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坂井克之著 「心の脳科学」

  中公新書(2008年11月)

「わたし」は脳からうまれる

この本は所謂「心脳問題」を扱った本である。心と脳の対立において小林秀雄氏は科学では絶対分らない心があるいう「小林秀雄の心脳問題」が有名である。 脳科学の発達が生命科学(遺伝学)の著しい進歩に比べて今のところ未熟で、分からないことだらけであること反映しているのであって、科学では魂や意識は絶対分からない世界だとする小林秀雄の反抗は間違っていると私は考える。魑魅魍魎の跋扈する世界は確実に減少してきた。それは人文科学における哲学の分野が宗教と倫理に限定されていることでも明らかである。心理学はいずれ消滅するに違いない。 著者坂井克之氏はこの本で二つの問題意識を立てている。一つはわたし達の意識、そもそも「私となんだろう」と云う問題である。もし脳科学が「自我」を作り上げているメカニズムを明らかに出来たら、「私とは何だろう」も分るのだがと云う期待がうまれる。もうひとつの問題は脳研究によって未来社会がどうかわるのかということだ。倫理問題をはらんだ脳研究と人間社会の未来に思いを馳せる。

「私とは何か」と云う問いに対して、これまで読んだ脳科学の本の中では、養老孟司著 「唯脳論」  ちくま学芸文庫と茂木健一郎著 「脳と仮想」  新潮社が考察している。
養老孟司著 「唯脳論」  ちくま学芸文庫
「神学では心つまり精神はヒトと神だけの持ち物であった」が、脳という構造(末梢神経と中枢神経)から心という機能が生まれるのである。「脳と心の関係の問題即ち心身論とはじつは構造と機能の問題に帰着する。これは因果関係ではなく対応関係にある。」と言う実に明快な導入口を用意された。脳の変化は末梢神経からの情報でもたらされる、これを学習、成長といってもよい。そこで「中枢は抹消の奴隷」とも言われるが脳と身体は一体化している。生き物が外界の条件に反応するだけでいいうちは、即ちヒト以外の生物の脳なら意識はなくてもいい。しかしヒトが直立歩行して以来背骨は大きな頭蓋を支えることが出来るようになり、脳が大きくなった。そして余裕のある脳に言語や意識という機能が発生した。つまりヒトの脳は外界だけでなく自分の脳にも気がついてしまった。これが脳の進化過程でもあり、いわば脳の剰余価値論である。現状からいうと、人間の精神・心の説明は科学的にはとりあえず出来ない。いつできるかと言うこともいえない。1千億個のニューロンのシステムを構造論だけでは理解できないのは当然である。何万年も前から人間は生物学的に確立した種である。従って脳の構造機能は変化していないが、ひょっとして天才的頭脳が解明するかもしれない。従って本書は脳から人間活動を説明できているのではなく、説明する時の方法論について考察したものと理解される。この分野の難しさは動物実験できることではなく、構造と機能の対応関係からだけでは人間の意識という総合的な機能は掴めないからである。進化論のようなアプリオリな推論(実証実験の積み重ねではなく、神の声のような天才的ドグマ)の創造によるしかないからだ。従って医学界ではこの問題はタブー視されている。なお養老孟司氏は解剖学者である。
茂木健一郎著 「脳と仮想」  新潮社
「人間の精神の歴史は仮想の世界の拡大の過程、即ち仮想の系譜において捉えられる。人間は現実にないものを見ることによって、現実をより豊かな文脈の下に見ることが出来るようになった、次第に豊かな仮想の文脈が積み重ねられる過程で言語が発生した」と言うように氏は人間精神の特徴を現実から自由なイメージの構築においた。何かを思うだけで現実は変わるものではないが(雨乞いなど)、実現しない仮想の切実さが人間の進歩の基盤であった。その仮想世界が言語や文明を生み出したことは歴史からして明白である。したがって認識は現実と仮想(イメージ)の織りなす綾で構成される。 著者茂木健一郎氏はこの本の貢献により新潮社から「小林秀雄賞」を受賞した。異色の脳科学者で人間の経験のうち、科学的に計量できない微妙な感覚質をクオリアと呼んでいる。すなわち脳科学の研究対象になりえない再現性のない個人的な体験も脳の機能から出てくることは違いない。これをクオリアと言って脳内現象として理解しようとする試みであろう。茂木健一郎氏は脳システム論者である。

ここで著者坂井克之氏の略歴を本書末尾から転載する。1965年生まれ、東大医学部博士課程卒業後、2000−2004年ロンドン大学神経科学研究所に留学、現在東大医学系大学院准教授 専攻は認知・言語神経科 著書には「前葉頭は脳の社長さん」(講談社ブルーバックス)などがある。本書の言いたいことをまずまとめておこう。「私とはなにか」について「哲学」が答えてくれそうだ。最近の分子細胞学免疫研究では「私とは糖鎖認識である」という。理科系では「私とはなにか」と云う問いはタブーであった。所詮科学実験で実証できない領域であるからだ。だから著者は「私はなにかという問いのわたしとは概念でなく、わたしを成立させている物質基盤を見出す事が目標です」という。「わたし」が虚構なら、「わたし」という虚構を成立させている物質的なメカニズムを明らかにしようということになる。脳が物質である事に異論はない。脳が「わたし」を成立させているようである。物質の「わたし」を離れて、理科系人間は決して霊的な「わたし」を想定はしない。すると道筋は遠くても、脳から「わたし」にいたるメカニズムを科学的に明らかに出来る可能性がある。本書を読んで第一に大変分りやすいと感じた。理科系のわたしが小難しい事が書いてないので分りやすいと思うのは恥ずかしいのだが、分るという作業にも色々なフェイズがあり、今のわたしは脳科学を専門にするわけではないので、この程度の理解で十分である。なぜ小難しい事が書いてないかというと、坂井克之氏が東大人文社会系研究科で行った交換講義内容に沿っているからだ。文科系のひとに分ってもらうための内容である。

外なる世界を認識するということは脳内に外界情報を表象するすることであるが、まず視覚により位置と形を認識する。外界を忠実に映し出す脳領域と、自己の内面を強く反映する脳領域との連絡によってわたしたちの意識する世界となる。外なる世界と内なる世界の領域の神経細胞ネットワークに同時に火が着くことで、意識に上るという考え方が今の学説である。この段階では、「わたし」は一定以上の情報でなにかが立ち上がっているを意識する実体という程度に理解しておこう。しかし意識せずに入力されてくる情報は無意識の世界(サブリミナル効果)であるが、これらがわたしに何も影響しないとは限らない。この自動的・機械的な無意識の世界と、意識的な世界との脳活動の差を考えるのは現在の科学では荒唐無稽といわれる。しかし脳科学の進歩は科学的に考えるのが可能であるという。

そして過去から現在までの継続した「わたし」を成立させているのは記憶です。わたし達の自我そのものの継続性を成立させているメカニズムが自伝的記憶であるとされる。そのためには思い出された過去の出来事に自分を投影するメカニズムが脳内に存在している。主体的な自我としてのわたしが成立するには、自分の意志に基づいて内部世界を作り上げる機構が必要で、これを思考という。脳から「わたし」へという流れで考えると、思考するときに脳が活動するのではなく、脳が活動した結果として思考したと主観的に思うのである。このあやふやな「わたし」の定義を脳活動からメカニズムを追って理解できるはずと著者は期待する。わたしは他人との区別において形成されることも事実だ。これを自己と他者の分別問題と云う。このアイデンティティを確立する脳神経活動の理解も必要である。わたしが脳を持っているのではなく、「わたし」を持っているのが脳であると認識しなければならない。

最近の脳科学の研究は、脳を読むことと操作することが含まれている。考えている時脳がどのように活動するかを研究するのと、脳が活動している時この人は何を感じ考えているのだろうという研究である。経済学の分野においても「神経経済学」というものがあり、消費者の好みや遺志決定メカニズムを知って、マーケッテングに利用しようというのである。脳科学が何処まで応用できるかまだ未知であるので、あまり即戦力として期待すると馬鹿を見る。脳の操作は直接脳活動を変化させるデバイスを埋め込んだり、または間接的に無意識下で情報を流す事によってある種の行動を誘導することである。ヘッドギアーをつけた操り人形的人間は「オーム真理教」でたくさんである。このような操作が倫理的に許されるのか、未来社会の課題となるだろう。しかし精神疾患では既に薬物療法は必要不可欠になっている。鬱病の特効薬も出来た。特定神経細胞のレセプターをブロックしたり、神経伝達物質によって促進したりする薬の開発が盛んである。

1) 外なる世界 認識と意識

脳を見る研究に欠かせないのが機能的核磁気共鳴装置(f-MRI)である。MRIと云う断層写真の構造画像の解像度は1ミリメートルであるが、脳の働きを見る機能画像の解像度は通常3ミリメートルである。脳画像の一断層の撮影は100ミリ秒でできるので、20枚ほどの脳全体断層を撮影する1スキャンには2秒かかる。500回の脳断層撮影は17分程度の実験になる。10人から20人の被験者を立て続けに実験すれば1週間くらいで実験は終了する。f-MRIで何を撮影しているかと云うと、ある実験の設問で反応する部分の脳血流の変化を見ているのである。平常の時と設問の時の血流の差に注目する「引き算」の画像の演算を行う。そして複数の場所で反応が見られる場合が多いので、それらのメカニズムを推論しなければならない。ただ脳活動を撮影しただけでは学問的価値はない。いつも研究の意義が問われる。一つの実験結果に百の説明が成り立つと云う厄介な研究である。

「どこになにがあるか」という外界の情報が脳内に表象されるメカニズム(認識)についてはかなり分ってきた。目の「網膜」から伸びた80万本の「視神経線維」の束が左右交差して大脳の後にある「後頭葉視覚領域」に繋がっている。いまや1000万画素を越えるデジカメラで云うと、網膜は80万画素の素子でかなり粗い。ただし脳はたんに映像を映すだけでなく、これをさまざまな形に加工してゆく過程が「意識」である。脳における視覚情報処理とは、外なる世界が内なる意識や主観の世界に変換されてゆく過程である。視神経線維は左右入れ替わって「外側膝状体」で別の神経線維に接続する。まず視覚情報は「鳥距溝」という脳のしわに疎って広がる「第1次視覚野」に接続される。ここで上下左右は反転するが外界の空間的位置関係は保たれる。情報は第2次視覚野、第3次視覚野へと伝えられ加工される。さらに色を認識するV4という領域、運動の方向を知るV5領域と云う情報処理を行う領域がある。視覚情報はこうして脳の後頭葉視覚領域で処理された後、「頭頂葉」と「側頭葉」に伝えられ、物体の位置情報、物体の形や色に関する情報として処理される。そして最後に「前頭葉」に情報が送られると見た物として認識される。目に入る視野は広くそして雑多な情報であるが、その人が何に注意を向けているかは前頭葉の動きで情報の重みつけが行われる。だから外界の刺激を見ているだけでは、1,2次視覚野などは強く反応しても、前頭葉や頭頂葉はあまり反応しない。これに対して視野の特定の位置に注意を向けている場合には、前頭葉や頭頂葉が活動し、1,2次視覚野などは強く反応しない。ランダムな画像から意味のある画像を抽出する場合には前頭葉から後に向かう信号が必要である。脳視覚情報信号パルスの流れは後ろから前へという流れと前から後ろへ向かう二つの信号で、「わたしが外界に対して注意を向けた」と云う意識的体験が成立するのだ。

「その物がなんであるか」についての判断は後頭葉の視覚領域から「側頭葉底部」へいたる経路で行われる。中心視野の10度以内の網膜には形や色に反応する「錐体細胞」が多く存在し、周辺の網膜には明暗だけに反応する「棹体細胞」から成り立っている。網膜中心視野の情報は側頭葉底部に送られ、人の顔の分析については、「紡錘状回」という「顔領域」が存在する。顔の形の差異を見つける時にはこの「顔領域」の活動がなくてはならない。建物の分析は「海馬傍回」という「建物領域」がある。ここであとの議論に役立つ脳座標と標準脳について整理する。座標の原点は、右脳と左脳を連絡する神経の束である「前交連AC」とする。「前交連AC」と「後交連PC」を結ぶ脳の真ん中の線をY軸にとり、ACを通る直交線(右から左へ)をX軸とし、ACを通りX、Y軸に直交する線(脳の上から下へ)をZ軸とする。これ「を脳座標」と云う。また人の脳の形はさまざまであるので、モントリオール神経学研究所が305人の脳を平均した「標準脳」である「MN1305」に画像変換して、国際的な研究成果の位置座標を議論する。活動している領域の中心の位置を座標で言い表すことが可能である。顔・建物以外にも「文字領域」が重要である。左大脳半球の側頭葉と後頭葉の境界に文字領域がある。文字の形態認識と言語的意味処理を行うとされている。このように視覚情報処理には異なった脳領域の活動が必要で、これをモジュール性という。過去に得られた視覚情報を統合した上で、現在の視覚情報を分析し、同じとか違うとかを判断している。ここにも記憶機能の呼び出しが無意識に行われている。

現在の脳科学では、脳活動とわたし達の意識の中味との因果関係が一番の問題となっている。見えたものを意識するメカニズムを考える。脳科学に「眼球間闘争」というおかしな名の実験がある。左目と右目に別々の像を見せると、意識せずに画像は交互に意識に上る。これを支配しているのが、画像が顔と建物であれば脳の「顔領域」と「建物領域」の活動の切り替えが起きているのである。右目と左目が闘争しているのではなく、脳の中で意識する領域のスィッチが切り替わっているのだ。切り替えの時に活動しているのが「前頭葉外側領域」であった。スィッチの司令塔はここだ。前頭葉は意識的に努力している時に活動するが、意識せずとも自発的に活動することがある。縦縞と横縞を左右の目に見せる時には、ここでもやはり眼球間闘争がおきる。この時の司令塔は視神経線維束の連結点であった「外側膝状体」が活動している。結合だけでなく信号のゲート役を担っている。意識に上らなくとも神経活動はある程度は自発的に別の脳領域につたわる。これを「サブリミナル効果」と呼ぶ。見ようとする意識がなければ何も見えたことにはならないが、見ようとする意識があると視覚にはない物を見ることがある。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」と云う言葉ある。思う我はどこにあるのだろうか。臨死体験とかてんかん患者は自分が肉体を遊離する姿を見る事があると云う。それは脳の「TPJ領域」の異常である。この部分に電流を流すとこの現象の誘発が出来る。「TPJ領域」は視覚、触覚、平衡感覚の情報が集まる場所である。自分の自我は絶対見る事は出来ない。自我は虚構である。自我は実在ではない。しかし「私という虚構」は脳という実態基盤を持っているのだから、それを科学的に明らかにする事は可能であろう。

2) 記憶とわたし

この章では記憶と知性を扱う。記憶は情報の処理過程で参照として呼び出され情報にバイアスかけると同時に、一貫して意識を持って存在する自分という概念を成り立たせているのも記憶である。自分が時間軸の上で同一の存在であるためには、過去の自分の記憶を持ち続け他と区別できることが必要である。事柄全体をまとめて覚えている「エピソード記憶」を司る指令塔は「海馬」である。タツノオトシゴのような形状から名が付けられた。記憶にはいろいろあり、注意を向けている間だけの短期記憶である「作業記憶」は前頭葉が関与し、訓練で覚えてゆく「手続き記憶」は「大脳基底核」が関与している。記憶の段階である「書き込み記憶」、「記憶保持」、「記憶の再生」に「海馬」が活動する。意識的に書き込む記憶に対して偶然に書き込まれる記憶もあるが、抽象的なことは覚えず具体的な形は良く覚えている。睡眠は今日あった事柄を整理して記憶するうえで必要なステップである。自分自身の記憶を呼び起こす時に前頭葉の内側の部分が活動している。記憶の中に「自己投影」をしているからだ。記憶と想像は表裏の関係にある。情景を思い出しながら想像が行われるからだ。

「自分」とは主体性を持って行動、思考する自我のことをいう。しかしそれは仮想的実体にすぎません。知能と前頭葉の大きさが関係するとよく言われている。あまり実利的な知能(大学受験など)はさておき、外界から得られた情報に対して操作を加え、新たな架空の情報を脳内に作り上げることを「思考」と呼ぶ。意味付け、重みつけ、価値付けなどの操作である。情報の保持には前頭葉の後部、情報操作には前頭葉の前部の領域が活動する。情報操作の実体とは、脳内神経細胞ネットワークの発火、信号の流れのことである。わたしの意志はどこにあるのかについて面白い実験がある。具体的な行動を起こす数秒前には脳の前頭葉内側の活動が立ち上がっていなければならないという。その行動のモチベーションは「報酬」回路が与える。「脳幹部」が「ドーパミン」という情報伝達物質を分泌することである。「パブロフの犬」と云う条件反射的な報酬ネットワークの発火が必須なのだ。

相手の気持ちや意図を察して自身の行動を決定する働きを「心の理論」と呼ぶ。動物は知らず、人は社会的な動物であるといわれる由縁は人には心の理論があるからだ。道徳、倫理、宗教、憲法などはこの理論の延長にある。「心の理論」に関係する脳領域はどこにあるのか。相手の気持ちになると云う行動は、自己を他者に投影する事を必要とするので、前頭葉内部が自伝的記憶と心の理論に共通した役割があるという可能性がある。相手の行動が自分の脳を刺激する分野が「腹側運動前野」にある「ミラーニューロン」(サルの実験)である。人では「ミラーニューロン」は言語処理領域になる。自己と他者を区別する領域(前頭葉内部)が「心の理論」領域なのかもしれない。統合失調症や自閉症患者には相手を思いやる事が稀薄であるとされる。「道徳的ジレンマ問題」では葛藤すると、前頭葉内部と前頭極部が活動する。道徳には感情も絡んでくるので、「大脳周縁部扁桃体」も活動する。無慈悲に「最大多数の最大幸福」を是とする酷薄な人は前頭葉底部に問題があるのかもしれない。右前頭葉外側部を切り取ったり、磁気刺戟で脳血流をとめると、頑固な人は急に優しくなる。視覚と違って「心の理論」領域はまだ良く分からないことがおおいので、問題が単純ではないので簡単な結論は禁物である。

3) 物質としての脳と心

「わたし」は脳活動の結果としてうまれてきたものである。この脳の出来には個人差があり、遺伝子や環境要因によって決定される。遺伝子によって影響を受ける脳分野として、大脳皮質の厚み(神経細胞の樹状突起の数)や、前頭前野の「ブローカ領域」と呼ばれる言語領域、論理的推論に関係する前頭極部、作業記憶や情報操作に関係する前頭前野中ほどの領域が研究されてきた。蛋白質の遺伝子配列異常による変異が脳機能を影響する例に、長期記憶を支配する遺伝子研究が有名である。脳由来神経細胞成長因子BDNFのバリン型は正常であるが、メチオニン型変異は記憶能が20%ほど低下するという。作業記憶を支配する遺伝子としてドーパミン分解酵素COMT変異型が研究され、バリン型変異はドーパミンを分解するため作業記憶が低下する。鬱感情を支配するセレトニントランスポータ5-HTTのs型変異はl型にくらべて鬱になりやすいとされる。知能が遺伝するとかいうことはあやふやな知能の定義のため議論しないほうがいい。病気など具体的な課題で能のパフォーマンスを評価する事が大事である。

学習によって脳は変わるのか。確かに学習の初期には前頭葉の活動は活発であるが、学習の早い人は馴れによって活動は直ぐに低下する。これは一時的な処理活動であるが、職業など長期にわたる学習の結果、音楽家の運動領域の神経線維の髄鞘が太くなったり、タクシー運転手の海馬が大きくなることが見られた。暗記勉強で一次的に鍛えられるのが海馬である。訓練によって大きくなる事も有るとしても、問題は脳の使い方が変化するというのが結論である。後天的に視覚が失われた時、点字をなぞる触覚が視覚領域を刺戟し言語野に伝えられるというなどの役割分担の変更も発生する。

非常に微妙な研究がある。植物状態の人に問いかけて脳活動の変化を見る研究で、家を問いかけると「建物領域」が活動し、スポーツを問いかけると運動領域が反応するというのである。これに反論する人は、心から脳活動へと言及する事は出来ても、脳活動から心について語る事は出来ないのである。植物状態とは「最少意識状態」のことですが、状態の定義は難しい。ブレイン・マシーン・インターフェイスBMIという脳内埋め込み型電極で動物実験を行い、サルの脳信号をロボットに送って、歩かせたり行動させるという研究がある。脳がこのようなパターンで活動している時、被験者はこのようなことを考えている、或いは行動しようとしていることを推測するアルゴリズムが必要だ。f−MRIの解像度は3ミリである。3ミリ内の細胞の平均的な活動から意志を読み取る事は不可能であるが、画素のパターンの特徴から何を認識しているかを推し量る研究がある。線分の傾きを認識する問題では、回答は被験者が知っているのだから推測の正解率は70%であった。心のうちを読む読心術という高度な芸当は夢としても、方向だけは可能性を開いたといえる。最近のバイオテクノロジーの成果である、病態と発現遺伝子地図のパターン認識(DNAプローブ)と同じ手法である。嘘発見器などは夢のまた夢である。


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