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多田富雄著 「寡黙なる巨人」

  集英社(2007年7月刊)

脳梗塞から再生した免疫学者の闘い 寡黙なる巨人の誕生

多田富雄氏は言うまでもなく日本を代表する免疫学の泰斗である。この読書ノートコーナーにおいて「免疫の意味論」 青土社(1993年4月)と云う著作を紹介したことがある。学術的な内容は別にして、次のような紹介をした。「1980年代は日本人が免疫学研究の最先端を走っていた輝ける時代であった。その頂点が利根川進氏の抗体多様性の遺伝子機構の研究に対して与えられたノーベル賞であったが、多田富雄氏の抑制Tリンパ球細胞(supT-cell)の発見や、インターロイキン関連の研究では本庶佑、高津聖志、平野俊夫、岸本忠三、新井賢一ら日本人免疫研究者の快挙が続いた。多田富雄氏の「免疫の意味論」という著書は、免疫学の研究成果の総覧という内容ではなく、むしろ生命の全体像の文脈で理解する試みである。意味論といえばとかく哲学的になるものだが、あくまで科学的生命システムの理解に終始した分かりやすい内容になっている。改めて免疫システムの大切さともろさを認識させてくれる名著である。」という内容である。

多田富雄氏のプロフィールを紹介する。
茨城県結城市出身。千葉大学医学部卒業後、千葉大学医学部教授、東京大学医学部教授、東京理科大学生命科学研究所所長を歴任。1971年に抑制T細胞を発見するなど免疫学者として活躍する。野口英世記念医学賞、朝日賞(1981年)、文化功労者(1984年)を受賞
その傍らで自ら小鼓を打ち、能の作者としても知られる。作品に、脳死の人を主題にした『無明の井』、朝鮮半島から強制連行された人を主題とした『望恨歌』、アインシュタインの相対性理論を主題とした『一石仙人』、広島の被爆を主題とした『原爆忌』がある。
『免疫の意味論』(青土社、1993年)で大佛次郎賞、『独酌余滴』(朝日新聞社、1999年)で日本エッセイスト・クラブ賞、『寡黙なる巨人』(集英社、2007年)で小林秀雄賞をそれぞれ受賞。
2001年に滞在先の金沢にて脳梗塞となり、声を失い、右半身不随となる。しかし、執筆意欲は衰えず、執筆活動を続けている。2006年4月から厚生労働省が導入した「リハビリ日数期限」制度につき、自らの境遇もふまえて「リハビリ患者を見捨てて寝たきりにする制度であり、平和な社会の否定である」と激しく批判し、反対運動を行っている。2007年12月には『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか』(青土社)を刊行した。2007年には親しい多くの知識人とともに「自然科学とリベラル・アーツを統合する会」を設立し、自ら代表を務めている。

2007年7月多田富雄氏は集英社より本書「寡黙なる巨人」を発刊した。本書は、2001年5月2日多田富雄氏が出張先の金沢で脳梗塞で倒れられたのち、退院されるまでの9ヶ月間の闘いの記録である書下ろし文「寡黙なる巨人」第1部(100ページ)と、第二部「新しい人の目覚め」(140ページ)からなる。第2部は2002年から2006年までに氏が新聞雑誌に執筆された短編エッセイ集であり、37編からなっている。第1部だけであると闘病記であるが、第2部において多田氏はお能を通じた反戦反核運動、厚生労働省を相手とする「リハビリ難民」問題の闘いで医療制度の鋭い糾弾者になるのである。プロフィールに見るように多田氏は世界的免疫学者の顔以外に、詩人、鼓奏者、能脚本家、平和・社会運動家の顔を持たれるのである。本書で云うところの「寡黙なる巨人」、「鈍重なる巨人」の意味を考えたい。

第1部 「寡黙なる巨人」

まず病症の客観的な状態を主に見てゆこう。
・2001年5月2日、 金沢の友人を訪問中に脳梗塞で倒れ、金沢大学付属病院に入院した。
2回の発作を起こしたが、死の淵から生還した。数日間は半醒半睡の状態でMRIの検査などが行われていた。診断結果は中脳動脈の塞栓による脳梗塞で右半身に運動障害、仮性球麻痺による嚥下障害や言語障害が残ると云う。麻痺のため舌が喉に落ち込む危険性があり体位交換が必要である。つばさえ飲み込むことが出来ない。嚥下障害と云うのは水さえ気管支のほうへ流れ込むのである。記憶は正常であった。覚えていた謡曲などは大丈夫であった。経管栄養で栄養を取る。3週間後から言語訓練が始まったが、下はピクッとも動かない。コミュニケーションはトーキングマシンのボタンを押すことを利用した。麻痺した手足は固まったように痛い、痰を吐くことも出ない、手洗いに行く時も妻の介助なしでは自分でズボンも下ろせない。理学療法士のリハビリが開始された。作業療法士と言語療法士による訓練も開始された。右足の親指とともに何かがピクっと動いたような気がした。何かが目覚めようとしている気配がしたのだという。鈍重な巨人が始動したのだ。2ヵ月後友人が差し入れてくれたワープロで文章を表現することに夢中になった。
・7月初め、東京都立駒込病院に転院
落ち着いて療養するため旅先の金沢の病院から、本郷の自宅に近い東京都立駒込病院に転院することになった。自宅に帰ることはできない。障害者用には作られていないからだ。東京都立駒込病院にはリハビリ専門医師が常駐していないので、リハビリは理学療法士と作業療法士に丸投げ状態であった。理学療法士の科学的な訓練のお陰で、ここに入院して3ヶ月には装具と杖によって約150メートルも歩けるようになった。言語訓練は惨憺たる有様でいかようにも成果は無かった。自分で食べる訓練となったが、ミキサーですりつぶしたどろどろの食物を一匙づつ飲み下し、粥食となった。一口の粥でも食道にうまく落ち込まず引っかかると気管支のほうへゆく。そうなると激しい咳き込みである。次は「刻みとろみ食」の訓練であるが、失敗しては真空吸引機で救助してもらう様で、食べる事も地獄であった。摂食というありふれた行動がこれほど複雑な神経支配とたくさんの筋肉を動員して行われる行動である事を発見したという。健全な体では全て無意識のうちに自動的に作業がおこなわれているが、障害者は意識してやらないと命に関る事故に繋がるのである。半身不随といえば感覚までやられたらたらだのその部分が存在しないのと同じである。そして痙性麻痺といっていつも筋肉が緊張している状態にあり、力を抜くことが難しい。麻痺側が重荷になって疲れるのである。腕も足も折れ曲がり手の平を開く事もでない。反対に足首は伸びたままになりいわゆる尖足になるのである。麻痺した手足は驚くほど重い。自分の体と悪戦苦闘する毎日である。
・9月なかば、東京都リハビリテーション病院に転院
一つの病院に入院していられる期間は3ヶ月と定められている。そこで墨田川のちかくにある東京都リハビリテーション病院に転院した。恐ろしくお粗末な病院であったが、熱心な担当医のすすめで、装具なしで足が一歩前に出たときは感激したという。午前は理学療法、歩く訓練である。午後は作業療法と言語療法で、週に2回はお風呂に入れる。リハビリは科学である。運動を徹底的に解析して、訓練を積み重ねて機能回復を図るのだ。訓練を始めて1ヶ月半もたった頃。平行棒の中でもがいていたところ不思議な力が足を支えて床を蹴ったのだ。自分の足で歩いた1歩である。あの鈍重な巨人がようやく1歩歩き出したのだ。介助があって30メートル歩けることは、車椅子だけが自分の世界ではなくなったのだ。しかし作業療法による手の機能回復は、治療に直接繋がる作業療法は無いようだった。
・2002年2月8日、 東京都リハビリテーション病院を退院し、湯島の仮自宅マンションに移る。
東京都リハビリテーション病院での入院も4ヶ月になり、これ以上の改善は無理なのか退院と云うことになった。バリアフリーがうたい文句の湯島のマンションを借りて2002年2月8日退院した。発作後9ヶ月で、重度障害者としての生活が妻と共に始まった。東大病院にリハビリに通うのが務めとなる。多田富雄氏はこの時の決意をこう語る。「何をやっても動かない鈍重な巨人、言葉も喋れないでいつも片隅に孤独にいる寡黙な巨人、さあ君と一緒に生きてゆこう」

「鈍重な巨人」、「寡黙な巨人」とは何だろうか。自分を巨人と呼ぶわけではない。人間は健康な時は大脳皮質の意識で生きている。脳の病に倒れると自分の体は意識では動かない。無意識下で体を動かしている脳がやられたのだ。それは小脳、中脳という脳幹が支配する世界である。感情さえ大脳皮質ではなく大脳周縁部と云うところで支配されている。そこを意識(=大脳皮質)で動かそうとすると、体は云うことを聞かない。体全体を支配すると云う意味で「巨人」であり、意識から遠いところにあると云う意味で「鈍重」、「寡黙」と云う形容詞が冠せられる。しかしそこにシステムとしての生命体の生きる力が宿っているのである。「寡黙な巨人」と云う言葉が持つ脳科学的な意味はそういうところであろう。全人的には生命ということである。多田氏の脳梗塞発病による体と言葉の麻痺は、癌手術や外科手術のようには行かない。なかなか復活しないのである。病を治すのは自分の生命力とよく言われるのは、この全的システムの復活である。がんの免疫療法もこの力に依存する。コントロールを拒否する生命体が巨人である。しかしこの巨人が動いてくれないと、病は治らないのである。

第2部 「新しい人の目覚め」

第2部は発病後に折りに寄せて書かれたエッセイであるので、闘病記のほとんどは第1部と共通する。したがってその部分は繰り返さない。エッセイであるのでテーマ意識を持って書かれているので、問題別にまとめられていると云う利点がある。そこでここでは著者が問題とするところを掘り出してゆこう。著者はその後さらに色々な病気にかかる。2005年には前立腺ガンで去勢手術を受け、ガンと共生することになった。また退院のころに尿道結石とNRSA感染に苦しめられた。さらに持病の喘息が加わって呼吸困難に悩まされていると云う。

退院後の著者の最大の活動は「リハビリ難民」問題への取り組みである。2006年より小泉改革は、無情にも障害者のリハビリを最長でも180日に制限すると云う「診療報酬改定」を行った。制限に日数を超えた患者は、介護保険のデイケアーサービス受けろと云うのである。しかし介護保険では医療としてのリハビリは受けられない。医師も療法士もいないのにリハビリとはいえない。こうして「リハビリ難民」という層が生まれた。著者は医師と協同で「考える会」を作り、改定反対の署名活動を始めた。40日間で44万人の署名を集め、厚生労働省に渡したが、役所は握りつぶそうとした。みかねた中医協の土田武史氏は診療報酬の見直しを命じた。しぶしぶ厚生労働省は条件付で、限られた疾患の上限日数の緩和や、当分の間介護保険で対応できない維持期のリハビリを認める通達を出した。これは、しかし1歩前進と見せかけた官僚の嫌がらせ策に過ぎなかった。上限日数を緩和したのは心臓血管疾患など限られた疾患のみで、大多数を占める脳血管疾患などは含めないと云うものだ。さらに診療報酬の逓減制を持ち込んだ。上限日数を超えると診療報酬が安くなると云うものだ。医者に上限日数を超えたリハビリを拒否しろということを暗に迫るものだ。また「リハビリ実施計画書」の提出させ3カ月おきに状況報告させると云う面倒な事を強いるものだ。長期にわたるリハビリを何とかして介護保険に追いやる政策である。地方自治体管轄のさもなくても赤字の介護保険に丸投げして、医療保険の責任を国が逃れようとするものだ。それよりリハビリを必要とする患者(老人)はすでに身体介護などに介護保険の点数を使い果たしていることも頭に入れないと、リハビリを受けられるポイントがなくなっているのでリハビリをあきらめざるを得ないのである。社会の中の最弱者である障害者になると、日本の民主主義の欠陥が良く分かると云う。障害者のようなマイノリティの生きる権利は考えないのである。邪魔者扱いになる。多田氏の言葉で「リハビリ中止は死の宣告」という。身体機能はリハビリを止めるとたちまち低下する。寝たきりになれば確実に衰弱死に至る。リハビリは単なる機能回復ではない。社会復帰を含めた人間の尊厳の回復である。

氏は美術関係にも造詣が深い。美の求道者、小林秀雄し、白洲正子氏、中原中也氏、新田嘉一氏、黒川能を描いた森田画伯らへの愛情こもったコメントを捧げている。また本職が免疫学者とすれば副職にあたる能脚本作家としての活動が意外な側面を見せてくれる。著者が書かれた新作能には「望恨歌」、「一石仙人」,「原爆忌」などがある。憲法改正や再軍備が保守主流で議論されている昨今、唯一の被爆国として日本が世界史に負う責務は厳しい。著者は平和と反核を能と通じて訴える。


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