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本田宏 編著 「医療崩壊はこうすれば防げる」

 洋泉社新書(2008年7月)

医療崩壊を引き起こした厚生労働省の医療政策を検証し、
医療現場から再建の道を探る八人の医師の提言

厚生労働省は本来は国民の命を守る機能を持たなければならないが、官僚は医療費削減を達成するために汲々として、高齢者や障害者といった社会的弱者を容赦なく切り捨てる政策を「粛々」と進めて恥じない。2008年4月からスタートした「後期高齢者医療制度」は75歳以上の人々から保険料を取り、診療報酬を改定して入院日数を制限したり、入院を抑制するものである。この制度は「姥捨て山政策」と呼ばれるのは当然であろう。(第1章) 救急医療を担う病院の医師不足に加えて、、患者の受け皿となる療養型病床の削減を推し進めている。(第2章) 現在地方では参加や小児科の閉鎖が相次いでいるが、 超過勤務で疲れた産科医師をさらに過誤で逮捕することで、医師に逃亡が始まり「立ち去り型サボタージュ」と言われる現象が目立っている。(第3章) これには医療事故に対する厳罰化が深く関っている。(第7章) 厚生労働省は1983年以来「医療費亡国論」を吐いて、医療費・医師数の抑制に邁進し、中曽根首相ら世界の潮流である「新保守主義」(サッチャーイズム)の手先に化した。現在住民あたりの医師数はOECD加盟国中でも最低であり、既に14-16万人不足している。(第4章) 厚生労働省は団塊の世代が後期高齢者となる2025年より医療需要は減り、今意志の数を増やすことは出来ないと防戦するが、1983年来続いた医師数の削減策は、人口問題と同じように短期の政策ではどうなる問題ではないが、ボディブローのように日本の医療制度を崩壊しつつある。数年前と違いマスメデイアは医療ミスで訴訟病院・医師に対してパッシング一辺倒だった姿勢を改め、医療崩壊をさまざまな媒体で取り上げるようになった。財務省主計官の言によれば、公共工事を削ると政治家や業界の反発がものすごいが、医療費削減では抗議する人がいない。だから医療費削減はやりやすいそうだ。ところが2008年には政治の場でも「医療現場の危機打開と再建を目指す超党派国会議員連盟」(会長尾辻秀久)ができた。2008年5月舛添厚労相は医学部定員を見直し、マイナスシーリングを止めたいと表明した。医療崩壊を食止めようとする動きがすこしづつ始まっている。

医療崩壊に関する取り組みの状況は、下の機関のホームページに詳しい。関心のある方は是非アクセスしてみてください。
「NPO法人医療制度研究会」ホームページ
「現場からの医療制度改革推進協議会」ホームページ

1、「後期高齢者医療制度は即刻廃止に」 澤田石順 (鶴岡温泉病院回復期リハビリテーション病棟)

2006年4月の朝日新聞に免疫学者多田富雄氏の「リハビリ中止は死の宣告」という投書記事が出た。氏は2001年脳梗塞で倒れリハビリを受けていたが、医師から「今度の診療報酬改定で脳梗塞の後遺症患者は発生から180日を上限として打ち切りになります」という通知を受けた。身体機能の維持は寝たきり老人を防ぎ、リハビリは生命の維持に欠かせないので、それに逆行する厚生労働省の通達を患者の立場から批判するものであった。疾患別のリハビリ日数の制限(脳血管疾患で最大の180日)は、リハビリを受けている患者の平均年齢が75歳以上の後期高齢者であるので、今回の通達は後期高齢者を狙い撃ちした病院追い出し政策である。2008年4月から「後期高齢者医療制度」が導入され、診療報酬改定により事態はさらに悪化した。診療報酬改定は国会の審議事項ではないため、厚労省にとって極めて安易な行政指導による誘導策が可能である。厚労省は自宅退院率が60%以上なら施設に報酬点数をつけるという極めてせこい誘導策を行っている。リハビリ施設に早く患者を追い出したらお金を上げますというものだ。著者はこれに対して、2008年3,4月に「重症患者と後期高齢者のリハビリ日数制限差し止め」の二つの行政訴訟を起こした。

厚労省の「後期高齢者医療制度」の狙いは云うまでもなく、保険料徴収増加と医療費削減効果を狙ったものである。国の財政立て直しに連動して特定の国民(とくに弱い立場の高齢者)に対する医療支出削減を試みる国は、もはや政府機能を財界に売り渡したのと同じ事である。この制度に関する官僚の言い訳は嘘のオンパレードである。後期高齢者の「かかりつけ主治医制度」は、一見イギリスの制度を模倣しているようだが、月6000円以上の医療費支出しか認めない。これでは必要な治療・検査は別会計になる。さらに「後期高齢者診療計画書」に連携先を書きこむ欄は裏づけなしの「連携先」であって、裏返して云うと主治医と連携機関以外の診療を認めないことである。これは後期高齢者の囲い込み、固定化・閉鎖になる。後期高齢者医療制度の基本原則は、
@治療が長引けば日数制限をする。
A重症患者と認知症患者の入院を制限し、早く病院から追い出す。在宅治療に換える。
B一人当たりの診療報酬を定額にする。複数の診療機関の治療を受けにくくする。
C救急病院に入院した場合、他の保険医療機関に転院できにくくする。
D延命治療を拒否する文書に署名させる病院に報酬を払い、終末期治療を行わない。
という厚生労働省の「姥捨て山政策」である。厚生労働省のきれいごとの答弁の裏には、後期高齢者を社会のお荷物と見て、社会的負担から除外してゆくのである。しかも病院に対しては報酬という誘導策をおこなう冷酷非道なやり方である。

2、「救急車たらいまわしの解決策」 有賀徹 (昭和病院脳神経外科・救命救急センター)

産科医院の「救急車たらいまわし」という現象は2006年度より急増している。救急患者の受け入れを断る理由には@「処置中」で対応できる医師がいないことA「処置困難」で設備不足、専門医不足で対応できないことB「ベットが満床」で受け入れ不可能なのである。救急病院からの受け皿である普通の病院や療養型にオ病院が極端に少ない。病院の数を人口10万人あたりで見ると首都圏・大都市では少なく、地方では多いという構造がでてくる。このベット数の不足という現状を無視して、厚生労働省は2006年に医療型・介護型病棟のベット数を削減する目標を立て、2012年度に現在の療養型38万床を15万床に削減するという政策を打ち出した。救急病院の医師の勤務時間は週平均56時間(非救急医師は45時間)で労働の限界を超えており過労死が心配される。

著者が座長を務める総務省の作業部会「緊急医療情報システム」では、この救急医療の解決策として、
@電話ではなく、パソコンでの「医療情報システム」の構築を全国へ普及させる
A現場での「トリア-ジ」と看護婦の電話でのトリアージによって、必要ない患者の病院搬送を廃止する
B病院と地域診療所の「病診連携」で、開業医の輪番制緊急医療参加、ボランティアでなく報酬制度の確立
がキーワードになるだろう。小児科などの不良採算部門に市場原理を持ち込めば医療崩壊になる事は明白である。

3、「産科の崩壊を防ぐ現場の提言」 桑名千鶴子 (東京医科歯科大学産婦人科)

人口10万人あたりの母体死亡は、世界が400人に対して、日本は5人と世界一の安全性を確保した。これは戦後助産所(産婆さん)から診療所・病院での出産管理(母子手帳)になったおかげである。これが逆にお産に失敗はないという世評を生んで、「大量出血による死亡」の危険性を無視して、事故があれば医者のミスによる死亡事件として訴訟になる場合が増えた。福島県立大野病院での「胎盤剥離」という事態を一人の医師で処置できず死亡に至った事件をマスメディアが捉えて報道したため警察が出ざるをなくなって医師が逮捕された。お産はもともとハイリスクなのである。こうして産科医が医療現場から立ち去る「立ち去り型サボタージュ」が発生し、産科の閉鎖という医療崩壊につながった。産科医療崩壊の原因として@医師の長時間勤務と低賃金A医療訴訟の増加と警察の介入B「モンスターペイシェント」というクレーマーの増加である。

この産科医療崩壊の解決として、医療側、患者側の真剣な取り組みが必要になる。
@妊娠しても産科を受診せず、出産直前になって救急車で搬入されるケースではきわめてリスクが高い。若い母親の認識を改めないといけない。母子手帳やかかりつけ医師のカルテには重要なデータが記入されている。データなしにいきなり出産では危なすぎるのである。
Aハイリスク出産、超低体重出生児、高齢出産など赤ちゃんに障害の起きる率が高くなっている。全国の周産期センターの増設、NICU(集中治療室)のベット増設が必要である。2008年度の診療報酬改定では確かに産科・小児科に加算がついたが、与えられたパイの中での配分に過ぎず、医療費全体の増加にはならない。厚生労働省の発言力は財務省では非常に弱いらしい。
B女性医師の待遇改善は周産期医療の建て直しにつながる。病院の育児インフラの整備が必要である。

4、「医師不足・医療不在の地域医療を守れ」 樋口紘 (岩手県立病院・日新堂八角病院)

病院から医師が立ち去ってゆくことが全国自治体病院の医療崩壊現場である。医師の絶対数不足のうえに地域偏在と診療科偏在が地方病院に圧し掛かる。医療が万民にあまねく行き渡ることは、「経世救民」の思想ではなかったのか。「一県一医科大学制度」はその思想の具体化であった。ところが地方医大に都会出身者が入学して去ってゆくのでは、地方の医師確保は困難である。全国自治体病院で医師が不足していると答えた病院43%で、とくに地方では不足感が大きい。北海道は77%、東北は66%、北陸・信越は65%である。病院勤務医師の勤務時間は週70時間である。これを普通の業種の勤務時間にするには医師の数は今の3倍は必要となる。自治体を預かる総務省は自治体病院赤字対策として診療所への転換を進めているが、経営効率化のために病院を診療所化したら、厚生労働省の診療報酬は半分以下になった。人口が少なく地域医療は地方自治体病院が担っている。経済原理で病院経営を追求したら、地方病院は破産宣告するか、撤退すべきであろう。

どうして医師の数が不足したのだろうか。その原因は1986年中曽根内閣の時に、1995年までに医師の新規参加を10%削減するとして、医学部入学定員を削減したからである。また厚生労働省は1983年以来「医療費亡国論」にみるように、医療費削減を国家目標に掲げたからである。国民の健康を守るために医療制度を推進するのが使命であるはずの厚生労働省が、医療制度の改悪に邁進したのだからたまらない。日本の医療制度は崩壊の危機に瀕しているのは当然である。地方病院にとって医師不足に追い討ちをかけるように、「新研修制度」により大学病院もピンチになったため地方病院jから派遣医師を引き揚げたことである。2006年度、現在全国に973ある自治体病院の79%は赤字になっている。2007年11月に総務省は「公立病院改革ガイドライン」をまとめたが、これらは経済財政面での経営合理化評価であって、根本解決策ではない。

地域医療を崩壊させないためには、
@国は医師数を増加させること、そのために医療費(31兆円)の増加を認めなければならない。潤沢な公共事業費(50兆円)を削減する事である。
A国による医師配置体制、偏在の解消
B勤務医の過重労働の解消
C経営改善
D住民の強力 医師の労働環境改善のため救急以外は通常時間受診を

5、「高齢者医療・介護病床削減に取り組む」 安藤高朗 (永生病院)

厚生労働省は2006年に医療保険型・介護保険型病棟のベット数を削減する目標を立て、2012年度までに現在の療養病床38万床を15万床に削減するという政策を打ち出した。療養病床とは「主として長期にわたって療養を必要とする患者さんを入院させる病床」であって、不要不急の入院患者が何もしないで社会的入院をしているのでない。この社会的入院患者を追い出して老人保健施設・特別養護老人ホームの施設や、在宅介護を利用させれば、医療費が削減できると厚生労働省は期待した。これは医療費から介護への立て替えにすぎない。支払う保険が医療保険から介護保険に変わるだけである。同じ厚生労働省扱いである。担当者が違うだけだ。そして老人保健施設・特別養護老人ホームの入所待ちは3年以上は必要である。これでは追い出された老人は路頭に迷う。この発端は2005年度郵政選挙後に小泉純一郎政権が打ち出した医療制度改革にある。2006年には史上最大の診療報酬引き下げと医療制度改革関連法案をどさくさに紛れて殆ど無審議で衆参両院を通過させた。これについては民主党の取り組み姿勢にも大いに問題があった。厚生労働省には国民の健康と生活を守る使命・機能があるはずだが、財政諮問会議や財務省からの圧力に態もなく屈して、最初から「削減ありき」の財政至上主義で「医療改革」(改悪)を進めたのでは、国民の健康は守れない。

療養病床38万床から15万床に削減するという政策は、最初からデーターを捻じ曲げて解釈し、医療の必要性はないのが50%、介護入院を必要としないを30%と強引に読み替えている。官僚の悪智恵にはいつも舌を巻く。白を黒と言い換える事を恥とは思わないらしい。この削減で厚生労働省は約3000億円削減できると見積もった。約33兆円の国民医療費を3000億円削減しても0.1%に過ぎない。効果の割合に対して被害は甚大である。官僚の頭にはイギリスのサッチャー首相の医療改革が下敷きにあるようだが、サッチャーの新保守主義政策により医療費削減と市場原理主義によって、医療は荒廃し医師不足と診察待ち時間が1年以上という事態は正常な医療制度ではない。日本の現医療制度こそ世界の先進国は見習うべきであるのに、なぜ悪例を真似するのだろうか。どこまで悪くすれば国民の怒りが爆発するかどうかを量っているようだ。2006年度からスタートした療養病床の削減で,介護型療養病床を退院させられた患者は何処に言ったかというと、40%は自宅療養へ戻され、43%は一般病棟、医療型療養病床など、15%は老健施設・特老施設などに転院した。病院の50%が療養病床を持つ「ケアミックス病院」であり、実は療養病床で経営は息をついで来たのである。この療養病床は削減されたら病院の経営は益々苦しくなる。介護難民を防ぐには一つに医療型療養病床を増やす事、第二に転換型老健施設の医療機能を高める事と必要な報酬が確保される事である。

6、「小児科医療崩壊を防いだ地域の取り組み」 和久祥三 (兵庫県柏原病院)

著者の勤務する兵庫県立柏原病院は、丹波篠山の基幹病院である。2007年度から起った小児科を守る市民運動は「小児医療の再生モデル」と評価されている。筆者が研修を終えて赴任した1994年当時の柏原病院は活気に溢れた病院であった。他の病院に移って2004年に再度この病院に戻ってきた時、恐ろしく暗く、医師の疲労はピークに達していた。当時柏原病院は「全科対応型」の一人当直制であった。また丹波篠山の医療圏には基幹病院がほかに二箇所あった。日赤病院と兵庫医大篠山病院であり、他に私立病院や診療所もあって人口11万人程度に対しては恵まれた医療環境であった。ところが何処の病院も小児科の医師が不足しており、2006年丹波地区全体で小児科医は4名に減少した。そこで3病院の「丹波小児科輪番方式」と「アクセス制限」に踏み切った。県主導で丹波地区小児科医集約がおこなわれたが、時既に遅しで医師数はさらに二人に減少し、殆ど地区の小児科は崩壊したようナ状態になった。そして日赤病院は小児科から撤退した。2007年柏原病院も小児科医師が一人になって、産科も分娩受付を中止した。

分娩受付の中止の記事が出た2007年4月、子育て中の母親らが「兵庫県立柏原病院の小児科を守る会」を立ち上げたのである。常勤医招聘の署名運動が展開され、会は保険局長に面会したが常勤医の確保は難しいとの返事であった。会は市民に向って、コンビニ受診はやめよう、かかりつけ医をもとう、お医者さんに感謝しようと呼びかけた。すると時間外受診の数は2005年に月あたり150-200件あったのが、2007年には50件以下に減少した。2008年1月舛添厚生労働大臣より「地域医療崩壊を食止める大きな運動です」と感謝メールが届いた。しかし医師不足の現状は改善されたわけではないので、とても成果があったと手離しで喜べる状況ではない。病院全体の医師数は6年前の半分に減り、12あった診療科も2008年7月には5つになる。地域の医療は形骸化して、患者は丹波圏外へ逃げ出している。

7、「医療紛争の解決策」 上昌広 (東京大学医科学研究所 ヒューマンネットワークシステム部門)

2006年2月福島県立大野病院産科医師逮捕事件を契機に司法と医療問題の議論が起った。医師法21条の「異常死」には、「診療関連死」は含まれない判断であったのが、2000年医療事故報道を受けて厚生省は国立病院マニュアルに「診療関連死を異常死に含める」とした。つまり警察に届けなければなない。2004年都立広尾病院事件の最高裁判決では診療関連死を異常死に含めるとした。これがメディアを介して「医療不信」に増幅された。2007年4月から8月にかけて厚労省検討会が行われ、10月には第二次試案が出され、届出と行政処分を柱とする医療現場の厳罰化・統制(お上の威令の前に医者がひれ伏す)制度であったので医療現場は猛反発した。医療事故調査委員会をめぐって、政治家、学会などの意見を入れ表現を柔らかくした第3次試案が2008年3月に出された。これには舛添厚労大臣、民主党、ITメディアの働きがあったからである。しかしそれでも基本的には問題はある。第1に医療事故調査委員会が設立されても警察の介入はなくならないことである。第2に厚労省が調査権と処分権を併せ持って、正しさを国家が判定するのだと云う国家統制が貫徹する。官僚は権力を持つ事を最大の目的としている動物である。第3に処分を前提とした調査は不利益処分となる。航空機事故では罪を問わない事を前提とした調査会が常識である。誰も殺そうと思って業務を遂行しているわけではない。第4に自己保存の官僚論理が働いて、書類は事故調から警察、検察へ腫れ物を見るが如く官僚の手で流される。制度が責任追及の結果をもたらすだろうことは火を見るより明らかである。第5に民事訴訟につながる事である。無過失補償制度の確立が求められる。持続可能な医療システムを構築するには、医療の適切な情報公開、関係者の合意形成が必要不可欠である。日本の医療が従来の官僚主導の統制システムで破綻することにならない様に、国民的議論が必要である。

日本の医師数は世界最低水準にあり、医師には過重な労働がかかり過労死寸前である。欧米の2倍以上の労働時間である(週70−80時間)。医師不足が新聞で取り上げられるようになったのは2003年である。医師過剰が議論されたのは1975年から2000年の25年間である。そして医者の数を増やすと医療費が増大するという「医師誘発需要説」がまことしやかに議論された。この説は1983年の実証調査で完全に否定された。当時厚生省吉村仁次官が「医療費亡国論」を吐き中曽根首相のもとで、医療費の削減と医学部定員を7%削減した。1997年医学部定員削減に関する閣議決定、2002年小泉内閣による医療費・福祉予算削減へ流れた。「医師誘発需要説」は医療経済学者の間では完全に否定されているのかかわらず。予算削減が目的で理由なんかどうでもよかったらしい。

厚生労働省は医師不足の現状を「現在でも毎年4000人づつ増えているが地方の病院で医師不足が生じているのは、医師が都会に集中するためだ」という「医師偏在説」を主張している。しかしこの説明は不十分である。なぜなら医師のキャリアーを考えると、40台半ばまでは中核病院の勤務医として病院でキャリアーをつみます。40台半ばになると医師は市中病院の管理職や開業医として第二のキャリアーパスを歩みます。そして医療の高度化は高度の専門医の連携で成り立っているので、病院には多くの専門医が必要なのです。したがって45歳以下の医師数は定常状態で、増えているのは壮年以降の開業医なのです。「開業医は毎年4000人づつ増えているが、勤務医不足は解決するめどはたっていない」と云うべきです。

8、「日本医療の生き証人、高岡先生に聞く」 本田宏 (済生会栗橋病院外科)

1993年出版の「病院が消えるー苦悩する医師の告白」(講談社)の著者 高岡善人氏を本田宏氏が訪問しインタビューした記事である。高岡氏は93歳の高齢(2008年)で、2007年5月に発見された胃がんの治療を拒否して在宅ケアー中である。高岡善人氏は「老医の遺言」のつもりで本田宏氏のインタビューに応じたという。まず戦後の医療行政の歴史から回顧された。戦後の医療は開業医の自由診療制度に頼っていた。医師大村潤四郎が厚生省に農村医療の窮状を訴えていた。厚生省でも保健医療制度の導入を考えていたので大村潤四郎氏を厚生省に招き入れ、1948年「診療報酬支払い制度」がスタートした。こうして全国に保険診療が普及していったのである。また池田隼人首相が医療費を上げない代わりに「医師優遇税制」を導入した。収入の28%に課税するという開業医の基盤強化策で、町の医療施設や診療所は充実して、国民の健康管理、乳幼児死亡率低下などに大いに貢献したといわれる。これが今日の低い医療費のもとになった。日本は世界で一番安い医療費で、一番高い医療を受けられる高度医療国家となった。当時の政治家、厚生省は見る目があったといえる。

ところが、1983年より「医療費亡国論」を厚生省保険局長が唱えだしてから、日本の医療は急速に崩壊の道を辿る事になった。一貫して医療費抑制政策、医学部定員削減策がとられ、世界一の医療福祉国家が、政官財界の圧力で国家財政削減の尻拭いの対象にされたのである。厚生省には強力な族議員は少なく、予算取りが下手である。国民の健康を守るという使命を楯にがんばれる官僚が少なく、財務省から予算削減の目標だけを押し付けられて四苦八苦しているのである。1970年の大学紛争は東大医学部無給インターン制度闘争に端を発したものだが、文部省や大蔵省は給料支給に難色を示したが、田中角栄や福田赳夫の線から交渉すると成功し、無給インターン制度は1968年に廃止された。政治家を通じて官僚を動かすのが王道である。官僚に直接交渉しても、鼻であしらわれるだけである。「赤字財政だから医療費増加は不可能である」というマイナスシーリング論は実は穴だらけである。大蔵省のどんぶり勘定は有名な話である。道路など公共工事には使いきれないほどの予算をつけ、余った予算は膨大になって「隠し金蔵」(埋蔵金)が50兆円以上になっている。要するに何処に金を使いたいか、使いたくないかという問題である。それは政治が優先順位を決めるのである。政治家が医療問題に関心がないことが最大の問題である。これではいつまでも削減対象にしかならない。小泉純一郎元首相は医療には全く無関心か素人であった。彼が医療崩壊を加速した責任は大きい。


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