080903

的場昭弘著 「資本論」入門

 祥伝社新書(2008年5月刊)

規制緩和・格差社会はむき出しの資本の論理だ。いまこそマルクス「資本論」はよみがえる。

1989年東欧社会主義国のビロード革命、1991年のソ連邦の崩壊により社会主義・共産主義は崩壊したかのように見える。全面的な資本主義の勝利のように宣伝されてきた。はたしてそうなのか。このまま資本主義が我が物顔に世界を支配していくとどうなるのだろう。いまやグルーバル金融資本による略奪によって、世界経済はピンチに立たされている。世界中に格差社会がひろがり、日本社会の誇りであった中間層が二極化して、若者に新たな貧困層が形成されつつある。これらは資本主義のいたずらなのか、おごりなのか。はたまた本来の資本の顔なのか。全体主義的、統制的、帝国主義的な社会主義的体制が崩壊し、中国のような二つの体制(社会主義的政治体制と自由主義的経済体制)に変質したが、マルクスエンゲルスの目指した共産主義の原点は何処にさ迷っているのだろうか。経済的に見るならば、社会主義と資本主義は効率の問題に過ぎない。政治的に見れば永遠の闘争関係にある。マルクスの「資本論」はスミスの「国富論」と対比される、経済の古典である。昔の大学で教えていた経済学は「近代経済学」と「マルクス経済学」であった。マルクスが抱いた問題は資本主義経済の中で解決したのだろうか。いやこれは人類永遠の課題で、解決には程遠い状態で、近視眼的には資本主義は今や狂いはじめているのではなかろうか。反面教師のいない体制は一方的に流れるものだ。健全野党のいない総与党体制とおなじようだ。

そこでマルクスに戻って資本主義の原点を見つめなおすことは必要ではないだろうか。と古きよき時代の「オールドマルクスボーイ」は考えた。「なぜ自分は解雇されたのだろう」、「自分が派遣社員なのは能力がなかったためなのか」と、自分を責めても自分自身の立場は少しは変わるかもしれませんが、若者全体を覆っている貧困化はどうなるものでもない。それは自分自身のせいではない、別の強い力が働いているからだと分ります。そこを理論武装するために「資本論」があるのだ。「グローバリゼーション」という言葉が闊歩している。意味の分らない人を時代に取り残されたバカとあざけるように。横文字で曖昧な内容をその時その時で自分の都合のいい内容に変更できる魔術が横行している。特に官僚は横文字を多用する。メディアが横文字を毎日氾濫させる事で、ばら色の幻想を無知な国民に抱かせることが出来るのだ。世界中が豊かになる、世界中に恩恵が広がるというのは真っ赤なうそで、世界中に資本の論理が支配して,世界中から富を略奪する事である。安い労働力を求めて企業は海外へ、安い資源を求めて世界の果てまでも商社は駆け巡るのである。

本書は著者が云うようにマルクス経済学の入門書ではなく、マルクスの「資本論」の入門書である。資本論は経済学の本の形態ですが、それはあくまで資本の運動法則を暴くための書です。その結果マルクスは階級闘争(労働者が資本家を打倒する)の書です。無政府主義者が権力闘争を煽るというよりは、それしか労働者の生きる道はないからです。マルクスは資本主義のからくりの中心に商品がある事を洞察します。資本論第一部は商品の分析(原価の秘密)に迫る。先ず商品を解析しなければ資本の動きは見えないからです。資本家を倒せと演説するより商品を分析して敵を知る事です。しかしマルクスは本来経済学者ではない。経済原論をやって終わりという学者ではなかった。貧しいジャーナリストで革命家であった。大英図書館で古い資料を読み解きながら、資本の運動法則を勉強していた。現実の諸相から帰納的に理論を構成し、古典派経済学者の論拠(客観的に見えて、その実、恣意的な分析)を切り崩してゆくのであった。ブルジョワのレトリックを使って逆ねじを食らわせるのである。かれはこれを「上向法」と言っている。商品の使用価値と交換価値との差から、商品と貨幣の役割を引き出し、労働力という商品にも使用価値と交換価値に差がある事から剰余価値説(利潤の源泉)を発見した。ここに資本のからくりの原点を見出した。資本主義的生産とは労働への拡大再投資である。人間の無限の能力である労働への投資であって、生産設備や資源への投資ではない。永遠の拡大再投資が資本の宿命(資本家・経営者をも縛り付ける)である。ここに労働の「搾取」という言葉も生まれた。労働者にだけ分かる言葉ではなく,国民すべてが理解し共感できる言葉を使わないとマルクスの主張は社会に受け入れられない。それが「資本論」なのであるが、多少難しいという点は否めない。いまの時代には理解に苦しむ術語も多い。それを解きほぐして解説してくれるのが的場昭弘著 「資本論」入門というわけである。

著者の的場昭弘氏の紹介をしよう。的場昭弘氏は、宮崎県に生まれ、1984年、慶應大学大学院経済学研究科博士課程修了、経済学博士。一橋大学社会科学古典資料センター助手、東京造形大学助教授を経て、現在神奈川大学経済学部教授。神奈川大学図書館長。経済学者(社会思想史専攻)。著書に「マルクスだったらこう考える」、「マルクスを再読する」、「ネオ共産主義論」、「未完のマルクス」などがある。1990年代以降、日本の知識人は急速に社会主義離れを起こし、誰もが自分は社会主義とは縁もゆかりもありませんと云うような顔をしている。太平洋戦争後に国体主義者が民主主義者になって行ったのと逆回転である。なんと浅はかな移り身の早い、世知辛い連中であることよ。律儀な「オールドマルクスボーイ」が「私は今でもマルクスボーイですよ」といってくれる本書の著者は信用できる。変節しないところが潔い。頑固者をバカにする日本人の習性は救い難い。

もはや、マルクスの「資本論」なんて知らないという人の方が多い時代に、再度古い「パンドラの箱」をあけるには抵抗があるが、「資本論」の全容を振り返ってみ見てみよう。ドイツ哲学のヘーゲルの弁証法の批判的継承と目されている。古典派経済学の批判を通じて、資本主義的生産様式、剰余価値の生成過程、資本の運動諸法則を明らかにしようとする。全3部からなる。サブタイトルは「経済学批判」。1867年に第1部が初めて刊行され、1885年に第2部が、1894年に第3部が公刊された。第1部は、マルクス自身によって発行されたが、第2部と第3部は、マルクスの死後、マルクスの遺稿(文献学的に清書なのか、ラフスケッチがあったのか、目次程度をもとに1から原稿を起こしたのか不明)をもとに、フリードリヒ・エンゲルスの献身的な尽力によって編集・刊行された。したがって本書の的場昭弘著 「資本論入門」はマルクスが著した第1部のみを対象としている。第2部、第3部はエンゲルスの著作である。マルクスの使う言葉は今の経済学では「死語」に近い言い回しが多いのも、「資本論」を難解にしている原因であろう。「資本論」を今の経済学用語で翻訳することも可能ではないだろうか。そのためには膨大な用語解説書が必要になるだろうが。

第1部 資本の生産過程 の目次(7篇、21章)
第1篇 商品と貨幣
第1章 商品 / 第2章 交換過程 / 第3章 貨幣または商品流通
第2篇 貨幣の資本への転化
第4章 貨幣の資本への転化
第3篇 絶対的剰余価値の生産
第5章 労働過程と価値増殖過程 / 第6章 不変資本と可変資本 / 第7章 剰余価値率 / 第8章 労働日 / 第9章 剰余価値の率と総量
第4篇 相対的剰余価値の生産
第10章 相対的剰余価値の概念 / 第11章 協業 / 第12章 分業とマニュファクチュア / 第13章 機械と大工業
第5篇 絶対的および相対的剰余価値の生産
第14章 絶対的および相対的剰余価値 / 第15章 労働力の価格と剰余価値との大きさの変動 / 第16章 剰余価値率を表わす種々の定式
第6篇 労賃
第17章 労働力の価値または価格の労賃への転化 / 第18章 時間賃銀 / 第19章 出来高賃銀 / 第20章 労賃の国民的相違
第7篇 資本の蓄積過程
第21章 単純再生産 / 第22章 剰余価値の資本への転化 / 第23章 資本主義的蓄積の一般的法則 / 第24章 いわゆる本源的蓄積 / 第25章 近代的植民理論

第2部 資本の流通過程 の目次(3篇、18章)
第1篇 資本の諸変態とそれらの循環
第2篇 資本の回転
第3篇 社会的総資本の再生産と流通

第3部 資本主義的生産の総過程 の目次(7篇、52章)
第1篇 剰余価値の利潤への転化、および剰余価値率の利潤率への転化
第2篇 利潤の平均利潤への転化
第3篇 利潤率の傾向的低下の法則
第4篇 商品資本及び貨幣資本の商品取引資本および貨幣取引資本への(商人資本への)転化
第5篇 利子と企業者利得とへの利潤の分裂。利子生み資本
第6篇 超過利潤の地代への転化
第7篇 諸収入とその源泉

参考までに1776年に出版されたアダムス・スミスの「国富論」は次の五つの内容で構成される。
(1)分業
(2)資本蓄積
(3)自然な経済発展と現実の歴史
(4)重商主義体系
(5)財政
理論的課題としては1867年に出版されたマルクスの「資本論」のほうが、広範囲に扱っている。その100年間の資本主義的発展が著しかったことを示す。

第1部 資本の生産過程
第1篇 商品と貨幣

「資本主義社会の富とは商品の総体のように見える。これは身体と細胞の関係に似ている。資本主義社会の細胞は商品である。」これがマルクスの出発点である。いまならさしずめ貨幣または資本から入るのであろうが、マルクスは商品の秘密から資本主義の運動法則に入る。商品には二つの要素がある。物としての使用価値と貨幣や物との交換価値の2つである。独立した生産者が分業の世界において別の生産者と出会うときに商品が生まれた。しかし交換比率は時と場所という偶然で決まる。したがって商品の交換価値の裏には何もない。商品の根源的意味は労働しかないという言い切る。労働こそ人間の本質である。したがって労働にも二つの価値がある。「使用価値を作る労働」と「価値を作る労働」である。生活に必要な「有用な労働」以上に、付加価値を持つ「価値を生む労働」こそが資本主義の労働の本質である。

等価形態(交換比率)を量るために貨幣が生まれた事は異論はない。それは商品が持つ社会関係である。そこまで考察する人はいないので貨幣はいつも謎に包まれるのである。無数の商品を一つに束ねるものとは人間労働である。商品の交換価値には使用価値(材料費+経費)と労働付加価値(剰余価値)が投影している。ここで別々の商品(サービスも含めて)の背後にある労働も抽象的労働へ還元されている。でなければ価値を量ることはできない。商品である事を疎外された貨幣は何でもいいわけではなく、最期には交換可能な金や銀と云う貴貨でなければならない。したがって価値を量る尺度としての貨幣は,商品の内在的価値尺度である労働の量から必然的に導かれる「現象形態」である。流通貨幣は商品ではないから、貨幣の機能には価値尺度としての人間労働を量る機能と、価格尺度として金属量を量る機能の2つがある。貨幣は商品流通を媒介する。商品は消費されたらなくなったり形を変えるが、貨幣は変化せず生き残る。商品を貨幣に換えるには販売と云う飛躍があり、売れ残りと云う危機がある。貨幣から商品には何でも買えるという汎用性がある。商品から離脱した貨幣は蓄積貨幣(外貨準備金)になる可能性や、支払い手段として相殺されるなら、観念上の計算尺度に過ぎない。貨幣は社会的労働を体現したものとして絶対的な商品(商品として疎外された)として存在するのだ。産業資本は商品こそ貨幣だというのも、金融資本は貨幣こそ商品だと云うのも同じ事である。信用経済では貨幣は「金」ではなく印刷された「ドル」である。ますます貨幣に隠れた労働が見えにくくなっている。

第2篇 貨幣の資本への転化

商品を買う貨幣と、生産に投じられる貨幣の違いはなんだろうか。詐欺と瞞着と略奪の交換はここでは考えない。貨幣で貨幣を交換する人はいない。(小銭を得る目的以外は)これこそ等価交換であるが、どうもこの等価物の交換という図式に謎があるようだ。貨幣が商品を作りそれを売って貨幣を得る時、得られた貨幣のほうが最初の貨幣よりも大きいのである。これが資本主義の生産の特徴で本質である。価値は増殖している。この増殖を無限に繰り返す運動こそが資本の運動である。ではなぜ投入資本より高く売れるのだろうか。できた商品に人間の知恵(労働)が詰まっているからだ。投下資本は土地・資源・機械・労働を買う。土地・資源・機械は何も生まない。労働が加わらなければ単なるガラクタに過ぎない。人の労働がこれをとんでもない価値に変えるのだ。人間の富は人間が作り出している。資本主義は富創造システムである。

第3篇 絶対的剰余価値の生産

では労働がどのようにして価値を増殖するのだろうか。先ず人間の本源である労働とは2種類あると云うことだ。「普遍的労働過程」とは生産対象に働きかけて「使用価値を作る労働」のことである。ところが資本主義における労働とは、資本が労働を支配し生産物は資本の所有物になることが本質的なことだ。生産のために最初に投資した額と同じ額以下しか得られない(赤字経営)ものなら誰も投資はしない。当然「価値増殖」を目指すのである。生産規模より利潤の大きさを目標にする。(生産規模も拡大するのは独占を目指す場合)生産手段である機械、原料、燃料、工場などは「過去労働」といい、価値を創造する行為ではない。ここでマルクスは価値を形成するのは労働のみで、生産手段は一切価値を生まないと云う。「過去労働」は「不変資本C」といい、価値を生む労働は「可変資本V」と呼ぶ。マルクスの云う剰余価値率はM/Vであるが、利潤率はM/(V+C)のことである。

「だから資本は自分の唯一つの生命の衝動ー自分を増殖し、剰余価値をつくる衝動を持つ。」とマルクスは資本の宿命を定義する。諸々の労働が含まれる商品価値を量る一つの方法は労働時間である。最近労働時間制を廃して、営業ならノルマ制、生産やサービスなら全員残業手当なしの管理職制を取る企業が多いが。これらは当然価値を創造する労働を計測不可能として、無限の労働を強いるものであるのは明白だ。労働者の立場が弱くなると、このような露骨な労働強化がおこなわれる。資本や経営者は利益最大化に向けてすべての因子を総動員する。管理下にある労働は最も攻撃されやすい。労働の価値の定量化はいつも難しい問題であるが、やはり労働時間で計量するのが順当なところではないか。したがって労働日の標準化は資本家と労働者の闘争の歴史でもあった。今では国際的にILO勧告で標準労働時間を月1800時間以内とされているが、日本の実情は2100時間である。この章では古いのイギリスの労働日の悲惨な歴史を述べているが、今の日本では実感がわかないので省略したい。

第4篇 相対的剰余価値の生産

剰余価値を増やすには労働者を増員して生産を拡大すると云うのも一つの方法でした。とくに高度経済成長期はその路線で拡大し、「所得倍増計画」と称して労働者の賃金も拡大し日本経済は偉大な成長を遂げました。それは市場が拡大したからです。多くの資本家はむしろ労働者を減らして、機械と云う不変資本を増やす方向です。それは一人当たりの労働者の生産力を飛躍的に拡大するからです。同じ価値を生むのに必要な労働量を減らすと、相対的剰余価値は増大する。(労働)生産力の拡大は労働時間の減少(労働者の価値の減少)と商品価値の低下(コストダウン)をもたらす。そして剰余価値は労働の生産性に比例して向上する。

資本主義生産方式とは、多くの労働者を同じ生産の目的で同じ時間、同じ場所で働かせる事である。そこでは「協業」の効果が生まれる。労働者間に競争と活力が生まれ個々人の生産能力が高まるのである。(これを大部屋式といい、現在のIT産業では個室式に還元する。)資本側には多くの労働者を管理する指揮能力(ガヴァナリティ)が要求され、執行役員とか管理職といった特殊な労働者を生み出している。「協業」と同じように生産性を上げる資本主義生産手法に、アダムスミスも第1に考察した「分業」制がある。これについては、すでに堂目卓生著 「アダム・スミス」中公新書を紹介した。アダムスミスは「繁栄の一般原理、すなわち物質的豊かさを増進するための自然的原理は、分業と資本蓄積である。」といっている。分業の意義については周知と見て省略する。マルクスもスミスも生産力の原理については同じ見解である。さらにマルクスは機械制大工業生産方式はこれを加速し、労働の単位時間当たりの生産性を増大させる「労働強化」というが、この辺がマルクスの暗い一面である。科学技術は両刃の刃である。労働者を圧迫するだけと云う考えでは前に進まない。チャップリンの映画「モダンタイムス」のように機械に従属させられる人間性も一面の真理であったが、今日の繁栄を築いた点は否定できるものではない。確かに分業で奇形化した労働者はより低い能力に落ち込み、低い賃金しか得られない。派遣労働者のスキルの貧弱さが、状況改善の足かせになっているのと同じである。

第5篇 絶対的および相対的剰余価値の生産

資本主義的生産はたんに商品生産だけではなく、本質的に剰余価値の生産である。労働者が生産的なのは、資本のために剰余価値を生む働きをしているか、資本の自己増殖に役立っているかと云うことで評価される。労働者がまじめでこつこつでは機械への隷属になる。悪でもいいから利益を生む活動をしなければ今の世では浮かばれないのだ。剰余価値を大きくするには、労働日の長さ、労働の強化、労働の生産力で決まる。どう転がってもやはり労賃は下がるのである。第5篇は短いだけでなく、言いたいことが少ないようだ。

第6篇 労賃

労働力商品は使用価値と剰余価値生産の二重性を持っている。労働者と資本家は労働を売り買いするわけであるが、労働の価値とは働いた分への支払いだとする表現に不透明さがある。労働者は労働と云う機能を持っているが、それが生む価値とイコールではない。労働力の価値は別にある。ところが価値には値段が付けられない。貨幣価格と云う表現では全くその価値は見えなくなっている。労働力を労賃に変えることは、労働者の法律的観念、能力や自由であると云う幻想、経済学のまやかし、国家の介入が全て関与している。賃金は名目であり、彼が資本に与えた労働の量ではない。同じ時間働いたとしても自分の能力は高いのだから高い給与をもらえると云う錯覚とジレンマは、派遣労働や下請け・請負労働のような労賃を下げるシステムに加担する事である。資本にとって自動的に労賃が下がる魅力的なシステムである。

第7篇 資本の蓄積過程

アダム・スミスの「国富論」では繁栄の一般原理(2)としての「資本蓄積」を次のように 説明している。
「人類が未開状態から文明社会に向って本格的に進みだすには、分業が始まる前に交換の場が形成されると同時に、ある程度の資本が蓄積されていなければならない。階級社会は、地主、資本家、労働者の三階級からなる。資本は生産的労働が生み出す剰余の分配において、税金、消費、貯蓄のうち貯蓄分が毎年蓄積されて再生産に廻され、雇用と生産が拡大するのである。資本蓄積を妨げる要因としては個人の消費と政府の浪費がある。人には倹約性向と消費性向があって、どちらも必要であるが、資本蓄積には倹約が必要である。」スミスは資本蓄積を推進する担い手は資本家であるが、その利己心によって公共の利益を最も損ないやすい。最期にスミスは投資の自然な順序として、先ず農業、ついで製造業、外国貿易だという。ある外国貿易品を優先して保護して他の部門への投資を怠った場合、産業間のバランスの取れた発展が歪になって経済合理性を失う事はよくある。投資は必要とする部門への自然の流れに任せるべきだということも「見えざる手」の導きに相当する。市場の価格調整メカニズムと同様、成長の所得調整メカニズムをも「見えざる手」と呼んでもいいのだろう。

「第7篇 資本の蓄積過程」が一番長く、第1巻の本文の1/3を占めている。資本主義社会以前の歴史を問題にしているからだ。工場の機械類は毎日劣化し価値を減らしていくが、生きている労働者は毎日技術を磨いて熟練する。この労働者の不断の再生産こそ、資本主義生産の不可欠の条件である。これを「単純再生産」という。ところが資本は単純再生産を意図しているのではなく、拡大再生産を本質とする生物である。剰余価値から資本が生まれ、再投資するすることが「資本の蓄積過程」である。資本主義の拡大再生産のためには、資本は生産物の所有の権利、すなわち労働者は自分達の生産物の権利を放棄することが絶対条件である。古典経済学では利潤は労働の再生産に向けられると説明するが、実は不変資本(生産のための機械・土地)の購入に向けられる部分もある。できるだけ剰余価値を資本に再投資することが求められる。資本主義の節約説は資本の利潤形成が目的です。剰余価値が資本の再投資へ回るほど、資本規模は大きくなり、よりエネルギッシュな活動が可能となるのだ。

得られた剰余価値は労働者の労賃である可変資本と、生産手段である不変資本に振り分けられる。これが利益の配分である。剰余価値の所有者である資本側は当面の富を、温情から労働者側へ多く配分する事は決してなく、更なる資本の拡大再生産のために再投資へ向う宿命にある。巨大な生産力は、技術開発と生産手段に依存するため、労働力の拡大へ向うよりは、より減らす方向、つまり先進国の労働者を途上国の労働者の雇用に変えるのである。こうして労働者は相対的過剰または産業予備軍(低賃金労働者・失業者群)に組み込まれる。グローバリゼーションとは途上国の過剰労働力でもって先進国の労働賃金を下げる方向へ働くのである。賃金の減少は労働者の成長を阻止し、労働者の不安定に向う。派遣、フリーター、請負、プレカリアート(就業不安)はこうして生み出された。将に露骨な資本の論理であった。景気の循環を利用した資本側の攻勢である。労働者の退潮がもたらされた。「景気が悪いから仕方ないか」と云う問題ではないのだ。本質的な資本優先の論理のしからしむところである。

資本の蓄積過程での出発点であるスミスのいう「先行的蓄積」または、マルクスの云う「本源的蓄積」が実は歴史的な大問題であった。無限少の資本から延々と再生産を繰りかえして巨大な資本になる事は、サクセスストーリでは理論的にはありうる話であるが、しかしそれは極めて稀なサクセスストーリーである。たいていの場合、経済外行為である国家権力と結びついた資本蓄積が横行するのが歴史的事実である。明治維新以来富国強兵策で、国家資本が誘導され、日本郵船から征韓論や台湾出兵で儲けて三菱財閥が形成され、足尾銅山から鉱毒事件をもみ消して古河財閥が形成され、その他の政商といわれる資本家が巨大になった。資本蓄積には国家と戦争の影がいつも付きまとう。これを資本の「原罪」という。資本論はイギリスにおける宗教改革と土地の収奪、共同地囲い込み運動などを牧歌的資本蓄積という。長時間労働時間法の制定など労資間への国家権力介入、植民地争奪戦と重商主義政策による特定産業優遇策など、アダムスミスも国家政策はかえって自由な経済発展を阻害すると非難した。資本論ではこの辺の記述に多くのページを割いているが、煩雑なのと時代が違うので実感がわかないのでばっさり割愛する。

そしていよいよ結論です。資本の本源的蓄積とは何か。それは直接生産者(自己労働に基づく私有)の解体そのものである。現代では生産段階で言えば云うと零細企業の没落と下請け化、流通段階で云うと個人小売店が没落し、大規模小売店(スーパー、大規模量販店)に飲まれていった経過を示す。こうして働く個人の私有は、労働者を使う資本主義的な私有によって駆遂される。私的所有者の収奪である。弱小資本は巨大資本に負けて飲み込まれ、巨大資本の私有のみと云う形態に変化した。これが資本の集中であり独占であり国際化、グローバリゼーションである。場合によっては収奪者も収奪されるのだ。これがマルクの云う「ヨーロッパを徘徊する怪物」(共産党宣言)の正体である。もう個人では資本を私有する事は不可能と云う情勢である。


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system