081226

岩井克人著 「資本主義を語る」

  ちくま学芸文庫(1997年10月)

資本主義は本質的に不安定性

アメリカの金融不安から世界経済が大不況に陥った2008年秋、10月17日朝日新聞 あしたを考える 「経済危機の行方」に岩井克人氏のインタビュー記事があった。年なりに老けた岩井氏の写真が掲載(どうでもいいこと)され、「資本主義は本質的に不安定」という大見出しが踊っていた。タイムリーな企画なので思わずじっくり読んだ。そして昔、岩井氏の本「資本主義を語る」を読んだ事を思い出した。本書の読書ノートに入る前に、岩井氏のインタビュー記事で言わんとすることをまとめておこう。

今回の金融危機で世界中が「失われた10年」に入りはしないかという瀬戸際に立たされている。このような危機が来ることは、理論的には想定内のことで、そもそも資本主義というものが本質的に不安定さを持っているからである。経済学者ケインズは,市場経済に付き物の不安定さは、政策によってある程度のコントロールが不可欠であると考えた。1930年台の恐慌の後には景気対策が効果を上げた。それ以降「ケインズ経済学」が一世を風靡し、国家機構が肥大となり、しだいに無駄が多くなった。そこで1970年以降フリードマンら「新古典派経済学」が優位になり、市場経済から国家の介入や規制を排除すれば、効率化と安定化が達成されると考えた。それが1980年代の米国レーガン政権と英国サッチャー政権の経済政策の中心となった。それを極限まで進めたのがブッシュ大統領だというわけだ。負債でも何でも証券化し、世界中にリスクを分散した。新自由主義経済はグローバルな性質をもち、90年代後半よりの金融ビックバンは空前の繁栄を謳歌したかのように見えた。しかしレヴァレッジ(梃子)手法は儲けも危険性も拡大するため、アジア通貨危機を引き起こしたヘッジファンドの危険性に気付く人も多かった。そして今回の金融危機で金融工学は破綻した。資本主義はなぜ不安定なのか、それは基本的に投機によって成り立っているからである。株式、債券、為替、先物取引は殆ど実需(実物経済)と無関係に動いているからである。総金融資本がGDPの数倍の規模になって、虚構が実体を左右するようになった。市場は投機を淘汰するとする説もあるが、巨大な資金が強引に価格を吊り上げている。貨幣自体が投機なのである。貨幣が金の裏づけをなくして以来「紙くず」にすぎないのに、貨幣の信用に全員がしがみついている限りは貨幣として通用する。貨幣は大変効率的に富を生み出したが、反面不安定さを極限まで高めた。金融商品の隠されたリスクに目をつぶって、リスクはないと思い込んだのが運の尽き、ドミノ倒しのような信用崩壊で紙くずに化した。この先どうしたらいいのだろうか。新古典派経済学の理想状態、「神の手」は働かなかった。結局セカンドベストを目指すしかない。国家資本によるパッチワークで綻びを修繕するしかないのか。フリードマンからまたケインズへゆり戻しが当面の動きとなろう。とはいうものの米国ドルの基軸貨幣の地位は多極化し、米国の覇権は揺らいでゆく。

岩井克人氏を紹介する。氏はアメリカに留学中(MIT、UCB、イエール)は数理経済学を専攻したが、しだいに経済学者では扱わない前経済学の研究にのめりこみ、不均衡動学に関する研究において新古典派批判に転じる(『不均衡動学の理論』 岩波書店)。同書により、日経・経済図書文化賞特賞を受賞した。「ヴェニスの商人の資本論」で評論家デビュー。「貨幣論」でサントリー学芸賞、「会社はこれからどうなるのか」で小林秀雄賞。多数の雑誌に執筆し、人文科学系の評論家としても影響力を持つ。2007年、紫綬褒章。

本書を読んで経済学者岩井克人氏の言わんとするところは、貨幣と資本主義の摩訶不思議性である。その拠って成り立つ基盤が実に危い「信用」である。アダムスミスやマルクスの経済学は人の「労働価値」から始まった。そこを貨幣ありきから経済学を逆に読み解くのである。太古の昔、物々交換から流通が始まったというのは嘘だという。交換の数的記号(尺度)説や法制説ではいずれ貨幣と信用の堂々巡りの循環論に陥る。マルクスは貨幣としての「金」の価値を、「金」を生産する労働価値に置いたが、これは同義反復の迷路に入ったことを示している。岩井克人氏は貨幣は資本主義にとって永遠の外部(経済学理論の外にあるもの)であって、宗教における神みたいなものだという。普通の経済学では貨幣の起源などは考察しない。そういう意味では岩井克人氏は経済学者ではない。社会思想家といってもいい。貨幣が作り出す資本主義社会には根源的な危険があるという。つまり貨幣の価値は何が支えているのかといえば、商品世界が続くという信頼である。その信頼は貨幣が価値を持って商品交換を媒介しているという事実が支えている。「信用」と「貨幣」は互いを支えあう「宙吊り構造」関係にある。貨幣が爆走(金融資本によって)し、「貨幣」の価値が崩れると、同時に人間の関係である「信用」(実物経済)が崩れ資本主義社会の完全な崩壊となる。さかさまに読む経済学は面白い。そして対談によって、議論はさらに深まってゆくのである。社会思想家、文芸評論家、歴史学者との対談を通じて、貨幣論はさまざまな展開をみせる。これは最初から経済学の範疇を超えている。啓蒙思想である。この小さな文庫本に思想の宝物が一杯埋まっている。岩井克人氏の論の立て方は超越論すなわち経済の形而上学である。宗教論に近い論の立て方といえる。

第1章:アダム・スミスとマルクスを読む 利潤(資本)の始まりは差異

本書のテーマは「資本主義とは一体何なのか」を語ることなのであるが、それは「差異」と「人間」について語ることなのであるという書き出しで始まる。産業資本主義もない昔は、商業資本主義が共同体と共同体の隙間で蠢いていた。それはヴェニスの商人の時代、安いところで買い、高いところで売る、その差異が商業資本主義の利潤の秘密である。(ペテンか略奪か戦争という不等価交換も入ってくる) それが所謂「差異の原理」である。アダム・スミスは、1776年に著わした「国富論」の冒頭で、「人間の労働こそ国富の源泉である」と宣言する。差異の原理を排除して労働する人間を資本主義社会の中心に据えた。これを「労働価値説」という。労働価値説とは「あらゆる商品の交換価値はその生産に投入された労働の量によって決定されるという。(手工業の時代なら成り立つ概念かもしれないが、いまの産業資本主義ではこんな単純ではない。商品価値は資本が用意する生産設備の生産性が決める率が高く、人間は生産現場では隅に追いやられている。研究開発現場では人間が中心であるが) マルクスもリカードもこの労働価値説の信奉者であったことはまちがいない。労働する人間が生み出す剰余価値に国富を生み出す究極的な源泉を見出すのがマルクスもリカードの「剰余価値説」である。これが古典経済学とマルクス経済学の資本主義像である。参考までに「新古典派経済学」では一国の富は消費者の立場から評価される(GDPのように)。

このように産業革命以降の経済学は古典派、新古典派、マルクス経済学に従おうとも人間中心で説明されてきた。ところが産業構造が第3次産業のシェアーが50%以上になると、金融商品、サービス、情報などまさに差異が価値なのです。ポスト産業資本主義といわれる今日において、一国の富のあり方が物の集積から差異の集積にその性格を変え始めている。製品の差別化をしなければ企業は生き残ってはいけません。利益は差異の大きさに比例するということです。実は産業資本主義においても差異の原理で動いているといえます。労働者が受け取る賃金を消費者物価で割った「実質賃金率」と「労働生産性」といわれる二つの交換基準があり、資本家は生産手段を所有することから労働生産性を可能な限り高めることを追求します。したがって実質賃金率は労働生産性を大幅に下回っていた。この差異から利潤が生まれたのです。また実質賃金率も低く抑えるため、都会と地方の格差、外国人労働者との賃金格差も利用される。常に二重構造で賃金を低く抑えてきたのが資本の論理である。人類の歴史の中で古い資本主義社会から今まで、人間は一度たりとも中心を占めていたいたことはなかった。スミスの国富論は幻想であった。こう書き換えなければならない。「差異こそ国富の源泉である」と。

第2章:進化論と経済学

資本主義論では一番の中心問題はどのようにして利潤が生まれてくるかということだ。古典派(生存賃金説)、マルクス(搾取説)、新古典派(時間選好説)経済学ではすべての産業に通用する「一般利潤率」なるものに平衡してゆくと考える。ところが商業資本主義では共同体と共同体の間の価値体系の差異(為替レート)、産業資本主義においては労働生産性と実質賃金率の差異、企業と企業の生産方式や製品仕様の差異、サービスネットワークの差異によって利潤が生み出されているのです。個別企業の不均衡によって利潤が生まれそれが資本主義の活動力となっている。この経済の長期的な不均衡システムは、生物種が進化して(分散して)差異が生じるという進化論と認識論を共通する。「生存競争」という進化論の創始者ダーウインの考え方の出発点にはマルサスの「人口論」があったといわれる。またアダム・スミスの考え方を進化論の理論形成の中核にあるというか、相似性が如実である。ダーウインはまさに経済学理論の延長線上に生物進化を考えていたのではないか。スミスの「市場の神の手」という平衡プロセスはダーウインの「自然淘汰」プロセス(多系的生物種の平衡的世界)に酷似している。各々の理論の発展過程も似ている。スミスの見えざる手を最も純粋化したのがリカード経済学である。ダーウインの自然淘汰の原理(適応)を純粋化したのがウォレスである。多系理論の始祖から純粋化された理論が全盛を迎える。進化論では自然淘汰万能のウォレスからグールドの断続平衡論や木村の「分子進化の中立説」がうまれ修正が加えられくる。経済学理論ではリカードの神秘的調和論からケインズの修正資本主義(近代経済学)で調整が重要視された。進化論のネオダーウインイズムと経済学の新自由主義が対応する。

スミスの「見えざる手」理論とは市場メカニズムの比喩であるが、その市場において交換の不可欠な媒体としての貨幣という存在が、市場の平衡論という楽天主義の嘘を暴く手立てになる。市場に任せておけば資源は有効に流通するといわれるがその根拠は全くない。そう信じているだけの事である。下手な計画経済よりは弊害がより少ない程度かもしれない。進化論も分子遺伝学の進歩により全く様相を変えた。古典的進化論(目的論や用不要論)を信じる科学者はもはやいない。中立的か無害な遺伝的変異が蓄積される事が適応性を用意するのである。遺伝子変異は偶然の集積で環境的に優位性を獲得して形態に固定された時のみ進化したというだけのことだ。進化論の非適応や経済学の非効率も対応する概念だが、経済学では人間の介入によって非効率性に付け込んで利潤を上げることもできる。するとさらに平衡からずれ不平衡(格差)が拡大し、経済は自己破壊する。これが今日の金融恐慌であり、資本主義が基本的に不安定とされる由縁である。純粋な見えざる手は自己破滅的だ。すべてを経済的な利害計算の論理に還元してしまう市場メカニズムと、歴史的な偶然や共同体的慣習や文化といった経済外部制約要因を引きずっている人間や制度の絡みのなかで解決してゆこうとする思想が対立している。経済はすべてに優先するわけではない。放っておくと自己破壊する可能性だってある。科学技術だってそうだ。核兵器・遺伝子工学で人類は破滅するかもしれないのだ。パンドラの箱をあけた人間の智慧に期待することになるのだろう。

第3章:法人と日本資本主義

モースの「贈与論」に見るように、古代的共同体ではモノに霊魂を込めて人に贈った。贈られた人は霊魂の支配を逃れるため必ずお返しをするという交換システムがあったそうだ。ところが市場経済では人とモノとの区別をおこない、人はモノを所有する主体となった。ローマ法で人に関する法とモノに関する法がはっきり分離され、今日の市民社会の法体系の原型が出来たといわれる。そこで資本家は人であり、生産手段や商品はモノであると云うのが経済学の出発点となった。ところが資本主義の発展大会で「株式会社」という制度が出来た。人でもモノでもない厄介な制度である。株式会社は複数の出資者の集合体にすぎない。契約内容が変わるたびに出資者全員の署名が必要になる。多くの資金を必要とする企業では取引を容易にするために「法人」が発明された。それは本来人ではないけれど、法律の上ではあたかも人であるかのような扱いを受けるのだ。法人という制度は外部との取引関係を単純化したが、内部機構はうんと複雑になった。株式会社において企業資産である生産設備などを法律上所有するのは「法人」であって、株主ではない。株主は法人を所有し、法人は企業資産を所有するという、人→法人→モノという二重構造になっている。法人が企業経営を行うために経営者(取締役)とい機構をもち、株主は経営を維持する必要はない。株式市場という場で株式という形で法人が売り買いされる。西欧人はこの株式会社制度を発明しておきながら、鵺的存在である法人制度をあまり好きではない。企業買収を盛んにやるのは会社をモノと見ているからで、日本では株式会社という法人制度を上手く利用するのが好きだ。この日本的経営の根本である法人制度については奥村宏著 「法人資本主義」 朝日文庫に詳しい。

法人の二重性が、法人が法人を所有する事を可能とする。グループ企業内での株の持ち合いによる買収防止である。また自社株を一定程度保有する事が認められた。(勿論議決権はありませんが)本来実体でないものが実体性を持つという点では法人と貨幣はよく似ている。日本型経営(日本型資本主義)の特徴はこの法人制度からきているのである。会社主義とか従業員(労働者ではなくサラリーマン)法人機関説であり、昔から日本的経営の古き良き伝統といわれた。戦後の官僚統制計画経済と財閥解体が、旧財閥系統にグループ化して再結集したためである。この制度は形だけの家制度にも似ている。資本主義とは利潤の拡大だけを目的とした増殖体とみなすと、日本型法人資本主義は個人の替わりに法人が支配するという資本主義の純粋形態を実現しているといえる。しかし資本主義と近代市民社会が必ずしも一致しているわけではない。個人より法人が全ての日本社会である。この日本的資本主義の成功は欧米人が恐れるイメージでもある。オリエンタリズムといおう好奇心で見られるうちは花だが、じつは摩訶不思議なものとして嫌悪されている。人間性から離れた鉄腕アトムやロボット、コンピュータなどはフランケンシュタインと見なされている。アメリカは「構造協議」を通じて金融改革だけでなく、日本人の箸の上げ下げまで干渉したがるのである。

対談1:今村仁司 「マルクスを読む」

今村仁司氏は東京経済大学教授で社会思想家。経済学部卒ということで経済にはうるさい。マルクスの初期社会主義批判というテーマである。マルクスは初期社会主義批判において、初期の志に反してとんでもない理論上の結論に達するという。これを「マルクスの逆説」と呼ぶらしい。マルクスの初期社会主義批判の論点は一つは「階級構造の問題」であり。二つは「貨幣の問題」である。マルクスは徹底的にヨゼフ・プルードン(Pierre Joseph Proudhon;1809年1月15日 - 1865年1月19日 フランスの社会主義者、無政府主義の父と言われる)を批判して、マルクスは「商品はかならず貨幣を生む。貨幣は必ず資本を生む。従って資本主義を打倒するには必然的に貨幣も商品もなくしていかなければいけない」というルソー的な透明共同体に惹かれていた。ロバート・オウエン(Robert Owen:1771年5月14日 - 1858年11月17日イギリスの社会改革家。エンゲルスらから、サン・シモン、フーリエなどと共に空想的社会主義者と評された)も「貨幣という媒体をなくする社会をつくる」運動を行った。マルクスは資本論の「価値形態説」において、貨幣の必然性、つまり貨幣を抜きにした社会はありえないという結論に達する。媒体としての貨幣が人間社会をしっかり結び付けている。マルクスはプルードンを批判して「貨幣の必然性」を証明してしまったということがマルクスの偉大さである。

市場における社会主義者としてレオン・ワルラス(Marie Esprit Leon Walras:1834年12月16日 - 1910年1月5日 フランス生まれのスイスの経済学者 経済学的分析に数学的手法を積極的に活用し、一般均衡理論の創造に参画した。)ワルラスは「一般均衡理論」において商品を扱う多くの市場を同時に均衡させるような価格システムが存在し、安定であると云う市場経済の自己完結性を保証するために、有名なフィクション「市場競い人」という神のような超越者を想定した。全市場価格を調整する意味で社会主義国の計画経済価格管理局である。アダムスミスは「道徳感情論」(簡単な解説は堂目卓生著 「アダム・スミス」 中公新書を見てください)において、市場の個人のなかに「公平な観察者」、「正義の理念」が導いて平衡に達すると想定している。これが国富論では「神の見えざる手」となった。スミスは「内なる正義の理念」ではどうしてもバラバラな思惑を説明することが出来ずに、「神の見えざる手」という苦肉の言に逃げ込んだのであろう。スミスにおいてさえ実体経済を主体に考え、貨幣は道具に過ぎないという。貨幣を経済の中心に持ってくることは出来なかった。

マルクスは「経済計画論」をサン・シモン(Claude Henri de Rouvroy Saint-Simon,:1760年10月17日 - 1825年5月19日 フランスの社会主義思想家 サン=シモン主義とは半ば宗教的で共産主義的な教説である。サン=シモンの思想は実証主義社会学として結実した)から拝借している。サン・シモンは物の管理を強調して、理性の統治する計画経済主義を主張した。これは社会設計主義ともいえ、フランス啓蒙主義の理念である。産業主義という言葉を社会科学の中で始めて使用した人である。これはデカルトに代表されるフランスの啓蒙主義・合理主義の流れを汲んでいる。これに対して、アウグスト・フォン・ハイエク(Friedrich August von Hayek :1899年5月8日 - 1992年3月23日 オーストリア生まれの経済学者、哲学者。オーストリア学派の代表的学者の一人 20世紀を代表するリバタリアニズム思想家。ノーベル経済学賞受賞。その思想は、後の英国のマーガレット・サッチャーや米国のロナルド・レーガンによる新保守主義・新自由主義の精神的支柱となった)のサンシモン批判「科学における反革命」では徹底した自由主義市場経済を主張し、個人の合理性よりも市場の「神の見えざる手」に信頼を置く立場である。ハイエクはスミスに戻って普通の人間の市場における行動の指針として「貨幣」という媒体を置いた。貨幣は価値を持ったモノで商品と貨幣の交換は、あくまでモノとモノの交換となって完結する取引である。人間の信用関係が絡んでこないので、貨幣は取引をずっと容易にした。この人間の洞察はトマス・ホッブズ(Thomas Hobbes,:1588年4月5日 - 1679年12月4日 イングランドの哲学者であり、近代政治思想を基礎付けた人物である。)の「リヴァイサン」が「万人の万人に対する闘争」であると見抜いたところである。人間関係は信用は出来ないと諦めたところから自由な生活が送れるという。取引が相手を打倒するまで止まないという「信用」というものを引きずってしまうと、効率的・自由な取引が成立しない。そこで媒介者というものをおいたほうが気が楽である。

マルクスはスミスよりもはるかに労働価値論者である。これは人間と人間の直接的関係が人間の本来的な関係であると云う理解からきています。そういう意味ではマルクスの人間観は一面的で貧しい理解ではないだろうか。ホッブスのほうが深く人間を洞察している。「価値形態論」において、マルクスは商品の交換価値は貨幣という媒介を取らざるを得ないということ示したが、貨幣と商品の価値の循環論法によって、商品世界が実体として労働価値から浮き上がっている事である。貨幣が発生する論理は商品世界からは説明が付かない。貨幣によって資本主義社会は安定しない構造を持ち、複数の価値体系が共存する構造である。商品の体系(実物経済)と貨幣の体系(金融経済)の差異性から利潤を生み出すのが金融資本主義で、同時に恐慌の可能性をいつも秘めている。

対談2:柄谷行人 「貨幣・言語・数」

柄谷行人氏は法政大学教授で文芸評論家。経済学部卒で貨幣論に詳しい。テーマは「貨幣・言語・数」ということだが、実質は「貨幣論」で、言語・数は殆ど比喩的に述べられているに過ぎない。そこで「貨幣論」に集約して解説する。岩井克人氏がマルクスを読むようになったのは1990年の社会主義国家体制の崩壊とバブル崩壊が同時に起きたことがきっかけであったという。マルクスを語る事はそれまで政治的であったが、マルクス経済学者が沈黙してしまったので気兼ねなくマルクをテキストとして読めるようになったことである。またバブル崩壊により、ひとびとがお金に執着しだして不況が発生した。お金だけは未来永劫使われ続けるだろうという期待、いや幻想によって不況になっているのである。ところが資本主義社会にもっと恐ろしい危機があるとすれば、それは「ハイパー・インフレ」、貨幣が紙くずになる日の恐怖である。ドルが世界の貨幣の基軸となって以来、一国の通貨崩壊ではすまなくなっている。まさに現在は資本主義の外部がなくなって全的崩壊の可能性が現実のものになり始めた。2008年秋の金融不安と危機は世界資本主義の不安定が露出したのである。

古典派経済学とマルクスは「労働価値説」を発見した。マルクスは最期まで労働価値説を信じていた。古典派から出たハイエクの自由至上主義がアメリカ金融資本を生み破綻した。貨幣は強いようだが、その決済を無限に先送りする。バランスシートで毎年決算はしない、フローシートがプラスになってさえいれば良いとする自転車操業である。時々決算を迫られるときがくる。それが恐慌である。市場における売り買いは他者とのコミュニケーションの問題で、交換媒体としての貨幣の問題は別の次元である。貨幣の起源は、共同体間の取引において属人的な「信用」を不要とし、貨幣そのものに「信用」が与えられている利点を生んだからだ。信用を云々する時間もない取引を可能とした。すばらしい発明品である。いわば信用という信仰を全員が認めた時に成立した。そういう意味で宗教と貨幣は、「最後の審判」と「決済日」という類似性を持つのである。そしてどちらも永遠に延期する事ができる。レーニンが言う様に「革命のための最上の方法はインフレを起こして、信仰(幻想、価値観)を破壊する事である」 革命やナチズムはインフレの後にやってきたのも歴史の示すとおりである。マルクスは労働価値説を徹底的に信じて「価値形態説」に進んだが、「金」の価値につまずいて不完全に放棄してしまったが、「信用」において価値記号説を展開する中で、無価値なものでも貨幣として皆が信じて使えば価値を持つという考えに到達した。貨幣と信用という宙吊り構造が成立したのである。マルクスの「剰余価値」は資本→商品→資本’(増殖)において、(資本’−資本)が剰余価値であった。こうして産業資本主義が拡大することは広く認めるところである。自己増殖する資本の運動は「自己」の差異化と同じである。経済は市場における自己差異化運動とさまざまな経済外部要因との間の相互作用である。バブル崩壊とは自己差異化が永遠に続くものではない事を示した。資本主義の外部とは歴史の始まりにおける「貨幣」の成立という奇跡のことである。


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system