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野崎昭弘著 「詭弁論理学」

 中公新書(1976年10月)

人を悩ます詭弁の正体を見破って、知的な遊びを楽しもう

先に香西秀信著 「論より詭弁ー反論理的思考のすすめ」を紹介したが、詭弁というものをもう少し論理学という点から勉強してみたいと思って、少し古くなるが名著といわれる野崎昭弘著 「詭弁論理学」を読んだ。野崎氏の論点は「詭弁には悩まされる人が多いが、別に論戦に勝とうと云うつもりがなければ、詭弁の構造を知って論理パズルを楽しむという手もある」というものだ。香西秀信氏は人文学者、野崎昭弘氏は数学者という明確な出自の違いがある。したがって香西秀信氏は詭弁を人間関係から論じているが、野崎昭弘氏は数学的論理という点から眺めている。私も弁護士ではないので相手との論争に勝とうと思わないが、世の中の強者の嘘は見破って馬鹿にしたい気持ちと女房には言い負かされたくないという気持ちで詭弁論理には興味を持っているのである。香西氏は「人間関係には力関係があって平等な関係ではない。したがって論理では世の中は動いていない。力で押すのが強い人間で、論理を護身術に使うのは弱い人間である」という。議論の論理には世の中を変える力などありはしない。議論をしている暇があったなら多数派工作の根回しでもしていたほうがいい。強者は「力に訴える議論」をして相手を威嚇・脅迫して自説を通すのである。威嚇・脅迫・恫喝は力関係の行使であり、商取引の現場、政治の裏側、弱い者の説得にかならず用いられる手段(手口)である。力関係が対等でない者の間にそもそも対等な議論が成り立つわけがない。論理的議論は論者間の人間関係を埒外において成立している変な世界である。修辞学(レトリック)もそもそも真理の追究にあるのではなく、可能な説得手段の探求にあった。このためレトリックは古来より、非難、嫌悪、軽視、嘲笑の対象となってきた。香西氏は詭弁を弱者の論理、強弁を強者の論理という。詭弁を奨励しているのか、バカにしているのかいまいちはっきりしない。

野崎昭弘氏の経歴は、1936年神奈川県生まれ。1959年東京大学理学部数学科を卒業。1961年東京大学大学院理学研究科修士課程を修了。現在大妻女子大学教授。理学博士。数学教育協議会委員長。専門は計算機数学、情報数学とされている。著者の自己紹介によると、研究テーマーは「計算方法(アルゴリズム)の効率評価・改良とその限界を研究する計算量の理論と、コンピュータの演算部品を抽象的・一般的にモデル化した多値論理関数についてのどれだけの部品を用意すれば任意の入出力関係を実現できるかという問題(完全性の問題)を長年研究しています。」という。

著者は序文で「この本は議論に勝つためのハウツーものではない。知的・論理的な観察が主体であることを強調したい」と述べられている。「泣く子と地頭には勝てない」という言葉は、小児的無理押しと権力者の強弁を述べたものである。いずれも手に負えないものらしい。権力者は頭がいいのではなく相手のことを考えないから強いのである。理屈抜きの押しの一手は「強弁」と呼び、これに対して多少とも論理や常識を踏まえて「相手を丸め込む或いは誤魔化すのが「詭弁」である。大体こういう論理の本は理論で述べると数学者以外の普通の人は理解不能になるので、たいがい言語形式で表現される。例え話や例題である。したがって本書の殆どは例題であるが、それをいちいち詳細に説明していたのでは長大になってしまう。長い例は引用せず結論だけを紹介せざるを得ない。著者の目次に従うと本書は次の三章から構成される。

第1章 強弁術

権力者のむき出しの強弁ほど始末に終えないものはない。人々を収奪し利益を独り占めにするために、無理難題を言い出して恥じるところがない。最終的には人の命と引き換えに権力者の言い分を認めさせるのである。それが政治というものであった。そのためには何でも援用する。特に伝説・神話は格好の材料であった。最初から根拠が薄弱であるから、異論をさしはさむ事も困難であった。部族・民族優秀説などはその好例である。現在でも民族運動には多用されている。原理主義同士の争いにも生きている。日本ではこうして天皇族の覇権と神権説が打ち立てられ、半永久的な弊害に今も国民は苦しんでいる。強弁を非難されて「どこが悪いのか」と居直るのも強弁術の一つのテクニックである。小泉前首相がよく使った手口である。「どこが悪いのか」に対する反論の論証は結構難しいもので、その手間を相手に押し付ければ半分勝ったようなものである。相手は唖然として二の句が継げないので論争は消滅する。

相手が云うことを耳に入れずひたすら「自分が言いたいことを言いつのる」のは小児型の強弁と呼ぶ。テレビ討論会で政党代表がひたすらいいつのるのはこのタイプである。相手の質問なんかには答えずに、自説のみをがなりたてている。そして相手の発言中に平気に割り込んで発言する。私はいつもテレビのチャンネルを変える。また個人の感情や好き嫌いに関する発言はそもそも議論にならない。うなぎを食いたいかすしを食いたいかは議論ではない。しかしそれに類するような議論が横行している。文化論では特にそうだ。小児型の強弁の厄介なところは「妥協を知らない事」である。自分が間違っているかもしれないという慎重な態度はこれぽっちもない。他人の気持ちは考えない。世間の常識など眼中にない。自分が何を言ったかも忘れている。

権力者や有能な指導者たちは、単純な強弁術は使わない。もう少し詭弁術に近い、しかし精神的・肉体的・経済的その他諸々の威嚇を伴う有効な技術を駆使するのである。ある原理的な基準で善悪の二つにわけて、相手を悪の方へ追い立てるいわゆる「二分法」という手を使う。むかしの「魔女裁判」、いまの「悪の枢軸国」、「テロ」という言葉がその典型である。それで自分が正義や英雄の立場に立てると考えている。日本では「アカ」、「非国民」、「左翼」、「保守反動」、「何とか主義者」などというレッテル貼りが流行した。前小泉首相が多用した「抵抗勢力」もそのひとつである。敵か味方の二分法にあわせて感情的に相手を葬り去るのである。

相手の云うことは否定しないが、しかしこういうこともあると相手の言い分を帳消しにしようとはかることを「相殺法」と呼ぶ。ヨハネ伝には姦淫の罪で女を罰しようとしたパリサイ人にキリストは「自ら罪を犯していない人以外はこの女を罰せられない」というと、すべてのパリサイ人は去ってしまった。女の罪と各自の罪を相殺したのである。みんな五十歩百歩ではないかという論理である。この逆に多くの人が罪を犯しているのになぜ自分だけが罰せられるのだと居直る詭弁がある。中学生の間に広がる万引きを罪の意識なしにやっている現象もこれに関係する。これを「公平の原則」という。相殺法はもともと無理押しだと云うことを自覚しているので、各種の補強法が援用される。権威を振りかざす、大声を上げる、喋りまくるなどである。こういう強弁に対処するには健全な常識を普及させることである。強弁をする人は大概人から嫌われている。その人の人柄を問えばいいのだ。

第2章 詭弁術

詭弁の発展はギリシャ時代に求められる。知者、教師、雄弁家、詭弁家「ソフィスト」が輩出した時代である。言葉による真理の追究と詭弁術は紙一重であった。思考実験から原子論や幾何学という科学を生んだが、まともな弁論術、修辞学レトリックから詭弁術や論争術がもてはやされたのである。中国でも紀元前6世紀から3世紀までは戦国春秋時代といわれ「諸子百家」という思想家・弁舌集団が華やかな活動を繰り広げた。政治学、交通・産業育成、軍事、法学、宗教、芸術、文学などが一斉に花開いたのである。

強弁と詭弁の違いは必ずしも明確ではない。「悪か正義か」と強引に押し付けてくるのが強弁とすれば、何となくそう思わせるのが詭弁である。詭弁の鍵は豊富な実例(論証の厚み)と大学者の学説の引用(権威の利用)である。「・・・だそうよ」式の噂、デマの効果は抜群である。水俣病の病理が解明されていなかった時、さまざまな「・・・・とも考えられる」とか「・・・・かもしれない」という論法は、詭弁的相殺法として実に長い時間を無駄にした。次から次に出てくる新説を科学的医学的に反駁するのは容易ではない。チッソ側はその間有効な対策を打たなかったので、水俣病患者の数が増大したのである。その新説が責任逃れのために故意になされたのであれば、それは紛れもなく詭弁である。最近欧州では米国と違って公衆の関心事には科学的に根拠が明確でなくとも「予防原則」をとる傾向がある。

あてにならない「うがった見方」を振りましてもっともらしく思わせるのも詭弁である。法廷では心理学や精神分析は無意味とされる。「何を思っていたかを聞いても無意味です。なにを言ったか、何をしたかをきくべきです」  また「絶対的」、「相対的」、「本質的」という深遠な言葉も取り合ってはいけない。具体的な言葉の表現を求めないと、議論が空転するのである。論点のすり替えやはぐらかしにも気をつけなければならない。相手の言い分を逃がしてはいけない。叉それに付き合ってもいけない。

詭弁術は「主張の言い換え」という「犯しやすい推論上の誤り」と逆用する。「AはBである」と云う主張が、対偶では「BでないものはAでない」、逆では「BはAである」、裏では「AでないものはBでない」と替わった場合、対偶は成立するが裏や逆はかならずしも正しいとは限らない。それも正しいと勘違いさせることが詭弁である。「猿は尻が赤い」といって「尻が赤いならそれはサルだ」ということにはならない。尻が赤いというのはサルの属性であるが、ほかにも尻が赤いという属性を持つものは存在する。赤鉛筆、赤いスポーツカーなどなどである。「部分から全体に関することを云う誤り」では「あの女は浮気者だ」とはいえるが「女は浮気者だ」とはいえない。反対に「全体から部分に及ぼす誤り」では「多くの日本人は出っ歯だ」という主張から「お前は出っ歯だ」ということにはならない。

論理学でよく研究されているのが有名な三段論法である。大前提、小前提、結論の3段構えの主張である。肯定文か否定文か、全称文か特殊文化などの変形があって組み合わせが256通りあるそうだ。委しくは関係書を読んでいただくとして簡単な例を挙げると次の例では結論の正しさは保証されない。
否定二前提の虚偽:「すべての犬は猫でない」と「すべての子猫は犬でない」から「すべての子猫は猫でない」はまちがい。
不当肯定の虚偽:「天才は狂人である」と「彼は狂人ではない」から「彼は天才でない」とはいえない。
特殊二前提の虚偽:「ある大男は詩人でない」と「ある詩人は大男である」から「ある詩人は詩人でない」とはいえない。 
媒概念曖昧の虚偽: 「塩は水に溶ける」と「あなた方は地の塩のようだ」から「あなた方は水に溶ける」ことにはならない。 
四個概念の虚偽: 「小百合は女である」と「太郎の生きがいは小百合である」から「太郎の生きがいは女である」にはならない。 
アリストレスの連鎖式:三段論法の多段の組み合わせ  
ジレンマ(両刀論法):「お前は真実を語ると人に嫌われ、うそを語ると神に嫌われる」と「お前は人前では真実を語るかうそを語るだろう」から「だからお前は人に嫌われ、神に嫌われる」まさに何も話さないほうがよいというジレンマ(股裂きの刑)にあう。 ジレンマにも@簡単構成的両刀論、A複雑構成的両刀論、B簡単破壊的両刀論、C複雑破壊的両刀論という分類があるが紹介はしない。D選言不完全の虚偽:「この詩人は天才か放浪者である」といった中間層を無視した二分法

犯人探しにおなじみの「消去法」の詭弁が存在する。消去法が有効なのは解がある場合である。答えのない設問(解が明確でない社会的問題の政策論議)の消去法でとんでもない結論を出してくるのである。自分の望む回答をはずしておけば、他に答えがないのでどんな物でも消去できる。そのような場合の対策は必ず検証をする事である。ところが政策課題の検証は極めて困難なので、言いたい放題のことがまかり通るので厄介だ。多くの選択肢があるとき、気に入らない解は「それは実行不可能である」、「本質的な解決にならない」といって切り捨てるのである。「消去法」は「選言的結論肯定型三段論法」とも言われる。選言不完全の虚偽もこれに属する。アリストレスの連鎖式の変形に「ドミノ理論」がある。米国がベトナム戦争を起した論理「ベトナムが赤化されたら東南アジア全体が共産化する」とか「風が吹いたら桶屋が儲かる」式の連鎖理論である。一つ一つの事象の確率を乗じていけば、0.5の3乗は0.1に過ぎないことを考えない詭弁である事は直ぐわかる。

第3章 論理の遊び

詭弁は悪だと決め付けないで、頭の体操ということで論理の遊びを楽しもうと云うのが、著者の数学者たる余裕というところだろう。古今、頭の良い人、暇な人、シニカルな人、意地の悪い人などがさまざまなパズルを考案してくれた。有名な「アキレスと亀」という時間と微分問題をはじめ、頓智の世界に遊ぶのもこれまた数学的頭脳の鍛錬として面白いのではないか。ただ人を見てパズルを吹っかけないと、短気な人は怒り出すかもしれないのでご注意のほどを。著者がこの本のなかで用意してくれた、面白そうな説明しやすい例題をいくらか紹介しておこう。

1)ケネディの閻魔大王問題:ケネディが死んで冥界のいり口に立った。そこから天国と地獄への分かれ道が始まる。その交差点にチャーチルとヒトラーと云う先輩が立っているのである。チャーチルはかならず本当のことを答えてくれるが、ヒトラーは必ず嘘をつく。立っているのがチャーチルかヒトラーかはわからないとすれば、どのような1回のみの質問で天国へ行く道を教えてもらえるでしょうかという問題である。問題はヒトラーに出会ったとした場合の質問である。嘘つきには2回嘘をつかせれば本当になるはずだ。この問題の答えは「あなたはこの道が天国へ行く道ですかと聞かれたら、はいと答えますか」

2)理髪師のパラドックス:Aは障害者で外出する時は必ずBがいっしょしなければならない。理髪師Cは外出する時は誰か留守番を置かなければならない。はたしてCは外出できるのかと云う問題である。常識的な答えは簡単で「Aが外出しなければCは外出できる」のである。ところがAが外出する可能性があるのでCは絶対に外出できないという論理がある。同じような問題で共和党支持者問題もある。ある人が共和党が勝ったら私は禁酒するといい、また共和党が勝ったらパーティでビールを1ダース飲もうという。これは矛盾ではないかというが、本人はいたって正気で「共和党が勝つ見込みなんてないから、別に矛盾はしないさ」といっている。

3)自己矛盾のパラドックス:「ここに書いてある事は本当(or うそ)です」という文章は文法的正しくとも論理的には意味をなさない文章である。つまり正誤以前の文章なのである。そこで真理値r(0 or 1)の論理方程式の解が不能(存在しない)、不定(解が決まらない)から無意味な文章を作る事が可能である。

4)「人食いワニのパラドックス」:ワニに子供を取られた母親が「子供を食べないでください」と頼むと、ワニは「いまから、自分がどうするかあてられたら子供を返してやろう。あてられなかったらすぐに食ってやるぞ」と答えた。母親は「あなたは私の子供を食うでしょう」といった。さてワニはどうしたでしょうかという設問である。ワニが子供を食えば母親の予言が合ったことになりワニは子供を返さなければならない。子供を返したら母親の予言が外れた事になり子供を食わなければならない。ということでわにはパクパクとさせるだけで食う事もできず止めることも出来ず、まるでベルがなっているように永久運動を繰り返したのである。

5)死刑囚のパラドックス:王様はある死刑囚に「明日から来週の金曜日までに処刑する。ただし死刑囚が今日は殺されると分る日には処刑はしない」といった。さてこの死刑囚は死刑になるのだろうか。答えは「来週の金曜日であれば死刑とわかっているから死刑には出来ない。すると木曜日が死刑日になる。するとやはり木曜日は死刑できないという順に行くと結局死刑できる日はない」ということである。

例題はこのくらいにしておこう。ここには頭の悪い人はいないことになっている。すべて論理的人間だけである。間違った推理立てをする人はいない前提である。どちらにしても強弁も詭弁も人を幸せにするものではない。そこで罪のないお遊びになろうか。これが本書の結論である。


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