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江藤淳著 「海舟余波」 わが読史余滴

  文春文庫(1984年7月)

日本の近代化の渦の中で、永遠に完結しない時代を取り繕う政治的人間の宿命 

人間の歴史は完結しないが、人の人生は死で終る。「時代は崩れ、人は死んでゆく、それが歴史だ」と新進気鋭の(発表したのは38歳)江藤淳氏は嘆息する。実は「海舟余波」は「文学界」1970年から1972年にかけて連載された。単行本として文藝春秋社から1974年に刊行された。文庫本になったのが1984年である。今からすると悠に40年前の作品である。テーマは勝海舟という政治的人間の研究である。徳川家幕僚として、明治維新藩閥政府高官として、幕府をも朝廷をも超越した国家を構想した勝海舟にとって、近代国家日本は明治政府でもなかったようだ。もっと先を見ていたのかもしれない。稀代の智将勝海舟の生きた危い時代に立ち返って、一人の政治的人間の軌跡をみてゆこう。本文で扱う歴史的年代は、慶応3年(1867年)12月9日の王政復古クーデターから明治元年(1868年)11月五稜郭の乱までの1年足らずの期間である。大政奉還から王政復古を経て明治政府成立までの、日本の政体の切り替え時の勝海舟の活動を描く。政治家海舟が最も成功したのは、いうまでもなく3月15日の西郷との江戸城無血開城交渉である。それ以降は悉く策の破れた中での勝の行動を見ることになる。

福沢諭吉は「痩せ我慢の説」で幕吏でありながら明治政府高官として活躍した勝海舟を揶揄したが、海舟はこれに答えて「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」といって退けた。政治的人間とは、行動の人のことである。弁舌の輩、学者、評論家ではないという。確かに、海舟は明治5年(1972年)明治政府の海軍大輔に任じられ、1973年には参議海軍卿、1975年には元老院議官になったが隠居した。1887年伯爵に任じられ、1888年枢密院顧問官、正三位となった。1889年正二位勲一等伯爵と押しも押されもしない明治政府の高官に上り詰めた。旧幕僚がなぜここまで栄達したのだろうか。それはいまだに政情不安な明治時代前半期旧幕臣を纏め上げことは社会の分裂を避けることであった。反政府勢力からの誘いを断固として退け、旧幕臣の生活を守り抜くために粉骨砕身した勝海舟にとって、政府の権力中枢に居る事がどれだけ財政的・影響力行使になったことであろう。三菱の岩崎がその資金を用意したという。実際、1874年以来佐賀の乱、熊本神風連の乱、荻の乱、秋月の乱、西南戦争と薩長土肥の藩閥政府内における権力闘争の中で反乱が勃発した。挫折した自由民権運動すら薩長に対する土肥の挑戦であった。こうして明治政府の権力は薩長へそして長州権力へ収斂したのである。その過程で多くの士族の乱が起きたのである。最大の危機は1877年(明治10年)の西南の役であった。明治維新の立役者で勝海舟の無二の親友西郷隆盛が、国際関係の無知と近代国家の何たるかを知らないために脱落し、ついに政府に矛先を向けたのであった。国内の分裂の危機は1893年の条約改正問題にも現れた。また明治30年代初頭に藩閥勢力がようやく後退するにいたって第二の明治維新の危機が訪れた。それらに対応して社会が分裂しないよう、旧幕臣がその不安要因にならないように勝海舟の周旋が必要であった。日清戦争に勝ってようやく日本社会に安定が訪れ、1898年3月徳川慶喜と天皇の和解の儀が成功して、勝海舟は使命の終了を自覚したかのように、1899年1月に77歳の生涯を終えた。しかしその明治国家は日露戦争で勝利してからは驕慢に陥り、西欧列強と世界の分割に伍して、1945年完全に崩壊した。海舟没後46年後のことである。海舟の国家観は次の言葉に現れている。「国というものは、独立して何か卓越したものがなくてはならない。西欧西欧といっても善い事はとっても、ほかに何かがなくてはならない。西欧の真似はするが、日本には人がいないのだよ。西欧は規模が大きくて、遠大だ。」

本書は長短取り混ぜて、全34節からなる。連載モノとして1ヶ月ごとに1節を投稿したようで、各節は極めて短い。本書で江藤淳氏が強調したかったのは、やはり1868年3月15日をピークとする海舟・西郷の江戸無血開城交渉の舞台裏である。分量にして本書の2/3以上がそれに費やされており、1968年4月以降には新政府の武力討伐方針が決まったため、西郷は政権中枢から一部隊長に退けられ、海舟は工作相手を失ってその策は無視された。4月以降の江藤淳氏の筆も淡々と事実を記するのみで、政治家海舟の面影はなく、時代に翻弄される旧幕臣の姿に過ぎない。

勝海舟 1867年から1868年の1年間の記録

1967年10月
・10月14日 大政奉還 徳川十五代将軍慶喜が将軍職を朝廷に奉還する 列候会議で政治の主導権を目論む。
12月
・12月9日  「王政復古」クーデター 新政府樹立宣言 倒幕へ大きく舵がきられる
・12月18日 勝海舟、閣老稲葉に「鎮静」をとく。
・12月23日 江戸城二の丸御殿(天璋院住居)で炎上、薩摩藩西郷隆盛のゲリラ戦術の仕業説
・12月24日 幕府は三田薩摩藩邸焼き討ち 益満休之助捕縛、他は薩摩藩軍艦で逃げる。
・12月25日 岩倉具視、大久保一蔵に「鎮静」案で事態収拾を述べる。
・12月28日 薩摩藩邸焼き討ちの件、大目付滝川らが大阪表の慶喜に伝達 慶喜大いに怒る。
1868年1月
・1月元旦  慶喜「討薩の表」 京都の薩摩征伐に動く。
・1月2日  幕府軍 淀城を本営とし陸軍奉行大久保主膳・竹中重固ら鳥羽・伏見の2道より、1万5000の軍が京を目指して進軍 
・1月3日  岩倉具視、主戦論に転じ、西郷の戦争方針に従って有栖川総裁宮を京都の防戦にあたらせ、破れた場合に天皇を比叡山に移して、一気に江戸を突く戦術を西郷、大久保、広沢で確認した。 6カ国の使節に厳正中立を要求した。仁和寺宮親王を征東将軍とし、京都の薩長軍は錦旗を翻した。
・1月5日 薩長軍は淀に迫った。幕軍は淀城に逃げ込もうとしたが、淀城(閣老稲葉の居城)が幕軍の入城を拒んだ。幕軍は薩長に攻められ壊滅状態となって大阪城へ逃げ帰った。なんと無様にも1万5000人の幕軍は戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)で数千人の薩長軍に完敗した。
・1月6日 夜10時慶喜は幕閣松平容保、酒井・板倉らと大阪城を逃亡し、アメリカ軍艦に逃げ込む。イギリス軍艦黙認
・1月8日 幕府軍艦開陽に移って江戸に向かう。
・1月12日 慶喜 浜御殿(海軍所)に上陸し「恭順謹慎」する。勝海舟慶喜と面会、伏見の顛末を聞いて、取り返しのつかない失敗に唖然とする。
・1月17日 海舟以外にこの場を収拾できるものはいないということで、海軍奉行並に祭り上げられ、以降幕府の代表として薩長新政府との交渉を一任される。同日殿中で若年寄堀内内蔵頭自刃する。
・1月18日 新政府参与越前松平春獄に嘆願書を出す。内乱の危機と国際関係を切り札にして徳川家への穏当なる処分を懇願。慶喜も十四代家茂の未亡人静寛院宮に懇願書斡旋を依頼した。2月3日に京都に着いたが、恭順の色がないとして西郷は怒り大久保と協議して、慶喜討伐に決定した。
・1月23日 勝海舟は陸軍総裁となる。小栗上野介や大鳥圭介ら幕軍の主戦派がいる陸軍総裁となって、主戦派への抑止力を期待された。幕府が崩壊に向かうにつれ、逆比例して勝海舟の幕閣の地位は高まった。ほぼ幕府の全権をになった事になった。交渉人を引き受ける人材が幕府内では皆無であったからだ。
・1月26日 フランス陸軍顧問シャノワン、勝に面会し交戦の利を説く。勝は直ちにフランス公使ロッシュを訪問し、軍事顧問団の解雇を告げる。今後の「恭順」交渉を有利に導くため、勝はフランスと縁を切った。幕内主戦派を挑発してきたフランスと断交し、主戦派の力をそいだのである。
2月
・2月4日 幕府の瓦解の勢いが強まり、幕府軍の兵士の脱走が始まった。
・2月12日 勝は将軍慶喜を上野寛永寺大慈院に閉居せしめた。慶喜は再び嘆願書を松平春獄を通じて提出し、恭順の意を尽した。
・2月15日 有栖川大総督は兵を率いて京都を発進した。3月5日官軍の先頭が駿河に到着した。
・2月17日 勝は松平春獄を通じて新政府に嘆願書を上言した。脱走兵による江戸城下の治安不備を訴え、薩長の力を利用しようと考えた。大総督府参謀西郷と海江田にも書状を送った。和平工作は公卿や藩侯ではなく、あくまで下級武士の政策決定者に向けて行われた。
・2月24日 勝は松平確堂と和平交渉の件について審議する。3方面からの嘆願書工作を実行したが、いずれも実効はなかった。
3月
・3月4日 勝は山岡鉄舟を交渉代理人とし、薩摩藩焼打で捕縛した薩摩藩士益満休之介ら3名を随行させ西郷への手紙を持参させた。
・3月6日 駿府での大総督府軍議で3月15日を総攻撃開始とし、苛酷な徳川処分を決定した。
・3月9日 勝は英国公使通訳アーネストサトウと会談し、公使ハリー・パークスに西郷への調停を依頼する。同日山岡鉄舟、駿府にて西郷隆盛と会見。西郷は有栖川と稟議の上、7か条の和解案を示した。慶喜備前藩お預け、江戸城・軍艦・軍器明け渡し、城兵向島に退去などであった。勝の目的は江戸無血開城、慶喜助命、幕臣の生活保障の3点であった。
・3月12日 参謀西郷が高輪の薩摩邸に入る。司令部は池上本門寺、3軍を新宿、板橋、品川に置いた。勝海舟は早速西郷に面会を申し込んだ。勝海舟の論点は、皇国が公であり私ではないことを強調して、幕府と薩長の私戦をさけ、政権交代を即かつ実効有らしめるためには、江戸での悲惨な混乱や内戦を避けるという点にあった。勝は大事を決するのは西郷・大久保・木戸を置いて他にないと確信したという。
・3月13日 英国公使パークスと長州藩士木梨精一郎が会談する。英国公使は江戸攻撃には反対を表明したという。そして6カ国列国代表会議を開いて横浜全域を列国の共同管理下におく事を決定した。勝は日本が無政府状態に陥ることを警告し、速やかな江戸無血開城を約束したのである。それにイギリスを巻き込んで薩長に忠告させた勝の外交の勝利であった。官軍は外国勢の動向の情報不足であった。
・3月14日 高輪薩摩邸での第1回勝・西郷会談行われる。勝は英国公使パークスと長州藩士木梨精一郎の会談の結果をみるため、挨拶だけとし、本論は明日に持ち込んだ。
・3月15日 第2回勝・西郷会談行われる。勝は7か条の嘆願書を西郷に手渡し、西郷は大総督宮の裁可を得る約束をした。勝の勝利はイギリス公使パークスの利益は内乱の終息と統一政権の樹立であり、西郷に圧力をかけた結果であった。嘆願書は、慶喜助命水戸に隠居、城明け渡し田安家(徳川新御三家)に預ける、軍艦軍器は取り集め引渡し、城内の兵は出るなどである。主戦派の西郷としては完敗であった。長州の木戸らはもともと慶喜助命論者であった。
・3月16日 駿府に戻った西郷は江戸攻撃延期の大総督府の命令を下した。
・3月20日 西郷は京へ赴いて徳川家処分の三職会議を二条城で行う。この会議で決まった徳川処分は、慶喜助命受け入れ水戸で謹慎、城明け渡し尾張(徳川旧御三家)へ渡す、その他は嘆願書に同じであった。完全に勝の要望通りの結果となった。そして勝は主戦論者の新撰組の近藤と土方を甲州鎮撫へ、京都見廻組の今井・内田らを信越鎮撫へ、彰義隊の渋沢・天野らを上野寛永寺に移して暴発を避けた。
・3月21日 勝はイギリス通訳アーネスト・サトウと会談し、サトウから西郷参謀にイギリス公使パークスと会見を求める書簡が送られた。
・3月23日 肥前藩士島団右衛門の訪問を受け、官軍海軍総督大原俊実の誘い(徳川を裏切る)を受けた。官軍の海軍の力が劣っている事で勝に助力を求めたのである。勝はこの公卿の申し入れを断った。
・3月27日 イギリス館にて勝・パークス会談おこなわれる。イギリスに薩長への周旋を依頼して、英国の権益を尊重するという条件である。そして後1ヶ月横浜の英国軍艦の滞留を約束させた。是は不測の事態における慶喜の英国亡命のためであったという。慶喜がフランスへ亡命しては内乱は必至となる。フランスと断交し、薩長の後ろ盾である英国と手を結ぶ勝の策略であった。英国を通じて薩長に圧力をかけるという絶妙な手腕である。
4月
・4月1日 西郷・パークス会談でパークスは西郷の徳川処分案(実は勝の案に過ぎなかった)を褒め讃えた。西郷は完全に勝の包囲網に入っていたのだ。
・4月4日 勅使として橋本総督・柳原副総督が江戸城西の丸に入った。徳川から田安慶頼、官軍から西郷・大久保らも同席した。江戸城明け渡しは4月11日と通告された。明け渡しの儀の際城には兵は入れない、江戸府内の警察権は徳川に委ねるというのも勝・西郷会談の結果であった。海舟一流の江戸無政府状態の威しが利いた結果である。lここまでは完璧に勝海舟の外交の勝利であった。
・4月9日 海舟の知らないところで、官軍の江戸軍政の中心が薩摩の西郷から長州の大村益次郎に移っていた。制度的には大総督府から大村が新任された軍防事務局判事へ権力が移ったのである。それには肥前藩士江藤新平の江戸からの情報に基づいて江戸軍制改革が行われ、三条実美が関東監察使となって4月10日に江戸に入った。江藤と小笠原も江戸軍監、江戸鎮台判事となり江戸民政にあたり、長州と土佐・肥前の連携が強化された。法に基づいた統治制度が西郷の軍政に取って代ったのである。
・4月10日 海舟は慶喜に報告するため寛永寺大慈院で面会する。慶喜は意に反するとして勝を面罵したという。勝と慶喜の間には越えられない溝が横たわっていたようだ。徳川家将軍となりあがり旗本では意の通じようもなかったといえば、今までの苦労は見もふたもないものにってしまう。海舟の疲労感は極度になった。
・4月11日 江戸城の明け渡しの日である。薩摩の益満休之介が築地の海軍所にいた海舟を訪問し、西郷の伝言を伝えた。入城の際、兵士は入れない約束であったが、万が一の事故を恐れ兵を入れるので了解せよという内容である。その責任は西郷が取るというのである。西郷と海舟の信頼関係はここにいたって実を結んだのであった。この日の未明、慶喜は100人ほどの護衛を連れて水戸へ立った。西周助、高橋泥舟らがいた。
・4月12日 旧歩兵奉行大鳥圭介が450名を集めて下総に脱走し、旧海軍副総裁榎本武揚も7隻の軍艦を率いて館山沖に脱走した。是を海舟が承知していたかどうか憶測を出ない。承知していたなら危険な陽動作戦であり、知らなかったとするなら海舟の読みの破綻の第1歩であった。これはあきらかに徳川処分の条約違反になる。海舟の手から遺漏が出たというべきか、新政府の征伐派に力を与えて海舟和平構想が武力で粉砕されてゆくことになる。
・4月25日 京都会議で徳川最終処分下さる。徳川の相続は田安亀之助とし、禄高は70万石、駿府をあてがう、江戸城は朝廷が納めるというものであった。旧幕臣を養うには70万石は少なすぎた。海舟のもくろみは大きく外れた。三条実美の報告に対して、岩倉具視は大久保一翁、勝海舟らは表裏の深謀があり用心しろと忠告したという。すでに海舟の手は読まれている。
・4月28日 薩摩の参謀海江田武治との間に軍艦に引渡しが行われた。富士、翔鶴、朝陽、観光の4隻であるが、これらの軍艦は老朽化したぼろ舟で、新鋭の軍艦回天、開陽、咸臨丸、蟠竜の4隻は榎本の手に残った。この辺が外交的勝ちに乗じすぎた海舟が官軍を小ばかにした結果ではないだろうか。海舟の外交は薩摩の西郷と海江田を相手にした成功であって、新政府内で必ずしも西郷が掌握しているわけではなかった。
・4月27日 海舟は大総督府参謀海江田に書を送った。総督府と京都新政府の議論が違うとなじったり、徳川に武力をちらつかせて脅かしたりしたが後の祭りであった。
・4月28日 勝は西郷隆盛に書を送った。新政府が徳川の所領をもって財源に充てるのは内乱の基になるとか、その不正は海外に聞こえるとか西郷を脅かしたが、実権のない相手に何を言っても事態は動かない。海舟は複雑な政治体制の変化から西郷と共に取り残され、まさに海舟は政治的状況から敗れ去るとき、彼は新国家の思想を語り始めた。
・4月29日 大監察使三条実美は田安亀之助6歳を江戸城に呼びだし、徳川家相続を言い渡した。亀之助は5月18日を持って徳川家達と改め、松平確堂が後見人となった。
5月
・5月1日 大村益次郎軍防事務局判事は、江戸市中取締りを田安家と彰義隊から取り上げ、官軍の掌中に納めた。そして次々と武力解決に向かって歩を進めた。長州木戸孝充の「戦争よりほかに良法は御座なく、太平は誓って血を以って買い求めるべし」という路線への変更である。
・5月7日 上野寛永寺の彰義隊の暴発が伝えられる中、海舟は山岡鉄太郎を使いに出して鎮静をといたが、時すでに遅かった。 ・5月14日 大村益次郎は西郷に上野彰義隊に対する進撃を逼り、海江田は慎重論を唱えたが、西郷は指揮権を大村に渡して自分は黒門口の攻撃部隊長になる事を受け入れた。
・5月15日 上野彰義隊への総攻撃が開始された。本郷加賀藩屋敷にすえつけた肥前のアームストロング砲二門が勝負を決した。午後3時のことであった。大村益次郎の勝利はすなわち西郷の江戸占領策の過ちを公表したようなものであり、海舟との和解連携策もアームストロング砲によって粉砕された。
・5月23日 大総督府参謀海江田武次が解任された。西郷・海江田の江戸鎮撫策はここに潰えた。
6月
・6月2日 上野輪王寺宮公現親王が会津に入って、5月3日に結成された仙台を盟主とする奥羽列藩同盟の士気が上がった。
・6月21日 薩摩の大久保一蔵・小松帯刀が三条大監察使を補佐するため江戸に入った。西郷去って新しい政策決定者の到来である。
7月
・7月8日 薩摩小松帯刀が海舟に挨拶に来た。新しいコミュニケーションの糸口が繋がったようだ。
・7月23日 慶喜 駿府へ移住 徳川家達が駿府へ移住したのは8月7日であった。
8月
・8月19日 榎本武揚品川沖を脱して東北へ向かう。開陽、回天、蟠竜、千代田形の4隻と運送船4隻を随伴しての脱走である。幕臣2000人が乗船していた。途中運送船の美賀保は座礁、咸臨は清水港へ流れ着いた。官軍の艦船が清水港を襲い咸臨の乗組員36人は惨殺される。幕臣の死体を拾ったのが侠客清水次郎長であったという。これで海舟の江戸での最後の画策は終了した。
9月
・9月22日 会津若松城陥落、25日には庄内藩が、25日には南部藩が降参し、奥羽列藩同盟は壊滅した。
10月
・10月12日 海舟は駿府へ移住し、慶喜に経過を説明。
・10月25日 榎本艦隊は仙台藩の降伏によってさらに北に向かい、函館五稜郭を占領した。
11月
・11月9日 蝦夷地の榎本の反乱を鎮撫するため、慶喜を起用する案が朝議で出されたが、2転3転で延期となったが、背後には旧幕府発注のアメリカ製作の軍艦ストーンウウォール号の取り扱いをめぐるいきさつが絡んでいた。当初アメリカは局外中立を名に、官軍にこの品川沖にあった軍艦を手渡さなかったため、海軍力では新政府の力が榎本艦隊に較べて劣っていたためである。いずれにせよ慶喜名誉回復のための海舟の周旋は日の目を見なかった。海舟が江戸に戻れるのは1869年4月14日で、慶喜が謹慎を解かれたのは1869年9月28日であった。


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