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辻井喬 上野千鶴子対談 「ポスト消費社会のゆくえ」

 文藝新書(2008年5月)

セゾングループの歩みから日本の消費社会を総括し、ポスト消費社会の姿を探る

堤 清二(つつみ せいじ、1927年3月30日 - )は、日本の実業家。セゾングループ(旧・西武流通グループ)の実質的オーナー。文人社長としても知られ、小説家・詩人、辻井 喬(つじい たかし)の顔を持つ。財団法人セゾン文化財団理事長。日本ペンクラブ常務理事。日本文藝家協会常務理事。マスコミ九条の会呼びかけ人、憲法再生フォーラム共同代表、日中文化交流協会会長。父は西武グループの創業者堤康次郎。今年ですでに81歳をこえられた。次に堤清二氏の経歴をフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から委しく見てみよう。

1927年、西武グループの創業者堤康次郎と、康次郎の妾・青山操の間に生まれる。青山は当時康次郎と内縁関係にあったが(のち入籍)、康次郎は5人の女性との間に5男2女を持つ。この事は父への反抗につながり、日本共産党入党や文学への傾倒へのきっかけとなっていく。また「父との確執と、父への理解」は、小説家としての辻井を貫くテーマともなっている。
東京府立第十中学校(現東京都立西高等学校)を経て成城高等学校 (旧制)(現成城大学)に進学すると、寺内大吉に兄事。東京大学経済学部入学直後、同級生であった氏家齊一郎などから勧誘を受け共産党に入党。横瀬郁夫のペンネームで積極的な活動を行っていた。共産党が所感派・国際派で分裂するなか、国際派の東大細胞に属し、党中央から除名される。この頃、自ら父に勘当を願い出ているが、それは康次郎に対する清二の「絶縁宣言」と言うべきものであった。 1951年東京大学経済学部卒業。その後、肺結核の療養を経て、衆議院議長であった父・康次郎の衆議院議長秘書を務める。1954年に西武百貨店に入社。1955年から取締役店長として百貨店を任される。同年、処女詩集『不確かな朝』を発表し文壇デビューを果たす。 1964年、父康次郎が死去。周囲からは清二が継承すると思われていた西武グループ総帥の座は、異母弟の堤義明が継ぐことになる。
スーパーマーケットである西友を急展開し、業績を拡大。また西武百貨店を渋谷に進出させた。1969年、池袋西武の隣にあった百貨店「東京丸物」(まるぶつ)を、買収したばかりの小佐野賢治からさらに買収する形で経営を引き受け、府立十中の同級生であった増田通二を使いパルコを展開。デベロッパーである西洋環境開発を通じ、ホテル経営、リゾート開発へも乗り出すなどセゾングループを形成した。マスコミも彼に注目し、財界の若きプリンスともてはやすようになる。
一方で、脱大衆文化と称して、DCブランドの展開や、無印良品などの事業も始める。田中一光、山本耀司らとの交流の中から、無印良品のヒントを得たといわれる。さらに、セゾン美術館など、メセナのさきがけといわれる活動も始める。
バブル崩壊後、急拡大の末にセゾングループの経営は破綻を迎え、1991年には、グループ代表を辞任。2000年には西洋環境開発(同年清算)を含むグループの清算のため、保有株の処分益等100億円を出捐した。
1980年代までは、「実業家・堤清二」の活動が主となり、「詩人/小説家・辻井喬」は寡作であったが、セゾングループ代表辞任後は精力的に作家活動を展開。代表作や文学賞受賞作のほとんどは、1990年代以降の発表作である。先述した「父との確執と、父への理解」に加え、自身の特異なプロフィールに由来する、大企業の経営者というモデルを通じた「人間の複雑な内面」の描写が小説の特徴であり、『父の肖像』(2004年)はその集大成と言えよう。
1996年に堤清二名義で岩波書店から出版した「消費社会批判」を学位請求論文として、中央大学より博士 (経済学)の学位を受ける。
堤義明が一連の不祥事で逮捕され、西武鉄道グループの再編・再建活動が活発化すると、義明への批判を展開。異母弟の猶二と共に西武鉄道へ買収提案を行うなど、実業家、西武の創業者一族としての活動も活発に展開している。
2006年3月近作をはじめとする小説群の旺盛な創作活動により日本芸術院賞恩賜賞を受賞した。2007年日本芸術院会員となる。

上野千鶴子(うえの ちづこ、1948年7月12日 - )は、日本の社会学者。東京大学教授。 専攻は、マルクス主義フェミニズムに基づくジェンダー理論、女性学、家族社会学の他、記号論、文化人類学、セクシュアリティなど。文学修士。富山県上市町出身。代表著作は「おひとりさまの老後(法研、2007年)」、 『近代家族の成立と終焉』、『家父長制と資本制』など。

研究者としてのスタートは、構造主義文化人類学と社会科学の境界領域を論じた理論社会学であり、この頃の1970年代の論文は『構造主義の冒険』にまとめられている。1980年にマルクス主義フェミニズムを知り、これの紹介者・研究者となる。『家父長制と資本制 ― マルクス主義フェミニズムの地平』(1990)が代表作。
また、『主婦論争を読む――全記録(1・2)』(1982)の編集など、思想輸入ではない日本の女性問題史の整備にも努め、『美津と千鶴子のこんとんとんからり』(1987)など田中美津に脚光を当てることで1970年代に起きたウーマンリブ運動の再評価を世に働きかけた。
『セクシィ・ギャルの大研究』(1982)では 栗本慎一郎・山口昌男が表紙カバーに推薦文を寄せ、 鶴見俊輔などに絶賛され、専門領域である社会学のみならず文化人類学・記号論・表象文化論などの方法を駆使しながら、現代の消費社会を論じるフェミニストとして知られるようになる。特に1987年から88年にかけて世論を賑わせたアグネス論争にアグネス・チャン側を擁護する側で参入し、名を馳せた。
オーバードクター時代にマーケティング系のシンクタンクで仕事をしていたこともあって、消費社会論の著作も多く、『<私> 探しゲーム ― 欲望私民社会論』(1987)、『セゾンの発想 ― マ-ケットへの訴求』(1991)などがある。
上野千鶴子は、様々な分野で発言して多くの論争に関わり、その挑発的かつ歯切れの良い言動はたびたび批判を受けてきた。「吉本隆明や柄谷行人ら、名だたる男性知識人を片端から言い負かした女性論客」というイメージは、たとえば遥洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(2000)、上原隆『上野千鶴子なんか怖くない』(1992)や『接近遭遇』(1998)のような対談集で確認することができる。

以上がフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に見ることが出来る堤清二氏と上野千鶴子氏のアウトラインである。良くまとまった紹介であり、私が調べてもこれ以上に簡単には解説できないので、あっさり兜を脱いで、ウィキペディアの記事を掲載した。辻井喬 上野千鶴子対談 「ポスト消費社会のゆくえ」では上野千鶴子は『セゾンの発想 ― マ-ケットへの訴求』(1991)を著した消費社会論学者の顔で参加している。ジェンダー論者は関係していない。私はこの読書ノートコーナーで辻井喬著 「伝統の創造力」 岩波新書((2001年12月)を紹介したことがある。文学の衰退を論じた書であった。この書の読後感想は以下である。

第一の命題は、岩波書店版「消費社会批判」の思想を受け継いだ、現在社会批判から出発しているように思われる。もうひとつの命題は左翼運動の流れを受け継いだ軍部主導による天皇制国体政治と文化政策批判である。この二つの思想を背景にして本書を読むと日本文化の衰退の原因がよく理解できる。本書の題名は「伝統の想像力」と幅広いう内容を包括するようだが、実質は日本文学の衰退のことしか述べていない。日本の文化が衰退していると感じられるということを出発点として、教育改革論議で典型的に見られる「伝統尊重」の狙いを徹底的に批判し、1980年代にピークを向かえた消費社会・情報社会の進行が詩歌・小説の思想性・伝統を奪い衰退の要因となったと辻井氏は考える。伝統を「自己改革を行う運動体、新しい文化芸術を創造するときに必ず現れる力」と定義し、混迷する文藝の再生は可能かと問うのである。本書を読んで、私は閉塞観に襲われる。出口がないのである。

本書の対談者の一人上野千鶴子氏は多彩な面をもつ論客であるが、本書では消費社会論の研究者の側面で参加している。そもそも女史は1991年セゾングループ社史編纂事業に参加し、シリーズの第四巻「セゾンの発想」を著した。バブルがはじける寸前のことであった。この高名な社会学者でさえバブル崩壊は予想だにしていなかったそうである。経済アナリストも崩壊を予言する人はいなかった。経済は一寸先は闇である。誰も経済の動きは読めないらしい。セゾンの社史編纂というと上野氏も提灯持ち学者かと思ってしまうが、そうではない。この事業は最初から面白い企画であった。取材は自由、情報は隠さない、原稿の検閲はしないという条件であった。そこで上野氏は、戦後日本資本主義の歴史、しかも日本の大衆消費社会を牽引してきた百貨店という大型小売業資本の典型的な事例研究と考えたから参加したそうである。氏以外にも錚々たる学者がこのセゾングループ史の研究に参加した。日本近代江戸時代から消費文化の担い手であった呉服屋系百貨店は、大正昭和期の電鉄系百貨店は郊外住宅地と都心部をむすぶ中産階級の消費文化の中心であった。百貨店の誕生が中産階級の誕生と軌を一つにすというのが上野氏の持論である。バブルがはじけると消費文化は冬の時代に突入し、百貨店の統合再編成、価格破壊で躍進したスーパーダイエーの倒産などは格差によって生じた中産階級の分解の結果であるという。バブルを予測できなかった学者は、バブルをちゃっかり拝借して理論の綻びをうまく直している。たくましい学者魂だなと感心するが、それはさて置いて、失われた13年間でセゾングループは崩壊した事は事実である。電鉄系百貨店も土地バブルの尖兵であった事は明白であり、かなりの負債を抱えていた。銀行と建設業とデベロッパーの凋落は凄まじかった。建設業会社の株価の50円割れが長い間続いた。セゾンが崩壊したのは、堤一族の独裁的閉鎖集団であったからで、兄堤義明氏の国土開発や西部鉄道もその一族経営の財閥形態は崩壊したが、核となる会社は今も健在である。堤コンツェルンが崩壊する前に、持株会社ホールディングに改組しておけばよかったのだ。そのような会社組織論を論じるのは本書の目的ではない。本書は「セゾンの失敗」の検証ではなく、日本の戦後消費社会がどのように誕生して、爛熟して、崩壊したのかそれを一企業の歴史、一企業人の生涯を通じて見て行こうとするものである。

本書は対談形式となっているが、大概は周到に準備された編集者と打ち合わせを終えた問題提出と理論まとめという司会者が居て、ある大御所を突っ込んで、結論をあぶりだすという目論みが存在している。各自が文章を持ち合ってきて編集するわけではなく、生身の人間を相手にするのだから、駆け引きはあるが激しい対立はなく、用意された結論に編集者が満足するという流れであるのはやむをえない。ここでは上野千鶴子氏が司会者(調理人)で、辻井喬氏が解剖の対象(俎板の鯉)である。漫才で言えば上野氏が「つっこみ」役で、辻井氏は「呆け」役を演じている。では上野氏が分類する時代区分に従って、本書を追ってゆこう。大きくは1950-1960年代、1970-1980年代、1990年代から今日の三時代に区分される。前の二区分は成功と拡大のサクセスストーリーで、何処の会社もそうであったろうから、西武グループの特徴はでているが、格別西武流通グループだけの成功の秘密と云う話にはならない。むしろダイエーの仲内功さんの流通革命の話のほうが魅力あるかもしれない。すると本書は第3の時代1990年以降の失敗のほうに主題があるように思える。その失敗の原因を辻井喬の経営者としての資質にするところが本書の醍醐味である。批判を甘んじて受ける辻井喬氏の摩訶不思議さに氏の文人たる所以をみるようだ。

1950年代ー1960年代  激動の成長期

辻井喬(堤清二)氏の父親は云うまでもなく西武鉄道の創始者堤康次郎氏でで多くの異母兄弟を残した。多くの妾を持ち、まるで戦国大名のように遺伝子を残す事に勤めたようだ。堤康次郎氏は戦後の自由党と改進党の保守合同に努めた政治家で衆議院議長を務めた。辻井喬氏は一時期父親の政治秘書をしたことがあるが、西武百貨店の経営を任された。当時にしては珍しい労働組合を会社側が主導的に結成し、入社試験制度を設けた。西武百貨店の前身は武蔵野百貨店(1940-1948)で「下駄履き百貨店」といわれる最下層の庶民を相手にした。三越などの名門とは明らかに出自が異なる。最下層の庶民が中産階級に成長する経済成長とともに西武百貨店も成長した。人材も少ないところに成長期を迎えたので、会社組織も抜擢人事やスカウト人事が多く、環境が人を育てる経営体質を持つに至った。辻井喬氏の個人的思い込みもあるだろうが、正しいと思うことを貫くことを是とする精神構造の人で成り立っていたようだ。「消費者本位」ということが社是であった。いまでいえば「カストマー・サティスフィケーション」ということになろうか。64年に東京オリンピックが開催される事になり、新宿や池袋周辺では顧客争奪戦(流通戦国時代)となり、高島屋、伊勢丹、西武、東部、松屋などが出店ラッシュでしのぎを削った。国内では順調に拡大してきた路線が1962年ロス出店で一頓挫をきたす。アメリカの消費社会は膨大な需要があるように見えたが、全国仕入れシステムには大きな日米差があって、とても太刀打ちできず1964年には早々撤退となった。当時の金で50億円の損失を出した。この莫大な損失も当時の拡大傾向のなかで、解消してゆけたのである。バブル崩壊後の市場縮小ではひとたまりもなく倒産においこまれたであろう。

日本の百貨店は非常にユニークな存在で、欧米の大衆型というよりはプレステージストアーで、明治以来旧呉服店型百貨店は舶来文化のショーウインドーであった。いわば非日常の世界を提供するテーマパークのような存在であった。百貨店に行って食堂で西洋料理をたべ、屋上遊園地で遊ぶ事が子供の夢であった。集客効果を狙った催し物会場での文化行事(美術展)を、西武百貨店は意外性を狙って(辻井喬氏の趣味で)抽象画で話題性を取る戦術であった。それ以来西武の文化行事は現代絵画と抽象絵画を中心に企画する方針が確立した。これはイメージ戦略でもあり、西部はビジネスの上ではベンチャー体質、趣味の上でもアバンギャッルド(前衛)体質である。1975年には池袋店の隣に西武美術館(後のセゾン美術館)を建てた。高度経済成長を迎えて東京オリンピックが行われた1960年中頃渋谷へ出店計画が持ち上がった。当時は東急百貨店一店しかなかったが、テレビブームで映画館が潰れてあいた駅前の土地に出店した。西武の出店で渋谷が明るく魅力ある町へ変身したと言われる。1960年代後半高度経済成長の成果が国民レベルに届いた時で大量消費の時代となった。これを第1次流通革命という。1963年にはスーパーストアー部門に西友ストアーを創業し、量販店の時代となった。しかし日本の消費者は量販店を利用しながら、一方で百貨店も利用するので並存の形となった。日本の消費生活が多様性を持っていることであり、安くて大量の食品を買い込んで大型冷蔵庫に入れておくという生活はついに日本では根付かなかった。量販店は商品の大規模仕入れが原価を下げるというマネージメントに徹したしょうばいであるが、日本の百貨店は顧客の嗜好や動向をきめ細かく捉える,消費のマーケッティング能力が重視される。たしかに百貨店と量販店の二足のわらじで百貨店は生き延びる事ができるけれども、パイを二分するにすぎず、大きな百貨店以外はやっていけなくなっている。西武百貨店は首都圏では先行投資型の多店舗展開、関西方面はショッピングセンター展開で出店が続いた。地方都市への出店はその地方の小規模百貨店との提携が多かったため、地域密着型、地域貢献型のノーハウが必要である。この時期の西武百貨店の多店舗展開の成功率を総括して辻井喬氏は成功6、失敗4だという。やはり量販店の多店舗展開であったイトーヨーカドーやイオンのほうがうまくやっているようである。

1970年代ー1980年代  黄金期 拡大路線と変貌

1968年から1982年が西武百貨店の黄金時代である。68年に渋谷百貨店、1973年渋谷パルコ、1975年に池袋店九期改装が続いて、1982年池袋店が単店舗で年間売上日本一になった。まさに上昇気流に乗った時期であった。西友ストアーというスーパーと百貨店の二面作戦がうまくいいっていた時代である。時代は団塊世代が世に出て核家族化が新しい消費生活を生み出した。「手を伸ばすと、そこに新しい僕たちがいた」というキャッチフレーズは当事者たちがまだ手に入れてない未知のライフスタイルを提案する西武百貨店の挑戦であった。西武百貨店の宣伝戦略はいつも時代の先端にいた。当時宣伝の御三家といえばサントリー、資生堂、西武であった。1979年の池袋店十期改装は空前絶後の広告の黄金時代であった。この時代は企業のCI(コーポレーテッドアイデンテティ)つまり、イメージキャンペーンが確かに力を持っていた。商品を売り込むのではなく企業イメージを売り込むのであった。パルコはテナント業という不動産業であるので、企業イメージ広告を打てばよかった。パルコは売るのは空間で商品ではなかった。この時代の広告コピー(クリエーター)として有名な糸井重里などがパルコの周辺で活躍していた。有名人を使うキャラクター広告はCMの敗北である。ところが1982年「おいしい生活」、「うれしいね、サッちゃん」というキャラクター広告が西武に現れ、ここで時代が変化してきたようだ。消費者が小売業に対して求めるものが無くなって来た。自分の生活に支障をきたさない程度に物があれば十分だ。大衆消費社会から個人消費の時代になったというわけだ。市場飽和とも云う。

西武は1985年に西武流通グループからセゾングループへ名称を変える。これまで押し進めてきた「生活提案型マーケティング」から「生活総合産業」へという多角企業集団への展開を目指した。「生活提案型マーケティング」とは消費者の啓蒙と教育であったが、賢い消費者(自立した消費者・市民)が生活を選択する時代になった。1980年代「文化事業の西武」のイメージには大きなインパクトがあって、強い印象を受けた人は多かった。女性管理職の活躍は百貨店で顕著であった。又雇用形態も時代の先端を先走りした。「レディスボード」、「ライセンス制度」、「ショップマスター制度」、「キャスト制度」、「マルチプル制度」、「国内研修制度」、「外国人定期採用制度」などは雇用の流動化を先取りしたものであった。他の業種ではバブル崩壊後に賃金抑制策として採用され、雇用の外部化、労働条件の悪化と格差促進につながったものだが、西武ではその10年以上前から「生産性と賃金の経済合理性」追求の中で生み出されたものである。また西武の多角化にひとつとして、セゾンが手がけた消費者金融は最初から囲い込み型のハウスカードを排除し、グループ以外でも使用できる「セゾンカード」にした。これは「脱西武戦略」といえる。我々の財布のポケットを覗くと、実に色々なお店のカードが入っているが、その殆どはその店でしか使えないハウスカードである。西武の文化事業は集客性が果たしてあったのかといえば、確かにその効果は計測不可能である。しかし西武の「時代精神の運動の根拠地」という前衛性は理解されたと考えられる。「セゾン文化財団」(1987年)の設立、これは溜め込んだ先代以来の美術品プラス社長の道楽といわれる。しかしこの文化活動は「企業メセナ」の先駆をなした。これは自己満足か社会貢献活動か大いに議論の残るところだ。1984年電通の藤岡氏は「サヨナラ、大衆」という大衆マーケットの終焉を予言した。消費の階層化というのか金持ち日本人の「ステータス消費」、「ブランド志向」がバブル直前に復活した。高額消費者の専門店志向も取り入れ、その一方「無印良品」運動もやるというような西部セゾンの多角化と分散の時代となった。渋谷が子供に占領されて穢くなり、大人が離れブランド専門店に流れた。バブル後景気対策としての都市開発が東京のあちこちで始まって、消費の中心は移動しつつある。地方の沈没も加速した。

1990年代ー2007年    失敗の総括 解体と再生

いよいよ本書の懸案である、セゾングループの失敗の検証に入る。第一はグループの体質である。西武百貨店は創業以来借入金でもって資金調達するという方式を一貫してきた。これはセゾングループ独特のやり方ではなく、企業一般のやりかたである。超優良企業とか、資本蓄積の大きい関西企業であれば自己資金でやるという方式もある程度はあるだろうが。それより重要な事は、バブル崩壊以前に「生活総合産業」を目指しディベロッパー業界に手を出していたことである。堤義明氏の西武鉄道や国土開発の西武本体は典型的なディベロッパーであった。むしろ堤清二氏の西武流通グループ(セゾングループ)のほうがディベロッパーの割合は非常に低かった。第二の問題は西洋環境開発グループの「サホロリゾート」、「ホテル西洋 銀座」、「タラサ志摩」の一連の失敗である。セゾンの崩壊に致命的に働いたのがこの二つの企業の失敗であった。他にも「インターコンチネンタルホテル」の失敗、総合ショッピングセンター「つかしん」の失敗もある。西洋環境開発グループの失敗は、中曽根首相のリゾート法に乗っかったリゾート開発において超豪華施設の失敗で、バブルそのものの失敗であった。浮かれ、自信過剰の花見景気の終焉であった。もうひとつの重大な失敗は「東京シティファイナンス」の失敗であった。グループの成長期にカード事業のクレディセゾンの他に金融事業として西友100%出資の「東京シティファイナンス」を設立した。これは法人企業融資に専念して、無茶な貸付を行い破綻した。バブルの銀行業務に準じた失敗であった。負債は「東京シティファイナンス」のほうが大きく、西洋環境開発よりも深刻であった。結局この二つの会社によってセゾングループは解体せざるを得なかった。つまり日本の土地バブルそのものによる破綻であった。セゾングループの経営は「経営共同体」という株の持ち合いに過ぎず、統合性がなくかつ堤氏の指導性も及ばなかった。堤氏は統帥権のない天皇に過ぎなかった。セゾングループとは無責任体制にあったといえる。

つぎにセゾングループの「総師」堤清二氏の経営責任である。「脱百貨店」を唱えてディベロッパービジネスにはいり、それが命取りになった。不動産業、ホテル業など西武流通グループの小売業の経営者では運営できないはずのところ、経営資源のない分野に適切な人材を張り付かせる事ができなかったという素人経営の失敗である。本来業務以外の多角路線は失敗する事が多い。経営形態の問題は、やはり一族経営の独裁体制を引きずりながら、不適格経営者の非合理主義的独走をチェックする体制でなかったことである。最悪のパターンといえる。チェック能力のある独裁体制ならまだしも、「統帥権のない天皇」では軍部の独走も阻止できず、勇気ある終戦の決断も下せないままの赤字の垂れ流しであったようだ。最期の検証は堤清二氏の個人的問題である。最大で最悪な結論は堤氏自身が告白するように「自分は経営者には向いていないな」と思いながら、創業者家族であるということだけでグループを率いていた事である。「早く辞めたい」と思いながら辞める時期がバブル崩壊時期に当って辞めるに辞められなかったという。結局日本興業銀行というメインバンクとの協議では、西洋環境開発と東京シティファイナンスの二社を整理する事で、西友、ファミリマート、パルコ、西武百貨店などを残したいという条件を協議したが、時既に遅しで西友とり潰しとなった。本業回帰でスリムになって体質強化を図るのが企業の常識であるが、それもかなわなかったようだ。セゾングループ各社は法人として認められなかった。なぜならグループは堤一族の企業と見られたからである。各企業が法人資本主義の下で自立した企業となるには、情報公開と情報の共有が条件であるが、セゾングループはオーナー企業群であって、個々の企業が堤一族の経営から離れることを成し遂げなければ世間には認められないということである。

2008年の今    共同体・産業社会の変遷

百貨店の時代は終わったといわれる。スーパーの雄ダイエーも流通戦争に負け、急速な価格破壊の波に飲み込まれた。それは生産過程のグローバリゼーションつまり、生産拠点の海外移転である。これはヨーロッパ型の「雇用なき景気回復」である。ユニクロの無印良品もグローバリゼーションの成果である。百貨店は空洞化し、パルコのように「貸し店舗業」になりつつある。百貨店はもともと日本的問屋制度に乗っかって仕入れリスクを回避してきたので、専門店への「貸し店舗業」はその典型ともいえる。社員も要らない、販売のノーハウだけでコミッションを取る業態である。そういう意味では「通販」、「ネット販売」も視野に入れなければならない。百貨店に来る客もいない時代になるかもしれない。そうするとパルコのように百貨店がスペース・コミュニケーションという空間の意味さえ失われる。いまや同質・同調性の高いコミュニケーションしか求めない消費者に分解しているといわれる。これが百貨店の終焉といわれる所以である。小売業には百貨店と量販店に分類され、量販店とはスーパーとコンビニとジェネラルマーチャンダイジングストアー(GMS 総合ストアー)に分けられる。スーパーとGMSはイトーヨーカ堂やダイエーのように同じ会社がやっている。GMSはいずれコンビニか百貨店に分極するかもしれない。無機的なストックヤードというか価格破壊型食品倉庫は人件費縮小のために生み出された方式であるが、日本にはなじまなかった。日本の食生活は高価な生もの・生鮮食品を買って調理するという伝統がある。又食の安全意識が世界一高い。土着化した惣菜コーナーが人気を呼んでいる。デパ地下の人気はそこにある。スーパーとコンビニは生き残るかもしれない。流通小売業はその地域、そこに住んでいる人々に向かい合うという地場産業で、グロバリゼーションからは除外される領域ではないだろうか。価格訴求だけではマーケットは動かない。それだけ成熟した食文化があるということです。

戦後日本社会は国家とその中間組織という共同体(国家、会社、官僚、地方自治体、学校、組合、野党、学生運動などなど)は全部信用を失墜した。メディアは内輪化して共通言語は殆ど通じない状況にある。匿名性と同調性が高く、マニア的ノイズに極端にセンシティブな集団の形成が起きている。IT分野でいえばホームページ、ブログ、イントラ、ソネットなどである。インターネットからイントラへという、閉鎖集団(蛸壺集団)に埋没することしか意義を認めない。日本にも良い意味でも悪い意味でも「私」が根付いたようだが、「私を生きて何が悪い」と威張っていると、公共性をよからぬ集団に全部利用されてしまうという危険性が待ち受けている。日本では、高度経済成長が終わった時点で企業集団が理想主義を掲げた時代は終わってしまったようだ。世界は産業社会の終末を迎え、東西冷戦が終わってから1990年代は自由主義経済のモラル崩壊(堕落)は、予想以上に深刻化している。金融市場の堕落は「金融工学の技術の進歩」によって、止まるところを知らない。自由主義という名において、対抗軸(健全野党)を追放してしまった結果である。アメリカはすでに産業社会を放棄し、大量消費を金融市場操作で可能にしているに過ぎない。ヨーロッパ型の「調整型経済(レギュラシオン理論)」はネオリベラリズムの規制緩和政策とは反対の理論で動いている。修正型というかよりましな政策として、ヨーロッパ型の社民型シナリオが存在する。日本は橋本、小泉の自民党内閣以来アメリカ型ネオリベラリズムの規制緩和政策で動いているが、伝統の産業経済が股裂きに会っている。ヨーロッパ型の社民型シナリオを採用するかどうか、民主党の政策が注目されるところだ。

最期に堤清二氏と辻井喬氏の関係について上野千鶴子氏は面白い見方を示している。辻井喬氏は堤清二氏の「自己意識の人格」であるという。企業家の堤清二氏に対して、文明批評家としての辻井喬氏という存在である。辻井喬氏は「思想としては、いまでも共産主義をやめてはいるわけではない」という。それはセゾングループの総師として、自己破壊と革新性の経営方針を持ち続ける堤清二氏の姿でもある。しかしその姿勢は成長期の資本市場に極めてマッチしたが、成熟期の今では滑稽にしか映らないという宿命に遭遇している。


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