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文藝散歩 

「文語訳 旧訳聖書 W 預言」
岩波文庫(2015年12月)

イスラエル民族の再興を願う3大預言書と12小預言書

第T巻「律法」、第U巻「歴史」、第V巻「諸書」に続いて、ギリシャ語訳以来の近代ヨーロッパ語訳、中国語訳に従い、本巻W「預言」には、イザヤ書、エレミヤ記、エレミヤ哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼフェニア書、ゼフェニア書、ハガイ書、ゼカリア書、マラキ書の各書(記)を収める。ヘブライ語聖書では第U巻、ヨシュア書、士師記、サムエル前後書、列王記略上下書を「前預言書」と呼ぶ。「三大預言書」とは、イザヤ書、エレミア書、エゼキエル書を呼ぶ。預言という言葉は神からその言葉を預かり伝えるものという意味である。預言者はただ未来を予言する予言者、呪術師とは異なる。ダニエル書をのぞきホセア書、ヨエル書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼフェニア書、ゼフェニア書、ハガイ書、ゼカリア書、マラキ書を「12小預言書」とする。

旧約聖書の分類配列と内容の概略

分 類 書 名 概 要
T 律 法
(モーゼ五書)
創世記楽園の追放と人間の堕落、カインとアベルの殺人、ノアの箱舟、バベルの塔、アブラハム・イサク・ヤコブの三代の族長の話しとイスラエル十二氏族、ヨセフのエジプトでの苦労が語られる。悪徳の町ソドムとゴモラの滅亡など
出エジプト記エジプトでの奴隷生活から指導者モーゼによる出エジプト、シナイ山でのモーゼの十戒と戒律、ヤハウエ神との契約が語られる。信仰と生活の原点となる。紅海を渡る際、海が割れてエジプトの追手を防いだ話など周知の話も多い。
レビ記イスラエル民族のうちレビ人は祭儀を扱う聖職者部族に定められた。前半は供物・犠牲・儀礼など細かく記載される。倫理規定、禁忌規定では「落穂を拾うべからず」はミレーの絵画となった。「汝の隣人を愛すべし」は新約聖書のキリストに受け継がれた。
民数記イスラエル民族の人口数を記載していることで有名。時代はシナイ山から始まるので出エジプト記と重複する。約40年の荒野での放浪生活からヨルダン川の東岸に到着、神との契約の地カナンに定着するまでの戦闘記。律法の記載
申命記申命とは繰り返し述べた律法(神の定めた倫理規定、禁忌規定)の書のこと、モーゼの十戒が繰り返される。モーゼはヨシュアを後継者に指名、カナンの地での生活を指示した。「人はパンのみで生きるものにあらず」は有名な聖句
U 歴 史ヨシュア記ヨシュア記、士師記、サムエル記上下を「前預言書」とするが、それは歴史書であると同時に預言者(ヨシュア、サムエル、エリシア)であったからだ。「モーゼ六書」に入れられたこともある。モーゼの後継者(預言者)ヨシュアに率いられたイスラエル民族はカナンの地に進出、奪った地を12部族に分割した。紀元前13世紀ごろの歴史である。全体が、エホバがヨシュアに向かって言った言葉「我が僕モーゼが汝に命じた律法を守ったなら、なんじは幸福を得必ず勝利する」に貫かれている。ヨルダン川の渡河にも水止めの奇蹟が経験され、各地の戦争で勝利し支配地を拡大する。ヨシュアは死を前にして律法を守ることを厳命する。
士師記イスラエル民族はカナンの地に定着したが、先住民族との抗争が続く。エホバはイスラエルの民の宗教的・道徳的背反を懲らしめるために先住民との戦争を利用した。士師とは部族連合の指導者のことでデボラ、ギデオン、サムスンの活躍を描く。女性預言者デボラも士師の一人でカナンの王を滅ぼした時エホバへの賛歌「デボラの歌」を歌った。これは旧約聖書最古の詩文だとされる。モアブ人と闘ったエホデ、ミデアン人と闘ったギデオン、ペリシテ人と闘ったサムスンについては詳しく描かれた。イスラエルに統一王国ができる紀元前12世紀の歴史である。
ルツ記イスラエルの王ダビデの系譜を語る。ベツレヘムに住んでいたナオミと夫、二人の息子は飢饉により異郷の地モアブに移住する。二人の息子はモアブの娘と結婚するが、ナオミは夫と2人の息子に先立たれた。ベツレヘムに帰るナオミに付き添ったのは息子の嫁ルツだけであった。ベツレヘムでは夫の親戚のボアズの麦畑で2人は落ち穂拾いで生活をした。ボアズは刈り入れで落ち穂を多くして生活を助け、やがてボアズとルツは結婚し男子オベデが生まれ、エッサイ、ダビデと家系は受け継がれた。律法の「レビ記」にも落ち穂を遺すして貧しきものを救う話は申命記にも記されている。ミレーはこの話を題材に落ち穂拾いを描いた。
サムエル記(上・下)サムエルは紀元前11世紀のイスラエルの士師・預言者であった。サムエルの息子は不正と収賄を働き、イスラエルの民は王の選出を希望した。王に選ばれたサウルによるイスラエル部族連合体が王政に移行し、サウル、ダビデ、ソロモン王が南北を統一しイスラエル王国を拡大した。ダビデはペリシテ人を倒し、あまりに強いダビデにサウルは反感を抱き殺害を図るが、サウルの子ヨナタンはダビデを助ける。戦死したヨナタンを悼んだダビデの「ああ勇者は仆れる」という言葉は名高い。王位に就いたダビデも部下ウリアの妻を横取りするため、ウリアを前線に送り戦死させるという過ちを犯す。ダビデの子アムノンは異母妹を犯して兄に殺される。詩篇にはダビデの歌を遺す。
列王紀略(上・下)王位はダビデの子ソロモンに継承され、イスラエル王国は全盛期を迎えた。エルサレムに豪華な神殿が作られ、「ソロモンの知恵」と讃えられたように智恵と聡明にすぐれていた。智恵を試さんとしたシバの女王の驚きの話は名高い。しかしソロモンの子レハベアムの時代にヤラベハムの反乱が起き、レハベアムの北のイスラエルとヤラベアムの南のユダ王国に分裂。王国の危機は異教のバール神への傾斜によってたびたび引き起こされた。警告は預言者エリア、エリシア、アモス、ホセア、イザヤによって発せられた南北の王朝史を語る。最期に北イスラエルは東の大国アッシリアによって紀元前722年に亡ぼされ、南のユダ王国はアッシリアによって紀元前585年に亡ぼされた。イスラエルの民はアッシリアの首都バビロンに連行され捕囚の生活となった。
歴代志略(上・下)サムエル記(下)、列王紀略(下)と重複する内容が多いが、イスラエル民族の系図の詳述とダビデによるエルサレム神殿計画と、ソロモンによる神殿建設に重点が置かれている。従ってダビデの過ちやソロモンの異教徒支援の話は描かれていない。イスラエル王国分裂後の北のイスラエル王国と南のユダ王国の記述では、エルサレム神殿のある南のユダ王国の歴史にくわしい。イスラエル民族の浮沈はすべてエホバ神への信仰の度合いとか異神への信仰かによっている。最後はアッシリアのネプカデネザル王によるエルサレムの陥落とバビロンへの捕囚となるが、ペルシャ王クロスによる解放まで(紀元前538年)で終わっている。
エズラ書バビロニアがペルシャに亡ぼされ、ペルシャ王クロスによるバビロン捕囚からの解放後、イスラエル民族は神殿復活・律法の復興運動にいそしむ。後半は祭祀エズラによる罪の反省と祈りが中心となる。これを「エホバの戒め」と呼ぶ。 
ネヘミヤ記書いてある内容はエズラ書と同じで、バビロンの捕囚から解放後のエルサレム神殿の再建、そして罪の反省と祈りが中心である。ペルシャの寛容政策によってユダヤ律法の復興運動が盛んとなった。イスラエルの指導者ネヘミヤによって記された。
エステル書紀元前5世紀ペルシャ王クセルクス1世の時代にペルシャに住むイスラエル人の話である。バビロンの捕囚の経験者モルデカイの幼女エステルはユダヤ人であることを隠して育った。後年アハシュエロス王の皇后になり、権力者ハマンのユダヤ人絶滅計画を、王への働きかけで未然に防いだ。
V 諸 書ヨブ記諸書は「知恵文学」とも呼ばれ、詩文が多い。神への賛歌、信仰の人生の教訓・格言集である。紀元前3世紀ごろの作品集とみられる。信仰も厚く行いも正しい人ヨブは、家庭・財産に恵まれた生活を送っていた。悪魔サタンはヨブの信仰を試すように、神に試練を課すよう持ちかける。ヨブに災難が襲い家庭は崩壊し財産をすべて失っても信仰は捨てなかった。次の段階でヨブの身体に重い皮膚病が発症し、皆に嫌われる生活に一変した。ここでは正しい行いの人がなぜ不幸に逢うのか、はたして神は正義なのかという「神義論」がテーマとなっている。ヨブは人間が神を知るとはどういうことなのか、神と人間の関係を突き詰めて考える。
詩篇詩篇は神に対する賛美と感謝、懇願。信頼が中心となった全150篇からなる。約半数はダビデの作と書かれているが、真偽のほどは分からない。119篇にある「アレフ」、「ベテ」、「ギメル」・・・はヘブライ語のアルファベットで段落を示している。文語訳「詩篇」は長年にわたりヨーロッパ近代文学へ影響が大きい。
箴言箴言とは「戒めとなる言葉」であり広い意味では教訓・格言・処世訓である。狭い意味では「エホバを畏るるは知識の本なり」という思想が根幹にある。「ソロモンの箴言」と言われることもあるが、ソロモン以前から本書が書かれた紀元前3世紀までにわたる言葉の集積である。
伝道之書集会で語る人を伝道者という。ヘブライ語聖書では「コヘレトの言葉」という題名になっている。著者はソロモンと言われることもあるが、ソロモンではない。伝道者にせよコヘレトにせよ、固有名詞ではなく広い意味では自由な思想家のような存在である。冒頭に「空の空なる哉、すべて空なり・・日の下には新しきものなし」といった衝撃的な言葉で始まり、厭世的な内容でヘレニズム文化の影響が大きい。
雅歌男女が愛し合い讃えあう歌という旧約聖書では極めてユニークな詞華集である。多くはソロモンの作といわれるが、ソロモンとは直接な関係はない。古代オリエント世界の中でイスラエル民族の愛の賛歌の集成となった。ヨーロッパ近代文学への影響は大きい。
W 預 言イザヤ書「三大預言書」とは、イザヤ書、エレミア書、エゼキエル書を呼ぶこともある。預言という言葉は神からその言葉を預かり伝えるものという意味である。預言者はただ未来を予言する予言者、呪術師とは異なる。イザヤ書は北イスラエル王国及び南ユダ王国の分裂時代の預言者イザヤの預言集である。イザヤはすべて同一人ではなく、紀元前736年ー701年ころに活躍したイザヤ自身の言葉を第1イザヤ(T-39章)、第2イザヤは紀元前6世紀後半解放前の苦難の時期、バビロン捕囚の嘆きの書 黙示文学と言われる。第3イザヤは紀元前538年ペルシャ王クロスによりイスラエル人キア人解放のころで信仰と律法の順守を求める。成立は紀元前5世紀前半とみられる。歴史的には3段階のイザヤという預言者の話である。
エレミヤ記預言者エレミヤの活動時期は、大国アッシリアによる北イスラエル王国の滅亡(紀元前722年)、つづくバビロニアによる南ユダ王国の滅亡(紀元前586年)、さらに「バビロンの幽囚」とペルシャ王クロスによるイスラエルの解放(紀元前538年)というイスラエル民族の最も激動期にあたる。エレミヤの預言はエホバの教えである律法の順守であることは変わりないが、その形式的な順守より心の在り方を厳しく問うものであった。「心は万物よりも偽る者にして甚だ悪し」とか、祭祀の虚言を糺した。エレミアはまさに預言者中の預言者であるといえよう。バビロンの幽囚の嘆きの書であると同時に、イスラエル民族自身による信仰の回復に絶望し、「エホバいい給う見よ我がイスラエルの家とユダの家に新しき契約を立つ日来たらん」といい、新しい契約を希望するに至る。つまり旧約から新約への意向を考えていたようだ。エレミヤ記の成立は、エレミヤの書記バルクの記述が含まれるので紀元前6世紀前後とみられる。
エレミヤ哀歌単に「哀歌」と言われることもあるが、この書はエレミヤ記の後に置かれ「エレミヤ哀歌」となる。しかしエレミヤの言葉ではなく、異なる作者によるものからなり、それぞれに韻文としての特徴がある。紀元前597年のアッシリアによるエルサレムの占領以降のエルサレムと民族の悲惨な生活を余すところなく描いた。
エゼキエル書バビロン捕囚の嘆きの書。預言者エゼキエルはバビロニアによる第1回「バビロンの捕囚」の一人であった。神からエルサレムの滅亡の理由を説明するよう求められ、あたかも新約聖書のヨハネ黙示録を思わせる神との間の幻視を語る。イスラエル民族の宗教的、倫理的罪の糾弾は厳しい。最後にはエルサレムへの帰還と神殿の再建を、「枯れたる骨」の再生、新しいダビデの出現を願う希望の預言となる。
ダニエル書ダニエルはエゼキエルと同じように、「バビロン捕囚」期の預言者であった。この書もエゼキエル書と同じように黙示録または幻視が多いが、知恵の書としても名高い。バビロニアの王ネプカデネザルの命により、王の夢から来るべき諸国の興亡を予言した。「獅子の穴」に放り込まれる危機に遭遇するが、諸国の興亡の預言を説いて止まなかった。「人の子ごとき者雲に乗りて来たり」という新約聖書の救世主のような預言がある。ダニエルは智慧と判断に秀でた預言者とされた。シェークスピアの「ヴェニスの商人」にもその名が出ている。
ホセア書ホセア書以下12篇の預言書は、アウグスチヌスの「神の国」以来「十二小預言書」と呼ぶことがある。アモスとホセアはイスラエル王国のヤラベアム2世の時代から滅亡期までにかけての預言者。「十二小預言書」全体の成立時期は紀元前3世紀から前2世紀とされる。ホセア書に同時代人として挙げられている王の名はイスラエル王国・ユダ王国末期のものであり、これを信ずるなら紀元前8世紀末の人物である。作者がホセアであることと、その預言期間がウジヤの治世からヒゼキヤの治世にまで及ぶとされる。神に度々反抗したイスラエルに対する裁きの音信であり、神はイスラエルを見放すという内容である
ヨエル書ヨエル、ヨナ、ハガイ、ゼカリヤ、マラキは捕囚後開放時代の預言者である。黙示文学。作者はペトエルの子ヨエルであるという。ヨエル書の作製年代を、エルサレム帰還後で、エルサレム神殿再建完了(BC516年)の前に置く。
アモス書アモス書 にも、主の日(神による審きの日)の到来という、ヨエル書と同じテーマを扱っていることなどから、執筆年代はアモスやホセアと同年代(BC8世紀前半のヤラベアムU世統治のころ)と考えている。作者はアモスで、南ユダ王国テコア出身の牧夫であったという。時期については、ウジヤ(ユダ王国)、ヤラベアム2世(イスラエル王国)の分裂王国時代であった。内容は大きく4つに分けることが出来る。@近隣諸国の民と、南ユダ王国、北イスラエル王国に対する神の裁きの宣告、Aイスラエルの支配者たちへの悔い改めの要求、B裁きについての5つの幻(イナゴ、燃える火、重り縄、夏の果物、祭壇の傍らの主)、Cダビデの系統を引くイスラエル民族の回復である。
オバデヤ書オバデア、ミカ、ナホム、ハバクク、ゼバニアはバビロン捕囚期の預言者である。筆者は伝統的にオバデヤ(オバデア)という名の人物とされる。この名は字義通りには「主(ヤハ)の僕(または崇拝者)」を意味する。オバデヤ書は大きく分けると「エドムの傲慢と滅亡」と「イスラエルの回復」の項目から成る。エドムとイスラエルの先祖は、エサウとヤコブの兄弟であり、したがって2つの民族は兄弟であるとみなされた。このような血族への暴虐によって、エドムは恥と滅びを永遠に蒙ると宣告される。作製時期は「エドムは兄弟であるイスラエル民族が攻撃されたときに見捨てたため、滅ぼされなければならない」という預言について考えると、紀元前605年から586年 - バビロンのネブカドネザル2世によりエルサレムが攻撃され、最終的にユダヤ人のバビロン捕囚が起こった時期が妥当である。オバデヤ書全体の主題は神の民の敵の滅びである。エドム人とは、イスラエルのかつての敵すべてを意味しており、文字通りのエドム人を指しているわけではないとする説がある。
ヨナ書内容は預言者のヨナと神のやりとりが中心になっているが、ヨナが大きな魚に飲まれる話が有名。前半は、ヨナ自身の悔い改めの物語を描き、後半は、ヨナの宣教によってニネベの人々が悔い改めたことを述べる。ヨナ書の主題は、預言者として神の指示に従わなかったことと、ニネヴェの人々が悔い改めたことに対して不平不満を言ったことに対するヨナの悔い改め (=神に仕える者としての生き方を正す) と、神は異邦人でさえも救おうとしておられることの二つである。
ミカ書作者は紀元前8世紀の預言者ミカに帰される。構成は7つからなり、本書の中でミカは支配階級に抑圧されている人たちの苦しみに共感し、横暴な人たち(その中には賄賂によって都合の良い預言をする預言者や祭司も含まれる)の不正を厳しく糾弾している。
ナホム書全3章から構成される。著者はナホムという名の人物とされる。 預言の主題はニネベの陥落とアッシリアへの裁きである。成立時期はエジプトのテーベの滅亡が記されているので、紀元前663年より後、ニネベが陥落した紀元前612年より前である。
ハバクク書本書は3章からなる。ハバクク書はユダヤが直面する民族的困難が増大する時代にあって、疑念が付されてきた神への絶対的な信頼と能力の妥当性という問題を扱っている。ハバククは「民の悪行に対する神の怒り」「異民族による怒りの執行」という観点に立つことによって、民族的困難と神への信頼を両立させる。また神の絶対性と将来の救済、「怒りのうちにも憐れみを忘れぬ神」という観念がみられる。
ゼフェニア書伝統的にゼファニヤが作者とされる。ヨシヤ王(在位紀元前640年頃から前609年頃)の名があることから、紀元前7世紀後半ないしそれ以降に成立した。本書の目的は、エルサレム住民へ行いを改めるべく警告することであったろうと考えられる。
ハガイ書作者はバビロン捕囚後の最初の預言者ハガイである。エルサレム神殿の再建(紀元前515年)がその預言の主題となっている。ハガイとはヘブライ語で「祝祭」という意味である。
ゼカリア書本書は14章からなり、小預言書の内では、比較的大部にわたる。内容としては、幻視に関する8つの記述、エルサレムに臨んだ災いを記念する断食に関する質問、諸国民に対する裁き・メシアに関する預言・神の民の回復に関する記述からなる。
マラキ書本書は3章からなる。預言の主題は宗教儀式の厳守、及び雑婚の禁止である。マラキは当時の形式的な礼拝を咎めた。マラキとはヘブライ語で「私の使者」という意味である。当時、捕囚から帰還した頃は市民権は無く、旱魃や大量発生したイナゴのため凶作が続き、更には周囲に敵意を持つ民族が居住していたため、非常に衰退していた。そのような状態でイスラエルの民は神殿を再建した。祭司の堕落や、軽薄な雑婚・離婚、捧げ物の不履行などが蔓延していた。ネヘミヤがエルサレムに不在で人々が混乱に陥っている際にマラキがメッセージを語ったのである。

1) イザヤ書

北イスラエル王国及び南ユダ王国時代の預言者イザヤの名を冠した預言書。紀元前736〜701年ごろ活躍したイザヤ自身の言葉および付加は第1章〜第39章にありこれを「第1イザヤ」(イザヤなき後紀元前7世紀初期の作)、第40章〜第55章を「第2イザヤ」(紀元前6世紀後半の作)、第56章〜第66章を「第3イザヤ」(紀元前5世紀前半の作)と区別する。「第1イザヤ」の部分ではイザヤは大国アッスリアの脅威にさらされるイスラエル民族に対して神に対する民の背反。不正と不義、他の宗教への傾斜を批判し、次第に絶望に変じ新たな救世主待望の思想が萌芽する。アッスリアにかわるバビロニアの侵攻によって紀元前597年エルサレムは陥落し、「バビロンの幽囚」に遭遇したイスラエル民族に向かって、「第2イザヤ」はペルシャ王クロスによる解放を予言し、民の罪を贖う「苦難の僕」出現思想に変わる。紀元前538年ペルシャ王クロス王の制覇によるイスラエル民族の解放、バビロンからの帰国が実現する。「第3イザヤ」はバビロン帰還した民に信仰と律法の順守を求める。イザヤ書はキリスト教においては救世主キリスト出現の預言とみなされたため、新約聖書ではイザヤ書からの引用が群を抜いている。

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紀元前7世紀 アッスリア帝国地図

第1章: アモツの子イザヤが、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒビキヤのときに示した、ユダとエルサレムの運命に関する預言。天よ聴け、地よ耳を傾けよ、エホバの語り給う言葉あり。われ子を養い育てしに彼らは我に叛けり。我が民は悟らず、ああ罪を犯せる国人、悪をなす者の末裔、彼らはエホバを棄て、イスラエルの聖者を侮りこれを退けたり。汝らの国は荒れすたり、邑は火にて焼かれ、汝らの田畑は外人に奪われ荒れ果てたり、エホバがわれらに少し遺しておかなったら、今はソドムかゴモラとおなじになっていたことだろう。ソドムやゴモラの有志よ、汝らの生贄の仕方もでたらめでエホバには何の益にもならない。エホバは薫物は好まず、新月、安息日の聖会は禁じられている、悪行をやめよ、善を行え、公平を求めよ、虐げらたものを助けよ。忠信なりし邑も妓女となり、義の人も殺す人になった。この故にイスラエルの全能者敵に向かいて念をはらし仇に向かいて報いをすべし。諸邑は旧例に戻し、シオンは公平を持て贖われ、帰還する者も贖われるべし。咎を侵す者は敗れエホバを棄てる者もまた亡びん。権勢ある者は麻のごとく、その腕は火花の如く、これを撲滅するものなし。
第2章: イザヤが示されたユダとエルサレムの運命に関する預言。律法はシオンより出てエホバの言葉はエルサレムより出た。ヤコブの家よ、来たれ我らエホバの光に歩まん。主はその民ヤコブの家を棄て給えり。それは民が東の風俗に倣い、ペリシテ人にように陰陽師(占い師)となり、異邦人と盟約を結んだからである。彼らの国は物資・財宝が豊富で、偶像に満ち、賤しき者は追いやられる。エホバの一の日には、すべて高ぶる者驕る者崇める者の上に臨み、この世の美しきものの上に輝く。エホバ立ちて地を震い給うとき人々は光を避けて洞穴にに入らん。
第3章:万軍のエホバはエルサレムおよびユダの頼るところ。童子をもって王になし国を治めさせたので、世の秩序はなくなり民は互いに抗争するを常とした。かれらの舌と行いはみなエホバに叛き、その栄光の眼を犯したためにエルサレムおよびユダは仆れた。彼らの霊魂は禍なるかな自らその悪の報いとなった。我が民は幼子と婦女に支配され、汝を導くはずの者がかえって汝の道を断つ。エホバが諸々の民を審判し給う。貧しき者を虐げた民の長老、諸侯を攻め給う。又華美に着飾ったシオンの娘らより飾りを取り去り惨めな姿を露わにした。こうしてその門は悲しみ、シオンは荒れ果て地に座らん。
第4章: 今では7人の娘が一人の男にすがる(一夫多妻 貧困社会の象徴)ようになった。エホバの一日に逃げ残ったイスラエルの益となり、エルサレムに存在する者の中に記録された者は聖なるものとなる。逆境のときこそ穢れた者を淘汰し純潔の血となる。
第5章: 我が愛する者のために葡萄園の歌を作る。愛情込めて耕し望楼を立て酒搾りを作って葡萄の結実を待ったが、できた物は野生の葡萄。エルサレムとユダの人よこの喩話を解け。それ万軍のエホバの葡萄園はイスラエルの家(国)なり。葡萄の実はユダの人である。野生の葡萄とは異邦人との混血のユダでエホバの律に叛く人である。禍は邑に人が密集し余地がなくなったことである。収穫され葡萄酒になる葡萄はほんの少しだけ、これでは民は奴隷になり高貴な人も飢える。禍はさらに彼はいつも悪を引き込み罪を引く。悪をなして善と思う、禍は彼らは葡萄酒と濃い酒を愛好する丈夫であることだ。これらのため豊かな田畑は荒れ果て、エホバの律を棄て預言者の言葉を軽んじた。こうして遠い国より異国人が侵入し掠奪を行ってもこれを救う者がいない。
第6章: ウジヤ王が亡くなった年、エホバが神殿に立ち給う。裳裾は殿を覆いその上に6つのセラピムが立ち。2つは顔を覆い2つは足を覆い2つは飛翔した。「聖なるかな聖なるかな万軍のエホバその栄光は全地に満つ」の声が呼びかい、その合唱により閾は揺れ動き家の内に煙が満ちた。そのときイザヤは言った。「禍なるかな我滅びなん、我は穢れたる唇の民になかに住み、汚れた唇の者であるが、目はエホバを見た」と。セラピムは熱い炭を携えてイザヤの口に炭をあて唇の穢れを取った。聞いても悟らず、見ても知らざる鈍い民に伝えよ、我れ伝言を述べるイザヤ往けとのエホバの声を聞いた。イザヤはいつまでこのような状態が続くのですかと神に問うた。神は、邑は荒れ果て家に人なく国ことごとく荒れ地となり、民は遠くへ移され、国の中は廃れるところまで続くと言った。されど少しばかりの聖末裔が残ってこの地の種になるだろうと。
第7章: ヨタムの子ユダヤ王アハズのとき、アラム王レジンとレマリアの子イスラエル王ペカがエルサレムを攻撃したが成功しなかった。これがアラムとエフライムの結託だという説にアハズ王は怒りに動かされた。そのときエホバはイザヤに告げて命じた。アハズ王に慎みて騒ぐな懼れるなと伝えよ。エフライムは65年前に滅びて国をなしていない、エフライムの首都はサマリア、サマリアを治めるのはレマリアの子なり、アラムの首都はダマスコ、ダマスコを治めるのはレジンである。あと数年したらアラムとエフライムの王の地はなくなる。アッスリア王の指図したことで、ユダとイスラエルが分裂して以来の民族統一のチャンスである事を信じなさいという内容のエホバの予兆を示唆した。
第8章: エホバはイザヤにいい給う、汝牌をとりてマヘル、シャラル、ハシ、バズと録せ、祭司ウリア、ゼカリアによってその証を示さんと。エホバが預言者の妻に近づくと妻は妊娠し4人の子を産んだ。マヘル、シャラル、ハシ、バズとなずけよ、この子等が物心つかぬうちにアラム王のダマスコとエフライム王のサマリアの財宝は奪われてアッスリア王がこれを取るだろう。アッスリアはユダを好まず、アラムとエフライムを欲しいようだ。エホバはユーフラテス河の大水をせき止めアッスリアの国土を洪水が襲うようにする。ユダにもあふれた水は来るだろうが心配するなエホバが義しい民を守る。エホバはよき避難所となる。イスラエルとユダの2つの家は破滅しエルサレムの悪しき民は捕らえられる。(選民淘汰の原理) 神にすがってもダメ、ただ民は律法と証詞をもとめよ、それ以外に生き残るすべはない。
第9章: 今苦しみを受けても先は暗くはない。民を増しその喜びを大にすれば道は開けて来る。我らのために一人の嬰児が生まれた、政事はその肩にあり、平和の君と称せられ、ダビデの位に立つ。とこしえに公平と公義とをもって立つべし。いまエホバはレジンの敵を持ち上げイスラエルを呑ませようとする。エホバは一日の内にイスラエルを断ち切り給わん。その民は悉く邪で悪を行う者なり。エホバの怒りによってその民は火に燃え相哀れむなし。(エホバはノアの箱舟、バベルの塔と同じように悪しき民の絶滅作戦に出た。もうやけくそですね、気違いに刃物です。)
第10章: アッスリア人の攻撃の手はエホバの怒りで、彼をして邪悪な国を攻め、我が怒る民を攻めてその財宝を奪う。エホバの本意はカルケミン、アルパデ、ダマスコなど偶像に仕える国を滅ぼすことである。だからエホバは、我シオンの山とエルサレムになさんとする破壊を成し遂げたなら、アッスリア王の高ぶる気持ちを罰するつもりであるという。各国々を破壊するのは手段であって、目的はエホバを棄てた国を罰することである。破壊が終った日イスラエルの残った者とヤコブの家ユダ人の遁れた者は、打倒した王にすがるのではなく誠意をもってイスラエルの聖なるものエホバに頼るべし。その日彼らの重荷は肩から降り、彼の軛は頚から離れん。万軍のエホバは、アイ、ミクロン、ミクマシ、ゲバ、ラマ、ガリム、ライシ、アナトテ、マデメナ、ノブ、シオンに至る。(エホバはまるで解放軍の侵攻、中東は戦乱の渦の中)
第11章: このイザヤ書第11章は重要な宗教的イメージの暗示である。エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。紀元前750年頃の預言者イザヤは、世界支配をめぐるアッシリアとエジプトの対立にまきこまれた困難な時代にあって、聖なるかたがエッサイ(ダビデ王の父)の家系からでることをこのように預言しました。そして新約聖書はイエスがアブラハム、ダビデの家系であることを記しています。枝がなす3つの環とかエッサイの木は,ユダヤ人の歴史を象徴し,中世を通じて多くの表現を見たイメージである。その若木にはエホバの霊、智慧聡明の霊、謀略才能の霊、知識の霊、エホバを畏れる者の霊が宿る。エホバの裁きの普遍的価値とは「公平」、「正義」である。こうしてエホバを知る者は強きも弱きも共存できる。キリスト教の「三位一体」の概念もこのエッサイのイメージから出た。エホバは再び手を伸べてそのイスラエルの民の残れる僅かな者を各地から集め、イスラエルとユダの融和に期待した。
第12章: その民族再会の日には、エホバに感謝を捧げん。怒りは止みて我を慰め給えり。エホバは我が力なり、我が歌なり、我が救いなり、我頼みて懼れることはなし。エホバの御名を呼べその御行為を諸々の民に伝えよ、エホバを褒め称えよ。
第13章: (イザヤはバビロンの没落を預言する)イザヤ書の13章〜23章には、イスラエルとかかわった諸国民に対する預言がまとめられています。その第1はバビロンです。聖書における「バビロン」(新バビロン帝国のこと)の滅びは、アハズ王の治世に、預言者として神のことばを語ったイザヤの時代(紀元前734)から約200年後のことです。イザヤが「見よ、わたしは彼らに対してメディア人を奮い立たせる」と預言したように、バビロンの最期の王であったベルシャツァルは、紀元前539年、メディヤ・ペルシアの連合軍によって倒され滅びました。エホバは山に軍兵を招き、諸国から集められた兵の声はエホバの怒りを暗示するようであった。民よ泣き叫べエホバの日が近づき罪人の敗亡来るしるしとなれり。エホバの怒り激しく、不義なる人驕れるもの荒ぶる者を罰するためである。恐れを知らぬ勇猛果敢なメデア人が攻め来たる。かってカルデア人が誇るバビロンは風前の灯で、アラビア人も逃げ出した。
第14章: エホバはヤコブを憐れみイスラエルを再び選んで己の地に据えるつもりである。先祖の邪の故をもってその子孫を殺戮し地球上から抹殺する。彼らを撃ちバビロンよりその名と残りたる者をとを絶滅させその孫も滅ぼさんこれがエホバの聖言である。アッスリア人を撃ち破り我が山々を踏みにじらん、イスラエル人は彼らから背負わされた重荷から解放される。この預言はユダの王アハズの亡くなった年(紀元前715年)に示された。門よ嘆け邑よ叫べ、ペリシテの全地消え失せたり。
第15章: (モアブの運命の預言) 第15章と第16章はモアブに対する主の嘆きの歌です。モアブのアルとキルは一晩で滅んだ。モアブの泣き声はバイテ、デボンの高所からヤハズまで聞こえた。モアブの貴族はゾアル、エグラテシリシヤに遁れたがホロナイムで滅亡した。その泣き叫ぶ声はエグライム、ベエルエリムにまで聞こえた。
第16章: モアブを追われたさすらい人はエホバを避難所とし、殺戮者より遁れよ。イザヤはモアブ人の傲慢さ大言を聞いた。ヘシボシよエレアレよ我が涙汝を浸さん。モアブは高所で倦み疲れ、その聖所に来たりて祈ったがもはや効果は無かった。モアブの栄は雇われ者と同じく3年の内に辱めを受け、残れる者は甚だ少なく力なかった。
第17章: (ダマスコに関わるイザヤの預言) ダマスコは邑の姿を失い荒塚となった。アロエルの邑は棄てられ、エフライムの城は廃れた。ダマスコの政治は止みスリアの残れる者はイスラエルの栄と同じく消え失せた。イスラエルンの祭司らは自分らが造った祭壇も仰ぎ見ず、自分らが造ったアシラ像と日の像にも目を留めなかった。己が救いの神を忘れてしまって呆然自失たる様であった。多くの民は泣きどよめいたがエホバはさらに攻め給う。この「ダマスコ」はアラム(シリヤ)の首都です。アラムは北イスラエルと反アッシリヤ同盟を結び、それに加入しようとしなかった南ユダを攻めますが、結果的にはアッシリヤの王ティグラテ・ピレセル3世による侵略によってアラムの王レツィンは殺され、ダマスコは陥落して(紀元前732年)、アッシリヤの属州となってしまいます。
第18章: (クシュ(エチオピア)の運命の預言) なぜクシュ(蝗の国 エチオピア)がエジプトに早急に使者を送るのかと言えば、クシュはエジプトと同盟を結んで、自分たちを攻撃しようとする強国に対抗しようとしているからです。クシュもエジプトもその強国によって侵略され、滅ぼされます。ところが不思議なことに、神のさばきを通過した後、エジプトの中から、海路、「万軍の主のために」、「万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれて来る」と預言されています。この預言は未だ成就していません。エジプトの国は「縄もてはかり人を踏みにじる国と表現されています。ナイル川の氾濫後縄で測量をおこなう意味です。
第19章: (エジプトに対する神のさばきと救いの預言) イザヤ書19章で最も重要な箇所は4節にある「わたしは、エジプト人をきびしい主人の手に引き渡す。」、そして「力ある王が彼らを治める。」と預言されていることです。このことはエジプトがある強国によって攻撃されるのです。そのために、エジプトの国の民は非常に狼狽し、内乱が起こります。「きびしい主人にの手に引き渡されて」、その支配下に置かれます。実は、それがエジプトに対する神のさばきなのです。このあたりの預言は厳密に時系列となっていないので歴史的事実とも言い難い難解な部分です。史実に厳密に従って書かれていたなら、預言は神の偉大さを権威づけるための後づけの虚構です。
第20章: (アシドドに対するイザヤの預言的行動)ペリシテの一都市アシドドの敗北の原因は、彼らがクシュやエジプトを頼みとしたからです。アシドドはアッシリヤの王から守ってもらおうと助けの拠り所としたが、失意をもたらすという神の預言だったのです。アシドドは紀元前713年にアッスリヤと同盟関係を結んでいたアズリ王を追放し、暴動を先導したヤマニが指導者となってアッスリヤに謀反を起こしました。そのためアッスリヤの王サルゴンによって派遣されたタルタンによってアシドドは、紀元前713年に征服されます。エホバはイザヤに裸、はだしになってゆき預言せよといいました。イザヤは3年間エジプトとエチオピアに行きその予兆を示した。エジプトとエチオピアの民は囚われアッスリアに連行され、裸・はだしにされた。ユダの民は我々がアッスリア王から遁れんとして頼りにした国々でさえこのような隷従となった、我らはどうしたらいいのかと嘆いた。
第21章: (海辺の荒野バビロンに対する神の宣告) 我苛き黙示を示した、エラムよ上れメデアよ囲め我は全ての歎息を止めた。このため私は身も心もボロボロになったようだ。バビロンは仆れたり仆れたり、ドマの運命は捕囚(夜)と解放(朝)が繰り返す、アラビアの運命は1年の内にケダルのすべての栄華は尽きると。エラムとメディアが、驕って饗宴に興じている無防備のバビロンに不意打ちをかける様子を描いています。アラビアの「デタン人」「テマ人」「ケダル人」、これら三つは兄弟族です。彼らはアッシリヤの侵略にさらされます。
第22章: (異象の谷あるいは幻の谷にかかる預言、エルサレム破壊される) 前半で、ユダの王ゼデキヤの治世にバビロンの王ネブカデネザルによってエルサレムの町が崩壊することが宣告されています。後半で、アッシリヤの王セナケリブが遣わした大軍勢を率いる三人の将軍(タルタン、ラブ・サリス、ラブ・シャケ)によってエルサレムが包囲されるという危機の中で、ユダの王ヒゼキヤの参謀の一人である親エジプト派セブナが失脚し、それが宮内長官エリヤキムに与えられるという神の宣告です。時系列としては前後が逆になっています。エルサレムの人々が騒動、混乱の中にある状態は、エルサレムが敵によって取り囲まれ、封鎖されたことによって餓死寸前にあったのです。囚われて連行されるバビロンの幽囚は実はこの200年後のことです。
第23章: (ツロの運命に対する予言) この章は「タルシシの船よ、泣きわめけ」で始まります。「タルシシの船」とは地中海の東のツロから最西端にあるスペインのタルシシまでを交易の範囲とした。ツロ、そしてその北にあるシドンは、西のタルシシ、南のエジプトを初めとする諸国と通商関係を結び、海洋都市として巨大な富を持っていた。ツロと関係の深いタルシシとキティム人(キプロス)は血筋的に近い関係です。両者ともヤペテの息子ヤワンの系列であり、やがてその系列はギリシア人、つまりヘレニズム文化(人本主義)を形成する民族です。神の民であるヘブライニズム(神本主義)とは全く対立していく流れと言えます。貿易、加工業による儲けは、妓女の淫業に例えられ、牧畜の民の神エホバは経済主義を理解できなかったようだ。これで第13章から第23章の「諸国の預言」は終わり、第24章から第27章は「世の終わりについての預言」になります。
第24章: エホバこの地を空しからしめ民を散らし給う。地は憂い衰え、地の貴き者も萎えはてた。民掟に叛き法を犯し、永遠の契約を破りたが故に地はその下に汚されたり。新しき酒は憂い葡萄は萎え、鼓の音は静まり歓びの声は消え琴の音もまた静まれり。邑は荒れ果て門は壊れたままとなった。これらの者は声をあげてエホバを呼ばわん。我ら地の極より歌を聞けり、栄光は正しき者に帰すと。恐れ慄く者は罠に陥りその罪はその上に重く遂に倒れて再び起きるなし。その日エホバは軍兵を集めて地のもろもろの王を攻めた。彼らは囚人のように獄中に閉ざされ多くの日を経てのち罰せられる。こうしてエホバがシオンの山とエルサレムで統治し、長老達の前に栄光ある時代が来る。イザヤ書において、このように神が王として支配する(統治する)ことを直接的に預言している点は注目される。部族政から絶対王政そしてまた神の直接支配なる部族長の合議制に時代に帰ることを預言しているようである。
第25章: エホバよ汝は我が神なり我なんじを崇め奉らん。神は昔決めた運命に従ってことを成し遂げてゆく。だから強き民はなんじを崇め、暴虐の城は汝を畏れる。神は弱き者の砦、乏しき者の難の砦、荒ぶる者の来たれるときの避所、熱をさける陰。エホバはこの山においても諸々の民のために肉と葡萄酒の宴を開く。すべての顔より涙をぬぐい、辱めを除き給わん。その日人々は我ら待ち望めり、我らを救う神エホバであるという。モアブは踏みにじられ、彼らの堅き城をエホバは崩して地の塵としたまう。
第26章: その日ユダの国では神が救い給う邑の石垣に感謝の歌をうたおう。門を開いて掟を守る正しい民を入れよう。汝らエホバに頼れ、エホバはとこしえの巌なり。義しき者の道を直く平らにし給う。エホバの手を高く上げて汝の敵を焼き尽くすであろう。メシア王国(千年王国)においては、神の完全な平和「シャーローム」が実現されると預言している。
第27章: この章の冒頭、エホバは、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。「その日」は、神に逆らう人間たちだけでなく、人間を神に逆らわせようとするサタンとそのしもべたちである悪霊に対するさばきが執行される日でもある。エホバは我が力に頼り我とやわらぎを結び、平和を結ぶべきだという。後代にはヤコブ(ユダの末裔)は根を張りイスラエルは芽を出して世界に満ちると預言した。エホバがユダを追い散らし懲らしめたのは正しい。ヤコブ(ユダの民の罪)の不義はこれによってあがなわれる。これによって結ぶ実は彼の罪を除く。異教のアシラ像と香の祭壇とを再び建てないことである。その日イスラエルの子等よ、エホバは打ち落とした実を集めるように汝らを一人一人集め給う。
第28章: イザヤ書28〜33章は一つのまとまりを持っています。その内容はアッシリヤの勢力に脅かされ、エジプトの軍事的援助に拠り頼もうとしているユダの指導者、エルサレムに対する神のさばきのことばです。この28章は、サマリヤの滅亡と正気を失ってエジプトと同盟を結んだエルサレムの祭司や預言者たちへの叱責と神の回復の預言、そして、神の知恵による神の定めはすでに確定しているという三つの部分からなっています。エフライムの主都サマリヤは、良く肥えた谷の中央の丘の上にあり、塔のある城壁で囲まれていたために、美しい飾りの花のように、また冠のように見えたようです。しかしそれが「強いもの」と表現されるアッシリヤによってしぼんでいく花のように、また足の下に踏みにじられる運命にあることが語られます。サマリヤの滅亡は紀元前722年のことです。このエルサレムにある民を治める驕れる指導者よエホバの言をよく聞け、死と契約した連中には神は救いに現れない。昔エホバがギベオンの谷で憤りを発したように、汝らはエホバを侮ってはいけない、汝らの戒めは厳しく、神はすでに全地の上に定めた敗亡あるのみである。汝ら耳を傾けいてエホバの言をよく聞け、農夫が神の定めた摂理に従って、定めた時期と場所に土を耕し種をまくのは神の知恵である。
第29章: ああアリエル(エルサレム)よアリエルよああダビデの営を構えたる邑よ、年を経て我アリエルを悩まし嘆息をあらしめん。われ営を構え砦を築き汝を攻めん。我はアリエルをしいたげる、そこにはうめきと嘆きが起こり、そこは我にとっては祭壇の炉のようになる。すでにアッスリヤの王セナケレリブは部下の三人の将軍を遣わし、ユダの町々を攻め落していましが、ただエルサレムの町だけが生き残っていたのです。アッスリヤはエルサレムの回りに「陣を敷き」「取り囲み」「塁を築いた」のです。まさに三段重ねの包囲網です。ところがエルサレムを包囲しているアッシリヤ軍が突然に敗北するという展開になります。エルサレムの包囲も、そして突然の意外な解放もすべて神の主権によるものであることを語っています。エルサレムに災いをもたらすこととなった原因は神への不信によって、まことの神ではなくエジプトに助けを求めたからです。そのために霊の目が完全に塞がれてしまいました(封じたる書)。エルサレムの民は我が心から遠ざかれり。民が神を形式的に拝んでもダメ、我を畏みおそるる人は、人の誡めによりて教えられしのみ。メシア王国(千年王国)において実現する神の民の回復とは@ 耳が聞こえなかった者が、書物のことばを聞くようなる。A 盲人の目が開かれる。B へりくだる者は主によって喜ぶようになる。C 貧しい人は主によって楽しむようになる。D 横暴な者はいなくなる。
第30章: エホバはいう。ユダの民を「反逆の子ら」と呼んでいます。なぜなら、彼らが神から離れて、エジプトのパロの保護を頼るようになっていたからです。彼ら謀をするが我が霊に従わず罪を加えるのみである。エジプト王パロの軍事力に頼るだけであるから。ユダの国王はゾアンに来て使いをハネスに出したが、エジプトは助けにならずかえって恥となる。財宝を積んだロバ隊を組んでエジプトの地に来たがエジプトの助けは空しく、これを「何もしないエジプト王ラハブ」と呼ばれた。主のおしえに聞こうとしない不義に対するさばきは徹底した破滅です。預言者イザヤを通して、「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」と救いを約束したにもかかわらず、ユダの人々はこれを望まなかった。攻撃の速さを自慢するユダに対してエホバは敵の方が早いと否定し、さらにひとりのおどしによって千人が逃げ、五人のおどしによってあなたがたが逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗ぐらいしか残るまい。と完膚なきまでに神に言い負かされました。エホバはあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる正義の神であるからだ。幸いなことよ主を待ち望むすべての者は。イザヤの時代のユダの人々は、主のおしえを聞こうとしない者たちでした。それゆえに神は彼らを罰し、神の正義を示すと同時に、彼らが悔いて帰ってくる折りには、「立ち上がって」祝福を与えて下さる方である。あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け」と。エホバの声によってアッスリア人はくじけるだろう、エホバはアッスリアの上に杖を加え給う。エホバは戦闘によってアッスリアと戦い給う。
第31章: エジプトの助力を得んと戦車、馬に頼るより、イスラエルの聖者エホバを頼め。エホバの言は翻らず必ず禍が下るであろう。獅子が獲物の羊を掴んだとき、羊飼いが大勢で歯向かっても士師は獲物を離さない。万軍のエホバはエルサレムを守り給わん、汝ら甚だしく間違っている、今立ち還るべきだ。汝らが黄金の偶像をその日に棄てるときアッスリア人は剣により仆れる。これはエホバの御言なり、エホバの火はシオンに在り、エホバの炉はエルサレムにあり。
第32章: イスラエルの聖なる神が治める国では、正義をもって統治し、公平(義)をもって宰どらん。愚かなる者は愚かな事を語り、不義な心を持ち邪曲を行う。狡猾な者は悪しき企てを設け虚偽の言葉をもって苦しむ者を害う。安逸な婦人たちよ聴け、1年後に慌てふためいても遅い。荊は胸を刺し、邑は荒れすたり櫓は洞穴になる。しかしエホバの霊が我らに注ぎ、荒れ野は良い田になる時がやってくる。
第33章: 人を害い、欺く人は禍である。エホバよ朝には我らに力を与え、患難のときは我らの救いとなり給え。エホバはシオンに公正と正義とを充たせり、救いと知恵と知識とは豊かになる、エホバを畏れるは国の宝なり。外に目をやれば、戦士が叫び、和を求む使者は嘆き、大路荒れ、敵は約束を破って邑を蹂躙する、レバノンは恥じ、シャロン、バシヤン、カルメルは枯れる。エホバ今起き立たん今自らを高くせんと。シオンの罪人は懼れ、戦慄は邪なものに臨む。異邦人の言語は分からず、言うことは理解できない。シオンこそ安らぎのもとエルサレムは永久に枯れない生活の場である。そこには威厳のあるエホバが私たちとともにおられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。櫓をこぐ船もそこを通わず、大船もそこを通らない。アッシリヤのセナケリブが「踏みにじる者」「裏切る者」と呼ばれている。ユダ王ヒゼキヤはセナケリブの求めるままに貢物である金銀を渡しました。ところが、セナケリブはその貢物を受け取ったにもかかわらず、ヒゼキヤとの約束を破り、エルサレムを包囲してしまった。
第34章: イザヤ書34章と35章は「神の最終の審判」と「神による回復」によるワンセットの箇所です。34章においては諸国の民に対する神の究極的なさばきの宣告が語られます。その矢面にエドムが立たせられています。神の民イスラエルとエドムが聖絶されることは大昔の怨念に起因します。エドムはヤコブの兄エサウから出た氏族の総称です。エドムはヤコブの子孫を憎み続け、その執念深い恨みには冷酷さがあります。諸々の国よよく聞け耳を傾けよ、地と地に満る世界のすべての者よよく聞け、エホバは万の国に対して怒り、彼らをことごとく滅ぼす。視よエドムに下り亡びに定めたる民を裁かん。これはエホバの仇を還し給う日であり、シオンの訴えの報いをなし給う年である。焼き尽くし廃墟となし諸々の諸侯はみな消えて亡くなる。汝らエホバの書をつまびらかに読むべし。一行一句おろそかに読むな、すべてはエホバの霊が決められ給う。
第35章: 荒れ野は潤い砂漠は歓びサフラン(番紅)の花のように咲き誇る。汝ら戦乱で生き残り弱った者よしっかりせよ、汝らの神を見よ、刑罰きたり神の報い来たりて、神来たりて汝らを救い給う。正しき聖なる道を進め、これを歩む者は愚かなりとも迷うことは無い、ただ贖われた者のみがそこを歩むことができる。エホバに贖い救われた者は歌いつつシオンに還りきたり。
第36章: 「歴史」の「列王記略 下」の第18章におなじ記事が掲載されている。ヒビキア王の14年、アッスリアの王セナケリブがユダに攻め込みユダの城を取ったので、ヒビキア王は和を請い、貢物金銀を払ってアッスリアに撤退を請うた。エルサレムにおいて大軍を率いたアッシリア側からタルタン、ラブサリス、ラブシヤケが、ユダ側から王の子宮内卿エリアキム、書記官セブナ、史官ヨアが出て講和会議が行われた。アッシリアのラブシヤケが代表して、折れた葦の杖なるエジプトを頼みとして援軍を頼もうとするのか、エホバの意思に従って交戦しようとするのか答えろと迫った。またユダを攻め滅ぼすのはエホバの命令であるとだめ押しをした。ラブシヤケはヒビキア王に聞け、ただアッスリア王の言葉による降伏勧告のみを述べ立てて、降伏条約を結ぶならユダ人をある国に連れ行き命は保証し生活ができるようにする、サマリアを救う神々はどこの国にもいない、エホバも救うことはできないと断言した。それ以上はユダ側は黙し、ヒビキア王にラブシヤケの言葉を伝えることになった。
第37章: 「歴史」の「列王記略 下」の第19章に同じ記事が記載されている。 ヒビキア王はこれ聞いて、預言者イザヤにエリアキムらの使者を立ててエホバの言葉を聞くことになった。ユダの運命は如何になるかと問わしめたところ、イザヤは、アッスリアの王は噂を聞いて己の国に急ぎ帰るが、謀反した臣僕によって殺される。という答えを出した。ラブシヤケらはアッスリアの王がリブナに戦争を起こし、エチオピアの王ハルテカが攻めあがるという噂を聞いて急遽帰国することになった。ラブシヤケはヒビキア王に対して伝言をした。アッスリアがなした征服戦争のことを肝に銘じろ、エルサレムがアッシリアの手に落ちなかったといってエホバの神に騙されるな、必ずユダを陥落させるという趣旨であった。この書を読んでヒビキア王はエホバの前でこの書を読み上げた。我らの神エホバよ今アッスリア王の手より救い出して、地のもろもろの国にただ汝のみがエホバなることを知らしめよと願った。エホバがイザヤを通じてヒビキアに言ったことは「処女なる女子シオンは汝を軽んじ汝をあざける、エルサレムの女子は汝に向かいて頭を振る、汝誰を謗りかつ罵しりや、汝誰に向かって声をあげしや・・・」がエホバの言葉である。汝とはアッシリアのラブシヤケのことである。エホバを罵ることは天に向かって唾を吐く行為であるという意味だ。アッスリアの王セナケリブ夜のうちに撤退しニネベに帰った。あとには18万人の兵士の死体が転がっていた。これはエホバのなし給えることである。セナケリブ王が礼拝中にその子アデランメルクとシャレゼルによって剣で殺された。暗殺者は逃亡し、その子エサルハドンが代わって王となった。
第38章: 「歴史」の「列王記略 下」の第20章に同じ記事がある。ユダ王国のヒビキア王病気になったとき、預言者イザヤは王に死に臨んで遺言をなせといった。ヒビキア王は壁に向かってエホバに祈ったところ、帰路にあった預言者イザヤにエホバの言葉が下った。3日後にエホバの家に来れば汝の命を15年延長し、アッシリアの手からエルサレムを守るという。イザヤは乾無花果の実を王ヒビキア王の患部に貼ると王の病は消えた。
第39章:「歴史」の「列王記略 下」の第20章に同じ記事がある。バビロンの王メロダクバラダシはヒビキア王の病気平癒のことを聞いて書と礼物を贈った。ヒビキア王は喜んで王家の宝物の庫を開けてバビロンの使節に見せた。預言者イザヤはエホバの言葉を伝えた。イザヤの預言は、ユダの財宝はすべてバビロンに持って行かれるであろう、また王の子等はバビロンに連れ行かれ宮廷の官吏になるだろうと予言した。
第40章: 第37章に記載したように、ユダの王ヒゼキヤの治世に強国アッスリヤがエルサレムを包囲するというその危機から守られた。そのヒゼキヤが亡くなったのは、紀元前686年です。それから100年後の紀元前587年、エルサレムは アッスリヤの後に台頭したバビロンによって完全に破壊され、多くのユダの民はバビロンへと捕囚されます。イザヤ書40章以降の預言の背景にある歴史の舞台は、絶対専制君主国家であったバビロンが一瞬にしてペル シアの王クロスによって倒される時が近づきつつあった頃です。神の民がバビロンの支配から解放される出来事とやがて終わ りの時に起こる出来事が、同時に重なって語られています。「終わりの時」は 神のメシア王国(千年王国)においては、再び諸国における?配国となるのです。その彼 らを導かれるのがイエスなのです。多くのユダヤたちはいまだイエスをメシアとして受け入れていません。第40章はエルサレムに対する主の慰めの語りかけであり、2つの部分からなっています。最初の部分は1ー11節まで。後の部分は12ー31 節までです。前半にエホバはエルサレムにかく言う。「慰めよ、汝ら我が民を慰めよ、その服役の期はすでに終わり、その咎はすでに許されたり、罪は2倍にして贖われた。呼ばわれし者の声は、エホバの道を備え大路を直くせよ、かくてエホバの栄光顕れ人皆これを見ん。」 良き音信をシオンに伝える者よ、汝ら高い山に上れ、嘉き音信をエルサレムに伝える者強く声をあげよ。汝らの神来たりきと。 その腕は統治給う、賞物はその手に在り。後半では誰がこの世の出来事を正確に測ることが出来ようか、エホバの前には諸々の国民みな無きに等しい、エホバは空しき者のごとく思い給う。神に似た肖像をだれが想像できようか。当時のユダの人々(バビロンの捕囚となった )は、「私の道は隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と解決の見通しのな い深刻な行き詰まりの中で生きる力を失い、疲れを覚えていたのです。しかしそんな彼らに対して預者は語りかけます。地と天の創造者エホバは数を調べてその万象を引き出し、各々の名を付け給う、主のいきおいは大なり、欠けるものはない。疲れた者に力を与え勢いのない者には勢力を与え給う。
第41章: エホバの言葉、諸々の島よ我が前では黙っていろ、諸々の民よ新たなる力を得て来たれ、そして語れ義論しよう、我エホバは諸々の国を服せしめ、これに諸々の王を治めさせ、仇を討ち倒して王は安らかに進むことができる。lこのことを為せしはエホバなり、我は初めにして終わりまで支配する。諸々の島よよく見よ。われアブラハムの末ヤコブを選んで汝に言った。懼れる勿れ、我汝を強くせん汝を助けん、我が右手は汝を支えん。汝と争う者は亡き者にせん。虫に等しきヤコブよイスラエルの人よ、我汝を助けん汝を贖う者はイスラエルの聖者なり。汝はエホバによって喜びイスラエルの聖者によって誇らん。水を谷に得、荒れ野に樹を植え砂漠に植林したのはエホバである。エホバはヤコブの王に対して言った、汝の道理を示し堅き証しを持ち来たれ、そして何をしたいかを語れ。北より東より我が名を呼ぶ者来たりしが、一人も良しと思う者はいない。汝らは無きもののごとし、我よき訪れを告げる者をエルサレムに与えようと思わせる者は一人もいない。
第42章: 「第二イザヤ書」(第40章―第55章)には「僕(しもべ)の歌」と呼ばれる箇所があることが、「僕」が誰なのかという問題については論争がある。この歌は、苦難に意味を見出した極めて重要な箇所であり、「僕」の代理贖罪的な死は、イエス・キリストを預言したものとしてキリスト教において重視された。我が僕、わが選びし人をみよ、我が霊を彼に与えた。彼は異邦人に道を示すべし、彼は声をあげずその声は巷に聞こえない。エホバは斯く言い給う。公義をもって汝を召し我汝の手を取って汝を守り、汝を民の契約とし異邦人の光となした。我は我が誉れを偶像を与えない。諸々の島の民よエホバに向かいて新しき歌を謳え、ケダル人の邑よ声をあげよ、セラ人よ山の頂よりエホバの誉れを語れ。エホバはいま大声で叫ぶ、われ盲を目明にし、聾に声を与える。民よ汝は多くのことを見れども顧みず、耳を開けど聞かざる。よく聞けヤコブを奪い、イスラエルを仇に渡したのはエホバである。エホバに対して罪を犯し、その道を歩まず、その律法に従うを好まず、故にエホバは激しき怒りを傾け猛き戦を来たらせにもかかわらず、民は悟らなかった。
第43章: 我はエホバ、汝の神イスラエルの聖者汝の救い主である。我汝にエジプト、エチオピア、セバを与えん。遠くより同胞を集め我が名を称へる者よ遣ってこい。エホバ言う、汝らは我が証し我が選びし僕なり、汝ら我を信じて我が主なるを悟るべし。神はただ我のみ我はエホバなり。汝らのためにバビロンにいるガルデヤ人をことごとく降伏させる。昔のことは忘れてもいい、今新しい事を起こす。我こそわれゆえに汝らの咎を消し汝らの罪は心に留めない。
第44章: 我が僕ヤコブよ我が選びたるイスラエル(エシュルン)よ聴け、エホバ言い給う。我水と霊を注いではぐくんだイスラエルよ、我は始めなり終わりなり、我のほかに神あることなし。汝らは我が証し人なり、我のほかに神なし、我のほかに磐あらず。偶像を作る者は皆空し。偶像を拝む人は知ることなく悟ることなし。ヤコブ(アブラハムの末裔)よイスラエルよ汝は我が造りし我が僕なり。エルサレムにまた民は住みたいという、ユダのもろもろの邑を復興しよう。ペルシャ王クロスはその助けをなすという。エルサレムは再建されるべし。
第45章: エホバより膏を灌がれたペルシャ王クロスの前に諸々の国は降される。クロスよ汝我を知らずと言えど我は汝に名を賜いたり。我義をもってかのクロスを起こした。彼ののすべての道を直くせん、エジプト、エチオピア、セバ人は汝に従い、汝に祈る。偶像を作る者は皆辱めを受け退けられるが、イスラエルはエホバに救われて永遠に救いを得るだろう。我はエホバなり我のほかに神はない、我は義を行い救いを施す神にして他に神はいない。
第46章: ベル人とネボ人は家畜・獣の像をつくって拝み伏す。彼らは疲れ果て結局囚われものになった。ヤコブの家(王家)よイスラエルよ、我はいつまでも汝らを背負わん。背ける者よこのことを思い出でよ、我は神なり我のほかに神はない。義を近づける者には来ることは遠くなく、我が救いはシオンにあ絶え、我が栄光をイスラエルに与えん。
第47章: バビロンの娘よ塵の上に座れ、カルデヤ人の娘よ地に座れ、擂粉木で粉を引け、脛を表して川を渡れ、我は万軍のエホバ、イスラエルの聖者という、産業を汝らの手に任せた。子を失い寡婦をなる二重の不幸(禍)をもたらした。小さい時から呪詛と魔術に埋もれた汝らを救う人は誰も来ない。
第48章: ヤコブの家(ユダの王家)よ聴け、汝らはエホバのみ名によりて誓いイスラエルの神を語り継ぐが、真実をもって行わず正義をもって行っていない。形式的に万軍のエホバを称えるのみで偶像がこう言ったとかいう。汝は膏を注ぎしヤコブ王家のもの故、エホバは怒りを抑え、汝らを絶滅させなかった。ヤコブよイスラエルよ我に聞け、我はカルデヤ人を手にかける、汝らバビロンから出でてカルデヤ人より遁れよ。悪しき者には平安あることなし。
第49章: 諸々の島よ我に聞け、遠きところの民よ耳を傾けよ、イザヤ言う。エホバは我を僕となし、ヤコブの家をイスラエルに再建するために民を集める役目をイザヤに命じた。かってユダの12支派を起こしたので、その遺った者を還らせるのは容易いとエホバは言う。彼らを憐れむ者これを導きて泉のほとりに安らわしめたり。天ようたえ地よよろこべ、諸々の山よ声を放ちてうたえ、エホバはその民を慰めその苦しむ者を憐れみ給えばなり。エホバは手を諸々の国に向かってあげ、旗を諸々の民に向かって立てよう。敵に奪われた物や虜をいかに取り戻すか、それはエホバが敵をやつけるから容易であると。
第50章: 汝らの母が売られたのはそれは汝らの不義にあった。汝ら逆らうことをせず退くこともせず、我が面を石のごとく固くして恥をしのげ、汝らエホバを畏れその僕の声を聴く者はいる、暗闇を歩いて光を得ざるともエホバの名を称え己の神に頼れ、汝らかくのごとき事を我が手より受けて悲しみのなかに眠れ。
第51章: 義を追い求めエホバを尋ねるものよ我に聞け、アブラハムの時代よりエホバはシオンを慰め、その荒れ野をエデンのごとく為した。我が民よ我が言葉に心を留めよ、我に耳を傾けよ、律法は我より出づ、我が道を堅く定めて諸々の民の光となさん。義を知る者心の内にわが律法をたもつ民よ我に聞け、我こそ汝らを慰めん。汝エホバを忘れ、虐げる者を畏れるのか、我万軍のエホバなり、シオンに向かいて汝は我が民なりといわん。エルサレムよ醒めよ起きよ、荒廃・飢饉・滅亡の剣が汝らを襲った時誰が汝らを慰めるのか。この汝らを悩ます者を滅ぼすのはエホバである。
第52章: シオンよ醒めよ汝の力をいだせ、聖都エルサレムよ汝の美しき衣をつけよ、エルサレムよ起きよ汝の塵を振るい落とせ、囚われたるシオンの娘(エルサレム)よ汝が項の縄を解き捨てよ。アッスリア人の圧迫を受けて民はエジプトへ逃げた。汝が斥候の声きこえ、皆声をあげてもろともに歌えり。汝ら去れよ穢れたる器を出でてエホバの清き器に移れ。
第53章: 我が宣るところを信じたのは、美しき姿をしたものではなく、侮られ人に棄てられたた悲哀の人で病患を知れり。民の不義、咎のため打たれし傷のため、贖われ癒され平安を与えられる。彼らは虐待と審判によって棄てられた。彼の魂が咎の献じものをなすならば救われる。
第54章: 子どもを生まなかった婦人よ歌うべし。夫なく生まれた子の数は嫁いで生まれた子よりも多いとエホバは言われる。家を大きくしておけ、汝の末裔は諸々の国の荒れはてた邑を住むべきところ変えるだろうから。汝ら懼れるな恥じるな寡婦の恥を意識する必要はない。汝らを贖い給うはイスラエルの聖者なり、全世界の神なり。汝ら苦しみを受け慰めを得ざる者たちよ、汝らの子等はエホバの教えを受け、安き事大なればなり。
第55章: 貧しき者よ、渇ける者よ来たりて食らえ。エホバに聴き従えば脂をもてその霊魂を楽しませることができる。汝らとこしえの契約をなしてダビデと同じ恵みが与えられん。悪しき者はその道を棄て邪なる人はその思念を棄ててエホバに還れ、さらば憐れみを施し給わん。汝らよ喜び来たれ、知らぬ国の人も連れて来たれ。
第56章: エホバ言い給う。汝ら公平を守り正義を行うべし。我が救いの日は近い、義が行われるは近ければなり。安息日を設けて悪しきことをなさず、堅く守る人の子は幸いなり。エホバに連なる異邦人も安心を得、契約を守る者はエホバの僕となり燔祭と犠牲を祭壇の上に収めるべし。
第57章: 義者は亡びても心に留める人はいない、愛しみ深い人でさえこれを悟るは稀である。ところが悪しき人々は世に蔓延る、淫人、妓女らは来たって戯れをなす。汝らは流れ転がることを嗣業としている、長き道に疲れたけれどなお望みなしといわず、衰弱しない。我は遜る者の霊を生かし、砕けた者の心を生かす。とはいえ悪者は波立つ海のごとし、静かなることは無くいつも濁って泥をなす。神言い給う、悪しき者には平安はないと。
第58章: 断食の日は悪の縄をほどき軛の綱を放ちてすべての軛を折ることではなかったか。汝大声を出して叫べ我ここにありといい給わん。断食の日は汝の闇は昼の如く明るく成ろう。安息日はエホバの聖日を称えて尊ぶ日となすべし、道を行わず好む技をなさず言葉を語らず。
第59章: 汝らの邪曲なる業が汝と神の間を隔てている。聞けないわけではなく神の手が短いせいではない。正義をもって訴え真実をもって論じる者がいない。彼らは空しきことを言い偽りを語り悪しき企てを含んで不義を生む。この故に公平は遠く我らを離れ、正義は追いつかない。エホバは公平の無いことを喜ばない、
第60章: エホバの栄光は汝を照らす。諸々の国はエホバに光によって照らされ栄えん。諸々の国がやってきて財宝をエホバの名に捧げるのは、エホバが汝の国を輝かせているからだ。エホバに仕えない国と民は亡び荒れ果てる。汝の救い主、贖い主、ヤコブの全能者なるを知れ。汝の施政者(汝を役する者)を義しき者にせん。害いと敗壊は再び訪れず、エホバ永遠に汝の光となり給う。
第61章: エホバの霊がイザヤに臨めり、イザヤに膏を注ぎ貧しき者に福音を述べ伝えよ、心の痛めるを癒し、囚われ人に解放を告げ、エホバの恵みの日と刑罰の日を告げ、悲哀に代えて歓喜の膏を与え、憂いの心に代えて讃美の衣を与えるためである。先に受けし恥に倍返しで賞賜を与えるためである。彼らの末裔は諸々の国の中に知られるようになる。
第62章: (エホバの恵み)シオンの義輝きて、エルサレムの救い燃えるようになるまで、エホバはエルサレムのために休まず。人はエルサレムを棄てられた者とは言わない、荒れ地とはいうまい、汝を我が悦ぶところ(ヘフジバ)、汝の地を配偶(ペウラ)と呼ぶだろう。エホバ。エルサレムを再興し全地に誉れを得しめ給うまで休み給う勿れ。建設の砂ぼこりをあげよ、門より進め進め、土をもって大路を設けよ。
第63章: (エホバの刑罰の日)エドムより、ボズラより派手な服装でいかめしくやってきたのは誰ぞ、義をもて語り大いに救いを施すものなりと。如何にも怪しげな連中でエホバは一人で酒船を踏むものでエホバの怒りにより彼らは踏みつぶされた。それは刑罰の日我が心にある贖いの年がやってきた。イザヤはエホバの恵みを語り又その憐憫によりイスラエルの家に施し給えるエホバの慈しみを語った。エホバは救い主となり、その御前で彼らを救い愛と憐れみで彼らを贖いもたげた。しかし彼らがエホバに反逆しその聖霊を悩ました故にエホバ翻って彼らの仇になった。
第64章: 願わくはエホバ天を裂きて下り給え、汝の山々震い動かん。熱湯の湧くが如く下り給え。汝図りがたき恐るべきことを行い給え。汝怒り給えり、我罪を犯せり、我らいかで救わるるを得ん。されどエホバよ汝土塊から我らを作りし創造主よ、いたくな怒りそ。長く覚えないでください、願わくは顧み給え我らは汝の民なり。主よこれでも、あたなはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。
第65章: 「わたしに問わなかった者たち」、「わたしを捜さなかった者たち」、「わたしの名を呼び求めなかった国民」とは異邦人を指します。「一日中、わたしの手を差し伸べた」にもかかわらず、神の選びの民は「いつも、逆らい続けた」のです。64章の「主よ。これでも、あたなはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」という祈りに対する答えとして、第65章は主エホバの返答です。「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、それをそこなうな。その中に祝福があるからと言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない。」と主エホバは言った。神の民が明確に二分されるだけでなく、その先の祝福の約束と報復(審判)も示されます。少数のしもべたち(残りの者たち)を他のイスラエルの民たちとは区別して、やがて、主の山々やシャロン、アコルの谷に住まわせることによって彼らに報いるのです。しかし主を捨てる者は剣に渡され、虐殺されて倒れると預言されています。主を捨てる者」に対しては「わたしの聖なる山を忘れる者」、「異教ガドのために食卓を整える者」、「異教メニのために、混ぜ合わせた酒を盛る者たち」とも呼ばれます。彼らに対する報復は、飢える、渇く、恥を見る、心の痛み、たましいの傷によって泣きわめく、主によって殺されることです。主を求めた者たちにはメシア王国の祝福が記されています。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。新しい「エルサレム」は、回復された「エデンの園」と同義です。
第66章: 預言書には時系列はありません、だからいつのことは不明で非常に難解です。都合のいいように解釈して我田引水するのは私の役目ではないので、分からないままに記述します。汝らが我がためにいかなる家をどこに立てようとするのかとエホバは懸念します。ソロモンが建てた神殿を第1神殿として、ここに述べられていることはネヘミヤ書にいうバビロンからの捕囚後(紀元前538年)に建てられた第二神殿のことかもしれません。しかしこれも紀元前70年にローマ軍によって破壊されました。その先の第3神殿のことかもしれません。ちなみに、新天新地においては神殿はありません。しかし神はこの神殿の建設を喜ぶ様子はありません。彼らは己が道を選んで憎むべき者を楽しんでいるようであり、我エホバは彼らに禍を与えその懼れる所を彼らに臨んだ。そして突然シオンは苦しみもなく男子を生んだという。真実な神の民を神が主権をもって一瞬にして「産ませた」のです。イザヤ書66章の唐突な神の民の誕生はこれからの事、つまり、メシア王国の誕生のことを預言しているのかもしれません。こうして生まれたたみは祝福される。見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。大患難の時代の到来も預言される。主エホバは火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責めたてる。実に、エホバはは火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばく。エホバに刺し殺される者は多い。おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみな、絶ち滅ぼされる。(何のことを言っているのかさっぱり分かりませんが。)

2) エレミヤ記

預言者エレミヤの活動時期は、大国アッスリアによる北イスラエル王国の滅亡(紀元前722年)から時を経て起きたバビロニアによる南ユダ王国の滅亡(紀元前586年)と「バビロン捕囚」、ペルシャ王クロスによるイスラエル民族の解放(紀元前538年)というイスラエル民族国家にとっての激動期にあたる。エレミヤの告げる預言はエホバの律法の順守に尽きる。「心は万物よりもいつわる者にして甚だし」と心の在り方を厳しく問う。その批判の先は預言者、祭司の形式主義に及んだ。そのエレミヤもついにイスラエル民族自身による回復の希望は失望に変わり「エホバ言い給う、視よ我がイスラエルの家とユダの家とに新しき契約を立てる日来たらん」という別の約束に基づく宗教の出現に期待する。旧約から新約への変革を言っているようであり、新約聖書においてもこの部分の引用が多い。エレミヤ書の成立は紀元前6世紀前半とされる。

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アッスリア滅亡後の4代王国地図

第1章: ベニヤミンの地アナトテの祭司であるヒルキヤの子エレミヤの言葉よりなる。ユダ王ヨシア(紀元前640年- 609年)の治世13年(紀元前627年)のときエホバの言エレミヤに臨んだ。又その言はユダ王エホヤキム(紀元前609年 - 598年)のときにも臨み、最後のユダ王ゼデキヤ(紀元前597年 - 587年)の治世の終わりにエルサレムの民の移された時までのエレミヤの言である。エホバ言う。我は汝を生む前から清めて万国の預言者となした、懼れることは無い汝と共にありて汝をすくためである。我が言を汝の口に入れ、汝を万民の上に立て、視よ汝を介してあるいは抜きあるいは毀しあるいは滅ぼしあるいは覆しあるいは建てあるいは植えしめんと。禍は北より起こりてこの地の民に及ぶ。エホバは北の国々から一族を呼び集め、その凡ての悪事のため我が裁きを告げる。彼らは我を棄て別の神に香を焚き偶像を作って拝するからである。エレミヤよ汝立って我が命を凡て伝えよ、今日ユダ王と牧伯と祭司と民の前にて、汝を堅き城の垣となさん、エレミヤに勝てる者はいない、エホバは汝と共にありて汝を救うからである。
第2章: エルサレムに住む者に告げよ、イスラエルはエホバの聖物で初めての実(創造物)である、これを侵略する者は罪にされ禍にあう。第2章は神からイスラエルへの問いかけである。「なぜ」、「どうして」、「なんと」という驚きの言葉が多い。ヤコブの王家とイスラエルの家の者よよく聞け、汝らの先祖はエホバに何の落ち度があって我から遠ざかったのか。虚なるものにすがって空しく成る勿れ。エジプトを出て曠野をさまよい汝らを導きて園のごときよき地に入れた。ここにおいても汝らは我が地を穢し祭司は我を知らず、牧者は我に叛き、預言者はバアルによりて預言した。イスラエルは我が僕か、どうして囚われ者になったのか。エジプトに頼る者、アッスリアに頼る者がいるのはなぜか、汝の神エホバを棄てたることは悪しき事かつ苦いことである。むかしから我に仕えない者は、自由に駆け巡り、創造主を忘れた。エホバ言い給えり。汝ら何ぞ我と争うや汝らは皆我に叛けりと。汝らの行動は悪しき事になれてしまった。アッスリアに辱めを受けたようにエジプトにもまた辱めを受けるだろう。
第3章: 世の話にあるように、夫は離縁して出した妻が他の人と結婚したのを見て復縁をするだろうか。そういうことをすればその地の義が汚される、しかしエホバは多くの者(異教)と姦淫を行っても汝よエホバに還れという。ヨシア王のとき背けるイスラエル人のしたことを憶えているか、高い山に上り異教を拝し姦淫を行い、我に還れと言ったが汝らは帰らなかった。同じ叛ける兄弟ユダも同じように異教と姦淫を行った。エホバは怒りの面を汝らに向けず、我は憐れみある者なり怒りを限りなく抑えると言い給えり。我は心に適う牧者を汝らに与え、汝らを万国の中で最も麗しいこの地を汝に与えんといったが、汝らはエホバを忘れるばかりであった。まことにイスラエルの救いは我らの神エホバにあり。
第4章: イスラエルよ汝もし帰らば我に帰れ、汝もし憎むべきものを我が前より取り払うなら問題はない。エホバはユダとエルサレムの人々に告げる。シオンに合図の旗を立て逃げよ留まる勿れ、北より禍と敗北をもたらすためである。今我彼らに裁きを示さん。ああ我らは禍なるかな我ら滅ぼされるべきなり。ああ我が腸よ我が腸よ、痛みは底におよび我が心轟き黙しがたき。敗滅に敗滅の知らせあり、エホバ斯く言い給えり凡てこの地は荒地にならんされど悉くはこれを滅ぼさない。邑の人よ攻めてから逃げよ森へ山へ、邑は棄てられ住む人はいない。
第5章: 汝らの中に一人でも義なる人が居るなら我はエルサレムを赦す、しかし卑しき者から貴き者もその罪多くして背反甚だし。エホバ言う、我これらの事のために彼らを罰せざるを得ず、我が心は斯くのごとき民に仇を復さざらんや。我が言葉は火となり彼らを焼き尽くすべし。汝らは我を棄て汝の地において異教に奉仕し異邦人に仕えるゆえなり。愚かにして悟りなく目あれど見えず耳あれど聞こざる民よこれを聴け、汝らの咎、汝らの罪は汝らに嘉きものをもたらさなかった。
第6章: エレミヤよエルサレムの中より遁れてラッパを吹きベテハケレスに合図を送れ、北より禍が押し寄せると。呪われたエルサレムを破壊せよ、エルサレム汝戒めを受けよ、さもなくば我が心エルサレムを離れ汝を荒れ野となし住む人なき地になさん。彼らは小さき者から大人に至るまで皆貪欲な者である。預言者から祭司にいたるまで皆偽りをなす。エホバ言い給う、汝ら古き道についてその道を歩め、我汝らの上に守望者を立て喇叭の音を聞け。しかし彼らは聞かじとしう。禍をこの民に降すのは彼らの自業自得である。北からきた大いなる民はシオンを攻める。エホバは彼ら民を棄て給うにより、彼らは棄てられた銀と呼ばれた。
第7章: エホバからエレミヤへの言葉、エホバの室に入ろうとするユダの人に向かってこう言いなさい、汝らの道と汝らの行いを改めよさらば我汝らをこの地に住ましめん。エホバの殿に往けば救われるという偽りは通用しない。エホバが憎むべきことを行いながら、我が名を称えるだけで救われるとは何事ぞ、我は聞かず答えず、エフライムの末裔のすべては棄てられた。エレミヤよ汝この民のために祈るな勿れ、彼らのために嘆くなかれ、また我にとりなす勿れ。万軍の神エホバ斯く言い給う、汝ら生贄に燔祭にものを合わせて肉を食らえ、汝らの先祖がエジプトから出でし日より我が僕なる預言者を遣わして言うが、しかし我に聞かず耳を傾けずしてその項を強くして悪をなす。シオンの娘よ汝の髪を切り之を棄て山の上より嘆きの声をあげよ。エホバ世の人を棄てて之を離れ給えばなり。
第8章: エホバ言い給う、ユダの王の骨、牧伯の骨、祭司の骨、預言者の骨、エルサレムの骨を墓より掘り出し群集の前に晒せ、糞土のごとく地面に晒せ。これら悪しき民のほかにも生きるより死ぬことを願う。何故にエルサレムに居る民は恒に我を離れて還らないのか。我が民はエホバの律法を知らないからだ。我らには知恵があるという勿れ、彼らエホバを棄てた知恵者に何の知恵があろうか。小さい時から貪欲で、預言者から祭司はウソつきではないか。彼らは憎むべき事をなして辱められるが、恥を知らない。エホバ言う、彼らをことごとく滅ぼさん。北のダンより戦馬の嘶きが聞こえ、シオンの娘(シオンは女性名詞でシオン山のこと)はいかにして慰めを得られるのか心は悩む。
第9章: ああ我洪水のように顔を涙で覆わん。我民を離れ去りゆかん、彼らは皆姦淫する者悖れる者だから。彼らは弓のごとくその舌をもって偽りを出だす。汝の住まいは偽りの中にあり、兄弟は欺きをなし隣は謗りをなす。我は山のために哭き野の牧場にために悲しむ、これらは焼かれて通る人もいないからである。彼らの先祖も彼らも知らない土地に彼らをまき散らさん、また彼らを滅ぼし尽すまでその後ろに剣を構えん。泣き女を呼び来たれ、汝らの娘に哭くことを教えその隣に哀歌を教えるべし。知恵ある者は智慧を誇るな、誇る者は明智をしてエホバを知る事と我がエホバにして恵みと公道と義を行う者を知る者なり。
第10章: エホバ言い給う。汝ら異邦人の道に倣う勿れ、その崇める者は木で造られ金銀絹で飾られているだけで、何の力もない木偶に過ぎない。エホバに比すべきものはないその名は権威によって大なり、万国の王たる者汝を畏れるのは当然である。見よ我この地に住める者を放擲せん、かつ彼らを攻め悩まして囚われ人になさん。
第11章: エホバからエレミヤに臨む言葉。この契約の言に従わない人は呪われる。汝ら我が声を聴き我汝に命じし凡てのことに従い行うなら。汝は我が民となり我は汝の神となる。我汝の祖先に乳と蜜の流れる地シオンを与えんと誓いし事を成し遂げんと。汝らの祖先をエジプトの地より導き出して以来切に彼らを戒め諫めて我が声に従えと言えど、彼らは遵わずその耳を傾けず悪しき心を頑なにして歩めり。ユダの人とエルサレムの住む者に反逆の事あり、我が言を好まないだけでなく、他の神に従いこれに仕えたり。契約を破りたるにより我禍を下さん。ゆえにエレミヤこの民に祈る勿れ、そのために哭き求むる勿れ、彼らその禍のために我を呼ぶとき我は聞かざる。我はほうむられにゆく子羊のように、彼らは罪をなす事を知らず、いざ彼らを根絶やしにせん。我彼らを罰すべし、壮丁は剣にて死なん、その子女は飢えて死なん。
第12章: 自分に対する同郷の人々の暗殺計画を知ったエレミヤは神に問いかけます。どこまでも神が正しい方であることは承知していても、「なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのか」という疑問がエレミヤの心にあり、そのことを神に尋ねています。問いかけるエレミヤに対する神の応答が理解が困難です。あなたは徒歩の人たちと走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競走できよう。あなたは平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせよう。さらなる苦難が待ち受けていることを神は語っています。自分の兄弟さえも信じてはならないという厳しいことばです。神は民であるイスラエルだけでなく、諸国民に対して「わたしの民のうちに建て上げよう」と語っていることです。これを「接ぎ木思想」と呼ばれます。結局エレミヤの質問の答えになってはいない。親鸞の「悪人正機説」に近い難解な展開です。
第13章: エホバはエレミヤに命じ、麻の帯を作らせユフラテの洞窟に隠させた。かなりの日を経てエホバはエレミヤにユフラテの洞窟に行き麻の帯を取ってこいという。エレミヤ往きて帯を見るに朽ち果てて用をなさずとエホバに報告した。そこでエホバ言う、ユダとエルサレムの驕慢は我が言を聞かず他の神に仕えてこれを拝す。この悪しき民はもはやエホバの腰に巻くことはできない。我彼らを惜しまず恵まず憐れまず。エレミヤよユダの王に伝えよ、汝の冠は地に落ちた、南の邑は閉鎖され、ユダは皆捕らえられ移された、(ユダ王国の滅亡とバビロン幽囚をいう)汝らの罪の重さにより、汝らは辱められる。エルサレムよ汝は禍なるかな、汝が潔くされるにはかなりの時間がかかるだろう。
第14章: ユダは悲しむその門は傾き地に倒れて嘆くエルサレムの叫びが上がる。エレミヤはエホバにとりなしを懇願したが、神は我らを棄て給う、汝この民のため恵みを祈る勿れ。彼らが断食をし燔祭を捧げても我これを受けじ、かえって我剣と飢饉と疫病をもて彼らを滅ぼすべし。預言者はこの民に向かって偽りを述べるが、我が目は夜も昼も彼らのために涙を流す。エレミヤはエホバに昔の契約を思い起こして許しを請う。
第15章: 神エホバのユダの民に対する絶望感は非常に深い。たとえモーセやサムエルが現れても我この民を顧みないと断言します。民に裁きに結果を示すことはあっても謝罪の声に耳を傾けることはないという。エホバ言う、われ実に汝を益せんがために汝を悩ます、我怒りによりて火燃え汝を焼かんとす。汝もし我に還るなら我が前に立たしめん、悪をすて義に戻るなら、汝を悪人の手より救い取り汝を恐るべき者の手より放つこともあろう。
第16章: エホバはエレミヤにいう、汝この地の娘と結婚するな、子女を設けるな、悲惨な将来が待っているだけだ。悲しむな嘆くな、我がこの民より恵みと憐れみを取り去ったから。ここには楽しみ喜びの声は聞こえない。民我を棄てたがゆえに我や民を棄てる、その民の罪に倍して報いる。エホバよ我らの力わが城逃れ場よ、万国の民は汝に来たり、我らの先祖の末裔はやただ偽りと空しきことと益なき事のみなり。
第17章: ユダの罪は鉄の筆で心に刻み込まれ、永遠に記憶される。高丘の上の祭壇とアシラ像を思うにつけ、汝ら我を怒らせ限りなく燃える火を起こしたのだ。心は物よりも偽る者で甚だ悪しき、これを誰か知る。エホバは汝らの心腹、腎腸を解体して調べその罪によって罰する。エホバを離れる者は辱められ、神を棄てる者は土に記される。エホバ、エレミヤに命じて言う、汝エルサレムに行き門に立ってユダの王と民に呼びかけよ、安息日にエルサレムの門に入る勿れ、安息日を聖くせよと、。しかし彼らは従わず耳を傾けずまた項を強くして聞かず戒めを受けず。
第18章: 陶工は轆轤で土から物を作るが、作り損ねた時は思うままに作り直すことができる。エホバは出来が悪かったといって急に民を抜いて毀したりはできない。もし彼らが悪の道から離れるならばこれを滅ぼそうとしたことを悔いるだろう。しかし彼らは自分の思うところに従い悪しき行いを止めない。われ東風のように彼らをその敵の前に散らす。彼らはエレミヤを謀をもって非難した。さらに悪をもって善に報いるに、穴を掘ってエレミヤを殺そうとした。エホバよ彼らを赦すなく汝の前より消し去り給え。
第19章: エホバはエレミヤに陶工から徳利を買ってベンヒンノムにゆきエホバの言を伝えよという、この地は民が我を棄てたところ、バアルの神を拝み自分の子を犠牲にして燔祭に捧げたところ、これはエホバの道ではない。我はこの地において民の生命を敵に渡す。後には屠戮の谷と言われるだろう。そしてエレミヤは徳利を毀して一度壊せば元には戻らないと述べた。人も同じだ。彼らはトベテに葬むられる。こう言ってエレミヤはトベテから戻り、民に諸々の禍が諸々の邑に降されんエホバの言葉を聞かなかったためであると預言した。
第20章: その集会で祭司インメルの子エホバの家の宰であるパシュエルはこの預言を聞いて、エレミヤを打ちベニヤミンの門の足枷に繋いだ。翌朝エレミヤは釈放されたが、パシュエルのことをマゴルミッサビブ(懼れは周りにありという意味)と呼んだ。ユダの民は敵の剣で殺され、すべての民はバビロンに移し殺されるだろう。パシュエルよ汝の家の者もすべて捉えられ移されるだろう。汝はバビロンで殺されると。こうしてエレミヤはエホバの激しき言葉を預言する度に我が身の辱めにあい嘲りにあったが、エホバよわが辱めの報いを彼らに施し給え。
第21章: ユダ王国最後の王ゼデキヤはパシェルと祭司マアセヤの子ゼパニヤをエレミヤに遣わして、バビロン王ネブカドネザルがユダを攻めたとき、エホバに我らの勝利を請うようエレミヤに依頼した。それに対してエホバの言葉があった。エレミヤはエホバの言葉を王ゼデキヤに伝えた。邑を囲んでいるバビロンと戦って、武器を集めて降伏すること、そしてエホバの激しい怒りと憤りによってこの村の民は疫病と剣と飢饉で大多数は死に、残った者はバビロン王の手に渡すという。我はこの邑を救うのではなく禍を与える。またユダの王家に告げる、ダビデの家よ奪われるものを助け義を行え、さもなくば我敵となり汝らをその行いの結果によって罰する。「歴代志略 下」の第36章にユダ王国滅亡を書いた。ヨシアの子エホアハズが父に代わって王となった。彼は23歳で王になりエルサレムで3か月間王であった。エジプト王の介入があり、エホアハズ王を解任し、罰金を課した。エジプト王はエホアハズの兄弟エホヤキムを王となして、エホアハズを捕えてエジプトへ連行した。エホヤキムは25歳の時王となり11年間エルサレムを治めた。かれはエホバの神の悪とみることを行った。そこへバビロンの王ネプカドネザルが攻め上がり彼を捕えて枷をかけて引き連れていった。またエホバの家の財宝をバビロンに持ち帰り宮に収めた。エホヤキムに代わりエホヤキンが王となったが、8歳で王になり3か月世を治めた。王ネプカドネザルはエホヤキンを捕えてバビロンに連行し、その後ゼデキアを王に代えた。ゼデキアは21歳の時王となり、11年間世を治めた。彼はエホバにとって悪をなし再びエホバに帰ることは無かった。ゼデキア王はバビロンに叛いたので、カルデア人は聖所を侵し老若男女をことごとく殺し、財宝を略奪した。そして宮殿を焼きエルサレムを破壊しつくした。殺されなかった人はバビロンに囚われ行きその国の僕となった。これを「バビロンの幽囚」という。ペルシャの国が興るまでの70年間その地は荒れ放題に放置された。
第22章: エホバはエレミヤにユダ王家に行き次の言葉を伝えよと命じた。(前章と重複)汝ら公道と公義を行い物を奪われる人を助けよ、異邦人と孤児と寡婦を虐げてはならない、この地で罪なき人の血を流してはいけない。もしこれができないならこの地と王宮は荒れ野原になる。なぜこの邑エルサレムがかくなったのかと問われれば、かれらがエホバの契約を破り他の神を拝し仕えたからだと言え。死者のために嘆くなかれ、むしろ囚われ人にために嘆け。エジプトに囚われた王エホアハズ(シャルム)は彼の地で亡くなりふたたびこの地に帰ることは無かった。ユダ王エホヤキムはバビロンに連行された。エホバは王エホヤキムについて、彼はロバのように埋められて殺されエルサレムの門の外に投げ捨てられた。ゼデキア王(エコニヤ)をバビロン王ネプカドネザルの手とカルデア人の手に渡すだろう。かの地で死ぬべし。その子孫の内から再びダビデの位に坐す人は出ないであろう。
第23章: エホバ言い給う、ああ我が養う群れを滅ぼし散らす牧者(ユダの王ら)は禍なるかなと。汝らの悪しき行いによりて汝らに報いるべし。われ遺りし者を追い払った地から集め元へ還す、そして彼らを養う牧者を新たに立てん。彼らは懼れずまた失せないと。視よダビデに一つの義しい枝を起こす日が来るだろう。その日ユダの民は増えイスラエルは安きに居る。預言者と祭司は皆邪悪でエホバの家の中においてさえ彼らの悪行は絶えなかった。サマリアの預言者は愚かにもバアルによって預言し我がイスラエルを迷わせた。エホバ言い給う、汝らに預言する予言者の言葉を聞くなかれ、彼らはエホバの口からでない自分の心を語っているのである。偽りを預言する予言者は夢を語るが、我が言葉を受けし者は誠実をもって我が言を語るべし。エホバの重荷は汝ら預言者を棄て一掃することである。
第24章: バビロンの王ネブカデネザルはユダの王エホヤキムの子エコニヤおよびユダの牧伯と職人集団をバビロンに移住させた。エホバは神殿の前に2つの無花果の籠を示し、片方には佳き熟した無花果があり、一方には腐って食えそうにない無花果がある。エホバはエレミヤにいう、バビロンの囚われ者に恵みをかけ、この地に還して彼らを立てるが、ユダ王ゼデキヤとその牧伯たち、およびエルサレムに残った者、およびエジプトに住む者は腐った者であり彼らは棄てるという。彼らは虐げと禍に遭い、辱め、嘲り、呪いを受けるだろう。
第25章: ユダ王エホヤキムの4年エレミヤにエホバの言が臨んだ。預言者エレミヤはこの言葉をエルサレムの民に告げた。エレミヤはユダ王ヨシアの13年以来今日まで33年間エホバの言葉を伝え続けてきたが、汝らはこれに耳を傾けなかった。エホバは我が言を聞かないなら北の諸族とバビロン王を招き入れこの国を攻め滅ぼさせる。この地は荒地となり70年間バビロンの王に仕えるべしと。70年後我はバビロン王とカルデアの地をその罪によって罰し永遠の荒れ野にせんと。その時エレミヤの書き録した預言が本書である。諸国の王よ、エホバの怒りの杯をのめ、エルサレムとユダのすべての邑の王と牧伯と民、エジプト王、ペリシテ人の諸王、アラビアの諸王、ジムリの諸王、メデアのすべての王たちはこの杯を呑まん。地球上の叫びの声が地の極まで聞こえるのはエホバが列国と万人を裁き悪人を剣にかけるからである。牧者よ泣き叫べ群れの長らよ灰の中に転ぶべし、それは汝らの滅びの日が来たからである。
第26章: ユダ王エホヤキムの初年のエホバの言葉である。エホバの家の庭に来る人に向かって次のことを述べよ、教えを聞いて悪しき道から離れることがあるなら、神の禍の手を反省することもあるが、汝らは我に聞かず、預言者エレミヤの言を聞かないからこの邑を呪われた者とすると。民は皆エホバの家にきてエレミヤを攻撃した。祭司と預言者と牧伯は民に訴え、エレミヤを殺せという。エレミヤはエホバの義、言葉を叫ぶが聞く人はいない。かってヒビキヤ王のとき預言者ミカが正しく預言した。また預言者ウリアも預言したがエホヤキム王は迫害しエジプトに逃げたウリアを捕まえ王の前で殺し死体を卑しき者の墓に棄てた。このとき預言者シャパンの子アヒカムはエレミヤを助けて逃がした。
第27章: ユダ王エホヤキムの初年のエホバの言葉である。エレミヤに縄と軛を作りユダ王ヒビキヤの家臣に持参し、エドム王、モアブ王、アンモン王、ツロ王、シドン王に使節を送り、縄と軛をプレゼントしてバビロン王ネブカデネザルの侵攻を受け降伏し、王の首に縄と軛をつけろと言わしめろと。(こんな自虐ネタを王の前で言えば即時殺されることは自明、エホバは狂ったかたとえ話に過ぎない。そのまま信じる必要はない)そしてエレミヤはゼデキヤ王に告げて無条件降伏を勧めた。王の周辺で猛然と反対論、積極的抵抗論が起きるのは当然であるが、エホバはバビロン王に仕えた者は生き延びることができ、エホバは帰還できる日まで彼らを保護するという。
第28章: 王ゼデキヤ即位の年、ギベオンの預言者ハナニアはエホバの家にて民に向かって預言を述べた。彼が言うには、2年のうちにバビロン王の軛を打ち砕き、バビロン王が奪った財宝を取り戻すことができる。これに対しエレミヤはハナニアに向かって、そうなれば大変喜ばしいことであるが、昔より戦闘と災難と疫病のことを預言したエレミヤは論争に敗北して去った。エホバはさらにエレミヤに臨んでバビロン王の征服をいい、ハナニアの預言はエホバの言葉ではない、汝が言う預言は偽りだとして汝は今年に死ぬと宣告した。
第29章: エレミヤはエホバの言葉を記した書をエルサレムに残った長老祭司預言者エラサ、ゲマリヤに送った。その書には、我エルサレムからバビロンに移された者にいう、汝らその地において畑仕事に精を出し妻を娶り子女を生み族を増やせそしてエホバに祈れ、決して預言者と占い師に惑わされるな、バビロンにおいて70年たてば我汝らをエルサレムに還す。我汝を囚われを解き放ち万国より散らされた民を集め、汝らを率いて帰らん。ところがバビロンにおいてエホバは預言者を立てられたという偽りに因りて、諸々の預言者が出て汝らを迷わすだろう。バビロンの囚われ人よエホバの言を聞け、我が名を以て預言するアハブ、ゼデキヤ、シマヤは罰して殺す。
第30章: エホバはエレミヤにいう、我が言いし言葉をことごとく書に記せ、イスラエルとユダの囚われ人が先祖の地に還る日がくる、この地を守れ。我汝を救わん、たとえ我汝を散らした国をことごとく滅ぼすとしても汝は滅ぼさない。しかしエホバの道をもって汝を懲らしめる、汝の傷は癒えず。汝の咎の多さと罪の数によって我汝を懲らしめるのである。我汝に膏薬を貼り汝の傷を医やす。ヤコブの天幕と集会の場は我堅く守らん、虐げる者は罰する。命を懸けて我に近づく者は我が民であり我は汝らの神とならん。
第31章: (エホバの言葉続く)剣を逃れて遺りし民は曠野のなかに恵みを得た。我行きてイスラエルに安息日を与えん。限り無き愛をもって汝を愛する故に我絶えず汝を恵むなり。汝らヤコブのためエホバのため叫べ、彼らは大なる群れをなしてここに還らんとす。嘆き悲しみいたく憂うる声がラマに聞こえる。汝ら叫ぶな泣くな、後の日に望みあり、子らも還らん。エフライムは我が愛するところ、子悦ぶところ、エフライムのことを思うたびに断腸の思い、我必ず彼を憐れむ。われ人の種と獣の種をイスラエルとユダの家に播く。視よ我がイスラエルとユダの家に新しい契約を立てる日がくる。われ我が律法を彼らの内に置きその心の上に記す。この邑をハナネルの塔から隅から隅までエホバのために建てる日がくるだろう。
第32章: ユダ王ゼデキヤの10年、バビロニアの軍勢エルサレムを囲み、エレミヤは王ゼデキヤによって獄に繋がれた。王ゼデキヤがバビロンに連行されてバビロンに移された。ここにエレミヤの伯父ハナメルがやってきてベニヤミンのアナトにある土地田畑を買ってこれを嗣げという。銀17シケルを与え買い手形を作成して封印し、証人を立てた。エホバが言うようにこの手形をバルクに与え長く保全するよう指示した。カルデア人の手に落ちた土地を買うということは、それはシオンの地にイスラエル人が帰ってきて生活を再開することができるというエホバの確約がなければできない事であった。この邑は建設された日より今日までエホバの怒りを招きエホバはこれを除くとした土地である。かれらは教えを聞かずバアルの祭壇を高きところに築いたがゆえに我が怒りと憤りをもって敵の手に渡した。しかし我彼らを棄てず恩を施すべしという永遠の契約を立てた。エホバは囚われ者を帰らしめるという。
第33章: エレミヤが王ゼデキヤによって獄に繋がれていた時、エホバがエレミヤに臨んでいった言は、我に知らない事を聞け、カルデア人によって毀された邑とエホバの室には、我が怒りと憤りにより殺す人々の屍が満ちているが、我囚われ人を帰らしめ彼を活かし一切の罪を清めて従前の様に戻す。荒れて人も獣もいないところを牧場に変え邑の産業生活の場を復興し、我イスラエルの家とユダの家と新たな関係を結ぶ。そうすれば王位の継承も欠けることは無い。しかし契約を破るときには容赦はない、我は嫉妬深い妬み深い神だから。もし契約ができない場合、我はダビデとヤコブの末裔を棄て、ふたたびその一族から王を出すことは無い。
第34章: バビロンの王ネブカデネザルが全軍を率いてエルサレムおよび村々を攻めた時、エホバがエレミヤに臨んでいった言は、エレミヤよ汝ユダ王ゼデキヤに告げて言え、われエルサレムをバビロン王の手に渡しこれを焼かんと、汝王よ必ず捕えられてだろう。しかし汝王よ剣で殺されることは無い、汝は安らかに死ぬ、だから民は汝のために香を焚くだろう。エレミヤがこの言葉を王ゼデキヤに伝えた時には、バビロンの軍勢はエルサレム、ラキン、デキヤを攻めて戦っていた。王ゼデキヤはへブル人の奴隷釈放を言い出したが、もともと奴隷契約は7年を限度としていたがエホバの法を守らずかってに延長した。王と牧伯はへブル人を釈放してユダヤ人が奴隷にならない契約をしたが牧伯は旧に戻した。朝令暮改の典型であった。エホバは、我に相談もなしに釈放のことを決めたが、かえって彼らを剣と飢饉と疫病の手に渡すようなものとなった。こんなちぐはぐな政策で民を苦しめる王と牧伯を敵の手に渡すとエホバは言った。
第35章: ユダ王エホヤキムのときエレミヤにエホバの言葉があった。エホバはエレミヤの一族であるレカブ人ヨナダムの末裔を立てた理由を説明する。レカブ人の先祖ヨナダムは酒を飲まず、家を建てず幕屋にいる、葡萄園を植えずという家訓を子孫に残し、今でもその戒めは堅く守られている。レカブ人はバビロン王の圧迫から遁れエルサレムに逃げてきた一族である。エレミヤの息子ヤザニヤの家族とレカブ人の家をエホバの室に呼び集め、神の子としてこれを祝した。しかるにユダとイスラエルはおのおの悪しき道を離れて還り、行いを改めて他の神からに仕えることをしなければ汝らは約束したこの地ですむことができるのに、汝らは耳を傾けずエホバのいうことを聞かなかった。ゆえにこれらの民には禍を下さん。
第36章: ユダ王エホヤキムの4年にエホバの言葉がエレミヤに臨んだ。汝はヨシヤ王の日から今日に至るまでイスラエルとユダのことについてエホバが語った言葉を記録して書にするようにという。そこでエレミヤはネリヤの子バルクを書記として口述内容を巻物に記した。エレミヤは王によって禁錮されているのでエホバの室にゆくことができない、そこでバルクがこの書を読んで民に聞かせた。ユダ王エホヤキムの5年に全ての民に断食を宣布した。そしてエホバの室の前にてバルクはその書を民に読み聞かせた。この書のことを聞いた祭司たち、ミカヤ、エリシマヤ、デラヤおよび牧伯らはエホデをバルクに派遣し、バルクにこの書を持ってきて読めと伝えた。祭司と牧伯はバルクの読み上げるのを聞いて、エレミヤとバルクの身を心配し、在所を隠せと言った。そして王エホヤキムにこの書を報告した。使者エホデを遣わしてこの書を取りてきてエホデがこの書を王の前で読んだ。怒った王はナイフでこの書を切り裂き、暖炉に投げ込んで焚いた。そしてエレミヤとバルクを逮捕せよと家臣に命じた。エホバはこれを聴いて王にはダビデの位に坐す資格はない、その屍は棄てられんといった。そしてエレミヤは他の巻をとってバルクに与え読み継がれることになった。
第37章: ヨシヤのゼデキヤ、エホヤキムに代わってユダ王となる。これはバビロン王の指示である。彼も家臣もエホバの言葉を聞かなかった。ゼデキヤ王祭司ユカル、ゼパニヤを預言者エレミヤに遣わし、我らのためにエホバに祈れと伝えた。エジプトより軍勢が来たので、エルサレムを包囲するガルデヤ勢はエルサレムを去った。このときエホバの言葉がエレミヤに臨んだ。ユダ王に言え、エジプト勢が引き上げたときカルデヤの軍勢は再びエルサレムを攻め込むであろう。カルデヤ勢はエルサレムを離れるが彼らは去ったわけではない。彼らは火をもってエルサレムを焼くであろう。エレミヤがエルサレムからベニヤミンの門に至った時、門守はエレミヤをカルデヤ人に降伏するつもりだと知ってエレミヤを捕え書記ヨナタンの室の獄に入れた。ゼデキヤ王はエレミヤを牢より出してエホバの言を教えろという。エレミヤは汝はバビロン王の手に渡されると預言した。ヨナタンの獄では殺されるとおもったエレミヤは王に頼んで王の獄の庭に移された。毎日パン一切れを与えられた。
第38章: シバヤテ、ゲダリア、パシュル、ユカルはエレミヤの預言を聞いた。この邑に留まる者は剣と飢饉と疫病で死ぬ運命にある。しかし出てカルデヤ人に降る者は生き延びる。この邑はカルデヤ人に焼かれると。これを聴いた牧伯たちが王にエレミヤを殺せと迫った。ゼデキヤ王はお好きなようにというので、牧伯らはエレミヤをマルキヤの穴に投げ入れた。しかしそこには水はなくエレミヤは泥に沈んだ。王の寺人エチオピア人エベデメレクは王に進言しエレミヤを死なぬうちに引き上げるべきだといった。エベデメレクはエレミヤを引き上げ獄の庭に置いた。ゼデキヤ王はエレミヤをエホバの室の第三の門に置いて、隠さず質問に答えよといった。エレミヤは私が何かを言えば王は私を殺すでしょう、私が何を言っても王は聞かないからですといって拒否した。ゼデキヤ王は命は保証するというので、エレミヤはエホバの言葉を話した。汝もしバビロン王に降るなら生きられるしエルサレムも焼かれない。反抗するならエルサレムは焼かれカルデヤ人の手に渡される。汝の王室の夫人たちはバビロン人の前に引き出され、汝も囚われ人になる。エレミヤはエルサレムが陥落するまで獄の庭にいた。
第39章: ユダ王ゼデキヤの9年10月、バビロン王ネブカデネザルが全軍を率いてエルサレムを攻め囲んだ、そして11年4月ついにエルサレムは敗れ、バビロン王の牧伯たちは城の中の門に入った。これを見て王ゼデキヤは城を脱出しアラバの方に行ったが、カルデヤの軍勢はこれを追いエリコで王ゼデキヤを捕えた。バビロン王の居るハマテのリブラに王を連行し軍事裁判で王ゼデキヤの罪を定めた。バビロン王の前で王ゼデキヤの諸子を殺害し、すべての牧伯を殺害し、バビロン王の眼をくりぬいてバビロンに連行した。王の室を焼き払い、エルサレムの石垣を壊し、武士団長ネブザラダンは投降した者や城内に残った民をバビロンに移した。財産のない貧民はユダの地に捨て置いた。バビロン王ネブカデネザルはエレミヤについて保護するよう指示した。エレミヤはシャパンの子孫であるゲダリヤに預けられた。このときエホバの言葉がエレミヤに臨み、このユダの惨事のことをエチオピアのエペデメレクに伝えよ、エホバは汝を守る、汝は殺されないと。
第40章: 武士団長ネブザラダンはエレミヤを鎖をほどき、バビロン行きたければついて来るがいい我汝を善くあしらう、もしバビロンに行きたくなければこの地に留まれといった。シャパンの子孫ゲダリアのもとに帰り民と一緒にいるもよし汝の好むところへ行くもよしと。そこでエレミヤはミズバに行きゲダリヤと残された民と一緒に住むことになった。バビロン王はゲダリヤを立てこの地の有司にし貧しい人々を預けた。ゲダリヤは貧しき民にバビロン王に仕えることを恐れるな、平和に住むことができると述べた。するとモアブ、アンモン、エドムと諸々の国に散ったユダヤ人はゲダリヤの話を聞いて次第にゲダリヤのもとに集まってくるようになった。カレヤの子ヨハナンがゲダリヤのもとにきて言うには、アンモン人の王バアリスが汝を殺さんとイシマエルを派遣したことを知っているかと、逆にイシマエルを殺すべしといった。しかしゲダリヤはヨハナンの話は嘘だといって取り合わなかった。
第41章: 王ゼデキヤの血筋にあたるネタニアの子イシマエルが王の牧伯ら10人を連れてゲダリアと食事をなしたが、イシマエルはこの地の有司ゲダリアを剣で殺した。この殺人の話を誰も知らない2日後、シケム、サマリアより80人がエホバの室に参拝にやってきた。彼らがゲダリアの家に入ろうとしたときイシマエルは彼らのうち50人を殺しにして穴に投げ込んだ。イシマエルはこの地に遺されたユダ人を虜にしアンモン人に連行した。カレヤの子ヨハナンがイシマエルらの悪事を聞き、兵卒を集めイシマエルとギベオンの池で対決した。俘虜となった遺された人々はヨハナンのもとへ逃げてきたので、彼らを取り返したのちベテレヘムのキムハムの住まいに留まった。
第42章: ここに軍勢の長ら、ヨハナン、エザニアそして遺された民は集まって預言者エレミヤのもとにやってきて、遺された民のためにエホバに祈ってほしいと懇願した。エレミヤこれに応じて、10日後エホバの言葉がエレミヤに臨んだ。汝らは罪を悔いているのでこの地に留まるならば我は汝らを立てる。我彼の手が汝らに及ばないよう救い故郷に戻すと、バビロンの王を懼れる勿れ、イシマエルを畏れる勿れ。しかしエジプトに逃げてはいけない、エジプトで汝らに剣、飢饉、死が襲う。エジプトへ移住するなど恥かしいことをしてはいけない、神の怒りが灌がれる。ユダの遺れる者たちよ我汝らに就く、エジプトへ行く勿れ。
第43章: エレミヤはエホバの言葉を悉く伝え終わったとき、アザリヤ、ヨハナンはこう反論した。エホバはエジプトへ行く勿れと言ったのは本当か、エレミヤの書記バルクに唆されてカルデア人の手に渡すつもりではないかとエレミヤに詰問した。軍勢の長とヨハナンはエホバの声に従わずユダの地を離れ、遺されたユダの人々、預言者エレミヤ、バルクを連れてエジプトのタバネスに移動した。エホバの声がエレミヤに臨んで言う、パロの室の入り口で彼らに言え、我バビロン王をエジプトに侵攻させ、彼はエジプトを撃ち移住したユダ人を剣で殺し捕えるであろう、エジプトの諸神の室を焼くであろう。エジプトの地を去るべし。
第44章: エジプトのミグドル、タパネス、ノフ、パテロスの地に住んでいる遺されたユダヤ人についてエホバの言葉がエレミヤに降りた。汝の先祖たちが我が言うことを守らず他の神を奉り悪事ばかり行うので、イスラエルとユダの地は荒野になった。同じことがエジプトのユダヤ人がエジプトの地において他の神に香を焚き己の身を滅ぼし万国の中で呪いとなり辱めとなろうとするのか。万軍のエホバ我面を汝らに向けてユダの人悉く絶つ。我エルサレムを罰したように剣と飢饉をもってエジプトに住むユダヤ人を罰すべし。一人の逃げて還れる者はいない。エジプトのユダヤ人らはエレミヤに抗弁した。異教を奉じている時の方が生活は良かったし禍もなかった。エレミヤすべての衆に向かって、エジプトに入るユダヤ人よ聴け、幸いは来ない、剣と飢饉に滅んで絶滅するに至る。エホバは王ゼデキヤをバビロン王に手渡したように、エジプト王パロホフラをその敵に渡さんと。
第45章: 書記バルクがエレミヤの語ることを書に記した時、エホバがエレミヤに言う、エホバがバルクについて次のように言いその労をねぎらったと、嘆いて疲れ安くなったというが、バルクよ己のために大なることを求める勿れ、視よ我すべての民に禍を下さん、しかし汝の命はどこに行っても汝のものである。
第46章: エジプト王パロネコの軍勢はエチオピア人、ブテ人、ルデ人を従え、ユフラテ河のほとりのカルケミに侵攻した。王パロネコはかってバビロン王ネブカデネザルに敗れている。バビロン王ネブカデネザルがやってきてエジプトの地を攻撃した。エホバはエジプト王パロとそれに頼む者たちはバビロンの手に渡されると言った。しかしヤコブの末裔よ我汝とともにあり悉くは滅ばさないという。
第47章: 海洋民族ペリシテ人について、エホバの言葉がエレミヤに臨んだ。ツロ、シドン、カフトル、アシケロンの地にあるペリシテ人は悉く滅ぼされると。
第48章: モアブの神に関するエホバの言葉である。モアブは、古代イスラエルの東に隣接した地域の古代の地名であり、死海の東岸、アルノン川の高原地帯に広がる地域を指す。旧約聖書によれば、ロトとロトの長女との間に生まれた息子モアブに由来し、その子孫がモアブ人となってエミム人を打ち払ってその地域に定住したとされている。 イスラエル人と子アブ人は仲が悪い。モアブの滅亡近づけり、その禍速やかに至る。モアブの高ぶりを聞け、その言の空しさを知る彼らは偽りを行う。ああモアブは亡びたり、彼らは叫ぶ、ああモアブは恥じて面を背けたりモアブはその四囲の笑い種となり懼れとなった。ああ禍なるかなケモシの民は亡びたり。破壊された邑の名前が墓碑銘のように並べられ哀悼が述べられる。ネボ、キリアタイム、ミスカブ、ヘシボシ、マデメン、ホロナイム、ケモシ、アロエル、デボン、アルノン、ホロン、ヤハズ、メバアテ、ベテデブラタイム、ベテガムル、ベテメオン、ケリオテ、ボズラ、シブマ、ヤゼル、エグラテシリシヤ、エレハレ、ケリオテなどである。
第49章: アンモン人についてエホバの言葉である。アモン人は聖書ではモアブ人の兄弟民族であり、先祖がロトであることからアブラハムの子孫であるイスラエルとは従兄弟に当たる民族とされている。ヨルダン川東岸のギレアデ地方に国家を築いており、イスラエルとは敵対的関係にあった。後にダビデ王に依り征服されイスラエルの属国となり、ユダヤ人に吸収される。その首都はラバであった。イスラエルとアンモンは世継ぎを出す関係にあり、アンモンの王ガドの跡を継ぐ者イスラエル王家の者もいなくなったことを嘆いた。戦の叫びがラバに聞こえる。ラバは荒れ塚になり民は焼かれる、ヘシボシよ叫べアイは滅んだ。マルカムの祭司らは囚われ移された。
エドムのことについてのエホバの言葉。エドム人は古代パレスチナに居住したセム系民族。エドムはアカバ湾から死海にかけての地名であった。聖書ではエドム人はイスラエルの兄弟民族であり、ヤコブの兄エサウの子孫とされ、一度の食事で家督の権を逸した。(創世記25章29〜34節)モアブの南に拠点を張り、後にダビデ王の代になってイスラエルに朝貢しその属国になったと記されている。テマンには知恵ある者は尽き果てた。デダンに住む者よ逃げよ隠れよ、エサウの滅亡はまじかであり、彼を罰する時が来た。ボズラは驚きと辱めをうけ荒地になる。ソドムとゴモラは隣の邑が滅んだようにそこに住む人はいなくなる。
ダマスコのこと。ダマスカスはシリアの首都。ダマスクスとも表記される。日本語の聖書の慣行ではダマスコと表記する。「世界一古くから人が住み続けている都市」として知られる。ハマテとアルパデは恥じ悪しき訪れを聞く。彼らは生き心地なく恐怖に慄く。ダマスコは弱り逃げようとして憂う。兵卒は悉く仆れ、ダマスコは焼かれベネハダテの宮殿は悉く焼かれる。
ケダルとハゾルの諸国の事。ケダルはイシュマエルの次男で、ハゾルはカナンの先住民の国です。ケダルは放牧民族で、天幕を張って移り住む生活をしていました。そのような民族でさえ、今回のバビロニアの侵略の対象になると預言されているのです。ケダルはアラビヤ人の始祖とされいる。モアブ、アモン、エラムについては回復されると明言しています。イスラエル12部族に加えて、ロトとエサウの子孫には主のあわれみが注がれる結果になっています。
エラムのことについて。エラムは古代オリエントで栄えた国家の名。紀元前3200年頃から紀元前539年までの間、複数の古代世界の列強国を出現させた。エラムと呼ばれたのは、メソポタミアの東、イラン高原南西部のザグロス山脈沿いの地域である旧約聖書の時代には、紀元前1100年のネブカドネザル1世の侵攻があり、紀元前539年にアケメネス朝の支配下に入って消滅する。
第50章: バビロンとガルデア人についてエホバの言葉。カルデアはメソポタミア南東部に広がる沼沢地域の歴史的呼称である。紀元前10世紀以降にこの地に移り住んだセム系遊牧民の諸部族はカルデア人と呼ばれるようになった。カルデア人は紀元前7世紀に新バビロニア王国を建国した。バビロニアがアケメネス朝ペルシアの支配を受ける前のバビロニアの支配階級であった。カルデア人が定住した地域はバビロニア南部にあり、主にユーフラテス川の東岸沿いにあった。エレミヤ書の50章と51章で「バビロンの滅亡」を預言します。諸国の民がバビロンによってことごとく破壊され、人々の多くを捕囚としたバビロンが北から来る民(ペルシャ)によって滅ぼされた。バビロン王の野心はイザヤ書に書かれています。バビロンの王の野心は、自己神格化しようと心の中で計画したことです。主の一切の権威を認めようとはせず、自分が神の地位(座)に置いて、あらゆるものが自分を拝むことを求める支配者となる野心です。これが「高ぶり」である。それがエホバに対する罪となり滅びの原因であるという。バビロンは取られベルは辱められメロダクは砕かれその像は砕かれる。それは北の国より之を攻め入り荒れ野にするからである。その時イスラエルの子孫帰り来、ユダの子孫も帰り来たる。彼はシオンに向かって永遠に忘れることなき契約を持ってエホバに依るべし。イスラエルは散らされた羊にして獅子これを食らい、初めにアッスリアの王これを取り後にバビロンの王ネプカドネザルその骨を砕けり。バビロンが仆れる時、イスラエルの咎を尋ねる人はいない、またユダの咎を尋ねる人もいない、それは我が残存する者を赦すからである。射者をバビロンに集めよ、それはエホバに向かって高ぶるからである。高ぶる者よ我汝の敵となる汝を罰するとき来たれり。視よ北の方より民来るらん、大いなる国と多くの王たち立ち上がれ。
第51章: メディア王国(紀元前715年頃 - 紀元前550年頃)は、現在のイラン北西部を中心に広がっていたメディア人の王国である。首都はエクバタナ。アッシリアが紀元前612年頃崩壊し、その後影響力を拡大したエジプト、リュディア、新バビロニア(カルデア)とともに当時の大国となった。アッシリアを滅ぼした後しばらくの間強勢を誇ったが、前550年頃属国だったアケメネス朝のキュロス2世によって滅ぼされた。エホバ、バビロンを攻めんと謀り之を滅ぼさんとする。メデア人の王たちの心を激発し、エホバの復讐戦が始まった。アララテ、ミンニ、アシケナズの諸国を集め、メデア人の王と牧伯とその督宰者及び民を集めてバビロンを攻めた。シオンに住める者我が受けし虐待の復讐はバビロンにかかった。セシャクを取り、ベルを罰し囚われ人を解き放った。剣を逃れたる人往け止まる勿れ、エホバを憶えエルサレムを汝の心に置くべし。バビロンに叫び起こりカルデア人の地に大きな敗北があった。バビロンの石垣は悉く毀垂れ、高き門は火に焼かれた、この民の労苦は徒になった。これはユダ王ゼデキヤとともにバビロンに移された侍従長セラヤにエレミヤが語った預言であった。
第52章: 「歴代志略 下 」第36章に同じ内容の記載がある。ゼデキアは21歳の時王となり、11年間世を治めた。彼はエホバにとって悪をなし再びエホバに帰ることは無かった。ゼデキア王はバビロンに叛いたので、カルデア人は聖所を侵し老若男女をことごとく殺し、財宝を略奪した。そして宮殿を焼きエルサレムを破壊しつくした。殺されなかった人はバビロンに囚われ行きその国の僕となった。これを「バビロンの幽囚」という。ペルシャの国が興るまでの70年間その地は荒れ放題に放置された。 「列王記略 下」第25章にも関連記事がある。ゼデキア王の9年10月10日バビロンの王ネプカデネザルがエルサレムに攻めあがった。包囲されて2年間はユダのゼデキア王と軍と民は飢餓線上にあったが、兵が逃亡を始めカルデア人がゼデキア王を捕えゼデキアの子らを眼の間で殺し、ゼデキア王の両眼を潰して鎖につないでバビロンに連行した。ゼデキア王の19年、バビロン王の親衛隊長ネプザラダンがエルサレムに入り、一切の建築物を毀し邑の石垣を崩した。邑に残っていた民を捕えて連行した。カルデア人はエホバの家にあった銅の器等の財宝神器を奪い去った。祭司長セラヤ、ゼパニア、軍関係役人ら60人を捕えバビロンに連行し撃ち殺した。ネプカデネザ王が連行した民は、第7年に3223人、18年に832人、23年に745人、総数4600人であった。バビロンの王ネプカデネザルはこの地に留まらせた民の監督として書記官シャパンの子であるゲダリアを立てた。ここで王の血統にあたるイシマエルら10数名が反乱を起こし、ゲダリアやカルデア人を撃ち殺し、エジプトへ逃亡した。

3) エレミヤ哀歌

ギリシャ約では単に「哀歌」となっているが、「エレミヤ」を冠して「エレミヤ記」の次に配置される。しかしエレミヤの言葉ではなく、5章とも別々の作者によるものとされ、韻文としての技巧が凝らされている。アッスリアによるエルサレム占領以後の民の極度の窮状を余すところなくえがいた詩篇集である。
第1章: ああ哀しいかな、昔は人の満ち満ちたたりしこの都邑、いまは凄しき様にて坐し寡婦のごとくになりぬ。ああもろもろの民にて大なりし者、いまはかえって貢を入れる者となりぬ。彼夜もすがら痛く泣き悲しみて涙面に流る。シオンの道は節会に上りくる者無きがために哀しみ、その門は悉く荒れ、その祭司は嘆き、その処女は憂え、シオンもまた自ら苦しむ。その咎の多さによってエホバこれを悩ませるなり。エルサレムは甚だしく罪を起こしたれば穢れた者のごとくになれり。エホバよ我が艱難をかヘリみ給え、敵は勝ち誇れり。民は皆嘆きて食物を求め、その命を支えんがために財宝をを食に代えたり。エホバその烈しき怒りの日に我を悩まして降し給えるこの憂苦に等しき憂苦また世にあるべきや。我が咎の軛は主の御手により結ばれ我が首に乗れり、これは我が力を衰えしむ。主は勇士をことごとく除きわれを攻め、我が若き人を撃ち滅ぼし給えり。主酒桶を踏む如くユダの処女を踏みつけたり。シオンは手を伸べれども誰もこれを慰める者なし。エホバよ顧み給え、我は悩みており我が腸わきかえり我が心わが内にて顛倒す。我が敵は我が艱難を聞き及び、汝のこれをなし給いしを喜ぶ。エホバよ願わくば彼らも罰したまえ。
第2章: ああエホバよその怒りの日に己の足台を心に留め給わず、ヤコブの王家の住居を呑みつくして哀れまず、怒りによってユダの砦を毀しこれを地に倒し、その国と牧伯を辱め、四面を焼き尽くす燃える日のごとくコブを焼き、すべての貴人を滅ぼしシオン(女性名詞)の幕屋を火で焼き尽くされた。エホバ節会と安息日をシオンに忘れさせ、怒りによって王と祭司を賤しめ棄て給う。シオンの長老たちは地に座りて沈黙し、首に灰をかむり身に麻をまとう。わが目は涙のために潰れ、わが腸は沸き返り、わが肝は地にまみれる。シオンよ汝の破れは海のごとく大なり、ああ誰か能く汝を癒さん。汝の預言者は空しきことと愚かなる事を預言し、汝の不義を明らかにすることは無かった。エホバはその定めたることを行い、滅ぼして哀れまず、敵を高く持ち上げたり。婦人よ、飢えたる幼子の命のため主に向かいてもろ手をあげよ。
第3章: 我はエホバの怒りの鞭によりて艱難に遭えり。我が肉と肌を衰えしめわが骨を砕き、我に向かって患苦と艱難を築きこれをもって我を囲み、われをして長久に死者のごとく暗き処に住ましめ出でること能わず、我が鎖を重くしたまえり。矢筒の矢をもって我が腰を射抜きたまえり。我は我がすべての民の嘲りとなり、終日歌いそしられる。小石をもって我が歯を砕き、灰をもって我を覆いたまえり。我このことを心に思い起こせり、この故に望みを抱くなり。我のなお亡びざるはエホバの慈しみによりその憐れみの尽きざるによる。わが魂は言う、エホバは我が分なり、この故我彼を待ち望まん。エホバは己を待ち望む者と己を尋ね求める人に恵みを施し給う。エホバを望みて静かにこれを待つは善し。口を塵に付けよ、あるいは望みあらん。己を撃つ者には頬を向け、満ち足りるまで恥を受けよ。主は永久に棄てることを為し給わざるなり。いと高き者の面の前にて人の理を枉げ、人の訴えを屈むることは主は喜ばない。我天に居ます神に向かいて手とともに心をも挙げるべし、我らは罪を犯しわれらは叛きたり、汝之を赦したまわざり。神は艱難を与えまうといえどもその慈悲は大いなればまた憐れみを加えた給う。汝我が声を聴き給えり、我が哀嘆と祈りに耳を覆い給う勿れ。主よ汝は我が不義を見給えり、願わくは我に正しき審判を与え給え。
第4章: 山犬さえも乳房を垂れてその子に乳を飲ます、しかるに我が民の娘はむごい荒れ野の駝鳥の如くなれり。旨いものを食らいし者は零落れて巷に在り、紅の衣にて育てられし者も今は塵塚を抱く。我民の中の貴き人以前は清らかにその容貌の美しきこと藍玉のごとくなしが、今はその面黒きが上に黒く、巷にあるとも人に知られず、その皮は骨にひた着き、乾きて枯れ木のごとくなれり。剣にて死ぬ者は飢えて死ぬ者より幸いなり。子を殺して食らう婦女もあり。預言者の罪により祭司の咎により、彼らは盲人のように巷に彷徨い、正しき者の血をその邑の中に流したり。敵は我が足を狙えば我らは巷を歩くこともできず、我らの終わり近づけり、我らの日つきたり。エホバに膏注がれし高き者落し穴にて捕えられたり。シオンの娘よ汝が咎の罰は終われり、重ねて汝を捕え給わず。
第5章: エホバよ我らの恥辱を顧み給え、我々の産業と家は外国人に取られ、我らは孤児となり、寡婦となった。食物を得て飢えを凌ぐためエジプト人やアッスリア人の雇われ者になった。我らの父は罪を犯してすでに世にあらず、我らその罪を負うなり。荒野の剣の故に死を冒して食物を得、飢饉の激しき熱気のため皮膚は炉のごとく熱い。シオンにて婦女たちは犯され、ユダの町にて処女ら穢される。候伯たる者も敵の手により吊るされ、長老も尊ばれず、少年は石臼を担はされる、童子は薪を負うてよろめき、音楽も廃せられた。我らが心の楽しみはすでに罷み、我らの踊りかわりて悲しみになり、すべての冠は首より落ちたり、我罪を犯したれば禍なるかな。願わくはエホバよ我らをして汝に還らしめ給え。我ら還るべし。

4) エゼキエル書

預言者エゼキエルは第1回バビロン捕囚のひとりである。エホバよりエルサレム滅亡の理由を説くことを示され、あたかも新約聖書の「ヨハネ黙示録」を思わせる幻視的な文である。イスラエル民族の宗教的、倫理的罪の糾弾が忠心である。最後はエルサレムへの帰還と神殿の再建を「枯れたる骨の再生」、「ダビデの出現」と表現する希望の書になる。成立はペルシャ王国クロスによる解放とエルサレムへの帰還前後(紀元前538年)とされる。エレミヤ書がエルサレムの滅亡前に語られた40年間の神のことばの記録だとすれば、エゼキエル書はユダの民のバビロン捕囚の最中で語られた神のことばの記録です。エゼキエルは捕囚となった民の中から預言者として召され、神のみこころを伝えた人です。エゼキテル書は内容的に次のように4分割されます。@第1章〜第3章:エゼキエルのプロフィールとミッション、A4章〜24章:エルサレム滅亡の預言、B25章〜32章:イスラエルの諸敵国に対する預言、C40章〜48章:新しいエルサレム神殿のヴィジョンです。

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第1章に現われたエホバの像         

第1章: エゼキエルが30歳に召命を受けたとすれば、それはエルサレムでは正規の意味で祭司としての働きが出来る年齢でした。エホヤキン王が即位してからわずか三か月でバビロンに投降したことで、王とその家族、および有能な者たち1万人が、第一回目のバビロン捕囚として連れて来られました。それは彼の父エホヤキムがバビロンのネブカデレザルに反旗を翻したために、エホヤキムが死んだ後、すかさずエルサレムが攻略されたためです。そして第一回の捕囚が起こるのですが、その中に祭司エゼキエルがいたのです。その捕囚から五年目にエゼキエルは預言者として召されたのです。エゼキエルはそれから捕囚解放の時まで生きていたとすれば、その時の年齢は83歳であったことになります。それまで、エゼキエルは、ケバル川のほとりにあるテル・アビブというユダヤ人の居留地に自分の家を持ち、預言活動をしたと思われます。第三十年の四月五日、エゼキエルがケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見たという。これはエコニヤ王の捕らえ往かれしより第5年目である。時にエホバの言葉が祭司エゼキエルに臨んだ。エゼキエルが見たという神の到来の図(仏画でいう来迎図に似ている)を上の左図に示した。第1章は幻視の文章で、以下に詳細に描かれる。烈しき風大いなる雲および燃える火の塊北から出で来る。雲の周りに輝きありその中より焼ける金属のごときもの出る。その火の中に4つの生き物(ケルビム)で1個の形をなすものあり、即ち人の象があった。各々4つの面あり、4つの翼あり。その足の裏は仔牛の足の裏のごとくにして磨ける銅のごとくに光っていた。その4方の翼の下に人の手あり、各々皆面と翼あり、その面のむく方向に行く。その面の形は人の面のごとし、4つ生き物の面は右の者は獅子の面、左の者は牛の面、鷲の面あり。その生き物は炭の火のごとく松明のごとし、その中より電光を出す、その生き物奔りて電光のごとくに往来する。生物の傍に4つの面の前に輪がある、その輪の作りは黄金色の玉のごとく4つの形は皆同じ。四方へ行くとき輪は回転しない、轍にはあまねく目がある。生き物が高く上がるとき輪も高く上がる。霊の行くとき生き物は動き輪も行く。生物の上には水晶のような蒼空が広がる。その羽音は大水のごとく軍勢のごとし。その蒼穹の下に青玉のような宝位(椅子)の形状あり、その上に人のごとき者がいます。その人の全身は磨ける銅の如く輝く。エホバの栄光の斯くのごとく見える。これをみて我ひれ伏したるところに語る者の声が聞こえた。
第2章: エホバ言う、人の子よ起き上がれ我汝に物言わん。その時霊が我に来て我を立ち上がらしむ。人の子よ我汝をイスラエルの子孫に遣わす、イスラエルは我に叛いた民、心は頑な者である。彼らに伝えよ、汝喩え荊と薊のなかに置かれててもこれを懼れる勿れ、彼らは悖逆の民と言えどその言葉を畏れる勿れ、たとえエホバの言葉を拒むとも彼らに語れ。エホバはエゼキエルに手を差し伸べて1巻の書を与えた。その書には嘆きと憂いを記した文字があった。
第3章: エホバ言う、この巻物を読みイスラエルの家に告げよ、この書は熟読玩味すればその我が口に甘き蜜のごとくなることを知る。我は汝を唇の深き舌の重き多くの国人に遣わすのではなく、イスラエルの家に行きてこの言葉を伝えよ。なぜならイスラエルの全家は厚顔にして心の剛腹なる者であるからだ。バビロンに捕え移された民の子孫のもとに行き、エホバの言葉を伝えよ、聴こうと聴くまいとに関わらず伝えよ。この言葉が終ると同時に大きな翼の音が響いてエゼキエルは上に持ち上げられゲバル河の近くのテラアビブに移された。7日間呆然としているとエホバの言葉が彼に臨んだ。人の子エゼキエルよ我汝を立てイスラエルのために守望者となす、我より言葉を聞き我に代わって警告すべし。悪人に警告し悪しき道を離れるように告げ、義なる人に悪を行わないように警告すべし。行く所エホバの栄光が立ち我を励まし続けた。彼らが縄を持って我を縛り付ける時エホバは汝の口を塞ぐ。聴く者は聴くべし、拒む者は拒むべし彼らは悖る族だから。
第4章: イスラエルを守ることと攻める事を同時に行え(エゼキエルはイスラエルを告発しこれを罰する役割と、イスラエルの民を善導する牧師の役目の二つを同時に担った)、390日間イスラエルの家の罪を負え、そして40日間ユダの家の罪を負え。米穀、豆を食糧とし390日間20シケルだけ食べ、水を1/6ヒン飲め、牛の糞で焼いたパンをかじれと。食と水の乏しきに依りてその罪に死なん。
第5章: イスラエルの全家を罰するに、その1/3は火をもって焼き、1/3は剣をもって邑の周囲を撃ち、1/3は風に飛ばすべし、エホバが刀を抜いて彼らを追う。エルサレムは異邦よりも悪しく律法をないがしろにし法の道に歩まない。エホバ言う、視よ我汝を攻め異邦人の前にて汝を裁かん。我は活き汝その忌むべきものと憎むべきものをもって我が聖所を穢したれば、汝を減らし汝を惜しまず憐れまない。汝らの1/3は疫病・飢饉にて亡び、1/3は刀に仆れ、1/3は四方の風によって散らされ刀を抜いて後を追われん。エホバは怒りを徹底させることでエホバの意思の強さを知るべし。
第6章: エホバの言葉エゼキエルに臨んだ。イスラエルの山々にいう、すべての汝らの住むところにて邑々は滅ぼされ高き丘は荒らされ汝らの壇は破られる、汝らの偶像は毀たれて亡び汝らの作りし者は絶やされん。汝らの偶像の前にイスラエルの子孫の屍を晒し、その骨を壇の前に散らさん。われはある者を汝らに残す、異邦の国々に散らばった者、捕えられて異国に移された者で彼の地で我を思う者は遺されん。汝手を撃ちて足を踏み鳴らして言え、ああイスラエルの家の悪しき者は禍かな、皆刀と飢饉と疫病に仆れるべし。そのとき汝らはエホバなる者を知る事になる。
第7章: エホバ言う、イスラエルの地の終わりがやってくる、我怒りを汝に漏らし汝の行いのために汝を裁き、汝の諸々の憎むべき物にために汝を罰する。汝のなせし憎むべきことの報い汝らの中にある。禍来る、末期来り汝に臨む。視よ日来たる、暴虐起こりて悪の杖となる、彼らもその群衆もそのおごりもみな失せて彼らの中には何も残る者はいない。時来る日近づけり、すべての群衆にあまねく末期いたる。民衆ラッパを吹けども戦いに出る者はない、まともに戦える人はすでにいないからである。手は弱くなり、財貨も何の役にも立たない。汝鎖を作れ、死に当たる罪が国に満ち暴虐邑に充ちたり。滅亡来たらば平安はなく、預言者に黙示を求めて律法は祭司の中に絶え、謀は長老に絶えたり。王は嘆き牧伯は懼れ、民の手は震えん。
第8章: 6年6月5日エゼキエルの家にてユダの長老といたとき、異常現象が起こりエホバの手がエゼキエルの髪の毛を掴んで引き上げエルサレムの北門に運んだ。(空間移動)エホバ、エゼキエルに言い給う。北の方を見よと、入り口に「妬みの像」が立っていた。これはイスラエルの家の憎むべきことを見た。次にエホバは庭の門の壁の内側をみよという、壁を壊して中に入ると爬虫類や獣や偶像の絵が壁に描かれていた。イスラエルの長老70人がその場にいて祭司シャパンの子ヤザニヤがいて香を焚いていた。エホバはエゼキエルにイスラエルの長老らが行うことを見たかという。彼らはエホバが我らを顧みず我らを棄てたと抗弁した。また内庭に居た25人ばかりの人は背をエホバの室に向け東の日を拝んでいる。エホバ我又怒りもて事をなさん、我彼らを顧みず、我彼らを憐れまず、我彼らの声を聞かず。
第9章: エゼキエルが見たイスラエルの残りの者を滅ぼす幻のことが記されています。エゼキエルが耳元で聞いたのは「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ」と大声で語られる主の言葉です。エルサレムの罪を裁くために遣わされたのは7人の天使たちで、そのうち六人は「突き崩す道具」を手にし、一人は、「腰に書記の筆入れを着けて」いました。彼はエルサレムの中で憎むべきことのために嘆き悲しむ人々の額に墨でしるしをつける役目です。他の6人には見かけた人は男女を問わず悉く殺す、しかし額に墨の記号がある者は殺してはならないとエホバは指示した。ああエホバよ汝怒りをエルサレムにもたらしてイスラエルの残れるものを悉く滅ぼし給う。
第10章: ここに栄光のエホバがケルビムの上の蒼穹に現われ給いて、腰に墨の壺を持った人に命じて曰く、汝ケルビムの間の炭火をみたしこれを取って邑に散らすべしと。以下第1章のケルビムの図について概要を繰り返す記述があるが省く。
第11章: エホバの霊、エゼキエルをエホバの室の東の門に連れてゆき、その入り口に25人の人がありヤザニア、ペラテアという牧伯らを見た。エホバは見よ彼らが悪しき謀ををめぐらす人々だという。彼らはエゼキエルにいう、この邑は鍋で我らは肉だと預言せよ。そこへエホバの霊がエゼキエルに臨み、エホバの言葉を伝えた。彼らはこの邑に殺される人々の数を増し、そういう意味において「この邑は鍋で我らは肉だ」というのは正しい。我汝らを引き出し外国人の手に渡し汝らの罪を罰せん。汝らは我が法に従わず、我が律法を行わず、外国人の慣例を踏襲している。その予言の最中にペラテアは死んだ。その穢れたる者とその憎むべき者の心をもって己の心となす者は我これが行うところを罪として報いるべしと言い給う。こうしてエホバの霊はエゼキエルをカルデアのバビロンに携えゆき、そこで我が見た異象は我を離れて昇った。エホバが我に示し給える言葉をことごとく囚われ人に告げた。
第12章: エホバ言う、エゼキエルよ我に叛けるイスラエルに残留する家の者を宵の内から引きずり出してバビロンに連行せよ。我は彼らを諸々の国の中にまき散らさんことエホバなるを知る。我は僅かな人を遺して剣と飢饉と疫病から遁れしめ罪を犯した者のことを述べさせるこれエホバなるを知る。イスラエルの中に住める者の暴虐により富を失い荒地になり国は滅ぶはエホバなるを知る。彼らは滅びの黙示は嘘だというがその日とその諸々の黙示の言葉は近いことを知れ。
第13章: エホバ言う、エゼキエルよイスラエルの預言者に向かって預言せよ。彼らは何も見ないで己の心のままに空しき愚かな預言をなす。イスラエルの預言者は荒地の狐である。彼らは空しき幻を見、偽りの占いを述べエホバが言わない事を言い給うと言う。我彼らを罰せん。彼らは漆喰で壁を造るのに同じ、風雨でもろくも崩壊する壁である。我、我が民を彼らより救い出さん。
第14章: イスラエルの長老が来て対談中にエホバの言葉が臨んだ。彼らは心の中に偶像を立て躓きを前に置く。我は彼らの要求を拒否する。彼ら皆その偶像のため我を離れたからである。汝ら偶像を棄て諸々の憎むべきことを離れよと告げよ。彼らのために預言する預言者の罪は同罪である。もし国が我に悖ることをなした場合我は飢饉をもたらし人と獣を断つが、かのノア、ダニエル、ヨブの3人はその義しさによって己の命を救うことができた。行為と挙動を見てエホバがエルサレムに降した禍から自分の命だけは助ける。
第15章: 森の中にある葡萄の樹(イスラエルの民)は他の樹に優るところはない。(イスラエルの民を特別扱いするわけではなない)彼らが悖ることを行いたれば我彼の地を荒れ野とする。
第16章: エホバ言う、エルサレムの生地はカナンの地、父はアモリ人、母はヘテ人なり。人は汝が生まれた時汝を祝福せず汝の命を野に棄てた。しかしエホバは汝(カナンは女性名詞)に命を与え汝と契約した。なんじは育つにつれ麗しく栄えて王の権勢に至った。これより創世記のカナンと他の部族と交渉を語るのだが、カナンは女性名詞であるのでその忌むべき原罪を「淫婦」に求め、他の部族との交際や混血のことを「姦淫」という罪にかぶせてイスラエル民族の創世記を語る。史実かどうかは分からない。3人姉妹として、イスラエル人を主人公とし、姉をサマリア人、妹をソドム人とよぶ、人種として正しいかどうは不明である。カナン、あるいはカナアンとは、地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯の古代の地名である。聖書で「乳と蜜の流れる場所」と描写され、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地であることから、約束の地とも呼ばれる。カナンという名称の起源は不明であるが、文献への登場は紀元前3千年紀とたいへん古い。紀元前2千年紀には古代エジプト王朝の州の名称として使われた。カナンはイスラエル人到来前には民族的に多様な土地であり、「申命記」によれば、カナン人とはイスラエル人に追い払われる7つの民の1つであった。また「民数記」では、カナン人は地中海沿岸付近に居住していたに過ぎないともされる。この文脈における「カナン人」という用語は、まさに「フェニキア人」に符合する。カナン人とは、広義ではノアの孫カナンから生じた民を指す。「創世記」では、長男シドン、ヘト、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アキル人、シニ人、アルワド人、ツェマリ人、ハマト人の11の氏族を総称して「カナン人の諸氏族」と呼んでいる。カナン人はイスラエルと同化した。
第17章: エホバ言う、バビロンの王エルサレムに来たりユダの王と牧伯を捕えバビロンに引き連れた。(歴代志略第36章に、王ネプカドネザルはエホヤキンを捕えてバビロンに連行し、その後ゼデキアを王に代えた。ゼデキアは21歳の時王となり、11年間世を治めた。彼はエホバにとって悪をなし再びエホバに帰ることは無かった。ゼデキア王はバビロンに叛いたので、カルデア人は聖所を侵し老若男女をことごとく殺し、財宝を略奪した。そして宮殿を焼きエルサレムを破壊しつくした。殺されなかった人はバビロンに囚われ行きその国の僕となった。)ユダ王はエジプトに援助を求めバビロンに叛いたので王は殺されエルサレムは灰燼に帰した。エジプト王は約束に反してエルサレムを見殺しにした。大鷲と葡萄の樹のたとえ話は理解できないが、エホバは高き樹を低くし、低い樹を高くし、緑の樹を枯れ木にし、枯れ木を緑にするのはエホバのなす業なり。王侯貴族や民の運命を決めるのはエホバの計らいであることを知れという意味である。
第18章: エホバ言う、諺に「父ら酸い葡萄をを食べると、子どもの歯がうく」(父親の過ちのせいで、子供が苦労するということ)というがこれは間違っている。父と子の霊魂は別物である、独立してエホバのものであり罪を犯した霊魂は死ぬべし。人正しくて公道と公義を行い、諸々の悪を行わず、真実の判断を行い、法憲に歩み律法を守るならがこれは義しい人である。彼は生きるべし。しかし暴き人で人の血を流し、人の妻を犯し、悩める者と貧しき者を虐げ、ものを奪い、質物を還さず、山の上にて食事を死、偶像を仰ぎ、利を取りて金を貸すなど一つまた全部の悪事を行うなら彼は生きるべからず。又生まれた子が父のもろもろの罪を見たが善を行うなら彼はその父のために死ぬことは無い。(親子の連帯責任はない)罪を犯せる霊魂は死すべし、義人の義はその人に帰し悪人の悪はその人に帰す。しかし悪人もしすべて悪を離れ我が法と律を守るならば必ず生きるべし。彼行いし諸々の咎を離れるならば必ず生きる。
第19章: イスラエルの指導者たちのための哀歌であるが、短いながら譬喩であるので具体的な内容がつかめないもどかしさがある。そういう意味で難解である。前半は獅子の喩で史実としてのユダ王家の末路を描いている。子獅子のうちの一頭である「エホヤハズ」はヨシヤ王の三男。父ヨシヤ王が戦死したBC.609年、イスラエルの指導者たちはエホヤハズを擁立しましたが、エジプトの王パロ・ネコは彼を捕えてリブナに幽閉し、代わりにエジプトの傀儡王としてエホヤキムを立てます。エホヤハズはやがてはエジプトに連行されて、そこで生涯を閉じました。子獅子のうちの他の一頭は「エホヤキン」です。エホヤキムの死後に即位しますが、わずか三か月でネブカデネザルによってバビロンに連行され捕囚の身となります。バビロンでは後に優遇措置を受けますが、二度とエルサレムに戻ることはありませんでした。後半の話は葡萄の樹の喩でこれから起こる出来事です。ぶどうの木の強い枝であるゼデキヤ王が神の審判によってバビロンに連行されます。「王の杖となる強い枝がなくなった」とは、ユダの王制がここで絶えることを意味しています。ユダの王国の「哀歌」です。
第20章: イスラエルの長老たちが集まった時にエホバの言葉がエゼキエルに臨んだ。我は汝らの問いを拒否する、彼らの先祖がなした憎むべき事柄を伝えようと言って、 この章には背信のイスラエルの歴史が描かれています。ここにはイスラエルの民がエジプトにおいて、荒野において、カナンにおいて、そして現在において、以下のようなパターンが繰り返されています。(1) 主のイスラエルに対する恵みの行為、(2) それに対するイスラエルの背反、(3) 背反に対する主の怒り、(4) 主の怒りを思いとどめた理由です。この章のキーワードは「我が名のために」と「我の聖なることをあらわす」という言葉です。第1段階のエジプトにおいては、エホバはイスラエルを選びヤコブの家の末裔に手をあげて我を知らせ、エジプトの地から彼らを脱出させ、カナンの地を目指して引導した。しかし我彼らにいう、憎むべきことを棄てよエジプトの偶像をもって身を穢すなと、しかし彼らは我に叛いて我に聞き従わなかった。我エジプトにおいて我が憤りを彼らに注いだ。しかし我我が名のために事をなしてエジプトより導き出した。これは我が名が異邦人らの前で穢されないためである。異邦人の中に彼らが居るその前にて我を彼らに知らしめた。第2段階の荒野においても周りは異邦人の部族ばかりで、第1段階と同じパターンである。異邦人らの目の前に我の聖なることをあらわすためにエホバの妥協は繰り返された。
第21章: エホバの言エゼキエルに臨む、裁きの日近く成りぬことを告げ嘆け、剣は磨かれ鞘から抜き放たれている。それはイスラエルの北から南まで悪しき者を断つためだある。バビロンの王の剣が進むべき道二つのうち一つはアンモン人の子孫が住むラバとユダの堅き城エルサレムに剣が向かう事を示せ。エルサレムの罪は全ての行為に現われている。イスラエルの君主よ汝の罰せられる日至る。卑しい者は高くされ、高い者は卑しくされる。我転覆の権威を持つ。
第22章: エホバの言、エゼキエルに臨む、この血を流すところの邑を裁け。汝は流せる血によりて罪を得、その造れる偶像をもって身を穢し汝の裁きの日を近づかせり。我汝を国々の嘲りとなし万国の笑いとなさん。汝他国の人を虐げ、寡婦と孤児を悩まし、安息日を穢す、山の上で食事をなし、邪淫を行い父の妻に交わり、月経のさはりの穢れた婦女を犯す、隣の妻と淫らなことをし、自分の姉妹を犯す、利をとりて隣の物をかすめ取り。イスラエルの家は我にとって屑のごとくになれり、我は怒りと憤りをもって汝らを集めて溶かす。預言者・祭司らはわが法を犯しわが聖きものを穢す。国の民は暴虐を行い奪うことをなし悩める者と貧しき者を掠め他国の人を虐げる。この故に我わが怒りを彼らに灌ぎ、わが憤りの火を持て彼らを滅ぼし彼らの行いの報いを行え。
第23章: エホバの言エゼキエルに臨む、第16章の喩話では3姉妹であったが、本章の喩話では姉アホラ(サマリヤ)、妹アホリバ(エルサレム)という。二人はエジプト時代から淫婦であった。姉アホラはアッスリアの若者と淫を行い、エジプトの男とも通じていた。我エホバはアッスリアの男に剣を与えてアホラを殺させた。妹アホリバの淫業は姉よりも甚だしくアッスリア人を恋いしたり、カルデヤのバビロン人に色目を使う有様であった。エホバはアホリバの裁きをを昔の恋人たちの手に渡した。即ちアッスリア人、バビロン人が大軍を率いてエルサレムを攻撃した。汝エルサレムよ異邦人を慕いて淫を行い彼らの偶像をもって身を穢した罪に報いた。アホラとアホリバを裁くにあたってはその憎むべき罪状を詳らかに示した。エホバ斯く言う、我群衆を彼らに攻め来たらしめ彼らを虐げと掠めに遭わしめん。群衆石をもって彼らを撃ち、剣をもって斬りその子女を殺し火をもってその家を焼かん。我この地に邪淫を絶やさん。
第24章: 9年10月10日エホバの言エゼキエルに臨む、バビロンの王今日エルサレムを攻める。汝エホバに叛ける家にたとえ話で告げよ、禍なるかな血の流れる邑、錆のついた釜にて羊(民)の肉と骨を焚け、汚れを取るため釜を空焚きし錆(罪)を取れ。しかし汝らの淫行により我汝を浄めんとせしが汝ら浄まらざりしによって、我怒りを汝に灌ぐ。汝の道に従い汝の行為に従い彼らを裁かんと。声を立てずに嘆け、死人のために哭け、その罪の中にやせ衰え互いに呻く。エゼキエルが言ったように汝らはその予兆通りに行うだろう、そのとき我がエホバであることを知る。
第25章: エホバの言エゼキエルに臨む、アンモン人(ユダヤ人)に向かって預言せよ。聖所が穢されユダの家が捕えられ移されたことにエホバは満足していると告げよ、汝らが東の国の所有物になり、ラバは駱駝を飼う地になりアンモンの人々の地を羊の伏す場所になって汝らは我がエホバであることを知るだろう。モアブ人とセイル人に告げよ、アンモン人と同じく東の国の所有物になるだろう。アンモン人は散らされてその痕跡も記憶されなくなる。エドム人に告げよ、エドム人とアンモン人は争いが絶えなかったが、エドム人の地より人と獣を一掃する、デダンの者は剣に仆れるだろう。これがエホバがエドム人に仇を返していることを知れ。ペリシテ人も古き怨みを抱きて仇をユダになしたが、エホバはケレテ人を海辺から滅ぼす。これも仇返しである事を知れ。
第26章: エホバの言エゼキエルに臨む、エルサレムの滅亡についてツロは、ああ気持ちがいいそこへ移ろう我は豊かになるだろうと喜んでいる。しかしエホバはバビロニア国王は馬車騎兵軍勢を率いてツロに攻め込むだろうと預言した。城を破壊する槌を設置し石垣を崩し、斧で門を破り、馬で蹴散らし剣で民を殺し汝の財宝を奪うだろう。ツロの島々は仆れた者の呻き声、殺戮で震える。ツロは地中海沿岸の町であり、航海によって繁栄した町で、当時としては世界商業の一大中心地として知られていた。紀元前585年エルサレム陥落後、バビロンのネブカデネザルに包囲され、13年間抵抗した後、バビロンに従属する事をいうようです。第26章、27章、28章はバビロンによるツロの征服を述べています。
第27章: エホバの言エゼキエルに臨む、ツロのために哀しみの言葉を述べよ。ツロは海の入り口にあって諸国の商人となり多くの島々に通う。国は海の中に遭って美しく作られた邑であり、自然の要塞であった。セニルの樅で舟板を作り、レバノンの香柏で帆柱を作り、ハシヤシの樫で櫂を作り、キッテムの黄楊に象牙を嵌めこみ椅子を作り、帆はエジプトの布にて、旗に用いる天幕はエリシヤ島の藍と紫の布であった。水手はシドンとアルワデの人、ツロの賢き人がかじ取りとなり、汝の貨物を交易した。軍隊の中にはペルシャ人、ルデ人、フテ人らが戦士となった。島の城壁を守る人はアルワデの人が石垣の上に楯を掛けた。交易相手国は、タルシン人と銀鉄錫鉛を交易し、ヤワン、トバル、メセクとは人身と銅の器を交易し、トガルマとは乗る馬を交易し、デダンとは車の毛氈、象牙、黒檀を交易し、スリアとは赤玉紫貨繍、細布、珊瑚、瑪瑙を交易し、ユダとイスラエルとは麦、菓子、蜜、油、乳香を交易し、ダマスコ、ヘルボシとは酒、毛を交易し、ペダンとヤワンとは鋳鉄を交易し、アラビアとケダルとは子羊、雄羊、山羊を交易し、シバとラアマとは香料、宝石、金を交易し、ハラン、カンネ、エデン、アッスリア、キルマデとは繍の衣服、香柏の箱に布紐を施したものを交易した。この物資のゆたかな貿易立国シロに殺戮の暴風が北からやってきた。船は撃ち破られ海の中に落ちる人々と共に国は海底に沈んだ。
第28章: エホバの言エゼキエルに臨む、ツロの王にいうべし。ツロは心高ぶりて我は神の座に座り海の中にありと嘯いた。しかし彼は人であり神ではない。ダニエル書のユダ人のダニエルより賢いかもしれない。知恵を用いて世界中の富を集め神のごとき心を抱くようになった。しかし異邦人によって武力で倒された。神が人に殺されることはあり得ない。ツロのために哀しみの詞を述べよ。世界中の貴重な商品を扱い、ありとあらゆる最高級品で飾った。汝の交易の多さのため汝の中に暴虐充ちて汝罪を犯せり。エゼキエルよシドンに向かって預言せよ。エホバはシドンの敵となり、彼らを裁いて我の聖なる事を彼らに示す。四方より来る剣に殺され仆れん。われイスラエルの家をその散らされた国々より集める時、民の聖なることを異国人に示さん。(エホバがイスラエルの家以外の外国の運命に介入する理由は薄弱である。ツロはイスラエルにとって好都合であるだけで積極的な妨害や悪はなしていない。この理由で行くなら全世界の勝れた国々をすべて滅ぼさなければ終結しない。部族宗教としては身勝手な神である。地球が単一国家で宗教が一つしかない事を想定しているのだろうか)
第29章: 10年10月12日エホバの言エゼキエルに臨む、エジプト王パロ及びエジプト全土に預言せよ。第29章、30章、31章、32章はバビロン王ネプカデネザルによるエジプト征服を述べています。エホバはエジプトに好感を抱いていない、むしろ悪口雑言でエジプトを罵倒している。エジプトはワニでエホバの造った川に住んでいる。汝を釣って川から引き揚げ魚と一緒に荒れ野に棄て、獣と鳥に与えよう。イスラエルにとってエジプトは頼りない葦の杖のようなもので役に立たない。エジプトの地から人と獣を絶ち、荒れ野とする。40年間この地の邑は荒れ野となり、エジプト人は散らばる。40年後エジプト人をパテロスの地に還らしむ。27年1月1日エホバの詞あり、バビロン王ネプカデネザルの軍勢はツロに向かったが、戦果は無かった。そこでエホバはバビロンにエジプトの地を与え、財宝を略奪した。
第30章: エホバの言エゼキエルに臨む、エホバの日近し、剣エジプトに臨まん。エチオピア人、フテ人、ルデ人、クブ人ら加勢した同盟国の人々も共に剣に仆れる。バビロン王ネプカデネザルによってエジプトの戦いは終わる。エホバ言う、われ偶像を毀し神々をノフに絶やす、エジプトには再び国王が出ることはない、パテロスを荒らし、ゾアン、ノ、シン、アベン、ピベセテ、タバネスは砕かれ火をかけられる。11年1月7日エホバ言う、われエジプト王パロの腕を折り、エジプト人を諸国に散らさん。エジプトの腕を弱くし、バビロンの腕を強くする。
第31章: 11年3月1日エホバの言エゼキエルに臨む、エジプト王パロ及びエジプト全土に預言せよ。アッスリアは非常に背の高い樹で枝が雲にまで至る。レバノン一の木であった、エデンの神の園にある者皆之を羨しく思った。これは実は水に恵まれているためで、あまりに高くなりすぎたのは心が驕ったせいだとしてこれを万国の君の手に渡し、切り倒し打ち捨てられた(アッスリアの滅亡)。同じことはエジプトの繁栄に見られ、寄ってたかって倒されるべし。
第32章: 12年12月1日エホバの言エゼキエルに臨む、エジプト王パロのための哀しみの詞を述べよ。エジプトは自らを万国の獅子になぞらえているが、エジプトはワニでエホバの造った川に住んでいる。汝を釣って川から引き揚げ魚と一緒に荒れ野に棄て、獣と鳥に与えよう。蒼穹に照る光明を暗くし汝の国を暗黒になす。バビロンの剣汝に臨まん、汝らの群衆は勇士の剣に仆れエジプトの誇りを絶やさん。我エジプトの地を荒れ野西、そこに住む者をことごとく撃つとき人々我エホバなることを知る。12年12月15日エホバの言エゼキエルに臨む, エジプトの群衆と娘らを下の国に投げ降し墓に入れよう。すでにアッスリアの群衆は倒されて墓に在り、彼処にエラム人在り、メセク、トバシ、エドム人と異邦人らは墓にひしめきいる。そこに剣に仆れた王パロと群衆が投げ込まれる。
第33章: エホバの言エゼキエルに臨む、イスラエルの民に告げよ。われ剣を一つの国に降さんとするとき、民の一人を守望者に立てラッパを吹いて民に自ら誡めるように告げよ。自ら誡めをなさない者の責任は己に在り、自ら誡めるならばその命を保つことができる。いまエゼキエルよ汝を守望者に立てる。悪人にその罪で死なないよう戒めなければならない。悪の道を離れるように語らなければ悪人は死ぬが汝にも責任がある。もし悪人が戒めに応じて悪の道から離れるならば悪人は命を得る。義人と言えど義に驕りて悪いことをなすなら死ぬ。あくにんが悪から離れると命は助かる。悪の行為をなすかどうかが命にかかわることで、その前に悪人だったか義人だったかは問題としない。12年10月5日エルサレムより脱走者がバビロンにやってきた。邑は落ちたという。エルサレムから来たものはエホバに異議を申し立てた。アブラハムの時代は一人で地を守ったが、今は衆の数が多く土地は授かったものとして飲み食いしている。するとどうしても乱れがちになり道を外すことも出て来る。時代が違うのだと。エホバ言う。彼らは口ではもっともらしいことを言うが、エホバを知らずその心は利によって動いている。彼らはエゼキエルの言葉を聴くが行わないのだと。
第34章: エホバの言エゼキエルに臨む、己だけを養う牧者は禍なり、牧者(国王)は羊(国民)を養うべきものである。弱きを助け病める者を癒し、厳しい取り立てをせず、失せたる者散らされた者を探すのが役目であるべし。牧者よエホバの言を聞け、太った牧者、己の事しか考えない牧者を罰し牧者を止めさせる(王の廃止、革命のこと?) エホバは自ら我が群れ(国民)を養う、肥えた羊と痩せた羊の間の裁判を行う(公平、平等)。我彼らの上に一人の牧者を置きその人彼らを養う。彼らとの間に平和の契約(社会契約論)を結び、悪しき獣を滅ぼす(警察権)。
第35章: エホバの言エゼキエルに臨む、セイル山に向かって預言せよ。エホバはセイル山を滅ぼす、荒れ野となる。イスラエルの人を艱難のときその終わりの罪の日に剣にかける。殺された者をその山に満たし長しえに荒地となさん。イスラエルとユダはエホバのものなり、エホバが彼らに示した怒りと嫉みにしたがって汝らを裁く。
第36章: エホバ、イスラエルの山々に預言して言う、敵は汝らを荒し呑み込む。汝の周辺の民は必ず自身辱めを蒙る。しかし見よ我汝らに臨み汝らを顧みん、汝らは耕されて種をまかれる。イスラエルの残余者が住み邑は建て直される。人と獣が増え昔に優れる繁栄を見る。イスラエルの家は国に血を流しまた偶像をもって国を穢したるによって、我彼らの道と行いによって裁かれる。イスラエルの家よ、我汝らのためにするにあらず我が聖き名のためにする。清き水を注いで汝らを浄め汝らのもろもろの穢れと諸々の偶像を取り除き汝らを清める。汝らは先祖の住める地に住みて我が民となり我は汝らの神となる。
第37章: エホバの霊エゼキエルに臨み谷に導いた。谷には多くの骨が散乱し周りは枯れていた。エホバは骨に対して預言を述べよという。我枯れたる骨に気息を入れ生かしめると。すると骨と骨が動き始め、肉と皮が覆った。そして気息よ四方から風を吹き込み殺された者どもを生かせというと、こうして多くの群衆となった。これらの骨はイスラエルの全家でる。そしてエフライムの木を取って、一つにはユダの家と書き、一つにはヨセフの家と書け。ヨセフの木とユダの木をあわせて一つの民イスラエルとなす。ダビデを王として一人で全体を治めるべし。我彼と永遠の契約をなす。
第38章: マゴグの王ゴグとは、出所は創世記に現われる部族でヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラスであったとされる。 現在の黒海・カスピ海沿岸付近に居住していた民族らしい。ロシ、メセク、トバルを支配した。エホバの言エゼキエルに臨む、マゴグの王ゴグに預言せよ、我汝を罰せん。ペルシャ、エチオピア、フテ、ゴメル、トガルマと共にイスラエルに迫る。残存者の民はイスラエルの山に還り、これらの大軍に備えよ。王ゴグに言え、わが民イスラエルの安らかに住むその日に、汝は立ちあがり、北の果の汝の所から来る。多くの民は汝と共におり、みな馬に乗り、その軍隊は大きく、その兵士は強い。汝はわが民イスラエルに攻めのぼり、雲のように地をおおう。ゴグよ、終りの日にわたしはあなたを、わが国に攻めきたらせ、我が聖なることを諸国民の目の前にあらわして、彼らに我を知らせる。その日、すなわちゴグがイスラエルの地に攻め入る日に、わが怒りは現れる。我は、わがねたみと、燃えたつ怒りとをもって言う。その日には必ずイスラエルの地に、大いなる震動があり、 海の魚、空の鳥、野の獣、すべての地に這うもの、地のおもてにあるすべての人は、わが前に打ち震える。(この話は史実か虚構かどうか不明)
第39章: エホバの言エゼキエルに臨む、マゴグの王ゴグに預言せよ。汝と汝の軍勢はイスラエルの山々に仆れん、汝を鳥に食わしむ、我我が名をイスラエルの中に知らしめ、聖なる我が名を穢されまい、戦いは7年続いてイスラエルはゴグ王を倒した。ゴグの軍勢の死体を埋めた場所をゴグの群衆の墓となずける。この地を清めるために7か月を要した。この日よりイスラエルの家はエホバが己の神であることを知るだろう。いまこそヤコブの末裔の囚われ人を還しイスラエルの全家を憐れみエホバを称えよ。

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新しいエホバの神殿見取り図                     エホバの神殿外観図

第40章: 40章〜48章は新しいエルサレム神殿のヴィジョンについて記述する。40章は新しいエルサレム神殿の(1) 門と外庭と内庭について述べる。バビロンに捕え移されて25年、エルサレムが破壊されて14年目の1月10日エホバの手がエゼキエルに臨み、イスラエルに携え移され高き山に降ろされた。山の南に邑が建設され、その門の前に縄と尺定規を持った一人の男が立っていた。エホバ言う、ここで見たことを聞いたことを心に留めてイスラエルの家に伝えよ。上の図の神殿見取り図を見ながら要点だけを記す。神殿にはそれを取り囲む外壁がある。その外壁の厚さは6キュビト、つまり1ざお分で3.19mです。神殿の敷地は一辺が500キュビト(266m)を持つ正方形です。外壁には西側を除く、方角(東向き、北向き、南向き)にそれぞれ門があります。外庭に入るための三つの門、内庭に入るための門がそれぞれ三つで、合わせて6つの門ありますが、すべて同寸法です。しかもそれらの門はすべて神殿の敷地の中心にある「祭壇」に向けられています。ロング・キュビトを1キュビト(53.2cm)としています。門に入る手前に階段がありますが、外庭の門には7段の階段、内庭の門に入るためには8段の階段があり、本殿に入る一つの門の前には10段からなる階段があります。外庭に30の部屋が作られていました。これらの部屋はおそらく一般の礼拝者用の部屋と思われますが、本堂の脇間は祭司たちが使う部屋でした。外庭と内庭の門の構造は同じです。門の間は6キュビト(3.19m)。門の通路には、その両脇の壁にそれぞれ三つずつ設けられた「控え室」があり、その一つの控え室は縦横6キュビトの正方形です。これらの控え室は見張り番の部屋です。
第41章: 41章は新しいエルサレム神殿の(2) 本堂について述べる。聖所、至聖所の周囲を囲む脇には脇間があります。脇間は三階建てになっており、各階に30の脇間(全部合わせると90の脇間)があります。これらは神殿の壁に対して造られており固定されていました。これら脇間は祭司の部屋、あるいは彼らが務めに必要なものを保管する物置と思われます。神殿の外部の寸法はすべて百キュビトです。神殿内部の装飾について、内部一面に木の羽目板が壁に張り巡らされています。またすべての壁には、ケルビムとなつめやしの木が、交互に彫刻されています。ケルビムの顔には人間の顔と獅子のふたつの顔(牛と鷲の顔はありません)が、両側でそれぞれなつめやしの木の方を向いていました。これはソロモン神殿にも同じく装飾されていました
第42章: 42章は新しいエルサレム神殿の(3) 祭司たちの部屋について述べる。神殿の本殿の北側と南側には、祭司たちが使用する部屋があるようです。聖域に面している北の部屋と南の部屋は、聖なる部屋であって、主に近づく祭司たちが最も聖なるささげ物を食べる所である。その場所は神聖であるから、彼らはそこに最も聖なる物、すなわち穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえを置く。司たちは聖所に入ったなら、そこから外庭に出てはならない。彼らが奉仕に用いる服は神聖だから、それを脱いで他の服に着替えてから民の所に近づかなければならない。
第43章: 43章は新しいエルサレム神殿の(4) 壇について述べる。神の栄光が東の方から現われ、神殿の東門をとおって主の栄光が戻って来たことが記されていました。そして主の栄光は神殿に満ちていたのです。その東門から入ることが許されるは「君主」だけです。台座を別として、祭壇自体の大きさの寸法は12キュビト平方です。神殿の務めはツァドクの子孫のレビ人の祭司だけが、神に近づき、神に仕えることができるとしています。
第44章: 44章は新しいエルサレム神殿の(5) 主の宮のすべての定めについて述べる。祭司エリ家に対する神の厳しいさばきの預言のあとに、次のようなことばが語られています。それは「わたしは、わたしの心と思いの中で事を行なう忠実な祭司を、わたしのために起こそう。わたしは彼のために長く続く家を建てよう。ソロモン王以降は「ツァドクの子孫のレビ人」が正統派の祭司としてエルサレムの神殿での祭司職に就くこととなったのです。そしてその職は特権的立場であり、永久職でした。祭司の着る服について、かぶり物について、頭髪について、ぶどう酒を飲むことについて、結婚について、死人に触れることについてなどの規定が示されます。例祭でのおきてを守ること、安息日を聖別することによって、また、生活のすべて環境において主に従うことが、彼らの務めでした。
第45章: 45章は新しいエルサレム神殿の(6) いけにえ、例祭の回復について(祭司の守るべきこと)述べる。旧約時代の踏み直しがなされ、祭司制度、いけにえ制度、主の例祭などが復活し、回復したイスラエルの全家(12部族)の土地の分割、その部族の長たちの土地、などが記されています。45章1〜8節には、祭司、レビ人、および君主のための土地が取りあけられます。9節〜17節にはイスラエルの君主たちの義務が記され、18〜25節には主の例祭について記述されています。
第46章: 46章は新しいエルサレム神殿の(6) いけにえ、例祭の回復について(国の民の守るべきこと)述べる。
第47章: 47章は新しいエルサレム神殿の(7) 聖所から流れ出る川について述べる。この章にある聖所から流れ出るいのちの水の川を、将来、必ず起こる預言とは理解せずに、聖霊の祝福としての霊的解釈を施しています。
第48章: 48章はイスラエルの支派の土地の取り決め、邑の出口門について述べる。各部族に配分される土地の領域は、図にあるように、かつてソロモン王が支配した地域です。この意味でも、メシア王国はダビデ・ソロモン王国の失敗を踏み直していると言えます。町は一辺が4,500キュビトの正方形で囲まれており、各方向にそれぞれ三つの門があり、各部族の名前が付けられています。これはやがて、新しい天と新しい地の「都」構造を予表しています

5) ダニエル書

ダニエルはエゼキエルと同じように、「バビロン捕囚」期の預言者であった。この書もエゼキエル書と同じように黙示録または幻視が多いが、知恵の書としても名高い。バビロニアの王ネプカデネザルの命により、王の夢から来るべき諸国の興亡を予言した。「獅子の穴」に放り込まれる危機に遭遇するが、諸国の興亡の預言を説いて止まなかった。「人の子ごとき者雲に乗りて来たり」というような預言がある。ダニエルは智慧と判断に秀でた預言者とされた。紀元前6世紀、エルサレムを陥落させたバビロンのネブカドネツァル王は、自分の占領行政の官吏を養成するため、ユダヤ人の「王族と貴族の中から、体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力にとみ、宮廷に仕える能力のある」少年たちを選び出して連れてこさせ、カルデア語を学ばせた。ベルテシャザルと呼ばれることになったダニエルはその一人であった。ダニエルをリーダーとするシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの四人組は、異邦人の地にあっても唯一の神エホバへの信仰を守りぬき、「異邦人の肉類と酒で自分を汚すまい」と誓っていた。ダニエルらはぬきんでて優秀であったため、王に仕えて重用された。ダニエル書補遺には、ダニエルがキュロス王治下でベル神の祭司と争う物語、および二人の男に誣告された女スザンナを巧妙な裁判(スザンナが庭の樹木の陰で逢い引きしていたならば、その樹木の種類は何かと個々に尋ねると、二人はしどろもどろになって異なる樹木名を答えたので、事実無根と判明する)で救う物語が収録されている。後者からダニエルは裁判の守護聖人とされた。シェークスピアの「ヴェニスの商人」にもその名が出ている。ダニエルはネブカドネツァル王の見た夢の謎を解き明かしたことでバビロン全州の長官に任命された。また、ネブカドネツァルの子ベルシャツァルが宴会中に壁に字を書く指の幻を見たときも、その意味を解き明かしている。ペルシアがバビロンを征服したのち、メディア人ダレイオスもダニエルを重用したが、他の家臣の陰謀でダニエルはライオンの洞窟に投げ込まれることになった。しかし、ダニエルは神の力によってライオンに襲われることなく、逆にダニエルを陥れようとした者たちがライオンの餌となった。ダニエル書は物語として抜群に面白い。ダニエルの謎解きの例を紹介する。@ネブカドネザル2世は夢の中で頭が純金,胸と腕が銀,腹と腿が青銅、すねが鉄、足は一部が鉄で一部が陶土できた像の夢を見た。そこに一個の石が投げつけられ陶製の足を砕き、像は粉々になり、跡形も無くなるが、石は山のようになって全地に拡がるという夢であった。ダニエルは、金の頭はネブカドネザル2世自身であり、銀、青銅、鉄、陶土はバビロニア王国の跡を継ぐ、より劣った王国を表し、これらはついに永遠に続く神の王国によって滅ぼされるだろうと解いた。Aネブカドネザル2世が別な不吉な夢を見た。それは天に達する一本の高い木に、豊かな実が実り、鳥が巣を作り、動物は木陰に宿っていたが、聖なる天使が下って来てその木を切り倒し、切り株だけを地中に残したというものであった。ダニエルは、木は栄光と権力を握る王自身を表し、主がすべてを支配する事を知らせるために、王は動物の境涯に落とされるであろうと解き、ネブカドネザル2世に間に合ううちにやり方を変えるように説いた。Bベルシャザルが王宮で大宴会をしていたとき、一本の手が現れ宴会場の壁に「メネ、メネ、テケル、パルシン」と描いた。ダニエルは、メネは数えるという事であり、神があなたの治世を数えてそれを終わらせられたと解いた。テケルは量を計ることで、あなたは天秤にかけられ不足と見られたと解いた。パルシンは分けるという事で、あなたの王国はメディアとペルシャに与えられると解いた。
ダニエル書は大きく2つの部分に分けられる。前半部の1〜6章はバビロンにおける歴史的な出来事を記している部分、後半部の7〜12章はバビロンで啓示された終末の預言を記している部分です。ダニエル書の背景については、バビロン捕囚時のネブカデネザル王の時代から、捕囚後のハスモン王朝の成立を促した、紀元前2世紀シリアのセレウコス王朝のアンティオコス四世の死に至る時期までの、約四百年間にわたる長い歴史にまたがっています。

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ペルシャ帝国地図

第1章: ユダ王エホヤキムの3年、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを包囲した。王エホヤキムは神の家の器具のいくつかを譲って和平を請うた。王ネブカデネザルはそれをバビロン(シナル)に持ち帰り己の神の庫に入れた。ここに王の侍人長アシペナズに命じてイスラエルの子孫から王の血筋と貴族の者を何人か召して、姿宜しく智慧の道に聡く能力ある若者に、カルデアの文学と言語を学ばせた。3年間かれらを教育し王の相手に採用した。この中にユダヤ人ダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤがいてダニエルをペルテシャザルと名付けた。ダニエルは王の飲む酒と食べ物で己を穢すまいと決意し侍人長の慈悲と寵愛を獲得した。この4人の若者は神の知識と文学と知恵に優れていた、なかでもダニエルは夢解きや異象を得意とした。この4人は王の前にいつも呼ばれた。ダニエルはペルシャ王クロスの元年まで存在した。
第2章: バビロンの王ネブカデネザルの2年、王は夢を見たがその夢の義を知りたいと思ってカルデヤ人の智者に命じた。しかしカルデヤ人は王が夢の内容を先に示されないと答えられないというと、王は激怒しこのカルデヤ人を殺すことを王の侍衛長アリオクに命じた。アリオクがバビロンの智者を殺そうとすると、はアリオクに少し時間を頂ければ夢占いを示すことができると答えた。ダニエルは天の神がその秘密を示されたので、急ぎ王の前に出て夢の義を説明した。王は寝る前に将来のことを案ぜられたが故に秘密を顕す者が将来のことを王に知らせたのだと申し上げ、ネブカドネザル2世は夢の中で頭が純金,胸と腕が銀,腹と腿が青銅、すねが鉄、足は一部が鉄で一部が陶土できた像の夢を見た。そこに一個の石が投げつけられ陶製の足を砕き、像は粉々になり、跡形も無くなるが、石は山のようになって全地に拡がるという夢であった。ダニエルは、金の頭はネブカドネザル2世自身であり、銀、青銅、鉄、陶土はバビロニア王国の跡を継ぐ、より劣った王国を表し、これらはついに永遠に続く大きな石のような神の王国によって滅ぼされるだろうと解いた。感じ入った王はダニエルを拝し礼物と香を贈った。汝らの神は神の中の神にして能く秘密を顕かに示した。こうして王はダニエルに高位を授け取り立ててバビロン全国の総督に命じたという。またバビロンの智者を統べる首長(大学総長)にした。他の3人の友人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴもバビロン州の役人に取り立てた。
第3章: 王ネブカデネザルは高さ32.4m、幅3.3mの金の像を作りドラの野に立て、役人や州牧、将軍、有司を集めて告成式を行った。像の前で音楽が奏せられている間全員はひれ伏して金の像を拝すべしということになったが、カルデア人が言うに、ダニエル(ベルテシャザル)の3人の友人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはひれ伏さなかったと王に告げた。王は怒って燃える炉に3人を投げ込めという命を出した。3人の友人は我らは汝の神に仕えずまた汝の立てる金の像を拝まない、たとえ炉に投げ込まれても我らの神は救うであろうといった。3人を炉の近くまで連行した者どもはあまりの炎の強さに焼死した。ところが炉の中に4人の姿(一人は助ける天使)が見えたので取り出すと、3人は健全な体のままであった。王は3人の神は讃むべき、今後彼らの神を罵ってはいけないと命を出した。
第4章: 王ネブカデネザルはバビロン宮殿において君臨し繁栄していたが、或る夜夢を見た。その意味をいろいろ考えて心を悩ませたが、バビロンの智者、博士、法術士、占い師を集めて、その解き明かしを得ることはできなかった。そこでダニエルを呼んだ。ネブカドネザル2世が別な不吉な夢とは、それは天に達する一本の高い木に、豊かな実が実り、鳥が巣を作り、動物は木陰に宿っていたが、聖なる天使が下って来てその木を切り倒し、切り株だけを地中に残したというものであった。ダニエルは、木は栄光と権力を握る王自身を表し、主がすべてを支配する事を知らせるために、王は動物の境涯に落とされるであろうと解き、王位を失うことを意味すると答えた。そしてネブカドネザル2世に死ぬまでに正気に戻りエホバを称えるように説いた。ここにおいて我ネブカデネザルは天の神を褒め称えかつ崇める、神の技は全て真実で、彼の道は正しい。自ら高ぶる者は断たれんと悟ったという。
第5章: 第2代ベルシヤザル王、大臣らト千人の大酒宴を催した。その時ベルシヤザル王は父ネブカデネザルがエルサレムより奪い取った金銀の器を席に差し出すよう命じた。列席者はその器で酒を飲み金銀銅鉄木石の神を称えた。その時人の手が現れて王の宮の塗り壁にものを書いた。その時王の顔色が変わり、膝が震え心が乱れた。そこで法術士占い師を呼びの謎解きをした者には紫の衣を着せ首に金の鎖を掛けさせ国の第3の牧伯にすると告げた。王の智者ではその文字を読むことはできなかった。大后が先の王ベルシヤザルが重用していたダニエル(ベルテシヤザル)を呼んで読ませてはどうかという話になり、ダニエルが王の前に呼ばれた。ユダの囚われ者であるダニエルの解読は次のようであった。大宴会のとき、一本の手が現れ宴会場の壁に「メネ、メネ、テケル、パルシン」と描いた。メネは数えるという事であり、神があなたの治世を数えてそれを終わらせられたと解いた。テケルは量を計ることで、あなたは天秤にかけられ不足と見られたと解いた。パルシンは分けるという事で、あなたの王国はメディアとペルシャに与えられると解いた。バビロン王ベルシヤザルはその夜殺され、メデア人ダリヨスがその国を奪った。この時ダりヨスは62歳であった。
第6章: ダりヨスは120人の牧伯を立てて全国を治めた。その上に3人の監督を置いた。ダニエルはその一人になった。更にダニエルは監督の長になり全国を治めることになった。州牧および他の監督はダニエルの失脚を狙ったがその隙がなかったので、王に提訴して是より30日間だけは王だけが願い事をしてよい、他の者が願い事をしたら獅子の穴に投げ入れるという禁制を布告させた。ダニエルはエホバに一日に三度祈りを捧げる習慣があったのを知ったうえでの謀略であった。そして彼らはダニエルは禁制を守らなかったと、王に讒訴をした。メデアおよびペルシャの律法に従い罰を下すことを王に求めた。この謀に不満な王はダニエルをしぶしぶ穴に投げ込んだが、心配で夜も寝られず翌朝早く様子を伺いに獅子の穴にやってきたが、ダニエルは我が神が獅子の口を閉じさせたので無事ですと伝えた。王は逆に讒言した者及び家族を獅子の穴に投獄した。そして王は詔を出してダニエルの神を畏れ敬うべしとした。ダニエルはダリヨスの世とペルシャ人クロス王の世において栄えた。
第7章: バビロンの王ベルシヤザルの元年にダニエルは夢を見て幻を得た。諸国興亡の預言であった。第7章は第1回目の預言である。4つの大きな獣が海より上がる。@獅子のごとく鷲の翼をもつ獣、翼を取られ足にて立ちかつ人の心を持つ。A熊のごとき獣、歯の間に3つの脇骨を咥え、多くの肉を食らえという。B豹のごとき獣、背に翼を4つあり、また4つの頭をもち統轄権を持つ。C大いに強く大きな鉄の歯がありかみ砕いて残りを足で踏みつけている。角が十あり、その中から小さな角が出て周りの三つの角が抜けた、小さな角には目があり口がある。宝座を年老いた者が占め書を開いて審判をおこなう。他の獣はその権威を奪われたが生きていた。年老いた者の前で権と栄と国を賜いて諸民族を統括する。その権は失われることなくその国は亡びることなし。ここにダニエルがその夢の真意に心を悩ました。この4つの大いなる獣は世に興らんとする4人の王であり、至高者より国を受け国を保つ。第4の獣は地上の第4の国である。全世界を支配する大国である。十人の王が並び立つが一人の強い王が3人の王を倒すという諸国の興亡の預言であった。(ただ何を言っているのか具体性がなく、預言が当たったかどうかの実証もない)
第8章: 第8章は第2回目の諸国の興亡の預言である。バビロンの王ベルシヤザルの3年にダニエルは再び諸国興亡の預言を得た。第7章の預言の書き改めである。牡羊が亡び牡山羊なるが勝利するが、4つの国が興る。 バビロンがペルシャによって滅んだあと、ペルシャ帝国による世界支配となる。そこからまた4つの角なる国が興る。ギリシャ、イスラエルはその小さな1角となる。毀され踏みつけられた聖所はいつになったら解放されるは約6年後にエホバの怒りが解けてからであるという。この章は非常に難解です。本文から私が読み取れるのは上の記述程度ですが、ある歴史家と牧師らは次のような読み方をします。「なんと一頭の雄羊(ペルシャ)が川岸に立っていた。それには二本の角(メディャ・ペルシャ)があって、この二本の角は長かったが、一つはほかの角よりも長かった。その長いほうは、あとに出て来たのであった。私はその雄羊(ペルシャ帝国)が、西や、北や、南のほうへ突き進んでいるのを見た。どんな獣もそれに立ち向かうことができず、また、その手から救い出すことのできるものもいなかった。それは思いのままにふるまって、高ぶっていた。一頭の雄やぎ(ギリシャ)が、地には触れずに、全土を飛び回って、西からやって来た。その雄やぎには、目と目の間に、著しく目だつ一本の角(アレクサンドロス大王)があった。雄やぎ(ギリシャ)は雄羊(ペルシャ)を地に打ち倒し、踏みにじった。この雄やぎ(ギリシャ)は、非常に高ぶったが、その強くなったときに、あの大きな角が折れた。そしてその代わりに、天の四方に向かって、著しく目だつ四本の角(ギリシャは四つの国に分割された)が生え出た。そのうちの一本の角(シリヤのセレウコス家)から、また一本の小さな角(アンティオコス4世・エピファネス)が芽を出して、南と、東と、麗しい国(イスラエル、ユダヤ)とに向かって、非常に大きくなっていった。エルサレム神殿における常供のささげ物は取り上げられ、その聖所(エルサレム神殿)の基はくつがえされる。軍勢(イスラエルを意味する)は渡され、イスラエルがエピファネスの支配下に置かれた。」
第9章: メデア人ダリヨスがバビロンの王となった元年、ダニエルがエホバの預言者エレミヤに臨んだ年は、エルサレムが荒れ果てて70年後のことであった。ダニエルは預言者エレミヤのことばによって70年の捕囚が終わる事を知りました。捕囚の70年(実際は50数年間)は、神が意図をもって定めたものであり、神の民が心を尽くして神を捜し求めさせるためでした。ダニエルは麻の衣を来て断食し灰をかぶって祈祷し、エホバに懺悔して言う。我らは罪を犯し叛いて戒めと律法を離れたり。主よ公義は汝に在り恥は我らに帰す。憐れみと赦しは主なる神のうちにあり、そもそもイスラエルの民は皆汝の律法を犯し汝の詞に従わなかった。モーセの律法に記された呪いと誓詞が我らの上に灌がれた。汝の邑エルサレム汝の聖山より汝の怒りと憤りを取り離したまえ、我らが汝の前に祈りを奉るのは時分の義しさによるのではなく、ただ汝の憐れみにすがるによる。主よ許し給え、聴き入れ給え、我が神よ汝自らのためになし給えば汝の邑と民は汝の名を以て称えられん。ダニエルがそのような祈りをささげていたときに、神の御使いガブリエルが遣わされてダニエルに近づいて来て、次のように告げたのです。 神の最終的な御国が打ち建てられるという有名な「七十週預言」と言われるものです。このことを悟るようにとダニエルは求められたのです。70週(約6年)を定めて悪を抑え罪を封じて咎を贖い、義を行い、預言を実証し、至聖者に膏を注がんという課題です。次の第25節から27節がまた難解です。25節は、れゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。26節はその六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。第27節は彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。
第10章: 10章〜12章までは、実際には一つの幻をダニエルが見たことについて述べています。10章はその序(導入するための備え)というべきものであり、11章は幻とその解釈であり、12章は結語となっています。クロス王の治世元年に、ユダヤ人のエルサレムヘの帰還が始まり、神の民の70年捕囚は終わりを告げました。しかしダニエルはそのままペルャにとどまったのです。その頃のダニエルの年齢はおそらく90歳前後と考えられます。彼はエルサレムに帰還しませんでした。ペルシャ王クロスの3年にダニエルは一つの黙示を得た。そのことばは真実で、大きないくさのことであった。彼はそのことばを理解し、その幻を悟っていた。「大いなる戦い」とは、天における神とサタンとの戦いです。ダニエルは、三週間の喪に服していた。三週間、ダニエルは、ごちそうも食べず、肉もぶどう酒も口にせず、また身に油も塗らなかった。
第11章: メデア人ダリヨスがバビロンの王となった元年ペルシャに3人の王(@カンビュセス、Aスメルディス、Bダリヨス・ヒュスタスペス)が興ったが、4人目の者(クセルクセス)がすべてを支配しギリシャを攻めた。ひとりの勇敢な王(アレクサンダー大王)が起こり、大きな権力をもって治め、思いのままにふるまう。しかし、彼の国は破れ、天の四方に向けて分割される。「北」と「南」の基準は神の民ユダヤ(エルサレム)の位置から見た方角です。「北」はペルシャ「セレウコス王朝」、「南」はエジプト「ブトレマイオス王朝」です。彼ら(プトレマイオス家とセレウコス家)は同盟を結び、和睦をするために南の王の娘(ベルニケ)が北の王(アンティオコス2世セオス)にとつぐ。しかし北と南の王国は戦いを繰り返す。本章5節から20節までその戦いのシーソーゲームが続くがこれは省略する。第1節から45節までは、ペルシャのセレウコス王朝の内部抗争と宗教支配についての記述である。ひとりの卑劣な者(巧言を弄する者)が起こる」にある「彼」をセレウコス4世と解釈し、その後の「ひとりの卑劣な者」をアンティオコス4世エピファネスのことであるという解釈がある。アンティオコス4世エピファネスは多くの財宝を携えて、彼の心は聖なる契約(選民であるユダヤ人の信仰)を敵視して、ほしいままにふるまい、自分の国に帰る。彼エピファネスは再び南へ攻めて行くが、キティムの船(ローマの艦隊)が彼エピファネスに立ち向かって来るので、彼は落胆して引き返し、聖なる契約にいきりたち、ほしいままにふるまう。その聖なる契約(ユダヤ人の信仰)を捨てた者たちを重く取り立てるようになる。思慮深い人(神を恐れるユダヤの人々)のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白くするために倒れる。彼はとりでの神(宗教的権威・経済的力・軍事力をもった偽りの神)をあがめ、金、銀、宝石、宝物で、彼の先祖たちの知らなかった神をあがめる。また彼は外国の神の助けによって、城壁のあるとりで(神の都エルサレム)を取り、彼が認める者には、栄誉を増し加え、多くのものを治めさせ、代価として国土を分け与える。南の王が北と戦いを交える。北の王は戦車、騎兵、および大船団を率いて、彼を襲撃し、国々に侵入し、押し流して越えて行く。彼は麗しい国(イスラエル)に攻め入り、多くの国々が倒れる。しかし、エドムとモアブ、またアモン人のおもだった人々は、彼の手から逃げる。彼は金銀の秘蔵物と、エジプトのすべての宝物を手に入れ、ルブ人とクシュ人が彼につき従う。彼は、海(地中海)と聖なる麗しい山(シオンの山)との間に、本営の天幕を張る(ハルマゲドンの戦い)。しかし、ついに彼の終わりが来て、彼を助ける者はひとりもない。
第12章: 民の艱難の時期に大いなる君ミカエルが現れる。汝の民は救われる。「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」ダニエルが見ていると、見よ、ふたりの人が立っていて、ひとりは川のこちら岸に、ほかのひとりは川の向こう岸にいた。ダニエルは川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人に言った。「この不思議なことは、いつになって終わるのですか。」答えは「ひと時とふた時と半時」とは、三年半に相当します。この時がユダヤ人にとって大患難の時、最大の試練の時を迎えます。あの亜麻布の衣を着た人は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。」それは千二百九十日である。

6) ホセア書

ホセア書以下12篇の預言書は、アウグスチヌスの「神の国」以来「十二小預言書」と呼ぶことがある。アモスとホセアはイスラエル王国のヤラベアム2世の時代から滅亡期までにかけての預言者。「十二小預言書」全体の成立時期は紀元前3世紀から前2世紀とされる。ホセア書に同時代人として挙げられている王の名はイスラエル王国・ユダ王国末期のものであり、これを信ずるなら紀元前8世紀末の人物である。作者がホセアであることと、その預言期間がウジヤの治世からヒゼキヤの治世にまで及ぶとされる。神に度々反抗したイスラエルに対する裁きの音信であり、神はイスラエルを見放すという内容である
第1章: ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒビキヤの世、イスラエルの王ヤラベアムの世にエホバの詞ベエリの子ホセアに臨む。汝淫行の婦人を娶り淫行の子を産めと、ホセアはデブライムの女子ゴメルを娶り男子を生んだ。エホバ言う、その子をエズレルと名付け、我エズレルの血をエヒフの家に報い、イスラエルの家の国のを滅ぼすであろう。エズレルの谷にてイスラエルの弓を折る。ゴメルは女子を生めばエホバは言う、その名をロルハマ(憐れまぬもの)と名付けよ、我はもはやイスラエルの家を憐れまないからだという。しかしユダの家は憐れみ救わん。さらにゴメルは男子を生めばエホバは言う、その子の名をロアンミ(わが民にあらず)と名付けよ、汝らは我が民ではないからだ。しかし汝らの子は神の子と言われユダとイスラエルの子孫は共に一人の首を立て栄えん。
第2章: 汝の兄弟はアンミ(我が民)、姉妹はルハマ(憐れまない者)と呼べ。汝ら母を攻めよ、母はわが妻ではない私も夫ではない。妻は全身が姦淫に染まっている。彼女は恋人の後を慕いて行けど、我は追わない。彼女の食糧は我が賄ったもの、異教バアルに彼女が用いた金銀は我から出ていることを彼女は知らない。彼女の衣食を我が奪えば彼女は恥ずかしい裸同然である。誰も救う者はいない。我彼女を導いて荒れ野に至り慰めん。彼女の口からバアルを取り除いたら仲直りしてよい。エホバ言い給う、その日我は応えん、天は地にこたえん、我我がために彼を地に播き憐れまざる者を憐れみ我が民でない者を汝は我が民なりといわん、彼らは我に向かいて汝は我が神というだろう。
第3章: エホバ、ホセアに臨みて言い給う、すでに女奴隷、あるいは神殿娼婦となっていたゴメルを、ホセアは主の命令に従い彼女を代価を払って買い戻します。その代価とは「銀十五シェケルと大麦一ホメル半」です。イスラエルの民は王なく君なく生贄なく表柱なく散らばっていた。しかし最後の日にはダビデの道に戻りエホバの恩恵に頼るであろう。
第4章: イスラエルの民よエホバの言を聞け、この世には誠なく愛情なく神を知る事もない。ただ偽り人殺し盗み姦淫が横行し互いに憎しみ殺しあっている。人は争うべからず。我が民は智慧知識がないと滅ぼされる、律を忘れる民を我は忘れん。淫行と酒とはその人の心を奪う、神を離れて淫行をなす。イスラエルよ汝姦淫をなすなユダに罪を犯すなかれ、ギルガルに行くなベテアベンに上るな。
第5章: 祭司らよ聴け、イスラエルの家よ耳を傾けよ、王の家よこれに心を注げ、裁きは汝らに臨まん。叛く者は深く罪に沈み、我はエフライムを知るイスラエルは淫行をなせりすでに汚れたり。イスラエルの傲慢はその顔に歴然と現れ、その罪によってイスラエルとエフライムは仆れユダもこれと共に仆れる。罰せられる日にエフライムは荒廃し、ユダの牧伯らは境を侵すゆえにわが怒りを彼らの上に灌ぐ。エフライムは虫食われのごとく、ユダは腐朽のごとし。エフライムはアッスリアのヤレブ王に援助を願ったが果たさず、救うものなし。彼らが艱難のためにエホバに戻る迄待つ。
第6章: 来たれエホバに還れ、エホバは我らを撃ち給いしがその傷を包むことをなせり。エホバは2日後我らを生かし、3日には我らを立たしめん。ゆえにエホバを知るべし。我エホバは預言者をもって汝らを撃ち、我が口により汝らを殺した、審判は電光石火のごとし。我は愛情を喜び生贄を喜ばず、神を知る事を喜ぶ。しかるに汝らはアダムのごとく誓いを破り不義を行った。ギレアデは悪の邑、祭司らは山賊の群れ、エフライムは淫を行いイスラエルは穢れたり。ユダよ我が民を還さんときまた汝のために刈り入れに備えん。
第7章: 我イスラエルを癒さんとするとき、エフライムの咎とサマリヤの悪が露呈した。彼らは悪をもって王を喜ばしその偽りをもって諸々の牧伯を喜ばした。エフライムは異邦人と雑じり、エフライムは還らない餅となった。イスラエルの驕りは顔に現われ彼らはエホバに帰ることをせず又求めることもなかった。エフライムは智慧の無い鳩のようにエジプトに助けを求め、またアッスリアに傾く。彼らの牧伯はその舌の荒き言によって剣に仆れ、エジプトにて嘲りを受けるだろう。
第8章: 喇叭を口に当てよ、この民が我が契約を破った故に敵がエホバの家に襲い掛かった。彼らは王を立てたがエホバの与るところではない、彼らは牧伯を立てたがエホバは知らない。彼らは金銀で偶像を作ったがエホバのためにしたことではない。サマリアの仔牛像は砕けて粉となる。イスラエルは列国から喜ばれない器となり、独りいる野のロバのごとし。エフライムは財宝を贈って友人を得たが、その財も尽きた、エフライムは多くの祭壇を作って罪をおかした 。
第9章: イスラエルよ酒船と打ち場は汝を養わず、新しい酒もむなしく、エフライムはエジプトに還りアッスリアで穢れた物を食う。酒を壇に灌ぐべからず、肉、パンはエホバの悦び給う物にあらず。刑罰の日来たり応報の日来たれりこれを知らない預言者は愚かなり。エフライムは我が神に並べて他の神も望めり。昔イスラエルを見ることは荒れ野の葡萄のごとく、先祖を崇めることは無花果の果のごとし。今や彼らは身を汚辱に委ね憎むべき存在となれり。我かしこにて憎めりその行為悪しければ我が家より追い出して、重ねて愛する事はしない。彼らは聴き従わざるにより我が神はこれを棄てたまう。列国民のうちのさすらい人になった。
第10章: イスラエルは実を結び茂り栄える葡萄の樹、その民多くなるにつれて祭壇の数を多くし偶像を美しく飾った。神は祭壇を毀し偶像を打ち砕く。空しきことを言い出し偽りの誓いをなした。サマリアの民はベテアベンの仔牛の像に事で審判に戦慄する。サマリアは亡びその王は水の上の木くずとなる。アベンの高き丘は荒れ果てうち捨てられた。イスラエルはギベアの日より罪を犯し我彼らを戒めん。エフライムは慣らされた牝牛のように土を踏み我その首に重き物を負わしむ。汝は義しきことの種をまき憐れみに従って刈り取り、新地を開け今はエホバを求める時である。
第11章: イスラエルは幼い時我汝を愛しエジプトから呼び出した。成長するにつれエホバの声に遠ざかり諸々のバアルを拝し偶像を作った。我は愛の綱をもって彼らを導いた。彼らはエホバに還らざるによってアッスリアを王とした。剣諸々の邑を襲い汝の邑を滅ぼさん。エフライムよイスラエルよいかにして汝を棄てんや、我の愛隣燃え上がり、怒りの炎静まれり。我は人にあらず神なればなり。急ぎ来たりてエホバの家に住まうべし。しかるにエフライムは偽りをもって、イスラエルは謀りをもって我に抗し、ユダはたださ迷うばかりなり。
第12章: エフライムは風を食べて生き、いつも東風を追い、まやかしと暴虐とを増し加えている。彼らはアッシリヤと契約を結び、エジプトへは油を送っている。エフライムは主の激しい怒りを引き起こしたことが主題であり、創世記にさかのぼり北イスラエルがヤコブと重ね合わせられているのです。エホバはユダと争うヤコブを罰する。エフライム(北イスラエル)はカナン人で商売人だった。商いで財を成したエフライムはどこにも不義はないと世俗的豊かさを肯定する。しかしエホバは彼の行為をしっかり見ており、彼の言は空しい、エフライムはエホバの怒りを激えること甚だしく、主は彼が流した血を彼の上に留め、辱めを与えるという。北イスラエル王国と南ユダ王国への主の見方には温度差が大きい。
第13章: エフライムは言をなさば人を罵り、自分は偉いととするが、バアルの偶像の罪により一度は滅んだが、いまなおますます罪の上塗りをしている。エホバ以外に汝らを救う者はいない。イスラエルよ汝の滅びるのは我に叛き汝を助ける者に叛くからである。汝に味方する王や牧伯はどこにもいない。
第14章: イスラエルよ汝の神エホバに還れ、汝は不義のために仆れたり。その口はエホバに還ってから言え、諸々の不義は赦して善いところは受け入れ給えと我の口はエホバに捧げんと。我彼らの反逆を癒し、喜びて之を愛す、怒りは彼を離れたり。我はイスラエルに対しては露、汝は百合の花のごとく、レバノンに根を張らん。その芳ばしきはレバノンの酒のごとし。

7) ヨエル書

ヨエル、ヨナ、ハガイ、ゼカリヤ、マラキは捕囚後開放時代の預言者である。黙示文学。作者はペトエルの子ヨエルであるという。ヨエル書の作製年代を、エルサレム帰還後で、エルサレム神殿再建完了(紀元前516年)の前に置く。
第1章: ペトエルの子ヨエルに臨めるエホバの言。老いたる人、この地に住むすべての人よ耳を傾けよ、汝らこのことをその子に語り、子々孫々語り伝えよ。酔った者よ目を醒まして哭け、酒を飲む者よ泣き叫べ、新しい酒が無くなるからだ。我が国を攻め寄せる異なる民のいきおい強く獰猛なり。汝ら嘆き悲しめ、素祭灌祭ともにエホバの家に絶え、祭司らこれを悲しむ。田畑荒れ穀物、新しき酒尽き、油絶えんとす。葡萄の樹は枯れ、無花果の樹は萎れ柘榴林檎はしぼみたり。祭司よ麻布を腰に巻いて泣き叫べ、なんじら断食を定め集会を設け長老を集め、国民をことごとくエホバの家に集め、エホバに向かって呼ばわれ。ああその日は禍かな、暴風のごとき全能者来る。喜びと楽しみは絶えたり。種は朽ち、羊の邑は死す。
第2章: エホバの日来たらば、シオンにてラッパを吹き鳴らせ、民は皆震い戦慄かん。その炎過ぎし後は荒れ果てたる野のごとし。エホバの軍勢の前に民は色を失う。勇士のごとく軍人のごとく邑を駆け巡り石垣の上を走り家に侵入する。エホバ言い給う、汝ら断食と嘆きと悲しみによって心を尽くしてエホバに還れ、地よ懼れる勿れ喜び楽しめエホバ大いなることを行い給う。野の獣よ懼れる勿れ、牧草は萌え出で樹は実を結び、葡萄、無花果の樹は勢いを増したり。我が汝らに派遣した大群すなわち蝗の大軍は飽きるまで食い尽くし田畑樹そして汝らの庫を嘗め尽くせ。汝の神エホバは我のみで他にはないことを知るだろう。その後我霊を凡ての人に灌ぐ。エホバの大いなる畏れの日来たらん。
第3章: 見よ我ユダとエルサレムと囚われ人を還さんその日その時、万国の民を集めヨシヤパテの谷にてイスラエルのために万国の人を裁く。ツロ、シドン、ペリシテ、すべての国よ汝らは我に何をしたというのか、イスラエル人に対する悪しき扱いを思い起こせ。諸々の国に伝えよ、戦いの準備を行え勇士を集め鎗を集めよ、エホバの義軍これを殲滅せん。周辺の国々の民を裁く。エホバは汝の神にして聖山シオンに住む、エルサレムは聖所で異邦人は入れない。エジプトは廃れエドムは荒れ野になる。ユダの子孫を虐げ罪なき者を殺した者の血をその地に流す。

8) アモス書

アモス書 にも、主の日(神による審きの日)の到来という、ホセア書と同じテーマを扱っていることなどから、執筆年代はホセアと同年代(紀元前8世紀前半のヤラベアムU世統治のころ)と考えられている。作者はアモスで、南ユダ王国テコア出身の牧夫であったという。時期については、ウジヤ(ユダ王国)、ヤラベアム2世(イスラエル王国)の分裂王国時代であった。内容は大きく4つに分けることが出来る。@近隣諸国の民と、南ユダ王国、北イスラエル王国に対する神の裁きの宣告 Aイスラエルの支配者たちへの悔い改めの要求 B裁きについての5つの幻(イナゴ、燃える火、重り縄、夏の果物、祭壇の傍らの主) Cダビデの系統を引くイスラエル民族の回復である。
第1章: テコアの牧者の仲間であったアモスが、ユダ王ヤラベアムの治世の地震の2年前に見たこととイスラエルの将来について語った。エホバ、シオンより声を出し給う。牧場は嘆きカルメルの嶺は枯れる。
@ダマスコに3つの罪あり、4つの罪あれば必ず罰して許さず。彼らは鉄の戦車でギレアデを撃った。これに対しエホバはハザエルの家を焼き、ベネハダテ宮殿を焼いた。ベテエデンより王家の者を絶つ。スリアの民は囚われてキルに連行される彼らは捕虜をことごとくエドム人の手に渡した。これに対してエホバはガザを焼きアシドドの民を絶った。アシケロンより王家一族を絶った。またエクロンを撃ってペリシテ人を絶った。
Aツロには3つの罪あり、4つの罪あれば必ず罰して許さず。彼らは捕虜をエドム人の手に渡し、兄弟の契約を忘れた。これに対してエホバはツロの邑を焼いた。
Bエドムには3つの罪あり、4つの罪あれば必ず罰して許さず。彼は剣をもってその兄弟国を追い払い、常に怒って人を害した。これに対してエホバはテマンを焼きボズラの宮殿を焼いた。
Cアンモンには3つの罪あり、4つの罪あれば必ず罰して許さず。彼らは国境を広げるためギレアデを侵した。これに対してエホバはラバの石垣の内を焼き、彼らの王と牧伯を捕えた。
第2章: Dモアブには3つの罪あり、4つの罪あれば必ず罰して許さず。彼エドムの王の骨を焼いて灰にした。これにたいしてエホバはモアブに火を送った。ケリオテも家を凡て焼いた。裁判長を除きすべての牧伯を殺した。
Eユダには3つの罪あり、4つの罪あれば必ず罰して許さず。彼らはエホバの律法を軽んじ法を守らず偽りのものにうつつを抜かした。これに対してエホバはユダに火を送りエルサレムの宮殿を焼いた。
Fイスラエルには3つの罪あり、4つの罪あれば必ず罰して許さず。彼らは義なる者を金のために売り、貧しき者を靴1足のために売った。姦淫により我が名を穢した。質に取った着物を壇の下に敷いて罰金で得た酒を飲んだ。むかし荒野においてアモリ人の土地を汝に与え、預言者にナザレ人を興した。しかるにナザレ人に酒を飲まして預言することを禁じた。これに対してエホバは汝らを圧迫せん。勇士も逃げ出し命を救うことはできない。 
第3章: イスラエルの子孫よエホバの言を聴け、邑に禍が起こるのはエホバの降し給うところである。エホバの言は預言者に伝えて皆に知らしめる。アシドドに伝えエジプトに伝え、大きな紛争を見よ。彼らは正しきことを行わず、虐げた者から奪いとった財を庫に蓄えた。エホバ言い給う、この国を攻め囲み権力を汝から奪う、ヤコブの家に証しせよ罪を罰する日にはペテルの壇は崩される。
第4章: バシヤシの家の者よ汝ら弱き者を虐げ、主に向かいて酒を飲ませろと言う。エホバ汝らの上に臨んで言い給う、悪しき者は一人一人引き出して審判を行う。彼らべテルに行きて罪を犯し、ギルガルでさらに罪を犯した。エホバ飢饉をもたらしと言えども汝らエホバに還らず。疫病をおこし剣をもって若き人を殺し、馬を奪った。ソドムはゴモラのごとく廃墟となった。我汝らにかく行わん、エホバに会する準備をせよ。
第5章: イスラエルの家よ、これはエホバの哀感の歌を聞け。イスラエルは仆れて起き上がれず、10人のうち生き残ったのは1人であった。エホバ言う、汝ら我を求めよさらば生きるべし。ぺテルを求めるなギルガル、ベエルシバに行くな、エホバは滅亡を強い者に臨ましめ、城は滅亡寸前となった、汝らの咎は大なり。汝ら善を求めよ悪を求めなければ汝ら生きるべし。エホバの日を求めるは禍である、昏くして光なし。我、汝らの素祭、集会、感謝祭を受け入れない、汝ら声を立てるな聴きたくもない。イスラエルの家よ汝らは40年間荒れ野に居ル間、犠牲と供物を我に献げたことがあるか、汝らは王シクテを負い偶像キウシ(星)を担えり。
第6章: シオンにいる者、よく考えもせずに、イスラエルの家に従わず、サマリアの優れた国を理想とするのは禍である。カルネ、ハマテ、ガテをよく視よ、彼らの土地は汝らの土地より大きいか、禍の日が近づいても汝らは傲慢で贅沢三昧を追い求めるのはヨセフの艱難を顧みないことである。エホバはヤコブの宮殿を忌み嫌う、そこにいるものはすべて殺し、すべての殿は灰燼に帰せん。イスラエルの家よ、我一つの強国を興して汝に敵とさせる。
第7章: エホバが放った蝗の大軍は青草を食い尽くしたので、我アモスは、ヤコブの末裔は小さい争いでしか立つことができないのでエホバに許しを請いイスラエル人の絶滅をまぬがれた。エホバ火をもって罰せんとしてイスラエル人の産業の地をことごとく焼かんとした。我アモスは、ヤコブの末裔は小さい争いでしか立つことができないのでエホバに許しを請い焦土化を免れた。エホバは石垣の上に測量用の縄をもって立ち給う(罪の軽重を問う)。エホバ言う我彼らを見過ごしにしない。我剣をもってイスラエルのヤラベエム王家を撃つと。アモスは言う、ヤラベエム王は剣により殺されイスラエルは捕らえられる。我はユダの地に遁れん。べテルの祭司アマジヤはアモスに言う、汝べテルについて預言するな、ここは王の聖所なればなり。アモスは答えて、私は預言者ではない我は牧者であった。しかしエホバが言えと言うのでイスラエルに向かって預言する。アマジヤの妻は邑の中で妓婦となり子どもは剣に仆れ、汝の土地は分割される。汝は穢れた地で死に、イスラエル人は捕らえられこの国を離れるだろう。
第8章: エホバ、アモスに示し給う。その日には宮殿の歌は嘆きに変わらん、屍夥しく棄てられん。貧しき者を虐げ困難者を滅ぼす者よこれを聴け、偽りの秤で穀物を売る者、銀をもって卑しき者を買い、靴一側で貧しき者を買うかつ屑麦を売らんとするもの、我彼らの一切の行為をいつまでも忘れない。その日は太陽を真昼に没しめて暗くし、汝らの節莚を悲痛に変わらせ、汝らの歌を尽く嘆きの歌に変える。その時エホバの言を聴くことの飢饉を贈る。北から東へエホバの言を求めても聞くことはできない。何故なら我は汝らから姿を消したからである。
第9章: 汝らには逃げる所はない。壇の上に置いても殺されん、冥府に逃げても引き出され、天に逃げても引きずりおろされ、カルメルの頂に隠れても引き下ろされる、海の底に隠れても蛇を遣わす。エホバ地を触れば地は溶け、全地は吹き上がる。エホバその目を罪を犯した国に注ぎ、これを地より滅した絶つ。イスラエルの家は篩にかけて一人残さず目こぼしはない。自分には禍は及ばないと言い張る者は皆剣にかけて殺す。その日にダビデの幕屋を建て直すべし。葡萄は実り酒はしたたり丘を流れるだろう。われイスラエルの俘虜を還し、彼らは荒れた邑を建て直し、そこに葡萄園を作って酒を飲む。

9) オバデヤ書

オバデア、ミカ、ナホム、ハバクク、ゼバニアはバビロン捕囚期の預言者である。筆者は伝統的にオバデヤとされる。この名は字義通りには「主(ヤハ)の僕(または崇拝者)」を意味する。オバデヤ書は大きく分けると「エドムの傲慢と滅亡」と「イスラエルの回復」の項目から成る。エドムとイスラエルの先祖は、エサウとヤコブの兄弟であり、したがって2つの民族は兄弟であるとみなされた。このような血族への暴虐によって、エドムは恥と滅びを永遠に蒙ると宣告される。作製時期は「エドムは兄弟であるイスラエル民族が攻撃されたときに見捨てたため、滅ぼされなければならない」という預言について考えると、紀元前605年から586年 - バビロンのネブカドネザル2世によりエルサレムが攻撃され、最終的にユダヤ人のバビロン捕囚が起こった時期が妥当である。オバデヤ書全体の主題は神の民ユダの敵の滅びである。
第1章: エホバの言予言者に臨み、立てエドムを攻撃せんと扇動する。汝を国の中で小さき者に賤しめる。汝の傲慢さは地に引き出すことは誰にもできないと嘯く。しかし汝鷲のように天高く挙がろうとも、我エホバは汝を引きずり下ろす。泥棒でさえ満足したら物を取ることは止める。しかしエドムはエサウの地からすべてを奪い去る。テマンよ汝の勇者は仆れん。汝は兄弟であるヤコブに暴虐を加えて世の面目を失った。異邦人が侵入して財宝を奪うときの汝はその一員のごとく振舞った。汝は汝の兄弟が滅ぶ日つまりユダの子孫の滅亡を喜ぶべからず。その苦難の日は口を開くな。エホバの日汝の応報は汝の首に帰す。ヤコブの家は焼かれ、ヨセフの家は火となり、エサウの家には残る者がいなくなっても、シオン山には救われる者らがいてその山聖所となろう。

10) ヨナ書

内容は預言者のヨナと神のやりとりが中心になっているが、ヨナが大きな魚に飲まれる話が有名。前半は、ヨナ自身の悔い改めの物語を描き、後半は、ヨナの宣教によってニネベの人々が悔い改めたことを述べる。ヨナ書の主題は、預言者として神の指示に従わなかったことと、ニネヴェの人々が悔い改めたことに対して不平不満を言ったことに対するヨナの悔い改め (=神に仕える者としての生き方を正す) と、神は異邦人でさえも救おうとしておられることの二つである。含蓄の多い話である。
第1章: エホバの言がヨナに臨み、ニネベに言ってその悪を攻めよ。ところがヨナはエホバを避けてタルシンに遁れるべく船に乗ったところが暴風雨が吹いて今にも難破の危険が迫った。船長が船底で寝ているヨナを起こし、誰のせいでこんな災難に遭うのかを決める籤引が行われ、籤がヨナに当たった。ヨナの素性について質問があり、ヨナは我はへブル人で神エホバを畏れる者であると答え、ヨナがエホバから遁れる旅にあることが分かった。そこでヨナは自分を海に投げ込めば海は静まるといい、ヨナは海を鎮める犠牲となった。ヨナが海に入ると嵐は止んだ。エホバは大きな魚を準備しておきヨナを呑み込ました。
第2章: ヨナ魚の腹の中でエホバに祈祷りて言う。われ黄泉の入り口まで往ったが、我が声はエホバに聞こえ、エホバの声が返ってきた。神エホバは我を救い上げ給えり、我感謝の声をもって汝に捧げものをなし誓願を行った。救いはエホバより出た。エホバはその魚に命じてヨナを陸に吐き出した。
第3章: 再度エホバの言がヨナに臨んだ、ニネベに行きエホバの言を述べよ。ヨナその大きな邑に入り初日は街頭で叫んだ、「この邑は40日後に滅ぶ」と。ニネベの人々、そして王たちも謹慎し、麻布を身にまとい断食令を出した。民はその悪しき行いを悔い悪を離れる請願を行い、神はその怒りを解いた。
第4章: 普通の話はここで終わりなのだが、ヨナはエホバが憐れみがあり怒ること遅く禍を悔い給う者と理解していたが故に、この顛末になることは予想していた。だから最初のエホバの命のときタクシンに逃げたのである。エホバよ願わくはわが命を取り給え、生きるよりそのほうがいいと抗議した。エホバは汝の怒るのももっともだと言って、ニネベの邑の東に小屋を作って住むことにした。エホバは小屋の上に瓢を植えて日を遮り、ヨナは喜んだ。そして翌日虫を送って瓢を食わせて枯れさせた。するとヨナは熱くて死にそうだと文句を言う。エホバ言う、こんな瓢の日除けという小さなことで一人の人間が生きるとか死ぬのももっともだ。しかし12万人の人口を持つ邑を枯らすことは私には惜しかったのだと。

11) ミカ書

作者は紀元前8世紀の預言者ミカに帰される。構成は7つからなり、本書の中でミカは支配階級に抑圧されている人たちの苦しみに共感し、横暴な人たち(その中には賄賂によって都合の良い預言をする預言者や祭司も含まれる)の不正を厳しく糾弾している。 ホセア書と同じ時代である。
第1章: ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒビキヤの世にモレシテ人ミカに臨めるエホバの言である。サマリアとエルサレムの破壊のことについて述べられる。万民よ聴け主エホバ汝らに証しを立てられる。ヤコブの咎イスラエルの罪の故に大地は裂け山は溶ける。サマリヤは野の石塚となり、石像は砕かれ金は溶け偶像は悉く毀れり。ミカはこれがために叫び駝鳥のごとく啼ん。サビル、ザアナン、ベデエゼル、マロテ、ラキン、モレセテガテ、アクジブ、マレシアに住む者嘆きに依りて立つところを知らず。
第2章: 不義を図り悪事を企てる者らに禍あれ、これより逃げる能わず、悲哀の歌を言い終われば我らは滅ぼされる。預言する勿れ、恥辱彼らを離れざる。人もし風に歩み偽りを述べ我葡萄酒と濃い酒のことについて我に預言するというのであれば、その人はこの民の預言者になれる。ヤコブの末裔よ悉く集え、我彼らをボズラの羊の群れの様に滅ぼさん。撃ち破る敵の王の前にたってエホバは進み給う。
第3章: ヤコブの首領よイスラエルの侯伯よ汝ら聞け、公義は汝らの知るべきことではない。汝らは善を憎み悪を好み弱き者の肉を食らう、汝らエホバを呼んでもエホバは応えず、隠れ給う。我が民を惑わす預言者は彼らに獲物を与える者に向かっては平安あらんと言い、何もくれない者に向かっては戦いの準備をせよという。エホバは彼らについて暗闇の中ではエホバは応答しない、その恥ずべき姿は赤面なりという。ヤコブの首領よイスラエルの侯伯よ聴け、彼らは血をもってシオンを建て、不義をもってエルサレムを建てる。彼らは賂をとりて裁きを行い、祭司らは金をとりて教えをなす、預言者は銀子を取りて占いをなし、エホバは我に居ますれば我らに禍はないという。
第4章: 審判の日になって、エホバの家は山の上に立ち諸々の頂を超えて聳え、万民川のごとくこれエホバに流れ帰す。律はシオンより出でエホバの言葉はエルサレムより出る。エホバは多くの民を裁き強き国を戒め給う。彼らは剣を鍬に変え、槍を鎌に変え、国と国は相攻めず重ねて戦をしない。一切の民は各々神の名に依りて歩む、我らはエホバの名に依りて永遠なり。その日には弱き者、追い散らされた者を集め強き民となさん。シオンの娘よ産婦のごとく苦しみ産め、いま村を出てバビロンに行かざるを得ず、彼処にて汝救われん。シオンよ武装して立ち上がれ、あまたの国民を打ち砕き彼らの財産を分捕りエホバに捧げよ。
第5章: べテレヘム、エフラタはユダの中では小さな邑であるが、イスラエルの君を昔より輩出してきた、(旧訳聖書は王権神授説により王家を保護し、外敵が顕れ国が滅ぶときは王と民の宗教心の喪失のせいにする。イスラエルを支配する外国の強国どうしの興亡はすべてエホバの計画によるエホバの大軍がなしたものと自分の成果にする。)彼はエホバの力によって立ち、今は大いなるものになった。彼は平和の力、アッスリア人が攻め入らんとするとき、7人の牧者、8人の君を立て対戦した。彼らアッスリアを倒し我らを救った。審判の日には彼らの軍備戦闘力は失われ、彼らの邑、城は廃墟となり、魔術士はいなくなり、柱像やアシラ像も倒される。
第6章: メシアが生まれる場所である小さな村ベツレヘムと、包囲されて打たれ、滅ぼされて神のさばきを受けるエルサレムとを対照させる。エホバはイスラエルと論争をなした。エルサレムよ我が民よモアブの王バラクが図りし事、バラムが反論したこと、シッテムからギルガルのことを鑑み汝らエホバの正義を知るだろう。善事の何なるかを汝に告げた、エホバが汝らに求めることはただ正義を行い憐れみを愛し遜って神と共に歩むことではないか。汝らは食うとも飽かないいつも腹をすかしている、汝らは移しても救うことはできない汝らの罪によって滅ぼすのみ。
第7章: 善人地に絶つ、人の中に直き者梨、皆血を流さんと伏して伺う、網をもって兄弟を陥れる。両手は悪をなすに忙しく牧伯・裁判人は賄賂を求め、力ある人とは悪をなす人のことである。何の神か汝に如かん、汝エホバは罪を赦して、生き残り者の咎を見過ごし給う。神は憐れみを喜ぶゆえに諸々の罪を海の底に沈め給う。

12) ナホム書

全3章から構成される。著者はナホムという名の人物とされる。預言の主題はニネベの陥落とアッシリアへの裁きである。成立時期はエジプトのテーベの滅亡が記されているので、紀元前663年より後、ニネベが陥落した紀元前612年より前である。
第1章: ニネベに関する重い預言、エルコシ人ナホムの書。(ニネベは古代メソポタミア北部にあったアッシリアの都市、新アッシリア王国時代に、センナケリブがニネヴェに遷都して以降、帝国の首都として大規模な建築事業や都市の拡張が行われた。紀元前612年、メディアとバビロニアとスキタイの攻撃を受けてニネヴェは陥落し破壊された。)エホバは嫉妬の神、復讐主義者の神、怒りの神、怒るのが遅い神、大いなる力の破壊の神である。山を崩し、洪水をもたらし、海を干上がらす神である。誰かその憤りに抗する者があろうとは思えない。エホバに向かいて謀る者悉く滅ぼし給う。ニネベに告げる、汝のことについて命令を下す、汝の名に負うもの悉く灰燼に帰す。汝の神の室、像を除き立つ。我汝の墓を備えん。
第2章: 打ち破る者汝の城に迫る。河の門開き汝の宮消え失せん。ニネベは建設された時以来水の都に似ていたが、今や民は逃げ惑う。万軍のエホバ言い給う、我汝の戦車を焼きて煙となし、汝の若き獅子らは殺されん。
第3章: 禍なるかな血を流す邑、偽り、暴行、掠奪止まず、鞭の音、戦車の轟、馬は躍り車は軋りゆく。屍山をなし足の踏み場もない。妓女多く淫行を行い栄えた邑はその罪により亡びん。汝ノアモンに優るというのか、ノアモンは河の間に立ち、エチオピア人、エジプト人、フテ人、ルビ人らで栄えたが、彼らは俘虜となり移された。貴き者は鎖につながれ、民は逃げ場を失った。炎は汝を焼き、剣は汝を刺す。

13) ハバクク書

本書は3章からなる。ハバクク書はバビロンの侵略というユダヤが直面する民族的困難が増大する時代にあって、疑念が付されてきた神への絶対的な信頼と能力の妥当性という問題を扱っている。ハバククは「民の悪行に対する神の怒り」「異民族による怒りの執行」という観点に立つことによって、民族的困難と神への信頼を両立させる。また神の絶対性と将来の救済、「怒りのうちにも憐れみを忘れぬ神」という観念がみられる。
第1章: 預言者ハバククによる重き預言。エホバよ、我ハバクク汝を呼ぶにも答え給わざる、強暴な侵攻から救い給わないのはなぜか。掠奪、強暴が目の前で行われ戦となりし。律法ゆるみ公義正しく行われず悪しき者正しき者を苛む。神はカルデヤ人を興して世界の征服戦争に駆り立てんとす。彼らは荒く猛き国人地を縦横に行き巡り奪う者である。精悍なること狼、獅子のごとし、騎兵の速きこと空を飛ぶ鷲のごとし。エホバよ汝は審判のために在り、懲らしめのために在り、何故に邪曲の者を見捨ておくのか。悪しき者暴虐の限りを尽くすのに汝何故に黙し給うのか。
第2章: エホバ応えて言う、この黙示を書き記し走りながら読ましめよ。しかしこの黙示録には時間に制限があり終わりは近い、待つべし必ず汝に臨まん。ハバククの嘆きである「カルデヤ人」(バビロン)の繁栄は決して長続きせず、恥が彼らの繁栄(栄光)をおおうことになる。実にぶどう酒(富)は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼はすべての国々を自分のもとに集め、すべての国々の民を自分のもとにかき集める。まさに、「貪欲の権化」のようなカルデヤ人(バビロン)の素性を表わしています。バビロンは一つの型です。俺のものは俺のもの、おまえのものも俺のものという論理で生きようとする一つの型なのです。そのために自分のものではないものを、諸国から略奪して、自分を豊かにしようとするのです。しかしそれは自分を欺くことになるのです。
第3章: シギヨノテに合わせて歌える預言者ハバククの歌。ハバククは「この年のうちに」示して下さいと祈っています。神のさばきと同時に主の勝利が賛美されていますが、その主が怒りを燃やす目的があります。それは「ご自分の民を救うため」です。そのために主は、主に反逆する諸国を踏みつけ、その頭を粉々に砕き、その足もとから首まで裸にされるのです。

14) ゼパニヤ書

伝統的にゼファニヤが作者とされる。ヨシヤ王(在位紀元前640年頃から前609年頃)の名があることから、紀元前7世紀後半ないしそれ以降に成立した。本書の目的は、エルサレム住民へ行いを改めるべく警告することであったろうと考えられる。
第1章: ユダ王ヨシヤの世にゼパニヤに臨めるエホバの言。ヒビキヤ→アマリヤ→ゲダリア→クシ→ゼパニヤの系図に連なる。エホバ言い給う、我地の表からすべてのものを払い除かん、我必ず地の表より人を滅ぼし絶たん。われユダとエルサレムの一切の居民の上に手を伸べ、残れるバアルを絶ちケマリムの名を祭司と共に絶ち、エホバに悖り離れるも者、エホバを求めない者を絶たん。エホバの生贄の日に諸々の牧伯と王の子および異邦人の衣服を着る者を罰する。国境を超え強暴と偽るによって得た物を主の家に満たす者を罰せん。その日魚の門より叫び声が起こり、大いなる敗北が起こる。マクテシの民よ叫べ、商売する民、銀を商う民悉く絶えたことによる。彼らの財宝は掠められ彼らの家は荒らされる。エホバの大いなる日近づけり、彼処に勇士の痛く叫ぶ、その日は暗黒の日、艱難の日、堅き城を攻め櫓を攻める日なり。彼らエホバに対して罪を侵せばなり、血が流され塵のごとくになり肉は棄てられ金銀と言えど救うことはできない。
第2章: 汝ら恥を知らぬ民自ら反省せよ、審判の結果が至らざる先に反省せよ、遜る者エホバを求め公義を求め謙遜を示せ。さすればエホバの怒りの日に隠されることもあらん。ガザは棄てられアシケロン、アシドド、エクロンは奪われた。ケレテ、カナンの地は禍なるかな。われすでにモアブの嘲りアンモンの罵りを聞けり、共に我が境界を侵す。エチオピア人も剣にかかって殺される。エホバ北に手を伸ばしてアッスリアを滅亡(カルデヤ人の勝利)させ給う。ニネベは荒れ果てた。この邑はただ我あり我のほかに誰もなしという者がいたが今は獣の伏すところに変わった。
第3章: 悖りかつ穢れたる邑は禍なり。声を聴き入れず教えを受けずエホバに頼まない。牧伯は吠える獅子のごとくあさり食らう狼のごとし。その予言者は傲慢で偽る人で祭司は聖物を穢し律法を破る。不義なる者は恥を知らない。エホバ、国々の民を滅ぼし住む地は荒れ野となった。国々の民よエホバの名を呼び心を合わせこれに仕えん。イスラエルの遺れる民は悪を行わず偽りを言わずこれを懼れさせるものはない。エホバすでに裁きを止め敵を追い払い給う。イスラエルの王エホバは汝らの中にいます。汝は禍に遭うことは無い。

15) ハガイ書

作者はバビロン捕囚後の最初の預言者ハガイである。エルサレム神殿の再建(紀元前515年)がその預言の主題となっている。ハガイとはヘブライ語で「祝祭」という意味である。
第1章: ペルシャ王朝ダリヨス王の2年6月1日、エホバの言が預言者ハガイによってユダの方伯ゼルバベルおよび祭司長ヨシュアに伝えられる。エホバ言い給う、民はエホバの宮殿を建てる時期ではない、この殿は破れが多く板を貼る家にいるべきで、汝ら自分らの生活を顧みて、衣食住さえこと欠ける状態で神の殿とはおこがましい。木を持って家を建てよ、そうすれば我は歓び栄光を受けるだろう。方伯ゼルバベルおよび祭司長ヨシュア及び遺れる民は預言者ハガイの言を聞き従えり。エホバの言葉は集まった人々の心を振り起こし、彼らはエホバの殿にて建築に取り掛かった。6月24日のことであった。
第2章: 7月21日エホバの言ハガイに臨めり。ユダの方伯ゼルバベルおよび祭司長ヨシュアに伝えよ、遺れる者の中に昔の宮殿を見た者があるか、今作っている殿はどう見えるだろうか、あまりに小さなものに見えるのではないかと。しかしこの地の民よ自ら強くして働け、この殿の栄光は従前の栄光より大なりといい給う。ダリヨスの2年9月24日エホバの言ハガイに臨めり。律法について祭司に問うべし、人の衣の裾で包んだ聖肉をもってきて、その裾がパンや羹、酒、油あるいはほかの食物に触れた時それは聖きものになるかと、祭司らはならないと答えた。穢れた物に触れたときはどうか、祭司らは穢れると答えた。エホバ言う、一切の捧げものが穢れたものである。エホバが民を苦しめた時でさえ汝らは我に還らなかった。9月24日からエホバの殿の基礎を置く日までのことを考えよ、その日から我汝らを恵まんとす。方伯ゼルバベルを選びてユダの長(メシヤ)としエホバ膏を注ぐ。

16) ゼカリア書

本書は14章からなり、小預言書の内では、比較的大部にわたる。内容としては、幻視に関する8つの記述、エルサレムに臨んだ災いを記念する断食に関する質問、諸国民に対する裁き・メシアに関する預言・神の民の回復に関する記述からなる。希望の預言書として飾るにふさわしい。
第1章: ペルシャ王朝ダリヨス王の2年8月、エホバの言がイドの子ベレキアの子なる預言者ゼカリヤに臨む。汝らは我に帰れという。汝らの父親に対して先の預言者は汝ら悪しき道を離れ悪しき行為を棄てて還れと言ったが汝らの父親は聴かなかった。あの父親らのようでなければ我汝らに還ってもよい。ダリヨス王の2年11月エホバの言が預言者ゼカリヤに臨む。鳥拈樹の中に天使が顕れエホバの使いで地上をあまねく巡視したが全地は穏やかにして安しという。天使いう、エホバよ何時までユダとエルサレムを憐れみ給わないのか、すでに70年になった。エホバは天使に嘉言をもって答えた。エホバは民の叛きが大きかったのでいたく怒ったが我憐れみをもってエルサエルに帰る。我が室がエルサレムに建設されたなら我が邑には再び嘉物があふれ、シオンを慰めエルサレムを選ぶと。いま4つの国(バビロン、メディア・ペルシア、ギリシャ、ローマ)がユダの地に向かって角を挙げている。これらの4つの角を擲たん。
第2章: 一人の人が手に測量縄をもってエルサレムを測っていた。別の天使が現れ言う、エルサレムは人と家畜が増えてきている。エホバ言う、エルサレムの火の垣根となりその中で栄光となる。来たれ北の地より逃げ来たれ。我手を彼の上に揺らん、シオンの娘よ喜び楽しめ我来たり汝らの中にあり。エホバ聖地にエルサレムを取り住まんとす。
第3章: 祭司長ヨシュア、エホバの使いの前に立ちその右にサタンが立つ構図である。エホバはサタンを責めて言う、エホバがエルサレムを選んだのは燃え芝ではないと。さらに祭司長ヨシュアの服装があまりにみすぼらしいので、その衣服を脱がせ美服に着替えさせた。そしてユシュアにいう、汝は我が道を歩みわが職務を守るならば家を守ることができ祭司らを掌る者となすと。ヨシュアが立つ前にある石に7つの眼があり、この地の罪を1日で取り除く。その日には汝ら祭司たちに我が僕の徴の枝をもたらす、葡萄の樹の下、無花果の樹の下に居れ。
第4章: 天使がまたゼカリアの前に現われて呼び起こした。汝何を見たかと天使が問うので、総金の灯台1個あって灯台の上に7つの灯皿があった。灯台の傍に左右に橄欖の木2本あったと答えると、天使はその幻視の意味はユダの方伯ゼルバベルがこの室の基礎を作り終えたことを汝に知らせるためであるという。7つの灯皿はあまねく全地に行き来するエホバの眼である、測量縄がユダの方伯ゼルバベルの手にあること、橄欖の木2本は膏を塗りし二人の子であってエホバの前に立つものなり。
第5章: また巻物が飛ぶ幻視を見た。天使が何を見たかと問う、ゼカリアは長さ11m、幅5mの巻物だと答えると、天使はそれは全地を行き巡る呪詛の言葉だという。盗む者誓う者の名が記されている。エホバがその家に入り悉く焼くためである。つぎに出された物はエバ升で、鉛の蓋を開けると一人の婦人が升の中に坐している。天使はこれは罪悪だから重しの蓋をしているという。もう一人の翼を持つ婦人がエバ升を持ち上げ運び去った。天使はこれをシナルの地に家を作りその中に置かれるといった。
第6章: また4両の車が2つの山の間から出てきた幻視を見た。4両の車には赤馬、黒馬、白馬、斑馬をつけていた。天使に何なるやと問うと、これはエホバの前から出てきたもので、黒馬は北へ白馬は着き従う、斑馬は南へ向かい、赤馬は全地をあまねく行く者である。エホバの霊を安めるために派遣されると。エホバ言う、汝囚われ人の中からヘルダイ、トビヤ、エダヤを取り出せヨシアの家に行き、祭司ヨシヤに黄金の冠をかぶらせ、彼に伝えよ。方伯ゼルバベルがエホバの宮を建て政事を行うのでその祭司となり、ヨシアとゼルバベルの二人の者に平和の謀を任せよ。その冠はエホバの庫に納めるべし。
第7章: ダリヨス王の4年9月4日、エホバの言が預言者ゼカリヤに臨む。その時バビロンから帰還した「ベテル」出身者たちの中から、シャレゼル、レゲンメルクの使者をエホバの宮に派遣し、5月に斎戒するのがいいかを祭司と預言者に問わしめた。エホバの言がゼカリヤに臨む。汝ら70年の間5月と7月とに断食しかつ哀哭したが、はたして誰のために断食したのか、汝らは自分の飲み食いのためではなかったのか。この第五の月に行ってきた断食とは、およそ70年前にネブカデネザルによって焼き払われた神殿のことを思い出して、嘆くための断食でした。主が求めている断食は、エルサレムが陥落し、神殿が焼かれる前に、「先の預言者たち」を通して告げられていたことだとしています。正しき審判を行い相憐れみ、貧しき人々を虐げる勿れと念じて断食を行うことがエホバの真意であった。しかるに彼らは耳を傾けず心を頑なにして律法に聞き従わなかった。エホバは大いに怒り給い、彼らを知らない国に吹き散らした。
第8章: エホバの言が預言者ゼカリヤに臨む。今我シオンに還れり、エルサレムの中に住まん。エルサレムの巷には年老いた男女が杖を引いて歩き、男女の児童が巷に遊ぶ風景は珍しくない。我我が民を日出る東の国(バビロン)より救い出し、西のエルサレムのなかに住ましめた。彼らは我が民となり、我は彼らの神となって共に誠実と正義に居る。エホバの室なる殿を建てんと基礎を築いた日より汝らの腕は強くなった。その前までは生活の資もなく敵のために攻め合い安らかな日はなかった。ユダよイスラエルの家よ我汝を救って祝言とする、懼れる勿れ汝らの腕を強くせよ。四月の断食、五月の断食、七月の断食、十月の断食はかえってユダの家の宴楽となり歓びとなり佳節となった。汝ら真実と平安を愛しすべし。
第9章: エホバの重い言葉がヘデラクの地に臨む。イスラエルの一切の支派を顧み給う。これと境をなすハマテ、ツロ、シドンも同じくエホバのものとなった。これを見てアシケロンは懼れ、ガザも戦慄し、エクロン、アシドドもしかり。我エフライムより戦車をなくし、エルサレムより馬を絶ち戦弓も絶たん、国々の民に平和を諭しその政治は地の果てまで及ぶべし。(軍縮会議か世界平和のことか)望みを抱く囚われ人汝ら城に帰れ、倍の恩恵を与える。ユダを弓としエフライムを矢として、ギリシャ人を攻めん。彼ら神エホバはその日彼らを守りその民を羊のごとく救う。これは史実ではありません、王としてのメシアの役目を繰り返した時間軸のない預言です。
第10章: エホバはユダの家を顧みこれを強くし美しき軍馬に仕立て上げ給う。エフライム人は勇士に等しくエホバは心から喜ばん。ユダの家を増やしアッスリアの高ぶりを低くし、エジプトの杖を折る。
第11章: レバノンの香柏よ焚け、バシヤンの橡よ叫べ、高らかなる森は仆れたり。牧者の叫ぶ声ありその栄損なわれたり、猛き獅子の吼える声ありヨルダンの叢損なわれたり。我悪しき居民を惜しまない、仇の手に渡し彼の地を荒れ野とする。彼らを救わない、我恵みという杖を折りたり我が契約を棄てたが故なり。愚かなる牧者を除け、視よ我一人の牧者を興さん。11章は最も難解と言われる章です。愚かな牧者を拒否することを主張します。イスラエル王国の北と南への分裂、北のイスラエル王国の滅亡そして南のユダ王国の滅亡は全ての混乱の責任は愚かな牧者(王)のせいです。権力は腐敗する、したがって王国は滅亡する。ではどうしたらいいかそれは12章以降に持ち越されます。
第12章: イスラエルに関するエホバの重い言葉。万能の神エホバ、エルサレムをして周りの国民を引き寄せ転ばせる盃にする。エルサレムが攻められるとユダも危ない。エルサレムは重石とならなければならない。地上の諸国がエルサレムを攻撃すると大けがをするように、エホバ一切の馬の目を撃ってめくらとなし騎手を狂わせる。ユダの牧伯の軍を強くして周りの国を尽く焼く。エホバまずユダの幕屋を救い、ダビデの家の栄光を守る。ダビデの家およびエルサレムの民に恵みと祈祷の霊を灌ぐ。
第13章: 罪と穢れを清める一つの泉、ダビデの家とエルサレムの民に開く。偶像の名を絶ち預言者および穢れの霊を取り除く。エホバ言い給う、剣をもって 牧者を攻めよ牧者を撃て、しからばその小さき羊散らされん。(革命の勧め)半分以上の民は死ぬが、3部の1の民は生き残り、エホバはこれを取りて再度契約を行う。
第14章: 見よエホバの日来たる汝の財奪われて一部しか残らない。我万国の民を集めてエルサレムを撃つ。エホバ全地の王になり給わん。エホバの日とは、主が天から来られてこの世に対する審判が行われる日、すなわち、大患難時代の終わりに起こる出来事です。具体的には「ハルマゲドンの戦い」です。

17) マラキ書

本書は3章からなる。預言の主題は宗教儀式の厳守、及び雑婚の禁止である。マラキは当時の形式的な礼拝を咎めた。マラキとはヘブライ語で「私の使者」という意味である。当時、捕囚から帰還した頃は市民権は無く、旱魃や大量発生したイナゴのため凶作が続き、更には周囲に敵意を持つ民族が居住していたため、非常に衰退していた。そのような状態でイスラエルの民は神殿を再建した。祭司の堕落や、軽薄な雑婚・離婚、捧げ物の不履行などが蔓延していた。ネヘミヤがエルサレムに不在で人々が混乱に陥っている際にマラキがメッセージを語ったのである。
第1章: イスラエルに関してマラキに臨めるエホバの重き言である。エホバ言い給う、我汝を愛したが、汝は如何に我を愛したか。我ヤコブを愛したが、その兄エサウを憎んだ。エドムは我滅ぼしたが再び邑を建てんとするも我はこれを倒さん。エドムは悪境なり。汝これを見てエホバはイスラエルの地を愛していると分かるはずだ。子は父、主を敬うというが、汝らは主を敬うことがあるのか。主を侮っている。穢れたるパンを壇に献げてどこを穢したのかという。汝ら神に憐れみを求めよ、汝らいたずらに壇上で火を焚くな我は喜ばない。エホバは万国の中で大いなる者なり、汝之を穢している。穢れた献上物は受けない。恐れ多いことである。
第2章: 祭司らに命じる。エホバの言葉を聴き従わず心に留めず我が名に栄光を帰せず者は、エホバは汝らの植福を呪う。生贄の糞を汝らの面に撒き散らさん。我が彼らと結びし契約は命と平安にあり、彼に我を畏れしめるためである。真理の法彼の口に在り不義を言わず、平安と公義を取りて我と共に歩み多くの人の不義を立ち帰らせよ。しかるに祭司らは道を離れ多くの人を法に躓かせレビとの契約に反している。ユダは誓約に叛けりイスラエルの中には憎むべきことが行われている。エホバはこれを行う人をヤコブの幕屋から取り除く。これは夫婦の契約と同じである。
第3章: 汝らの悦ぶ契約の使者(心得違いの祭司)がエホバの前にやってくれば、たちまちにしてボロボロにされるべし。汝らは先祖らの日から我が律法を離れて之を守らなかった。祭司らは弁を弄じて我に逆らえり。今驕慢者を幸福なりといい、悪を行う者も盛んになり、神を試みる者すら救われるという。エホバを畏れる者その日に我が宝となす、彼らを憐れまん。
第4章: 万軍のエホバ言い給う、視よ炉のごとくすべて驕慢者と悪を行う者は藁のごとく焼かれん。我が名を畏れる者は尊ばれ、牢より出でし仔牛のごとく躍らん。汝らは悪人を踏みつけ灰になさん。我がホレブにおける僕モーセの律法を憶えよ、視よエホバの大いなる恐れべき日の来る前に我予言者エリヤ([列王記略上 第21章」参照)を送らん。


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