081126

柳澤桂子著 「日本人への祈り」

  角川春樹事務所(2008年11月)

「神とともに、神なしに生きる」境地が「心の成熟」という絶対宗教感である。

著者柳澤桂子氏のプロフィールを紹介する。1938年東京生まれ。60年お茶の水女子大学理学部を卒業し、アメリカに留学。分子生物学の勃興期に立ち会う。63年コロンビア大学大学院を修了。慶應義塾大学医学部助手を経て、三菱化成生命科学研究所主任研究員として、ハツカネズミの先天性異常の研究を始める。30代より激しい痛みと全身のしびれを伴う原因不明の病に苦しみ、83年に同研究所を退職。病床で多数の科学エッセーを執筆。99年、「慢性疼痛」の診断で抗鬱薬処方により劇的な効果があった。その後も脳脊髄液減少症、脳梗塞、狭心症などで入退院を繰り返している。本書も自身の体力がないので、編集者の電話インタビュー形式でなった。主な著書に「二重らせんの私」「お母さんが話してくれた生命の歴史」「遺伝子医療への警告」「癒されて生きる」「卵が私になるまで」「われわれはなぜ死ぬのか」「生と死が創るもの」「ふたたびの生」「生命の不思議」、「生きて死ぬ智慧」ほか。

私はかって柳澤桂子氏の「生きて死ぬ智慧」を読んだ。そこに「般若心経」の「色即是空」の解釈が宇宙物理学として語られていた様に思う。インド仏教では輪廻の論理で桎梏から逃れるため輪廻を断ち切ることで永遠に生きられると説いた。「般若心経」の否定の論理の循環が言語上は同じ言葉の繰り返しとバリエーションとなって単調なリズムを生んでいる。「私も宇宙の塵に過ぎない。集まっては形をなし死んでは飛散する」という物質循環(不滅)の概念は生きている内は、心の安心には役に立つだろう。」と云う思想が述べられていた。人間が死んで分解すれば水と炭酸ガスと多少の無機物が残る。構成元素といっても炭素、水素、酸素、窒素、硫黄、燐、カルシウム程度である。物質循環論では、これら元素は又別の無機物や生物を生むと説くのである。短歌「生きかわり死にかわりつつわが内に積もる星屑にいのち華やぐ」が著者の生命観である。

そして 「日本人への祈り」を読んだ。この題名からは、社会的・文明論的な問いかけが連想されるが、本書は決してそんな高踏的な態度ではなく、ぎりぎりの自分の祈りである。むしろ「私の祈り」でいいのではないか。編集者はしきりに社会的問題に話題を持ってゆこうとするが、著者の気持ちは社会的にはむしろ古い考えに立つ。そんなことよりはかない自分の生命のことが最大の関心事である。本書は六つの章からなり、第1章「病」、第2章「生い立ち」、第3章「戦争と教育」、第3章「家族」、第5章「命の教育」、第6章「祈り」である。教育と云う言葉が2回でてくるが、これは「教育問題」と云うよりは「自分の思い出」である。決して文明論にはならないのが本書の領域である。第1章から第5章まではまさに柳澤桂子氏の人生の個人的回想録であり、本書末尾に詳細な年譜があるので氏のビブリオグラフィーはそちらを参照するといいので、私は繰り返さない。人の人生に赤の他人は簡単には入れない。そこで本書を読んで第6章の「祈り」だけが、私が氏の議論についてゆけるところであった。

柳澤桂子氏が1983年病気により休職期間が過ぎて解雇された時、仕事が出来ない惨めな自分の気持ちが昂じていた時、炎に包まれて「大丈夫そのまま行けばいいのだ」という感覚を覚えた神秘体験をしたそうだ。「神は脳の中にいる」という脳科学と絶対宗教感をミックスした考えになったらしい。氏はそれ以降サイエンスライターとして「生命誌」という生命研究の歴史に関する活動を開始した。宗教は結局自分と対象を対立てし見るデカルト流二元論から脱し、自我をすて宇宙に溶け込む「一元論」に立つことだと云う。これは仏教的宗教感であり、キリスト教やイスラム教のような人格神と人間の関係を問う「一神教」ではない。「色即是空」という、形ある物も無となる世界を是認することだと氏はいう。悟りを得る、体感する力は「絶対的な宗教」でしか幸せになれないらしい。柳澤桂子氏の宗教感は短歌「黄昏が静に星を産む刻に深く祈りぬ神亡き世に」に表現されている。

著者は長年、短歌を愛好している。本書の章ごとに2題の短歌が添えられていたので、合計12の短歌を記しておこう。
「生きるより道亡きことをうべなえる山茶花ひとつ白く冴ゆる日」
「髪梳くに足りる力の戻り来て肌に触れる櫛を楽しむ」
「まぎれなく私に父と母がいた満月のようなまあるい記憶」
「この星に我を産みたる人逝きて桜の花は限りなく降る」
「指先ゆ青い炎が出たという原爆に燃ゆる人間の手」
「たましいを吸い込むごとく藍深くつゆけき花を紫陽花という」
「羊水に胎児浮かべて寝し夜も遥かに蒼き遠き思い出」
「野見山の夜空見上げし孫娘 星がたくさん噛み付いたのよ」
「生きかわり死にかわりつつわが内に積もる星屑にいのち華やぐ」
「寝る前におやすみなさいの握手する老いたる二人昨夜もこの夜も」
「黄昏が静に星を産む刻に深く祈りぬ神亡き世に」
「ラヴェンダーの野に寝てみたいその次は波打ち際を歩いてみたい」


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system