文藝散歩 

 平家物語

高橋貞一校注 講談社文庫 佐藤謙三校註 角川古典文庫


日本文学史上最大の叙事詩    勃興する武士、躍動する文章


赤糸威鎧

「義経その日の装束には、赤地の錦の直垂に、紫下濃の鎧着て、鍬形打ったる甲の緒をしめ、金作りの太刀を帯き、二十四さいたる切斑の矢負い、滋藤の弓の鳥打の本を、紙を広さ一寸ばかりに切って、左巻きに巻きたる、これぞ今日の大将軍の符とは見えし」(平家物語・河原合戦より)という記述から、武将の戦陣のいでたちが彷彿と目に浮かぶ。上の絵は春日大社奉納の「赤糸威鎧」である。このような鎧姿で義経が登場する平家物語はまさに戦陣で生きた武将の物語である。

平家物語の序を読むと仏教書かと間違う。「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 生者必衰の理をあらわす 奢れる者久しからず 唯春の夜の夢の如し・・・・・・・・・」名文ではあるが線香くさい。平家物語は平家滅亡の物語である。平家の栄華の頂点とその歴史的意義を語らず、貴族階級の目から皮肉にも平家滅亡の因果応報のみを説くのである。だから、いわれるようにこれは平家の一門とその周囲の人々の「死に様」の物語である。ずべてが死に収束してゆく所こそ「平家物語」という作品の到達点であり、死の文学(タナトスの文学)と言われる所以である。日本人の好きな「滅びの美学」の情緒に訴えるところが愛読される理由の一つであろう。

私は平家物語を何度読んだろうか、朗読しただろうか。高校生のときからはじまりこの年になるまで愛読(愛唱)してきた。そして先日本屋で「平家物語}高橋貞一校注 講談社文庫を見た時、おやっ聞いた名前だと思えば、なんとこの校注者高橋貞一氏は私の高校生時代(京都市立西京高校)の国語の先生だった。私は国語と漢文を高橋氏から教わった。昼一番の授業だったので、皆昼寝をしながら寝物語に授業を聞いていた思い出が蘇る。先生は西京高校の教師から仏教大学の教授となり、平家物語研究者となっておられたことが分かった。これもなにかの縁だと思って、高橋氏の「平家物語」を読み直すことにした。源氏物語とは違って、平家物語は漢字かな混じり文で非常に分りやすい文章なので、誰でもそれほど抵抗なく読むことが出来るはずである。訳文では吉川英治氏の「新平家物語」で親しまれた方も多いのではないだろうか。高橋貞一氏は平家物語の各種流布本の系統分類・考証学の権威らしいが、そのような七面倒臭い話は先生には悪いが、ここではオミットする。平家物語の作者に6人いたとか、原「平家物語」は三巻からなり追加発展したとかいう伝説があるが、高橋氏はこのような一貫して流れる文章の響きは一人の作者の手によるしか考えら得ないと断定する。複数の作者や時代ごとに補充されたのでは、平家物語が持つ名文とリズムは保てない。また琵琶法師が平曲で平家を謡ながらブラッシュアップしたとか云う伝説も解せないと云う。そんなレベルの文章力では平家物語はできないのである。12巻の作品が一人の優れた文筆家の手により完成したと云うのが高橋氏の結論である。平家物語は鎌倉時代末期までは文献に現れない。何も分らないのである。

平家物語に影響を与えた物語に「保元平治物語」がある。平家物語と殆ど遜色ない文体とリズムが保元平治物語において完成していた。「保元平治物語」と「平家物語」は同じ流れの中で生まれた作品群である。平家物語は編年的記録様式ではあるが、平家物語の叙述には歴史的事実でないところも多い。作者の創作による優れた文学性が随所に認められるのである。源平の内乱とは源頼朝が挙兵して平家が滅亡するまでの5年間(1180−1185)で、平家の全盛期は平治の乱で平家の覇権が確立した1159年から数えると20年のことである。面白いことに源頼朝も当代一の代表的人物であったが、文学として源頼朝を描いた作品(歴史書「大鏡」は別)は古典には存在しない。すると平家物語に描かれた人物はまさに文学性に満ちた人物群であったに違いない。源頼朝は面白くもおかしくもない人物で絵にならないらしい。判官びいきのようなところも感じられる。平家物語は死の文学(タナトスの文学といったが、時代の歯車に噛み込まれてゆく弱い人間の運命を描いたところに文学性が窺われるようだ。明日の命も分らない人間の悲しみは救われない人間である。平家物語の深い味わいはこの人間の悲劇にあると考えられる。この辺を切々と謳うのが文学であり、歴史書では出来ないのである。人間の哀れさはこの時代の法然の浄土宗を抜きにしては語れない。嫌味にならない程度に人間の運命と浄土思想を絡ませてゆくところが「諸行無常」の響きとなるのである。

平家物語の諸本は実に多い。その系統分類学を高橋貞一氏は丹念にやってこられたのであろう。あまり深入りしたくはないが、盲目の琵琶法師の系統から諸本が発生したようだ。室町時代に、如一検校・覚一検校から「一方流本」、城玄より「八坂流本」の二つの流れができた。覚一より「覚一本系統本」と「流布本」が出来たらしい。高橋氏の本書は「流布本」である。徒然草226段に兼好法師は平家物語の著者として信濃前司行長の名を挙げるが、全く伝聞に過ぎず行長の事も分っていない。要するに鎌倉時代末期までに平家物語や平曲に関する正確な記録がないのである。覚一本が一番古いが、「流布本」は室町時代中頃に完成したようである。なお本書を読むに当っては、佐藤謙三校註「平家物語」角川古典文庫も参照した。


平家物語 卷第一

祇園精舎

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を現す。驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し・・・・・・」で平家物語は始まるのである。驕れる平清盛と平家一門の没落を描いた日本中世の一大叙事詩である。本当かどうかはしらないが、平家は桓武天皇の第五皇子からはじまり、高望王のとき平の姓をもらい、人臣に下る。国香より正盛まで六代は諸国の受領であったが殿上は許されていなかった。


殿上闇討

平忠盛(清盛の父)は鳥羽院のために三十三間堂を寄進し、但馬の国を賜り、昇殿を許される。ここから平家の運が上向きになった。このことを嫉む人々が忠盛を御所で闇討ちしようと狙っているところ、肌身に小刀をもち、大刀を女官にあずけ、庭には家貞を待機させておいた。殿上人は「伊勢瓶子はす甕なりけり」といって忠盛を嘲ったが、結局気勢をそがれて闇討ちは出来なかった。後日「刀を帯びて昇殿し兵を庭においたことは狼藉である。殿上人から抹殺すべし」と院に訴え出た。院は武士の習いとして訴えを受けず沙汰に及ばなかった。公家貴族(藤原氏)と武家との勢力が拮抗している様子が窺える。忠盛も蓄財に励んだようで御堂を院に寄進して取り入ったところは隅に置けない。


平忠盛は刑部卿になって、任平3年58歳で死亡し、嫡男清盛が継いだ。清盛は保元の乱、平治の乱を平定し丞相という権力のトップに上り詰めた。内大臣から太政大臣となり何一つ清盛の意に適わぬことはなかった。清盛が安芸守の時熊野権現に船で参拝すると、船の中に鱸が飛び込んできた。これは吉兆の縁起ということで、子孫の官途も速やかになり、9代の先祖の偉業を超える栄となった。


禿童

清盛51歳の時病になったが、出家して浄海となってから、病は回復し栄輝は猶一層となり、平時忠をして「平家に非ずは人にあらず」と嘯かしめた。そして三百人の禿童(かむろ)を都に放って情勢を収集し、平家の悪口を言う者を監視した。都中又御所内でもこの禿童を避ける有様であった。


我身栄華

平家一門の栄華は極まった。嫡子重盛は内大臣に、次男宗盛は右大将、三男知盛は三位中将、嫡孫維盛は四位中将へと進み、一門の公卿16人、殿上人30余人、諸国の受領衛府諸司60余人という具合であった。兄弟で左右の大将となった例は少ない。又女を摂関家に嫁がせ、閨閥を張り巡らせた。高倉天皇の后に娘を入れて安徳帝を生み建礼門院と称せられた。日本60余国のうち30余国が平家の知行となり、既に天皇家を超える経済力を有した。


妓王

白拍子という男舞いを舞う遊女、妓王、妓女と云う姉妹がいた。平安時代末期の芸人である白拍子の社会的地位は低く歌舞伎役者が河原乞食といわれたように、白拍子は遊女(遊び目)と呼ばれた。権力者清盛の寵を受け母と姉妹の三人は毎月米百石銭百貫というお手当てを貰って贅沢な暮らしができた。そこに白拍子の「仏」と云うライバルが登場し16歳と云う若さを武器に清盛の寵を奪った。清盛の西八条邸を追われた妓王姉妹は、又貧しい生活に戻って屈辱の生活に甘んじた。清盛の新しい愛人「仏」の慰みに妓王は清盛邸に呼ばれたが、情けない仕打ちに世をはかなんで親子三人で奥嵯峨の庵に逃げ、そこで念仏三昧の生活を送った。妓王21歳のことである。暫くすると「娑婆の栄華は夢の夢、楽しみ栄えて何かせん」といって、栄華を捨てた「仏」が妓王ら三人の仏道生活をともにすることになった。これで清盛の愛人達の仏道の共同生活となる。女達の反乱に出会った清盛はさぞ驚いたことであろう。平家物語はここに清盛のおごりを見よと云うつもりらしい。本文はかなりの長文の説話文学である。


二代后

源平の武士の争いが続くなか、天皇家でも上皇と天皇(後白河上皇と二条天皇)の親子の関係がうまく行かなかった。その時、先の近衛天皇の后(藤原多子、徳大寺公能の娘)がまだ二十二歳で色っぽい女ざかりであったので、これを二条天皇が后にしたいと宣旨をだした。二代の天皇の后の例はないとの論議があったが、結局入内となった。


額打論

永萬元年、二条天皇が病気となり回復が期待できないので、2歳で即位とは例がないと論議があったが2歳の宮を即位させ、そして二条上皇は亡くなった(御年23歳)。上皇の葬儀の夜、南北二京の比叡山と興福寺の僧らが額を打つ順番をめぐって「額打論」で乱闘になった。そこへ興福寺の悪僧観音房と勢至房が比叡山の額を打ち割って大騒動になったのである。南都と北都の護国寺の面子争いである。


清水炎上

翌々日、比叡山の僧徒が興福寺の末寺であった清水寺を焼き討ちに及んだ。この時、後白河上皇が比叡山の僧徒に平家追討の命を出したと云う噂が流れ、平家一門は六波羅に結集し色めきたった。上皇も六波羅に御行あったが(疑いを晴らすためか、窮鼠猫をかむ式か)、小松殿(平重盛)がその場を収めた。清盛はまだ不信の念を持っていたが、重盛の説得を受け入れ「重盛は優しいのだ」と言ったそうだ。西光法師は「天が言わしめた」と平家への恨みが高まっていることを匂わせた。建春門院(清盛の北の方の妹平滋子、御白河上皇の后)の五歳の子を二歳の天皇の春宮に立てることになった。そして天皇は譲位させられた。まさに平家の栄華の極み、専横の極みであった。建春門院の兄平時忠卿が殿上人の人事任命権を掌握した。


殿下乗合

後白河上皇がご出家され法皇となって政治を支配した。後白河法皇は内心は清盛が余りに天下をほしいままにしていることに、天皇家の威信をきずかわれているようだった。清盛も別に天皇家を恨む事もなかったのであるが、嘉応二年小松殿(重盛卿)の次男資盛の摂関家(藤原基房)への乱暴家狼藉事件が発生して世の乱れ始める兆しとなった。摂関家(藤原基房)が御所へ参内する道で、狩を終えて六波羅に帰る13歳の資盛一行30人の騎馬に遭遇した。摂関家の車に下馬の礼を取らなかったとして、基房は資盛一行に恥辱を与えた。これを聞いた清盛はいかに摂関家といえど清盛への侮辱であるといきり立ったが、重盛卿はわが息子に非があるとした。それでも清盛は納まらず、無骨者60余名に命じて基房卿の車を襲って舎人の髷を切って仕返しをした。鎌足以来の藤原摂関家への恥辱でもあった。重盛卿はこれを聞いて驚き、資盛を伊勢の国に追放して謝罪した。この話は藤原摂関家と武家の棟梁平清盛の勢力の争いで、清盛は摂関家を叩くことができたが、天皇家(藤原家とほぼイコール)の不興を買い、後白河法皇と敵対関係になってゆく。重盛卿はいつも清盛を諌める役を演じているが、重盛卿が平家一門と後白河法皇の折衝に当っていたことが分る。バランス役の政治家であった。


鹿谷

嘉応三年高倉天皇元服(後白河法皇と建春門院の子)し、清盛の娘を入内させる(建礼門院)。妙音院殿(藤原師長)は左大将を辞したとき、その後を志望する者に、徳大寺実定の卿、花山院兼雅卿、成親卿の三名が現れた。なかでも成親卿は神仏に願を立てていたが、そのころの叙位除目権は天皇にも摂関家にもなく、平家の意のままであった。小松殿が左大将に、宗盛卿が右大将になった。成親卿の悔しがることなのめならず。東山の鹿谷は城郭にて俊寛僧都(源大納言雅俊卿の孫)の山荘であった。そこに夜な夜な集まっては平家滅亡の謀を企てるやからがあった。そこには後白河法皇も参加した。清盛は後白河法皇を信用せず疑いの目で見ていたが、重盛卿は清盛と天皇家の間に立って調停に当っていた。やはり清盛が重盛のことを「優しすぎる」と評したことは的を得ていた。後白河法皇は平家打倒の志で動いていたのだ。そこに集まった面々には、静憲法印、平判官康頼、蓮浄、俊寛、雅綱、信房、資行、多田蔵人行綱など北面の武士も多くいた。ここで僧といってもおおくは藤原家の余り者であって、いつも権力を狙っていたのである。中世の時代は貴族と僧は分かちがたく同一階級にあって、権力を構成していた。寺は天皇家から荘園を貰って経済基盤はゆるぎない物を持っていた。


鵜川合戦

故少納言信西の家来の師光、成景は出家して西光、西景となったが、西光の子で師高は加賀の守に任じられ、近藤判官師経がその介として赴任した。師経は鵜川と云う山寺に乱入し戦いとなった。一千人で攻撃して坊寺全てを焼き払った。鵜川は白山の末寺であったので、白山に泣き込んで加勢を頼んだところ、白山側は2千人余りで師経の館を取り囲んだ。師経は逃れて都へ帰った。白山の僧は比叡山に訴えた。比叡山の僧徒は加賀の守師高の流罪と近藤判官師経の禁固を要求して朝廷に奏聞におよんだ。そこで朝廷は山門の訴訟をどうするかでもめることになった。この事は直接には平家には関係ないが、山門との戦いで前面に立つのはいつも武家の習いである。日本国の政治状況はきわめて狭くて、結局は天皇家と藤原家の血脈で成り立っている社会である。比叡山など大寺院は天皇家か藤原家の者が占めているので、いつもの強訴には朝廷も聞き入れざるを得ないのである。


願立

白川院の言葉に「わが心のままならぬもの、賀茂川の水、双六の賽、山法師」とある。昔のことだが、嘉保二年三月美濃守源義綱が荘園をめぐる争いで修験者を殺害した。これ比叡山が朝廷へ訴訟に及んだ。後二条関白藤原師道が源氏頼春に命じて防がせたが、比叡山側は大勢のけが人が出た。仲胤法印が後二条関白を呪詛したところ、後二条関白が病になった。その後二条関白の母が願を立てて、日吉神社と八王寺神社にさまざまな品と堂及び荘園を寄進したところ、山王が現れて母の願いを入れ、後二条関白に三年の命を延ばしてくれた。現金な神様ですね。密教呪詛で貴族を脅かして、荘園と云う経済基盤を得て肥え太り、僧徒と云う暴力組織を養い、又その暴力組織を使って訴訟を起すと云う、比叡山天台宗のやり口が見えてくる。これが中世の政治機構だったのである。鎌倉幕府や室町幕府が闘ったのは、弱体化した公家勢力ではなく、肥大化した寺社勢力であった。寺社が中世勢力の根源であった。これを徹底的に破壊したのが織田信長であった。織田信長の革命性はこの中世勢力の破壊によって近代の曙をもたらしたことだ。


御輿振

山門の僧徒は加賀守師高の流罪と近藤判官師経の禁固を要求したが音沙汰はなかった。安元三年四月、数知れぬ山門大衆が都に結集した。内裏の守りは重盛卿が三千人で主要な門を守り、源三位頼政が三百人で北門を守った。山門大衆は手薄の北門に回って神輿を門に入れようとしたが、頼政の泣き落としの屁理屈にあって、重盛卿が守る待賢門を攻める事になった。山門の衆は重盛卿に散々に蹴散らされ比叡山に帰った。頼政の泣き落とし話術が面白いが、敵も情けを知るもので和歌に優れた頼政の優男ぶりに免じて許したという、こういう雅なところが平家物語を面白くしているのである。


内裏炎上

神輿を先陣にして内裏に強訴することは六度に及んだ。今回は祇園社に神輿を入れた。その夜、再び山門の大衆が押し寄せてきたが、平時忠卿は「こちらには天皇がいるぞ」といって西坂本においてこれを追い返した。平家物語は平時忠卿の手腕をいたく誉めるのである。そして加賀守師高の免官流罪と近藤判官師経の禁固、神輿に矢を放った武士16人の処分を決めた。先ずは比叡山の言い分が通ったようだ。数日たった夜、内裏から火がでて悉く焼失した。大極殿はついに再建されなかった。比叡山の猿が手に松明を持って京中を焼くと云う噂が広まった。


平家物語 卷第二

坐主流

治承元年五月、比叡山の天台座主明雲大僧正、神輿入れ訴状が聞き入れられないので、恒例の朝廷での法会を中止し、護身仏の絵を戻させて護持僧を更迭した。鵜川合戦が行われた加賀に座主の領土がありそれを国司師高に奪われたことが不満の原因であった。朝廷では西光法師親子の讒言で法皇は激怒し、座主の処分が行われようとしていた。明雲は座主を辞し、鳥羽院の七の宮覚快が天台座主になった。院では旧座主罪科の議定の結果伊豆へ配所と決まった。滋賀の大津に明雲が至った時、比叡山の大衆が明雲を奪いとり、戒浄坊の阿闍梨祐慶が叡山東塔に招き入れた。これより阿闍梨祐慶は別名「怒坊」と呼ばれた。


一行阿闍梨

唐の一行阿闍梨が玄宗皇帝の激に触れ流された故事を紹介し、この節で禍は仏の権化も避けられないということをいう。


西光被斬

鹿谷で平家打倒を語った新大納言成親卿らは、今は山門のことで精一杯だったので、多田蔵人行綱は平家打倒は口だけかと不安を募らせ清盛に弓を引くことが恐ろしくなった。そこで蔵人行綱は五月二十九日入道相国の西八条邸に駆け込み裏切りの密告に及んだ。入道は謀反の輩を召し取るためた貞能、宗盛、知盛、重衡、行盛の一門に兵集めの命を出すと、その夜の内に六七千騎も西八条に集結した。翌6月1日未明、まず安倍資成に後白河院へゆき事が現れたことを告げさせ、ついで新大納言親卿を西八条邸に連行し監禁した。捕まった人は、入道蓮浄、俊寛僧都、山城守基兼、正綱、康頼、信房、資行、西光法師とその嫡子加賀の国司師高、次男近藤判官師経、師平である。首を切られたのは西光法師親子4人である。この事件を後の世では「鹿谷の変」という。入道相国清盛は此の変で、叡山神輿入れ訴状と平家打倒の陰謀を同時に解決した。この手腕は実に迅速で果敢である。これが平家一門の繁栄の基であったように私は思う。それに較べると重盛のいつも敵を許す態度は優柔不断で禍根を将来に残すことになったと思わざるを得ない。政治家としては清盛のほうを取りたいが、平家物語の作家は重盛の優しさをとるのである。これが平家物語の文学性と云うものである。


小教訓

小松大臣重盛は例によって、新大納言成親卿の助命を清盛にするのである。これも清盛が図った摂関家との複雑に入り組んだ閨閥のなすところであろう。新大納言成親卿の娘が小松大臣の嫡男維盛の妻であった。重盛は西八条へ行き新大納言を殺さないように侍どもに命じた。死罪を免じて流刑に止めるようにと諭し清盛も同意した。


少将乞請

新大納言親卿の嫡子丹波少将成経は後白河院を護っていたが、これも清盛の弟敦盛(門脇の宰相)の娘を妻としていたので助かった人である。本人は出家を覚悟したが、敦盛は少将を預かった。


教訓

入道相国多くの人を捕らえたが未だ気を緩めず、武装したまま筑後守貞能を呼び「法皇には保元・平治の乱で命を惜しまず働いたにもかかわらず、今回の平家打倒の企ては許せない。院方への奉公も思い切った。朝敵となってしまっては無念、暫く世が静まるまでは法皇を鳥羽離宮へお移り頂くか、西九条邸に御幸いただくしかない」と院のいる法勝寺へ攻め入って院を拉致することを命じた。これを聞いた盛国はすぐさま小松殿に知らせた。小松殿はおどろいて入道相国邸へ駆けつけ、法皇に手出しすることは神国日本に背く行為であるとか、聖徳太子の十七ヵ条の憲法を引いて父清盛を諌めた。


峰火

小松殿は「君には忠、親には孝」はいずれも比較できないと、自分の首をかけて清盛に掻き口説いた。中国の故事「峰火」をひいて兵に説教すれば、兵は清盛を離れて小松殿につくこと一万余騎となり、逆に無勢となっ入道相国は折れて出た。平家物語の作者は小松殿を「家に諌むる子あれば、その家かならず正しといえり、上代にも末代にも有り難し大臣なり」と誉めることしきりである。


新大納言被流

と云うことで御白川法皇はお咎めなしで済んだが、新大納言成親卿は難波二郎経遠を付けて備前の児島(岡山県)へ流刑となった。


阿古屋松

新大納言成親卿以外、入道蓮浄は佐渡の国、山城守基兼は伯耆の国(島根県)、式部大輔正綱は播磨の国、判官信綱は阿波の国(徳島県)、平判官資行は美作の国(広島県)へ、門脇の宰相預かりの丹波少将成経は備中の国へ流された。父新大納言成親卿と嫡男丹波少将成経の流刑地は備前と備中で五十町も離れていない、二、三日の行程である。丹波少将成経の預かり人瀬尾太朗兼康は、父のいる場所を聞かれて「阿古屋松」の歌枕を引用して、行程は十二、三日と云う嘘をついた。嘘をつくにも、和歌の教養(言い訳)が必要なのである。平家物語も歌物語の伝統を引いている。


新大納言死去

俊寛僧都、平判官康頼、丹波少将成経三人は薩摩の鬼界が島に流された。一方新大納言成親卿は備前の吉備の中山、有木と云うところで槍を敷き詰めた穴に落とされてなくなったと云う噂である。結局小松殿の斡旋で後白河法皇の身の安全が守られただけで、入道相国の措置は峻烈を極めた。天狗と言われた後白河法皇はその後も何度も平家打倒を企て、源氏を見方に入れて平家追討の宣旨を出すことになる。小松殿の命乞いは平家滅亡の序章となるのである。後白河法皇の無力化に失敗したことがかえすがえす入道相国にとって残念であった。


徳大寺厳島詣

徳大寺大納言実定卿は左右大将の地位を平家一門に取られ意気消沈して出家しようかと悩んでいた時、藤蔵人重兼が助言するには、平家の守り神厳島神社に参拝して願をかけて神社の内侍一人二人都に連れて帰り、西八条の清盛邸に報告に行けば清盛は屹度喜ぶだろうと云う智恵を授けた。清盛への護摩すり作戦である。その結果見事実定卿は清盛のご機嫌をとって左大将に任じられたと云う話である。流された公卿にこれくらいの智恵があれば謀反を起さずに済んだろうにと云うアンチテーゼである。面白いことをやるものだ。


山門滅亡

後白河法皇が三井寺の公顕僧正を師範として真言の秘法をうけ御灌頂を受けようとした時、叡山の山衆は灌頂は叡山でやるべきことで不法なり、三井寺を焼き払うと脅かしてきた。そこで法皇は天王寺で灌頂を受けた。怒った叡山の山門衆・学生は度々合戦に及んだ。湯浅権現守宗重の兵二千人と早尾坂にて戦い叡山は敗北した。それ以降叡山の延暦寺はの人と堂塔は衰微して荒れ果てた。平家と法皇はこれによって長年の懸案だった強訴する比叡山を下したことになった。


善光寺炎上

昔天竺にあった如来像が千数百年を経て百済からに日本の難波に着いた。この如来を本田善光が信濃善光寺に招致したのであるが、その善光寺が炎上し如来を失った。世の中ではこれぞ王法の末と山門滅亡とあわせて言い合ったようである。


康頼祝

俊寛僧都、平判官康頼、丹波少将成経の三人は薩摩の鬼界が島に流された。丹波少将成経の舅である平宰相教盛が衣食を送っていたので生きられた。康頼は出家したので康頼入道と少将成経は鬼界が島に熊野権現を勧請して帰洛を祈ることにして、島内を歩いて熊野らしいところを探した。熊野三所権現や那智の滝を模して日夜お参りし、祝言を誦し続けた。この節は祝言の文句(神仏習合)の調子のよさを味わえばよいのではないか。このお祈りには不信心者の俊寛は加わらなかった。


卒都婆流

康頼入道と少将成経の二人は毎日願をかけ、今様を謳うほどに夢の中に竜神が出てきて梁塵秘抄の歌「千手観音」の慈悲を説く。そこで千本の卒塔婆に歌と願いを書いて流せば、厳島神社まで流れ着いた。康頼入道にゆかりのある僧がそれを拾って、都の紫野に隠れ住んでいた母や妻子の庵に行って見せた。そして法皇、小松殿から清盛に伝わったと云うことである。この節は歌物語の形で人の思いが伝わることを示している。綿々といた手の込んだ芝居であるが。


蘇武

入道相国もこの卒塔婆を見て哀れみの心を動かしたようだ。漢の故事「蘇武の雁書」に例えて、本朝の康頼入道は波の便りに歌を故郷に伝えた。漢の史書を踏まえた故事を引用してこの節の文章は格調高く悲劇の主を謳いあげる。


平家物語 卷第三

許文

歳が明けて治承二年正月、入道相国の娘が高倉天皇の中宮であったが、主上十八歳、中宮二十二歳で御懐妊となった。皇子誕生を祈願したさまざまな法会が仁和寺や叡山で執り行われた。つわりがひどくなるにつれこれは悪霊のたたる所であるということで、悪霊を慰めるため崇徳天皇の追号などが行われ、さきの鹿谷の変で流された丹波少将(新大納言成親卿の嫡男)を許すことを小松の大臣が入道相国に相談し、丹波少将と康頼入道の二人を許す文が出された。相国は「俊寛がことは思いもよらず」ということで許されなかった。


足摺

御使丹左衛門尉基康は許文を持って鬼界が島に上陸し、丹波少将と康頼入道の二人を帰洛させる旨を告げた。許文をどのように見ようとも俊寛の名が書かれていない、俊寛は「せめて九州まで」と泣き叫んだが入れられず、船が出てゆくのを岩の上で地団駄を踏んで(足摺をして)「これ乗せてゆけ、具して行け」と狂い叫んでいた。この場面は歌舞伎「俊寛」の最後の涙を誘う見せ場である。


御産巻

中宮は御産のため六波羅池殿にてに移られると、法皇、関白、公家雲客ひとりもらさずお見舞いに参上したと云う。神社二十余箇所、仏寺は十六箇所で御経が行われた。小松殿は中宮に御衣、剣、馬を贈り、七十余箇所の神社に神馬を献納された。御産が近くなると入道相国はうろたえるばかり。しばらくして本三位中将重衡が「御平安、皇子誕生」と声高らかにいうと、周りでどっと喜びの声が上がった。皇子誕生(後に安徳天皇)に平家一門のさらなる隆盛を喜び合う様子が生き生きと描かれている。


公卿揃

乳母には平大納言時忠の北の方がなられた。御産の時に色々尋常ではないことが起った。これは喜びの余りのごたごたかと思われるが、将来の暗雲を予感させようと云うのか。御産の時に六波羅に参上した公卿全部で三十三人と、全員の名前を記している、又不参の人十余人と記されている。


大塔建立

御産の無事を祈った御修法に顕賞が行われた。(ここには一々記さない)清盛が安芸守の時に厳島神社を大修理し、厳島神社が平家守護の神となったいわれは、修理の時ありがたき老僧が現れ厳島神社がなった暁には清盛は並びなき人になることを約束し、修理がなった時天童が現れ老僧のいったことを確認して、更に悪行あらば繁栄は子孫までは続かないことを言ったということである。なんか先を予測させる運命の臥線である。同じ年十二月皇子は東宮に立ち、小松殿が教導役、大夫には池中納言頼盛卿と決まった。


頼豪

白河院の時の故事である。院は皇子誕生を願って三井寺の頼豪阿闍梨に祈願させ、願成就したらなんでも欲しい物を取らすと約束した。無事皇子誕生し、所望するものを聞いたところ、頼豪は戒壇建立を願った。院ははたと困った。僧の階級を進める位と思っていたが、この願いを聞くと叡山の山門が怒り出すに違いない。また叡山と三井寺の合戦になることを恐れて、頼豪の要望を断った。頼豪は院の約束違反を怒って「綸言汗の如し」といって三井寺に帰って食を断った。そして頼豪は死に、暫くして敦文親王も四歳で早世した。そこで院は西京の天台座主良信大僧正に子を授かるように頼んだ。これくらいのことは当山でも出来ますといって100日祈願すると懐妊となり、皇子誕生となった。後の堀川天皇である。この故事を何の臥線として出してきたのか分らない。頼豪の怨霊の恐ろしさを云うためか。それにしては簡単に次の皇子が反対派の天台の祈願で出来たと云う話としっくりゆかない。


少将都還

丹波少将成経、平判官康頼入道の二人は許しが出て鬼界が島より肥前国鹿瀬に歳が明けるまで滞在していたが、翌年1月下旬、備前の児島に着いた。この備前の児島は、少将の父新大納言成親卿が流刑の地で無念の死を遂げたところである。二人は有木の別所を訪れて父の墓を詣でしばらく墓前の供養を行った。三月十六日には鳥羽に着いて大納言成親卿の別荘州浜殿を訪れ主のいない昔の邸宅を思いやったが、夕方には都に上り七条河原で丹波少将成経、平判官康頼入道は別れ、少将成経は妻の待つ平教盛邸に行き親子の再会を果たした。その後少将成経は平教盛の引きもあって、院に参内し宰相中将にまで昇った。康頼入道は東山双林寺に入って宝物修と云う書物を著したという。


有王島下

俊寛僧都に長年使われていた童が都にいた。名を有王と云う。今回の赦免に俊寛の名がなかったので、俊寛の姫御前の文を持って鬼界が島に行くことを決意した。薩摩から商人船に乗って島に着いたところ、島の人間は誰も俊寛の消息を知らない。海に出ると向こうからやせ衰えた老人がよろよろ歩み出てきたので、有王が名を聞いたところ俊寛僧都であった。有王は都での家族の運命を伝え、幼い息子は六歳のとき疱瘡で死に、後を追う様に北の方もなくなり、十二歳になる姫君が待っていると報告した。三ヵ年の俊寛の生活は悲惨を極めこの上生きていても甲斐がないと悟って、俊寛は食事を断った。有王が着いて二十三日目に死んだ、年は三十七歳であった。俊寛の骨を都に持ち帰ると、姫は奈良の法華寺で尼になり、父母の供養を行った。有王は高野山蓮華谷で法師になって、諸国七道修行をして主人の後世を弔ったと云うことである。


辻風

治承四年五月十二日京中につむじ風が吹き荒れ家が倒れ、負傷する者が多かった。占いによれば、百日以内に大臣に不幸が起り、天下の大事、仏法・王法が傾いて、兵乱が起きるということだ。平家物語では「占い」は結構重要なストーリー進行役を演じている。歴史を知っている後世の者が話の道筋をあらかじめ暗示する役割を果たしている。因果じみた臭いところはあるが、ストーリーを見通し良くしている。占いと思わずに、話の解説者と思えばいい。多少邪魔ではあるけれど。


医師問答

同年夏、小松大臣が熊野神社に詣でられた。「親父入道相国の悪行諸行を見るに、一門の栄華も怪しくなってきた。自分ひとりの身を投げ打って、天下の安心に代えたい」と祈念されると、大臣の体からぽっと火が出て消えたと云う。都に戻った小松殿はほどなく病の床に着いた。このことを聞いた入道相国は越中前司盛俊を使いに立て、大臣に宋の国から来日した名医の治療を受けるように伝えたが、小松殿は運命の病であれば医術もどうすることもできない、医術は前世の病まで治すことは出来ないし、中国の医者に見てもらうことは国の恥じといって治療を受けなかった。七月二十八日小松殿は亡くなった。御歳43歳であった。


無文沙汰

小松大臣は未来のことも悟る不思議な能力を持っていた。四月七日の夢に春日大明神の鳥居が入道相国の首を召し取ったり、その朝小松大臣は院へ参内する嫡男維盛に、大臣の葬儀に用いる無紋の太刀を授けた。これは小松の大臣が自分が死ぬことを悟って息子に葬儀用の太刀を渡したことになる。平家滅亡への通奏低音のように執拗にこのような話が繰り返されるのである。


燈籠

小松大臣重盛は滅罪善生の志深く、東山の麓に四十八間の精舎を建て、一間に一つの燈籠を掛けられた。毎月十四日十五日の両日一間に六人合計二百八十六人の尼衆に称名を唱えさせた。これよりこの大臣を燈籠の大臣という。


鐘渡

重盛大臣、この国に自分の後世を弔うだけでなく中国でも後世を弔って貰うための善根として、金三千五百両を用意して、妙典と云う船頭に五百両を渡して、「千両を育王山に、二千両を宗の帝にわたして、重盛の後世を弔ってくれるように」と依頼した。スケールの大きな善根を積んだと云う話で、とても真実ではない話が小松殿に捧げられているようだ。


法印問答

十一月七日夜、大きな地震があった。陰陽頭安倍泰親が火急のことと報じた。十四日入道相国数千人の軍兵を持って都へ戻り、俄に後白河法皇周辺を取り囲んだ。これからが治承の変となる。すなわち後白河院の勢力を削ぐための政変で、政治的には院政を停止し天皇親政へと云う動きである。そのほうが入道相国にとって政治がやりやすかったのであろう。後白河院は信西が子静憲法印を使いに清盛に意を正したところ、清盛は四条の難を挙げて院側をなじった。
ひとつ、小松大臣重盛卿入滅のあと、法皇は臣下の卒するを嘆かず八幡に御幸あって一つも御嘆きがない。親としての清盛の悲しみを法皇は知らないのか。
ひとつ、維盛に下さった越前国を子子孫孫まで代えないと云う約束であったのに、重盛亡き後これも召し上げたとことは、維盛のどこに過ちがあったと云うのか。
ひとつ、中納言に欠員が生じた時、入道相国が推した二位中将藤原基通を承認せず、関白基房の子師家を採ったことは理由がない。
ひとつ、先の鹿谷の変にて法王が平家追討の許可を出したのは許せない。どのようなことがあってもそちらの責任である。


大臣流罪

こうして後白河院側近への大粛清が下された。関白藤原基房を始め太政大臣以下の四十三名の卿客が官職を停止され、謹慎となった。処分は、まず関白基房卿は備前国に流刑となったが、摂政関白の流刑は初めてのことであった。代わって二位中将藤原基通卿が飛び昇進して関白となった。太政大臣師長は尾張国へ流刑となり、大納言資賢卿、近衛少将源資時、右兵衛督藤原光能、大蔵卿高階泰経、中宮権大藤原基親らの職を停止し、京から追放となった。


行隆沙汰

前関白の侍に江大夫判官遠成と子息家成は、東国へ逃げてゆこうとしても平家の地でない所はない、家に戻って華々しく討ち死にと決めた。六波羅の兵が囲む中を家に火を放ち腹を掻ききって炎の中に消えた。前左少弁行隆と云う人は、この十年官位にもありつけず窮乏の極みあったが、清盛よりお声が掛かりもとの左少弁に帰り咲いた。本人は訳が分らず喜んでいたが、ただ片時の栄華であった。行隆と云う人が突然前後脈絡もなしに登場したが、これは片時の栄華と云うことをいわんがためのようだ。


法皇御遷幸

十一月二十日、後白河院がいる法勝寺を平家の軍が囲んだ。宗盛卿が父清盛の命により鳥羽の北殿に移すことを告げた。付き添ったのは乳母尼前だけであった。後に大膳大夫信成と静憲法印が院の傍に侍った。


城南離宮

これで安心したのか、入道相国はあとを高倉天皇の親政と娘婿である関白藤原基房の補佐と、高倉天皇の中宮である娘建礼門院に任せて福原に戻った。しかし高倉天皇は政務を執り行わず、関白藤原基房と宗盛卿に任せた。


平家物語 卷第四

厳島御幸

治承四年正月三日間は、後白河院のいる鳥羽には誰も参拝する者はなかった。これは入道相国が許可しなかったためである。二十日には東宮の袴着の儀式など執り行われ、二月二十一日高倉天皇譲位して東宮が位を継ぐことになった。これが安徳天皇である。三歳であった。入道相国夫婦も外祖となり准三后の宣旨を得た。何の落ち度もないのに天皇の座を追われた高倉上皇は都を離れたく思ったのか、相国のご機嫌を取り結ぶためか急に厳島神社御幸ということになった。これを聞いた叡山の大衆は怒って叡山に御幸なされるべしと騒いだが入道相国がなだめた。十八日高倉院は六条邸に入って鳥羽殿(後白河院)に逢う許可を得た。鳥羽殿と親子の対面を果たした高倉閑院殿は鳥羽より船に乗って厳島神社御幸に向われた。


還御

上皇は二十六日厳島神社に到着。公顕僧正が法事を執り行い、二十九日還御になった。厳島の蟻浦で冷泉隆房(後の歌の家柄 藤原定家)に歌を歌わせ、備前の国敷名に泊まり、三月六日播磨の国山田の浦から福原に入られた。ここで入道相国の家の者の賞行を行った。三月八日都へ向って鳥羽で上陸し相国の西八条邸に入られた。そして三月二十二日紫宸殿で新帝の即位の式が行われた。入道相国めでたきこと限りなしといわんばかりのご満悦の有様であったが、世間では今回の強引なやり方に苦々しく思う者は多かった。


源氏揃

その頃、後白河院の第二皇子に以仁王(大納言季成卿の娘が母)がいて高倉宮と呼ばれていた。書や笛に長けた三十歳の皇子であった。宮の御所に源三位入道頼政が来て宮に謀反を進め、宮の令旨で全国の源氏の挙兵を図ると説いた。全国の源氏とは
京都には、伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者光能
熊野には、十郎義盛
摂津国には、多田二郎知実、手島冠者高頼、太田太朗頼基
河内国には、武蔵権守入道義基、石川判官義兼
大和国には、宇野太朗有冶、次郎清冶、三郎成冶、四郎義冶
近江国には、山本、柏木、錦織
美濃尾張には、山田次郎重広、川辺太朗重直、泉太朗重光、浦野四郎重遠、安食次郎重高、重行
甲斐国には、逸見冠者義清、太朗清光、武田太朗信義、加加美次郎遠光、小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定
信濃国には、大内太朗維義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、四郎義信、木曽義仲
伊豆国には、源頼朝
常陸国には、信太三朗先生義教、佐竹冠者正義、太朗忠義、三郎義宗、四郎高義、五郎義季
陸奥国には、九郎冠者義経
高倉宮は少納言維長に相談したところ、天下を狙うべき相ありということで、宮はその気になった。ところがこの企てを知った熊野別当湛増は、新宮の十郎義盛が宮の令旨を貰って謀反を起したので一千人余をもって攻撃した。十郎義盛は千五百人余で迎い討ち三日間の戦いで熊野別当湛増は敗れた。これより「以仁王の乱」の始まりである。


鼬沙汰

五月十二日、鳥羽殿の邸で鼬が夥しく騒いだので、安倍泰親に占わせたところ、「三日以内に、悦びごとと、嘆きごとがおきる」ということであった。十三日入道相国は法皇を幽閉先の鳥羽殿から解放して美福門院の御所へ移された。これが悦びごとであった。嘆きごととは、高倉の宮の謀反を知った入道相国が高倉宮を逮捕して土佐に流刑することを言い渡し、三条大納言実房と頭弁光雅、武士には源大夫判官兼綱、出羽判官光長と三百余騎で逮捕に向った。


信連合戦

五月十五日夜、三位入道からの「既に謀反が露見した」という手紙が高倉宮に届いた。受け取ったのは乳母子である六条佐大夫宗信である。宮の侍長谷部信連は自分がこの屋敷で闘うので宮は女姿で三井寺へ逃し入るように指示した。子の刻に三百余騎が到着し、信連一人「弓矢取る身は、仮にも名こそ惜しけれ」と戦い、散々蹴散らしたが多勢に無勢で生け捕られた。その戦いぶりに入道相国はあっぱれと賞して、命を許して流刑とした。


高倉宮円城寺入御

その間に高倉の宮は東山の如意が獄を越して、滋賀の三井寺法輪寺に入った。


源三位入道が何故謀反と云う大それた事を仕出かしたかと云うと、それは平家の次男宗盛卿の良くない行いのためである。源三位入道の嫡子仲綱のところに名馬があった。噂を聞いてその名馬を欲しがった宗盛卿が無闇に催促するので、仲綱は一時は嘘ついて断ったところ、惜しいからわたさないのだろうとうるさく云うものでやむなく馬を宗盛卿に手渡した。すると宗盛卿は仲綱を憎むあまり、馬の尻に「仲綱」と焼印をして毎日うまを責めた。これを知った三位入道は深く平家の横暴を憎み、機会を窺っていた。小松大臣の頃は優しげに仕えられたのにそれと反対に宗盛卿の横暴なやり口への憎しみが募り、以仁王(高倉宮)に謀反を唆したのである。五月十六日の夜、源三位入道頼政と伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱、六条蔵人仲家ら一族郎党三百騎は家に火を放って三井寺にはせ参じた。そのとき源三位の屋敷に使われていた侍渡邊の源三競が残っていたので、宗盛卿はこれを家来とした。良く仕えたので秘蔵の馬を頂いた。そして宗盛卿らが三井寺に出かけようとした時、競が失せた。競はその馬とともに三井寺にいち早く駆けつけ、仲綱に馬を進呈した。伊豆守仲綱は喜んで先の意趣返しに、その馬の尻に「平宗盛入道」と焼印をして六波羅に戻した。宗盛はみごと競に馬鹿にされたわけで悔しがることひとしおであったと云う。この話はどうも作り話に過ぎないように思われる。宗盛卿は三井寺への攻撃のドサクサに競を家来にする余裕はないし、あえて源三位入道の謀反の理由を探して作った話であろうが、実に面白く出来上がっている。平家物語の作家の腕は見事である。


山門牒状

三井寺単独ではとても平家を相手にすることは出来ないので、五月十八日同じ寺院勢力の武力を借りるため比叡山と南都に、同調して立ち上がるよう檄を飛ばした。


南都牒状

比叡山にとって三井寺は末寺であるので、末寺に加担するのは筋違いとばかり慎重派が支配した。そして入道相国は天台座主明雲大僧正を叡山に上がらせて鎮静化に努めたので叡山は動かずと云う態度となった。入道は多くの米、絹を贈り物にして叡山の衆徒に送った。三井寺はさらに興福寺の南都大衆へ檄を送った。


南都返牒

南都の大衆らは日頃荘園を平家一門に侵され、不満が募っていた。三井寺の檄に答えて援軍を送ることを約束した。


大衆揃

五月二十二日夜、叡山の変心、南都の援軍が来ないので、三井寺側は六波羅へ夜討ちを掛ける詮議をした。戦闘派、慎重派の長談義のあと、戦陣を二手に分けて進むことになった。搦め手には老人組の大将には源三位頼政(七十五歳)と三井寺の大衆一千余人、如意が獄方面へ向った。大手の大将には伊豆守仲綱、兼綱、仲家、仲光と三井寺平等院の大衆合わせて一千五百余人、粟田口方面へ向った。高倉宮は三井寺にいて守りを固める準備をしていたが、夜が明けてしまった。昼間の戦争では勝ち目はないので大手、搦め手の両軍を呼び返し、宮は二十三日の明け方三井寺を出て南都へ落ちることになった。老僧らは皆寺に留めて、千五百余人で南都目指して出発となった。


橋合戦

高倉宮軍は宇治平等院にて休憩となった。一方六波羅平家の追討軍の大将は知盛で、重衡、忠清、忠度ら都合二万八千余騎で、宇治橋に押し寄せた。ここで華々しい激戦の著述となり、平家物語面目躍如の文章が踊る。宮側の俊長、但馬、渡邊省、一来法師、浄妙院明秀の「遠からん者は音にも聞け、近からん者は目にも見たまえ」と云う大音響の活躍ぶりが最後の花とばかりに記述される。確かに彼らはこの瞬間に生きていたのである。六波羅平家の追討軍側では宇治川を渡りあぐねていたが、関東武士の足利又太朗忠綱の川渡りの勇気が一気に勝負を決めた。


宮御最後

足利軍勢の宇治川越えに励まされ、大将軍知盛の「渡せや渡せ」と云う号令で、二万八千余騎は一気に川を渡った。中には流されて網代に引っかかった者も多かった。平等院へ流れ込んで最後の戦闘となった。源三位入道は自害、仲綱も自害、競も自害、兼綱は奮戦空しく首をとられ、高倉宮も首をとられた。


若宮御出家

平家軍は宮側の五百余人の首を取って都に帰った。都では宮側の子供らを捜索して首をはねた。高倉宮の三位の局と云う女房に七歳の若宮と五歳の姫宮がいたのを、池中納言頼盛が若宮を取り上げ宗盛が預かった。清盛に命乞いをすると出家するなら命は許すと云うことで、仁和寺の御室に入れたと云うことだ。この若宮は後に東寺の別当安井宮大僧正になられたという。奈良にも若宮がいたので讃岐守重秀が預かり北国で出家させたという。後木曽義仲が都に入る時、この宮を還俗させて連れて入京したので、木曽が宮とか還俗の宮とか、野依の宮という。


以仁王の乱を策謀した源三位頼政と云う人物は、保元・平治の乱では親親戚を捨てて平家と行動をともにしたが、恩賞はなかった。長い間不遇の生活であったが、歌を読んで昇殿を許された人である。近衛帝の御時、夜な夜な主上が怯えられるので屋根に上り矢をいると落ちる気配があり、討ち取ってみると頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎、鳴く声は鵺に似ていた。この功で宇治殿藤原頼長より剣を頂いた。武芸や歌道に優れた人であったが、七十五歳にして謀反心を抱いて宮を失ったことは返す返すも馬鹿なことをしたものだと云うのが平家物語の人物評である。


三井寺炎上

南都・三井寺は朝敵なりと、五月二十七日大将軍知盛、副将軍忠度一万余騎がまず三井寺を攻めた。三井寺では一千人の大衆が戦ったが、三百余人が討ち取られた。夜になって三井寺堂塔六百三十七宇が焼き払われ、大津の民家千八百五十三宇も焼かれた。寺の円慶法親王は役職追放、そのほか十三人僧侶も役職停止されて検非違使庁に収監され、流刑者三十余人と云う処分が下された。


平家物語 卷第五

都遷

治承四年六月三日福原に遷都と決定した。二日に主上、建礼門院、後白河法皇、高倉上皇、摂政殿基通らの卿相、入道相国を始め平家の雲客らの行幸が今日を出発し、三日には福原に入った。臨時の御所は池中納言頼盛卿の山荘に当てられ、頼盛はその功により正二位となり右大将良通を越えた。摂関家を超えた例はこれが始めてである。そもそも今回の遷都は後白河法皇の次男高倉宮(以仁王)の謀反によるもので、入道は憤激して後白河法皇を板で囲った家に押し籠めた。この後平家物語は長々と遷都の例を引くが、省略する。奈良時代より前は天皇が変わるたびに都を遷していた。遷都しなくなったのは奈良時代七代と平安時代三十二代の三百八十年である。「花の都、田舎になるこそ悲しけれ」と惜しんだ。


新都

六月九日新都造営の詮議が徳大寺左大将実定卿、土御門宰相通親卿などで、各所の稟議が始まったが福原周辺では狭くて都の半分も出来ず、遠く播磨、摂津などの候補が上がった。入道は五条大納言邦綱に周防国を賜って新都造営の財源をひねり出そうとした。世が乱れているときの遷都は民の苦しみをよそに、八月棟上、十一月遷都と決定した。


月見

この節は旧都の月を愛でる歌物語である。八月十日ごろ、徳大寺左大将実定卿が近衛河原の大宮(実定の姉)の住む京の屋敷を訪れた。待宵の小侍従と云う女房がはべっていたが、この女房は「待つ宵(女の心情)か帰る朝(男の心情)のどちらが哀れか」と問われれば、「待つ宵」と答えたことから来ている。歌三首と今様を入れた歌物語で男女の恋心を歌った。物の数ではないと云う意味の「ものかわ」と云う言葉のやり取りが実に優雅である。


物怪

キリスト教の受難物語で、アリアとアリアまたは合唱の間を繋ぐストーリーテイラーであるデイクタチーフのように、物語の進行役「物怪」「占い」「陰陽師」が登場する。またぞろ乱の発生の兆しである。入道相国の前に一間もある大きな顔が現れたり、髑髏が踊ったり、馬の尾に鼠が子を生むと云う珍事が頻発した。天狗の仕業とも言われたが、入道は神祇官に占わせたところ、重き慎みと出た。日本書紀にも鼠が馬の尾に子を生む話は兇族蜂起の徴と書かれている。源中納言雅頼卿の召使が見た夢に「平家(厳島大明神)を追い立て、源氏(八幡大菩薩)が天皇から貰った節刀を奪い、摂関家(春日大明神)が刀を欲しがる」と云う内容であった。そして入道が有していた銀の蛭巻と云う小長刀が失せたと云う。なんか見え見えのストーリの暗示である。


大庭早馬

高野山の宰相入道成頼がこの夢解きをして「平家滅び、現時の世尽きた後、摂関家の世に戻る」といった。九月二日相模の国より大庭三郎景親が福原に早馬で奏上するに、去る八月十七日源頼朝と舅北条四郎時政が蜂起し、和泉判官兼隆の屋敷を闇討ちした。頼朝らが三百余騎で石橋山に籠もっているところを、景親千騎で討った。平家方畠山五百余騎が源氏方三浦大介ら三百余騎に打ち破られたので、畠山、河越、稲毛、小山田、江戸、葛西の郎党二千余騎で押し寄せ三浦を討った。三浦は安房上総へ逃げたと云う戦況であった。いよいよ頼朝登場となる。


朝敵揃

入道相国怒りなのめならず、平治において父義朝の謀反で打ち首になるところ、頼朝が幼少なるを哀れに思った池の禅尼の懇願で命ばかりを助けてやったのを、恩を仇で返す憎っくき奴、頼朝を退治せずにおくものかと云う。この節では天下の朝敵を列挙するのである。土蜘蛛、大石山丸、大山王子、山田石川、守屋大臣、蘇我入鹿、大友真鳥、文屋宮田、橘逸勢、氷川川継、伊予親王、藤原広嗣、恵美押勝、早良太子、井上皇后、藤原仲成、平将門、藤原純友、安倍貞任、源義朝、悪左府藤原頼長、藤原信頼と名を挙げる。


咸陽宮

この節には、中国の歴史書「史記」から、秦の始皇帝を暗殺を狙った燕の刺客荊軻の故事を引いている。余りに有名な故事なので周知と思いここには引用しない。この故事引用の目的が良く分からない、頼朝は始皇帝なのか燕王丹なのか。


文覚荒行

頼朝に謀反を説いた高尾の文覚上人は、遠藤武者盛遠といったが、十九の歳に仏道修験者となった。熊野に行き那智の滝で、三十七日の修行大願を果たし、那智に千日、大峯、高野、立山、富士、伊豆、箱根、出羽羽黒などの山をめぐって修行したと云う。


勧進帳

その後文覚は高尾の神護寺に入り、無人で荒れ果てた寺を再興する志を抱いて、全国の勧進行脚に出かけた。ただ文覚の勧進の仕方が荒っぽくて、相手を怒らせるような身勝手な振る舞いが多く、都では鼻つまみ者となっていた。


文覚被流

大納言資賢卿の屋敷で琴と歌の御遊をぶち壊すような大音響で勧進をやったため、取り押さえられ獄に入れられた。大赦で許されてもなお、人の嫌がるような文句で勧進を行ったので伊豆の国へ流された。


伊豆院宣

文覚は近藤四郎国高を目付けとして韮山の奈古屋寺に預けられた。頼朝のいるところに近かったので、頼朝に謀反を勧めたが、頼朝は自分も流されの身で事を起こすには勅勘の許しがなければならないという。文覚は早速福原へかけつけ、光能卿の案内で後白河法皇に面会して、治承四年七月十四日ついに平家追討の院宣を得たと云う。


富士川

関東で頼朝謀反の情報がしきりに伝えられ、八月十七日源頼朝と舅北条四郎時政が蜂起し、石橋山で大庭三郎景親に敗れ、三浦大介らの反乱も伝えられる中、平家の追っ手が下された。大将軍には少将維盛、副将軍には薩摩守忠度、侍大将は上総守忠清、総勢三万騎が九月十八日福原をたった。駿河国清見が関に着くころには駆武者は七万余騎となった。侍大将上総守忠清の策で富士川の前で軍を整えることになった。その頃頼朝殿鎌倉をたち駿河国浮島で勢揃えをすると二十万余騎であった。大将軍少将維盛が斉藤別当実盛から坂東武士の兵力を聞くと、強力の弓引きの精兵の剛勇は西国の兵の比ではないということで、すっかり怖気ついた大将は、九月二十四日の源平矢合わせの前夜、富士川の水鳥の飛び立つ羽音に驚いて全軍総退却となった。翌朝源氏の兵が川を渡るともぬけの殻であったという。賢い頼朝は深追いをせず、後方も心配なので鎌倉へ帰ったと云う。やはり兵站が伸びきっている平家のほうが不利である。大軍の輸送能力を考えて何処を戦場とするかは軍事の最重要事項である。平家も闘わずして不利を悟って兵を引いたのだから、賢明といえる。


五節沙汰

十一月八日平家の全軍は福原に戻った。中国なら将軍らは死刑と決まっているが、平家の詮議で誰も罪にしなかったばかりでなく、少将維盛は右近衛中将に上がり、重衡も左近衛中将に上がった。十三日内裏の造営が終わって主上が遷られた。大極殿がないので大礼はおこなわれず、新嘗会五節ばかりであった。


都還

新都はよほど居心地が悪かったのか主上の嘆きが著しかった。そこで十二月二日入道相国は急に旧都に復すると発表した。都人にとって瀬戸内の海と六甲の山と狭い新都はよほど住みにくかったようで恨みつらつらで、いそいそと旧都に帰る様子が描かれている。二十三日少数の近江源氏が謀反したと云うことで、知盛を大将軍、忠度を副将軍とし三万余騎が近江へ発向した。あぶれ源氏を蹴散らして美濃尾張へ攻め込んだ。


奈良炎上

五月の三井寺と南都の乱では三井寺を先ず焼き払ったが、今度は南都を詰問するとして別当忠成、右衛門督親雅を派遣したが、南都側は悉く雑言罵詈で追い返した。瀬尾太朗兼康は五百余騎で威嚇したが、衆徒は逆に六拾人余の首をはねた。そこで大将軍頭中将重衡に四萬余騎を授けて南都征伐へ向った。南都側は七千余人、奈良坂と般若寺に砦を設けて防戦した。十二月二十八日の夜になって頭中将重衡は、民家に火をつけたところ、烈風に煽られて火は興福寺、東大寺の伽藍を総なめに焼き尽くした。焼け死ぬ人三千五百余人、戦場で討たれた人千余人であった。


平家物語 卷第六

新院崩御

治承五年正月は、昨年の東国での源氏の挙兵、南都焼き討ちなどが影響して一切の式典は執り行われず淋しい内裏となった。五日、南都の僧らの官を召し上げ役職を停止する処分が行われた。十四日六波羅池殿で高倉新院が崩御された。御年21歳であった。


紅葉

故新院の懐古話の一。まだ十歳の頃、紅葉を愛せられ北の陣に築山をこしらえて紅葉を植えられた。ある日野分けの風で紅葉が吹き落とされ、掃除の係りの役人が悉く片付けて跡形もなく、その枯れ紅葉で酒を温めた。係りの責任者は主上が紅葉を深く愛せられているのでしかられるかと思いきや、古歌を引いて主上はこれを罪としない優しい心の持ち主であった。さる女房の衣服を届けにきた女童が盗賊に衣服を取られて泣いていたところ、主上は建礼門院の御衣を女童に与えたと云う。


葵前

故新院の懐古話の二。さる女房の使っていた上童が見目麗しいので、主上はこれを愛せられた。葵前とか葵女御という。ただ主上はすでに天皇位を退いておられたので、トラブルを恐れこの葵前を遠ざけられた。主上の気持ちを表す「忍ぶれど色に出りけり・・」と云う平兼盛の歌を冷和泉少将隆房が葵前に届けると、葵前は里に帰って数日後に身罷ったということである。殿上人とは主上の恋の手助けも重要な仕事であったようだ。


小督

故新院の懐古話の三。誰知らぬものはないという、平家物語の恋物語として最も有名な話で、名文である。桜町の中納言成範卿の娘で冷泉大納言隆房の通っていた女房の小督の局と云う女を主上は愛人として召された。冷泉大納言隆房は逢いたくも行けず、小督の局も今や主上の思われ者でかたく冷泉大納言隆房を拒否した。これを聞いた入道相国は「高倉新院は建礼門院の婿、中納言成範卿も婿、二人の婿を奪った小督はにくし、追放せよ」ということで、小督は嵯峨野に隠れた。主上いたく小督を慕って、弾正仲国を呼んで小督を探せと仰せられ、ここから「小督」の節の名文「峰の嵐か松風か・・・」が哀れを誘う琴の音にあわせて綿々と語られる。誰しも涙を催すこと違いなし。探し当てた仲国は小督を御所に隠して、主上は夜な夜な通われ、姫宮をもうけられた。坊院の女院という。これを知った入道相国は小督を尼にして嵯峨野に追放した。小督二十三歳のことである。このような心悩で新院はついに亡くなったのだという。新院崩御の一つの因が相国にありと云う話になっている。後白河法皇も嘆きごとが続いた。永万元年第一皇子二条院崩御、安元二年孫六条院崩御、同じ年北の方建春門院崩御、治承四年第二皇子高倉宮御謀反で討たれ、治承五年一月高倉新院も崩御された。子に先立たれた親の悲しみはいかばかりか。


回文

故帯刀先生義賢の次男、木曽義仲と云う源氏を木曽中三兼遠が二十余年まで養育していたが、義仲はついに八幡太朗義家の遺志を継ぎ、関東八国の頼朝の源氏旗揚げに励まされ、北陸と中山道を押さえて京に討ち入る意図を告げた。信濃国、上野国に回状を送って主従を誓わせた。


飛脚到来

二月一日、入道相国は義仲の旗挙の報を聞いて、城太郎助長を越後守に任じ背後から義仲を討伐することを命じた。九日河内の国で武蔵権守入道義基ら謀し東国へ下る報をうけ、大将軍に判官季貞を任じて三千余騎で河内国を討伐した。あくる十二日鎮西の緒方三郎維義を初めとし、臼杵、松浦党らが一斉に平家に背いた。十六日には伊予国の河野四郎通清が平家に背いたと云う報が届いた。これを備後の国の額入道西寂がいちどは蹴散らしたが、油断しているところを河野四郎に襲われ首をかかれた。また紀伊の国の熊野別当湛増が背いたと云う知らせが都に伝えられた。全国の源氏が一斉に蜂起した。


入道逝去

一月二十三日、宗盛卿を大将軍にして関東の源氏を討伐することになったが、二十七日軍が出る前に入道相国が急に重病に陥った。前身が熱で浮かされた状態で恢復すべき由もなかった。入道の北の方二位殿が夢に「入道悪行が超過したが故に、閻魔宮からのお迎えの車」を見た。神社仏閣へのお祈りも空しく二月二日入道は「頼朝の首を見なかったのが残念、頼朝の首をわが墓前に掛けよ」といって亡くなった。六十四歳で「あっち死」であった。遺体は六波羅の愛宕寺で焼き、福原の経島に納められた。


経島

入道の葬儀の夜、六波羅の屋敷が放火により焼けた。経島の名の謂れは、応保元年福原の地を築く時台風で壊れたので、石に一切経を書いて無事を祈ったことから来ている。この入道崩御されても仏事と云うことはなく、朝夕ただ合戦の営み以外は行われなかった。


慈心坊

入道相国の懐古話の一。摂津の国宝塚の慈心坊尊恵はもと叡山僧であったが、離山して清澄寺に入り人々の尊敬を集めていた。慈心坊が法華経を読んでいたところ、閻魔大王からのお呼びがあって法華経を読みに来いということことだった。閻魔宮での法華会が終わって、閻魔大王が云うには「平大相国は慈慧僧正の化身である」と。慈心坊がこの話を入道相国にすると、入道いたく喜ばれたということだ。悪魔といわれた相国へのせめてものはなむけの言葉だったのか。


祇園女御

入道相国の懐古話の二。白河院の思われ人に祇園女御と云う人が居たが、平忠盛の忠勤著しいので、白河院は胎んでいた祇園女御を忠盛に下され「女なら院の子に、男なら忠盛とりて弓矢取りにせよ」という。生まれた子を清盛とした。昔天智天皇が胎んだ女御を藤原鎌足に与えた故事から来ている。貴種物語の類。


州股合戦

二月二十二日、平家の後継者(惣領)である平宗盛卿は後白河法皇を旧の法住寺の御所に戻らされた。三月一日南都の僧らを許してもとの職に服させた。大仏殿事始復活など、入道以来の政策を改めることが続いて行われる。平家の自信のなさか、法皇へのご機嫌伺いか。三月十日尾張国に源氏が攻めてきたので、大将軍智盛、清経、侍大将に越中次郎兵衛盛嗣らとして三万余騎を派遣した。源氏方は十郎蔵人行家、義円ら六千余騎で尾張川(州股川)に陣をとった。16日夜源氏方は待ちきれず川を渡って源氏と対峙した。これを背水の陣と云う。戦いの法通りに源氏方は敗れ、三河に退いたが平家は更に蹴散らして都へ帰った。


喘涸声

城太朗助長、越前守ちなって、六月十五日兵三万余騎で信濃の木曽義仲の討伐に出向する。戦いの前夜急に空曇り雷鳴って喘涸声で「大仏を焼いた平家を召し取れ」と云う声が聞こえた。それを押して進軍したところ、助長は脳梗塞で倒れ数日後に死亡した。七月改元あって養和と号した。筑後守貞能、肥後守となって三千騎で鎮西へ向った。治承三年後白河院側近への大粛清で流された公卿、入道松殿下、妙音寺太政大臣殿、大納言資賢卿ら許されて帰洛された。これも後白河法皇へのご機嫌取り政策であろう。


横田河原合戦

養和元年八月七日、大仁王会行われる。これは将門追討の例にあやかったものである。十二月二十四日中宮院、号を得て建礼門院となる。養和二年四月十五日、比叡山日吉の社で顕真僧都法華経転読をもよされる時、法皇が御幸された。すると山門の大衆が平家追討の宣旨が出たと騒いでいるので、中将重衡卿三千騎で叡山に上がり、法皇を迎え取り都に還御させた。五月改元あって寿永と号した。九月二日、亡くなった越前守城太朗助長に代わり長茂を越前守に命じ、木曽殿追討のため越前、出羽、会津の兵四万騎を引きいて信濃国へ向った。木曽殿は依田城にいたが三千騎で横田河原に向った。ここで義仲得意のゲリラ戦法を展開した。七つの陣に分け山に登らせ、合図に従って一斉に白旗(源氏の旗は白、平家の旗は赤)を揚げさせると、平家の軍は既に囲まれたと慌てふためいて逃げ惑うところを打ち破ったのである。越前守長茂はほうほうのていで越前に逃げ帰った。ところが都では宗盛卿内大臣のお祝いをやっていて、どこ吹く風云う有様であった。


平家物語 卷第七

北国下向

寿永二年三月、木曽義仲と源頼朝の間が武田信光の讒言により不仲となり、頼朝は木曽追討のため拾萬の軍勢を信濃に差し向けた。木曽殿は意趣ないことを誓約し息子清水冠者義重(十一歳)を人質として鎌倉に差し出して和解がなった。木曽殿が北陸路から都に乱入する噂が立ったので、四月十七日、都では維盛卿を大将軍とし、副将軍に忠度、経正、清房、知度、侍大将には上総判官忠綱ら六人を将として都合十万余騎が北国へ発った。道中片道分の兵糧を徴収して言ったので沿道の人民耐えられず逃散した。


竹生島詣

平家の大軍の士気はたるんでいたようだ。大将軍維盛・通盛の軍を先頭とし、副将軍忠度・経正・清房・知度などは近江の国塩津、貝津あたりでぶらぶらしている様であった。皇后宮亮経正は琵琶湖の沖に見える竹生島に渡って明神に詣り、幼少より詩歌管弦の道に長じていたので、琵琶を弾いて戦いの門出とした。雅な平家軍であった。


火燧合戦

木曽殿は信濃にいて、越前国火燧城を長吏斉明威儀師、富樫入道佛誓、稲津信介ら六千余騎で籠もって守らせた。城の前を流れる能見川、新道川の二つの川を堰き止め、城前を池にして平家の大軍から守った。攻めあぐねていた平家軍に長吏斉明威儀師が平家に寝返って堰の開き方を教えたので、水を落として平家は一気に攻めた。こうして火燧城は落ちたが、富樫入道佛誓、稲津信介らは加賀国へ逃げ、富樫・林の城郭に陣をとったが、これも破られた。平家軍は加賀篠原に着き、大手・搦め手の二軍に分かれた。大手軍の大将軍は維盛・通盛で七万余騎は砺波山へ向う、搦め手の大将軍は忠度、経正・清房・知度ら三万余騎で志保の山へ向った。木曽殿はいつものゲリラ戦術で五万余騎を七手に分け、叔父蔵人行家一万余騎で志保の山へ向かい、樋口次郎兼光ら七千余騎で北黒坂へ向かい、仁科・高梨・山田次郎七千余騎で南黒坂に向かい、今井四郎兼平六千余騎は日の宮林に陣を取り、別の一万余騎は砺波山の麓に隠れ、木曽殿一万余騎は砺波山北の羽丹生に陣を取った。


木曽願書

木曽殿の戦術は、平家は大軍だから騎馬の駆け合いをすれば消耗するので、先ず謀略として黒坂の上に白旗を挙げる。平家は搦め手が来るまで兵を休めるため谷に降りるだろうから、そこを木曽殿夜になって平家の大軍を後ろの倶利伽羅の谷に追い落とすと云うことであった。義仲・義経のゲリラ式奇襲・谷落とし戦術の原型はここに始まった。木曽殿が砺波山の猿の馬場と云うところに来ると、前に神社があった。新八幡の社だと云うので、大夫坊覚明を召して源氏戦勝の祈祷願書を書かせ奉納した。


倶利伽羅落

そして倶利伽羅での源平の戦闘は駆け合いから始まった。木曽殿の軍は搦め手から一万余騎、木曽殿一万余騎、今井四郎六千余騎、砺波山裾に隠してあった兵一万余騎あわせて四万余騎で覆いかぶされば、地形を知らない平家の大手軍七萬余騎は倶利伽羅の谷に押し込められた。散々打ち破られ平家の大将軍維盛・通盛は加賀へ逃れた。その数僅か二千余騎であった。勝利を得た木曽殿,志保山に向った叔父の蔵人行家が心配になって、二万余騎で平家の搦め手軍の忠度、経正・清房・知度ら三万余騎に襲い掛かった。平家の大将忠度(清盛の末子)は討たれ、加賀の国に引き退いた。


篠原合戦

治承四年八月石橋山の戦いで頼朝側が破れて平家方に寝返った斉藤別当実盛、浮巣三郎重親、俣野五郎景久、伊藤九郎助氏、真下四郎重直らは、平家の負け戦で平家を見限ろうかと云う相談をしていたが、俣野五郎景久が「様子を見てあちこち移るのは見苦しい、平家方で討ち死にしよう」といって全員がその意見になった。平家は加賀国篠原で陣を休ませていたが、そこへ木曽殿五万余騎で向った。木曽殿の武士は今井四郎兼平、畠山庄司重能、小山田別当有重、宇都宮左衛門朝綱、仁科・高橋・山田次郎、平家側の武士は高橋判官長綱、樋口次郎兼光、落合五郎兼行、武蔵三朗左衛門有国で打ち合った。平家の善戦も空しく暫くすると平家は総崩れとなった。判官長綱、左衛門有国ら平家の侍大将らは討ち死に。


実盛最後

落ち行く平家の中で、長井の斉藤別当実盛は含むところがあって一騎取って返して防戦した。実盛は木曽殿方の手塚太朗光盛と取っ組み合いになり、ついに実盛は疲れ果て討ち取られた。木曽殿は実盛を良く見知っていたので、あの七十歳と云う歳でよくぞ戦ったと感心し、実盛の首を洗うと黒髪は白髪に変わった。派手な赤い鎧を着て、髪を黒く染めて死の闘いに臨んだ老武士の心意気に涙を流さぬ人はいなかった。こうして平家は去る四月17日に十万余騎で都を出たが、五月末に都に帰り着くときは、僅か二万余騎となっていた。


玄ム

上総守忠清、飛騨守景家は清盛入道がなくなった時二人とも出家していたが、今回の北陸道での源平合戦で息子が皆討たれたと聞いて、嘆き死にをした。六月一日祭主神祇権中臣親俊を召して、兵乱が定まったなら伊勢神宮へ行幸あるべしと宣旨があった(結局それは出来なかった)。昔藤原広嗣の乱の時、伊勢神宮へ初めて行幸があった。乱が鎮められ広嗣の霊が荒れたので、大宰府で供養された時の導師が玄ム僧正であった。玄ムの霊は玄ムの首を取って怒りが収まり、興福寺の庭に玄ムの首を投げ捨てた。いまに「頭墓」として存在する。帝が御祈願のために皇女を賀茂の斉院に立てられた。これが斉院の始まりであると云う。国内の乱のときの帝の御祈願のあらましを述べた一章である。


木曽山門牒状

平家は山門を焼き僧を殺したが、木曽殿は平家のように山門を敵に回したくなかった。寿永二年六月十日、大夫坊覚明に命じて牒状を書かせ山門に送った。叡山は平家に付くか源氏に付くかを迫った厳しい文である。


山門返牒

寿永二年七月二日、叡山山門大衆は返牒を送って、宿雲尽きた平家には付かず、官軍の源氏に忠誠を誓った。これで木曽殿は安心して都に向った。


平家山門連署

山門が木曽殿に返牒を送った数日後、寿永二年七月五日平家一門は連署して山門が平家に付くように懇願したが、既に遅かった。


主上都落

七月十四日肥後守貞能は鎮西の源氏の謀反を平定して都に駆けつけたが、六波羅では騒動が著しかった。木曽殿が五万余騎で攻め上がり東坂本に集結し、大夫坊覚明が山門の衆徒三千人が決起するよう促した。七月二十二日、このような情勢で知盛を大将軍とする平家軍は宇治を固め、忠度らは淀を固めたが、木曽殿の叔父蔵人行長が数千騎で宇治を攻めると、突然平家軍は退却命令を出し主上都落となった。七月二十四日、後白河法皇は雲隠れし、摂政基通も北山から吉野へ逃走した。形勢平家に不利と見るや全く公家は逃げ足が速い。


維盛都落

小松三位中将維盛卿の北の方は、鹿谷の変で死んだ新大納言成親卿の娘で、六代御前と云う十歳の若君と八歳の姫君が居た。西国へ落ちる維盛は妻子を都に残す決心で、最後の別れをしたのに綿々と親子の情に引かれて別れが出来ないで出発が遅れた。出発を催促する息子たち中将資盛、左中将清経、少将有盛、侍従忠房に引き裂かれ、六代御前を残してゆくかどうかでハムレットのように維盛は苦しんだ。最後には、斉藤五・斉藤六の声に促されて都落ちとなった。平家は六波羅、池殿、小松殿、八条、西八条以下弐拾余箇所に火を掛けて、京の民家四・五万家を焼き払った。平家物語はこのような涙物語が好きなようで、平家も落ちるときに人間性が評価されているとは皮肉な話である。


聖主臨幸

都から出た火は、瞬く間に御所をも炎上した。「保元の昔は春と栄しかども、寿永の今は又秋の紅葉と落ち果てぬ。禍福を同じうし盛衰掌を返す」栄えた都も今は廃墟となった。平家が都落ち際、捕われていた東国源氏、畠山庄司重能、小山田別当有重、宇都宮左衛門朝綱らは許されて東へ去った。


忠度都落

薩摩守忠度は都を去る時、歌詠みの五条の三位俊成卿宅に寄り、「もしや何時の日か選集の沙汰あるときには、忠度の歌を取り上げていただければ」と藤原俊成に持参した忠度の歌の卷を預けた。日頃から忠度と俊成らは歌詠み仲間であったので、都落ちして命はなくなっても自分の歌を世に残したいと云う一念であった。平家にも多くの文人がいたのである。俊成はのち千載集に忠殿の歌「さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな」を、朝敵なので名はだせないので読み人と知らずとして採用した。


経正都落

皇后宮亮経正は幼少の頃御室の仁和寺に居られたので、都落ちの時仁和寺に別れの挨拶のため、侍五、六騎で駆けつけた。琵琶の名手であった経正は「青山」と云う琵琶を預けて立ち去った。この節は歌4首を入れて歌物語風に哀れを誘う別れの場面を描いた。


青山沙汰

この青山と云う琵琶は、昔藤原貞敏が入唐した時廉承武という琵琶博士から頂いた三つの琵琶、玄象・獅子丸・青山のうちの一つであった。


一門都落

池の大納言頼盛卿は源頼朝の命乞いをした清盛の母池の禅尼の家系であった。源頼朝はその恩義に心にかけ「池殿の侍には弓を弾くな」といって助ける津も魯であったので、池の大納言頼盛卿はそれを期待して都に留まった。平家にとって裏切りと見えたが、内大臣宗盛卿はこれを許した。淀に集合した平家と主上一行の勢力は7千余騎を残すのみであった。肥後守貞能は京へ取って返して小松殿重盛の墓を掘り返し、骨を高野山に送り、土を賀茂川に流した。平家は維盛卿以外は妻子を同伴しての都落ちであった。


福原落

平家一門は福原の旧里に着いて一夜を明かした。名残尽きない思い出に満ちた旧跡をしのんで、あくる朝福原の内裏に火をかけ、船に乗って西海へ逃げ給う。寿永二年七月二十五日平家都落ち。


平家物語 卷第八

山門御幸

平家一門が都落ちした寿永二年七月二十四日、法皇は右衛門頭資時一人をお供としてまず鞍馬に逃げられた。なお都に近くて危険だと云うので北山越えで比叡山横川に入られた。と云うことで法皇は叡山山門へ、天皇は西海へ、摂政は吉野へ、女院・宮らは都の郊外へ逃げられた。源氏はまだ入京していないので、一時的に都は主人のいない里になった。しだいに公卿らは叡山に集まり、二十八日木曽殿が5万騎で守護し、法皇は都に御還となった。続いて蔵人行家、矢田判官義清ら入京する。法皇より平家追討の宣旨が下された。主上が不在、三種の神器もなかったが、法皇は高倉院の皇子三の宮(五歳)と四の宮(四歳)から、自分になついた四の宮を天皇に立てることになった。この皇子の母は修理大夫信隆卿の娘であった。


名虎

八月十日木曽殿左馬頭となって越前の国を貰う。「朝日将軍」という院宣も出た。木曽殿越後を嫌ったので伊予国を贈られ、蔵人行家は備後を嫌って備前を賜った。平家一門百六十人の官職を停止、殿上人を召し上げた。二十日高倉院の四の宮が位につき、摂政基通が補佐した。昔文徳天皇が隠れられた時、一の宮と二の宮が後継位を争った。公卿が詮議して優劣極め難いとして相撲で勝ったほうが天皇位を継ぐことになった。一の宮惟喬親王側から名虎の右衛門督と云う強の者を出し、二の宮惟仁親王側からは善男と云う者を出し、僧の祈祷もあってか名虎が勝った。一の宮すなわち水尾天皇がそれである。この話は相撲で帝位を決めるなんて嘘臭いが、とにかく兄弟が帝位を血で争うという飛鳥時代の風習は無くなっていた様だ。密室で決めるよりは相撲のほうが透明性が良いというのは変な物分りのよさかな。


宇佐行幸

八月十七日平家は大宰府に着いた。平家は筑紫に都を定めようと詮議があったが決まらなかった。宇佐の宮に行幸して又大宰府に還幸となった。この節は内大臣宗盛卿、薩摩守忠度卿、修理大夫経盛卿、皇后宮経正の四人の歌が収められている。


緒環

豊後国は刑部卿三位頼輔の国で、息子頼経を代官に置かれていた。都より緒方三郎惟義と云う者に、平家を九州から追い出すように命令された。この惟義は恐ろしい者の子供であった。豊後国の里の娘に夜な夜な通う男がいたが、その男の正体は誰も知らなかった。そこで男の首の襟に緒環をつけて後をつけるとそれは大蛇であった。そして娘が生んだ子の五代の孫が惟義である。


大宰府落

緒方三郎惟義は元は小松殿の家来であったが、平家に対して弓を弾いたのである。平家は源大夫判官季貞、摂津判官守澄が三千騎で豊後の惟義を攻めたが破れず引き揚げた。惟義が三万の兵で攻めてくると云う噂で平家は大宰府を去って、豊前国柳が浦から讃岐の国屋島に移った。途中左中将清経は将来を悲観して入水自殺をした。讃岐の国屋島に仮屋を建てたが主上は船を御所とした。


征夷大将軍院宣

十月四日頼朝は鎌倉にいながら征夷大将軍の院宣を下された。院の使いは中原康定、受け取り役は三浦介義澄、陪臣は和田三郎宗寶、比企藤四郎能員であった。頼朝の印象は顔が大きく背は低く、容貌優美にして言語明瞭であったという。鎌倉からは木曽義仲、十郎蔵人行家と陸奥の秀衡、常陸の佐竹の追討の院宣を要求したが、康定は上洛の後認可を得るといった。使いの康定にはたくさんの贈物と旅の米馬を与えて帰した。


猫間

鎌倉から帰った中原康定は院に報告し、院はご満悦な様子であった。一方木曽殿の印象は色白で眉目は好い男であったが、立ち居振る舞い無骨で言葉使いが頑な田舎者という。猫間の中納言光隆と云う人が木曽殿に使いに来た時、木曽殿は猫、猫といってからかい、昼飯時だったので中納言光隆に大盛りの飯を無理強いしたので、中納言光隆は用事もそこそこに逃げ帰った。木曽殿の着物の着方から、牛車の乗り方などおかしいことが多かった。平家物語の作家は恐らく公家階級の者であったのだろうか、木曽殿の田舎振りを散々こき下ろしている。


水島合戦

平家は屋島の船にありながら山陽道・南海道十四カ国を平定したので、木曽殿は追手軍の大将軍矢田判官義清、侍大将に海野弥平四郎行広を命じ七千余騎をつけて水島に寄せた。平家は大将軍新中納言知盛卿、副将軍能登守教経として千余艘の船を束ねて迎え撃った。平家は船の上で馬に乗って走り回り、源氏側の大将軍は討たれて平家の快勝となった。


瀬尾最後

木曽殿、敗戦の報を聞いて一万余騎で備中国へ駆けつけた。その中にさる五月の北陸の戦いで倉光次郎成澄に生け捕りにされた瀬尾太朗兼康がいた。瀬尾太朗兼康の子宗康は平家方にいたので兼康は木曽殿を裏切って、源氏側の兵二千人を率いて息子の砦に寝返った。今井四郎は三千騎を率いて備前国福隆寺畷に駆けつけ、瀬尾太朗兼康を攻めた。今井四郎の猛攻に瀬尾太朗兼康の軍は敗れて主従三騎で逃げたが、息子が肥満体で逃げられないことを悟った瀬尾太朗兼康は、取って返し今井軍の新手五十人に向かい討ち死にした。親子の情をこのように描ききる平家物語に哀れを誘われる。


室山合戦

木曽殿は備中国寿荘にいた。木曽殿と十郎行家は仲が悪く、木曽殿がいない間十郎行家は京において木曽殿を讒言していた。そこで木曽殿は兵を京に反した。平家は知盛卿を大将軍として二万余騎で播磨国室山で陣を構えた。そこへ京から逃げてきた十郎行家五百騎が攻撃してきた。ほぼ全滅した十郎行家側は二十七騎で逃げ高砂から河内国長野の城に立て籠もった。平家は水島・室山で源氏に勝ち勢いがついたようだ。


鼓判官

京では木曽殿の兵の乱暴狼藉が絶えず、法皇は壱岐判官知康(鼓判官)を使者にして木曽殿に狼藉を鎮めよと要請した。ところが木曽殿は鼓判官をからかって取り合わないので、判官は帰って法皇にもはや追討すべきと報じた。といっても法皇側にはしかるべき侍はいない。そこで叡山や三井寺の乞食僧侶を集めようとした。法皇ご不興と見た今井四郎は木曽殿に「法皇を敵にすることは出来ない、謝るように」と説いたが木曽殿いきり立って法皇を攻撃した。


法住寺合戦

木曽殿の兵馬を京で養うこと自体無理があった。五万騎といわれた北国の兵力も、木曽殿の不評で離散して残すところ六・七千騎となった。法皇が兵力を集めていると云う噂により、十一月十九日、院の御所法住寺を木曽殿の軍が取り囲んだ。樋口次郎兼光二千余騎で今熊野より攻め、今井四郎が火矢を法住寺の棟に放つと炎が上がった。乞食坊主を集めたに過ぎない山門大衆の兵は蜘蛛の子を散らしたように逃げ去った。主水正親、近江の中将為清、越前少将信行、村上三郎判官、右少将雅賢、明雲大僧正、円慶法親王らは討たれて首をとられた。法皇は信濃の矢島四郎行重の手で五条内裏に押し込めた。主上後鳥羽天皇もつかまり法皇と同じ場所に連行された。あくる二十日、木曽殿六条河原で討った首を掛けると六百三十余人であった。二十三日三条中納言朝方以下四十九人の公卿の職を停止した。これは平家の悪行以上だと云う噂であった。木曽殿は関白になろうとしたが今井四朗が諌め、丹波の国を取った。鎌倉殿頼朝は木曽追討のため、範頼・義経に六万余騎をつけて出発させたが、都が焼け野原になったと聞いて軍は尾張国熱田あたりで待機した。都の使い宮内判官公朝・藤内判官時成が範頼・義経軍に来たが、使いは鎌倉へと云うことで知康らは鎌倉へ向った。鎌倉では梶尾平三景時が使いを受け、知康(鼓判官)が今回の騒動の因を作ったとして適当にあしらった。ここで木曽殿は平家と和議を結んで鎌倉殿と対抗しようとしたが、平家側は相手にしなかった。十二月十日法皇は五条内裏から六条西洞院へ移された。


平家物語 卷第九

小朝拝

寿永三年正月一日、院の御所は大膳大夫成忠の屋敷であったので院の拝礼は行われず、内裏の小朝拝も行われなかった。一方平家は讃岐国屋島で元旦を迎えた。閉塞感に心なずまない様子であった。


宇治川

正月十三日、範頼・義経の軍が美濃・伊勢に迫っていると聞いて、木曽殿は先ず瀬田の固めに今井四郎兼平八百余騎、宇治橋には仁科・高梨・山田次郎五百余騎、淀一口へは志田三郎義教三百余騎を送った。義経の家来に梶原源太景季と佐々木四郎という侍が先駆けを争っていた。二人は頼朝から名馬磨墨、生食を賜って合戦に向かった。大手の大将軍は範頼、侍は武田太朗、加賀美次郎、一条次郎、板垣三郎、稲毛三郎、熊谷次郎、猪俣平六都合三万五千余騎で近江国篠原を経て瀬田橋に向った。搦め手の大将軍は義経、侍は安田三郎、大内太朗、畠山庄司次郎、梶原源太、佐々木四郎、糟屋藤太、渋谷右馬、平山武者所都合二万5千余騎で伊賀を経て宇治橋へ向った。義経軍は一月二十日宇治川にて合戦の火蓋を開いた。畠山庄司次郎重忠五百騎で宇治川を渡り続いて佐々木四郎、梶原源太が渡って木曽殿側を打ち破った。瀬田は稲毛三郎重成の働きで破った。


河原合戦

宇治川・瀬田の合戦で敗れた木曽殿は最後の合戦に出るつもりで、公卿の女房の屋敷に暇乞いに行きなかなか出てこない。家来の越後中太家光は主人を諌めるためにわで切腹した。ようやく未練を捨てた木曽殿は那波太朗広純ら百騎ばかりで六条河原に出ると、義経軍に囲まれて六条から三条まで河原を走り抜けた。木曽殿は瀬田で闘っている竹馬の昔からの乳母兄弟今井四郎を求めて、三条から粟田口に出た頃には主従七騎にまで減っていた。一方義経は残党狩りは任せて、安田三郎、畠山庄司次郎、梶原源太、佐々木四郎、渋谷右馬重資と、法皇のいる六条御所に駆けつけた。一万余騎で守護した。


木曽最後

木曽殿に追従した七騎のなかには木曽殿の愛妾巴御前という一騎当千の兵がいた。木曽殿は大津の濱で今井四郎に合えた。残党をかき集め三百騎程になって一軍しようと、甲斐の一条次郎六千余騎のなかへ突っ込んで反対側へ出たときには五十騎ばかりになり、土肥次郎実平二千余騎のなかへ分け入って出てくると主従五騎になった。この五騎のなかにも巴御前は残っていた。義仲は巴を生かして逃がそうとした、巴は東国へ落ちのびたという。木曽義仲は今井四郎と云う義兄弟と主従二騎になったが、木曽殿は疲れた様子なので不覚を取らないよう今井は粟津の松原で自害をするよう薦めた。今井四郎三十三歳にて討ち死に。木曽義仲は三浦の石田次郎為久の手にかかり首をとられたと云う。


樋口被斬

今井四郎の兄樋口次郎兼光は淀のあたりで、今井四郎と義仲が討たれたことを知り、五百騎で都へ上がって討ち死にするつもりで鳥羽口につくころには二十余騎まで減っていた。降人となった樋口次郎兼光は木曽殿四天王といわれた今井、樋口、楯、根井の名を慕う者がとりなして命乞いをしたが法皇許さず、二十五日遂に斬られた。その頃平家は讃岐の屋島を出て摂津国難波に上がり、西は一の谷に城をつくり東は生田の森を大手門とした。14カ国を従え軍兵十万余騎と聞こえた。


六箇度合戦

平家が一の谷に移ってから、四国で謀反がしきりに起った。備前下津井にいた門脇の大納言教盛・越前三位通盛・能登守教経親子三人は淡路国源氏の賀茂冠者義嗣・阿波冠者義久を攻め、散々の蹴散らし二百三十人の首を取った。兄越前三位通盛は阿波国花園を、弟能登守教経は讃岐屋島を攻めた。能登守教経は屋島から備後国蓑島の沼田にいた沼田次郎・河野四郎を攻め、河野は逃したが沼田を捉え一の谷に帰った。阿波の国安摩六郎忠景が謀反したので能登守教経は西宮沖の海戦で追い散らした。紀伊の国園辺兵衛忠康と安摩六郎忠景が和泉の国で城郭を構えていたので、能登守教経は城を攻め百三十人の首を切っった。豊後国臼杵次郎惟隆・緒方三郎惟義・伊予国河野四郎都合二千余人が備前国今木城に立て籠もっていたので能登守教経は三千余騎でこれを攻め、三人はバラバラに逃げた。田舎侍を相手とはいえ能登守教経の戦いぶりは目覚しかった。


三草勢揃

一月二十九日範頼・義経は平家追討を奏上する。二月四日平家側では福原にて故入道相国の忌日を執り行い、平中納言教盛卿を正二位大納言に昇らせるが、教盛卿これを受けなかった。源氏側は四日、軍を西へ移動し、七日、一の谷の東西の木戸口にて源平矢合わせと定めた。源氏の陣は
大手の大将軍:蒲御曹司範頼 武田太朗信義、加賀美次郎遠光、小次郎長清、山名次郎教義、三郎儀行、 侍大将:梶原平三景時、源太郎景季、次郎平次景高、三郎景家、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、五郎行重、小山四郎朝政、中沼五郎宗政、結城七郎朝光、佐貫四郎大夫広綱、小野寺禅師太朗道綱、曽我太朗資信、中村太郎時経、江戸四郎重春、玉井四郎資景、大河津太朗広行、庄次郎忠家、四郎高家、勝大八郎行平、久下次郎重光、河原太朗高直、次郎盛直、藤田三郎大夫行泰     都合五万余騎    摂津国毘陽野に陣を取る
搦め手の大将軍:九郎御曹司義経 安田三郎義貞、大内太朗惟義、村上判官代泰国、田代冠者信綱、 侍大将:土肥次郎実平、弥太郎遠平、三浦介義澄、平六義村、畠山庄司郎重忠、長野三郎重清、佐原十郎義連、和田小次郎義盛、次郎義茂、三郎宗実、佐々木四郎高綱、、五郎義清、熊谷次郎直実、小次郎直家、平山武者所季重、天野次郎直経、小河次郎資能、原三郎清益、多々羅五郎義春、太朗光義、渡柳弥五郎清忠、別府小太郎清重、金子十郎家忠、興一親範、源八広綱、片岡太朗経春、伊勢三郎義盛、佐藤三郎嗣信、四郎忠信、江田源三、熊井太朗、武蔵房弁慶   都合一万余騎   三草山の東の小野原に陣をとる。
一方平家の陣は
大将軍:小松の新三位中将資盛、少将有盛、丹後侍従忠房  侍大将:伊賀平内兵衛清家、海老次郎盛方  都合三千騎   三草山の西で陣を取る。
義経は侍大将の土肥次郎実平と夜討ちにするか明朝にするかを詮議したところ、田代冠者信綱の言により夜討ちと決定。山に火をつけて松明の代わりにして三草の山を越えた。平家は夜討ちに驚いて遁走し五百余人が討たれた。新三位中将資盛、少将有盛、丹後侍従忠房は讃岐の屋島に逃げ、備中守師盛、平内兵衛清家、海老次郎盛方は一の矢へ合流した。


老馬

大臣平宗盛卿は、義経が三草を破ったので山の手へ向う人を募ったが、誰も尻込みして手を挙げなかった。そこでいつものことながら能登教経が越中前国司盛俊、三位通盛ら一万余騎を率いて一の谷の後ろ、鵯越えの麓に向った。六日の明け方、義経は土肥次郎実平に7千余騎を預けて一の谷の西木戸口へ向わせ、自分は三千騎で一の谷の後ろ鵯越えへ向った。別府小太郎清重はこの難所を越えるには老馬に道案内させることが一番と見知らぬ深い山へ入っていった。武蔵坊弁慶は老翁を携えてこの崖を越える方法を問うたが老翁は無理だと云う。義経はでは鹿は通えるかと問えば、「丹波の鹿は播磨の印南野へ行く」と答えたので、義経鹿の通えるのに馬の通えないわけはいと、十八歳の鷲尾三郎義久に案内をさせる事になった。(ここに、武蔵坊弁慶が始めて平家物語に出た)


一二駈

義経の別働隊、一の谷の搦め手の土肥次郎実平の7千余騎のなかに、熊谷・平山と云う先駆けを争う二人がいた。土肥次郎実平の本隊を離れ熊谷次郎直実、子息の小次郎直家らの主従三騎で一の谷の塩屋から西の木戸口へ先駆けした。直ぐ後ろから平山季重ら二騎が追いかけた。六日朝になれば、熊谷・平山の五騎が先陣にいて、平家側から木戸を少し開けて兵衛盛嗣、五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清らの侍二十騎が出て矢を交えて小競り合いをした。これを熊谷・平山の一二の駆けという。華々しい関東武士の功を競う先陣争いである。


二度駈

そして土肥次郎実平七千騎の本隊が一の谷西木戸口の攻撃に移った。同時に東の生田の森で源氏五万騎の大手軍でも戦闘が始まった。河原太朗私高直、次郎盛直の二騎が生田の森の先陣を駆けた。平家の真名辺四郎・五郎兄弟は柵を乗越えようとする二人を取り囲んで討ちとった。梶原平三五百騎は生田の柵を破って進入したが、取り囲まれて善戦して退いた。これを梶原の二度の駆けという。


逆落

源氏の生田の戦いは凄まじい争いとなったが、雌雄を決することは出来ず膠着した。そこで七日、九郎御曹司義経三千騎は鵯越えを敢行する事になるのである。断崖の上から平家の城郭を見下ろしていた義経は、「馬を落としてみよ」とためしに何頭かの馬を崖から落とした。中にはうまく下りられた馬がいた。義経は自ら三十騎ばかりで真っ先に降りれば、続いて三千騎も皆鵯越えができた。平家の屋敷を焼き払い濱へ押し寄せると、不意を突かれた平家軍はただ逃げ惑うばかりであった。船に乗って逃げた平家も多かったが、能登殿教経は馬で西に逃げ、播磨の高砂で船に乗って讃岐の屋島へ渡った。この鵯越えで平家軍は総崩れになって、一気に勝敗が決した。この鵯越えの戦いで義経は不朽の名将(軍事的天才)と謳われるようになった。


盛俊最後

西が崩れたと知った東の生田の森の大将軍新中納言知盛卿は我先にと逃げ出した。越前前司盛俊は山手の侍大将であったので、逃げることは出来ないと悟って、よき敵を探していた。そこへ源氏側の侍猪俣小平太則綱が攻めてきたので組み合いになり、則綱を押さえつけ首をはねようとした時相手が命乞いをするので許した。ところが隙を見て則綱に逆に刺し殺され首をとられたという。この話は戦場ではありえない話だ。どこかにウソがある。平家の侍は何処までもお人良しか馬鹿に描かれている。


忠度最後

薩摩守忠度卿は西の手の大将軍であったが、武蔵国岡部六弥太忠純の囲まれ奮戦していた。忠純は忠度が鉄漿であったのでこれは公卿の大物だとばかり忠度の首を取った。箙には歌が結いつけてあり、忠度と書かれていた。武芸にも歌道にも優れた武将を失ったと惜しまれた。


重衡生捕

本三位中将重衡は生田の森の副将軍であった。主従二騎で濱に向かって逃げて行くところを、梶原源太景季・庄太朗高家が追いかけ弓を射ると重衡の馬に当った。重衡の従者後藤兵衛盛長は自分の馬を取られると思ったのかそのまま逃げ失せた。重衡は生け捕られた。後藤兵衛盛長は熊野法師のところに身を寄せた。


敦盛最後

熊谷次郎直実、渚にて船に向って泳いでいるよき公達を見つけ、返せと叫ぶとなんと取って返して来る。汀で組討になって首を掻こうとして良く見るとまだ若い美少年であった。直実は自分の息子のことを思ってこの若い将軍を助けようとしたが、味方の軍勢が押し寄せてきたのでやむなく首を落とした。敦盛十七歳であった。このことで直実は後日発心するのである。


濱軍

その他、この濱戦で討たれた平家の人々を記す。
教盛の末子蔵人大夫成盛は、常陸国土屋五郎重行に討たれた。
皇后宮亮経正は、武蔵国河越小太郎重房に討たれた。
尾張守清定、淡路守清房、若狭守経俊三人一所で討たれた。
新中納言知盛卿は生田の森の大将軍であったが、子息武蔵守知章、監物太朗頼方の三騎で濱へ落ちてゆく時、知章と頼方は討ち取られ、知盛卿だけが落ち延び船に乗った。


落足

小松殿故重盛卿の末子備中守師盛は主従七人で船に乗ったが、新たに駆け乗った者の重みで船より師盛が落とされ、そこへ畠山次郎親経ら主従一五騎で駆けつけ備中守の首を取った。越前三位通盛は生田の森の大将軍であったが、近江国木村三郎成綱に討ち取られた。二月七日の一の谷の戦いで着られた平家の侍は二千余人、亡くなった平家一門は越前三位通盛、蔵人大夫成盛、薩摩守忠度、武蔵守知章、備中守師盛、尾張守清定、淡路守清房、皇后宮亮経正、若狭守経俊、大夫敦盛の以上十人であった。


小宰相

越前三位通盛の侍に見田滝口時員と云うものがいた。三位通盛の北の方に主人が討たれたことを報告した。北の方は二、三日は信じられないような様子であったが、四、五日で心細く臥すようであった。七日から十三日は起き上がれず悲しみ給うようだった。14日の夜からは通盛卿の思い出話をしているうちに、乳母の女房がまどろむ隙に「南無」と云う声がして海に入水された。北の方というのは、頭刑部卿憲方の娘で禁中一の美人、「小宰相」と呼ばれ、上西門院の女房であったところ、通盛が見初めたという。


平家物語 卷第十

首渡

寿永三年二月七日の一の谷出の戦いで討たれた平家の首が、十二日に都に入った。六条河原にて大夫判官仲頼ら検非違使たちは平家の首を受け取り、獄門にかけた。小松の三位中将維盛卿の北の方と六代御前の隠れ住む大覚寺では、その首の中にわが殿がいないかどうか心配でならなかった。従者斉藤五・斉藤六に確認させたが三位中将の首はないとのことであった。風の便りには三位中将維盛卿は讃岐の屋島に逃げられたということであった。三位中将維盛卿は都の残した妻子のことが気がかりでいても立っても居られず、手紙を妻子に宛てて送った。返事の手紙を見ては又涙のことではあった。


内裏女房

十四日生け捕りの本三位中将重衡が都に入った。警護は土肥次郎実平三十騎で八条堀川の御堂に入れた。法皇より蔵人左衛門権佐定長を使いとして「屋島に帰りたければ、三種の神器を都に返すように屋島の平家に手紙を書け」と云うことであった。中将重衡は院の宣旨をむげに退けることも出来なく、無駄とは思いながら前内大臣平宗盛と二位殿(清盛の妻、重衡らの母親)に手紙を書いて院の意志を伝えた。院宣の屋島への使いは御坪召次花方、三位中将の使いは平三左衛門重国であった。ここで話が本三位中将重衡と昔通った内裏の女房との恋歌物語に変わる。昔本三位中将重衡の侍従で今は八条女院の仕えている木工右馬知時を仲介にして、土肥次郎の許可を得て手紙を内裏の女房(民部卿入道親範の娘)に送った。更に恋心はエスカレートして女房が中将重衡に車で会いに来て別れを惜しむと云う濡れ場を四首の歌を挿み恋物語風に語られるのである。無骨だけの源氏に対して平家の公達は優雅な人が多いとでもいいたいのだろうか。公云うところに平家物語の文学性が出てくる。


屋島院宣

院宣の使い御坪の召次花方は二月二十八日に屋島に到着した。平家の歴歴が院宣を聞かれた。人質中将重衡と三種の神器との交換条件であった。


請文

大臣平宗盛と二位殿および新中納言知盛は、このような交換条件は受け入れられないとして、二月二十八日付けの返書(請文)を書いた。請文の文面はそれなりに筋が通っており、少しも臆することなく堂々と思うところを述べている。結局は武力が決することになるのだが、丁々発止の受け答えが凛凛しい。


戒文

院宣の結末は推し量られる所であったが、中将重衡は出家を土肥次郎に伺い出た。九郎判官義経は兄頼朝の許可なしには出来ないとこの要請を拒否した。そこで黒谷の法然坊に形だけの戒を受けた。奈良炎上は中将重衡一人の罪業といえど浄土に向うことは出来るのだろうかと法然坊に問うた所、称名一筋で救われる(念頭称名常懺悔)往生疑いなしと云うありがたいお話を頂き、出家しなくとも戒を保つことはできるので形ばかりの剃刀を当てて十戒を授かった。中将重衡はお布施に清盛公の硯「松陰」を法然坊に渡した。


海道下

頼朝の要請で、中将重衡は梶原平三景時に警護されて鎌倉へ送られた。ここは三首の歌を挿れた道行物語である。七五調の韻文で進行する、各地の名所を追う双六みたいな文章である。京から振り出し鎌倉で上がり。


千手前

鎌倉に着いた中将重衡は、頼朝の奈良炎上の責任追及に対して堂々と論を張り、衆徒の悪行を静めんが為の出陣で、奈良炎上は不慮の事故にすぎない、弓矢取る身の敵の手に渡って命失わん事全く恥じにて恥ならずといいのけた。頼朝も平家は敵にあらず帝王の命だからしかたないといって許した。中将重衡の身は狩野介宗茂に預けられ、丁重な扱いであったという。頼朝の粋な計らいで頼朝が三年寵愛した千手前という美人を差し向けた。千手前の今様、白拍子に合わせて中将重衡の琵琶演奏と漢詩の朗詠が一晩中繰り広げられた。それを聞いた源氏方の武将は平家の武将の歌人才人ぶりに感心したと云う。中将重衡のお相手をした千手前と云う才女は、重衡が南都で斬られたのち、信濃国善光寺にて彼の後世菩提を弔ったという。


横笛

ここまでは中将重衡の話だったが、以降は小松の三位の中将維盛卿の事になる。三月十五日の朝、維盛卿は京に残した妻子への思い断ち難く、興三兵衛重景と石童丸、武里という舎人を供に屋島を船で抜け出し、阿波国から紀伊湊に着いた。京へ向かうのは親の恥じとなると心得て高野山に上った。高野山には知り合いの瀧口入道(俗名 斉藤瀧口時頼)と云う高野聖がいたからである。この斉藤瀧口時頼は建礼門院の雑司横笛と云う女を愛したが、親に猛烈に反対され十九歳の時嵯峨の往生院で出家した。横笛が瀧口を追って嵯峨に逢いに来たので、心乱れ高野山に逃げて清浄心院で修行していた。横笛も後を追って出家し奈良の法華寺に入ったという。悲しくも愛らしい恋物語(今昔物語には娘道成寺という恐ろしい女の執念を描いた話もあるが)をもつ瀧口入道に、三位の中将維盛卿は出家から入水までの道案内を御願いする。


高野巻

小松の三位の中将維盛卿が何故一人屋島を抜け出したのかというと、大臣平宗盛と二位殿は、維盛卿が京に妻子を残したことが、池の大納言のように既に頼朝と密約が出来ていると睨んでいたからだ。猜疑の目で見られるのが厭になって自殺をするため高野山から熊野まで行くのである。


維盛出家

興三兵衛重景は父景康が平治の乱で源氏に討たれて以降は、重盛卿が実の子のように養って維盛卿とは義兄弟の間柄であった。高野山の東禅院の知覚上人によって三位の中将維盛と興三兵衛重景、石童丸は出家した。維盛と重景は二十七歳、石童丸は十八歳であった。舎人武里には屋島への報告と京の六代御前に「子烏」という刀を届ける役目を与えて出家は許さなかった。瀧口入道を道案内人として、熊野権現に向った。


熊野参詣

熊野の海は三位の中将維盛の父、小松の大臣重盛卿が祖父清盛入道を諫るため入水された場所である。親子二代で熊野灘で入水自殺を遂げることになる。一行は新宮から那智の瀧を参詣した。


維盛入水

浜の宮から船を出し、山なりの島に上がって松の木に「清盛浄海、重盛浄蓮、維盛浄円」と三代の名を書いて三月二十八日、那智の沖にて入水すと書き付けた。沖に出て入水の場になっても維盛は「あわれ人の身に、妻子と云うものをば、持つまじかりける」と未練が止まなかったので、瀧口入道は延々と道理を諭して未練を断ち切ると中将らは念仏百回唱えて「南無」と海へぞ入り給われた。重景、石童丸が続いた。


三日平氏

舎人武里も海に入ろうとしたが、瀧口入道が止め御菩提を勤めよと教訓した。最後を見届けた入道は高野へ帰り、武里は屋島に参り、大臣平宗盛と二位殿に報告したという。四月一日改元して元歴と号した。五月四日池の大納言頼盛卿は頼朝に請われて鎌倉へ下向した。故尼御前の遺徳により、鎌倉殿及び関東武家より歓待を受け、さまざまな引出物を頂き、かつ荘園も授けられて、六月九日都へ戻った。十八日平田入道定次を先頭とする伊賀・伊勢国の平家が近江の国に打って出た。二十日には乱は静まって、三日平氏と呼ばれた。


藤戸

小松の三位の中将維盛卿の北の方は、維盛卿が那智沖で入水された噂を聞くと、出家され菩提を弔いなされたという。鎌倉殿は小松大臣重盛の芳徳を慕っていたので、生きていたら命は助けたものをと残念がられたいう。四月二十八日、都では御鳥羽天皇の御即位があった。八月六日、除目が行われ、範頼は三河守に、義経は左衛門尉になり九郎判官と云うようになった。九月十二日平家追討軍が西国へ発向した。大将軍に三河守範頼、侍大将に土肥次郎実平都合三万余騎、播磨の室に集結した。平家側は大将軍に小松の新三位中将資盛、侍大将び越中次郎兵衛盛嗣ら五百余艘の船を備前の児島に着けた。源氏は備前の藤戸に陣をとった。源氏は騎馬を海に入れて闘ったが、平家は屋島に退いて決着は着かなかった。


平家物語 卷第十一

逆櫓

元歴二年正月十日、九郎判官義経、後白河院に平家追討を奏問し三年余りの源平の戦いに終止符を打つ決意を伝えた。二月三日義経の軍は摂津福嶋において船揃えをし、兄の三河守範頼も摂津国神崎に船揃えをした。二月十六日船を修理して船を出す時、侍大将梶原平三景時は船の回転を良くするため「逆櫓」を立てようとしたところ、義経は逃げるための櫓は必要ないと反対した。ここから義経と梶原の内輪もめが始まり、義経の運命にもかかわる梶原の義経に他する怨念が生じるのである。義経は梶原ら二百艘の船を置いて、たった五艘で阿波へ向って出発した。同行したのは、伊勢の三郎義盛、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太朗、武蔵坊弁慶、金子十郎家忠、伊豆の田代冠者信綱、後藤兵衛実基・新兵衛基清親子らであった。軍の規律を大将自ら破ったことになり、侍大将という指揮官を抜きにしては軍は動かないので、大将の親衛隊だけで戦に出かけたことになる。この辺が義経の異常さであり、勇敢さでもあった。


勝浦合戦

二月十六日、五艘の船と馬九十騎で阿波の勝浦に上陸した義経は、まず伊勢三郎義盛に現地の侍で案内役を連れてこさせた。坂西近藤六親家を屋島への案内とした。勝浦の平家方である桜庭介能遠を討って門出の戦とした。


大阪越

平家の陣を近藤六親家に尋ねると屋島には千騎ほどだという。平家は各地に兵を分散させていたようだ。阿波の平家方田内左衛門教能が伊予国の河野征伐に出て留守なのを幸いに、阿波と讃岐の境の大阪越を夜を徹して越えた。二月十八日、讃岐国引田から高松に着いて、高松を焼き払って屋島に向った。屋島では源氏が大勢で攻めてきたと思って沖の船に避難したが、屋島の御所を焼き払った源氏義経軍は七八十騎ばかりが渚にでた。


嗣信最後

能登殿は源氏の兵が少ないのを見て、越中次郎兵衛盛嗣を先頭に五百騎を濱に繰り出した。源氏側から伊勢三郎、平家側から次郎兵衛盛嗣がでて口上合戦をやってから、能登殿は強弓の手で奥州の佐藤三郎兵衛嗣信を射落とし、その首をとりに出た能登殿の童菊王丸は嗣信の弟忠信の矢で殺されたので、暫く源平のにらみ合いが続いた。


那須与一

義経軍は現地の雑兵をあつめて三百騎程になったが、その日は暮れて引き上げようとしたところ、平家側より船の上に女房が現れ紅の扇をかざして、これを射よと源氏を挑発してきた。義経矢の名人を募ったところ、下野国那須太朗与一宗高が名乗り出て沖の扇に矢を放つと、扇は空へ上がりさっと散った。源氏は箙を叩いて、平家は舷を叩いて感じ入った。


弓流

余りの見事さに平家の五十歳くらいの男が船の上で舞い始まった。余一今度も弓を放つとその男の胸元を射通した。やったりと云う人もいたが、興ざめだと云う人もいた。平家は口惜しいと思って、二百余人ほど渚に上がり、源氏は八十騎で闘った。夜になって平家は船に上がり、源氏は陸に引いて休戦となった。源氏側は疲れ果てていたので、何故ここで平家が夜討ちをかけなかったのかが運の分かれ目となった。


志渡合戦

平家は讃岐国志度の浦へ移った。志度の浦では平家千騎と義経八十騎で合戦になった。源氏の援軍が来たので平家は大軍が来たと勘違いして舟に引き上げた。伊勢の三郎義盛は平家方の田内左衛門教能をたばかって心変わりをさせ源氏方の人質とした。この嘘による謀略で、教能の父阿波民部重能の心変わりを誘う戦術であった。こうして義経は四国を平定した。このころ摂津福嶋に取り残された梶原の二百艘も屋島に着いた。


壇浦合戦

平家は長門国引島に着き、義経は兄範頼と合流して長門国追津に着いた。平家側の武将熊野別当湛増は二千余人と船二百艘を率いて源氏へ寝返った。伊予国河野四郎通信も百五十艘の船を連れて源氏へ入れた。あわせて源氏の船は三千艘、平家の船は千艘となって会い対した。元歴二年三月二十四日の卯の刻に長門の国壇ノ浦赤間が関で源平の矢あわせとなった。さてその日また義経と梶原の先陣争いで喧嘩となった。梶原は義経は大将なのだから先陣は侍大将の梶原に任せるべきと主張し、義経は大将は頼朝で自分は侍にすぎないので先陣に出るといって聞かず、互いに刀を抜かんばかりの喧嘩である。土肥と三浦介が仲裁に入った。梶原は深く義経を恨み「この殿は天性侍の主にはなり難し」といった。この恨みが義経讒言につながるのである。


遠矢

壇ノ浦では平家の船は汐に流され、源氏の船には追手となった。平家は千艘を三手に分け、山賀兵藤次秀遠が先陣五百艘を、松浦塔が三百艘で第二陣、平家の公達らが二百艘で三陣を組んだ。山賀兵藤次秀遠、和田小太郎義盛、仁井紀四郎親清、開源氏浅利与一らの遠矢合戦をして、ここを一途に源平死力を尽くした戦いとなった。


先帝御入水

ここで平家方の戦線脱落・裏切りが開始され平家は総崩れとなった。阿波の民部重能は教能が人質になっていたので源氏へ寝返った。四国鎮西の兵は皆平家を背いて源氏についた。はやここまでと感じ取った二位殿は、神璽を脇に挟み、宝剣を腰にさし、主上を抱いて「極楽往生と云う都にゆこう」と海に入られた。


能登殿最後

建礼門院は主上と二位殿の入水をみて、覚悟を決め懐に石や硯を入れて入水された。源氏の渡邊源五右馬允昵は小船で近づいて熊手にかけて女院を引き上げた。大納言典侍局は内侍所の入った唐櫃とともに入水しようとしたが、けつまずいて倒れた所を侍に取り留められた。門脇の平中納言教盛、修理大夫経盛兄弟、小松の新三位中将資盛、少将有盛、従兄弟の左馬頭行盛は鎧に碇をつけて入水された。大臣平宗盛と息子右衛門親子は海に身を投げずにうろうろしているので見苦しいとばかりに侍が蹴落としたが、泳ぎがうまいので沈まないところを伊勢三郎義盛が熊手で引き上げた。大臣を救おうとした飛騨三郎左衛門景経が船に討ち入ったが堀弥太朗親経に首をとられた。強力の能登殿教経に向う敵はいなかった。義経めがけて船に討ちいったが、義経はひょっと隣の船に逃げ移って難を逃れた。五条の橋で弁慶の長刀をかわしたように。能登殿の船に安芸太郎実光兄弟と郎党が攻め入ったが、能登殿騒がず安芸実光兄弟を両脇にむずっと締め上げて、「おのれら、死出の山の供せよ」と海へ入られた。能登殿教経二十六歳であった。


内侍所都入

新中納言知盛教は「見るべきほどの事をば見つ」といって乳母子の伊賀平内左衛門家長とともに、鎧を二枚着て海へ入られた。生け捕られた平家の人は前大臣宗盛卿、平大納言時忠、右衛門督清宗、内蔵人信基、讃岐中将時実、大臣の八歳の若君、兵部小輔雅明、僧では僧都専親、法勝寺の能円、忠快、融円、侍では源大夫判官季貞、摂津判官盛澄、安倍民部重能親子、以上三十八人であった。女房たちでは建礼門院、大納言典侍局ら四十三人であった。四月三日義経は源八広綱を使者として後白河院へ「壇ノ浦にて平家を悉く攻め滅ぼし、勾玉の璽箱と内侍所を都へ戻す」と奏聞した。二十五日勾玉の璽箱と内侍所が鳥羽に着いて内裏より迎えが出た。平家に西国へ連れ去られた高倉帝の第二皇子守貞親王が都に戻られ法皇より迎えの車が出たという。


一門大路渡

二十六日平家の生け捕り者が鳥羽について、都大路を渡らせ判官の宿舎六条堀川に取込めた。法皇は六条東洞院に御車を出して叡覧あった。


平大納言文沙汰

捉われの平大納言時忠は櫃に入れた文書を義経に差し押さえられ、それがどんな災いを身にもたらすかを心配して、子息讃岐中将時実に相談した。息子が云うに義経は女に弱いので、娘を義経に差し出せば簡単に取り返せる。と云うことで二十一歳になる姫君を義経の側室にいれ程よい頃に娘がうまく言いなして、判官はまだ封も解かずにいた文櫃を平大納言に戻した。この頃都には「判官こそが天下第一の人、鎌倉の頼朝は何も出来ない」と云う噂が出てきた。これは義経側の驕りか陰謀か。


副将被斬

元歴二年五月六日、義経は大臣を連れて鎌倉に下る事に決定した。大臣には八歳の若君がいたが、将来これを副将にする思いで副将義宗と云う呼び名がついていた。別れの前日に若君と大臣は面会して別れを惜しんだ。副将を預かっていた河越小太郎重房は義経に伺い若君の処分を任されたので、六条河原で重房は副将の首を討った。付き添った二人の女房は首と亡骸をもって後日桂川に身投げをしたという。


腰越

五月七日九郎判官は大臣親子を警護して鎌倉に向った。梶原平三景時は判官より先に鎌倉に着いて判官の非を訴えれば、頼朝は都での噂や武将の意見も聞いて判官あやしと睨んだようだ。奇襲に長けた義経を警戒して軍を七重八重に置いて義経を寄せ付けず、大臣親子を受け取って義経を腰越に追い返した。この兄の仕打ちに義経泣くに泣けず、六月五日大江広元に手紙を書いて詫びととりなしを頼んだ。関東源氏は誰も義経を将軍とはみなさなかった状況で、義経の文はまさに「ヤマトタケル」のような戦に明け暮れ猶都に戻れない境遇に共通するものがあり涙を誘うようだ。


大臣殿誅罰

鎌倉殿、比企藤四郎義員を介して平家の大臣を尋問されたところ、大臣は変に居直ったので鎌倉殿は印象を悪くしたようだ。六月九日大臣親子を受け取り義経は都へ戻る事になった。二十三日近江国篠原宿に着き親子は別々の場所に移され、大臣には本性房湛豪と云う聖が引導を渡した。首切り役は橘右馬允公長という元は新中納言の侍であった。二十四日大臣親子の首が都にはいった。「生きての恥、死にての恥、いずれも劣らざりけり」


平家物語 卷第十二

重衡被斬

伊豆にとどめ置かれた本三位中将重衡卿を南都の衆がしきりに要請するので、ついに伊豆蔵人大夫頼兼を警護にして奈良に送られた。大津からは都へ入らず、山科から醍醐寺を経由して日野の地に通りかかった。そこには壇ノ浦で生け捕りにされた北の方が旧里に帰って姉の大夫三位とともに住まわれていた。重衡は日野で北の方と最後の尽きせぬ別れを惜しまれてたと云うことが、二首の歌物語に涙とともに記されている。奈良の衆徒側では焼く討ちの張本人を南都に入れず、木津川で切り捨て、首を般若寺の門の前に曝した。北の方は東大寺の重源にいって首を貰い受け、骸を木津河原から引き上げて、法界寺にて荼毘にふし、墓を日野にもうけられた。


大地震

こうして平家が滅び、源氏の世の中になった安堵していた矢先、七月九日うしの刻に大地震がおきた。都人はこれを平家の怨霊のなせるわざと恐れた。付に紺掻の沙汰がある。頼朝に平家打倒の蜂起を勧めた高尾の文覚上人が、父の左馬頭義朝の召使紺掻と云う男が東山円覚寺に深く隠しておいた義朝の首をその男と二人して鎌倉に運んだ。源二位頼朝は父の首を喪服で迎え勝長寿院を建てて源氏一族の氏寺とされた。そして勅使左少弁兼忠より、父の墓に内大臣正二位を受けられた。


平大納言被流

九月二十三日、平家に連座して捉えられた公卿らの流刑が決められた。平大納言時忠は能登国へ、内蔵人信基は佐渡国へ、中将時実は安芸国へ、兵部少輔正明は隠岐国へ、二位僧都全真は阿波国へ、法勝寺の執行能因は上総国へ、阿闍梨融円は備後国へ、中納言律師忠快は武蔵国へ流された。平大納言時忠というは、左大臣時信の子、故建春門院の兄、高倉上皇の外戚、入道相国の北の方二位殿の弟である。平家の庇護のもとで顕職思いのままであった。息子の侍従時家十六歳は流刑からは漏れた。


土佐坊被斬

一方源氏の旗頭であった義経には十人の大名をつけたが、兄弟不和で近いうちに処分があると聞いて家来は鎌倉へ逃げ帰った。鎌倉殿は義経が勢いを付けぬ内に滅ぼしてしまおうと刺客土佐坊昌俊を都へ送った。都で義経に面会した土佐坊昌俊はなんとかごまかしてその場をはなれその夜討ち入る準備をしていた。義経の愛妾静御前が表が騒がしいようなので偵察に童を出したが帰ってこないので、義経は親衛隊の六七十騎で土佐坊四五十騎を攻め滅ぼした。土佐坊は六条河原で首を刎ねられた。


判官都落

土佐坊が斬られたことを、義経につけた密偵が鎌倉へ報じた。鎌倉殿は兄三河守範頼に討手を命じたが、従わなかったので範頼を討った。こうして北条氏に囲まれた頼朝は兄弟を滅ぼしたのである。つぎに北条四郎時政に六万騎をつけて都に討手に上らせたので、十二月三日義経は緒方三郎惟義ら五百騎で都落ちとなった。摂津国大物浦から住吉浦、吉野山、奈良、都、北陸、陸奥国へと放浪の旅となった。十二月七日に都に着いた北条四郎時政は翌日義経追討の院宣を得た。このあたりの院の根回しをしたのが、吉田大納言経房であったという。経房は権右中弁光房の子で切れ者の噂高く、平家、源氏の時もたくみに政事を差配して出世を重ねた。鎌倉殿は日本国の総追捕使(荘園に許可なく入り犯人を逮捕する権利)に任じられ、荘園に守護・地頭をおいて領地支配権を伸ばした。


六代

北条四郎時政は鎌倉殿の代官として都の守護にあった。「平家の子孫と言わん人、男子において一人も漏らさず」と平家狩りを厳しく行った。もはやさしたる平家の末は居なかったので、遠い些細な末裔までも見つけては殺したが、ある時中将維盛の若君六代御前というのが嵯峨の大覚寺に居るとの密告を得て、兵を指し向けた。大覚寺には中将維盛の北の方と乳母の女房と、十二歳の若君と十歳の姫君、そして従者の斉藤五・斉藤六が隠れ住んでいた。若君六代御前は捉われて六波羅に拉致され、命の尽きるのを恐れている時、乳母の女房はこの若君を出家さすと云うことで高尾の文覚上人に助けを求めた。文覚上人は鎌倉殿から謀反成就の時には褒章は思いのままという言葉を貰っているので、鎌倉殿に命乞いに出る二十日の間は猶予を得て鎌倉に下った。二十日も過ぎて上人が帰られないので痺れを切らした北条四郎時政は十二月十七日、六代御前を連行して鎌倉へ下った。駿河国千本松原と云うところで六代御前の首を討とうとしたところへ、馬に乗った文覚上人が現れ、頼朝の書状と判を見せて六代御前を貰い受け都へ上ったと云う。かなりの長文で人の命の掛かった緊迫したやり取りが展開され、読む人の息を継がせない文章である。平家物語の時代記録者としてだけでなく、ストーリーテイラーの面目躍如という観がする。


泊瀬六代

高尾の文覚上人は六代御前を貰い受け、あくる年正月五日に都へ着いた。翌日大覚寺に連れていったところ、北の方は長谷寺に籠って居られるとの事で、斉藤六が急いで長谷寺にゆき都の大覚寺へ北の方を連れ戻し、親子の再会をなしたという。文覚上人は出家には賛成せず、高尾で母と六代の住む家をしつらえて迎えたと云うことである。付に「六代斬られ」と云う後日譚が挿入されている。六代御前が十五歳になられたころ、頼朝より、六代御前の人柄・人物を見て将来危険人物になるかどうか文覚上人に問い合わせが来た。文覚上人はそれほどの人物ではない不覚の人だととぼけた返事をしておいたが、やはり頼朝の懸念は恐ろしく、十六歳となった文治五年の春六代を出家させられた。お供に斉藤五・斉藤六をつけて修行に出た。高野山の瀧口入道から父中将維盛が自殺した有様を聞き、熊野へ回って都へ戻られた。このまま行けば六代の命は全うできたのだが、運命はそうはさせてくれなかった。六代御前は三位の禅師として高尾で行い済ましていたのだが、建久十年正月十三日鎌倉殿が五十三歳でなくなられた時、主上は後鳥羽院であったが政治には一向見を入れず、遊びにうつつを抜かす馬鹿殿であったので、高倉天皇の第二皇子で兄の二の宮を位に就けようと文覚上人が謀反を起した。謀反が発覚して文覚上人が隠岐国へ流されると、次の将軍の時に平家の嫡嫡子で文覚上人ゆかりの人であった三位の禅師を逮捕し、相模国田越にて斬られたと云うことである。十二歳から三十歳まで命を永らえることが出来たのは長谷観音の御利生といわれたが、それにしても文覚上人に助けられ文覚上人の野心に連座したのも運命であろう。


平家物語 灌頂卷

女院御出家

安徳天皇の母で、入道相国の娘である建礼門院は壇ノ浦で捉われて、今は吉田山の麓に住んでいた。文治元年五月一日、二十九歳で御出家された。吉田の里では冷泉大納言隆房の北の方、七条修理大夫信隆の北の方の助けを得ながら生活されていた。


小原入御

吉田山は都に余りに近く人目もあるので、隆房・信隆の北の方の勧めと沙汰で小原の奥に寂光院と云うところへ移り住むことになった。付き添う者は大納言典侍の局と阿波の内侍の二人であった。小原の奥の景色の凄まじさを書き綴る文章は哀れを誘う。


小原御行

文治二年春五月二十日余りのこと、後白河法皇は建礼門院の小原の閑居を尋ねる御行があった。小原御行と云う有名な件である。私にはこの後白河法皇の行為の意味が昔から疑問に思っていた。変に勘ぐれば後白河法皇のスケベ根性から来たものだろうか。後白河法皇にとって建礼門院は息子の嫁になり、滅ぼした平家の身内である。七五調の韻文の語り口が人の涙を誘う名文である事は確か。


六道沙汰

「およそ人間のことは愛別離苦怨憎会苦 四苦八苦」 悟りの前に六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)を見るような、過去の栄華と没落の人生を振り返る生活であった。


女院御往生

四首の歌を挿入して昔をしのぶうちに、建久二年二月中旬、女院は五十七歳で失せられた。(出家後二十八年とかなり長生きされたようだ)



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