収入はイスラエルの中の物の10分の1を与える、これを生活の資とせよ。これらはアロンとその子らが集会の幕屋にいてなす役目の報酬である。
第19章: 穢れを浄める「灰水」について記述する。エホバはモーゼに告げた。完全な赤牝牛を取って祭司エレアザルに引き渡すべし。エレアザルは牝牛を幕の外で殺し、その血を集会の幕屋の七次灌ぎ、香柏とヒソブと赤い糸を投げ込んでその牝牛を焼く。その灰を集めて清きところに蓄える。祭司はそれで穢れが移るので穢れを浄める水「灰水」で衣を洗う。人の死屍に触った者は七日穢れるのでこの灰水で身を清めるべし。
第20章: カデシでミリアムが死んだので、イスラエルの子孫はその地にとどまった。民は水がないといってモーゼと口論となったが、本当は約束された豊かな安住の地にたどり着けない疲れや不満が爆発したのであろう。エホバは磐から水を出して民を救ったのでメリバ(争いの水) と呼ばれた。モーゼはカデシからエドムの王に領地内の通過許可を求める使いを出したが、エドム王はこれを拒否し、軍を出してイスラエルの民を圧迫した。そこでモーゼらはエドムの境界にあるホル山に登ったが、その山でアロンが死去し、息子エレアゼルが職務を継いだ。民はアロンの死を悼んで30日間喪に服した。
第21章: イスラエルの民はホル山から間道を通りエドムの町を回り過ぎようとしたが、道が悪く民は苦しんだ。そこでまた民はエホバに恨み言をいったので、神エホバは毒蛇を送って彼らを殺した。民はモーゼに神へのとりなしを頼んだので、銅製のヘビを作って杵の上に置きこれを仰ぎみると助かった。イスラエルの民は、オボテ→モアブの東イリアハシム→セレデ→アルノン→ベエル→マッタイ→ナハリエル→バモテ→モアブのピスガ山に上った。そこでアモリ人の王シホンに通過の許可を乞うた。王シホンはこれを拒否したので、戦いとなりイスラエル軍は勝利しアルノンからヤボクまでを占領した。イスラエル人はアモリの地へシホンの邑に住んだ。次にイスラエルはヤゼルを奪いアモリ人を追い出した。パシヤシの王オグはエデレイで戦ったがイスラエルに敗れた。
第22章: こうしてイスラエルの民はモアブの平野を占領した。モアブの王バラクは対イスラエル戦を協議するため、べオルの子バラムを招いた。モアブの長老たちとミデアンの長老たちはバラムに礼物を持って面会し、共同戦線を申し込んだが、バラムはエホバの言葉を持ってイスラエルとの戦いを避けることになり、バラムとバラクの同盟は結ばれなかった。バラムは同じイスラエルの民であったからだ。
第23章: バラク、バラムは同じイスラエルの民の支派であったので、7つの壇を築いて礼物を供えエホバの言葉を聞くことになった。神がバラムに臨んで、イスラエルを呪うことは神が望むことはない。むしろ神はイスラエルを祝福されている。だからバラムはバラクのいうことには同意できないという。
第24章: バラムはイスラエルを祝うことがエホバの心に適うことを見た。ここにおいてバラクはバラムに対して怒りを発し、バラムを招いたのは我が敵を呪わせるためなのに、バラムは3度イスラエルを祝福した。神はイスラエルを祝福して大いに栄えるという。
第25章: イスラエルはモアブのシッテムにとどまって、現地の女と交わり始め、かつ現地の神バアルペオルへの捧げものを食いその神々を拝んだ。そこでエホバは怒りを発し、長老を集めてエホバに背いた者どもを殺せとモーゼに命じた。疫病によって死んだ民の数は24,000人であった。祭司アロンのエレアザルの子ピハネスが、ミデアン人の夫人コビズと一緒にいたイスラエル人ジムリを槍で刺し殺したことで、疫病は終息した。エホバはピハネスに平和の契約をなすといった。ジムリはシメオン人の牧伯の一人で、コビズはミデアン人の宗族の首の娘であった。エホバはミデアン人を滅ぼした。
第26章: ここでヤコブはモーゼとエレアザルに、イスラエルの全会衆の総数と20歳以上の戦闘員の数を数えるよう命じた。イッサカルの支派総数64,300人、ルベン支派43,700人、ゼブル支派60,520人、シメオン支派22,200人、マセナ支派52,710人、ガド支派40,500人、ユダ支派76,520人、アセル支派53,400人、エフライム支派32,100人、ナフタリ支派45,400人、ベニヤミン支派45,600人、ダン支派64,400人で全イスラエルの総数は601,730人、他にレビ支派23,000人である。(シナイの廣野で数えたイスラエル人の総数は、第1章に述べたように60万3550人であった。当時の人は死に絶えているので、少し人口は減少した。)
第27章: ヨセフの子マナセ族のヘベルの子ゼロペハデの娘たち5人が揃って集会の幕屋の門に立って、祭司エレアザルと全長老に言った。私どもの父は第16章に述べたモーゼへの反乱を主導したコラに組したわけではなく、自分の罪で死んだ。父には男の子がなくこのままでは家が絶たれてしまい家の産業も受け継がれないので、男がいなくても女子にも家産が受け継がれるよう図ってほしいと。エホバは良しとして家の相続を許可した。モーゼはエホバに、イスラエルの全会衆の頂点に立ち、民を束ねて指導する体制(国家の誕生)を作るお願いをした。エホバはヌンの子ヨシュアを取りてこれを祭司エレアゼルと全会衆の前で祝福した。司祭エレアゼル、預言者モーゼ、民の最高指導者ユシュアの体制が誕生した。
第28章: レビ記第1-第8章の祭りのやり方に重複するが少し違う点もあるので再度述べる。エホバへの礼物すなわち神の食べ物である火祭について定める。子羊2匹を毎日献じて「常燔祭」とする。朝に子羊1匹、夕に1匹を献じること。また麦粉に油を4分の1を混ぜて「素祭」とする。これはシナイ山において定めた火祭である。「灌祭」は子羊1匹に濃い酒を灌ぐこと。素祭と灌祭は朝と夕に同じように火祭とすること。また安息日には子羊2匹と麦粉に5分の1の油を混ぜた素祭と灌祭を献じること。毎月の朔日には「燔祭」を献じること。牡牛2匹、牡羊1匹、牡山羊1匹、子羊7匹を献げ、牡牛1匹に麦粉に油を混ぜて素祭とし、牡羊には麦粉に油を混ぜて素祭とする。子羊には麦粉に油を混ぜて素祭として、これらを燔祭としてエホバに火祭を献てまつる。また常燔祭とその灌祭のほかに、牡山羊1匹を罪祭としてエホバに献ぐ。逾越節についてはレビ記第23章に述べた。1月14日はエホバの逾越節である。15日は節日で、7日間酵いれぬパンを食べる。その初めには聖会を開く。誰も働いてはいけない。火祭を献じてエホバに燔祭を行う。77日後にも聖会を開く。
第29章: 7月の聖会についてはレビ記第23章に簡単に書かれている。この章では重複するところもあるが詳述している。7月1日にはラッパを吹いて聖会の始まりを知らせる。何の職業もしてはいけない。エホバに燔祭を捧げて、若き牡羊1匹、完全な子羊7匹を捧げるべし。牡牛、牡羊、子羊には麦粉に油を混ぜて素祭とする。牡山羊を罪祭に捧げるて贖いをする。7月10日には聖会を開く。エホバには燔祭を捧げて、牡牛1匹、牡羊1匹、子羊7匹の素祭に麦粉に油を混ぜて焼く。牡山羊を罪祭に献げる。7日間節莚を張る。7月15日(第1日目)に聖会を開く。エホバに捧げる燔祭は、牡牛13匹、牡羊2匹、子羊14匹に麦粉の油を混ぜて素祭とし牡山羊を罪祭に献げる。これらは常燔祭と灌祭以外のものである。第2日には、若い牡牛12匹、牡羊2匹、子羊14匹を献げる。その素祭と灌祭は例のごとく行う。第3日には若い牡牛11匹、牡羊2匹、子羊14匹を献げる。第4日は若い牡牛10匹、牡羊2匹、子羊14匹を献げる。第5日は若い牡牛9匹、牡羊2匹、子羊14匹を献げる。第6日は若い牡牛8匹、牡羊2匹、子羊14匹を献げる。第7日は若い牡牛7匹、牡羊2匹、子羊14匹を献げる。第8日は牡牛1匹、牡羊1匹、子羊7匹を献げる。
第30章: 女が誓願を立てその身に断つ者あれば、父、夫の同意があるなら固く行うべきで、もし父、夫が反対するなら誓願を立ててはいけない。
第31章: イスラエル人の仇を討つため、モーゼはミデアン人への復讐戦を命令した。イスラエル人の全12支派より千人を割り当て、合計1万2千人の軍隊を組んで攻め込んだ。祭司エレアザルの子ピアネスに指揮を執らせ、ラッパと聖物を与えた。ミデアン人の5人の王エビ。レケム。ツル、ホレ、レバとすべての男を殺し、婚姻している婦人を殺した。戦いで獲たものは火に耐えるものは火の中を通して清め、モーゼは獲った人と家畜の数を調べさせた。獲物の1/2は戦闘員に、残った半分はイスラエルの全会衆に与えた。家畜のうち500匹に1匹はエホバに献げた。獲得したものから軍人の取り分を引いた数は、羊675,000匹、牛72.000匹、ロバ61,000匹、未婚の女子32,000人であった。エホバへの貢(すなわち祭司レビ派のエレアゼルの取り分)は羊675匹、牛72匹、ロバ61匹、女32人である。
第32章: イスラエルが戦いによって奪った土地は、アタロテ、デボン、ヤゼル、ニムラ、ヘシボン、エレアレ、シバム、ネボ、ベオンであるが、ルベンの子孫とガドの子孫はすでに多くの家畜を有していた。そこでモーゼと祭司エレアゼルと支族の牧伯に対して、これらの土地は僕の家産とし、私たちはヨルダンを渡りたくないと言った。これを聴いてエホバとモーゼは怒り、支派の兄弟たちが戦っているというのに、ルベンとガド一族は戦いに参加しないというのは解せない、イスラエルの民の心をくじくものだ。カデシバルネアの昔もそうであった。エフンネの子カルブとヌンの子ヨシュアを除いてエホバの示したまう土地にゆこうとはしなかった。エホバは怒って40年間民を廣野にさ迷わせた。我らはイスラエル人が皆各々の産業を得るまでは家には帰らない覚悟であるとモーゼはルベンとガドを説得した。子孫たちのために邑を建て、羊の国を造ろうではないか、今、自らはヨルダン川を渡り戦いに赴くべきではないかと。モーゼは祭司エレアゼルおよび支族の牧伯と相談し、ヨルダン川の東に出て戦うならば、ギレリアの地を与える約束を取り付け、ガドの子孫とルベンの子孫への説得ができ、彼らは武装してカナンの地に渡りヨルダンの手前の地の産業を維持する約束が成立した。モーゼはシホンの国、オグの国をガドの子孫とルベンの子孫、マナセの子孫に与えた。彼らはその地に堅固な邑を数多く建設した。
第33章: ここでモーゼとアロンに導かれたイスラエルの民がさ迷った旅路をまとめておこう。1月15日ラメセスから旅立ち、逾越の翌日民はエジプトから出た。次に→スコテ→エタム→ピアヒロテ→ミグドル→メラ(営を張る)→エリム(営)→シン廣野→ドフカ→アルシ(営)→レピデム(営)→シナイ廣野(営)→キブロテハッタワ(営)→ハゼロテ(営)→リテマ(営)→リンモンパレツ(営)→リブナ(営)→リッサ(営)→ケヘラタ(営)→シャペル山(営)→ハラダ(営)→マケロテ(営)→タハテ(営)→テラ(営)→ミテカ(営)→ハシモナ(営)→モセラ(営)→ベネヤカン(営)→ホルハギデカデ(営)→ヨテバタ(営)→アブロナ(営)→エアエジオンゲベル(営)→チン(営)→ホル山(営)エジプトを出て40年経過し祭司アロンが死ぬ。→ザルモア(営)→プノン(営)→オボテ(営)→イエアバリム(営)→イイム→デボンガド(営)→アルモンデブラタイム(営)→アバリム山(営)→モアブ平野(営)→ベテエシモ→アベルッテムであった。モアブの平野においてエホバはモーゼに、ヨルダンからカナンの地に入るにはそこにある国、民をことごとく滅ぼし、民に多くの産業を与えるといった。流浪の民から戦闘による建国の民への移行期となる。

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第34章: イスラエルの民が占領したカナンの地の境界を定めておこう。本書巻末にある「イスラエル定着時代のカナン地図」を上に掲載する。本章に出て来る地名は上の地図では何一つ発見できません。文章の地名が古くて今は変わっているかも知れない。ただしイスラエル12支派の名前は、南からシメオン、ユダ、ダン、ベニヤミン、ルベン、エフライム、ガド、マナセ、イッサカル、ゼブルン、アセル、ナフタリは確認できる。
南の境界: エドムに接するチンの廣野より南の境は塩海(死海)の東の端まで。境はアクラビムーチンーカデシバネアーハザルアダルーアズモンーエジプトの河
西の境界: 大海(地中海)
北の境界: ホル山ーハマテ―ゼダテ 境はジフロンーハザルエノン
東の境界: ハザルエノンーシバム 境はシバムーリブラーキンネレテの海の東
モーゼは10のイスラエルの支派に籤で領地を分配した。ルベンの支派とガドの支派には32章に述べたようにその領地は決めたあった。この土地の分配を決定した人々は祭司エレアザルとユシュア、各派代表より牧伯一人を選んだ。ユダ支派の子孫カルブ、シメオン支派の子孫サムエル、ベニヤミン支派の子孫エリダテ、ダン支派の子孫ブッキ、マナセ支派の子孫ハニエル、ゼブルン支派の子孫エリザパン、イッサカル支派の子孫パルテエル、アセル支派の子孫アヒウデ、ナフタリ支派の子孫パダヘルであった。
第35章: エホバはモーゼに祭司レビ族のための邑と耕地を12支派の土地から割譲して与えるべしと命じた。逃遁邑(人を殺しても遁れられる、逃げ込み用の邑)6つと邑42あわせて48邑を支派の産業の大きさにあわせて分譲した。ヨルダン川の西の3カ所の逃遁邑とヨルダン川の東カナンの地に3カ所の逃遁邑を設ける。殺人には故意を持って殺せば必ず犯人は殺されるが、逃遁邑は殺意がなく事故で殺した場合の救済策である。その裁判は会衆が行う。証人が一人では人を殺すことはできない。
第36章: マナセの子らの族長らがモーゼに申すに、(第27章に述べた女子相続権)もし家産を相続した女子がほかの支派のものと結婚すると、派の財産が他に移動することになる。モーゼはエホバの裁定は父祖の支派の家にのみに嫁ぐことを条件とすべきという。

2-5) 申命記

申命記は34章(82頁)からなる。申命とは律法(神の定めた倫理規定、禁忌規定)を述べることこと。モーゼの十戒が繰り返される。ほとんどの内容は神との対話である(宗教心)。
第1章: モーゼはエホバの言葉に従って、60万人のイスラエルの民を導いてエジプトを出てシナイの廣野を40年間さ迷ったことについては民数略記に書かれた通りである。40年目の11月1日モーゼはイスラエルの全会衆に向かってヤコブの命を伝えた。これはモーゼがへシボシに居るアモリ人の王シホン、アシタロテに住むパシヤンの王オグを滅ぼしたのちのことである。すなわちモアブの地において律法を説き始めた。アモリ人の山、平野に出て、カナン人の地レバノンからユーフラテス川まで進みその地を獲得せよ。この地こそエホバがアブラハム、イサク、ヤコブに約束した地である。一人では征服はおぼつかない、組織的な行政体制を整備し、支派の中から知恵があり信頼できる人を選んで千人の長、百人の長、50人の長、十人の長を選び支派の官吏とする。民数略記第13章に述べたように12人のカナン偵察隊を派遣し、その結果会衆は進出論と悲観論に分かれたことは第14章に書いた。第14章に積極進出論をカルブ、ヨシュアが主張したが、大勢は悲観論となりセイルでアモリ人に敗れて後退論となった。民数略記第21章までそのことが書かれている。
第2章: 民数略記第33章に書かれているが、モーゼはセイル山において北へ向かいセイムを通過する方針に変わった。セイル山にはエサウの子孫が住んでいるので、争いは避け平和裏にアラバの道を通りエラテとエジオンゲベルを通ってモアブの廣野に出た。この地は昔ロトの子孫にアル(レバイムの国)を与えて産業をなさしめた地なので、この地を掠めたり争いを起こさないようにとモーゼは命じた。カデシバルネアを出てゼレデ川を渡るまで38年かかった。アルにはアンモン人が住んでいた。第21章に書いたように、ヤリズの戦いでヘシボシの王アモリ人シホンを滅ぼした。
第3章: 次いでヨルダンの地バシヤンの王オグとエデレイの戦いに臨んで、ヘシボシの王シホンを破ったようにバシヤンの王オグを撃ち殺し、アルゴブの60の邑を取った。アルノン川からヘルモン山までを二人のアモリ人の王から奪い取った。すなわちヨルダン川の東の平野の一切の邑ギレアデの全土とバシヤシの全地とサルカ・エレイなどバシヤシにおけるオグの国を悉く取った。これらの取った土地アロエルとギレアデ山地の半分をルベン人とガド人に与えた。またギレアデの残りの地とバシヤシの全地をマナセの半支派に与えた。これはレバイムの国と称せられる。マナセの子ヤナセはアルゴブの全地を取りハヲテヤイルとなずけた。マキルにはギレアデを与えた。これまでイスラエルの民は半牧半農で必要な時軍人となっていたが、ここでモーゼは市民と軍人の区別を設けた。軍人はイスラエルの子孫に先だって戦地に派遣され、家族と親族は一族の邑に留まることを定めた。一族の居住地と軍人を切り離し、一族は与えられた地(産業の地)を離れない方式となった。ここでモーゼはエホバの事業であるヨルダンからレバノンの征服の指揮を執りたいと願ったが、エホバはこれを許さずモーゼの息子ヨシュアを育てて、彼の地の征服はユシュアに任せると宣言した。
第4章: シナイ山で神エホバとイスラエルの民との契約をしてから、モーゼが率いる苦難の放浪生活から約束された地カナンを征服するまで何十年かかったろうか。ホル山でアロンが亡くなるまで40年、それからまた40年近くは経過したであろうか。今はモーゼがこの世を去る日が近い。モーゼは新たな地において法と律法を守ることを誓う。民に向かってモーゼは説教する、汝らは自ら慎み心を正しく保て、その事を汝らの子孫に教えよ、エホバが2枚の石版に記した十戒を思い起こせ、天を見上げてこれを拝み奉ることを止めよ、我はヨルダンの地まで行くことはできないが、汝らは進んで彼の地を産業とせよ、エホバが禁じた偶像やすべての像を刻むな、汝の神エホバは焼き尽くす火、嫉妬神なり。汝らが困難にあってエホバの言葉に従うなら、エホバは慈悲深い神である。汝らを滅ぼさず契約を忘れ給うことは無い。エホバは天と地において唯一なる神であり、他に神はいない、エホバはヨルダンの東に3カ所の逃遁邑を作られた、ルベン人のためにベゼルに、ガド人のためにギレアデのラモテに、マセナ人のためにパシヤンのゴランの3つである。
第5章: 新たにホレブにおいてエホバはイスラエルの民と契約を結ばれた。「出エジプト記」第20章にいわゆる「モーゼの十戒」を記した。ここに繰り返されているが省略する。
第6章: この法と律は神が汝らに命じられた戒めと法度である。命ある間つねにエホバを畏れ、戒めと法度と律を守って命を長く保つためのものである。エホバは唯一の神である、片時も忘れず忘れず教えよ。汝の神エホバを試してはいけない。義と善を行え、子孫が問うならば、エホバは民をエジプトから導き出し恐るべき徴と奇蹟を行い給いし神と答えよ。
第7章: 約束の地に住む多くの民族、ヘテ人・ギルガル人・アモリ人・カナン人・ペリジ人・ヒビ人・エブス人の7つの民を撃つ時、ヤホバは彼らをことごとく滅ぼすべきと命じた。これは彼の地の娘らがイスラエル人と結婚し、異教の神を持ち込むからである。だから異教徒の娘と婚姻してはいけない。汝らはエホバが選んだ民である。そしてエジプト王パロの手から救い出し契約した土地に導いたのであった。エホバとの契約を守るならば民に幸いと繁栄をもたらす。汝ら敵を恐れるな、エホバを信じて命令を実行せよ。これらの国人を滅ぼしつくし、敵の神の像を焼くべし。
第8章: 神エホバはこの40年汝らをシナイの廣野に迷わせた。これは汝らを苦しめて試すためであり汝らの心が如何なるものか戒めを守るかどうかを知るためであった。「人はパンのみで生きるにあらず、人はエホバの言葉によって生きるものなり」という有名な言葉が記されている。立派な家、良い生活や食事をし、家畜も増えて収入が多くなると人は驕リて神を忘れるであろう。汝の神エホバを憶えよ、それは汝に資財を得る力を与えるのは汝らの先祖との契約があるからである。
第9章: ヨルダン川を渡って強い国々を撃ちその地を取るのは、汝らの義しさのあるのではなく神エホバが汝らの前から彼らを追い払うからである。汝らにこの良き地を得させるのは汝らが義しいからではなく、汝らが項の強き民(反抗的で頑固で物分かりの悪い)だからである。苦難の時期に何度も神のいうことを聞かず神を怒らせた。偶像を鋳った。項の強き民を見た。だからイスラエルの民をして他の民より強く大きな民としたい。その時神は2枚の契約の石板を打ち砕いた。モーゼが40日間水もパンもとらずに必死に神の許しを請うた。またアロンが神を怒らせた時、モーゼが祈った。こうしたイスラエルの民の過ちは何度も神を怒らせ、神は民を滅ぼそうとした。
第10章: その時エホバはモーゼに命じた。もう一度2枚の石板を木の函に入れて山に上れ、そこに戒めの言葉を刻んでモーゼに手渡した。エジプトを出て40年たった時、モセラの地のホル山で祭司アーロンはなくなり息子エレアザルが後を継いだ。モーゼの率いるイスラエルの民はグデゴダからヨテバに移り、レビ一族の支派を分かちて契約の函を担がせ、今日までエホバに仕える身となり、一切の財産は持たなかった。エホバが望まれることはイスラエルの民がエホバを畏れこれを愛し心を尽くしエホバに仕えることである。民は70人を持ってエジプトを去り、今日エホバが星の数ほど多くなした。汝らは心に割礼を行い重ねて項を強くすることなかれ。汝ら旅人を愛せよ、汝らもエジプトを出て旅人であったからだ。
第11章: エホバがエジプト王パロを滅ぼしたこと、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアラビム一家を地に飲み込んだことを思い起こせ。汝ら我の戒めをことごとく守るなら汝らは強くなり、渡りゆく地に入りてこれを得ることができる。その地は豊かな地である。エホバの言葉を魂の中に蔵め、手に結びて徴とし子らに教え語ること、家の柱と門にこれを書き記すべきである。カナンの地に住んでいた他民族を追い払い、汝らは強大な国を得ることができる。みよ我汝らの前に祝福と呪詛をおく。エホバの戒めを守る人には祝福を、異教を祀りエホバとの約束を守らない人には呪詛をおく。勝敗の分かれ目はこれによるのである。
第12章:エホバは汝らが追い払った国々の民がその神に仕えたところはすべて壊して焼き払う、アシラ像も焼けと命じた。ヨルダン川を渡りエホバが汝らに約束した地に住むことができるようになったら、安息日を設けて燔祭と生贄と礼物を携えてエホバの住む幕屋に来るべし。そこにおいてはエホバが給う祝福に応じて、汝らが好む獣畜を汝らの家の門のうちに殺し、その肉を食うことができる。ただしその血は食べてはいけない地に灌ぐべき。こうしてエホバの前にて快楽を取ることが出来る。燔祭を行うときはその血をエホバの壇の上に灌ぎその肉を焼いて食うべし。汝らが追い払い殺し尽した国の民に倣って自らも罠に落ちないよう慎め。我が命じた一切の言葉を汝らが守りおこなうべし。
第13章: 預言者、夢見る者が徴証と奇蹟を汝に示して、他の神々に仕えることを勧めるのは、エホバが汝らが心を尽くし精神を尽くしてエホバを愛するかどうかを試みるためである。夢信じてはいけない。夢見る人は必ず殺すべきである。それは一つの邑全体で行われるならば、その村に住むものを殺しその村を焼き払い永く荒れ跡となり再建できないようにすべきである。
第14章: この章の前半は食べてはいけない穢れのある動物のリストである。「レビ記」第11章に書かれた通りなので省略する。穀物、酒、油、牛羊の産物の収穫である什一(収穫物の10分の1を税とする、土地税のこと)を食べることができ、他はエホバに献じる。基本は現物主義であるが、遠い所は金に換えて納めてもいい。定められた市に出かけ、望むものを金に換えることができる。3年の末にその年の産物の10分の1を自分の家に蓄えることができる。これからレビ人の生活費、孤児・寡婦に食わせる。これが福祉の始まりである。(自分のものにできる比率が少なすぎる。経済的な意味を掴めない)
第15章: この章は商法の道徳に関する定めである。借り貸しの契約は7年後に解消される。いわば徳政令である。隣の人や兄弟に貸した者は催促してはいけない。兄弟の貧しい人の救済の道は開かれていなければならない。貧しき者はいつまでも国に頼ることはできないので、兄弟の困窮者、貧しい者を助けなければならない。イスラエルの兄弟であるへブル人の男または女を買った場合、7年めには解放しなければならない。なにかものを与えて解放すること。イスラエルの民がエジプトで苦しい生活をしていたことを忘れてはいけない。雇人の2倍のものは与えるべきである。
第16章: エジプトを脱出した日を記念して、アビブの月にエホバに向かって逾越節を行う。逾越節のやり方についてはレビ記第23章に書いたとおりである。この章の後半に社会の行政組織について述べる。支派に従い士師と官人を立て義しい審判を行い民を裁くべし。偏るべからず、賂を取ってはいけない、公義だけに基づいて裁くべきである。
第17章: 疵のある不完全な牛羊はエホバに献げてはいけない。エホバの目の前で悪事を行い、エホバ以外の神をあがめる男女のことを聞いたなら、よくさて査べて本当ならば、家の前に引き出して石で撃ち殺すべきである。ただ証人は2,3名が必要である。裁判の手続きは、権利の争いごと、血を流す暴力沙汰があっても自分には裁けない場合、祭司または士師に相談すべきである。彼らが裁きの判断を示すだろう。もし相手が祭司または士師のいうことを聞かないなら殺してよろしい。国に王を立てたいというならば、エホバが選ぶ人を王にするべきだ。一族の支派より兄弟を王に立てるべきで他国の人を王にしてはいけない。王たる人は、馬を多く持たない、妻を多く持たない、金銀を己のために蓄えない人を選ぶべきである。
第18章: 祭司たるレビ人の支派は領地は無く財産も持たない。生活の資は民より与えられる。エホバの火祭の品々、産業のものを食うべし。民がエホバに犠牲を献ぐ時は牛にあれ羊にあれその肩と頬と胃を祭司に与える。穀物と酒と油、羊の毛の初物を祭司に与える。祭司は神エホバの忌み嫌うことをしてはいけない。息子または娘を火にくぐらせてはいけない。占い、邪法、魔術、法印を結ぶこと、死人と会話をするものはエホバは赦さない。エホバの選んだ預言者のいう事を聞くこと、エホバの名を持って語る言葉に従わないものは罰せられる。預言者はエホバの名を持ってほしいまま語り、他の神々を語ることは固く禁じる。その預言者は殺される。
第19章: 民数略記第35章に述べた、3カ所の「逃遁邑」をヨルダン川の東に新たに獲得した領土にもうけることは述べた。殺意なく人を殺した者の救済策であり、故意に人殺しをした者がこの「逃遁邑」に逃げ込んだとしても、その村の長老たちが引きずり出し復讐人の手に渡す。「命には命、眼には眼、歯には歯、手足には手足もって償うべし」
第20章: 敵と戦争をするとき、敵の数の多さや馬や車を見て怖気ついてはだめだ。汝らにはエホバという万能の神がついている。祭司がこれを告げて民を鼓舞すべきだ。ある邑に攻め込むとき、まず敵には平穏に下ることを勧めるべきで、下るなら貢物を入れて仕えさせるのがいい。相手が戦うつもりなら攻める。男はことごとく殺し、女子供家畜は悉く奪え。これは遠方の敵を相手とする場合で、エホバが汝らに与えて産業とさせた邑では息をする者は一人も生かしおいてはいけない。ヘテ人・アモリ人・カナン人・ペリジ人・ヒビ人・エブス人は根絶やしにすることである。
第21章: 路上に殺された人を発見し、犯人が分からない場合一番近い邑の長老たちが祭司の立ち合いのもとに牝牛を谷で殺しエホバに献さげ、自分達に罪はないことを贖罪する。戦いで奪った女を妻にする場合一月の間は女に嘆く猶予を与えた後妻とすべし。もし女が汝を好まない場合釈放しなければならない。二人の妻が居て、好きでない妻に長子が居る場合、これをさしおいて好きな妻の男の子に財産を継がせてはいけない。「長子の権」があるからだ。そして長子に2倍の財産を与えなければならない。わがままで親の言うことを聞かない放蕩息子は邑の長老たちと図って邑の人全部で彼を撃ち殺してよい。吊るし首で刑死した者の死体は一晩中樹に吊るしておいてはいけない。その日のうちに埋めなければならない。土地が穢れるからである。
第22章: 第22、23、24、25章は生活上の倫理、広く言えば民法、罰の刑法に関することが述べられています。箇条書きにして述べます。
* 兄弟の牛や羊が迷子になっているのを見て見過ごしてはいけない、必ず知らせるべし。一時的に自分の家に保護して還すべきである。遺失物を見た時もそうすべきである。
* 女は男装してはいけない、おとこは女装してはいけない。
* 木の上や地上で鳥の巣に母鳥と雛鳥が居るとき、両方を取ってはいけない。雛鳥が欲しいなら母鳥を巣から離れさせて取るべきである。
* 果物園に異種の種をまいてはいけない。それらが皆聖物となるからである。牛とロバをあわせて耕す事をしてはいけない。
* 毛と麻の混紡の衣類を着てはいけない。衣服の裾の四方にふさをつけるべき。
* 妻を娶り嫌になったからこの婦人は処女ではなかったからと誹謗する場合には、長老たちに諮り婦人の父母を証言者として裁定する。その誹謗が妥当でないときはその男は鞭打ち罰金の刑にする。イスラエルの処女に悪しき汚名を負わしたのだから、男は一生妻としなければならない。もし訴えの通り処女でなかったら、女を父の家の門の前に引き出し邑の人ら石を持って撃ち殺すべし。密通する男女は共に殺してよい。
* 処女の婦人が結婚の約束があるにもかかわらず、ある男が邑の中でこの婦人を犯したなら、邑の門に男女を引き出して石で撃ち殺すべき、女は邑の中でありながら叫ぶことをしなかったからである。もし男が結婚の約束がある婦人を野において犯したなら、男だけを撃ち殺すべきである。女はお構いはない。野では助けを求めて叫んでも助ける人が居ないからである。もし男が婚約の約束のない処女を犯したならば、その父に罰金を払い一生その婦人を妻とすべきである。
* 人は父の妻(母、義理の母)を娶ってはいけない。
第23章:* 男の陽物を切り落とした者はエホバには入信できない。私生児はエホバに入信できない。アンモン人、モアブ人はエホバに入信できない。イスラエルの兄弟にあたるエドム人は憎んではいけない。またエジプト人も憎んではいけない。この国にはお世話になったからである。
* 軍隊を出して敵を攻めるとき、悪事を働いてはいけない。図らずも穢れたひとは軍営の外に出るべきである。夕方水で身を洗い暗くなってから営内に入ることができる。
* 営の外に便所を設け、用が済んだら土をかけて埋めること。陣営内は清潔に保つこと。
* 主人を嫌って逃げてきた僕(奴隷)を主人に返してはいけない。汝の領地内で養うこと。
* 娼妓、男娼は禁止する。娼妓・男娼の得たる金はエホバへの礼物として用いてはいけない。
* エホバへの請願を果たす事をエホバは褒める。誓願をかけなくても罪ではない。礼物は約束したとおりに実行すること。
* 葡萄畑で葡萄を食べることは赦されるが、それを器に入れてはいけない。隣の麦畑に入ってその穂を食べることは赦されるが、鎌を入れてはいけない。
第24章:* 妻を娶りて、妻の欠点に気付き我慢できなければ妻を離縁することができる。この妻と再婚はできない。
* 妻を娶って1年間は、軍役、職務から免除される。良き家庭を作るためである。 
* 人は轢臼を質に入れてはいけない。命をつなぐ大事なものであるから。
* 祭司レビ人のいうことは良く守るべきである。
* 隣の家にものを貸すときは,その家に入って質物を取ってはいけない。借りた人がその質物を外に出してから受け取るべきである。困窮者の雇人を虐げてはいけない。彼に与える給与はその日の夕方までに支払うべきである。他国の人、孤児、寡婦だからと言って審判は曲げてはいけない。
* 父と子は親子であるが故に殺してはいけない。(連座制)その罪によって殺されるのである。個人責任制を規定している。
* 田畑で穀物を刈るとき、一束を忘れたとしてもこれを取りに行ってはいけない。他国の人、孤児、寡婦に取らすべきものである。神はそれを喜ばれる。自分の苦しかった時期のことを忘れてはならない。
第25章:* 人と人の争いがあって裁判を求めるときは、士師(支族の長、牧伯、長老)が裁く。鞭打ちの刑の回数は罪の大きさを裁量するが、40回を越えてはならない。
* 穀物を挽く牛には口籠をつけてはならない。
* 兄弟の中に子供のいない者が死んだ場合、その妻は外へ出さないで、兄弟がこれを娶りて妻とし、その財産はその子に継がせる。イスラエルの血を絶やさないためである。その婦人を妻にしたくないと言い張る兄弟であるなら、妻は長老に訴え、長老は家を守るべきだとしてこれを行わない兄弟に唾して軽蔑の意を表する。
* 汝の袋には大きい衡石と小さい衡石の2種を入れておいてはいけない。公正なる衡石を用いて商いをすべし。升も同じである。
* エジプトから出たころ弱みに付け込まれてアマレク人に襲撃されたことを忘れるな。アマレク人を滅亡させてその痕跡さえ残すな。  
第26章: エホバの与え給うた土地で初めての収穫は籠に入れてエホバに捧げるべし。祭司に礼物を手渡し、エホバの壇の前に置く、そしてエホバに感謝の言葉を述べるのである。イスラエル人の先祖は哀れなスリア人であったが、エジプトに行き居候している間に子孫は増え次第に強大となった。エジプト人は我らに圧力と負担を重くし、我らはエホバの神に窮状を訴え、エホバは強き手を差し伸べてエジプトより我らを導き出し、この乳と蜜の流れる地を我らに与え給う。我神エホバの前に礼拝をなすべきである。神は産物の十分の一をレビ人と旅人と寡婦と孤児に与えよと言われるのでその通りにしております。神は法と律を行うことを命じられたので、誠心誠意これを守り実行しています。戒めを守れば神は我々に福祉を与えてくださる。
第27章: ヨルダン川を渡りエホバの与えられた土地に至り、これを記念して石で壇を作りそこに律法を書くべしとエホバの命が下った。場所はエバル山の上に石を積んで石灰で固めて作った。その上に石の壇を築いた。その上で燔祭を捧げ、また酬恩祭を行うべし。モーゼは民に命じて言う。ヨルダン川を渡りし者はゲリジム山で民を祝うこと、イスラエルの支派の族長らは次の呪いの言葉を民に告げるべしと。次に「呪いの言葉」(民の戒め)を箇条書きに示す。
* 父母を軽んじるものは呪われる。(アーメン)
* 隣の境界を侵すものは呪われる。(アーメン)
* 盲目をして路に迷わしめるものは呪われる。(アーメン)
* 旅人・孤児・寡婦の審判を曲げるものは呪われる。(アーメン)
* その父の妻と寝るものは呪われる。(アーメン)
* 獣畜と交わるものは呪われる。(アーメン)
* 母の娘、すなわち姉妹と寝るものは呪われる。(アーメン)
* 暗の中で隣を撃つものは呪われる。(アーメン)
* 報酬を受けて罪なき者を殺すものは呪われる。(アーメン)
第28章: エホバの戒めを守るならば他の国の人の上に立つことができる。諸々の福祉(幸福)が約束される。敵が汝らを襲うときもエホバはこれを打ち破り給う。イスラエルの民がエホバの名を称えれば、他の地の人は汝を畏れるであろう。もし汝らがエホバの言葉に聴き従わなかったら、諸々の呪いが降りかかる。呪詛と恐れと譴責を蒙らせられる。疫病、熱病、傷寒、瘧、刃傷、枯死、汚腐がもたらされる。また雨の代わりに沙と灰が降る。敵に打ち破られ、諸々の国で虐待され、その屍は鳥と獣の餌食となる。エジプトの風土病である痘瘡、痔、疾がもたらされる。目が弱り盲目者のように道に迷う。汝の男の子女の子は他国の民のものになろう。心が狂わんばかりに痛めつけられる。さらに他国の神(自然物崇拝アニミズム)に仕えることになる。蝗が産物を食い尽くす。汝らはさらに低い地位に貶められる、他国の人の下に立つことになる。飢え、渇き、裸になるだろう。(キリがないので以下罰の惨状は省略する)
第29章: エホバがホレブの地でイスラエルの民と結んだ契約はアブラハム、イサク、ヤコブに告げられたたものである。エホバがモアブの地で結んだ契約はモーゼ、アロンに告げられた。40年間シナイの廣野をさ迷ったイスラエルの民はエホバの戒めと導きを信じて、ヨルダン川に東カナンの地に至り、先住民との戦いに勝ってこれをルベン人、ガド人、マナセの半支派に与えられた。この契約はイスラエルの民との間の契約のみならず、征服された土地の者やエホバを信じる者とも結ぶものである。異教を信じる者、土地の神を奉じる者にはエホバの憤怒と妬みの情念が燃え災禍が降りかかるだろう。エホバがその地に流行らせた疾病を見よ、ソドム、ゴモラ、アデマ、ゼポイムの破壊された跡を見よ、それはエホバの戒めを守らず異教を信じたが故である。
第30章: この呪詛と祝福の事は汝らには経験済みである。汝らが他国の囚われの民となるとも、エホバは諸々の国に散らばった汝らを集めよう。必ず汝らを先祖の地に帰らしめ土地を保つことだ出来るようにしよう。割礼をして心からエホバを愛するなら生命を与えよう。そして汝らはエホバより命じられた一切の戒めを行うであろう。この律法の書に記された戒めと法と律を守り心を尽くして精神を尽くしてエホバに帰すことになる。エホバは汝らの前に命と幸福および死と禍を置く。
第31章: この章では預言者モーゼからヨシュアへ交代することことが述べられている。モーゼすでに120歳を超え、ヨルダン川東の新天地へ移ることが困難となった。エホバがかって述べたように、新指導者ヨシュアが民を率いてヨルダン川を渡ることになった。モーゼはヨシュアに向かって一切のイスラエルの民の前にてこう宣言した。ヨシュアよこの民とともに往け、昔エホバが約束した地に入れ、心を強くしてその地を獲得せよと。モーゼはエホバの契約の函をレビの子孫たる祭司および長老たちに授けた。7年の末年すなわち結茅の節において、イスラエルのすべての民の前でこの律法を読み聞かせよ。エホバはモーゼに告げ、お前の死ぬときは近づいている、集会の幕屋の前にヨシュアと共に立て、彼に命じることがあると。集会の幕屋に立つと雲の柱になかにエホバが顕れ、モーゼに言った。汝は先祖と共に眠るだろう、イスラエルの民は他の神々を慕い、我を棄てて我と結んだ契約を破るだろう。エホバがいう歌を書き記してイスラエルの子孫に伝えよ、歌を口に念じてイスラエルの子孫に向かって我の証しとせよ。(詩歌、お経、御詠歌の類)艱難が汝らに臨むときはこの歌は彼らの証しとなろう。またエホバはヨシュアに命じて言った。イスラエルの子孫を約束の地に導いたので心を強くしてがんばれ、私は汝と共に居る。モーゼはレビ人の祭司に、この律法の言葉を書に漏らさず書いたので契約の箱の横に置いて証しをなす者とする。イスラエルの民はわからずやが多いので私が生きている時も汝らはエホバに反抗した。私が死んだあとはなおさら悪しきことをなし、私が命じた道を踏み外す事だろう。災害が臨んだときそれは汝らがエホバの言ったことに反する行為をしたからである。こうしてモーゼはイスラエルの全会衆にこの歌を語り聞かせた。
第32章: この章はエホバの歌です。全文は結構長い(4頁ほど)。「天よ耳を傾けよ我語らん、地よ我が口の言葉を聞け、我が教えは雨の降るごとし、我が言葉は露のおくがごとし、・・・・エホバその僕の血のために返報をなし、その敵に仇を返し、その地とその民の汚穢れをのぞき給へばなり」 全文は詩歌であるので読んで味わっていただくしかない、モーゼはヨシュアとともにこの歌を民に聞かせた。モーゼは、今日汝らに証しの一切の言葉を汝の心に蔵め、子孫にこの律法の言葉を守り行うことを命じるべし。この言葉は汝らの命なり。ヨルダン川を渡ってその地で汝らの生命を永くすることができる。モーゼはエホバが言う通り、モアブの地アバリム山に登り、ネボ山からカナンの地を見渡した。アロンがホル山でなくなりその民に連なったように、モーゼはアバリム山でなくなった。
第33章: 神の人預言者モーゼはその死ぬ前にイスラエルの子孫を祝う言葉を遺した。エホバはシナイから来たりてパランの山より光を放って現れた。右手には輝ける火があった。モーゼはイスラエルのすべての支派の首領たちに向かって祝福した。ユダ、レビ、ベニヤミン、ヨセフ、エフライム、ゼブルン、イッサカル、ガド、ダン、ナフタリ、アセル、エシユルンの12支派に黙示録のような祝いの預言を与えた。
第34章: モーゼ、モアブの平野よりネボ山に登り、エリコに対するピスガの嶺に至り、ギレアデの全地をダンまで見渡し、ナフタリの全土、エフライムとマセナ、ユダの地を西の海まで見て、南はエリコの谷をゾアンまで見た。そこでエホバは我がアブラハム、イサク、ヤコブに約束した地はこれだ。汝の目には見せたが汝は行くことはできない。こうしてエホバの僕モーゼはモアブの地で亡くなった。モアブの谷に葬られた。時にモーゼ120歳、喪の期間は30日あまりであった。ヌンの子ユシュアは智慧のある者で、モーゼの後継者となった。イスラエルの中には、後モーゼのような預言者は起こらなかった。モーゼは神エホバと面を会わせて知る者であった。


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