京都には千年の都の歴史があります。東京に都と天皇が移ってからは、寺院を中心とした観光および学問文化都市として生きてきました。あらゆる文藝文化の発祥の地として日本文化の伝統を受け継ぎ発展させてきました。京都は権力を象徴する巨大な寺院で埋め尽くされているように見えますが、しかし京都の歴史では室町時代以来の町衆の力を見逃すことは出来ません。本願寺も町衆の財力で建設されました。また祇園祭も町衆の力の真骨頂です。花街や料亭・別荘・商家などにも町家の伝統があります。それが京都の町のあちこちに散在しておりますが、近年友禅織物関係の衰退により町家が侵食され危機感を覚えています。時代の流れは止められないが、せめて残っている町家や寺院界隈の風景をスケッチして、この京都のよき雰囲気を伝えたかった。
同志社はアメリカでキリスト教学を学んだ新島襄が1875年に設立した。場所は烏丸今出川の旧薩摩藩邸である。京都の私学としては同志社・立命が有名である(東京の慶応・早稲田の関係に相似)。最近同志社は京阪奈学園都市に主力を移したが、本学はかえって静かないい大学の雰囲気が残った。全ての建物がレンガ建築であり、ペギー葉山が歌った「学生時代」(つたの絡まるチャペルで祈りをささげ、図書館でインクの匂い、窓には枯葉が落ちるのが見える夢おおき楽しい学生時代)の雰囲気がぴったりの学園である。
美山は最近南丹市の一部となり、福井県に近い京都の鯖街道にある。背景の山は杉丸太の植林となっている林業だけの奥深い町である。周山街道または鞍馬街道を走って京都の中心から車で2時間くらいかかる。茅葺屋根の集落で有名になった。
京都嵐山にある天龍寺は、足利尊氏が政敵南朝の後醍醐天皇の菩提のために創建した。開山の祖は作庭が趣味の夢窓疎石であり、天龍寺を京都臨済宗五山の筆頭にするため南禅寺を別格五山に祭り上げた。(京都臨済宗五山とは南禅寺を別格として、天龍寺、相国寺、妙心寺、建仁寺、東福寺である)
相国寺は同志社大学の裏にあり、承天閣美術館や水上勉文学の「雁の寺」で有名になった。地域の人が通り抜けに使うだけで、訪れる観光客も少なく静かな空間である。臨済宗五山の一つである。
南禅寺は禅宗の臨済宗南禅寺派大本山であり、亀山天皇の離宮南禅寺の地に1291年に大明国師を開祖にして建立された。別格五山(五山の上)の位置にある。室町時代、応仁のときに火災で焼失。徳川時代初期に再建された。南禅寺の公式サイトはこちらです。南禅寺にお越しのときは是非湯豆腐を召し上がれ。湯豆腐「順正」の紹介はこちらへ。
京都市には歴史的な洋風建築が多く存在している。それが京都の一つの顔になっている。有名・非有名を問わずゆかしい洋風建築物をスケッチした。なお京都の洋風建築物についてはこちらのサイトを参考にしてください。
東福寺は京都五山の一つで言わずも知れた紅葉の名所。東福寺のサイトはこちら。そして京都五山の一つだった万寿寺をも塔頭に取り込んだ。東福寺 三門は鎌倉時代の建築で国宝指定。宇治の黄檗山万福寺は隠元和尚創設の完全に中国式の禅寺。南禅寺門前は湯豆腐料理で有名だが、万福寺門前は普茶料理で有名。
宇治市
門前に3軒の普茶料理屋があり是非ご賞味あれ。 その一つ「白雲庵」のサイトはこちらへ。
最も祇園らしい風情を感じる観光スポットである。吉井勇の歌碑「かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水の流るる」のように清らかな白川に沿った新橋通りと白川通りのお茶屋街であるが、新橋通りお茶屋街は重要伝統的建造物群保存地区であるに対して、白川通りには観光客用の飲食店、みやげ物屋が多い。新橋通りのお茶屋は間口が広く重厚で伝統の重さをひしひしと感じる。やはり格が違う。
京都の五つの花街の一つに宮川町がある。鴨川川端通りより一筋東に入る宮川町通りの100-150メータに面したお茶屋町である。宮川町歴史的景観保全修景地区になっている。家の構造からして宮川町には歴史伝統の古さを感じる。お茶屋の家は祇園東や上七軒と異なり道路幅や家の間口などすべからく小ぶりで間口は殆どが三間(5.4メータ)に過ぎないいわゆる京屋である。その代り奥行きが長いうなぎの寝床になっている。
京都にはその歴史からして旧家や名家が多い。豪商、御典医、呉服屋、歌人、茶道、公卿関係の旧居を探してはスケッチした。
京都は江戸時代の民間学問、絵画のメッカであった。林家儒学以外の朱子学や国学研究の中心であった。
京都ならではの商品(主として食品)を売る老舗商家(どちらかいうと製造業)や京料理屋などを選んでスケッチした。
幕末維新活動家坂本竜馬と旅籠女中お竜さんの恋物語で有名な旅籠である。現在は竜馬記念館を兼ねた現役の旅館である。もと薩摩藩のご用達旅籠で幕末には寺田屋事件で急進派薩摩藩士が惨殺された。
学校はどこでも西欧文明の形式を持っている。京都人は特に新しいもの好きで、その時代の最先端を輸入して同化してきた。南禅寺の架橋水道のように京都の伝統的建築物とうまく融和して存在する。京都御所の近くの平安女学院、同志社大学、そして京都大学の西洋的建造物も京都を代表する伝統的建築物になった。
松原通りは古くは五条通りであった。義経・弁慶でつとに有名になった通りであるが、結構伝統的な町屋が残っている。特に櫛笥町は寺町で寺院が密集している。松田家本家の伝統的建築を始め、京風町屋の意匠も様々であることに注意してみて欲しい。
千本通りの四条から三条の間には材木問屋が集積している。ほとんどが銘木店でいつも木を切断するカッターの音が賑やかな町である。また古い町屋が残る町でもある。
下京には京都友禅染屋の多くが集まっていたが、着物産業の衰退と、公害規制の強化による工業団地への移転によりすっかり下京から染物屋が消え去った。昔から質実剛健ながっちりした町屋を作っており、私の町である下京区中堂寺庄の内町や北町は染色屋とその職人でにぎわっていた。今はほとんど廃業したり移転しており当時をしのぶためにもかろうじて残っていた町屋をスケッチした。
京都の七味屋では清水産寧坂とこの六兵衛が有名です。 七味屋「六兵衛」の紹介はこちらをご覧ください。
京都でも着物姿がいつも見られるのは祇園などの花街とこの千家の町のみである。表千家は千利休の旧跡で、裏千家は千宗旦の旧跡である。近くには雛人形の寺として有名な宝鏡寺や本法寺、妙顕寺などの寺が集まる別世界である。
裏千家「今日庵」のホームページはこちらです。
表千家「不審庵」のホームページはこちらです。
西陣は言うまでもなく織物手芸伝統の町である。京都の上京区にあり西は千本通り、東は堀川通り、北は寺之内通り、南は一条通りに囲まれた一辺が約1Kmの正方形の地である。近年はすっかり着物帯の需要が無くなり、機の音もまばらにしか聞こえない。町がすっかり様変わりしてしまわないうちに京町屋をスケッチしなければならない。その手始めが今回の七題である。
帯屋「捨松」の紹介ビデオはこちらをご覧ください。
京都には花街(「はなまち」又は「かがい」と発音する。ほぼ意味は同じなのだが、微妙に差をつけることもある)という芸妓の町が五箇所ある。宮川町、祇園東、先斗町、祇園甲部、上七軒である。芸妓の歌舞練場は祇園甲部、先斗町、宮川町と上七軒の四箇所にある。上七軒を除いて祇園に集中している。上七軒のみが北野神社の近くに存在する。場所がら西陣の旦那衆の遊び場であった。最近NHKのテレビに、九十八歳(2005年で)の山口安次郎さんという織匠が仕事を終えて自宅で絞めた鶏(かしわ)をたずさえて上七軒の茶屋に遊びにゆく風景があった。こういう遊びもあるのだと妙に好感を覚えた。今回上七軒の茶屋とその近くに存在する千本釈迦堂をスケッチした。
茶屋「さくら」のホームページはこちらをご覧ください。
京都の町を大きく分類すると、聖界、華界、実界に3分されるだろう。聖界とは坊主、神主、茶華道、医者、大学人をさす。華界は言うまでも無く花柳界である。実界とは商人、工匠、職人などの実業界のことである。京都で幅を利かすいわゆる「白足袋はん」とは医者、坊主、商家の旦那衆をさす。白足袋はんの花街通いは有名な隠語である。また京都を仕切っているのは、役人や議員さんではなくこの白足袋はんである。そこで今回京都の老舗商家をスケッチする手始めとして室町の繊維街からスタートしたい。
京都の南北通りである御幸町通り、麩屋町通り、富小路通りの北は御池から南は四条までの間には老舗旅館・料亭が多く健在である。東海道双六の振出がお江戸日本橋なら上がりは京都三条大橋であった。京都に入洛した旅人はまっすぐ三条通りを西に進んで宿を探す按配になっていた。とすれば上に述べた地域が旅館街として格好の位置ではなかったか。炭屋さんが一番近い宿であった。誰もが一度は泊まってみたいのが「俵屋さん」、「柊屋さん」、「炭屋さん」、天ぷら料理旅館で有名な「吉川さん」、近江屋叉兵衛が江戸時代享和年代に作った旅籠で国の有形文化財に登録されている懐石料理旅館「近叉さん」などをスケッチした。旅館の作りは町屋のうなぎの寝床式構造とは違い基本的に数奇屋作りである。複雑な寄せ棟になっている。
俵屋旅館の案内はこちらをみてください
炭屋旅館の案内はこちらをみてください
天ぷら「吉川」の案内はこちらをみてください
柊屋旅館の案内はこちらをみてください
懐石「近叉」の案内はこちらをみてください
懐石「瓢樹」の案内はこちらをみてください
建仁寺は室町時代の京都臨済宗の五大寺(京都五山)のひとつである。格の順に示せば、別格として南禅寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺である。建仁寺は五山の三番目に位置する。寺の構成は妙心寺の例に示したが、総門、勅使門、三門、法堂、講堂を一列に配置し、その周りに庫裏、方丈、浴室、東司(便所)、鐘楼、祖堂(開山堂)などを配して共通の施設群とし、さらにそれらを取り囲むように数多くの塔頭(個人管理の寺院)群で構成される一大寺院集落である。
壬生寺は991年奈良唐招提寺の鑑真和尚の開山による。律宗の別格本山である。私は庶民信仰の寺「壬生延命地蔵尊」と覚えていたのだが、そんな厳格な宗派の寺とは知らなかった。それはそうとして、壬生は2004年度NHK大河ドラマ「新撰組」で一躍有名な観光地になり、おかげで京都への観光客数が増加の一途で喜ばしい限りだ。今年は「源義経」でさらに観光客が増えることを願いたい。壬生には三つの八木家があって新撰組はそのひとつ八木家の離れと旧前川家を借り受けた。池田屋騒動のきっかけとなった、勤皇志士古川俊太郎が捕らえられ拷問を受けたのは旧前川家の蔵である。近くの壬生寺に近藤勇などの墓碑がある。悲劇の志士沖田総司、イケ面の副隊長土方歳三が若い女性の心を掴んでいるようだ。壬生寺の周囲には八木家、神先家など旧家が多い。幼時、壬生寺の祭日の夜店で古本を買ってもらったことを思い出す。またこのあたりは友禅染め屋が多くあったが、今は激減した。綾小路通りは古い町屋が軒を連ねているが、今はほとんどが空き家である。淋しい限りだ。
島原を単に遊郭と言うのは間違いである。正しくは花街と言うべきであろう。江戸の吉原は周囲に10m幅の堀を設け入り口は一箇所にして厳重な管理と遊女(娼妓)の封じ込めを図ったまさに遊郭であった。歌舞音曲を伴わない歓楽専門の郭で、したがって歌舞練場の施設も持ってはいない。それに対して島原は門は二箇所あり土塀や堀は無く男女の出入りができる花街であった。芸妓と娼妓が共存する街であった。芸妓の歌舞練場を有する点では祇園など花街と同じである。江戸時代には芸能や俳壇が形成されるほど文藝活動が盛んであった。今回スケッチした角屋、輪違屋は揚屋、置屋と呼ばれる。揚屋は置屋から芸妓(最高位は太夫)、娼妓(最高位は花魁)を派遣してもらって宴を張る接待の場である。したがって料理を作って出す料亭の機能があるところが祇園のお茶屋とも違う(お茶屋は仕出料理を取って供する)。角屋はコンパニオンが呼べる料亭と理解するのが正しい。もちろん島原には性を売り物にする遊郭の場所も有り、売春防止法が出来てからは灯の消えた街になった。幸いなことに吉原のような風俗街にならなかったところが格の違いであろうか。
島原角屋の北に鴻臚館跡の史跡案内板がある。鴻臚館とは平安京、難波、筑紫に設けられた外国使節の接待所であり交易所でもあった。江戸時代与謝蕪村は角屋での句会で「白梅や墨芳しき鴻臚館」という俳句を残した。
島原「角屋」のホームページはこちらです。
東西本願寺は堀川通りを境界線にして西は大宮通りまでが西本願寺、東は烏丸通りまでが東本願寺(枳殻亭も入れれば河原町通りまで)の広大な敷地を占有する。現在東も西も御影堂の大修理中で巨大なドームで覆われており全く風情が無い。今回は西本願寺の周辺をスケッチした。数年内に改修が終わればまたスケッチしたい。京都にはお寺の経営する大学が四つもある。西本願寺は龍谷大学、東本願寺は大谷大学、妙心寺は花園大学、知恩院は仏教大学を経営している。仏教だけを教えているわけではなく、現在はかなり文系の大学に近い。
東寺は京都駅のほぼ西南に位置する。いうまでも無く823年に空海に下賜された国家鎮護のための教王護国寺のことである。空海は徹底的に権力のために働きながら庶民に親しまれた不思議な人格である。真言密教という国家と天皇のために怪しげなおまじないをして寵愛を得、一方道路やため池と言う社会事業に尽くした遺跡が四国中に残っている。どこまでが本当の話かは不明だが、毎月21日に「弘法市」が開かれているほど庶民に近い人でもあった。そんな宗教上の話には興味はないが、広大な境内に巨大な甍が並ぶ有様はスケッチしておかなければなるまい。
京都の紅葉名所はほとんどが寺に関係するといっていい。京都の寺院庭園は楓と切れ離せない。春はみずみずしい緑の葉が美しく、秋には青い空と赤い紅葉の対比が絶妙の美を作る。この季節の変化が人生の無常につながるものなのか。京都では紅葉は人が作った景観であって天然自然の美ではない。今回は京都の西郊にある紅葉の名所をスケッチした。
妙心寺は臨済宗妙心寺派大本山でもとは花園天皇の離宮だった地。1342年開山。寺のパンフに見るように南から勅使門、三門、仏殿、法堂の重要文化財の大伽藍が一直線にならび、その奥に僧房である大方丈と庫裏(食堂)が配置され、その周りには塔頭、子院など九十あまりが取り囲む京都では最大規模の臨済宗の寺である。妙心寺が室町時代の京都五山に入っていないのが不思議だ。建仁寺などは昔は知らず今の大きさでは足元にも及ばない。相国寺、天龍寺なども妙心寺に比べると小さい。あまりに大きくて寺の周囲に土塀がなく、寺集落からいつの間にか町家に移ってゆくのが不思議な空間である。石庭で有名な竜安寺も妙心寺の末寺であることは知らない人も多い。
二条城の北には背中合わせに京都所司代屋敷跡がある。このあたりは徳川幕府の京都支配の拠点であった。
住所は書いておきますが、詳細地図はをクリックして参照してください。京都市の町並みは碁盤の目です。しかも筋(通り)が大略南北東西の経緯と一致していることが「**通り○○上る、下る、東入る、西入る」という旧来の京都式住所表記法を可能にしています。いわゆる解析幾何学の座標軸で言えばX軸が東西、Y軸が南北になっていることが必要条件です。これが通りが曲がっていたり、パリのように斜めに放射線状に伸びていたりすればこうは行きません。原則は、まずその建物の表玄関が面する通り名「**通り」を表記します。次に一番近い「**通り」と直交する通り名を「○○」というように「通り」を省いて表記します。そして直交点から建物の位置する方向(東西南北、京都では北を上る、南を下るといいます)を記します。たとえば旅館「俵屋」さんですと住所を「麩屋町通り御池下る」と書きます。これは俵屋さんの玄関が麩屋町通りに面し、一番近く直交する御池通りからは南にあることを意味します。この表記では建物が「**通り」のどちら側にあるかは分かりません。細い通りですとどちら側にあってもすぐ分かりますが、大通りですと運悪く反対側にあるとすぐ分かりませんし、また交差点にいって反対側へ渡る必要があります。その場合は丁寧にも北側とか東側という補足説明を最後に記します。たとえば「俵屋」さんですと「麩屋町通り御池下る東側」というのが最も親切な言い方ですが、「・・側」は省く場合がほとんどです。蛇足ですが、この原則は建物が広大な場合(御所、二条城、寺など)には適用は困難です。
なお蛇足ついでに、洛中洛外の地域概念を紹介する。山城の地に平安京が建設されたのは794年で唐の都洛陽の都城制を模倣したものだった。洛中洛外の洛とは言うまでもなく洛陽を指す。内裏から南に伸びる朱雀大路(今の千本通り)を中心軸にして東側に左京、西側に右京を設定した。、平安時代後期(11世紀ー12世紀)には平安京の解体が始まり特に右京の衰退が激しかったので、南北に細長い左京を中心にした都が再構成された。従って洛中とは中世以降では、かっての左京を中心とした都市部分を指し、東は鴨川、西は千本通り、北は一条通り、南は九条通り(羅生門があった)で囲まれる区域のことである。今日では逆に戦後の都市の膨張で東には山があって伸びられず、西へ拡大が図られ昔の京都以上の都ができあがった。そこで今日の洛中を私が定義する。北は北大路、南は九条通り、東は東大路、西は西大路で囲まれた京都市街を洛中とし、それ以外の京都市を洛外とする。
なお大伽藍の寺院のスケッチでお堂の位置など詳細配置を知りたい時は、地図の縮尺倍数をクリックして十分な情報が得られるまで拡大していってください。妙心寺だけはお寺のパンフを添付しました。