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堂目卓生著 「アダム・スミス」

 中公新書(2008年3月)

「道徳感情論」、「国富論」への案内

アダム・スミス「国富論」とカール・マルクス「資本論」は欠かせぬ古典的名著だと思いながらも、いつも挫折してきた。何回かトライしてみたり、読書会で読み出すのだが、途中で放棄してしまう。そして「これは面白くないからだ」と納得するのである。確かに経済学の本は、古い時代の生産や貿易、財政などを丹念に検証することで一定の結論に導こうとするのだが、時代背景が分らないため理解できない。現代とあまりに様相が異なるため、ピンとこないのである。という言い訳ばかりで理科系の私は最後まで読み通した経験が無いのである。今回の堂目卓生著 「アダム・スミス」を見て、「ああ難しそう」と思ってしばらく本棚に寝かしておいた。改めて本書をぱらぱらとめくってみると、なんと倫理学で始まっているではないか。そういえばドイツの社会学者マックス・ウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という著作も、資本の蓄積過程において宗教的倫理思想が重要な役目を果たしことに注目した書物だったなと思いだして、心を強くして本書を読み出した。自由放任主義の「見えざる神の手」で有名な国富論とアホの一つ覚えのように理解していたアダム・スミスについて、ネオ自由主義者の規制緩和策と格差拡大問題の是非や金融資本の社会破壊力が世間を騒がせている昨今、一つ考えてみようという気になった。

アダム・スミスの経歴を簡単に見てみよう。アダム・スミス(1723年 - 1790年)は、イギリス(グレートブリテン王国)の経済学者・哲学者。主著は『国富論』、「経済学の父」と呼ばれる。グラスゴー大学で哲学者フランシス・ハチソンの下で道徳哲学を学び、1740年にオックスフォード大学に入学。1748年からエディンバラで修辞学や純文学を教えはじめ、1750年ごろ、哲学者ヒュームと出会う。その後、1751年にグラスゴー大学で論理学教授、翌1752年に同大学の道徳哲学教授に就任する。1759年にはグラスゴー大学での講義録『道徳情操論』(または『道徳感情論』The Theory of Moral Sentiments)を発表し、名声を確立。1763年には教授職を辞し、家庭教師としてフランスに渡り、そのころパリのイギリス大使館秘書を務めていたヒュームの紹介でチュルゴーやダランベール、ケネーをはじめとするフランス知識人と親交を結んだ。スミスは1766年にスコットランドに戻り、1776年3月9日に出版されることになる『国富論』の執筆にとりかかる。アメリカ独立の年に発表された『国富論』はアダム・スミスに絶大な名誉をもたらし、イギリス政府はスミスの名誉職就任を打診したが、スミスは父と同じ税関吏の職を望み、1778年にエディンバラの関税委員に任命された。1787年にはグラスゴー大学名誉学長に就任し、1790年に死亡した。享年67。

政府による市場の規制を撤廃し、競争を促進することによって経済成長率を高め、豊で強い国を作るべきだという経済学の祖アダム・スミスの「国富論」はこのようなメッセージを持つと理解されてきた。しかしスミスは無条件に自由放任主義をそういったのだろうか。本書、堂目卓生著 「アダム・スミス」は「道徳感情論」と「国富論」を読んで、一貫して流れる社会の秩序と繁栄に関する一つの思想体系を提示している。文脈の中のアダムスミスの言い分を再構築するのが目的である。アダム・スミスは生涯二つの著作だけを残した。「道徳感情論」(1759)と「国富論」(1776)である。「道徳感情論」を「国富論」の思想的基礎として重視する解釈が主流になりつつあるという。本書は第一部に「道徳感情論」、第二部に「国富論」を等しい比重で取り上げている。「道徳感情論」では社会の秩序と繁栄を導く人間本性に関する考察、「国富論」では社会の繁栄を促進させる一般原理、重商主義と植民地主義の歴史、今英国がなすべき事が検討されている。「国富論」は「道徳感情論」の考察に基づいて展開されている事が明白である。本書を読んで先ず驚いたのは、いかにも平易に書かれていることだ。極めて単純な定理を導いて結論にいたる様に設計されている。著者の頭が明晰な証拠であろう。経済は複雑に解説しようと思えばいくらでも煙に巻くことが出来る。入門書として読者に恐怖を与えまいとする筆者の心遣いであろうか、引用は簡潔を極め結論は単純である。素人なりに納得できれば次は自分の力で「道徳感情論」、「国富論」を読めばいいという考えらしい。次は本棚に鎮座まします黄色く変色した「国富論」を手にしてみるか。蛇足であるが、本書を読んでその格調の高さ、平易さ、根本的考察は明治開明期の福沢諭吉「学問のすすめ」に近い感激を覚えた。腑に落ちたという感じであった。

第一部 「道徳感情論」

1、秩序を導く人間本性

「道徳感情論]の主な目的は,社会秩序を導く人間本性は何かを明らかにすることである。私達は、自分の感情や行為が他人の目に晒される事を意識し、他人から是認されたい、或いは他人から否認されたくないと願うようになる。スミスはこの願望は人類共通のものであり、しかも最大級の重要性を持つものだと考える。経験によってすべての感情、行為が、すべての同朋の同意・是認を得られるものではないことを知る。そこで経験的に自分の中に公平な観察者を形成し、その是認・否定にしたがって自分の感情や行為を判断するようになる。同時に他人の感情・行為も判断する。人間によるにbb玄に対する行為について、賞賛や非難は行為の動機と結果の両方を考慮してなされる。我々は動機よりも結果に眼を奪われがちで、その意図しない結果は偶然に影響される事がある。私達の賞賛と非難は偶然によって不規則であるという。世間が結果に影響されて賞賛や非難の程度を変えることは、社会の利益を促進し、過失による損害を減少させるとともに、個人の心の自由を保障するのである。意図しない結果を恨んで「神」にすがったり、「良心の呵責」に苦しんだり、「自己欺瞞」でごまかしたり、「濡れ衣」に苦しめられたりする。基本的に胸中の公平な観察者の判断に従う人を「賢人」といい、常に世間の評価を気にする人を「弱い人」と呼んだ。適切であるかどうかの一般的諸規則は他人との交際によって、そして非難への恐怖と賞賛への願望という感情によって形成されるのである。自分の行為の基準としての一般的諸規則を考慮しなければならないと思う感覚を「義務の感覚」という。この「義務の感覚によって、利己心や自愛心を制御するのである。「胸中の公平な観察者」はこの一般的諸規則への違反を自己非難の責め苦によって厳しく処罰することで、心の平静が得られるのである。この一般的規則を「正義」という。スミスは社会を支える土台は正義であって慈恵ではないと考える。私達がこのような動機から法を定め、それを遵守することによって、平和で安全な生活を営む事ができるのである。

2、繁栄を導く人間本性

私たちは他人といっしょに悲しむ事より、他人といっしょに喜ぶ事を好む。富は人間を喜ばせ、貧困は人間を悲しませる。今の脳科学でいうところの「報酬回路」の刺戟を好むのである。我々は自分の境遇を改善したいと望むのは、同感と好意と明確な是認とをもって注目されることが全目的である。人間が「社会的動物」といわれ食欲、性欲、社会欲という3つの欲望を持つといわれことにあてはまる。社会秩序の基礎と同様、野心と競争の起源は、他人の目を意識するという人間本性にある。人の幸福とは、心の平静と享楽にある。心の平静のためには「健康で、負債がなく、良心にやましいことが無い」ことが必要である。これを「最低水準の富」という。「賢人」にとって最低水準の富さえあればそれ以上の富は自分の幸福に何の影響ももたらさない。一方「弱い人」は最低水準の富を得た後も、富の増加は幸福を増加させると信じている。経済の発展は最低水準以下の生活「貧困」にいる人の数を減らす事である。しかし「弱い人」の心情は自己欺瞞ではあるが、経済を発展させ社会を文明化させ、他人をも豊かにさせるのである。自分の生活必需品以上の富を生産する事で幸福が平等に分配され、社会は繁栄する。富と地位に対する野心は,社会の繁栄を押し進める一方、社会の秩序を乱す危険性がある。下流と中流の人々は「財産への道」を進む事によって、「徳への道」も身につけることができる。これを「衣食足りて、礼節を知る」という。ところが「徳への道」を忘れ「蓄財」にのみ走ると、それを獲得した手段や過去の犯罪をも隠蔽する腐敗の道を歩む。「フェアプレイ」の侵犯である。

3、国際秩序の可能性

公平な観察者の判断基準は、社会の慣習、流行の影響を受ける。趣味の対象になる物に対する社会的な評価の基準、言い換えれば「文化」は,社会と時代によって変化するということである。しかし趣味ではなく正義に関しては、慣習や流行は時として特定の性格や行為に対する評価基準を歪ませることはあっても、一般的な評価基準はそう変わらない。それゆえ、諸社会も各社会の慣習や文化の違いを乗越え道徳的基準を共有する事は可能であるとスミスは考える。これが国際法または「万民法」の基礎を与える。しかし人間は全人類の幸福を願い、自分の幸福より優先させることは出来ないと考えた。自分、自分の家族、友人、知り合いの順で幸福を願う。このような序列を「愛着」といい「慣行的同感」という。この愛着が「祖国への愛」の基礎となっている。国家の繁栄と栄光は、我々自身にある種の名誉をもたらすように感じるのである。スミスによれば祖国に対する愛は、近隣諸国民に対する偏見を生み、近隣祖国民に対する嫉妬、猜疑、憎悪を増幅させる。スミスにとって理想的な国際法、「万民法」は「自然法」に基づいて形成されるべきであるとした。スミスは「法と統治の一般原理」を予定していたが、これははたされないまま生涯を終えた。

第二部 「国富論」

1、「国富論」の概略

「国富論」の冒頭で「序文および本書の構想」において、「国富論」の目的と全体構造が簡潔に示されている。物質的富とその原資の定義を「すべての国民の年間の労働は、その国民が年間に消費するすべての生活必需品や便益品を供給する原資であって、消費される物質はつねに国民の労働の直接の生産物であるか、その生産物で他の諸国民から購入あいたものである」といった。また国民の富を増進させる一般原理を「生産物・購入物で供給できる量と消費するものの総量との割合によって国民の豊かさが表され、その豊かさは次の二つによって規定される。一つは労働の熟練度、技量、判断力によって、二つは有用な労働に従事する人々の数とそうでない人々の数の割合によって規定される。スミスに寄れば、国民の豊かさを増進するには、労働生産性を高め、生産的労働の割合を高めなければならない。そして「国富論」は次の五つの内容で構成される。
(1)分業
(2)資本蓄積
(3)自然な経済発展と現実の歴史
(4)重商主義体系
(5)財政

2、繁栄の一般原理(1)分業

繁栄の一般原理、すなわち物質的豊かさを増進するための自然的原理は、分業と資本蓄積である。極めて単純に宣言している。分業の技術的側面は今では機械化と資金といっていい。もっと単純化すれば資金だけでもいいのではないか。スミスが重視する分業の効果は、社会全体の生産性が向上するだけでなく、増加した生産物が社会の最下層にまで広がることである。分業の社会的側面には分業と交換とは裏表の関係にあることだ。これを「商業社会」、「市場社会」という。人には「交換性向」があるといい、分業の前に既に交換の場が存在している事が必要である。市場では人々は自分の持ち物と相手の持ち物を説得しながら交換する。その場を市場という。交換とは同感、説得性向、交換性向、そして自愛心という人間の能力や性質に基づいて行われる互恵的行為である。財産の道を歩む人々が市場に参加する事によって競争が発生する。「フェアプレイ」の精神は競争に勝つことは赦されるが、不正や独占は赦されない。現実の価格は市場価格に一致すると考え、市場の機能は第1に人々が欲する商品を市場価格で供給する事である。第2に市場では誰もが相対的に優位な状態を維持し続けることは不可能である。第3に市場を支えるのは利己心である。市場全体のことを個人が知っているわけではなくとも、自分自身の利益を追求する事で社会の利益を促進する事になる。これをスミスは「見えざる手に導かれて」と表現する。「国富論」で「見えざる手」が出てくる唯一のところである。最期に交換の手段として貨幣が生み出されたが、貨幣を富と思い込む錯覚「貨幣錯覚」を引き起こす重商主義を批判した。今では中東の石油産出国が膨大なオイルダラーを有しているが、反面国民の貧困生活や他の物質の生産手段の欠如から来るアンバランスな生活を思い起こさせる。

3、繁栄の一般原理(2)資本蓄積

人類が未開状態から文明社会に向って本格的に進みだすには、分業が始まる前に交換の場が形成されると同時に,ある程度の資本が蓄積されていなければならない。スミスのいう階級社会は、地主、資本家、労働者の三階級からなる。現在では特権階級としての地主の必要は殆ど無い。資本は生産的労働が生み出す剰余の分配において、税金、消費、貯蓄のうち貯蓄分が毎年蓄積されて再生産に廻され、雇用と生産が拡大するのである。資本蓄積を妨げる要因としては個人の消費と政府の浪費がある。人には倹約性向と消費性向があって、どちらも必要であるが、資本蓄積には倹約が必要である。スミスは資本蓄積を推進する担い手は資本家であるが、その利己心によって公共の利益を最も損ないやすい。最期にスミスは投資の自然な順序として、先ず農業、ついで製造業、外国貿易だという。現在では農業というのは解せない話であるが、製造業、貿易での投資順序を間違った場合の弊害は頷ける。ある外国貿易品を優先して保護して他の部門への投資を怠った場合、産業間のバランスの取れた発展が歪になって経済合理性を失う事はよくある。投資は必要とする部門への自然の流れに任せるべきだということも「見えざる手」の導きに相当する。市場の価格調整メカニズムと同様、成長の所得調整メカニズムをも「見えざる手」と呼んでもいいのだろう。

4、重商主義の経済政策

スミスが「国富論」を書いたのは、ヨーロッパ或いはイギリスが「国富論」の一般原理に従って発展したからではなくて、自然な成長とは顛倒した歴史を持つからである。「国富論」は、これを正してより良い経済の発展を促そうとする意図の下に書かれた「歎異抄」である。歴史の発端は476年の西ローマ帝国の滅亡から始まる。ローマ帝国の繁栄と交易システムは蛮族の侵入でズタズタに引き裂かれ、商業と製造業は衰退し、土地は少数の非生産的な諸侯に分断された。大土地所有者は貴族と称して、貴族は土地の剰余生産物を不生産的労働にしか使わなかった。長い中世的封建的領主制が世界を沈滞させた。ルネッサンス時代なって商業の場として都市が形成され、自治都市はさまざまな手工業と交易を始めて資本蓄積の時代に入った。独立自営農民は土地改良に取り組み、耕地の拡大と生産性はしだいに増加し、その結果として剰余生産物の増大は農村地帯に製造業を発展させた。このようにヨーロッパの経済は外国貿易から、製造業、農業と正反対の順序で展開した。封建領主に代わって権力を集中させた絶対君主は特定の商人と製造業者と結びついて、特権を与えて貿易および貿易用製造業の振興を図った。貿易の決済手段としての金銀貨幣を重視し、植民地の獲得に走った。初めから歪んだ経済振興策がとられたのである。植民地政策は本国の利益独占のため、さまざまな規制を作って、植民地自体の正常なバランスの取れた経済発展を阻害し(単品経済)、他国との交易を禁止した。そして権益を独占するため軍隊を派遣し、本国の軍事的支出が増大した。経済発展を促すのではなく阻害するだけの経済政策を威信を掛けて実施したのである。これを重商主義の経済政策という。規制の結果、本国の国民は規制がなければ買えた筈の安い外国産品を買う機会をなくし、高い外国産品或いは高い国産品を買う事になった。特権商人や大製造会社の貪欲と、政府の虚栄心を満たすために、国民の財産を侵害する政策、それが重商主義政策の本質であった。戦争のため国債発行は国民の負担する税を増加させ、これが正常な資本蓄積を阻害し、産業活動を遅らた。ヨーロッパの大航海時代以来の覇権国家は国債のために、次々と破綻したのである。

5、今なすべき事

「今なすべき事」とは、18世紀のイギリスがアメリカ植民地の独立問題においてなすべき、スミスの政策提案である。欧州ではさまざまな優遇政策によって特定の貿易と輸出向け製造業に資本が集中し、その他の部門が本来の水準から見て立ち遅れていた。優先や抑制自体を廃止して、本来の発展経路に自然に復帰する政策をスミスは「自然的自由の体系」と呼んだ。それは保護された産業部門を徐々に縮小させ、他の産業部門を徐々に拡張させることにより、すべての産業部門を完全に自由で適正な均衡に向って、しだいに復帰させる事が出来る唯一の方策だと考えた。ところが「体系の人」といわれる統治者は、しばしば拙速に計画図にそって実行しようとする。社会改革で肝要な事はゆっくり行う事である。改革に対応する人々の摩擦と混乱を時間をかけて解消する事である。そして最期にスミスはアメリカ植民地の独立問題で、税負担と代表選出をセットで認めてアメリカをイギリスに州として統合するか、アメリカの独立を認め分離するかを提案した。経済的には前者の統合案で十分イギリスの目的は達せられるが、政治的には結局後者の分離案となった。スミスは「国富論」をアメリカ独立の前1776年に書き上げ、イギリスは1783年パリ条約でアメリカ独立を承認した。これによってイギリスがアメリカ植民地維持のための民事軍事的負担から自らを解放し、将来の計画を身の丈にあったものにするよう務める事ができた。

終章  「スミスの遺産」

「道徳感情論」において、スミスは人間本性の中に他人の感情を自分の心の中に感じとろうとする「同感」という能力が、社会の秩序と繁栄を導く事を示した。また「国富論」において、スミスは社会の繁栄を促進する「分業と資本蓄積という二つの一般原理を考察した。そして当時のヨーロッパ諸国が、この一般原理から導かれる理想状態からいかに逸脱しているかを論じ、何をなすべきかを示した。スミスはこの二つの著作によって何を伝えようとしたのだろうか。
第一にスミスの思想体系は人間を社会的存在として捉える事の重要性を教えた。「公平な観察者」を心の中に形成し、この「公平な観察者」が是認するようなことを行うようになる。この性質が正義の法の土台となり、社会の秩序を形成する。
第二に人間は悲しみよりも喜びを他人と同感する。富は喜びであり、ここに財産形成の野心が起きる。人間は賢明さと弱さを兼ねた存在で、賢明さは社会の秩序の基礎をなし、弱さは社会の繁栄を導く原動力である。胸の中の「公平な観察者」の是認という制約条件で、自分の経済的利益を最大にするように行動する。これがスミスが仮定する個人の経済活動である。市場における富の主要な機能は、人間を存続させ繁栄させ、生活を便利で安楽なものにすることだ。それと同時に人と人を繋ぐ機能がある。経済成長は富が増大するのみならず、富を社会の構成員に、そして貿易を通じて世界の諸国に行き渡らせる働きがある。
第三に自由で公正な市場経済の構築こそが人々の生活を豊かにするということだ。歪んだ経済システム、偏った政府の政策と規制は政府自体が道徳的に腐敗する。公正な市場経済は、公的機関という外部の統治者によってよりも、むしろ市場参加者の内部の公平な観察者の判断によって監視され規制されることが望ましい。
スミスのバランスの取れた情熱と冷静さは、「幸福は平静と享楽にある」といい、「一つの永続的境遇と他の境遇との間には、真の幸福にとって本質的な違いは無い」という。富や社会的地位は、手じかにある幸福の手段を犠牲にしてまで追求される価値は無い。なんと心休まる言葉ではないか。しかし現在のアメリカ覇権主義、社会的格差拡大と金融資本の気違いじみた狂奔はやはり何か間違っている。いや間違いだらけで破滅の方向へ向っている。スミスの云う自由で正しい経済発展とはあまりにかけ離れた状態かもしれない。現状をなげく「歎異抄」はスミスだけのものではない。


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