080617

今西錦司著 「生物の世界」

 中公クラシックス(2002年5月)

棲み分け理論からダーウインの自然淘汰進化論批判まで 行動の思索人

今西錦司氏(1902-1992)の略歴を紹介する。日本の生態学者、文化人類学者。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士(京都帝国大学、1939年)。京都の織屋「錦屋」の生まれ。戦前は生態学の「棲み分け理論」を発表し、かつ山岳探検やモンゴルなど野外調査隊を組織して活躍した。第二次大戦後は、京都大学理学部と人文科学研究所でニホンザル、チンパンジーなどの研究を進め、日本の霊長類社会学の礎を築いた。京都文化人の一人で文化勲章受章者でもある。毀誉褒貶の大きい人間的振幅の大きな人であった。

本書の冒頭に、国立民族学博物館名誉教授である松原正毅氏の筆による「遊行する思索者ー今西錦司の軌跡」という今西氏の学問的・人間的足跡を追う文章を寄せられている。松原正毅氏は1942年生まれで、京都大学文学部卒で1975年から30年間国立民族学博物館の研究者であったので、梅棹忠夫氏らと同じく今西錦司氏の弟子筋に当ると思われる。今西錦司氏を、一つは野外研究のパイオニアとして、2つは組織のオーガナイザーとして、3つはダーウインの自然淘汰学説に反対する進化学の提案者として追慕されている。

今西錦司氏は少年時代から昆虫採集と登山にのめりこんでいった。1925年第3高等学校を卒業し、京都大学農学部農林生物学科昆虫学教室に入学した。氏の登山好きは生涯世界の1552座に登頂するだけでなく、京都北山登山をこよなく愛したという。彼の山好きは修験者のような厳しさを備えた求道の行為であったといわれる。今西氏の学問、思索は実はこの山行や遊行の中から生まれたようだ。1932年30歳の時、南樺太東北山脈を踏査する。1931年京大山岳会を設立しヒマラヤ登山計画を練り始めていたが、1934年京大白頭山遠征隊隊長として、現北朝鮮の白頭山に出かけた。1936年京大山岳部木原均を隊長とするヒマラヤK2遠征計画を立てるが、日中戦争の勃発で中止となった。1938年木原均を隊長とする京大内蒙古学術調査隊は5000キロの行程を踏破した。1938年京都探検地理学会を組織して今西氏は幹事に就任した。京都大学理学部・農学部・医学部・文学部と東方文化研究所の関係者が中心になった。京都探検地理学会は1939年北支蒙彊調査計画、イラン遠征計画、1940年にはニューギニア探検計画を立てたが、戦線拡大のため実現しなかった。太平洋戦争勃発にもかかわらず、1942年北部大興安嶺探検計画を梅棹、川喜田、吉良、藤田らと軍の支援を受けながら実行した。1944年内モンゴル張家口にできた西北研究所所長として赴任した。石田、藤枝、中尾、梅棹ら10名の所員で構成され、後の人文科学研究所のように幅広い学際研究を志したが、1年3ヶ月で敗戦を迎え帰国した。これらの遠征計画は学術調査であったが、行く先はすべて日本軍の進出先(侵略先)であった。軍の支援なしでは実施は難しい。かっての大英帝国の植民地進出に歩をあわせた博物学の研究に似たところがあるのは、時代のしからしむところである。今西氏の経歴で面白いのは、長い無給講師時代である。農学部を卒業し、理学部大学院を卒業して1932年理学部講師になったが無給であった。1939年(37歳)に興亜民族生活科学研究所員になって4年間は給料を貰ったが、1948年ようやく有給の理学部講師になった。49歳まで無給であった。どうして生活していたのか。よほど親に財産があったのだろうかと余計な心配をしてしまう。もうひとつの今西氏の面白いところは教授になった歳が遅すぎることである。1959年京大人文科学研究所教授になったのが57歳であった。1965年に京大教授を退官するまで6年しか残っていなかった。全く世間体を意にしない、漂泊の研究者であったようだ。恐らく野外研究が中心だったので、大学には居なかったのであろう。人事は何処吹く風のように無頓着であった。今の世知辛い、肝っ玉の小さな研究者では測り知れないスケールを持った研究者であった。すべては束縛からの自由には替え難い心意気があったのだろう。

今西氏は戦前には京都学士山岳会や京都探検地理学会などを組織し、人と金を集め事業計画を立てることに抜群の才能を示したらしい。今西氏の戦後の組織つくりと業績・人脈を拾って行こう。1948年自然歴史学会を組織した。戦前の京都探検地理学会を継承する会であった。会報誌「自然と文化」を発行し1952年まで続いた。宮崎県都井岬で半野生馬の調査には河村俊蔵氏、伊谷純一郎氏を同行し、馬の個体識別の方法を採用し動物社会学的アプローチをおこない、さらに徳田喜三郎氏らと野生ニホンザルを調査して霊長類学研究がスタートした。1951年霊長類研究グループを作り、宮路伝三郎教授をヘッドに、今西、河村、伊谷、徳田、河合雅雄氏、間直之助氏らが中核メンバーとなった。このころ「生物誌研究会」を作りネパール学術調査を計画した。未踏峰のマナスル登頂を目標にしたヒマラヤ遠征計画が立てられた。木原均農学部教授、西堀栄太郎(南極探検で有名)が現地と交渉しネパール国王の快諾を得て、日本山岳会を中心としたマナスル登山隊を結成した。1952年今西氏は偵察隊長としてネパールにゆき情報を集めた。1956年第3次登山隊(槙有恒隊長)が登頂に成功した。1955年生物誌研究会を中心にカラコルム山脈学術探検隊(木原隊長)が実行された。1956年犬山に財団法人「日本モンキーセンター」が発足した。1958年日本モンキーセンター第1次アフリカ類人猿ゴリラ学術調査隊が今西、伊谷によって第3次まで予備調査が行われが、コンゴ動乱で中止となりチンパンジーに切り替えて、1961年から第1次京都大学類人猿学術調査をタンガニカに派遣された。今西氏が隊長であった。1962年にはカボゴ基地を設営し、1964年第3次調査隊まで参加した。1962年には京大理学部の中に自然人類学講座を創設して初代教授になった。1967年には犬山に京大霊長類研究所を創設した。これは今西氏が京大を退官した2年後の事であった。

本書の内容に入る前に、今西氏の生物学、特にダーウインの進化論批判を見て行こう。今西氏は「日本渓流におけるカゲロウ目の研究」によって理学部博士の学位を得て、1940年に「生物の世界」を書き上げた。時は日中戦争の戦線拡大と太平洋戦争への危機が近く迫っており、何時召集されてもおかしくない時期に遺書の意味をこめた「自画像」として書いたと今西氏はいう。本書は生物学の専門書というよりは、思索の書、思想哲学の書といえる。根源的な意味で世界と人間をとらえる知的活動であるからだ。その世界観は「この世界を構築しているすべてのものが、もとは一つのものから分化発展した」と云う世界観である。無生物的構造が生物的構造へ変わるということが、無生物から生物への進化であった。「我々の世界とは、そこで万物が存在し且つ万物の変化し流転しつつあるこの空間的即時間的な世界である」。そこで世界に存在する万物を捉えるには、類縁関係の正確な把握が必要である。「相似と相異」を全体的にみなければならない。そして生物の「構造」、生物の主体に対する「環境」、類をもって集まる「社会」、その「歴史」を考察してゆくのである。今西氏が人生の後半にかけて力を注いだのは進化論の展開であった。なかでもダーウインの進化論の批判的再構築が試みられている。自然淘汰説に反対し、「進化が偶然なら生物は生きる意味が無い、環境に順応し種全体がともに進化する共進化の機能が生物の多様性を支えているのである」と説明する。「変わるべくして変わる」という、この種全体がある方向へ一度に進化すると云う考え方には現時点では否定する遺伝学徒は多い。今西説については賛否両論が多く(むしろ棄て去られたと云うほうが近い)、私自身では判断はつかないので、ダーウイン自然淘汰学説批判にはあまり深入りしない。1983年今西氏は「自然学の提唱」において、「自然科学との決別」、「自然科学者廃業宣言」をした。生涯を野外(フィールド)で生きて、目的は自然を知ることであるなら、自然科学などは手段に過ぎない。「この世界において生起する諸現象についての、検証可能な普遍的法則の体系である」自然科学は学問の一部であるが、すべてではない。今西氏は全体的に自然を捉えるためには、直感や類推と云う方法論が重要であるという。今西理論の屋台骨は「生物的自然には秩序があり、それ自身に備わった三重構造が存在する。個体、種社会、生物全体社会である」ということで、最も論点の核をなすのは「種社会」であり、「種は単に個体の入れ物ではない。概念でもない。種社会は認識可能な実在物であり、主体性を持っている。種社会の中の個体は種社会に対して帰属制をもち、常に自分の帰属する種社会の維持存続に貢献している」という。この帰属制という概念が、体制維持的、身分維持的とみなされ、政治的には今西氏を保守反動派と呼ぶ向きもある。種とは生物的には「交雑(生殖)可能」ということであり、猫と犬が交雑しない事である。そういう意味では人はまとめて同一種であるが、国家、民族というくくりでは激しく相手を攻撃しあう種で、これを生物的種社会といえるのか大いに疑問である。今人類は地球世界では支配者となった。かって爬虫類が滅びたように、自然と生物の世界から学ぶ努力が絶えた時、人類の種社会は自己完結をみることなく滅びる可能性がある。

今西氏は本書の構成について、「相似と相違」、「構造について」、「環境について」の3章は自分の専門外で、第4章「社会について」のための序をなすものであるという。本書の中心は第4章 「社会について」つまり生態学の分野である。第5章 「歴史について」は検討不十分ではあるが、第4章を書いた筆の勢いで一気に書いたという。と云うことで、私も第4章 「社会について」を中心に見て行きたい。

第1章 「相似と相異」

我々の世界は色々のものからなる寄り合い世帯である。この寄り合い世帯を構成し、それを維持し発展させる上には、それぞれがチャンとした位置を占め、それぞれが任務を果たしているというのが今西氏の世界観である。それらはお互の間をなんらかの関係で結ばれている。その関係とは、無生物といい生物と云うのも、或いは植物といい動物というのも元をただせば皆同じものに由来すると云う根本関係である。この似たもの同士が、お互いに全く無関係に発生した偶然の産物とはどうしても考えられないのである。すると相似と相異と云うことは、元は一つのものから分かれたものの間にもともとから備わった一つの関係である。それを見分けるのは我々の認識そのものに備わった1種の先験的性質である。相似と相異は一応類縁という、ものの生成をめぐる歴史的な親疎、遠近関係である。そこに系統分類学が存在する。それはすなわち類縁関係のより正確な把握を意味し、それによってわれわれの類推をより合理的にすることである。我々は人間的立場から生物の世界を伺う唯一の方法は生物の生活や世界を人間的に翻訳(類推)するより道は無い。

第2章 「構造について」

世界はでたらめではなく、一定の構造を持った世界であると云うのが今西氏の確信である。形ある物が空間を占める事が物の存在である。生物は内部形態と外部形態と云うべき構造を持つ。生物体の構造とは生物が細胞から構成されると云うことである。生物と無生物を分かつ基準に、生物が細胞を構成単位にすることがあげられる。生物個体が一個の細胞から分化した多細胞統合体である事は発生学によって実証された。生物はさまざまな機能を発揮しうる構造である。組織や器官がそれに対応する。生物の構造は最初から出来上がったものはなく、有機的統合体である生物の構造とは生成発展するものである。生物が成長することはすなわち生きるということである。生物が死ぬと、解体によって無生物的構造に変わり無機物に還元される。生物は無機物からスタートして有機的統合体なる生命を得、死ねば又無機物に戻る元素の循環体系をなす。この構造と機能の一体化はもはや生物の原理にとどまらず、この世界を構成するあらゆる物の存在である。万物存在の根本原理であると今西氏はいう。今西氏の言は同じことの言い替えや繰り返しが多いのでまとめてみれば簡単で短くなる。最期に今西氏は生物の起源を偶然とする説を退け、無生物的構造が生物的構造に変わり、生物に進化したのだと云う。この世には命の無いものは無いという、いわば浄土宗の仏教観に到着した。万物の生命を認めるアニミズムや万物霊魂説に通じる。私のような科学の徒には、ちょっとそこまで行くと付いてゆけない。ただ生物の体を構成するのは元素であるから、無機物から生命が発生したと云うことは自明である。

第3章 「環境について」

この世界は物質的世界であり、その複雑な有機的統合体が生命である事は論を待たない。元素不滅の法則があり、この世の元素の変化した一つの形態が生命であるという論も成立する。生物は絶えず自らを作らなければならない。その生物的過程が滞りなく進行するには、外界(環境)から元素を絶えず取り込む必要がある。栄養とか繁殖とか云う生物としての根本的宿命が生命の特徴である。生物は生きること自体が目的である。この生物体と云う統合体が独立体系である(外界と区分されている)結果として、生物とその外界あるいは他の生物も含んだ環境と云うものが考えられる。生物は一人で完結して生きてゆけない。無限機械ではない。先ず生きるために食物が必要である。そして配偶者も見つけなければならない。それ自身で完結された独立体系ではなく環境をも包括した一つの体系を持つことで、そこに生物というものの具体的な存在のあり方が理解される。我々の消化器官は内臓ではなく外界の物を取り込む皮膚である。道具は手の延長であったように、生物自体が環境化しており、環境とは生物の延長である。中枢神経や感覚器官・筋肉などの運動器官は生きるために生み出された外界との接触器官である。こうして進化に助けられて、生物は自らの環境を拡大する方向に進んだ。環境の拡大とは認識できる世界の拡大であり、生きる生物の統合性や集中制を強化するためであった。運動能力の拡大で世界がずっと広くなり、食物を得る機会が増大する。主体的に環境を同化し世界を支配し、さら進化的に自己を環境に同化(順応)することが生物の特徴である。まとめると「環境とは生物が生活する世界であり、生活の場である。生物自身が支配している生物自身の延長である」ということができる。

第4章 「社会について」

生物の中に環境的性質が存在し、環境の中に生物的性質が存在することは、生物と環境が別々のものではない事をいうが、しかし生物が簡単に環境を変えられるということではない。今西氏は単純な環境決定論を退け、環境と生物の相互作用を主張するのである。植物の炭酸同化作用で地球の酸素ガス濃度が高まり、陸棲脊椎動物の進化が一斉に進んだことも生物の環境への働きかけである。目的を持って主体的であるかどうかは別にして。似たもの同士がかたまって存在する事は植物、動物の特色である。混沌化せず一定の構造と平衡が生物世界に認められる。これを社会という。同種は同じ生活内容を共有し、ある距離内に存在する。それは繁殖のための血縁関係、地縁関係でもある。異性はぶつかりあう距離内に居なければめぐり合えない。繁殖は種の維持には欠かせないからだ。同種の生活内容が似ているということは、同種は同じ環境を要求している事である。同じ生活内容を持つものが集まって環境を棲み分けている。形態(分類学)にその生活形を合わせて考えるのが「生態学」である。すると同じ種の個体は血縁関係と地縁関係で結ばれた生活形を同じくする生物であると定義できる。同種の個体の集まりは個体維持のため、他の種との摩擦を避け平衡状態を実現する傾向の結果といえる。個体維持のためには先ず食物の獲得が必要で、そのため環境の一定の空間(縄張り)が必要となる。生物の生活にとって繁殖よりも植物獲得の時間が圧倒的である。

ここで今西氏は専門の昆虫や草食動物、蟻などの例を取って種の生活圏を例証するが、面白いが煩雑なので省略する。そこで今西氏の着眼点は種の中に「社会」という生活にとって根源的な概念を導入する事である。捕食関係の無い同種の生活形が最も安定した社会である。地上では棲息条件が不揃いであるがために多種類の生物が繁栄してきたと主張する。棲息地の変化に適応した種の形成である。種には棲み分け社会で摩擦を減らしているが、これを相容れないもの同志の場における平衡を図る生物の相補的同位社会と定義する。植物社会は簡単なので森林と云う一定の景観(同位社会)を作りやすい。動物の場合はもっと複雑で、渓流における魚と水中昆虫の棲み分けに見るような同位社会の階層がみられる複合同位社会がある。その典型が食物で結ばれた食物連鎖という支配相互関係がある。個体数では食われるほうが大である。体の大きい食う種は体の小さな食われる種に寄生している関係でもある。今西氏はこれを種の必要不可欠な社会的機能とか、円満な解決のための分業関係という。支配被支配関係の固定化によって、闘争という摩擦を避けているという言い方をするものだから、今西氏を反動の親方と見る反今西学派の人々がいる。

第5章 「歴史について」

世界は構造を持った世界であり、生物個体、種社会、同位社会、複合同位社会、全体社会という階層で構成されている。したがって同位社会は種という血縁的関係だけでは説明できず、そこには地縁的関係が入り込んでいる。これがありのままの自然の姿である。生物個体は自らを作ってゆく主体性を持って生きている。種社会には分業の無い均質な体系であって,そういう意味で未発展社会である。複合同位社会には分業に基づく社会組織や階級が存在して全体社会となって完結すると今西氏はいう。一つの職能社会である、確かに蟻の社会はそうかもしれない。まるで人間社会を想定しているようだ。中生代の爬虫類の全盛時代とその覆滅は、支配者としての座を哺乳類に渡した。新生代に創造的進化をしたのが哺乳類と鳥類である。支配者にならなかった魚類、両生類、昆虫類は進化らしい進化を成し遂げないで、隙間社会に適応した。爬虫類と哺乳類など陸上生物の支配者は脊椎動物であった。支配階級を脊椎動物に譲った昆虫類などが生きるために体を小さくして支配者との摩擦を避けたと今西氏はいうが、本当に小さくなる方向に進化した(退化)かどうか、話としては面白いが俄には信じられない意見である。分業が身分社会という断絶をもたらしたと云う意見は、「国富論」なら分るが、生物学では議論すべき概念ではなかろうと私は思う。創造的進化という種の爆発的進化の機会はどの生物にとってもざらにあるわけではない。人間が今のその時期にあるので、ほかの生物の進化の機会は失われた。

種の起源は遺伝学の範疇にあるが、ダーウインの自然淘汰進化論には今西氏の世界観が立脚する進化論と相容れないという。支配者階級の生物(人間)には頭を押さえつける生物が居ないため進化を続ける所謂創造的進化ができるが、被支配者階級の動物は家畜や栽培植物のような変異が利用されるに過ぎないと今西氏はいう。ダーウインの云う気まぐれな無方向な変異は人為淘汰のことを云うのだろうか。気まぐれな無方向な変異の中で生存競争という篩をかける適者生存のみが栄えるという自然淘汰説は間違っていると今西氏は訴える。自然淘汰説は生物の環境への働きかけというものを全然認めないで、環境の生物への働きかけだけをt里あげていると今西氏は非難するのである。生物の主体性には選択の自由があり、環境の生物による選択であり、本能でもあるのだと云う。要するに自然淘汰説ではあまりに生物が悲しい存在に過ぎないといいたいのだ。生物には環境の主体化という創造性がある。これを適応の原理とも云う。初めから変異は生活の方向性に導かれている。360度の全方向変異はありえない。そして今西進化論の本論に入る。「種自身に変異の方向が決まっていて、種自身が変わるのである。」これを種変異論といい、個体変異論と対照をなす。生物には現状維持主義・保守主義があって、種の維持強化作用とも言われる主体性の表れがある。そして変異があっても統計的に変異が中庸を保つ、変異の集中化というのが種の維持強化作用である。これは遺伝的形質の均質化になっている。生物にあっては種の歴史が生物の歴史であると、今西氏は確信した。生存に直接関係しない形質の変異は特殊化・適応に向かい、種の文化的特徴を形成するのである。種は交雑しないから種の純系を守るので、種としての独立分離が確立するのだという。当たり前のことかもしれない。


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