三月十日はチベット民族にとって忘れる事ができない日です。ですから中国から云うと「チベット暴動」、チベット民族から云うと「主権回復の闘い」は大体春に起きます。あのおとなしいチベット人が素手で暴動を起こすのはよほどの事なのだなと思いながら、テレビの画面を見ていました。そしてダライラマ14世の声明を聞いていたのですが、民族独立の闘いにしては最初から厭に妥協的な要求だなと思った。普通なら「中国人を最後の一人まで追い出すまで闘う」というのですが、ダライラマは「私は独立は求めていない、過渡的に自治権拡大、宗教の自由の対話を中国側に求める」という戦闘力のない、慎ましやかな要求というか、奴隷根性的な要求だなと思った。ダライラマの王権だけを復活できれば良い、ほかは名目の自治で良いという「反動的」な要求だと理解した。しかしこれはとんでもない中国側の謀略、情報操作であったのだ。チベット問題を今までメディアが報道したこともなく、いわゆる革新勢力や新聞などは中国の圧力に脅かされて故意に目をつぶっていただけの事ではないか。内実チベットでは何が進行しているのか。唯一のチベット側の報道源は「ダライラマ法王日本代表部事務所(亡命政権日本事務所)」の「チベット通信」である。皆さん一度はアクセスしてみてください。
本書を読んでみて、まず第一に気がついたのはダライラマと云う個性は,いわばインド独立の父マハトマ・ガンジーに似ている。ガンジーは徹底した非暴力主義で、ドンキホーテに過ぎなかった。インドの独立が出来たのはガンジーの力というよりは、彼の周辺にいたネールなどの現実的政治家の力によって独立が達成できたといわれている。そういう意味でダライラマの主張はあまりに仏教徒の非暴力、平和、慈悲に溢れている。敵に慈悲を垂れてやる必要はないのではないか。中国のことわざに「どぶに落ちた犬に石をなげる」と云う言葉があり、力を失ったものに対してや落ち目のものに対する無慈悲な暴力を是としています。こんな民族にいじめられて、なお慈悲を垂れるとは馬鹿ではないか。チベット問題はダライラマ14世の宗教的支配を脱した第3世代の若者の時代にならないと解決しないように思われる。いきなり結論を言って、唐突かもしれませんが、これが本書を読んだ偽らざる結論であります。本書は第1部:ダライラマ面会録、第2部:亡命チベット僧侶の証言、第3部:「チベット通信」よりからなります。
本書は実は1994年、三一書房より刊行された「チベットのこころ」を、今年の春の僧侶による「チベット暴動」勃発で、2008年6月に再編集して光文社より発行したものです。当然というか、残念というか本書の内容は1994年で止まっている事です。それから15年ほど経っています。新しい内容に換えることなく1994年までの情報を再度刊行することにどれだけの価値があるのでしょうか。著者は1929年生まれですので今年で89歳ですので、もはや書き直すだけの余力はないので致し方ないのかなとも思いました。したがって1994年以降はこちらで追加してゆく事にしよう。著者山際素男氏の簡単な紹介をする。山際 素男氏はノンフィクション作家、インド文化研究家、翻訳家。専門はインド文学。法政大学文学部日本文学科卒。インドに留学して、インド国立パトナ大学、ビスババラティ大学で学ぶ。その後、朝日新聞東京本社、世界労連東京事務所勤務を経て文筆活動に入る。インドにおけるカースト制度の悲惨な実態を告発した『不可触民 もうひとつのインド』で注目され、1998年、古代インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の翻訳で第34回日本翻訳出版文化賞を受賞した。チベット問題にも関わっており、ダライ・ラマ自伝の他、チベット関連書を翻訳。また、「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」にもかかわり、ダライ・ラマの発言の日本語翻訳を行っている。
本書は第1部:ダライラマ面会録、第2部:亡命チベット僧侶の証言、第3部:「チベット通信」よりからなります。いきなり本書の内容に入ると仏教の深遠な教理になりますので、チベット問題についてまず歴史的な経緯を振り返っておきましょう。本書末の年表から重大事件をひろってゆこう。
1904年 英国−チベット ラサ条約締結
1911年 辛亥革命起こり 清滅亡 中華民国成立(孫文)
1913年 チベット−モンゴル相互承認条約 インドのシムラで中国、英国、インド三者でチベットの主権・領土会議
1940年 ダライラマ14世即位
1949年 共産党全土を掌握 中華人民共和国成立 チベット侵攻を開始
1951年 中国−チベット間で17条協定締結 中国人民軍ラサに進駐する チベット側は脅迫下で結ばれた17条協定を一切認めていない
1954年 ダライラマ14世全国人民代表者会議に出席 毛沢東・周恩来と会見
1956年 中国はチベット政府にかわる「チベット自治区準備委員会」を設立 四川、雲南でチベット領土を編入 チベット各地で暴動起る
1959年 チベット騒乱 87000人殺害される ダライラマ14世インドへ亡命、チベット亡命政府樹立
1962年 中印国境戦争 「チベット自治区」の98%の僧院が破壊される
1965年 「チベット自治区」成立
1979年 ケ小平「チベット開放政策」確認
1984年 中国による占領のため、チベット人120万人死亡と発表
1987年 ダライラマ14世チベット問題解決のための「五項目和平プラン」提案 ラサで大規模デモ
1988年 ダライラマ14世欧州議会でシュトラスブール提案 「チベット三州の統合自治ができるなら、中国に防衛・外交権を譲る」
1989年 チベット騒乱 中国戒厳令発布 天安門事件 ダライラマ14世ノーベル賞受賞
1991年 米国ブッシュT大統領 チベットを被占領国と認める決議に署名
1997年 ダライラマ14世 台湾李登輝総統と会談
2006年 チベット鉄道(ラサー青海2000km)開通
2008年 チベット騒乱 四川地震
ダライラマ14世と著者山際素男氏の会見録に入る前に、チベットに関する簡単な事実を述べておこう。チベットは中国語で「西蔵」という。チベットは元ウ・ツアン州(1965年現チベット自治区と改名)、アムド州(1955年現青海省へ、1963年現甘粛省へ一部編入)、カム州(1967年現四川省へ編入)の3州からなり、チベット亡命政府はこの3州の一括返還を求めている。中国政府はすでにアムド州、カム州の2州を中国領土の省へ編入しているのである。将来チベットの独立のときは現チベット自治区のみを返還して終りにしようとする魂胆が見えてくる。現チベット自治区の面積は元チベット国の半分に過ぎない。2008年3月の四川省大地震の時、チベット人の被害者が多いことをテレビで見たのは、実はこの地区はチベット人の居住地だったのである。いまも青海省、四川省、甘粛省にチベット人が多いのは、歴史的に少数民族問題ではなく、イスラエルやロシアのような入植問題である。現チベット人の人口は600万人、中国人の入植者は800万人である。かって胡耀邦首相が1980年代にチベット問題を見直すと約束し漢民族の85%をチベットから引き揚げるといって失脚した。亡命チベット人は今インドに10万人以上、ネパールに2万人、アメリカに1万人がいるといわれ、日本にも50人くらいいる。インドにおけるチベット人入植地は北部ダラムサラ、南部コレガル、ハイベラクッペを初めとして全国に散在している。ダライラマ14世亡命政府が存在するのはニューデリーの北ダラムサラである。
このダライラマ会見録はやはり仏教的色彩が濃いため私には理解できないところは省く。主に歴史的、政治的・社会的側面のみを摘出する。著者山際素男氏がダライラマ14世を訪問したのは、1991年12月から1992年1月初めにかけて5回面会している。亡命政府が存在するダラムサラにチベット人は8000−10000人である。土地が峻険で狭いために多くの人は居住できない。著者は「ダライラマ自伝」を読んで感銘を受けたことから会談が始まった。天安門事件に見たように、中国内部には漢民族の人権問題さえ避けて、経済問題で解決しようとする意図が明白である。衣食が足りないから、礼節は後回しということだ。チベット問題は人権問題どころか、これは植民地問題である。2008年春のチベット騒乱においても、外部から取り上げられる事をヒステリックに嫌い、武力鎮圧による完全な植民地政策を推し進めた。ダライラマは仏教主義的自由、慈愛によって人間を導くという。現在チベット問題の先頭に立っているのは第3世代である。チベットの解放への見通しについて、ダライラマはあらゆる局面はチベットに有利に、中国政府には不安だらけに推移しているらしい。先ず中国大衆の共産党への信頼が揺らいでいる事が第一である。1989年から始まった東欧の政変とソ連の崩壊によって、全体主義的専制政治体制は急速に弱体化している。中国において併合されたチベット、東トルキスタン(新疆)、内モンゴル民族の離反が日増しに高まっている。1991年アメリカ議会はチベットを被占領国と認める決議を採択しブッシュT大統領は署名した。日本では商売第一で中国との関係が優先し、チベットについて殆ど理解されていないのが実情である。
1月になってインド南部コレガル居留区へ移ったダライラマ法王との面会について述べる。私には理解できないが、インドと云う国では宗教は人々の日常生活そのものであるらしい。強制されたエクソダス(民族移動)による文明移転は昔ではビザンチン帝国から西アジアへのヘレニズム文化、最近ではナチスのユダヤ人迫害による、カバラ思想の世界中への移動などがそうである。チベット人の世界中への移動がチベット問題、チベット宗教の理解が進む要因となっている。「化身思想と仏教」という概念はバカバカしいから省く。ダライラマには「ネチュン」という憑依者(お告げ師)がいて、ダライラマを守護する神霊(ドルジュ・ダクデン)と交信するらしい。また「前世のカルマ(行為)」という思想も分らないから省く。日常生活における仏教徒の基本的態度は慈悲に基づいた非暴力ということである。「ヨーガの行」、「瞑想状態(バルドゥ)」は禅宗とおなじ呼吸の制御も含む内的エネルギーの制御であるそうだ。これ無我の座禅の行として理解しておこう。現在物理学の宇宙観と仏教の宇宙観が意外と似ていると法王は云うのである。数百億年を周期としてビックバンによって宇宙と生命が誕生し、かつ消滅する。万物の不滅の法則と移り行く無常性はどちらからも説明できる。
亡命チベット人の証言インドには約10万人のチベット難民がいる。その内2万人が僧侶であるといわれる。1980年以降「チベット自治区」での宗教迫害、暴力から逃れてインドに逃げてきた。著者山際素男氏は法王との面会の間に、チベット人居留地にゆき、数名の僧と面会して亡命チベット人の証言を得た。1988年にチベット大暴動で逮捕されて亡命した尼僧らである。中国政府は重税を課して最低の生活を強いて、生活向上の余裕を与えない政策であったらしい。武器も何もなくてデモに立ち上がったチベット人らに、戒厳令下中国軍は無差別銃撃によって多くのチベット人を虐殺した。僧の無差別逮捕が続き、多くの僧は拷問と病気で死亡した。尼僧に対しては性的拷問も行われたらしい。8000以上あったチベット寺院の9割以上は跡形もなく破壊され、今ラサ近郊の残された寺院は観光用として、外国人を欺くために残っているに過ぎない。宗教行為は徹底的に弾圧された。毎年2000-3000人がヒマラヤを超えて亡命しており、少年少女も毎年数百人が亡命している。こういった反革命暴力についてはフランスの「アルジェリア民族解放戦線」に対する弾圧拷問が有名である。そういったことが、社会主義国中国でも「暴徒」に対して情け容赦なくおこなわれているという。支配権力機構の無慈悲さ何時も同じだ。
「チベット通信」より1993年1月号の「チベット通信」にダライラマ14世の政治形態の指針と憲法の基本要点が世界に向って表明された。1963年に憲法草案が公表されたが、チベットの政治体制の民主化を目指して、ダライラマ14世はチベット3州すべて(チベット自治区ではなくチベット全土)によって構成される国家は自由と民主主義の原理に基づくとした。先ずダライラマはすべての権力から引退すること、三権の独立、複数政党制の議会民主主義を導入、大統領の選挙制、自由チベット制憲議会がチベット憲法を制定する。移行期間と自由チベット憲法の骨子を簡単に次に示す。
移行期間中は臨時大統領が行政権を持つ。現行のチベット地方代表からなる緊急会議が7名の臨時大統領候補者を選出する。そのなかからダライラマ14世が臨時大統領を任命する。選挙に失敗した場合、ダライラマ14世が直接臨時大統領を指名することもありうる。臨時大統領はチベット制憲議会を召集する。1年以内に憲法を制定する。次にチベット国民議会議員250人と大統領の選挙を選挙管理委員会のもとで厳正に実施する。この移行期間は2年を超えない。
憲法の骨子は、国政の基本は仏教の教えに沿った政治を基本とし、非暴力、自由で社会福祉を志向した連邦制民主政体を目指す。国債人権宣言を遵守し国民の幸福と基本的人権・倫理の向上を追及する。チベットは平和地帯として中立、軍事力の行使と暴力を排除する。生存、自由、財産と土地所有、表現、売買、結社、出版、雇用の自由を有する。すべての国民は選挙権を有する。経済体制は資本主義・社会主義に偏らない独特の経済体制を維持する。所得税を根幹とする。立法権はチベット国民会議と大統領に帰属する(大統領は法案に同意する)。行政権は大統領に帰属する。地方自治は各州政府に属する。立法権は州議会、行政は州首相に属する。独特の経済体制とか仏教原理主義など多少おかしいところもあるが、先ずは世界の潮流を見た無難な憲法ではなかろうか。