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茂木健一郎著 「欲望する脳」

 集英社新書0418(2007年11月)

今や茂木さんは哲学者 脳から人間存在の本質に迫る

この本は「青春と読書」という雑誌に2005年5月から2007年4月まで2年間連載された。合計24回、1回分は四百字原稿用紙10枚相当であろう。新書版で2007年11月に集英社から刊行された。若い人を相手にした読書の進めのような内容なので、「人間存在の本質は・・・」という文脈が何度となく出てくる。その度ごとに私のような人間は「ドキッ」とする。最後の審判で「you are guilty]と宣告され、判決文を聞き逃すまいと必死に聞き耳を立てている私は何物だろうか。そんなことが分ればとっくに「死んでも可なり」である。分らないから生きているようなものだ。若い人はさぞ新鮮な面持ちで聞いているのだろう。

著者茂木健一郎氏は云うまでもなくいまNHKでモテモテの脳科学者である。何回も茂木氏の著書を紹介してきたので、いまさら茂木氏の略歴は紹介する必要はないだろう。しかし本書の末尾に書かれている人物紹介では、この人の本職はわからない。ソニーという企業の研究所の研究員らしいが、他に大学の客員教授を兼ねており、テレビで売れっ子解説者でもあり、まともにソニーという会社に通っているとは思えない。さすがソニーという企業は懐が広い。こんな人間を遊ばせて給料を払っているのだから。昔あった三菱化成「生命科学研究所」も同じような開かれた研究所で、企業の利益のみを追求するところではなかった。殆どの企業は世知辛い「企業秘密」(世界に誇るような秘密があればいいのだが、ないことがばれると恥をかくので秘密にしているだけ)で研究の囲い込みをやっている。そしていまや茂木健一郎氏は文化人になった。本書では哲学者になった。ウイキペディアで茂木健一郎氏を「クオリアまでをも含んだすべての現象を扱いうる拡張された物理学を志向している。著書『クオリア入門』は心も自然法則の一部であるという表題から始められており、意識のほんとうの科学を目指すという自身の方向性をはっきりと明示している。また茂木は脳内でのニューロンの時空間的な発火パターンに対応してクオリアが生起しているという独自の作業仮説をとり、そこからクオリアが持つ(であろう)何らかの数学的構造を見つけることが出来るのではないか、として研究を行っている。」と紹介されている。茂木氏の活動は「クオリア日記」を見ればいい。この読書ノートコーナーでは茂木氏の著書を何回か紹介した。下に記す。
茂木健一郎著 「脳と仮想」 新潮社
茂木健一郎著 「意識とはなにか」 ちくま新書
茂木健一郎著 「脳整理法」 ちくま新書
茂木健一郎著 「脳の中の人生」 中公新書ラクレ
茂木健一郎  「脳と創造性ーこの私というクオリアへ」 PHP出版
茂木健一郎著 「クオリア入門(心が脳を感じるとき)」 ちくま学芸文庫
茂木健一郎著 「すべては音楽から生まれるー脳とシューベルト」 PHP新書

そこで今回は、茂木氏を脳科学者ではなくて、哲学者として本書を紹介したい。脳科学の術語を使わなければ、本書は間違いなく若人向けの「哲学入門」である。本書「欲望する脳」とは、他人と自分の存在の問題を扱っている。ここで云う欲望とは「本能」という意味ではなく、人間関係における自他の関係である。自意識がある限り他人との関係で「こうしたいああしたい」という利己主義が生じる。近代では利己主義こそが大事であるというのである。デカルトの二元論とアダムスミスの富の生産において、利己主義に存在の基礎を与えている。茂木氏の哲学講座24回をそのままにまとめてゆく。

第1回  心の欲するところに従うこととは?

人間が自らの欲望を肯定し、解放する事で発展してきたのが現代文明である。現代人の脳はまさに欲望する脳なのである。しかし人間の欲望はいかに生きルべきかという倫理性と決して無関係ではいられない。本書の一貫した命題は、孔子の「論語」にある「七十而従心所欲、不踰矩」という言葉の意味を問い続けることである。「70歳になって、心の欲するところに従って、人間の倫理に反しない」ということはどういうことかである。倫理と欲望は相反するものか。倫理は文明の発展に応じて人間が人間として生きるための(他の動物とは違う)仕組みである。経済行為では、アダムスミスのように個人の利己主義に予定調和があると云う前提であった。人間の行為は「利己的な遺伝子」のように原則利己主義で、時には長期的利益のために利他主義を装う事もあるといった「マキャベリズム的知性」なのなのか。さてこれからこの問題を考えてゆきましょうと云うことで本書が始まる。

第2回  欲望に潜む脆弱性

人間を初めとする動物の欲望の根底には自他の区別がある。欲望は他者に向けられるのである。そこで他者との間に摩擦が生じて生命は無限運動を続けるのだ。自分の欲望は身勝手で他人の心は分らないので、本質的に脆弱性が内在する。人の傷みは分らない。自他の区分の上に立つ欲望が潜在的に抱える不条理である。といって宗教的に自分の欲望を封じ込めてしまうことは出来るのだろうか。

第3回  意識ある存在にとっての倫理

人間は意識を持った存在である。近代的自我では意識の問題を統一する事に失敗している。科学的には意識などあってもなくても世界の構造は変わらない。意識には個人的体験に基づく「クオリア」(感覚質)が付きまとう。意識や主観性といった難しい問題は所謂「心脳問題」という。これは現代科学では未解決の問題で避けて通っている。身近な「倫理問題」と「心脳問題」が交差しているのではないかと著者は考える。今は解けないが、この闇に人間存在の鍵があると睨む。

第4回  主語に囚われずに考える

アインシュタインの言葉に「ある人の価値は、何よりもどのくらいその人が自分自身から解放されているかということだ」がある。ほんとうの自然科学には勿論「私」はない。自分にこだわっていると世界の真実に近づけない。人への関心を失うと人間ではなくなる。決め付けた主語を振り回しては解決できない問題(近頃のニートは・・)ももっと操作性の高い概念に置き換える事で発展できる事もある。

第5回  個別と普遍

「すべての生物的事実は、進化論の枠組みの中で始めて意味を持つ」という考えは、生物学的事実の関係を変異の偶然性と淘汰という進化の中で考えようということである。「進化心理学」という概念は進化の因果関係を心理学的な言葉で表現している。ちょっと頂けない論だと私は思う。世界は一人ひとりまで分解される「個別化の原理」で、普遍性とはどういう関係にあるのだろうか。弱者には厳しい態度で接するという「タフ・ラブ」といういかにもアングロサクソン系アメリカ人の新保守主義の考えがあるが、反発する人は多い。個々の利益追求が進化の原動力で、普遍的愛なぞくそ食らえということは正しいのだろうか。プラトンは一人ひとりの人間の個別に、普遍が宿るという。普遍の気配が感じられるとはどういうことであろうか。

第6回  現代の野獣たち

「野獣化」は格好いいのか。体制や倫理、知識や論理、価値観などを無視して、自分の欲望を絶対視して行動に走る傾向は、フィードバック機構の外れた脳活動の現われだろうか。経済的行為の結果を金という価値で量る資本主義の論理は、汗水流して稼いだ1万円もワンクリックで稼いだ1万円という価値しかないのである。遺伝子は過程は問わず残る事にすべての価値があると云う論理と同じである。音楽を聴いた感動も、食べ物やセックスの喜びと同じ部位の脳報酬系にある。音楽という回りくどい快楽の迂回路的存在に過ぎないというのか。世界のヒーロは野獣なのだろうか。

第7回  現代の多重文脈者たち

1990年以降の情報社会はさまざまなツールを提供し、私達は色々な文脈を引き受ける事が可能となった。同一人物がいろいろな仕事をこなすことができるのである。これを「現代の多重文脈者」という。反対に戦争とは典型的な単一文脈性である。ヴァーチャル空間で一人の人格が生まれるである。望みのまま(欲望のまま)に複数の文脈者になれ、しがないサラリーマンがIT論客であったり、デイトレーダになったりもする。「野獣化」と「多重文脈化」は同時に進行している。

第8回  子供であることの福音

「野獣化」と「多重文脈化」は「子供化」と同じではないだろうか。子供は一つの文脈にこだわらない。昔のサラリーマンのように企業社会のヒエラルヒーのみにすべての価値を置くような単一文脈は既に時代遅れかもしれない。欲望を肯定する消費社会も子供じみている。自由は文脈から文脈への遷移の中でしか味わえない。現代の多重文脈者はより多くの文脈を引き受けるにしたがって、しだいに文脈が稀薄な「子供の領分」に近づいてゆく。

第9回  精しさにいたる道筋

物事の理解は最初は粗く捉えられていたのが、しだいに精密になり研ぎ澄まされてゆくのである。同じ本を何回も読むとしだいに理解は深まる。同じテレビ映画を何回も見るとその度に見えてくる事がある。人間の脳の記憶回路は絶えず整理整頓(意味つけ、関連つけ)をやっているである。いくつになっても学ぶことは大切である。高齢者にとって新しい記憶より、整理整頓のほうがずっと価値のある仕事ではないだろうか。

第10回 私の欲望は孤立しているのか?

精神病には「多重人格障害(解離性同一性障害)」があるが、近代的自我や近代資本主義では個々の人格の単一性や独立性を前提にしないと成り立たない。殺人犯が「私の中に悪魔が入り込んで人を殺せと命令した」ということは弁明として取り上げられない。自分の中に複数の人がいるでは契約は成り立たない。近代的自我はそれほど恣意的に想定された概念ではなく、自分と他人を区別することは自明として出発するのが人間であろう。

第11回 デジタル資本主義時代の心の在処

デジタル資本主義という言葉は市民権を獲得したかどうかは知らないが、Web上の取引(インターネット株投資など)や金儲けの欲望も端末でおこなっている時代である。株、先物取引、為替など投機性の強い経済行為による収益は、結局他人の財布から金を移転するに過ぎない。しかも「しょば代」を取られた上での博打である。デジタル資本主義における欲望を巡る倫理規定がおかしなものに変容しつつある。「ゲーム感覚」ということばに象徴されるように心的表象の帰属がグレーゾーンに入りつつあるのだ。ますます複雑化するサイバー世界における「心の在処」を再定義しないと、心を失った自動プログラムに人間が飲み込まれてしまう。インターネットにおけるスパム(迷惑メール)にうんざりしておられる人は多い。なんせ機械的にビット信号が侵入できるのであるから。戦争と宣伝と同じような人の心を無差別に支配する倫理問題がデジタル世界で進行しているのかも。中国政府のサーバー支配と監視機構、煽動機構はまさにナチス以上である。笛吹けば反日デモが各地で発生する恐ろしい世界である。

第12回 人間らしさの定義

機械的ロジックを適用した悪のスパムの非人間性は、人を深いところで崩壊させかねない危機を孕んでいる。資本主義の価値観は、すべての行為は金に換算可能ということである。交換可能なのは金の値だけで、その経過や人間性は一切無視されるのである。汗水働いて生活の資を得る労働という行為よりも、ワンクリックで数十年分の年収を稼ぐ事が出来た人の人生を狂わす。その人の人生はそこで崩壊するのだ。人間性を維持するには、ニートやアルバイトで稼いでいるうちが幸せなのだと云う皮肉な結果を主張したいのではないが、ワンクリックや先物に狂った人生の破滅は早い。ホームレスのほうがはるかに豊かな人間性を有している。毎日野良猫に公園でえさをやり、廃品回収で汗を流してわずかばかりの金を掴んだら、河原で缶ビールを飲む。すくなくとも悪魔と化したデイトレーダよりは精神的に豊である。こんな現代のデジタル資本主義のすさんだ精神風景を人間性の危機だと騒ぐ私は、すでに古い人間なのでしょうか。

第13回 夢の中ではつながっている

夢という脳の働きは摩訶不思議である。夢は時に豊かなイメージを喚起する。脳科学者は夢は無意識のうちに進行する記憶の整理作業があふれ出るのだという。チョット私には納得できない。昨日今日の出来事を夢に見るならともかくとして、私は青春時代のあまりに古いことばかり夢に見るからだ。記憶回路から海馬を通じて夢という形で記憶の断片を呼び出して脚色する機能は単なる整理や意味つけでは説明できない。

第14回 欲望の終りなき旅

モーツアルトが悲惨な生活からあのような悲しいほどに美しい、かつ楽しい曲を数多く残すことができたのは奇蹟みたいなことである。著者は、人間の知性はいつまでたっても完成形を迎えることがない「終末開放性」を特徴とするという難しい言い方をする。音楽、学問、科学、食、芸術などは人間が続く限り、変化し続けるものである。それを生み出す人間の意識の働きはまだ何もわかっていない。

第15回 容易には自分を開かず

人間の存在はそもそもその社会性にある。したがって知性は社会に開かれている。「他人に対してイキイキとした興味を持つこと」と「自分の心の状態に注意を向けること」は相克する。著者茂木さんは伊藤若冲という江戸時代の画家が好きだそうである。若冲は虫や家禽類をじっと観察する事に明け暮れた。自らを容易に開かず、自我に没頭することもかえって広大な世界への路が通じるのではないか。自分を深めないでただ社会と交わっているだけでは世界は見えてこない。

第16回 近代からこぼれ落ちた感情

曖昧な状況での経済的な意思決定は、市場行動を説明する道具として開発され「神経経済学」と呼ばれている。感情が市場行動を支配している。不確実性を前にした判断や行動のメカニズムは、進化論にも通じる。人間は分らない時、恐れや情念といった感情に支配されるらしい。これは大脳周辺部にある神経の機能である。感情は芸術的な分野で扱われてきた。近代的知性、科学では感情を正面から相手にはしない。しかし案外行動を支配しているのは理性的判断ではなく、勘や感情であったりするので馬鹿にしてはいけない。

第17回 不可能を志向すること

アインシュタインは「人生で重要なのは何が起きたのかではなく、何を考えてきたのかということです」という。感情は生きる上で避けることのできない不確実性への適応戦略であろうか。現実に留まらない人間の感情は、意識のもうひとつの働きである。それが「志向性」という心の働きである。容易に実現できないことを、いかに志向するか、そのこと自体が現代の一つの倫理的課題である。不可能を前にして如何に戦うかそれが人間である。

第18回 アクション映画とサンゴの卵

アクション映画では主人公はいつも世界の中心にいる。そしていつも勝つ。ところがそんな存在は現実には何処にもないのである。自分は海に漂うサンゴの卵のひとつに過ぎない。生き残れる可能性は限りなく小さい存在である。人間の欲望を考える時、自分の存在を珊瑚の卵という自覚を持つかどうかである。生きようとする欲望が人間存在の原罪であるからだ。きつい言い方かもしれない。経済学で云う行動原理の「効用」解釈は、実は何も説明していない循環論法が含まれている。損得で割り切れる経済合理性にしたがって行動するとは限らない。それが人間の行動である。

第19回 欲望と社会

欲望を最終的に生物学的に定義すると、やはり生物としての個体維持本能、種保存本能に帰結するのかもしれない。道徳や倫理に人間を合わせることは出来ない。生きることの本質は本来どうなるか分らないという遇有性にある。経済行為も誰も予測できない遇有性が基本である。マクロ経済動向は予測できない。明日のことが予測できる経済アナリストは誰一人としていない。みんな後付けの理屈を言っているのだ。とりあえず自分の欲望を肯定することで人間はスタートする。生きる上で避けられない遇有性を引き受ける形でアダムスミスの経済が成り立っている。経済を計画できると思った社会主義は崩壊した。人間も社会規律で縛りつける全体主義も破綻した。人間存在の原罪である遇有性(どうなるかわからない)を引き受けるのが人間の宿命ではないだろうか。

第20回 1回性を巡る倫理問題

人生は1回性(繰り返すこと、やり直しのきかないこと)にあり、ずべての宗教的体験の本質も1回性にある。人生のリセットが出来ないかぎり、気付きを重ねて学習を続けるのが人生である。ひらめきと云う1回性の認識は「一発学習」であり何時訪れるかは分らないが大切な事である。しかしそれを大事にするセレンディピティとは偶然を必然に転化する演劇性「メタ認知」のことである。

第21回 魂の錬金術

生の後には死が訪れる。快楽の後には苦痛がある。快楽を持続させたいというのも人間本性である。欲するままに生きて規範を破らないということは、少なくとも自己および他者に対して破壊的な感情を持たないということであろう。どうしょうもなく否定的感情に襲われること、それが芸術的高められる例は多い。モーツアルト,ワーグナーの音楽、石川啄木の詩など、そこまで高めれば否定的感情も原動力といわれる。心の鍛錬が必要である。黒を白に変えるのだから。

第22回 生を知らずして死を予感する

生きることは普遍からほど遠いところにあるとしても、生きることはそもそもある個別の文脈の中で成り立っているに過ぎないのである。どんな人も時代を背負って生きている。超越して生きられる人はいない。個別と普遍の関係はすぐれて意識の問題であって人間の存在を串刺しにするものだ。生きている人はただ変化するだけで、捉えようがない。蓋を覆って、はじめて評価が決まる。普遍を予感できる人なんているのかな。

第23回 学習依存症

脳の報酬系は学びの中に愉悦を見出す。人生死ぬまで勉強だ。本を読め。読めば読むほど人生に味わいを見出し、脳細胞は進化を続ける。苦しみと喜びの入り混じった遇有性の海の中にこそ、人生最大の学びの機会がある。学んでいる限り人は成長し、より高いところを目指す。人生で一番重要な「規範」を破る事もない。

第24回 一つの生命哲学をこそ

欲望を基本的に肯定することこそが、現代の時代精神である。欲望は「可能無限」である。自然環境も人間を制約するはない。欲望を無限に伸ばす事が文明の原動力であり、創造力である。ダーウインの「進化論」もマルサスの「人口論」も人間を押し込めることは出来なかった。人間は単なる利己主義的存在としての個ではなく、狭い倫理主義で拘束することも出来ない驚くべき多様な人間の行動様式である。自らの欲望を肯定するということが、利己的と云うニューアンスを超えて生命哲学の意味を持つとき、人間はもうひとつ高い進化段階へ登ることが出来るのである。


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