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高橋洋一著 「さらば財務省!」

 講談社(2008年3月)

財務原理主義から増税・大きな政府を図る財務省
国亡んでも霞ヶ関の価値だけがすべての官僚機構 

財務省官僚だった高橋洋一氏は小泉内閣で竹中平蔵氏との縁で、「小泉改革」、「安倍改革」に政策スタッフとして参画した。改革の舞台裏と官僚の暗躍、霞ヶ関の論理と政策の問題点を明らかにしようとした本である。最近、年金保険庁・厚生労働省の醜態を目の前にして、官僚機構の無能無策が歴然と国民の前にさらけ出されて、いまさら官僚機構の優秀さを信じる馬鹿はいないと思う。又旧大蔵省の「ノーパンしゃぶしゃぶ接待スキャンダル」をみれば、大蔵官僚(今財務省)の程度の悪さは国民は十二分に知悉していると思う。それでもなお財務省官僚は自分達を「東京大学法学部卒業」の超エリート頭脳集団だと思っているとすれば、お笑いものである。云うまでもなく官僚は国民の公僕であり、最大の任務は国民のために働く事であるにもかかわらず、彼らの頭には省利・省益しかないような行動をする。官僚機構は本来無色透明で政党から超越した存在と自画自賛しているが、これはとんでもない間違いである。歴史上官僚機構は常に権力支配者の手先で小間使いであった。ただ昔から政治家があまりに我利我欲に終始しており、政策に弱かったためよきに計らえとばかり官僚機構に権力の実行を任せすぎたため、官僚機構がとんでもない権力を掌握したのである。官僚と政治家の実力の差は歴然としている。田舎の土建屋さんが政治家、都会の頭脳集団が官僚という図式が固定した。官僚はほんとうに優秀な政策集団であろうか。これを検証するのが本書の目的である。政治家とたいして違わない我利我欲の集団であったというのが結論である。政治機構・統治機構として、官僚内閣制から本来の英国流政党内閣制へ政治家が力をつけてゆくのが正しい解決策であろう。あるいは米国流の官僚の政治任用の選択肢もあるかもしれない。本書をそのまま読めば、高橋洋一氏の自己弁護と自慢話に終始するので、面白くない。そこで背景となる財政投融資改革や日本の統治機構についてある程度の知識は必要となるになるので、所々に解説を挿入してゆきたい。

著者の簡単な紹介をしておこう。高橋 洋一氏は、日本の元官僚、経済学者である。東京大学理学部数学科、経済学部卒業。大蔵省(後の財務省)入省。大蔵省理財局資金企画室長、プリンストン大学客員研究員、国土交通省国土計画局特別調整課長、を歴任した後、小泉内閣において竹中平蔵大臣の補佐官、2006年安倍内閣において内閣参事官に就任。2008年3月に退官。2008年4月現在、東洋大学経済学部総合政策学科教授、金融庁顧問である。専門分野は財政学。主な研究テーマは財政、マクロ経済、年金数理、金融工学である。中川秀直のブレーンとされている。竹中平蔵との出会いは、高橋が財政金融研究所に勤務していた折、竹中が日本開発銀行(後の日本政策投資銀行)から同研究所に出向し上司になったのが始まり。その後プリンストン大学留学中の2001年2月にニューヨークで再会。同年7月に帰国した高橋が竹中大臣(当時)を訪ねたのをきっかけに、竹中大臣のブレーンとして構造改革に携わるようになる。道路公団の民営化、政策金融機関の改革、郵政民営化に携わる。特に郵政民営化においては4分社化、並びに郵政公社の廃止後直ちに商法会社(郵貯、簡保)へ移行させる措置は、高橋のアイディアといわれる。小泉首相が愛したのが竹中平蔵氏の小さい政府の経済政策なら、竹中平蔵氏が愛したのが高橋洋一氏の政策企画力である。竹中平蔵氏の戦略と高橋洋一氏の戦術が21世紀初めの日本の改革をリードした。彼らの新自由主義政策が経済格差と社会保障削減の原動力になった事には賛否両論があり、現在福田内閣においてその修正に追われて、「改革」はすっかり色あせた。

本書において財務省の政策が論じられているが、財投改革については大きな背景をなすはずであるが残念ながらあまり述べられていない。高橋洋一氏がタッチしていない財投について簡単に富田俊基著 「財投改革の虚と実」(東洋経済新報社)よりまとめておく。財投(財政投融資)とは、国の信用力を背景に融資などの金融的手法を用いる財政政策であり、政治と市場による規律が求められる。2001年度より年郵便貯金と年金の財投への預託を廃止し自主運用にまかせ、特殊法人は財投機関債を市場へ発行して自主資金調達を行うとした財投改革がスタートした。自主調達が出来ない事業には、国が金融市場から調達した国債を精査した上で財投する2本立てとなった。同時に個別の財投事業見直しは「特殊法人等整理合理化計画」と「財政投融資の総点検」によって行われた。これらの改革によって財投計画の規模はピーク時の1996年度40兆円から2007年度の14兆円と1/3にまで減少した。財投計画残高も2007年度にはピーク時の約6割の250兆円に縮減した。財投の貸付先はかって大きなウエイトを占めていた公共事業のシェアーは10%以下に減り、代わって中小零細企業、学生、農業向けの財投機関と地方自治体向けの財投が8割を占めるようになった。2006年には財投の剰余金12兆円が国債償還に回された。この成果を生み出した財投改革とは、組織の改革や財投機関債の発行といったことではなく、個々の財投事業の見直しによって進展したと云うことである。前者の改革を「虚の改革」、後者の改革を「実の改革」と呼ぶ。2007年度から郵便・年金の預託金の払い戻しが完了し、財投債は全部が市場に発行される。2008年度より政策金融機関の改革が実施される。それまでに財務の健全性に問題がある財投機関は当該事業からの撤退を条件に財投への繰り上げ償還をペナルティ無しで行い、免除された補償金で財務の健全化を図る。これによって財投が不良債権を抱えていると云う懸念は払拭された。2008年度から財政投融資金特別会計と産業投資特別会計が統合された。

さてようやく本書の内容に入ろう。高橋洋一氏は小泉政権、安倍政権で6年半にわたってその改革を推進した。竹中平蔵氏は小泉政権の退陣と共に政界から消えた。高橋氏も大学へ転出を決意したが、安倍政権から政治任用(財務省官僚としてではなく)で改革に協力して欲しいという要望があり、2006年9月総理補佐官補となった。安倍政権のもとで、アジアゲートウエイ構想や渡辺喜美行革大臣と「公務員制度改革」、「独立行政法人改革」にたずさわった。ところが志半ばにして2007年9月突然安倍首相が辞任する事態となった。与謝野官房長官(財政政策担当大臣兼務)という安倍内閣の身中の虫から憎まれ、高橋はずしの策略にあって高橋氏も辞任した。小泉・安倍内閣の改革の視点は「経済成長路線・小さな政府」であり、反動勢力は「増税を主張する財政タカ派・大きな政府」との抗争という図式で政官界は動いていた。財務省・国土建設省・総務省など霞ヶ関官僚は権益を離すまいとする後者の立場である。すなわち全霞ヶ関勢力は反小泉・安倍政権であった。自民党内では成長路線をとる党人派の中川秀直元幹事長や渡辺喜美行革大臣は小さな政府派で、谷垣禎一政調会長、与謝野前官房長官らは大きな政府の財政タカ派であった。霞ヶ関の官僚機構は大きな権益を維持拡大するために当然大きな政府派で、永田町を官僚出身政治家が指揮していた。自民党や民主党には政党人と官僚政治家の2種類の人間がいる。官僚機構は政党にも太いパイプと根城を持っているのである。日常政治家の陳情と圧力に答える官僚機構は政党内部にも情報網を張り巡らせている。この官僚機構については飯尾潤著 「日本の統治構造」中公新書に詳しい。官僚内閣制と55体制について概略を記す。

官僚からなる省庁の代理人たる各省大臣が集合する内閣である「官僚内閣制」は、分担管理原則に負うところが大きい。したがって閣議は省庁の根回しが終わった案件に形式的な追認を与える花押という特殊な署名をする「お習字教室」に変質している。会議としての閣議が機能していないという重大な問題を孕んでいる。閣議の前日に開かれる事務次官会議において反対のなかった案件のみが閣議の議題になるといういわば無責任体制の「官僚閣議」が全てを決めているという戦前の体制が引きずられている。大臣はポストであるので誰もが順番を待っている。大臣の任期は原則1年という慣行もできた。つまり素人大臣が入れ替わり、主体的に動ける経験も見識もない大臣が官僚のお膳立てに乗って言われるままに行動する大臣が出てくるのもやむをえない。議院内閣制の原則が逆転し、省庁官僚制の代理人となってしまうのである。官僚内閣制が省庁代表性を通じて独自の社会基盤を持っていたが、議員は別の形で官僚と内閣の行政権を統制する方法を見つけた。それは与党自民党本部機能の拡大と族議員の隆盛である。日本では「政府・与党連絡会議」というものがある。政府と与党は明確に区別されている。議院内閣制ではでは政府と政権党は一体化されるはずだが、日本では「政府・与党二元論体制」と呼ぶべき仕組みが成立した。自民党で与党活動の中心は政務調査会と税制調査会である。部会は省庁別に組織され法案の審査手続きは所轄官庁の完了が有力な議員に概要を伝え説明することから開始される。政調の部会は政府提出が予定される法案全てを審議する。国会の委員会での法案審議が形式的で実質審議がないのに比べて、自民党政調部会での法案審議は実質的である。官僚が与党に法案説明する国は何処にもない。

小泉政権の業績に関しては内山融著 「小泉政権」 中公新書に詳しいのでそちらを参照いただくとして、小泉政権は失敗した中曽根の新自由主義を引き継いで、「日本版サッチャリズム」を定着させた。その骨子は
@財政改革と公共事業費の削減
A不良債権処理と金融再生
B社会保障制度改革: 年金制度と医療制度改革
C特殊法人改革: 石油公団の廃止と特殊法人の民営化、道路公団の民営化郵政事業の民営化
D地方財政制度改革: 補助金の削減、地方への税源移動、地方交付税改革という三位一体改革
E規制緩和:構造特区制度、市場化テスト
からなる改革である。この間外交や安全保障では、急速にアメリカの安全保障のもとに傾斜して、テロ特措置法やイラク特措置法の基づいて自衛隊が海外派遣できるようになった。経済政策が新自由主義的な一貫した戦略が取れたに比べて、外交面では戦略があるようでない対米従属路線に追随したにすぎず、アジア外交の不在と合わせて戦力性が見られない。 小泉政権が最も重視したのは経済と財政の構造改革である。その中核となったのが内閣府におかれた「経済財政諮問会議」である。議長は首相、官房長官、経済財政担当大臣(竹中平蔵)、総務大臣、財務大臣、日銀総裁と四名の民間議員牛尾二郎、奥田碩、本間正明、吉川洋であった。従来の政策決定システムでは官僚が議題アジェンダ設定の主導権を握っていた。諮問会議はこのアジェンダ設定の主導権をかなりの程度官僚から取り上げることに成功した。昔からあった諮問会議では「骨太の方針」というのは、官僚が作る案には口を挟まないという否定的な意味合いだったが、小泉首相は閣議できめる「骨太の方針」に内閣の基本方針を織り込んだ。諮問会議には政府外部からの新自由主義による各種のアイデアも注入された。経済界の要求がどんどん取り上げられた。竹中平蔵氏が指示した第一回の「骨太の方針」には@財政改革と公共事業費の削減A不良債権処理と金融再生B民営化C規制緩和の項目が全て盛り込まれていた。「骨太の方針」は予算編成や税制までに枠を嵌めるようになった。その結果政策決定過程が透明になり、首相の裁断の場として機能した。

ここ数年、霞ヶ関に対する非難が高まっているのも、官僚の世界があまりにも民間の価値観や感覚からかけ離れているからである。「昔陸軍、いま霞ヶ関」に対するパッシングで、あまりのお粗末な官僚機構が曝露したからである。官僚は自分に不利な情報は「無用の混乱を招く」と称して情報遮断を行ってきた。自分に有利な情報はメディアを通じて垂れ流している。政治家の首を飛ばしているのは霞ヶ関のリーク情報である。週刊誌並みにスキャンダル製造に励んでいる。誰も気づかない霞ヶ関の失策には、日銀の「反インフレ至上主義ー低通貨量政策」、財務省の「変動利付き国債」の含み損、厚生労働省の「年金掛け金の株投資運用」などなど言い出せば切りがないくらいである。本来市場メカニズムを価値基準とする竹中平蔵氏には霞ヶ関の「統制経済」派は我慢がならなかった。終身雇用制や年功序列制の廃止は民間企業では1990年以降トレンドとなったが、公務員制度は厚い保護の壁に温存されてきた。政治家は選挙という洗礼にリスクを負って活動するが、官僚はノーリスク・ハイリターンで仕事をしている。身分と老後の裕福な生活を保障されて政策を立案するのが官僚の安全地帯である。これが世間とずれている事を知らぬ振りをしている。

旧大蔵省時代ー財政投融資改革、米国留学時代(1980年4月−2001年7月)

高橋氏は東大理学部数学科から経済学部卒業で、ほんとうは数理統計・経済関係の学者になりたかったという。軽い気持ちで受けたパズルのような公務員試験に合格して旧大蔵省に入所したのが1979年であった。1982年に財政金融研究所勤務となり、ここで運命的な竹中平蔵氏と云うエコノミストに出会う。竹中氏は旧日本開発銀行からの出向であった。キャリアーとして高橋氏は1985年香川県にある観音寺税務署長に赴任した。あまりに閑なので金融工学を勉強したらしい。1986年公正取引委員会課長補佐として東京に戻った。東京証券所の固定手数料をカルテルだといって上限を設けた手数料に改めさせた。そして1988年に大蔵省証券局に戻る。そこで投資顧問業の違法行為に対して登録取り消しに行政処分を行っていたが、1991年7月理財局資金運用部に移った。定額郵便貯金の金利計算は難しいものらしく、高橋氏は数学科出身で数値に強いので局内のものは誰も理解できなかったらしい。1997年橋本龍太郎内閣は財政投融資改革を断行するが、その前には大蔵省内で、郵便貯金や年金積立金の預託金400兆円という大金を貸し付けるリスク管理がどんぶり勘定で行われていた。民間金融機関ではすでに広く行われていた金利のギャップによるリスク管理のソフトであるALM(資産・負債の総合管理)を導入していた。ALM手法で大蔵省の財投リスク管理問題を解析し問題点を論文にまとめた。1993年7月には大臣官房金融検査部に移り、日本長期信用銀行を初めとする不良債権問題に取り組んだ。その時財投の金利リスク問題が理財局トップの知るところとなって、1994年7月再び理財局に呼び戻され、ALMプロジェクトを手がける事になった。日銀と大蔵省の暗闘が絡んでいたようで、大蔵省の金利リスク管理の不安を日銀が衝いてきたのである。そこで極秘にALMシステムの構築を命じられ3ヶ月でこれを遂行した。財投の入金に当る預託金制度を廃止して、債券発行にすれば金利ギャップはいかにも調整がつくのである。預託金廃止について大蔵省内部では猛反対であったが、1996年に理財局長は預託金制度廃止に踏み切った。財投改革の第一歩となった。

そして橋本龍太郎内閣は1997年に財投改革をおこなった。これによって大蔵省は財投金利リスクから解放され生き残ることができた。この財投改革によって郵政公社は国債以外に自由に郵貯を運用するには、必然的に民営化する以外に生きる道はないことになった。財投改革の出口である投資先の特殊法人改革が次のスケジュールに登場する。ほんとうに投資する価値のある事業をしているのかどうかという「政策コスト分析」を手がけた。道路公団を精査すると、主計局が詳細な報告義務を5年しか求めていないため、5年を過ぎると道路公団は補助金の額を上げてくるのである。プロジェクト全期間の補助金額を決めるように求めたが主計局は反発した。高橋氏は1998年より米国プリンストン大学に留学した。そこで米国の学者より日銀の金融政策批判を聞かされた。日銀が通貨量(ハイパワーマネー)を抑制しながら金利ゼロ政策を解除するのは馬鹿だというのである。日銀の超デフレ政策は海外でも有名でこれでは日本経済は壊滅すると指摘されたようだ。2001年7月に三年間の留学を終えて帰国すると待っていたのは、国土交通省特別調整課長という左遷ポストであった。長年の高橋氏の上部・他の部局に対する歯に衣を着せぬ批判が嫌われたためである。

財務省時代ー不良債権処理、政策金融改革、道路公団資産査定(2001年7月ー2003年7月)

2001年4月小泉内閣が誕生し、竹中氏は経済財政担当大臣に任命された。小泉改革の立役者は竹中氏、真柄政務秘書官、大阪大学の本間教授(後に官舎に女性と一緒にいたというスキャンダルで諮問会議議長を辞任した。これは教授に官舎利用を勧めた財務官僚の改革つぶしを狙った情報リークらしい)であった。竹中氏はまず不良債権処理に全力投球していた。銀行トップは不良債権処理をサボると罪になるという厳しい判決を受けて日本長期信用銀行、日本再建信用銀行という政府系特殊法人の不良債権処理に取り組まれた。高橋氏は2001年7月に国土交通省特別調整課長という左遷ポストについていたが、2001年末政策金融改革準備室を兼任した。日本政策投資銀行。国際協力銀行、国民生活金融公庫、住宅金融公庫など政策金融機関の統廃合を図り民営化することが目的の政策金融改革であったが、財務省の強い反対で「今は政策金融改革の着手すべき時期ではない。民間の不良債権処理を優先すべし」という結論となって、政策金融改革は先送りとなった。しかし竹中氏は閣議提出報告書に「残高が半分になるように、次に手を打つ」という文言を埋めておいた。

政府の審議会システムの事務局はすべて官僚が送り込まれている。官僚は審議委員の選定で御用学者を選び、反対意見は封じ込め、日程の作成など庶務権を持ってコントロールを図る。審議会とは役所の代弁機関である。高橋氏は2002年より道路公団民営化審議会で猪瀬氏の個人的手伝いをした。国土交通省は道路公団は6-7兆円の債務超過だから民営化は無理であると煙幕を張っていたので、公団査定を行ったところ補助金や将来の収入を入れると2-3兆円の資産超過という計算結果がでて、猪瀬氏を元気付けた。これには民間企業でやっている「キャッシュフロー分析」を使った。また将来需要予測方程式の誤りを指摘し、国土公通省を慌てさせた。2003年7月関東財務局理財部長に転勤になった。竹中氏や猪瀬氏を手伝っている事は公然としていたため、財務省が嫌って左遷して嫌がらせをしたのであろう。

郵政民営化と小泉改革ー経済財政諮問会議特命室、郵政システム構築、政策金融改革(2003年8月ー2007年9月)

ここで再度内山融著 「小泉政権」 中公新書より小泉政権の郵政民営化の成果を振り返っておこう。「改革の本丸」といわれ小泉首相が最も情熱を注いだ郵政民営化である。当時の最大派閥で郵政族議員の巣窟であった橋本派を切り崩すために、1億円献金問題で橋本派の番頭野中氏を政冶活動引退へ追い込み、さらの橋本氏の弟高知県知事橋本大二郎氏のスキャンダル事件をでっち上げようとしたが是はあまりにお粗末で失敗した。この手あの手で小泉首相は国家権力機構を使って橋本派の壊滅作戦を続けた。幸か不幸か当の橋本元首相が病死したのをきっかけに、小泉氏は一気に郵政民営化に手をつけたようだ。郵政公社には貯金と簡保の360兆円の資金があり、財政投融資を通じて特殊法人などに投資されている資金の流れを断ち切ることは、特殊法人の整理や廃止に追い込み、膨大な国庫債務の元凶であった道路建設公団の民営化に追い込む戦略の一方の要であった。2001年6月首相の私的諮問機関「郵政三事業のあり方を考える」が発足して、2002年7月郵政公社関連法案が成立した。2004年6月経済財政諮問会議の「骨太の方針」で郵政民営化方針を出し、同年9月には「郵政民営化の基本方針」を閣議決定した。2005年4月に郵政民営化法案を作成して国会へ提出した。7月には衆議院を通過したが、8月多くの造反議員を出しながら参議院で否決され小泉首相は民意を問うとして直ちに衆議院を解散、9月の総選挙には大勝した。10月再度衆議院で2/3以上の賛成を得て民営化法案は成立した。郵政民営化の骨子は12007年10月郵政公社を4分割して株式会社とする。2政府は純粋持株会社を設立。10年間で株式を売却B職員は国家公務員ではなくなるC郵便事業には全国一律を義務つけるD郵貯、簡保には民間会社と同様な法令を適用というものである。綿貫、平沼、亀井ら37名の反対票が出たり、「刺客」選挙という週刊誌を喜ばせる椿事に満ちた劇場型選挙が演じられた。

経済財政諮問会議で高橋氏が本格的に担当したのは郵政民営化、中でも新しい民営会社のシステム構築であった。財政投融資改革により郵便貯金は自主運営になり、運用利回りは「ミルク補給」がなくなるため劇的に低下することが予測される。高橋氏が入った郵政民営化準備室には各省から優勢民営化反対派が続々送り込まれてくる。郵政民営化推進は竹中氏、高橋氏、高木氏に過ぎない、四面楚歌の状態であった。そこで竹中氏は民営化準備室は法案準備が目的で当面は開店休業だといってこれを無視し、基本方針作りは財政諮問会議特命室を核に進められた。つまり官僚抜きに基本方針が決められた。高橋氏の新会社システムはJRやNTTのような地域分割とせず、郵便貯金、簡易保険、郵便事業、窓口会社(郵便局)の四社分割になった。2004年9月10日、諮問会議から郵政民営化案をまとめた民間議員ペーパが発表された。官僚によって闇に葬られないように新聞にも同時に流された。この民営化基本方針をめぐって経済諮問委員会は竹中対麻生で紛糾したが、結局小泉裁定で日の目を見る事になった。基本方針の後は、郵政事業のシステム構築と将来収支のシナリオ書きである。郵政公社生田総裁は「三年も五年もかかる」といって難色を示したが、システム構築のシナリオを書かない事にはこの会社がうまく行くか失敗するか分らないでは一歩も前に進まないので、高橋氏に2、3ヶ月でシナリオ完成のお鉢が回ってきた。そこで加藤寛先生を座長とする専門家会議を立ち上げ、80名のシステムエンジニアー(SE)を相手に、高橋氏はプログラム作成からスタートした。そして全システムは1年半で完成する見通しが得られ、加藤氏から生田氏へ説明が行われて、了解が得られた。郵政官僚は民営化の流れを潰すため、公団から特殊会社というステップを踏んで民営化案を打ち出した。これは時間を稼いで政変を期待しゆり戻しに持ってゆこうとする策謀であった。官僚のやり口を知っている高橋氏は竹中、小泉氏に釘を刺して、特殊会社案を認めない事に成功した。2005年10月こうして郵政民営化法案は国会を通過した。この辺のいきさつを高橋氏は「財投改革の経済学」(東洋経済新報社刊)に書いている。

何に金を使うかという政策立案まで深く関ると官僚は道を誤る。官僚機構はあくまで執行機関で、決めるのはあくまで政治家であると高橋氏はいう。郵政改革と政策金融改革は、コインの裏と表の関係で、次に待っているのは出口側の政策金融機構の改革であった。「政策金融機関は残してもせいぜい一つ、原則民営化」という基本方針を経済財政諮問会議特命室はたてた。八つの政策金融機関はまさに財務官僚のステータスの高い、おいしい天下り先であった。財務省はこの甘い汁をなかなか手放さないだろうということは予測された。2005年10月の経済財政諮問会議で、中川経産省大臣、谷垣財務大臣は政策金融は必要だといって民営化に反対した。10月末の第3次小泉内閣組閣で与謝野薫官房長官が生まれ経済財政諮問会議を掌握すると、経済財政諮問会議は財務省や霞ヶ関のコントロール下におかれた。ところが奇策で有名な小泉首相・竹中氏は、自民党中川秀直政調会長に活路を求めた。党の了承なしでは法案は国会へ提出できないのである。小泉首相は党の方針を了承する事で、反対派に牛耳られた諮問会議の政策立案機能を停止した。改革の司令塔を自民党政調会へ移す、いわばパワーシフトをおこした。このときから小泉首相の周辺は霞ヶ関のコントロールが利いてきた。総理大臣には慣例として、財務省、経産省、警察庁、外務省から秘書官が送り込まれる。郵政改革では小泉首相は財務省とのパイプを使っていた。ところが改革がいよいよ財務省関係の政府金融機関に及ぶと、猛然と財務省の反撃がおき、与謝野官房長官が支配する官邸が官僚のコントロール下に入り改革の司令塔ではなくなり,反動の司令塔になったのである。そこで小泉首相は中川自民党政調会長に「小さな政府」を目指す指令塔役をお願いし、政府資産・負債・公務員人件費を半減する「三つのカット・イン・ハーフ」の国会通過に成功した。中川秀直政調会長らの「経済成長・小さな政府」派の政策優先順位は@デフレ克服A政府資産の縮小B政府歳出の削減C制度改革D増税という順である。かたや与謝野、谷垣らの財政タカ派は増税による財政バランスという「財政原理主義」に凝り固まっていた。そして2005年12月予算の「骨太の方針」であるシーリングを自民党が作り上げた。これは国家始まって以来の財務省権限をうばい、予算を政党主導で行うという快挙であった。郵政民営化がきまり総務省にはいった竹中氏は地方分権問題に取り組んだ。従来の補助金、地方交付税、地方税の三位一体に加えて、地方分権一括法、地方債自由化法、地方行政改革を用意した。これには既得権益を手放さない財務省の反対が予想される。「地方自治体に任すとどうなるかわからない。地方は赤字で経営能力はない。国税は最高の頭脳集団である我々が配分を決める」というのが中央官庁の本音である。この竹中プランは小泉政権では時間が足りなかった。安倍政権にもちこされ「地方分権改革推進員会」の仕組みは出来た。今後の課題となった。

埋蔵金と安倍改革ーキャッシュフロー分析と埋蔵金、公務員制度改革、消えた年金問題(2007年10月ー2008年)

2007年11月末自民党の中川秀直元幹事長が特別会計の準備金を指して「国民に還元すべき埋蔵金」と呼んだことから霞ヶ関埋蔵金論争が勃発した。真っ先に反論したのが自民党財政改革研究会会長の与謝野前官房長官と谷口政調会長である。11月21日に財改研は「中間とりまとめ」でそんなものはないと否定したが、自民党総務会では取り上げるところとはならなかった。いまや自民党の政策は政調会から最大派閥清和研に移っていたのである。小泉政権が誕生してからパワーシフトは三回起きたといわれる。政策決定権が第一回目は霞ヶ関から官邸経済財政諮問会議へ、第二回目は諮問会議から中川政調会長へ、第三回目は政調会から清和研へと動いたようだ。与謝野氏と谷垣氏がその後を追って権力位置に就任するたびにパワーシフトがおきて、権力中枢は移動している。小泉氏の変幻自在なしたたかな権力操作である。経済成長派と財政タカ派の構図で見ると、中川秀直氏と与謝野薫氏の激突である。埋蔵金論争は財務省が財政融資特別会計の準備金10兆円を取り崩すということで決着した。財務省は来年度予算修正と埋蔵金をバーターにしたのである。それで財務省のダメージを軽くしようとした。

特別会計については以前から無駄使いの指摘が多かった。2003年有名な塩爺(塩川正十郎財務相)の「母屋(一般会計)でお粥をすすっているのに、離れ(特別会計)ではすき焼きを食べている」という発言があった。特別会計は政府特別事業のための会計で国会の審議を必要としない。2007年度の特別会計規模は約三60兆円、各会計間の重複部分を除くと実質175兆円、また国債返済のようにただ通過するだけの特別会計が79兆円あり、差し引き96兆円きぼである。これに対して一般会計は83兆円であるので、たしかに一般会計よりも大規模な予算が国会審議なしに行われているのは透明性が良くないといえる。高橋氏は剰余金を査定するため道路公団資産・債務査定で用いたキャッシュフロー分析をおこなった。特別会計で約45兆円の剰余金(埋蔵金)がある事がわかった。なかでも財務省の財政融資資金特別会計と外国為替資金特別会計が突出して、27.2兆円と17.1兆円であった。他には労働保険特別会計6.2兆円、国有林事業特別会計4.5兆円、空港整備特別会計2.3兆円、自動車損害賠償保障特別会計1.3兆円と合計14兆円を超える。前の二つを合わせて剰余金は60兆円近く存在する事が分った。その代り年金は殆ど破綻寸前であった。なぜこんなに剰余が生じたのかというと、財政融資資金についていうと、長年の低金利が有利に働いたためである。公金の運用は本来役所はリスクをとってはいけない。勝手に運用してリスクをとり、幸い低金利で剰余金が生じて時、その剰余金をひた隠しして、自分達で使途を決めるというのは道理に合わない。リスクを知らない官僚にお金を持たせてはいけない。一番危険なのは年金運用を株式に掛けていることだ。こうして5年間で20兆円の埋蔵金を財政健全化に投入される事が決まった。

まだ埋蔵金が隠されているのは独立行政法人であろう。なぜ独法に資産が隠されているかというと、独立時に政府資産を分離資産として嫁入り道具に持たせた ためである。その時の資産精査が甘かったのである。現在渡辺喜美行革担当大臣が独法改革に乗り出している。その資産を高橋氏が行うと約20兆円とでる。国のバランスシートが2005年に始めて作成された。財務省は「日本は834兆円もの債務を抱えている。これはGDPの160%になる」というように、財政危機を煽っている。ところがこの宣伝文句は資産を言わない詐欺である。なぜなら日本の資産は世界でも最高である。2005年のバランスシートでは538兆円の資産がある。すると純債務は約300兆円である。政府税調を務められた加藤寛先生も「日本は財政危機ではない」といわれている。財務省は国内向けには「財政危機」を主張し、外国向けには「日本は国債はすべて国内で消費しており、世界最大の貯金超過国で、経常収支黒字国で、外貨準備高も世界最高である。」と財政の健全を謳っている。2007年10月経済財政諮問会議の試算では2025年には消費税を17%に引き上げなければならないといっている。これは財政タカ派の「初めに増税ありき」の論理である。大体18年間のマクロ経済モデルの長期計算は長すぎて意味を成さない。せいぜい5年程度しか予測は出来ない。そして採用した数値はでたらめである。名目経済成長率は最低値を用い、25兆円の財政赤字を設定している。これでは話にならない。なぜ25年先まで計算したかというと、今の金利が成長率と同程度なので、赤字幅が少ないため累積効果をだすために25年も掛けているのである。年金などでも良くやる計算テクニックで、パラメータを変えればいくらでも赤字になる。政策前提で計算しているに過ぎない。

ここ数年日本経済は拡大し、税収も拡大している。名目成長率の拡大が財政収支の改善に役立った。2002年度のプライマリー収支は28兆円の赤字だったのが、2007年の収支は約4兆円の赤い字幅に縮小した。小泉内閣の目標であった2011年度目標のプライマリー収支ゼロに近づいている。自民党内経済成長派は名目成長率4-5%を目指している。日本の名目成長率が欧米に較べて低い水準なのは、日銀の超デフレ政策のためでると高橋氏は主張している。経済成長こそが財政再建の道であるとする経済成長派に対して、財務省タカ派は経済成長は金利の上昇を招いて財政再建を後退させるという。財政原理主義といわれる由縁がここにある。低収入の国民から増税をとって大きな政府を目指す財務省は、国民の利益から乖離しているのではないか。

2006年9月小泉政権は退陣した。竹中氏は大臣と議員を辞任した。安倍政権で経済政策ブレーンに加わるため、「官邸特命室」のスタッフに高橋氏は入った。高橋氏以外にスタッフになった9名は全部が各省庁の推薦であった。中川幹事長を初めとする公務員改革の機運が盛り上がり、佐田行革相と高橋氏はこの改革に取り組むことになった。太田大臣が担当する経済財政諮問会議の場において、2006年12月7日「公務員制度改革」の民間議員ペーパーが公表された。骨子は年功序列制の廃止(能力主義の採用)、各省庁斡旋による再就職(天下り)の禁止である。この諮問会議で激しく反対したのは尾身財務相、甘利経産相であった。多くの大臣は役人を代弁し、旧来システムを守る側についた。12月27日政治資金収支報告書虚偽記載問題で佐田行革相が辞任し、渡辺喜美氏が行革相になった。渡辺氏は行革相就任挨拶で官僚の秘書官からメモを受け取らず記者会見を行った。渡辺氏は公務員制度改革と独法改革を自分の意志で行う態度を鮮明にしたのである。そこへ安倍内閣潰しに策謀が渦巻いていた。石弘光さんの任期切れで税調会長になった本間会長のスキャンダルが財務省筋からリークされた。財務省よりの石さんから、成長路線派の本間氏になったのを喜ばない財務省の陰謀であった。まさに安倍内閣改革路線は誕生等当初から、激しい官僚の閣僚つぶし戦術におあって沈没寸前であったようだ。安倍首相は事務次官会議ではねられた公務員制度改革議案をとりあげて、閣議にかけるという前代未聞の快挙をおこなった。このことが官僚の総反発を招いた。安倍首相はまさに霞ヶ関を排除して政治主導の政策決定を目指した歴史的な快挙であったはずだが、新聞は一切報道しなかった。当時新聞は人材バンクは天下りの一変法に過ぎないと云う民主党の宣伝に乗っていたためである。

2007年2月民主党は社会保険庁に約5000万件の不明な年金記録があると指摘した。年金問題は国民の怒りを買ったが、ただ事務処理問題と考えれば対応は簡単である。高橋氏は社会保険庁を最低の能無し組織だと決め付けた。コンピュータプログラムの作成から運営、インップット作業、点検作業などすべてをNTTデーターと日立に任せて、一切仕事をしない社保庁の役人をこき下ろすのである。年金データ問題は何回も取り上げて解説しているのと、高橋氏は直接関係していないのでここでは取り上げない。要は人間は間違いを犯すものだが、それを検証するシステムが正しく機能しておれば防げた問題である。やろうとしなかった社会保険庁は最低の組織である。財務省などの政策の間違い以前の問題であると手厳しい批判を下した。

安倍首相辞任については木下英治著 「福田vs小沢 大連立の乱」 徳間文庫に詳しく述べた。安倍前内閣の目玉であった首相補佐官制度は崩壊した。麻生は幹事長に、与謝野が官房長官となった。ここから麻生幹事長の「反小泉路線」が明確に示された。小泉が禅譲した安倍政権の膝元から「反小泉路線」、「郵政反対議員復党問題」が起きたのである。安倍政権は出発から麻生に牛耳られていた。安倍包囲網が首を絞めてついに9月12日安倍首相は自壊した。参議院で野党が多数派を占める状況では法案は通過しない。改革路線の推進も不可能となった。小泉政権の官邸主導も、昔の官僚主導も機能しない。残った竹中プラン、特別会計改革、独法改革など至難のわざである。渡辺行革相はそれでも特別会計のうち日本貿易保険は特殊会社へ、住宅金融支援機構と都市再生機構を数年後に見直すというのが精一杯の成果であった。福田内閣の下ですべての改革は足踏みしている。


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