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真野俊樹著 「入門 医療経済学」

 中公新書(2006年02月)

医療制度を考える上で、医療経済学的視点は欠かせない

最近医療崩壊ではないかと云う事例が各方面から指摘されている。健康保険税の自治体による大幅値上げ、僻地医療、救急車拒否問題、産婦人科・小児科医不足、生殖医療をめぐる生命倫理問題など挙げだしたらきりがない。そこで真野俊樹著 「入門 医療経済学」に入る前に、先ず日本における医療裁判がもたらす医療崩壊(医師と患者の信頼関係の崩壊)を見て、医療の表層を洗い出し、問題の本質を理解するために医療経済学的視点が役に立つのかどうかを考えたい。


日本に於ける医療崩壊 医療裁判にみる医者と患者の関係

医師はそれなりの研修を受けスキルを高め、医療に貢献し先進国最低水準の医療費にて世界最高レベルの平均余命・周産期死亡率を達成している。WHOによる2000年の調査では、総合成績である「健康達成度総合評価」で第1位となっている。また、OECDによる2005年の調査でも、健康寿命・健康達成度の総合評価はともに第1位を達成している。だが近年、恩恵を受けたが、現状の医療体制は不十分であり又高額なものと患者側が感じる様になる医療不信が増大するようになった。 徐々に現状の医療体制では不可能な過大な要求をするようになってしまった。 医療不信を払拭しその期待に応えようと医師側の努力は行われ、「QOLの向上」などの新しい命題にも取り組み医療は進歩したが、医療不信は払拭されなかった。 この動きの中で、一部で医師の過労死が起こることもしばしばであった。 過大過ぎる要求を行う病院から医師が集団辞職する事例が散見するようになった。 医療民事訴訟が頻発するようになり、医師側は強い不満を持つものが増え始めていたが、独特の使命感により医療を支えていた。

2006年福島県立大野病院産科医逮捕を境に、特に昼夜を問わず地域医療に貢献していた医師の意欲は著しく低下し、負担の大きい(特に地域の)医療現場から医師が去るきっかけを作った。 また、地域の病院に医師を派遣している医局も、一つの科を一人で医療を行っている病院から医師を引き上げ集約化を行いつつある。 しかし集約化を行っても集約化した先で医師の退職が相次ぎ、その地方の医療が完全に崩壊するケースすら散見されるようになった。 初期臨床研修義務化を原因とした医師不足による医師の引き上げもおこり、急速に地域の医療体制が不備になるなどの事態が進行しつつある。 高度医療化に伴い高価格の医療機器導入の負担や、度重なる医療制度改革による診療報酬減少に伴う医療収入減少等により病院の倒産、自主廃業に追い込まれるケースが最近散見されるようになった。

捜査・司法機関による刑事立件・訴訟

2006年福島県立大野病院産科医逮捕
2004年に福島県立大野病院にて癒着胎盤を原因とした母体死亡事例において、2006年になって産婦人科医が救命できなかった結果責任を問われ、担当の産婦人科医が突然逮捕された。 この事例は産婦人科医が一生に一回遭遇するかしないかと言うほど稀な症例であり、しかも当の産婦人科医は地域に於ける産科医療をたった一人で貢献しているという状況に於かれていた。この大野病院の一件については日本母性保護産婦人科医会が声明を発し、「この様に稀で救命する可能性の低い事例で医者を逮捕するのは産科医療・殊に地域に於ける産科医療を崩壊させかねない」と批判した。

堀病院強制捜査
2006年神奈川県にある医療法人の堀病院で、2003年分娩後止血困難にて他院搬送後子宮摘出手術を受けるも多臓器不全のため死亡した症例をきっかけに、同院で行われた看護師による内診が法律に違反しているとされ、保健師助産師看護師法違反で捜査・報道された。 しかし、現実問題として助産師は不足しており、内診は看護師が行っている医療機関が多く見られた。 また法律では助産行為とはなにかが明確になっておらず、助産師不足により産科病棟運営・医業経営を困難とさせた。

医療崩壊をきたした因子

医療民事訴訟
従来医学的には正しい医療行為を行ったにもかかわらず、不幸な転帰をたどった症例において、遺族側が病院や担当医師に結果責任を要求する医療訴訟が多発し、医師・病院側が敗訴する事例が見られた。その判決において医療の不確実性を考慮に入れず、当時・現在の医療状況・医療財政、生命の摂理を一切無視したものが多発した。特に産科領域では、産科医の不断の努力によって達成された周産期死亡率の低下により一般的に子供は正常に生まれて当たり前との認識が生まれ、何か異常が起こると全て医療ミスと見なされてしまい医療訴訟となる可能性も高いといわれている。

医療行政
医学の進歩とともに国民医療費は年々増加するが、最近は経済状況が低迷し、国民医療費の伸びが国民所得の伸びを上回るようになった。 日本の医療は高くて非効率的であるという認識の下、国家財政を圧迫する恐れがあるとして医療費削減が叫ばれるようになった。 現実には日本の医療は現場の努力によってぎりぎりで行っている状況であったので、改革は現場にとどめを刺す形となり、医療崩壊が進みつつある。

初期臨床研修義務化
従来、医師国家試験合格した医師は、大学医局に所属することが多かった。ところが、初期臨床研修義務化に伴い市中の総合病院においても初期研修ができるようになり、加えて教育システムに一日の長のある病院は都市部に集中していた。結果として地方では初期研修の志望者が激減し、医局に新規に所属をする医師は減少した。 医療崩壊は、初期臨床研修制度が引き鉄となった、とする意見もある。 初期臨床研修義務化に伴い、医師として決められた期間に決められた様々な専門科の医療の現場に入るようになった。 そこで現実を直視し、過重な専門科・訴訟リスクの高い専門科・QOMLの低い専門科を選択しなくなってきている。米国ではある程度効果をあげた制度であるが、米国とは比べ物にならないほど指導医が多忙である日本において、その待遇の改善なく当制度を開始したことは無謀といわざるをえない。

マスメディアによる恣意的報道
元来問題となっていなかった症例を、自ら調査し、耳目を引くために事件性があるように報道したと批判を受けている例も散見される。 例えば奈良県大淀病院での妊婦死亡報道では報道内容が事実に反し、又科学的でないと医療従事者からの指摘があり、「公平性に欠け感情論に終始している報道姿勢は避けるべきである」という批判がある。 こうしたメディアの恣意的な報道が妄信的に信じられてしまい、結果として医師・病院が悪者扱いされる様になっているという現実がある。

医療のコンビニ化
深夜の救急医療の場に「昼は仕事をしているので、今すぐ専門医に診てもらいたい」「眠れない」など、救命救急の場にはそぐわない患者が来院するケースが目立ってきている。 このため当直医の負担は著しく、当直の翌日が休みになる勤務態勢をしいている病院は少なく、燃え尽き退職する医師や過労死をする医師も増えている。また自治体による小児医療の無料化に伴い、無料である気軽さから医療のコンビニ化が顕著となり小児科医の疲弊もすさまじい。相談する相手のない核家族の母親の孤立化も原因のひとつである。

市民団体
医療の将来を見据え、医療者と市民との架け橋となるべく活動を行っている団体がほとんどであると思われる。 しかしながら一部では異なった活動を行っている団体もあるのが実情である。またマスメディアと一緒になりネガティブキャンペーンを行うこともあり、医師のモチベーションの奪う結果となっている。 それら団体の特徴は
自然死を含めて全ての病院での死を医療ミスであるかのように主張する。
医療の不確実性を完全に無視し、結果論のみで論じる。
当時・現在の医療状況を完全に無視したもの。
医師の管理下では起きえないような極めて限定的に生じる副作用を持つ薬の使用禁止を主張する。

立ち去り型サボタージュ
虎ノ門病院泌尿器科部長 小松秀樹は、2004年に『慈恵医大青戸病院事件 医療の構造と実践的倫理』、『医療崩壊ー立ち去り型サボタージュ」とは何か』(2006年)を著し、日本の医療体制が直面する状況、なかんずく刑法にもとづく警察と世論を背景としたマスコミがいかに医師を追い詰めるかに警鐘をならした。小松は医師がリスクの大きい病院の勤務医を辞めてより負担の少ない病院へ移ることや開業医になることを「立ち去り型サボタージュ」と呼ぶ。元々医療訴訟率が高くその賠償額も高額であった産婦人科は担当医の減少が著しく、将来の担い手である医学生たちも産科医になることを忌避する者が多く崩壊が進行している状況にある。医者が命に関る医療から逃げ出したら、医療は崩壊する。


真野俊樹著 「入門 医療経済学」

経済とはサミュエルソンがいうように「希少な資源が、ある目的のために、どのように配分されるか追求する学問」であるだろう。したがって医療経済学は人間を対象とした医療と云う行為を経済行為(経済財)とみなし、それを学問として分析してゆこうと云う立場である。医療を支える基礎には医学、薬学、看護学がある事は誰しも理解できる。医学のなかに臨床医学と社会医学(衛生・予防・法医学)があるが、社会医学は主流ではないし、医療経済と云う分野も存在しない。経済学は合理的経済人(経済的な目的によってのみ行動する)を仮定するが、医療関係者のなかでは「医は仁術である」とか「命と合理性は無関係である」と云う観念が支配的である。といいながら「医は算術である」と云う風に儲けている人も多い。

経済学にはマクロ経済学とミクロ経済学がある。市場を中心に経済人の行動や生産物、労働、資本の市場を詳しく分析するのがミクロ経済学である。医療と云う市場を分析する医療経済学はミクロ経済学に属するといえるが、医療は国のインフラであるといえばミクロ経済学ではない。市場は価格を媒介として自発的な取引(資本主義市場経済)をする場であり需要と供給で価格が決まる。しかし医療費(価格)は診療報酬という公定価格に基づいて決定されるので、医療は「市場の失敗」にあたる。アメリカを除いた国では医療は排除性と競合性を有する私的財ではなく公的医療保険による公共財に近い。自由主義的資本主義では電力・水道・ガスなどの産業は規模によって費用が逓減するので市場が独占的になり(独占的競争市場)、政府による規制が必要である。市場には常に売り手と買い手の間に情報の非対称性と不確実性が存在する。医療の場合も医者と患者の間に医療知識・経験という財について大きな非対称性と、何時病気になるか分からないと云う需要の不確実性が存在する。医療という資源を分配する時、何らかの価値観が必要である。政府によって価値観を強制する権利と義務をあたえることを「価値財」といい、国民皆保健制度によってあまねく医療を受けることが出来ると云うのは価値財である。医療財情報の非対称性は今までは医師側のパターナリズム(家父長制)で医者が独占していたため、既にみた医者ー患者の信頼関係の崩壊と云う事態になった。医療は市場の神の手がうまく働かない分野であるし、必然的に政府の介入を許してきた。しかし政府も予算、市場への影響力、政治過程、官僚制のために失敗する場合が多い。

医療費は家計にとって大きな比率を占める(アメリカでは16%、日本では3.6%)。しかし医療を買うと云う意識はない。日本では国民皆保健制度によって国民は価格を意識することなく医療サービスを受けている。国民皆保健制度のないアメリカは住みにくいといえる。現在の診療報酬は医療の質とは無関係に、施された項目・投薬ごとの公定価格できまるため多くのことをしてもらうほど高いと言う料金体系である。医療と云う資源は(希少な資源)は無駄なく配分されるべきという「パレート効率性」で等しい扱いを受けられる公平性が強く意識される。医療・福祉制度では水平的な公平性(地方格差なく)がいつも問題になる。いっぽう介護保険や医療保険制度については水平性のみならず、垂直性(貧富の差なく)や世代間(未来にわたって制度を維持)の公平性も重要な視点である。近年「聖域なき改革」という観点から国民総生産GDPに対する医療費の割合と云うマクロ経済学の評価が導入された。そのため診療報酬が改定され(削減)、赤字の医療機関が出現した。これが医療崩壊の重要な因子である。また効率性を重視して医療に費用便益分析が盛んであるが、医療の場合平均余命の伸びによる価値向上や効果の評価が難しい。アメリカでは医療費を抑制するために医療保険者が医療内容に介入(適正医療の推進)している。これが「マネージドケアー」である。薬剤経済学やQOL(治療効果としての生活の質向上)の情報を勘案している。

医療経済学の経済学的基礎

利己的動機で行動する合理的経済人の行為が社会全体の利益をもたらすと云う、アダムスミスの「神の見えざる手」の時代(18世紀後半)には医療は古典派経済学の対象ではなかった。社会の生産物の分配に焦点を合わせると古典派マクロ経済学であり、市場の資源配分に焦点を合わせたのが新古典派ミクロ経済学である。古典派も新古典派経済学も市場の自律性を信奉していたが、ケインズは市場の自己調整能力を否定した。ケインズ派は近代経済学という。新古典派経済学は貨幣の価には関心を持たないが、ケインズ派近代経済学では貨幣(現金)は重要な役割を持つ。経済行動における情報の非対称性や不安の心理、為替レートなどを重視する。医療では「人の命は地球より重い」というような価値観が支配している。医療行為は価値観を含んでおり、その根拠となるのが医学である。

価値判断を排除する経済学を実証経済学といい、価値判断や望ましい状態とは何かを重要視する経済学を規範経済学と云う。経済学では実証経済学が主流であるが、医療経済学も実証経済学をベースにする場合が多い。厚生経済学は規範経済学に位置づけられる。QOLとか費用便益分析において効用と云うのは価値である。マーシャルの「目的論的な経済思想」の流れをついでピグーの厚生経済学が生まれた。貨幣的な価値に換算できるもので経済的厚生を考えるのである。厚生経済学は社会を構成している個人の経済活動を吟味することで社会の福利を最大にすると云う目的を持つ。したがって積極的な政府介入の必要を説いた。「最大多数の最大幸福」というベンサムの功利主義に由来し、最近の功利主義者センは「各自の潜在能力を十分に発揮できる場を公平にもたらす」という。このピグー的考えに対して、個人間での効用の比較ができないとか効用の定量性がないとか云うロビンズの批判がある。医療サービスと代替手段の効用の等価値点を無差別曲線と云うが満足度要求が高くなると解がない。予算が少ないと解のレベル(満足度)は低い。パイレート効率的な資源配分をきりすてることになる。これを旧厚生経済学の限界であった。

これに対して、ロビンズやヒックスらは効用の個人間比較を前提としない厚生経済学の構築を図った。これを新厚生経済学という。個人間比較より集合体の福祉の極大を目的にする。所得配分の問題は社会政策によって不平等を是正するのである。経済を構成する各個人の効用と社会厚生を対応させる関数を社会厚生関数とよび、財政学などの公共政策分野では根幹を成す重要概念となった。この社会厚生関数を経済の外部で与えられたものとするか、価値判断の問題も経済学的に決めるべきかで諸説がある。いっぽうヴェブレンから始まるアメリカ制度学派は歴史的社会制度によって行動規範が変わる(絶対価値観の共通性はない)ので、多様な市場を持つ比較制度分析が有用であるとする。日本の制度派経済学は宇沢広文の「社会的共通資本」が有名である。社会的共通資本とは自然環境、社会的インフラ、制度資本の3つにわける。医療は社会的共通資本で、その監理は官僚や市場基準で行われるべきではないと考える。

医療経済学とは何か

経済学の方法論で医療に適用できそうないくつかを取り上げている。「産業組織論」のS-C-Pパラダイム(産業構造ー行動ー成果)の流れで医療を見ると、日本全体の医療の体制と規制のなかで医療機関が営利を何処まで目指して行動するのか、そして国際的に日本の医療のパフォーマンスはどう評価されるのかにつながる。一医療組織に数量的な評価を求めるには限界が多い。「公共選択論」は市場以外の経済学的研究として、或いは政治学への適用として社会契約的解決をめざす。経済行動の主体として、政策決定に関与する政治家、官僚、社会利益代表(プレーヤー、ステークホルダー)などの行動に関する経済的分析を重視する。個人の利己的選択が果たして全体の最適な選択になりえるのかと云う点はジレンマに満ちていることをノイマンの「ゲーム理論」は示している。経済プレーヤーの行動を心理的バイアスから説明しようとするカーネマンの「行動経済学」は医療行為者が人間である限り心理的側面も重要であろうと云うことを示唆する。

ケネス・アローが指摘するように、医療と云う「財」は人間の基本的な健康と云うニーズであること、何時需要が起きるか費用はいくらかなど予測できないとか、情報の非対称性を持つと云う特徴を挙げている。また医療と云う財は不可逆性を持ちやり直しがきかないと云う特徴を持つ。医療と云う財(商品)の評価は高度に信頼性属性の非物質財である。医療はアメリカでは私的財とみなされる側面(排除性、競合性、外部性)もあるが、日本や多くの国では医療制度は価値財であると云う価値判断のもとで公的な強制皆保健制度による費用負担を行い、市場が機能しない、価格メカニズムを働かせないように設計されてきた。この場合には医師による供給者誘発需要(医師が増えると治療費が増える:セイの法則)と云う弊害がある。これは公的医療保険では費用の制約がないためと、情報の非対称性があるために起き易い。医療費の支払いが医療の質よりも医療行為の数で多くなるという「出来高払い」が中心である。そのため架空請求・過剰検査・診療と云う問題も起きる。経済学の需要-供給曲線の供給線において、限界費用より少し高いところに公定価格が設定される。自己負担比率(現在三割)によって消費者の便益は増加する仕組みにしてある。

医療と最新の経済学

近年インターネットの普及により、かっては口コミであった医療機関情報を検索できるようになった。しかし取引が効率的であるためには両者の完全情報が前提である。医療財では市場の失敗がなく損害を少なくするのはまだ無理がある。これを経験財という。重症医療の場合は経験による面が強く、損害の程度は大きく不可逆的である。情報があっても経験しないと評価は難しい。情報の質の監視も重要である。情報の監視を市場を使って行うほうが効率的であるが、法的監視も必要である。医療情報には診療情報、治療・薬剤などの医学情報、医療機関情報があるが、医療機関情報は品質に関する情報の不完全さによって、良品と不良品の競合が起きる。これをアカロフの「レモン市場」と呼ぶ。中古車市場や金融市場のように良品の売り手が撤退し市場が成立しなのである。市場が高価格品と低価格品に分極する場合にレモン市場が成立する。高いから信頼して買う層、安いものだけ買う層に分かれるブランド商品・実用商品とか、健康食品市場である。しかし現状において高い医療がすばらしい満足をもたらすと云う声が確立していないので、医療市場の「レモン市場」は成立していない。医療では価格と平均的な質が無関係である。

医療におけるリスクとは、金融でいう価値の減少ではなく、経営や保険理論でいう「経済主体の安定に対して影響を与える偶然の事象」と定義される。高齢社会とは普通の人が歳とともに障害を背負うリスクが高くなる社会であろう。健康を失うリスクは年とともに増加するので、医薬品市場(7兆円)や健康食品市場(1兆円)が繁盛するのである。とくに健康関連の消費の増加はストレス社会から来る不安による。生活のリスク増加による不安を起さないためにはサービスの信用が必要である。医療制度は生命保険契約と補完して社会システムの市場の失敗を補っている。しかし医療においても価格変動と云うリスクは、診療報酬(公定価格)の低下と云う形でおき、供給側の死命を制する。これが現在の医療崩壊の一因でもある。また医療現場では医療事故、薬害エイズ・肝炎、手術の感染症併発などリスクも多い。安全機材の使用と医師の教育と云うリスクマネージメントにお金をかけなくてはならない。

医療の課題とは患者の利益と医療機関の利益を増加させることであったが、現在では医療費抑制のための制約が加わった。かけられる費用が少なくなれば解の満足度も低い。社会保障制度の費用負担という政府支出が少なくなれば市場メカニズムが働く(価格が利用量に影響)から、患者の排除切捨てになるとか社会不安に連結するので、社会保障制度による費用支援が必要なのだ。ところが介護サービスは情報の非対称性が少なく、消費者がケアーマネージャに対して自分の希望を云うことが出来るので、サービス消費量に価格メカニズムが効果を発揮する分野である。健康保険費用は本人が1割から3割を自己負担する一部負担と、アメニティの部分(差額ベット、食事代の一部、洗濯代、証明書発行など)については保険外負担である。現在混合診療は禁止されているが、高度先進医療や選択医療を保険外負担とする混合診療も議論されている。アメリカでは医療費がGDPの14%を占める問題を経済学が無視できなくなっている。しかし価格メカニズムは医師にモラルハザード(医者が独断で余計な診断医療を行う)がおき易い。

医療の仕組みを経済学で分析する

社会保障は資本主義体制内で公共部門が大きな役割を持つようになった経済体制を混合経済と云う。北欧のような社会福祉国家も混合経済体制といえる。医療システムはイギリスでは公的機関が供給者で財政も公的負担で税を基本とする。日本では供給者は私的機関であるが財政は公的機関で保険と税の方式である。アメリカは供給者も財政も私的機関である。その日本において対GDPあたりの国民医療費は1970年より直線的に増加して2000年で8%、総額30兆円となった。国民一人当たりの医療費は年額24万円である。高齢化率は17.2%である。老人医療費は国民医療費総額30兆円のうち11兆円に達した。税引き前の国民所得に対する税負担と社会保障負担の合計の比を国民負担率という。国民の公的負担の重さを表現する。社会保障を充実させるには国民負担率を上げざるを得ない。2006年度の政府支出に占める国民負担率(括弧内は租税負担率)は日本で43%(23%)、アメリカでは38%(23%)、イギリスでは51.2%(37%)、スウェーデンでは71%(50%)である。日本はまだ福祉国家型と云うよりアメリカ型に近い。税には直接税と間接税方式があって日本は間接税の割合が少ない方式である。各国の税方式を厳密に考慮しないと国民負担率は簡単には比較できない面がある。国民医療費財源別負担率は、個人が45%、国が33%、事業主が22%であり、企業の負担率は寧ろ減少しつつある。非正規社員には企業は健康保険料を負担していないからだ。

近年の医療技術革新には目覚しいものがある。ヒトゲノム解読に始まった遺伝子診断技術、創薬、細胞医療、再生医療、テーラーメード医療と云うイノベーションを生んだ。経済学では医療費との関連で、CT、MRI、PETのような医療費を増大させる技術革新をビッグチケット技術と呼ぶ。1940年代から始まった第1次医療革命では感染症が克服され、疾病克服から患者減少、医療費削減と云う流れがあった。1960年代以降の成人病の時代は第二次医療革命と呼び、診断技術が長足の進歩を遂げた。所謂ビッグチケット技術革新であった。21世紀は第三次医療革命に入った。臓器移植や生殖治療、再生治療が実現しつつある。個別医療費でみると診療点が10万点以上の高度医療(高額医療)が増加している。遺伝子診断・遺伝子治療についても巨額の治療費が必要になった。2005年の薬剤市場は7兆円となった。技術の進歩は医療費を押し上げる方向に動いている。また臓器移植という規制の多い先端治療では日本を避けて、医者も患者もアメリカに移ると云う空洞化現象が目立っている。滞在費を含むと1億円程度のお金をカンパで集めて渡航する患者の話を新聞でよく聞く。

現在の日本の医療にはさまざまな公的規制がある。経済的規制とは公定価格とか、先端治療(臓器移植)で独占を許して供給義務を負わせると云う規制である。社会的規制とは治療の水準(質)を保つために設備や医者・看護師・ベット数など一定の基準・制約を設定する。1985年より政府は地域医療計画を定めた。医療圏と基準病床数ほかを定めた。この制度は医師誘発需要仮説を抑制するために病床数を制約するものであった。東京、埼玉、千葉、茨城、神奈川、栃木など関東圏は10万人当りの病床数が1000以下と少なく、一人当りの医療費も12万円と抑えることができた。ところが鹿児島、徳島、北海道などの地方ではベット数が2000以上で、医療費も18万円以上であり野放図な状況がよく分る。市場では非合理的な存在は排除され退場するのが普通である。ここで医療機関の競争が問題となる。混合治療の禁止措置の一部緩和も検討されている。現在は株式会社による病院経営は認められていない。非営利(出資者への配当禁止)の民間医療法人が中心で、病院の61%、病床の50%を経営している。2004年から公益法人制度改革の検討が始まった。公益性の高い医療サービスを提供する法人にたいする公募債発行とか税制上の優遇、多様な収益事業展開を可能とする検討である。

医療機関への報酬の支払い方式まさに医療経済学の中心課題である。公的経営や介入の多いイギリスやフランス、ドイツでは開業医に対する人口に相当した「人頭払い」や「予算配分方式」(包括払い)がとられている。日本では「出来高払い」である。出来高払いのメリットは医療関係者が費用を気にしないで適切な治療を行える点である。「包括払い」のメリットは国や健康保険組合が医療費を管理することができるのである。日本では2003年に特定機能病院82病院に対してDPC(一日当りの疾患別定額払い)と云う支払い方式が始まった。DPCでは診療報酬算定式は基礎償還点数×診断群分類別係数×医療機関別係数になる。包括払いと質の保証がセットになった点がユニークである。DPCのもとの経営では在院日数の短縮、薬剤の管理といった原価管理が重要になって来る。アメリカではICD(国際疾病分類)に基づいた1万種の病気に対して500程度の病名グループ別に医療費を設定するDRG(診断群別分類)方式である。病気がコストによって分類されたことである。DRG/PPSという疾患別支払額定額制度である。

医療のプレーヤーとその行動

公共選択論という経済学では行動主体をプレーヤーと呼ぶ。医療サービスでは医療の受けて(患者)、提供者(医療機関、医師)、お金の出し手(保険者)、仕組みの作り手(行政)と分けてミクロ経済学の視点から見てゆく。患者と医師の間の「情報の非対象性」や「不確実性」は生活習慣病が主流の現代ではかなり改善されてきたようだ。しかし高度医学の専門性の壁が高く情報の非対称性があるときは、依頼人(プリンシパル 患者)が代理人(エージェント)に判断や取引を依頼するモデルをプリンシパル・エージェント理論という。普通の医療で弁護士のような仲介人を立てることはないが、生体移植ではこのエージェントが活躍するのは新聞紙上でよく耳にする。かかりつけの医者が専門医療機関を斡旋する(紹介)場合もこれに当たる。この場合にはエージェントによって遮られてさらに見通しが悪くなり、交渉を元に戻すことが難しいことが起きる。患者とかかりつけの医師のように「コミットメント関係」という信頼関係に基づく共同体意識を持つことである。患者と医師の関係がバラバラになると信頼関係がなくなって医療過誤訴訟問題へ発展する。3分診療が問題になるが、医師が間違いさえしなければ効率的ともいえる。田舎の診療所のように人情味濃く付き合うことは、現在の医師には過重労働となる。過疎地においては医師は地域の共有財産である。だから使いすぎたり苛酷な労働を強いては、財産の損失につながりかねない。共同体の人々が協力して医師と云う財産を大事にしなければいけないという「共有地の悲劇」論もある。

医療の供給者は病院・診療所・保険薬局である。病院数や病床数は世界的に減少傾向にある。日本の病床数も1990年から減少に入ったが、先進国では一番遅くかつ緩やかである。地域医療計画では医療圏と基準病床数ほかを定めた。この制度は医師誘発需要仮説を抑制するために病床数を制約するものである。これにより病人が切り捨てになるのか、無駄な病院依存体質(社会的入院)を改善して医療費削減につながるのか今後の検討を待つ。スウェーデンでは1992年エーデル改革により急速な病床数減少と社会的入院が減ったと云う。1000人当りの病床数は日本では13、平均入院日数は28日で、ドイツでは1000人当りの病床数は9、平均入院日数は11日である。反対に100病床当りの医師数は日本で16人、ドイツで40人、看護婦数は日本で42人、ドイツで102人である。短い入院日数と手厚い看護のほうが望ましいのではないか。市場経済は生産効率と消費効率を別々に論じる必要がある。患者のニーズが価格に対応していないため消費効率改善が市場原理は有力ではない。医療においては供給者の生産効率も甚だ定義するのが困難である。よって医療制度においては全世界的に成り立つ市場原理と云うものは存在しない。無闇に医療界の効率化を叫んで市場原理を導入しようとすれば、医療は根底から崩壊しかねない。医療機関の効率的な経営のため自らの方向性を戦略的に考える時、すべての治療を行う垂直統合、特化した分野の規模拡大をする水平統合、専門性に特化する方向が考えられるが、日本ではIHNという保健・医療・福祉複合体による内部化が進んできたといえる。全国的親組織のもとに外来、病院、老人福祉、在宅、保健部門まで統合するのである。企業内の活動を市場よりも効率的にするためには、規模の拡大と範囲の統合と費用の削減である。一時は外部化による競争促進で費用削減を図るのが主流であったが、内部化による取引費用の削減も重要な戦略である。

日本の健康保険制度は職域健康保険と国民健康保険の二つに大別される。2004年での加入者は市町村国民健康保険が4720万人、政府管掌健康保険(中小企業従業員)が3522万人、組合健康保険が3013万人である。1世帯あたり保険料は市町村国保が15.5万円、政管健保が15.7万円、組合健保が16.4万円、予算は市町村国保が3兆960億円、政管健保が7967億円、組合健保が85億円であった。組合健康保険ではまさに政府の代わりに企業が負担しているのである。この日本の医療制度は1926年施行の健康保険法に始まり、1938年に「国民健康保険」が創設された。1961年に国民皆保健と皆年金制度が確立した。それ以降は給付と負担の調整と抑制のせめぎあいの時代である。注目すべきは1984年に「特定療養費制度」が施行され、「高度先進医療」と「選定療養」は混合医療の禁止からはずすというのである。自由診療の規制緩和である。1983年に「老人保健法」が施行され70歳以上の高齢者医療が切り離された。一般に社会保障は普遍主義、生活保障、受益者保護、所得再配分、受益者負担、労働力確保と云う意味合いを持つ。社会保険の特徴は、強制加入、保険料の拠出、応能負担と扶助原理にある。医療保険の財源は税金、社会保険料、自己負担の3つしかない。

医療管掌行政は厚生労働省である。厚労省の動機(モラル)は国民によい治療を提供する、医療費を下げることに尽きる。厚労省の意志は数次の医療法改正に現れる。1997年の第3次医療改正で総合病院から地域全体での総合医療に変わった。2001年の第4次医療法改正では、地域の連携強化と病院の機能分化が主張された。今後の行政の課題は、診療報酬体系の改革、急性期入院に対してはDPC の導入、慢性期入院に対しては包括支払い方式の検討、外来集中の排除のほか、小児科・夜間休日診療、調剤報酬・診療報酬の見直し、在宅医療の課題は山積している。中央社会保険医療協議会(中医協)の改組、日本医師会、日本製薬工業協会といった業界団体と健康保険組合連合会の利害調整も重要な課題である。行政は制度改革に当たって、マイケル・スペンスの提唱した「シグナル」と「コミットメント」という情報提供と約束が必要である。例えば医療費自己負担は3割以上にはしないという政府のコミットメント(健康保険法改正の附則で述べた)が必要である。青空的な消費税率値上げは国民は納得しない。コミットメントの伴わないシグナルはもはや国民は信用しない。


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