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中里成章著 「パル判事ーインドナショナリズムと東京裁判」 

 岩波新書 (2011年2月)

東京裁判でA級戦犯無罪を主張したインド代表パル判事の評伝

東京裁判(極東国際軍事裁判)といえば、日暮吉延著 「東京裁判」 (講談社現代新書)を読んだ。そのなかで本書のテーマであるインド代表判事パルに関する部分の記述は、『この判決における判事団の少数意見はウエッブ裁判長の別個意見、インドのパル、オランダのレーリンク、フランスのベルナール判事の反対意見が付されているが、読み上げられなかった。なかでもインドのパル判事の反対意見は判決文(1455ページ)とほぼ同量の1235ページもある膨大な「東京裁判無効論」であった。パル意見は、戦勝国は「通例の戦争犯罪」の管轄権を持つに留まり、新しい「平和に対する罪」を制定する権限を有しないというものだ。弁護側も否定しなかった「南京虐殺」という日本軍の虐殺行為をパルは認めたが、アメリカは原爆を投下するという非人道的な虐殺行為をしておきながら、「人道」だの「正義」だのを持ち出す資格はなく、戦争の犯罪化は時機尚早であると断定した。またパルは侵略の定義も難しいといった。従って被告は刑法上無罪だと論じたのである。パルは日本の戦争を相対化し、西欧帝国主義が政治的に敗戦国を罰するのは無茶だいった。しかしながらパルの意見は個人的見解であり、インド政府とは無関係であった。』というものである。本書では東京裁判の記録を詳しくは繰り返さない。本書の主題はベンガル地方のインド史の文脈から、その出身であるパル判事の思想形成をたどり、当時の反英インド独立運動と日本軍のビルマ戦略(インパール作戦)との関係を明らかにすることである。東京裁判が終ってからもパル判事の意見書は全く無視され歴史に埋もれてしまった感があったが、サンフランシスコ講和以降次第に復活してきた日本保守政治家(岸信介ら)によって、パル判事の意見書は「大東亜戦争肯定論」に利用されていった。パル判事の反英米帝国主義運動という政治思想は別にしても、あくまで「平和に対する罪」は時期尚早で被告は刑法上無罪だとする、「東京裁判無効論」を論じたのである。それを曲解して日本旧支配層は「日本無罪論」だと宣伝したことで、パル判事神話と虚像が作られた。

パル判事の評伝をベンガル政治史から書き起こす中里成章氏のプロフィールを紹介する。1946年北海道生まれ、東京大学文学部東洋史学科卒業。カルカッタ大学でPh.D.を取得し、東京大学東洋文化研究所の教授を経て、2010年退官し名誉教授となった。専攻は南アジア近現代史で、研究テーマは植民地支配期インドの社会経済史、とくにベンガル地方の農村史を中心とした研究である。現在は,インド・パキスタン分離独立の背景の分析に取り組んでいる。 著書は殆どで英語で出版されており、日本語の本を紹介すると、「世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ」(中央公論社 1998)、「インドのヒンズーとムスリム」(山川出版 2008)などである。中里氏はベンガル史研究者の力不足を反省して、「日本の右傾化を心配し、日印関係史の研究の一部が結果的に日本の右傾化に手を貸すことになるのではないか。特にベンガル出身のインド人、ラシュ・ビハリ・ボーズ、スバス・チャンドラー・ボーズ、パル判事らが日本の右よりの論客に利用されている」という。本書は日本の保守政治家への反論書である。しかし中里氏の潔癖さからベンガル史研究の結果が日本の右傾化を助けることを心配するが、いまや「大東亜構想」などを唱える基盤はなくなったのでは無いだろうか。アジアにおける日本の1人勝ちは太平洋・アジア戦争前のことであって、今や21世紀初頭ではアジアの中心は中国になろうとしている。冷戦終了後、中国は経済力・軍事力で次第に力をつけており、日本の保守政治家の及ぶところではない。反共という意味での「保守」という言葉はすでに死語に近い。軍事力でアジアの盟主たらんとする意志はアメリカに奪い取られた。経済力でアジアの中心にいる意識も、GDPで中国に抜かれ、企業が生き残りをかけて中国に靡いている現状では、既に昔のことである。本書が右傾化への最後の警鐘となることを願うばかりである。

ラグビノド・パルは東京裁判でインド代表判事を務め、A級戦犯の被告全員が無罪であるとする反対意見書を提出した人として知られる。日本は敗戦後60年以上たっても、ドイツと違って主体的に侵略戦争を反省せず、未だに歴史認識問題を引き摺ったままである。村山談話・河野談話が日本政府の公式見解だとしつつも、裏では日本憲法はアメリカの押し付けられた憲法だといい、アジア太平洋戦争は侵略戦争ではなく自衛戦争だとする「大東亜戦争肯定論もしくは免罪論」を言い続けているのが、日本保守本流勢力の認識である。小泉元首相は公然とA級戦犯が祀られる靖国神社を参拝して中国・韓国外交関係を破壊して反省がなく、岸信介元首相の孫にああたる安倍元首相は2007年訪印しパル判事の孫に面会した。安倍は「戦後レジームからの脱却」を唱える自民党最右翼の政治家である。戦後を卒業して、もっと古い戦前に戻りたいとする日本旧支配層の生き残りである。安倍が持ち上げようとしたパル判事はインドではすっかり忘れられた存在であったという。現地カルカッタではパルの研究者もいないので誰も安倍元首相の行動に言及する人間はいなかった。日本では異様な「評判を得ている」パル判事の全貌を明らかにし、「パル」シンドロームの本質を明らかにしたいという動機が中里氏に本書を書かせた。日本の研究者でパル意見書をきちんと読んだ歴史家は「教科書裁判」で有名な家永三郎氏である。家永氏は「パルは日中戦争の引き金となった盧溝橋事件を全く誤認している。全編を貫くパル判事の強烈なイデオロギー的偏向には唖然とせざるを得ない」という。パル意見書を批判する学者達の主張は「パル意見書は裁判の意見書の形式で書かれているが、実は政治性の強い文書だといって差し支えない」という。政治性とは反共、民族主義、汎アジア主義、反人種主義なのか意見は一致していないが。著者はパルの実像を追及したいという。

1) パル判事と英領植民地インド・ベンガルの苦悩

ラグビノド・パル(1886−1966年)はインドベンガル州のメディア県シュテリア郡シャリムプル村(現在はバングラディシュ領内)に生まれた。ガンジス川本流ポッダ川の流れる三角洲地帯で米・麻の産地である。東ベンガルと西ベンガルに分かれ、東ベンガルはムスリム(イスラム教徒)とヒンズー教徒が約半分の地域で、政治的に複雑な環境にあった。英領インドが独立する1947年にインドとパキスタンが分離し、東ベンガルはパキスタンに編入された。1900年ごろベンガルの人口は4300万人で、ムガール帝国時代(1526年建国、18世紀には分裂して衰退、1858年英国の植民地となる)からイギリス領の時代までベンガルのカルカッタは行政や大学、商業の中心地であった。パル家の系統図は省くが、カースト制度では「ノボシャク」という陶工職人階級にあった。パル家はカースト制度の最上級階級ではないが、農村の中位の階層出身であった。植民地インドで中間層というと「郷紳」と呼ばれ、英語教育を受け専門職・行政職についている。パルは地方の農村中間層にとって僅かなチャンスを生かして学歴エリートになり、郷紳の仲間入りをし。階層化された植民地社会を駆け上がってゆくのだ。パルは日本で言えば明治時代の野口英世である。パルは地方の大地主の援助を受けて、下級小学校、上級小学校、高等学校、大学を卒業し、ベンガル最高の大学であるプレジデンシーカレッジを卒業した。さらに領主国イギリスのケンブリッジ大学などの名門大学に留学するのが当時の最高のエリートコースであった。

パルは20世紀初めにベンガル分割反対運動の渦の中に居たことになる。カルカッタはインド国民会議に結集するインドナショナリストの中心地であった。そこでイギリスはムスリムとヒンズーの宗教分断作戦をおこないベンガルをムスリムにするベンガル分割を企てたが、ボイコット運動により分割は阻止された。大学時代の友人チャル・チョンドロ・ビッシャス(ネルー内閣の法務大臣)、サトラ・チャンドラ・ボーズ(弟のスバス・チャンドラと協力して反英独立運動)、オオトナト・ラェ(表は国民会議派だがテロリストグループに属した)等がいた。なかでもスバス・チャンドラは1941年ドイツや日本の支援を得て、武力でインドを開放するインド国民軍の中心人物である。スバスはネルーとともに国民会議派の左派であったが、ネルーよりも急進派に位置した。1941年シンガポール陥落から、日本軍の南進政策は援蒋ビルマルート遮断のため、インド軍を養成する計画が持ち上がった。1943年それに乗ったスバス・チャンドラは東京に来て東條と協議し「自由インド政府」を発足し、1944年インパール作戦が開始された。北ビルマに圧力を加える連合軍を攻撃するビルマ作戦であって、インドの解法は名目に過ぎなかった。軍事史上稀に見る無謀な作戦は日本軍の敗戦になり、スバス・チャンドラは大連に行く飛行機事故で死亡した。こうしてインド国民軍独立運動は終った。大東亜共栄圏という美辞麗句は、現地の反英闘争を利用したに過ぎなかった。「敵の敵は味方」という原則での利用したり、利用されたりの政治力学であった。なお日本軍による「民族解放運動の支援」という戦略は、ソ連の南下をおそれた関東軍がモンゴル人を巻き込んで起こした「ノモンハン事変」でも起こった。田中克彦著 「ノモンハン戦争ーモンゴルと満州国」(岩波新書)には「汎モンゴル運動は20世紀に発生した。伝統的な民族地帯が中国とソ連によって分断されたモンゴル民族としての統合を求める運動である。それは中国、ソ連、日本から時には利用され、時には激しく弾圧される運命にあった。ブリヤートの分離主義者とか反ソ、日本の手先、反革命を企てる者として当局から毛嫌いされた。」というモンゴル人の悲惨な運命が記されている。

そのような政治闘争を横目に見て、パルはインド植民地社会の法曹エリートを目指した。1908年プレジデンシーカレッジを卒業して役所に勤めたが、1920年法学修士試験に合格した。カルカッタで弁護士を開業し、所得税法を専門として、裕福層をクライアントとした腕利きの弁護士となった。1923年カルカッタ大学法学部教授となり、1927年には所得税法のインド政府顧問になった。研究活動としてパルはヒンズー法史に熱心であった。タゴール法学教授という寄附講座を1930年代に3回受けた。「長子相続法」、「マヌ法典」などの講座を講じた。パルは著書から見てもヒンズー法史の学者であって、国際法は全く研究したことはなかった。パルは国際法の業績があったから東京裁判の判事に任命されたのではない。事実は正反対で東京裁判に加わってから国際法を勉強したのである。1941年カルカッタ高等裁判所判事のポストがひとつあいた。パルは代行判事として1943年まで3回短期の代行判事の職についた。教師の産休に伴う代行教師と同じ取り扱いである。さすが4回目の要請に対してパルは辞退した。植民地支配機構の省庁としてのカルカッタ高等裁判所の判事選任にはインド総督が責任を持っていた。そこで携わった訴訟の大半は土地法関連訴訟であった。1944年パルはカルカッタ大学副学長に選出され2年間の任期を務めた。学長の任命権はイギリス人のベンガル州知事が持っていた。

その任期が終わる4ヶ月前1945年のデリーでインド国民軍裁判が始まった。太平洋戦争が終ると、インドを領有するイギリス政府は日本に協力したインド国民軍将校3人を捕らえ、軍法会議にかけた。インド国民軍を愛国者と見るインド国民の世論は沸騰し、釈放運動は1947年のインド独立にいたる大衆運動の第1波となった。この運動にカルカッタ大学の学生が参加し暴動化して、パルは衝突現場に出かけて学生の動向を見守った。パルはチャンドラ・ボーズらヒンズー大協会およびインド国民軍にかなり同情的であったとされる。しかし国民会議派の指導者が根こそぎ逮捕され投獄されている時期に、パルがカルカッタ大学の要職にいたことは、パルが国民会議派やましてガンジー主義者でなかったものと理解されている。このパルの位置関係は反共、反イスラム主義者として、保守右派である大ヒンズー協会に近いと考えられる。パルはスバス・チャンドラ・ボーズのインド民族主義運動(インド国民軍独立運動)に共感し、ボーズは日本の傀儡ではない民族主義者だというボーズの名誉を守るため、日本の大東亜戦争を美化したのではないかと考えられる。そしてこの東京裁判の時期はインド(ヒンズー)とパキスタン(ムスリム)の分離独立にあたっており、パルの故郷である東ベンガルはパキスタンに編入されることになった。このイギリスの政策への怒りが、パル意見書に見られる強い調子の半植民地主義、反帝国主義に傾いていったようだ。

2) 東京裁判パル意見書

カルカッタ大学副学長を辞したパルのもとに、1946年4月27日インド政府戦争省から、ポツダム宣言に基づいて日本を裁く連合軍戦争犯罪裁判書判事にパルを任命する電報が届いた。46年1月マッカーサーは「極東国際軍事裁判所憲章」を公布し、判事団は戦勝国9カ国にインド・フィリッピンを際得た11カ国で構成された。当初アメリカ案にはインド・フィリッピンは入っていなかったが、イギリス政府はインド政府の地位向上のため、アメリカがフィリッピンを入れる交換条件でインドに判事を派遣する権利を得た。戦争省は判事の人事に苦しみ、急かされて、4つの高等裁判所長官に推薦を依頼した。拙速の典型というもいうべき選任手続きによって、適任でもないパルが受諾してしまった。パルは5月14日に来日したが、東京裁判は5月3日に既に始まっており、起訴状の朗読と罪状認否は終了していた。パルが判事として在日していたの葉1948年11月までの2年半であった。東京裁判の公判は466回開かれ、パルはその1/4にあたる109回は欠席した。夫人の病気とインドでの仕事の調整のために、その間絶えずインドに帰っていたためであったとされる。連合軍の日本の戦争指導者に対する起訴状の内容は、@「平和に対する罪」 A真珠湾攻撃の殺人罪 B「通例の戦争犯罪」と「人道に対する罪」 を犯した廉で個人として訴追し処罰する軍事裁判である。起訴状の詳細は日暮吉延著 「東京裁判」を参照するとして省略する。ウェッブ裁判長のもとで、多数派7名(英・米・中・ソ・カナダ・ニュージランド・フィリッピン)と少数派4名(オーストラリア、インド、オランダ、フランス)に分裂した。大勢は決まった中でパル判事は辞任を洩らしたり、にわかに国際法を勉強したが、1938年6月に「パル意見書」を提出した。パルはインド政府と協議して意見書をまとめたのではない。インド政府外務省のメノン次官は「彼が表明した見解は彼自身のものであって、インド政府のものではない」と覚書を発表した。

パルの意見書を構成に沿って見て行こう。パル意見書は概略次の3つの論点に整理される。
@ 判事は戦勝国を代表するのではなく、「極東国際軍事裁判所憲章」の倫理的正当性を、判事個人の「道義的節操」によって判断できるとした。
A 「平和に対する罪」と指導者の個人責任の法理は、それらの行為のなされた当時の国際法の規則に照らして無効であるとした。つまり東京裁判は事後法による不法な裁判であるという。
B 事実認定において、個々の出来事に関する証拠を取り上げ、被告らの全面的協同謀議は立証できないから無罪であるという。
「平和に対する罪」において、パルは侵略戦争と自衛戦争は表裏の関係にあり、自衛権は主権国家固有の権利であると主張した。パルは国家主権と自衛権を絶対的なものと捉えている。侵略戦争を事後法で犯罪として裁くことは、国家主権と自衛権を著しく制限するものであると反対している。確かに19世紀の国際法は対等な主権国家の合意の秩序であった。しかし20世紀なると国際連盟が出来、無制限な軍拡競争を制限するために軍縮会議が開かれ、艦船数などの制限が合意されてきた。パルの国際法感覚は古いといわざるを得ない。何をやっても自由だとする無制限な国家主権の主張が侵略戦争を生んだことへの省察がなかった。そして東京裁判は国家の責任である戦争について、指導者個人の刑事責任を追及した裁判であった。これに対してパルは「国家の憲法を運用するにあたってなされた行為は、裁判を受けるべきものではない」と全面的な無罪論を展開した。連合軍としても軍の統帥である天皇の個人責任を免責しておきながら、戦争指導者だけを訴追するのは矛盾していることは知っていた。ニュルンベルグ裁判においても、戦争という国際犯罪を侵すのは国家という抽象存在ではなく具体的な個人であると云う見解を取っており、国際法は個人を処罰するのであった。協同謀議はどこで行なわれたかといえば、広くは政策であり、狭くは参謀会議や現地の軍事会議、そして究極的には「御前会議」である。「通例の戦争犯罪」における捕虜虐待や「南京虐殺」は、東京裁判では指揮官責任や「不作為責任」の罪が問われた。これに対するパルの反論は「それは逆宣伝にすぎない」と証拠不十分として見逃している。パルのいう「無罪論」は一番分りやすい「通例の戦争犯罪」において、ずさんな判断を下し破綻をきたしている。

パルの意見書は奇妙な政治性が支配している。それは中国に対する態度に明確に現れた。「中国が内乱によって絶望的に無政府状態に巻き込まれたとき、その国民は国際法の保護を得るのは極めて難しい」という。そして「1937年の国共合作が日本の対中国戦争を誘発した」と因果関係を全く逆転した見方をしている。そして極めつけは中国が日本への抵抗運動として日貨排斥運動をおこしたことを「このような国際的ボイコットはまさに国際的不法行為である」とまでいうのである。日本は民主国家で中国は国家の態をなしていないから侵略してもかまわないという帝国主義的見解をパルが堂々と述べている。満州事変のキッカケをなした1931年9月の柳条湖事件をパルは「中国によって画策されたという日本の仮説を支持する」と事実認定を誤った。そして中国における日本の行為は自衛戦争であるという。パルは共産主義と戦う行為は正義であると頭から決めているようだ。パルの植民地主義・帝国主義批判は連合国をけん制して日本を擁護するために持ち出された屁理屈で、「泥棒に泥棒を裁く資格はない」ということである。パルは欧米に対する日本とい図式でしか世界を見ていない。アジアにおける対立軸から目をそらしている。日本軍国主義と西欧植民地主義を連動させ、西欧批判でもって日本軍国主義を正当化できるとみたところに、パル意見書の基本的問題点があった。連合国側のパル意見書に対する反応はなく、戦犯の死刑が執行されると、パル意見書は東京裁判そのものとともに徐々に歴史から消え去った。

3) 日本の保守政治家によるパル神話

パルが日本にいる間にインドは独立した。フィンズーとムスリムの内戦を含んだ難産であった。帰国した時パルは62歳になっていた。イギリス植民地時代の領主層だけに土地所有を認めたザミンダーリー制の廃止をもとめる土地改革において、パルは大地主の依頼で土地訴訟を担当した。1952年に成立したネルー内閣の閣僚に右派からパルを推薦する動きがあったが、ネルーはこれを拒否した。1953年ムカジーの死去による補欠選挙に会議派からパルは立候補したが共産党候補に敗れた。この選挙でパルは選挙運動も演説も街頭に出ることもなかった。インドでは1951年から普通選挙が行なわれたが、パルは植民地選挙と同じように考え、大衆民主主義の時代が到来したことさえ理解できなかったようである。ということでパルは中央政界に出るチャンスを失ったが、1952年パルは国連国際法委員会の委員に選出された。パルは死ぬまでの14年間この職に留まった。国際法委員会は1953年に国際刑事裁判所法案を作成したが冷戦のため議論は殆ど進まなかった。国際刑事裁判所規定が出来たのは冷戦終了後の1994年、2002年のローマ規定締結により国際刑事裁判所が発足した。1954年「人類の平和と安全に対する法典案」が国際法委員会の議題に上ったとき、パルはすべての採決に棄権をした。パルは「真の国際平和のための機構が出来るまでは、このような法案は時期尚早である」と唱えるパルは東京裁判のときと同じ構図であった。平和に向けた努力に対して全面的な反対論を唱えるのは、やはり漸次的進歩を信じない頑なな態度であったといえる。パルの立場は第3世界の立場から欧米中心の国際法を批判する流れにあったことは評価される。しかし国家の権力を制限する事態には鋭く反応するパルはやはり保守的なナショナリストだったといえよう。

日本では朝鮮戦争からサンフランシスコ講和条約にいたる「1950年代前半の逆コース化」という潮流がおき、占領軍が去った後は保守政治家が政治の主導権を掌握した。そして安保条約闘争を経て、1960年代の高度経済成長にはナショナリズムが復権し、林房雄の「大東亜戦争肯定論」がでるようになった。このような時期にパル意見書が出版され、パル神話が形成された。パル意見書は東京裁判の法廷でも読み上げられることはなく、ニュルンベルグ裁判記録はすぐに出版されたが、東京裁判記録が公式に出版されることはなかった。判決に対する当時のメデァの反応は「無言、無表情」で、触らぬ神に祟りなしという具合であったという。パル意見書を出版する活動の核となったのは、平凡社社長下中弥三郎、大東亜協会の中谷武世であり、A級戦犯から復帰した岸信介が指導したと見られる。最初に全容を紹介したのは、1952年田中正明編「極東軍事裁判におけるパル判事の判決文ー日本無罪論ー真理に裁き」という本であった。GHQが去った後まで待って出版された。「日本無罪論」出版の半年後,1952年10月パルは下中に招かれて来日した。パルは「平和のバイブル」というタイトルで翻訳が出ると思っていたようで、「日本は道徳的に責任はあっても、法律的には責任は無いという結論を下した」といい、「日本無罪論」は迷惑であるとさえ言った。パルの招待計画を立案し、パルの世話をしたのは旧大東亜協会の下中、中谷、田中の3名であった。さらに一又正雄、相馬安雄も接待に加わった。パルの来日の表向きの理由は世界連邦アジア会議への参加であったが、精力的にパルは多くの戦犯や家族に面会している。1952年来日時点でのパの見解は、自衛戦争を無条件に認める判断から、今やパルは平和外交に徹するほかは無いという意見であった。バンジーやネルーの非暴力・不服従運動のインド政権よりの発言を行なうなどパルの言動は矛盾に満ちていた。

1953年にパルは二度目の来日をした。下中が招待し43日間日本に滞在した。大倉精神文化研究所で講演を行なった。下中は1955年と1958年の2回インドに渡りパルに面会した。1962年朝日新聞刊行会は「東京裁判」でパル意見書を全訳したが、田中が急ぎ刊行した「全訳 日本無罪論」は非常に粗末杜撰なものであった。1966年東京裁判研究会編纂「共同研究 パル判決書ー太平洋戦争の考え方」は一又正雄、角田順、阪埜淳吉の解説が入っている。ところがこの東京裁判研究会には実体はなく、法務省大臣官房司法法政調査部が設けた戦犯法的研究会が「戦争犯罪およびその裁判の法的研究について」という研究を行なったものを、私的に不透明な形で刊行したようである。戦犯法的研究会の研究者とは一又正雄、角田順、阪埜淳吉、奥村敏雄の4名である。戦犯法的研究会の基本的な態度は、太平洋戦争を正当化する流れにあわせて出版する意図は明らかであった。この本の出版にあわせて1966年パルを招待する計画が持ち上がった。一又正雄が佐山高雄に相談し、岸信介が500万円を用意した。清瀬一郎が羽田に迎え、石井光次郎法務大臣の推薦で日本大学名誉博士号を授与された。岸信介と清瀬一郎の申請でパルに勲一等瑞宝章が贈られた。パル訪日を取り仕切ったのは岸信介であり、パルを真理と正義のためには巨大な欧米の権力に屈しない硬骨の人というイメージを作り上げ、叙勲することで日本の保守的なエスタブリッシュメントの世界に取り込むことであった。


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