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鎌田實著 三部作「がんばらない」、「あきらめない」、「それでもやっぱり がんばらない」

 集英社文庫(2003年6月、2006年5月、2008年2月刊)

諏訪中央病院で、住民と共につくる地域医療をめざし、いのちに寄り添って30年の記録

聖ロカ病院の日野原重明氏と並んで、今のメデイア界で最も著名な赤ひげ先生は鎌田實氏ではないだろうか。科学を標榜する医学のもとで、患者の心がおざなりにされ、何かおかしい医療現場で、鎌田實氏が患者に暖かい・優しい地域医療を志して30年になる。鎌田實氏の活動と人となりを教えてくれる本が3冊刊行されている事を知った。遅きに失するようであるが、現在の医療崩壊問題を考える上で、鎌田實氏の言動は一つのヒントになると思った。氏のプロフィールを紹介しよう。
医師・作家。1948年6月28日 東京生まれ。 1974年、東京医科歯科大学医学部を卒業。33年間、医師として地域医療に携わり、住民とともにつくる医療を提案・実践してきた。 1991年、日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)を設立。 16年間、ベラルーシ共和国の放射能汚染地帯へ87回の医師団を派遣し、約14億円の医薬品を支援してきた。 2004年、イラクへの支援を開始。イラクの4つの小児病院へ毎月400万円の薬を送り、難民キャンプでの診察等を実践している。「がんばらない」レーベルを立ち上げ、ジャズCD「ひまわり」「おむすび」坂田明をプロデュース。利益はすべてイラク、チェルノブイリの白血病の子どもたちのために使われている。 著書「がんばらない」がTBSにてテレビドラマ化され、テレビ朝日「徹子の部屋」、2006年には紅白歌合戦の審査員を務めた。

生年月日からすると団塊世代に相当する。そして大学時代は医学部学園紛争から70年全共闘時代に学生運動家となった。大学卒業後25歳(1974年)で諏訪中央病院に就職した。当時の諏訪中央病院は累積4億円の赤字を抱えて、医師4名で運営するおんぼろ病院であった。タクシーの運転手も知らないという人気のない病院で、学生運動で逮捕歴があっても、医者なら誰でもいいから来て欲しかった今にも潰れそうな病院であった。学生運動の延長で医院改革に乗り出す若手医師でこのおんぼろ病院の経営が始まった。外来患者も敬遠して来ない状態で、薬を出さない生活改善運動を興して地域に出た。脳卒中撲滅運動から、脳外科・心臓外科の充実をはかり、高度医療・救急に取り組み次第に住民の信頼を勝ち取ったようだ。この本は云うまでもなくサクセスストーリではなく、言葉の宝石箱である。お話を紹介するよりは、心に留まる言葉を紹介してゆこう。ターミナルケアーの患者さん一人ひとりの人生はあまりの重いので、お話にしては味も素っ気もなくなる。出来るだけ抽象化して著者の言いたかったことを拾ってゆこう。順番としては刊行順に、「がんばらない」、「あきらめない」、「それでもやっぱり がんばらない」をみてゆこう。

鎌田實氏の活動に興味をもたれた方には、さらに理解を深めるために、鎌田實氏の個人的サイトを二つ紹介する。
鎌田實オフィシャルサイト
ブログ「なげださない」

「がんばらない」

茅野市諏訪中央病院のロビーには「市民へのメッセージ」が掲げられている。
T:医療方針としてつぎの「三つのスローガン」を謳う。
@予防からリハビリまでの一貫した医療
A地域密着医療
B救急医療から高度医療まで
U:患者さんの六つの権利を謳っている。
@人格を尊重される権利
A平等な医療を受ける権利
B最善の医療を受ける権利
C知る権利
Dプライバシーの権利
E自己決定の権利
V:在宅ホスピスケアー4つの理念では訪問介護の心得として次の4つを重要とする。
@その人らしく生きることを支援する
A対象者とその家族を尊重する
B自立・自律への援助をおこなう
C最期まで共に歩む
諏訪中央病院の訪問介護は24時間対応型、がん患者の完全支援、院内外との幅広い連携を特色とする。医学が人を細胞や臓器の面でしか見ない近代医学治療ではなく、人を全人格・全人生で見る医療が有っていいのではないかという。猛烈なスピードで進歩する近代医学が切り捨てた患者の人格と人生を拾いなおすのが諏訪中央病院という地域密着型病院の使命ではないかという著者の理念は、制度で表現するのは難しい。削減される医療費のなかで先ず黒字経営が求められる。潤沢なお金が医療に行き渡る事は永久にありえないかもしれないとすれば、医師、病院側に鎌田氏の理念と努力が先ずなければ一歩も前に進まない。

「死は永遠には回避できない。必ず訪れる死。病気と闘うときも、死を受け入れるときも、魂に寄り添ってくれるような、医療があったらいいと思う」と著者は願う。終末期(ターミナルステージ)の患者さんには四つの痛みがあるという。@肉体的痛み(ペイン・コントロールで緩和する事はある程度可能)、A精神的痛み(死の寛容までに至る苦しみ)、B社会的痛み(生活、社会の負担)、C魂の痛み(宗教や家族、一人ではなくいのちを繋いでゆくという連帯感のなかで)。日本中の病院が魂の心配りのできる医療をおこなえるようになって欲しい。鎌田氏の義父(妻の父,79歳肝臓がんで死去)、父(岩次郎、育ての親、88歳脳卒中で死去)、母(育ての母、心臓病から脳卒中で死去)、友人の画家原田泰次氏の恩人「次さん」の死や地域の人の死、諏訪病院で亡くなれた人を見取ってゆく話が続いて語られる。死んでゆく人、看取る人、家族の見守りの温かい話である。死は日常である事が良く分かる。

1986年4月26日ソ連のチェルノブイリ原子力発電所でメルトダウンの大爆発事故が発生し、風下にあったベラルーシに死の灰が降り注いだ。1990年著者らは日本チェルノブイリ連帯基金JCFというNGOを立ち上げ、医療援助とくに白血病や甲状腺障害の子供の救援事業に従事することになった。2003年までに計67回も医師団を派遣し、5億円を超す医療機器や医療品を現地へ送った。さらに日本ベラルーシ協同作品の映画「ナージャの村」で世界に原発事故の被害を訴えた。監督は本橋成一、ナレーションは小沢昭一、音楽は小室等の顔ぶれであった。制作費9000万円で、興行収入は5000万円で赤字である。その途中日本でも悲惨な原子力事故が起きた。1999年9月30日茨城県東海村JOC臨界事故であった。篠原理人、大内久さんの二人が被爆で亡くなられた。鎌田氏は大内氏がなくなられた翌日東海村に調査に入った。鎌田氏は原子力発電を推進する立場の国が事故原因をうやむやのままにしようとする陰謀を、「亡くなった人に責任をかぶせておいて、死んだ人には鞭打ってはいけないという、日本的寛容さですべてを水に流そうとする日本的解決法」だとして激しく非難した。私も茨城県に住み、かっては東海村の近くのひたちなか市に住んでいたので、東海村の原子力漬けと豊かな財政を目のあたりにしてきた。固定資産税が毎年60億円、電源法による交付金、住民には直接危険手当が入り、村の道路や施設と言う箱物は不必要なくらいに整備され、決して他の市町村との合併を望まない東海村の財政は、競馬場のある市町村と比較にならないほどの潤沢振りである。人類の技術ははたして原子力をコントロールできるのだろうかと「原子力安全神話」が崩壊した事件であった。

諏訪中央病院は「病院快適宣言」をした。医学を生物学とは違う人間科学と捉えて、患者全体を治すこと(治療+癒し)を志した。ホスピタルアート運動を展開している。本書の題名「がんばらない」は知的障害者の書道、「がんばらない」、「生きている」、「ありがとう」、「ぼくのたましい」という作品からきているそうだ。芸術は人間の治癒力を高め、生を豊にするそうである。最近の新聞にはよく介護疲れから妻、子供を殺した話が多い。そして必ず殺人を犯した人の刑の軽減嘆願がおこなわれる。それはそれでいいとしても、殺されていった人の命はすでにに切り捨てられている。障害者や要介護患者の命が欠落している。ともに豊かな生を享受する姿勢がないのだ。日本は世界一の長寿国になった。縄文人の平均寿命は18歳、弥生時代に平均寿命は22歳、江戸時代の平均寿命は33歳だった。日本はこの百年で50歳も寿命を延ばした。従って85歳以上の老人の21%は痴呆となった。諏訪中央病院の老人保健施設は24時間対応の在宅介護をサポートする。

ターミナルステージにあるがん患者を在宅で看取るホスピスや緩和ケア−病棟PCUのきっかけとなったのが1992年の友人卓志和尚の父勇吉さんのガンであった。今医療は近代化のなかでホスピタリティを忘れてかけている。葬式宗教である仏教も生きている人へのあたたかいおもてなしの心を忘れている。いい治療がおこなわれているかどうかは看護の質できまる。諏訪中央病院には看護専門学校があり、鎌田氏が校長を務めている。「愛のたまご」という校歌は外科の先生の作詞作曲である。在宅ホスピスケアーに看護師のホスピタリティは欠かせない資質である。在宅で家族と病院のスタッフに見守られて「私の畑にはもう最期の/鍬を入れ終えた。/我家は笑い声で満ちている。/子供達が帰ってきた。/うん、今日は死ぬのに/とてもよい日だ」(ブロブエ・インデアンの詩より)というふうに、自分の死を迎えられたらいいな。

「あきらめない」

前著「がんばらない」は今元気にがんばり続けている人に、ちょっと立ち止まって健康な時にいのちの事や人生の意味について考えてもらうために書いたと著者は言っている。本書「あきらめない」は苦難の人生の中にいる人、病気で苦しんでいる人、人生の意味が見えなくなっている人、生きる元気を失いそうな人、死を直視している人、自分の居場所がなくなっている人たちに対して、「あきらめない」生き方をしている人を紹介することにあった。大切なのは、その時、投げ出さずに、丁寧に生きる姿であった。本書で「あきらめない」、「生きたい」という思いが、医師の想像を超えた結果をもたらす例を数多く紹介されている。「がんばらない」でも「あきらめない」という生き方である。著者は2年前(2006年)諏訪病院長を濱口氏にバトンタッチした。38歳の時今井氏から受け取った病院長を18年間務め、茅野市の地域医療開拓期の役目は終わったという。病院を早期退職して一介の内科医として地域医療(田舎医師)に捧げたいというのである。自由になる日をひそかにカウントダウンしているのだそうだ。

余命半年といわれたすい臓がんの転移でも、あきらめないで、明るく、わがままに、7年生きた製薬会社マンの中村哲也氏の行き方では、「満足度の軸」が変わった世界で生きるのである。上田の塩田平に戦没画学生の慰霊美術館「無言館」がある。諏訪中央病院と地域の人が交流する「茅の会」では著名な芸術家、学者、作家、音楽家と「無言館」ツアーをしたそうである。1992年より音楽評論家の畑中良輔氏の呼びかけで諏訪中央病院ホスピタルコンサートができた。「いい音楽にはいのちの力がある、命のおすそ分け」という趣旨である。それから毎年演奏家のボランティアで、病院内でコンサートが開催されている。患者さんにどれほど癒しをもたらしたことか。鎌田實の顔の広さというか、著名な演奏家が集まるのだ。老舗旅館「布半」の主人正治さんが肝臓がんで5年間生きられた。正治さんはその間病院のスタッフを励まし、癒し癒されは、医療者と患者の相互の交歓の中でおこなわれた、そこにはじめて信頼関係が生まれた。そして人生の終着駅で、インドネシアでの戦争経験から平和に尽した、南アフリカの将校ジェイコブズを偲んで、彼の記録を残し始められた。道半分で他界されたが、ジェイコブズ氏よりメッセージが届いたそうだ。今ヒーリングがブームになっているが、自分ひとりの癒しをもとめる身勝手さが目立つ。人間のつながりの中でお互いが癒されるプロセスが大切なのではないか。家族や周りの人が患者を癒すと同時に、患者の姿や言葉が周りの人を癒すのである。死は病ではない。在宅ケアーで看取った死も、病院の中での死もできるだけ病にしてこなかったという。「死を生きる」のが人間の運命である。

元プロボクシングチャンピオンで「明日のジョー」のモデルといわれた「タコ八郎」こと斉藤清作の、自由奔放な生き方は周囲の人に迷惑のかけっぱなしであった。タコ八郎は「迷惑をかけてありがとう」とわけのわからない言葉をいったが、臨床哲学者の鷲田清一氏は「弱い人をケアーすると云うことは、限りなく弱い人から深くケアーされることだ」といった。鷲田清一氏はタコ八郎の「迷惑をかけてありがとう」を哲学する。周りの人が彼の迷惑を厄介者として排除するのではなく、迷惑がひとの間で成り立ったことそのものが「ありがとう」ではなかったのか。医療でも「面倒を見る」というとき、一人の人間を丸ごとみるだけでなく、家族の事や地域の事も考えるということだ。そんな医療を理想としたいと鎌田實氏はいう。長野市で自治体病院学会がおこなわれた時、鎌田氏はミュージシャン坂田明、小室等を招待して、「全人的医療を目指して、感性の磨き方」と称する講演会と音楽会を企画した。そこで坂田明氏はサックスで「タコに捧げるバラード」を演奏して喝采を浴びた。学会でこんなことをやる鎌田實氏の頭は極めて柔らかい。2001年元旦、岩手県の増田寛也知事(2008年総務相)は「がんばらない」宣言をした。経済成長一本やりの「がんばる」から、むしろ無理せず自然体でいこうということである。がんばらない人や自治体には、焦燥感やあきらめ感は感じられない。全国にアルコール依存症患者は250万人いて、3万人ほどが入院治療を受けている。しかし断酒できる人は三割程度である。アルコール依存症患者や痴呆老人の介護は暮らし全体の中で見つめてゆかなければならない。家族と地域の濃密なネットワークが必要だ。

鎌田實氏の育ての父岩次郎氏の信州での生活、思い出が語られている。その中で自分の出生の問題と家族の問題が静かに語られる。其れが擬制家族であったとしても、家族関係を大事に生きた家族の物語である。知能、身体、精神障害者の共同生活体である、白馬にある小谷協働学舎(宮嶋真一郎氏主宰)にいた牛飼いを得意とする「森」さんの話は、肝臓がんと誤診されて病院から見捨てられ彼を救いたい、看取りたい、命に寄り添う治療をしたいという。2002年9月元諏訪中央病院長で、民主党国会議員今井澄氏が亡くなった。鎌田實氏と今井氏は諏訪中央病院地域密着型医療の創成期の同志であった。彼は東大全共闘で、安田闘争行動隊長で逮捕された経歴もある。葬儀には元東大全共闘議長山本義隆氏の挨拶もあった。まだ制度がなかった時、鎌田實氏と今井氏は在宅ケアーをどうするかを語り合った。今井氏は日本の医療のことを考えている(鳥の目)が、鎌田實氏は地域と患者の事を考えている(虫の目)、スケールの異なる同志であった。今井氏を「上医」とすれば、鎌田氏は「良医」である。

「それでもやっぱり がんばらない」

「がんばりたくとも、がんばれない人もいる。がんばれない人だって、その人なりの人生を生きている。がんばる人、がんばらない人、がんばれない人、苦難の中、丁寧に、かけがえのない存在として、輝いて生きている人を書きたいと思った」と鎌田氏は本書のあとがきに書いた。がんばらないと肩の力を抜くと、不思議に生きるヒントがいくつも見えてくるものらしい。鎌田氏は2008年で60歳になる。56歳で病院長をやめ、一内科医として地域の医療に関ってゆこうとされた。今、鎌田氏は命、環境,平和について発言をされている。さらに豊かな活動を期待したい。三部作として最期の著作である。ここにもさまざまな命が描かれている。本書の特徴として、各章の裏頁に詩のような、珠玉の言葉が書き連ねてある。これで言いたいことの纏めにもなるし、象徴的なことばでもあるので、各章の命の話を紹介する代わりに、詩編集をコピーしたい。

1、命を守るコツ
「人の命を救うための科学の進歩が/医療から温かみを奪う/時として、患者を置き去りにする。/そんな今の医療が、僕は悲しい。/優しくなくちゃ医療じゃないと思っている。/生と死に向き合いながら、/大切な命の守りかたをトコトン考えてみた。」
2、希望の育てかた
「今日、あなたは何をしたいのですか?/あした、かなえたい夢はありますか?/命を輝かせるのは地位やお金ではないと思う。/それは夢であり、希望。/希望を育てるのが難しい時代に、/希望の育てかたを、/いっしょに考えてみませんか。」
3.生きるってむづかしい
「生きていると、辛さが待ちかまえている。/生きていると、悲しみが待ち伏せしている。/がんばりたいのにがんばれない人も、/がんばれない自分を好きになれない人も、/こだわりを捨てられなくて苦しむ人もいる。/いいじゃないか、あるがままで・・・・・/生きるヒントを見つけた。」
4、誰かのために生きたい
「ふとした出会いが、互いにその後を/大きく変えてしまうことがある。/誰かのために生きたい。/ぼくは生きることの意味を探して歩く。/人と人の支えあいが、/人の命を救い、/人生を輝かせることに気がついた。」
5、恨みの連鎖から優しさの連鎖へ
「悲しみのなかにいる多くの子どもたちと、/ぼくは出会った。/イラクで、チェルノブイリで。/憎しみの連鎖、恨みの連鎖が広がっている。/でも、ぼくらは負けない。/愛しあうこと、理解しあうこと、/赦しあうことが人間にはできるんだ。/未来に向って、優しさを広げていく。」
6、家族のチカラ
「人と人とのつながりのなかでしか、/人は生きられない。/いい家族があったらいいな。/家族はあるものじゃなくて、つくるもの。/命を宿し、育て、支え、看とり、/そして忘れない。それが家族の役割。/家族のチカラを信じたい。」


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