170801
文藝散歩 

パスカル著 塩川徹也訳 「パンセ」
岩波文庫 上・中・下(2016年7月)

17世紀フランスのモラリスト文学の最高峰 パスカルの人間研究と信仰告白に迫る

パスカル     「パンセ」
ブレーズ・パスカル          「パンセ」 岩波文庫全3冊

本書「パンセ」にはいる前に、ブレーズ・パンセについて常識的な範囲で紹介する。ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal 1623年6月19日 - 1662年8月19日)は、17世紀のフランスの哲学者、自然哲学者、数学者、物理学者、思想家、キリスト教神学者である。早熟の天才で、その才能は多分野に及んだ。ただし、短命であり、39歳で逝去している。死後『パンセ』として出版されることになる遺稿を自身の目標としていた書物にまとめることもかなわなかった。「人間は考える葦である」、「クレオパトラの鼻」といった多くの名文句やパスカルの賭けなどの多数の有名な思弁がある遺稿集「パンセ」は有名である。その他、パスカルの三角形、パスカルの原理、パスカルの定理などの数学・物理学の発見で知られる。キリスト教徒としてはカソリックのポール・ロワヤル学派に属し、ジャンセニスムを代表する著作家の一人でもある。自然科学の分野では、パスカルは幼少の頃から天才ぶりを発揮していた。まだ10歳にもならない頃に、三角形の内角の和が二直角である事や、1からnまでの和が(1+n)n/2である事を自力で証明して見せたと言われている。パスカルが少年の時に、教育熱心な父親は一家を引き連れパリに移住する。パスカルは学校ではなく、家庭で英才教育を受けた。父親は自然哲学やアマチュア科学をたしなんでおり、その知識をパスカルに授けた。しかも、自宅には当時の一流の数学者や科学者が頻繁に出入りし、自宅は一種の「サロン」や「サークル」の状態になっていたという。1640年、16歳の時に、『円錐曲線試論』を発表し、17歳の時には、機械式計算機の構想・設計・製作に着手し、それを見事に2年後に完成させた。幾何学の分野では「パスカルの定理」、数論の分野では「パスカルの三角形」、「確率論」の創始(賭け・賭博)、微積分の分野ではサイクロイドの求積問題、物理学の分野では「パスカルの原理」(流体の平衡についての理論)の提唱(物理学における圧力の単位、パスカルに名を残している)が著名である。モラリスト、哲学者、キリスト教理学の分野では、パスカルは社交界に出入りするようになってからは、人間についての考察に興味を示す。オネットム((紳士,教養人)という表現を用いる。1654年、再度、信仰について意識を向け始め、ポール・ロワヤル修道院に近い立場からものを論ずるようになる。1656年 - 1657年、『プロヴァンシアル』の発表。神の「恩寵」について弁護する論を展開しつつ、イエズス会の道徳観を非難したため、広く議論が巻き起こった。また、キリスト教を擁護する書物(護教書)の執筆に着手。そのために、書物の内容についてのノートや、様々な思索のメモ書きを多数記した。だが、そのころには、体調を崩しており、その書物を自力で完成させることができなかった。ノート、メモ類は、パスカルの死後整理され、『パンセ』として出版されることになり、そこに残された深い思索の痕跡が、後々まで人々の思想に大きな影響を与え続けることになった。神の存在について確率論を応用しながら論理学的に思考実験を行った「パスカルの賭け」など、現代においてもよく知られているパスカル思想の多くが記述されている。『パスカルの賭け』において、パスカルは、多くの哲学者や神学者が行ったような神の存在証明を行ったわけではない。パスカルは、そもそも異なる秩序に属するものであることから神の存在は哲学的に(論理学的に)証明できる次元のものではないと考え、同時代のルネ・デカルトが行った証明などを含め哲学的な神の存在証明の方法論を否定していた。パスカルは、確率論を応用した懸けの論理において、神の存在は証明できなくとも神を信仰することが神を信仰しないことより優位であるということを示したのである。哲学の分野では、ルネ・デカルト流の哲学については、理性に関係する特定の分野でのそれなりの成果は認めつつも、神の愛の大きな秩序の元では、デカルト流の理性の秩序が空しいものであることを指摘した。また、「哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである」とする有名な記述も残している。懐疑論を重要視するというパスカルの態度は、後の19世紀に登場する哲学者フリードリヒ・ニーチェ以後の哲学史において現代哲学の流れはパスカルの「反哲学の哲学」に共鳴したといわれる。では次に本書 パスカル箸「パンセ」について概要を紹介する。「パンセ」はパスカルの遺した文書を関係者が編纂した遺稿集であり、死後8年を経た1670年、「死後書類の中から見いだされた宗教および若干の主題に関するパスカル氏の断想(パンセ)」という題名で公刊された。これはパスカルが遺した全未刊行原稿ではなく、紙片に書き残されたメモ程度(手紙の裏に書かれた走り書きも含め)の文章・言葉で、原稿といえるものではないかもしれない。比較的主題を持ちそうな文章の取捨選択の文集である。断想という17世紀フランスのモラリスト好みの名前を付けたのもパスカルではない。したがってパスカルが「パンセ」を書こうという気で集められた原稿ではない。この観点でいえば、パスカルが宗教と人生について折に触れ記した断想に内から興味深い者を抜き出して後世の人が編集したアンソロジー(詞華集)であるといえる。実際、深い宗教体験に貫かれた信仰の書、あるいは人生の実相を抉り出すモラリスト文学、あるいは傑出した個性の魂の告白の書というとらえ方で長い間読み継がれてきた。しかし19世紀中頃より、遺稿の一部ではなくパスカルの遺した文章をすべて収録し、パスカルの人と思想の全体像に迫る編集方針がとられるようになった。これが近代版「パンセ」の目指すところです。読者もまたアンソロジー的な読み方からパンセの全容を見渡す読み方に変わりつつあります。パスカルは生前キリスト教の正しさを弁証し、その徳性と聖性を高揚する書物を構想し、その準備を進めていたことが分かっています。その構想がどのようなものであったかを推測する「パンセ」の文献学的研究が飛躍的に発展した。そこで「写本」を底本とする「パンセ」の新版が幾種類も公刊されました。なかでも邦訳の多くはブランシュヴィック版に依拠していました。訳者の塩川徹也氏は、氏の師であるメナール氏の編集方針に従い、パスカルの意図と構想を可能な限り跡付けるため、写本の配列を考慮しています。完成された初稿があるなら何の問題も発生しないのだが、この「パンセ」には決定稿がない、というより原稿の原形もない。すべては読む人の忖度にあるので、意見の数だけ版がある。そこで厄介な凡例問題が生じる。本訳書が底本としたのは既存の刊本ではなく、「第1写本」と「第2写本」だそうだ。あわせて「写本」と総称する。本訳書は結果としてルイ・ラフェマ版「パンセ」と同じ構成となった。写本を底本とする「パンセ」は20世紀中頃から各種の版が編纂された。ラフェマ版以降の研究成果に基づく版には、ルゲルン版、セリエ版が普及している。

1) 「パンセ」の構成

パスカルが遺した原稿とはどのようなものだったのだろうか。それは大きさも形態も、紙も分量もまちまちの62束の書類であった。それがどのようにして上のような目次に配列できたのだろうか。書類の束をファイルと呼び、「写本」はファイルの在り方を尊重し原稿を筆者している。ファイルは二つの部類に大別される。一つはパスカル自身がタイトルを付けた27束のファイルであり、目次が写本に残されている。この部類のファイルをAとし、それに配列番号をつけてA1から27として必要に応じてタイトルをつける。A1「順序」、A2「むなしさ」・・・と表記する。第二の部類(Bファイル)はそれ以外のファイルである。B1からB35まで全部で35ある。パスカル自身のタイトルはは付されていない。本訳書では第1写本に従ってファイルを配列したそうである。写本は第1写本と第2写本と2種類あり、第2写本には第1写本には含まれない小さいファイルが一つあり、第1写本と配列は一致しない。「写本」は両方ともフランス国立図書館に所蔵されている、電子図書館「ガリカ」でその複写版が公開されている。パスカルの原稿はさまざまな形態と大きさを有しているが、1冊の大判のアルバムに貼り付けられた状態で保存されている。このアルバムを「パンセ原本」と呼んでいる。あるいは「肉筆原稿集」と呼ぶ。この原本が作られたのはパスカルの死後で、1680年から1711年までの間である。原本もフランス国立図書館に所蔵され、電子図書館「ガリカ」で公開されている。刊本「パンセ」は、1670年に「死後書類の中から見出された宗教および他の若干の主題に関するパスカル氏の断想」という題名で刊行された。これを「ポール・ロワイヤル版」と呼んでいる。刊本は現在までに数十種類にのぼり、なお新版の試みがある。「パンセ」はパスカルの断想集の題名であるが、それを構成する文章も「パンセ」と呼ばれる。フラグマン(断章)は断片のことであるが、多くの断章の区切りと輪郭は編集の結果であり、版によって異同がある。したがって断章番号に通し番号を振る場合刊本では独自の番号付けがある。本訳書は大筋において「ラフュマ版」の番号付けを採用した。パスカルが遺した原稿は未定稿である。そこで「写本」を定稿としなければならない。決定稿ではなく最終稿(写本)を翻訳の対象とした。本翻訳書は普通の読者では訳注なしでは断章を理解することはかなり難しい。かなり長大な訳注が必要である。これには翻訳者の学識の豊かさに依存している。本文より訳注の方が多いくらいである。煩雑ではあるが訳注によって脈絡がつかめるのである。パスカルはパンセの構想で多くの本を参照し引用している。中でも新旧の「聖書」、「エピクトテス語録と提要」、「モンテーニュのエセー」、デカルトの「哲学原理」であった。特にモンテーニュの「エセー」はパスカルの枕頭の書であり、引用数においても最も多い。ついでに岩波文庫の「パンセ」全三冊の分量について記しておこう。上巻(Aファイル)480頁、中巻(Bファイル)638頁、下巻(C・Dファイル、補遺・語録、序文、アンソロジー他)436頁である。合計で1554頁である。岩波文庫 塩川徹也訳 「パンセ」の目次を見ると、
上巻  第1部 「写本によって伝えられるパンセ」 ファイルA 目次によって配列されたファイル(断章1−382) 
ファイルA1:順序  A2:むなしさ A3:みじめさ A4:倦怠および人間の基本的性質 A4:現象の理由 A6:偉大さ A7:矛盾 A8:気晴らし A9:哲学者 A10:最高峰 A11:A・P・R A12:始まり A13:理性の服従と私用、そこに真のキリスト教がある A14:この神の照明方法が優越していること A15:人間の認識から神への移行 A15の2:自然は損なわれている A16:他宗教の誤り A17:宗教を愛すべきものにする A18:宗教の基礎および反論への返答 A19:律法は表徴的であった A20:ラビの教え A21:永続性 A22:モーゼの証拠 A23:イエス・キリストの証拠 A24:預言 A25:個別の表徴 A26:キリスト教の道徳 A27:結論
中巻 第1部 「「写本によって伝えられるパンセ」 ファイルB 目次によって配列されないファイル(断章383−918)
ファイルB1:総覧 B2:護教論的論説1 賭け B3:護教論的論説2 宗教的無関心の反駁 B4:護教論的論説2の2 B5:護教論的論説3 堕落と贖い B6:ユダヤ人の状態1 B7:ユダヤ人の状態2 B8:ユダヤ人の状態3 B9:ユダヤ人の状態4 B10:ユダヤ人の状態5 B11:堕落 B12:預言1 B13:預言2 B14:預言3 B15:預言4 B16:預言5 B17:預言6 B18:預言 ユダヤ人の状態など B19:表徴 B20:権威と信仰など B21:幾何学の精神と繊細の精神1 B22:幾何学の精神と繊細の精神2 B23:雑纂 B24:雑纂2 B25:雑纂3 B26:雑纂4 B27:雑纂5 B28:雑纂6 B29:雑纂7 B30:雑纂8 B31:雑纂9 B32:奇蹟 バルコスへの質問状 B33:奇蹟2 B34:奇蹟3 B35:エズラの作り話
下巻 第2部 「写本によって収録されていないパンセ」
ファイルC オリジナル原稿が残されているパンセ(断章*1-*59)

@「ペリエ写本」に筆写されていたパンセ A「原本」に残されているパンセ Bその他
ファイルD オリジナル原稿が残されていないパンセ(断章*60-*92)
@ポール・ロワイヤル版に収録されたパンセ A「ペリエ写本」に筆写されていたパンセ Bその他
補遺・語録
ポール・ロワイヤ 版の序文
「パンセ・アンソロジー」

2) パスカルの時代

パスカル「パンセ」とは如何なる書物だったのだろうか。備忘録だったのか、キーワード集だったのか、素描集だったのか、内容としては単語一つの場合もあり、一節になりうる数頁にわたるまとまった内容を持つ場合もある。パスカルの頭の中では物語は繋がっているかもしれないが、前後の連絡が省略されているようで意味や文脈がとれないことが多い。だから訳者や識者による訳注なしには読み切れない本である。読者を全く意識していない段階でのメモであればそれも仕方がない。なんせこれは本ではないのだから。なんとか意味を持たせようとさまざまな試みがなされ、様々な推測からさまざまな版が生まれた。読む人の参加番組みたいなところが大きい。そのためまず16世紀中ごろのフランス思想界や社会の背景を知っておく必要がある。15世紀のルネッサンス以降近代化の出発点では、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452−1519)、ニュートン(1642−1726)、ライプニッツ(1646−1716)の時代には万能の天才が輩出する精神発展状態があった。パスカル(1623−1662)はその一人であり、数学・物理学・文学・哲学・宗教のいずれの分野でも指導的活動を行った。しかもその多面的活動は分離しているのではなく密接に関連していた。彼においては科学的な合理的精神は、人間性について繊細なまなざしを向け、他方では自然と人間を超越する次元に展開し宗教的啓示に一体化して働いている。このことは「パンセ」においても混然一体になって表れている。「パンセ」は書物といっていいかどうかためらわれるが、パンセに現れる文章を書いたのはパスカルである。しかしパスカルは「パンセ」という書物を書いたのではない。パスカルはパンセに収録された文章をいかなる意図で書いたのか、また後世、誰によって「パンセ」がいかなる目的で編まれたのだろうか。1670年に刊行されたポール・ロワイアル版「パンセ」の序文(岩波文庫下巻に収録されている)によると、パスカルは生前「宗教に関する著作」を構想し、執筆の準備を進めていたそうである。キリスト教が確実で明証的であることを、宗教に無関心あるいは批判的な読者に証明することを眼目としていたという。それは「キリスト教擁護論」の分野に属し、「キリストの弁明」とも呼ばれた。自然科学者と思われていたパスカルがどうしてこのような企画に導かれたのかを彼の生きた時代背景から考えなければならない。パスカルの多面的な活動の中でまず注目されるのは数学と自然科学である。彼は科学革命といわれる17世紀前半にフランスのクレルモンで生まれた。父は税務関係の行政官で、業務上数学に長けていた。父は妻をなくしてパリに移り住み、科学者のサークルに出入りしたという。子どもたち(姉妹とブレーズの3人兄弟)には英才教育を施した。ブレーズ・パスカルは学校に行ったことは無く、スコラ哲学とは無縁であった。パスカルの科学上の数学と物理学の業績については本文冒頭に簡単に示したので省略する。しかしそれと同時にパスカルは熱烈なカトリック教徒であった。父から、すべての信仰の対象は理性の対象にはなりえないという教えを受けた。当時のルネッサンス文芸運動と哲学がもたらした反キリスト教的合理主義の風潮とは無縁であった。国民の大部分がカトリック教徒であるフランスにおいては宗教は生活の日常であった。17世紀のフランスは宗教改革による教会分裂を受けてカトリック教会内でも宗教改革の動きが高まった。なかでもポール・ロワイアルという宗教集団が有力で、修道院を中心とした活動を行い、宗教界の重鎮サン・シラン(1581−1643)の実践的指導を受けた。パスカルは1646年サン・シラン氏の感化を受けて回心し、ポール・ロワイアルの霊性に帰依した。パスカルは父の教えを固く守って理性と信仰、科学と宗教を峻別し、宗教の神秘は理性に従属させることを拒絶した。1651年に父が他界し、妹が修道院に入るとパスカルはサロンに出入りしいわゆる「世俗時代」を送った。1654年までパスカルは科学研究に打ち込み真空の研究や計算機の試作に埋没した。パリ数学アカデミィでは、数学者フェルマー(1610−1665)と共同して確率論(賭けの理論)に取り組んだ。神の恩寵と人間の自由意思をめぐって、16世紀後半以来カトリック教会を二部する大論争がおきた。1640年フランドルの神学者ジャンセ二ウス(1585−1638)の遺著「アウグスチヌス」が刊行され、イエズス会の神学者とポール・ロワイアルの指導者サン・シランの果てしない論争が起きた。サン・シラン氏はジャンセ二ウス支持派の代表であった。この中でパスカルは理性と信仰を峻別したうえで、信仰を理性で説明しうる立場をとった。これが「キリスト教擁護論」の萌芽となった。この「世俗時代」にパスカルは社交界の紳士で「自由思想家」、シュヴァリエ・ド・メレ、ミトンと親交を結び「紳士道」でいわゆる「普遍的人格」形成を議論した。又この時期パスカルはモンテーニュ(1533−1592)の「エセー」を読み、モンテーニュの理性批判に深く共鳴した。モンテーニュは理性に基づく科学研究の限界を示して、その外側にある人間固有の領域を研究する「人間の研究」を主導した。パスカルはこれを「繊細の精神」と呼んだ。1654年11月23日夜パスカルは神を体験し信仰に生きる決意をした(第2の回心)。その出来事を一枚の紙片に書付け胴着の裏に縫い込んだ。これが「メモリアル」である。翌年パスカルはポール・ロワイアル・デシャンの修道院に隠棲し、ルメトール・ド・サシ(1613−1684 )と哲学、宗教の関係について会話を交わした。同じころパスカルは護教論に関する二つのテキストを執筆した。一つはパスカルの論理学としての「幾何学的精神」である。もう一つは「恩寵文書」である。どちらも未完の小品である。アウグスティヌスの恩寵論である。ジャンセ二ウスの「アウグスティヌス」では、「神の恩寵はすべての人間に与えられるわけではない。しかし与えられた恩寵は効力を持ち人間の意志を導き、それに従わせる」というもので、人間の自由意志は無きに等しい(他力本願と自力本願の違い)。カトリック教会は両者の両立を説くので協会に背くことになる。ローマ教皇インノケント十世は1653年5月、勅書「クム・オカジオーネ」を発布して、ジャンセ二ウスの「アウグスティヌス」の五命題に異端宣告を下した。ジャンセ二ストの拠点といわれるポール・ロワイアルは教会と王権から弾圧され、いわゆる五命題を認めるかどうかが踏み絵となった。ポール・ロワイアルはパスカルの著した「プロヴァンシャル」によって反論した。厳格な恩寵論に立脚して、論敵イエズス会の自由主義的な倫理神学、とくに許容主義的な(ご都合主義的な)「決疑論」を批判した。「聖荊の奇跡」が起きたのは、1656年3月24日のことであった。修道院にいた姉シルベルトは長年眼病を患い治療の効果もなかったが、聖荊の破片を目に押し付けると眼病が完治したという。こうしてイエスの奇跡の意味に対する考察に展開した。自由思想家を標的にしてキリスト教の真理を明らかにするポール・ロワイアルの護教論になった。1657年以降、護教論の著作の準備に取り掛かった。1658年パスカルはポール・ロワイアルで講演を行い、著作の構想を披露したことが「パンセ」の序文に書かれている。1958年パスカルは激しい歯痛に襲われ、気を紛らわすため数学の問題(サイクロイド曲線を回転させてできる立体の求積問題と重心を求める問題の回答を得た。これはアルキメデスの求積問題と重心問題に似ており、微積分学の先駆けとなった。1659年初めパスカルは重病に陥り1年以上すべての活動を停止し、1660年秋著作の準備を再開するが、病状は悪化して1662年8月に死去した。

3) 「パンセ」編纂の歴史

生前パスカルの名前は自然科学者としての名声であり、思想や宗教面での意見発表は第2の回心以来匿名でやってきたため、その全容は誰も知らなかったといえる。世間の耳目を集めた「プロヴァンシャル」の発表は地下出版であり、著者の身元は秘匿されていた。死後もその秘密は守られていた。いわんやこの「パンセ」の原稿断章を書き綴っていたことを世間は知る由もなかった。しかし遺族と友人たちはこの類まれな知性と深い聖性に強い印象を受け、その記憶を保存しようと動き始めた。パスカルが護教論敵著作を準備していたことを知っていた友人らはその遺稿に紙片の断片に書かれた断章の累積を認め、素材がばらばらに散在しているだけであることを発見した。そこからパスカル遺稿集の出版が計画された。1670年に出版されたポール・ロワイアル版の編集者たちは次のような3つの編集方針で臨んだという。
@ 文書をそれが発見されたのと同じ状態で直ちに出版することで、一切の手を入れないということである。しかし「雑然として順序もなく、意味がとれず、何の役にも立たない瓦礫の山」になるだけという理由ですぐさまこの方針は退けられた。
A 原稿にあらかじめ手を入れ、パンセの意味を明らかにし、不完全なものは完成させパスカルの意図をくみ取るというもの。いわばパスカルの未完の書を補充して完成させる方針である。しかしこの方法は著者の意図を正しく判断することは不可能であり、パスカルの著作ではなく他人が書いた著作になってしまう危惧がありこの考えも却下された。
B 残された断想から最も明快な主題を持ったものだけを取り上げる。同じ主題に関する断想は同じ表題の下に分類し、あまりに晦渋で不完全な断想は採用しないという方針である。断想の内容、主題に基づく区分である。意味がとれるように改変したり、つなぎの文章を入れたり(脚注や訳注を本文に入れてゆく)方針で、19世紀以降の文献学では禁じ手である。
こうした紆余曲折を経て1670年(死後8年)に「死後書類の中から見出された宗教および他の若干の主題に関するパスカル氏の断想」はようやく刊行された。「ポール・ロワイアル版」と呼ばれ、編集者の危惧に反して多くの読者を獲得し1世紀以上読み継がれた。著者パスカルの「パンセ 断想」を収録したという体裁はとっているが、そもそも「断想」とはどういう意味なのだろうか。基本的には「思索、思想」という意味であるが、要するに大思想家、作家が遺した「言葉」であり、「パンセ」には「簡潔な表現に凝縮された思索あるいは着想」である。作家が意図して表すときは「警句」、「暗喩」と呼ぶ。それに対してパスカルの「パンセ」とは、現実的には「断章(フラグマン)と断想(パンセ)」であった。「ポール・ロワイアル版」は採録した文章を主題別にまとめて全部で32項目に分類したが、明確な二部立てはなっていない。大筋で護教論的議論と人間学的議論(モラリスト文学的)を展開した。その分類も明確ではない。18世紀の啓蒙思想家はパスカルの「パンセ」を愛読したが、パスカルの護教学的主張には賛同しなかった。ヴォルテール(1694−1778)は、「パンセ」の原罪的影響下の悲観的人間感、人類の邪悪性を強調する人間観に異議を申し立て、人間理性賛美の立場からの反論を展開した。1789年の革命によってフランスの国家・社会・思想は根本的な変革を受け、パンセの在り方や編纂の仕方に影響を与えたのは当然である。19世紀になってフランスロマン主義文学のきっけとなったシャトーブリアン(1767−1848)はパスカルを評価して「キリスト教の美」と賛美した。こうしてパスカルはフランス文学と思想を代表する作家として地位を確立していった。パスカルの遺稿は姉のジルベルトが亡くなった1687年から、その子ルイ・ペリエが遺稿を引き継ぎ、散逸の恐れがある遺稿を大型のアルバムに貼り付け1冊の仮綴じ本を作成、サン・ジェルマン・デプレ修道院図書館に寄託した。これがパンセ「原本」となった。「パンセ」の編集方針に大きな変革をもたらしたのは、哲学者ヴィクトル・クザン(1792−1867)です。「原本」は革命後フランス国立図書館に移され、クザンは原本とポール・ロワイアル版の違いを調査して原本に依拠すべきことを声高に叫んだという。恣意的な解釈と改竄からパスカルの姿が見えないという。これは「パンセ」は一私人の遺稿集を超えて人文主義とフランス文明を代表する古典に変貌したのであった。クザンの呼びかけに応じてプロスペル・フォジェール(1810−1887)が最初の「パンセ」近代版(1844年)を刊行した。恐らく初めてパスカルの構想を「キリスト教の弁明」と定義した。パスカルの構想を再構成する編集方針を採用し、二部構成(第1部/神なき人間の悲惨 第二部/神と共にある人間の至福)に従って断章を配列し、それ以外の断章は別置きとした。フォジェール版以降も20世紀前半までに主要な版は10指を超えた(1925年「シュヴァリエ版」など)。これは「原本」を定本とすることができないためで、原本はテキストの読みについては基準となるが、収録すべき断章の範囲や配列などの事項については拠り所とならなかった。一番確かな部分はパスカル自身が書き残した「順序」に含まれる諸断章だけで、これからこの未完の書物の面影を見ることができる。これに対して、パスカルのプランの再構成の狙いをきっぱり放棄し、遺稿断章を14のセクションにわけて、あたかも建造物の断片のようにその部位、意味、用途に特定し、種類別から分類し配列するというレオン・ブランシュヴィック(1869−1944)版の試みもある。20世紀中ごろから飛躍的な進歩を遂げた「パンセ」の文献学的研究は、「写本」がパスカル自身によって整理された現行の状態を再現できると考えた。ルイ・ラフュマ(1890−1964)版、ジャン・メナール(1921−)版などがある。問題の27束のAファイルは著作のたんなるプランを超えてそのスケッチ、シナリオに相当すると考えた。こうして「写本」は科学的で客観的な刊本の底本としての地位を獲得することになった。 1951年ルイ・ラフュマ版は第1写本を底本とし「パンセ」編纂の歴史に画期をもたらした。同じ第一写本に依拠する反としては、1977年ミッシェル・ルゲルン版がある。1976年第二写本の優位を唱えてそれに依拠する版を刊行したフィリップ・セリエ版もある。いまなお「パンセ」編纂研究は幕を下ろしたわけではなく、ジャン・メナールが新版を準備しているという。

4) 「パンセ」アンソロジー

アンソロジーとは、特定ジャンルから複数に作品をまとめたもの、または主題に沿って複数の作者の作品をまとめたものをいいます。具体的には選集、詞華集、歌選などをいい、日本では万葉集、古今和歌集以来のアンソロジーの伝統があります。別のジャンルでは立法全書もアンソロジーです。この「パンセ」訳本は写本を底本としていますので、「雑然として順序もつながりもない、何の役にも立たない瓦礫の山」になりかねません。そこで訳者塩川徹也氏は、その不満を和らげるため、パンセの全体的読解の手引きとなることをめざしてこのアンソロジーの章を設けました。パスカルが「いやそれは違う」と言い出すかもしれませんが、全体の流れや連絡を明快に把握するための、訳者の責任でまとめたものです。岩波文庫版で約90頁を占める相当な内容を含みます。パスカルの断章の採録にあたっては、@名文句として知られている箇所、Aパスカルの思想と信仰をよく表しているかどうか、Bパスカルのキリスト教擁護論の構想の理解に役立つかどうかの3点から抜粋して掲載したそうです。なおここに採録された文章はすべてパスカルのものであり、ほかの作品からも採録している。私もそれに乗っかり、写本そのものをまとめても理解不十分で脈絡を欠いた文章の瓦礫の山にならないよう、このアンソロジーの章をまとめてみます。パスカルが何を構想したのかを早わかりするため、@人間の研究、A護教論的考察、B信仰ー霊的瞑想の3つの部類を立て、それぞれの内容を配した。

T 人間の研究
長い間私は抽象的な学問(幾何学、自然科学)の研究に従事してきたが、それについて交流できる人は少なく嫌気がさしていた。人間の研究に移ってから多数の仲間が見つかるだろうと思ったが、人間を研究する人は幾何学を研究する人よりさらに少なかった。それは研究するすべを知らなかったので他のことを探求していたのだった。人間のことは分からない方が幸せなのかもしれない。
* 精神の働きとタイプ: 精神が豊かになれば、独創的な人間がたくさんいることに気が付く。並の人間では人々の差異が気が付かないだけである。幾何学精神は原理は単純であるが、普段なれ親しんでいないので疎遠なだけである。繊細な精神は(人間学 モラリスト精神)は普通に使用されているがみる目があるかどうかである。原理が多数で複雑である。繊細な精神は判断の領域であり、幾何学の精神は知性の領域である。哲学をバカにすること、これこそ本当に哲学することである。
* 言語とコミュニケーション: 言葉の配置、語句の配置を変えれば違った意味が生じるものである。意味は同じでも、それを表現する言葉に応じて変化が生じる。神学は一つの学問だ。多くの学問から構成されている。自然な文体を見ると嬉しくなる。モンテーニュを見て取ることはすべて私の中に存在することだ。実りある注意を与え、間違っているいることを示すには、相手がどの側面から見ているかを観察しなければならない。エピクテトス、モンテーニュ、サロモン・ド・チュルティの書き方は、日常のごく普通の会話に発する着想からできている。人間の一番の病は、自分の知らないことをあくせくと詮索する好奇心である。
* 紳士: 詩人や数学者は看板を必要とするが、紳士は能書きは不要だ。彼は紳士だということはこの普遍的な特徴だけである。すべてに度を越した専門性を持ってはならない。
* 私と他者: 容貌や特質にかかわりなく私は存在するのだろうか。すると私とは何か。人が私を愛する(注目する)のは私の性質だけで、私の存在を愛するわけではない。私に不正があるとしたら、私は私を憎み続ける。自己愛は自分の欠点を他人にも自分にも隠し続けることである。これは虚栄という。私たちは自分本来の存在のうちで自分の人生に満足できない。他人の心の中で形成される私のイメージに合わせてもう一つの想像上の自分を生きることを望む。人間の最大の卑しさは名誉の追求にある。人に評価されないと満足できないのである。
* 政治学ー力、想像力、正義: 圧政とは通常入手できないものを、他の経路を通じて入手しようと望むことである。自分には愛や信用を得るためになさねばならない義務があるが、それを為さないで他の務めを要求するのは不正である。想像力とはすべてを思いのままに操る。それは美と正義、幸福を不正に入手しようとする。意見や想像力に基づく支配は一時的であるが、力に基づく支配は永続的である。この世は力がすべてである。人間たちは支配勢力ができるまで戦うであろう。いったんそれが確立されると、戦争を継続する代わりに、今度は手中にある力が自分らの思いのままに受け継がれるように定める。ある支配者は人民の選挙に、他の支配者は世襲に求める。ここに想像力が活躍する。想像(共同幻想)によって結ばれた党派(貴族、人民)に保持される力のことである。むき出しの力は武力である。正義の総体を作るのは慣習である。これこそ正義に権威を与える神秘的な基礎である。正義はその根源において考察すると、砂上の楼閣である。普遍的なルールは通常は国法であり、新しくは多数決で決める。多数決は力であって正義ではない。力を欠いた正義は無力だ。正義を欠いた力は圧政だ。人々は欲望を基礎として、そこから統治と道徳と正義の素晴らしい規則を引き出した。プラトン、アリストテレスら哲人が最も哲学的なのは単純に平安に生きることだった。彼らが政治について本を書いたのは、狂人の病院の規則を作るようなものであった。この世には2種類の偉大さがある。制度上の偉大さは高位高官のことで、自然本性上の偉大さは人々の思惑には依存しない。
* 数々のパンセ: 考えが浮かぶのは偶然次第、それを保存するすべは無い。人間は否応なしに狂っている。私たちの思い上がりときたら、全世界に知られたい、それどころか私たちの死後にやってくる人にも知られたいと願うほどに強い。悪は無数にあるが善は一つしかない。しかし特別の悪が善とみなされる。真の友は実にありがたい。そんな友を得るのは全力を尽くさなければならない。健康な時は夢中になっていた気晴らしも、病気になるとその気が失せてしまう。私たちの気持ちを乱すのは、私たちが勝手に作り出す心配ごとだけである。かくされた美挙こそ尊重すべきである。(世阿弥 風姿花伝) 世の中には、神と自然のあらゆる掟を棄てた上で、自分勝手に掟を作りそれに厳格に従っている人々がいる。マホメットの戦士、盗賊、異端者、論理学者。人生の始めは無知の状態にある。しかし彼は絶えず学び続けて進歩してゆく。これは人類を一人の人間と考えても成り立つ。デカルト、無用にして不確実。アウグスティヌスにデカルトは1200年も違う時代だが同じことを考えた。「物質は本性的に考える能力は持たない。私は考える、だから私は存在する。」 物質的存在と精神的存在の区別を証明する帰結は実はこの言葉のうちにあった。

U 護教論的考察
* 護教論的の目標と方法: 人々は宗教を軽蔑し、宗教が真実であることを恐れている。そんな気持ちを正すには、第1に宗教が理性に反するものではに事を示し、次に愛すべきものとして善良な人々に宗教が真であってほしいと願わせ、さらに真実であることを示さなければならない。そのため第1部 神なき人間の悲惨、第2部 神と共にある人間の至福を明らかにしなければならない。信仰は証明とは異なる。証明は人間のことであり、信仰は神の賜物である。我知るではなく、我信じるといわせるのである。魂の二大能力である知性と意思がある。説得する相手のことを考慮して論破する術と同様に気に入られる術で接しなければならない。神は真理が心から精神に入ることを望み、精神から心に入ることは望まなかった。あの高慢な理性の能力を屈服させ、この薄弱な意思を癒さなくてはならない。人は愛によってのみ真理に参入することが神学の命題の一つとなった。
* 神なき人間の諸相: 人間のむなしさを知りたければクレオパトラの鼻が世界の歴史を変えたことに気が付く。武器なしには生きられないと考える獰猛な民族は、命以上に信念が大事になる。我々は自分のものである現在のときを大事にしないで、自分のものでない未来や過去の中に彷徨っている。川一筋を境にして正義が異なる。正義を作り出すのも流行である。人々の幸福についての見方が異なると、意思は一歩も動かない。悲しみの原因が全くない場合でも、生来の資質によって悲しみに陥る。惨めさのうちにある私たちを慰めてくれるのは、それは気晴らしである。人間は本質的でないことを大事にするので、現象は正から反へ逆転する。考えが人間の偉大さを作り出す。人間の偉大さは自分が惨めであることを自覚することである。ストア派の哲学者エピクテトスは君たちの道は間違っているとしか言わない。イエス・キリストだけは神が欲する道に導く。モンテーニュは信仰に光がなかったとしてもい、理性は如何なる道徳を命じるかを探求した人である。モンテーニュはすべてを全般的な懐疑のうちに置きます。自らを疑うこの懐疑の中にこそ彼の信念の本質がある。エピクテトスとモンテーニュの二つの学派の誤りの根源は、現在の人間が創造されたときの状態とは異なっていることを知らなかったことにあります。傲慢と怠惰という二つの悪に染まった人間は、人間の義務は知っていてもその無能力は知らなかったので傲慢に陥り、他方無能力は知っていても義務を知らなかったので怠惰に堕してしまうのです。かくして人間本性は矛盾しており不可解なのです。原罪は人間の目には狂気の沙汰であるが、そのようなものとしては提示されている。人間の偉大さと惨めさというこの驚くべき矛盾を、真の宗教は解き明かしてくれる。私態の唯一の不幸は神からの離反にある。すべての不可解なものは、それでも存在する。
* 神の探求への誘い: 神を探求しない者たちの盲目もまた神の存在の証拠である。私たちの魂は体の中へ投げ込まれ、そこに数、時間、空間を見出す。魂はそこから推論を行い、それを自然と呼び、それ以外は信じることはできない。上は存在するかしないかのいずれかであり、神の存在に賭けない人は、真と善を得ることはできない。賭けないとき君の理性と意思が傷つくことは無い、それなら賭けた方が幸福を得ることができる。神が存在する方を選んだとして、損得勘定ではすべてを獲得するが、負けても失うものがない。だから迷うことなく神がいる方に賭けるべきだ。理性の服従と使用、そこに真のキリスト教がある。しかるべきところで疑い、しかるべきところで決断し、しかるべきところで服従する術を知らなければならない。理性の最後の歩みは、自らを超えるものが無限にあることを認めることだ。我々はイエス・キリストによってのみ神を知る。同時に人間の悲惨を知る。己の惨めさを知らずに神を知るのは傲慢だ、神を知らずに己の悲惨を知るのは絶望だ。自分の尊厳の根拠は自分の思考に求めなければならない。思考によって私は宇宙を包み込んで理解する。人間は1本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。人間は自分が死すべきものであること、宇宙が自分より優位にあることを知っている。ここに道徳の原理が存在する。人間は明らかに考えるために作られている。永遠に沈黙するこの無限の空間、それを前にして私は戦慄する。要するの私は何も知ることはできない。数における無限と虚無、広がりにおける無限と虚無、運動における無限と虚無、時間における無限と虚無の間に自分が置かれたことを考察して、自分自身を知るのである。
* 聖書に基づくキリスト教の歴史的論証: 神は秘密のうちに隠れることを選んだ。聖パウロが言うように目に見える自然によって目に見えない神を認めた。聖ヨハネが黙示録で隠されたマナと呼ぶ秘跡です。律法は表徴的であった。暗号のようなものである。だからすべての対立を調和させる一つの意味を探さなければならない。人間の敵は自分の情念であり、贖い主は霊的な存在である。聖書の唯一の目標は「愛」である。旧約聖書のユダヤ族の最初から救世主メシアは信じられていた。アブラハム、ヤコブ、モーゼと続くユダヤ民族の指導者と預言者はイエスキリストの登場を預言していた。知性の秩序は、原理と証明からなりが、心には別の原理がある。イエス・キリストと聖パウロには、愛の秩序があった。イエスキリストは王者としてではなく、貧しい卑しい人間として登場した。私たちの宗教は、預言も奇蹟さえも、人を完全に説き伏せる力があるといえるようなものではない。人々においては服従の根拠が恩恵であって理性ではない。
* キリスト教の道徳: 唯一の真の美徳は、己を憎むことで、真に愛すべき存在を探求することである。私たちの中にあって、しかも私たちでないものを愛さなければならない。それは普遍的な存在しかない。神はその幸福を知るような存在、考える手足として寄り集まって一つの身体を構成するような存在を造ろうとされた。そこへ魂を投げ込まれた。魂は手足が自分自身を愛する以上に手足を愛する。
* 信仰とは何か: 信仰は神の賜物である。理性を与えたが、理性は信仰に導きはしない。神を感じるのはこころであって理性ではない。信仰には3つの手段がある。理性、週間、霊感である。キリスト教は理性と習慣を排除するわけではない。しかしへりくだった心で霊感を待ち受けなければならない。

V 信仰ー霊的瞑想
 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、キリスト教の神は、愛と慰めの神である。イエスの奇蹟は「十字架上の七つの言葉」に集約されている。イエスは受難において人間たちの加える苦痛を耐え忍ぶ。3人の弟子は眠っている。イエスを置き去りにする。こうしてイエスはたった一人で神の怒りの前に打ち捨てられた。イエスはアダム以来の人間の救いを成就された。そして自身のすべてを父なる神に委ねられた。イエスは刑場の徒を罵倒しないし、ユダを敵意で見ないで友と呼ぶ。すべて世にあるものは肉の欲(感覚欲)、目の欲(知識欲)、生のおごり(支配欲)である。この三つの欲でこの地は呪われる。信仰の道に入ることに苦痛はつきものだ。不信仰が苦痛を引き起こすのである。生まれながらの自然の悪徳が、超自然的な恵みに逆らうからである。彼らは生涯心を尽くして、神の意にかなうように、神を探求しなければならない。私は貧しさを愛する、すべての人に対して信義を守る。神によって結び付けられた人々には心からの愛情を抱く。未来に対して、過去に対して心を煩わされてはいけません。本当に私たちのものであるのは現在だけです。この光栄のうちに、あなたは父と聖霊とともに世々にいたるまで生きておられるのです。

5) キリスト教護教論

パスカルはモンテーニュの「エセー」を模して「パンセ」と題する書物を書き残したわけではない。彼が意図していたの「宗教」すなわちキリスト教が人間の「真実」を知り、人間に「真の善」を約束する宗教であることを説明する「キリスト教護教論」のジャンルに相当する著作を執筆することであった。「パンセ」はその準備ノートを中核とし、それ以外の断章も合わせて編纂された遺稿集である。理性と信仰の境界に位置する護教論を挟んで、前に人間と理性の領域、向こう側に神と宗教の領域が存在する。

T 護教論のメッセージとパスカルの信仰
ポール・ロワイアル版の序文によると、パスカルは「キリスト教信仰のいくつかの真理を攻撃する者たちに理屈に反論する」ことを意図していたようだ。宗教上の教理と派閥争いには私はあまり興味はないが、パスカルが信仰していたキリスト教とはトレント公会議(1545−1563)を土台とする近世カトリシズムである。ドイツは聖書中心主義のルターのプロテスタントが主流であったが、フランスは政治革命の国として有名であるが、宗教は聖書と伝承を重んじる伝統のカトリックが主流であった。ローマ・カトリック教会の大枠の中にいた。教会組織は聖職者と一般信徒を区別して位階的秩序(司教ー司祭ー助祭)を設け、ローマ司教を最高権威とする教皇制であった。カトリシズムにとって個人の心的態度としての信仰よりは、客観的側面すなわち信仰箇条あるいは教理に表現される信仰であったという。一人の信徒として求道に励むだけでなく、ポール・ロワイアル教会組織の一員としてカトリック内部の宗教改革と教会改革の運動にも参画した。しかしこの運動は教会に異を唱えて新しい組織を作るつもりはなく、聖書と伝承からの逸脱する意見を正すというどちらかといえば保守的な流派であった。むしろ教会を支配していたのは、実存的功利主義(ご都合主義、決疑論)であった。これは融通無碍の現状是認派で、パスカルはこれを堕落とみたのであろう。パスカルの方が「護教論」的原理主義者である。さらにパスカルは聖教者ではなく呼びかける相手は教会トップの人々というよりは、パスカルの友達である。パスカルが交わりを結んだのは社交界の紳士、シュヴァリエ・ド・メレやミトンのような自由思想家であろう。パスカルのメッセージの中核にあるのは次の2点である。@人間の堕落、Aイエス・キリストによる人間の贖いである。メシアであるイエス・キリストは人間が神に対して犯した罪を人間に代わって引き受けることで罪を贖い、人間と神の関係を修復したということである。自由主義者の理神論は第2の視点を欠いている。無神論はその対極にある。そのいずれもキリスト教から遠く隔たっている。自然そのものによって堕落を示すのが第1部で、修復者が存在することを証明する第2部の前に置かれる。ファイルA2-10 でスケッチされた人間学は第1部を為す。人間の「むなしさ」と「みじめさ」は人間だけに与えられた自覚であり、「考える葦」の高貴さ、偉大さに転換される。人間は矛盾を抱えた「逆説」であり、不可解な存在である。人はそこから脱出するために真理と幸福を願って活動をするが、欲望を断念することもできない。いかなる活動も一時の「気晴らし」に過ぎない。今ここにない幸福を追い求めずにはいられない。動物にとって自然なことを人間は「惨めさ」と感受する。「不幸の感覚」である。人間の欲望は決して満足を知らない。休息が最大の幸福であるのに、「奔走すること」しか求めていない。これらの感覚は人間学の領域にとどまっているのに、パスカルはそこに「最初の本姓」とか「堕落」という宗教的なにおいをかいでいる。人間の堕落を「最初の人間の罪」としてしている。「創世記」で伝えられるアダムとエヴァの堕罪の物語を下敷きに考える。この人間の二重性の原因を哲学的な論説に求めるが説明できるものは無い。

だから今度は宗教に目を向けるのである。第1部の人間学で主張される人の堕落は、宗教的説明の必要条件であって十分な説明を為さない。解決は第2部の聖書によってはじめてなされる。堕落はキリスト教そしてユダヤ教の観点からすれば原罪とその遺伝の教説である。修復者はユダヤ教にとってメシアであるが、キリスト教にとってイエス・キリストである。自らのうちで人間と神の二つの本性を結合し、人間を堕落と罪から引き上げ、神との和解を実現した「贖い」の主であった。それがキリスト教なのである。イエス・キリストを通じて証明することが「護教論」の目的となった。パスカルにとって神の存在論的証明よりも優れた方法であると考えた。この方法の特徴は@神の認識とそれがもたらす幸福は人間の悲惨の認識と不可分であること、A堕落と贖いの中心にイエス・キリストを置くことは歴史的事実であると考えることである。@は理性ないしは推論による認識、Aは権威による認識と呼ばれている。以上を踏まえて「護教論」はキリスト教の歴史的論証に踏み込む。第1の課題はユダヤ人の旧約聖書そしてイエスの新約聖書が持つ物語が象徴的意味を持つだけでなく歴史的事実だと論証する。第2の課題は聖書のメッセージの解釈に関係する。ユダヤ民族が辿った歴史がパスカルの論証の鍵となる。旧約聖書ではモーゼ五書の信ぴょう性については、同時代人たちの証言が残されている。ユダヤ民族は旧約聖書の信ぴょう性については非の打ち所のない証人である。預言をめぐる聖書のメッセージの解釈がユダヤ教とキリスト教では対立する。ユダヤ教はイエス・キリストをメシアだと認定しない。ユダヤ律法が表徴であり、預言が暗号であるなら、イエスキリストが真のメシアであることを承認しなければならない。メシアの預言がキリスト教において実現したことは明らかであるとパスカルは言うのだ。パスカルは人間の現状の観察から出発して、作業仮説を立て、聖書からそれを歴史的事実とみなされるという検証を行った。これはかなり科学的、実証歴史的な方法である。パスカルは科学においても宗教においても、実在論の立場を堅持していた。キリスト教の歴史的論証では」ユダヤ人証人説が主導的な役割を果たした。神は自らを隠そうとしたという神感「隠れた神」が重要なキーワードである。量子力学の蓋然性(光子と電磁波)に似たような見える人には見え、見えない人には表れないという性質である。これはつまり「原理として受け入れなければ、神の業はいっさい理解できない」とする「ジレンマ論法」という無敵の論法を使用する。これは理性の名においてキリスト教を攻撃する自由思想家や無神論者に対して使用するロジックである。つまりユダヤ人は「神学的カテゴリー」による類型的人間型として使用され、必ずしも現実の歴史的ユダヤ人ではない。パスカルは教会には3種類の敵がいるという。@組織に参加したことがないユダヤ人、A組織から分離した異端者、B内側から組織を破壊する悪いキリスト教徒だという。Bは伝統に背く神学理論によってキリスト教の道徳原則を破壊しかねないイエズス会の決疑論者であり、道徳的に腐敗した怠惰な信徒である。一般的には人間の原罪を憎まない肉的な信者も含まれる。誰もが欲心から遁れられず、不正だとするなら「善いキリスト教徒」というカテゴリーは立てられない。人間と神との関係において主導権を握るのは神であり、それに呼応して人間の方が神に向き直り心を傾けるのが「回心」である。パスカルの信仰と思想の間には、霊肉両面での交流(コミュニケーション)が現実には機能していないという失望がある。原罪の中心にあるのは、自己中心的なエゴでありそれが神との交流を遮断しているだけでなく、人間の間の交流も阻害している。自分を中心に据えるのが不正である。私とは憎むべき存在である。この前提を解決したのが、イエス・キリストの贖いである。神と人間の交流を回復し、隣人愛を可能にした。「己を憎むこと」が真の美徳として命じられる。この自覚あるいは予感に導くことがパスカルの「護教論」の目指すところとなった。

U 人間と理性の領域
「パンセ」には護教論の構想と直接関わるとは思えない人間学的考察が、とりわけ雑纂の部類に残されている。Bファイル(3-31)には、精神の働きとタイプ、言語とコミュニケーション、美と美的体験、紳士の資質、法律と正義の根拠といった多岐にわたるテーマを論じている。これらの断想がモラリスト文学として「パンセ」の魅力として愛読されてきた。パスカルが「神なき人間」で言及する考察は人間の在り方と行動をありのままに観察し価値判断なしにさらけ出している。人間は己の領域を超えて全体を支配する支配欲から遁れられず、人間の感情、欲求、信念にはそれを正当化する根拠がない。それがむなしいということである。今ここにない願わしい目標に達することを幸福と考え、いつも幸福に飢えている。無限の空間、永遠の時間に飲み込まれる恐怖と虚無感、身体も頭脳も心情も変化してやまない人間に一貫した自分があるのだろうかという疑問は消えることは無い。本当に自分が存在するのだろうか。したがって自分が愛されることは不可能である。こういった悲観的で破壊的な考察は、予断を排した冷静な人間観察の結果はモラリスト特有の到達点である。キリスト教徒としてのパスカルの信念とどういう関係にあるのだろうか。キリスト教の最大の特徴はキリストの与えた愛であった。愛は対象とする人間の性質と価値を前提とするものではなく、神の愛は価値の評価に応じて注がれるのではなく、逆に愛が注がれることによって価値が創出されるのである。人の価値を前提とした人間的な愛は「卑しむべき私」を露呈する。このように「パンセ」のモラリスト的考察の背後には、護教論者のキリスト教的考えが常に控えている。パスカルが神中心、キリスト注進の強固な信仰を保持していたにもかかわらず、人間的領域の独自性とその価値に深い洞察を注いだ。それは個人の次元では「紳士」、集団の次元では政治社会の形成と維持に考えが及ぶのである。紳士の振る舞いはつまるところ私に偽装と隠蔽、自己愛の上手な使用かもしれないが、パスカルにとって紳士の特質は普遍性にあった。「…家」と呼ばれる専門家の肩書ではなく、「すべてのことについていくらかを知る」という意味で「普遍性」、バランスの取れた信念を表すものである。モンテーニュ−は「私という普遍的な存在」と呼んだ。社会的属性を剥ぎ取った一個の、しかし丸ごとの人間である。その自覚が社会的交流の糸口である。紳士の理想は、人間が堕落の中にあって、なお他者との全人的な交わりを可能とする証となると考えた。社会的関係の領域になると、自己中心的私と他人の私が共同して一定の社会経済政治的生活があるとした、19世紀のアダム・スミスの「国富論」がある。しかしパスカルの17世紀にはまだ共同社会は王国・領主国と教会の社会があるのみであった。「人々は欲心を基礎として、そこから統治と道徳と正義の素晴らしい規則を導いた」とパスカルは指摘した。この指摘はアダム・スミスの「道徳感情論」と同じ見解である。パスカルは政治社会の形成と秩序、秩序維持の指導理念となる正義と力の関係、それらを媒介する想像力などについて断片的ではあるが多くの考察を為した。むなしく惨めな人間が作り出す政治社会は君主制であろう共和政であろうと、政体の如何を問わず、不正を産みだし「狂愚」である。にもかかわらずある秩序が曲がりなりにも形成され平和がもたらされるのが見事だという。それに宗教を絡めると神権政治となる。それにはパスカルは反対する。宗教が政治に従属するのでもなく、政治が宗教に従属するのでもなく、政治に独自の論理と価値を見出すあくまで政教分離なのである。

V 神と宗教の領域
護教論の目標が、キリスト教信仰の正しさと神聖さを読者の知性に訴えて弁証することであるとすると、その先には信仰を実践することは神との交流、霊的瞑想について言及する課題が残されている。パスカルは自らのため、友人や身近な人に対して、自分の信仰告白を書き綴る。イエスの苦悩をめぐる瞑想「イエスの秘儀」、晩年の信仰の境地を示す「病の善用を神に求める祈り」などを書いた。友人や家族に宛てた手紙、信仰指導の手紙、「罪人の回心」、「恩恵文書」などの小品が残されている。ポール・ロワイアル版には「病の善用を神に求める祈り」などを収録している。しかし19世紀以降の「パンセ」の諸版は霊的考察の大半を「パンセ」から切り離した。それは「パンセ」のテキストを原則として「原本」と「写本」によって伝えられる文章に限るという編集方針が確立したからである。パスカルの信仰の領域については、パスカルがいかなる思索を展開したかは「パンセ」以外の著作も考慮しなくてはならない。パスカルが自らを「預言者」になぞらえていたことは確実であるという。イエスキリストがメシアであると証明し、キリスト教会が確立したならば、そこで預言者の役目はなくなったはずである。確立した組織と教義との関連では新たな預言者は危険でさえある。カトリック教会ではなおさらである。しかしパスカルは「内的で直接の直感によって神について語る」者、つまり預言者であると自覚していた。


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