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木下英治著 「福田vs小沢 大連立の乱」

 徳間文庫(2007年12月)

ねじれ国会 安倍首相辞任を受けた2007年秋の政治状況

2007年7月29日安倍内閣発足後初の国政選挙となった第21回参議院選挙の結果、安倍総理の率いる与党自民党は歴史的大敗を喫した。その一年前の2006年9月の小泉総理の「郵政」衆議院選挙の歴史的大勝で与党が衆議院の議席の2/3以上を獲得したことにが嘘のような負けっぷりであった。ここから国会のねじれ現象が始まった。戦後日本国憲法が出来て以来理論的には予測された事態ではあったが、現実的に体験した初めての出来事になった。この事態は議会民主主義が日本で成熟した政治形態を形成できるかどうかの試金石である。決して憂いたり、忌み嫌うものではない。一党で安定多数を取ることはできなくて、政権の連立はフランスやイタリア、ドイツではかなり長い間常態化していた。価値の多様化により政党支持は分散し、弱小政党の乱立は確かに見かけは非効率的に見えるかもしれないが、中国や途上国のような一党独裁政権の効率的政治運営でないところが本質なのである。強権的国家が人権や民意を無視して良かれと思う政策をごり押しすれば、富国強兵と云う観点では効率的かもしれないが、議会民主主義は育たないし、大政翼賛会的議会には政策のチェック機能はなくなる。それが結局は民衆の生活にしわ寄せが来て、富の分配バランスは悪化するばかりである。ここは日本が成長する機会であると考えるのが健康的である。国会のねじれ現象の解消策として突然のように降ってわいたのが07年10月末の「自民・民主党大連立」騒ぎである。結論から云うと「大連立」では95%の与党化であって大政翼賛会の誕生である。歴の逆流であって進歩ではない。苦し紛れの姑息な手段である。これを民主党が蹴ったことは民主党が健全な政党である事の証明みたいな物である。良く踏みとどまった。自民党一党政治と云う戦後の55体制(安倍さんが云う戦後レジーム)は崩壊しつつある。何を勘違いしたのか安倍首相は戦後レジームと云うことを、戦後の民衆の権利を圧迫することで古い権力層の都合のいい価値観を復活させることだと思ったようだ。戦後レジームで損をしたのは古い権力階級で、得をしたの大衆の権利だと云うのである。規制緩和による企業活性化と云う小泉内閣の改革路線と云うのは、富の分配を権力層へ厚くし、大衆の権利を奪うことが目的であった。その結果が格差拡大、福祉後退、医療崩壊、労働環境の悪化につながった。

飯尾潤著 「日本の統治構造」ー官僚内閣制から議院内閣制へー中公新書(2007年7月)と云う本がある。木下英治著 「福田vs小沢 大連立の乱」と云う本は政治ジャーナリストの書いたもので、ややもすると政治家の言動の羅列で終始し、文脈的に齟齬する点が無きにしも非ずである。そこで「大連立」をめぐる政治家の動きを紹介する前に、すこし日本政治体制史から戦後自民党政府の議員内閣制の歩みを整理しておくと見通しが良いのではないかと思う。そして情報通には面白いだろうが、私には自民党の派閥の動きは全く興味がないので、著者には悪いが派閥次元の人の言動はすべて割愛する。

政府・与党二元体制と政権交代なき政党政治ー55体制     飯尾潤著 「日本の統治構造」より抜粋

官僚内閣制が省庁代表性を通じて独自の社会基盤を持っていたが、議員は別の形で官僚と内閣の行政権を統制する方法を見つけた。それは与党自民党本部機能の拡大と族議員の隆盛である。日本では「政府・与党連絡会議」というものがある。政府と与党は明確に区別されている。議院内閣制ではでは政府と政権党は一体化されるはずだが、日本では「政府・与党二元論体制」と呼ぶべき仕組みが成立した。自民党では党本部での活動が実質的な立法活動であるといってよい。自民党で与党活動の中心は政務調査会と税制調査会である。部会は省庁別に組織され法案の審査手続きは所轄官庁の完了が有力な議員に概要を伝え説明することから開始される。政調の部会は政府提出が予定される法案全てを審議する。国会の委員会での法案審議が形式的で実質審議がないのに比べて、自民党政調部会での法案審議は実質的である。官僚が与党に法案説明する国は何処にもない。部会では「全会一致方式」または「一任」で決定するが、どうしても反対の議員は退席して議事進行を妨げない。総務会で決定された法案は議員に対して総務会が党議拘束をかける。逆に総務会決定がなければ閣議へは提出できない。こうして全ての法案は与党の事前審査を経ない法案は閣議決定を行わないという慣例の成立である。閣議はこういう与党審査を経ているから実質会議もなく署名だけの儀式になっているである。国会運営も政府とは区別された与党と野党の国会対策委員会(国対)を通じて相互交渉が主流になる。国対政冶は議院内閣制をとる国としては異例なほど野党に配慮してきた。多数派で与党は押し切っていいはずであるが、野党が国会無視と騒いだりしないためにも無理難題を飲んできたり妥協をした。このように法案成立に向けて政治家と官僚の接触は多く、政治家は官僚に圧力や脅しを加え行政権に介入ができたのである。省庁別の族議員の役割は否定的な面が多いにもかかわらず重要である。族議員が業界団体など利益集団と関連官庁につながって日本型の「鉄の三角同盟」が形成されている。調整型官僚に対しては政治家は強い態度でのぞむのでいわゆる「政高官低」という力学も生じている。与党自民党の派閥はかっての首相になろうとする人の個人派閥ではなく、総主流派体制では派閥は固定化され、派閥の長が止めても派閥は維持される。そして当選回数に応じて誰でも閣僚になれるのである。(当選7回が入閣の基準)政治家と官僚の交渉によって融合または交錯が進み、行政的政治家や政治的官僚が生まれる所以である。このように法的責任が内閣にありながら、与党機関に実質的な決定権がある場合、与党側の責任の所在は不明確になる。

議院内閣制が機能するには政党政治の確立が不可欠である。議院内閣制で最も重要なのは政権選択としての総選挙と衆議院での首相指名選挙である。ところが日本では55体制が出来て以来、自民党が長期にわたって衆議院の多数派政党を独占し、1党優位体制が固定化した。つまり有権者の選択によって首相や内閣が変ることが非常に少なくなった。政権の座は自民党内の派閥抗争に限定された。政権交代は自民党内部の事情できまる。こうした状況で少数野党の抵抗で,選挙で敗北したはずの野党も政策に影響力を持っている。この様な野党に対する細やかな利益配分は、自民党長期政権下に於ける重要な慣例となった。それは一定の利益を野党に与えることで政権交代のエネルギーを蓄積させないという仕組みかもしれない。中でも自民党長期政権の秘密は衆議院における中選挙区(定員が3-5名)にある。政党は同一区で複数の候補をたてるので政党中心の選挙活動が出来ない。どの候補者を選ぶかという個人選択になる。又与党自民党の公約は極めて多数の項目に渡り抽象的な表現にならざるを得ない。選挙民は公約なんか読んでいない。中央直結の利権呼び込みが魅力的に見えるのである。日本政治において最も基底的な問題は、政権交代可能な民主政治はどうすれば可能かということであろう。強い政権党が継続して政権を握っている場合、強い野党を作るためには小選挙区制の持つ魅力を利用することであろう。1994年の公職選挙法改正による選挙制度改革が必要である。
内閣提出法案に対する自民党の事前審査制によって国会審議が空洞化し、議決を行うだけの機能に低下し、「討論して決定する」という審議過程がないのである。見世物としての国会審議を「アリーナ型」といい、ドイツ、アメリカのような審議中に法案の修正形成が為される「変換型議会」は形骸化して,委員会重視になった。この委員会での妥協も難しい。「会期不継続の原則」で審議未了で廃案になる。野党としては「強行採決」は「抵抗する野党」という人気を得られるので、こういう事態も野党にとってありがたいのである。参議院どころか衆議院でもその存在意義は極めて曖昧になっている。野党が議会対策の策を弄して自民党を追い詰めるというパターンを繰り返しているが、それで政権交代になるという道筋があるわけでもない。国民には与野党のメンツの立て方による馴れ合いにしか移らない。

戦後日本の政治構造は、全体として擬似議院内閣制として機能してきた。確かに内閣だけの運用を見れば官僚内閣制的な慣行を引きずっており官僚優位的な面もある。しかしそれは政府・与党二元論体制を前提とした政治家と官僚が渾然一体化した政策決定プロセスを経ているのである。政治家は十分に官僚をコントロールしている。官僚も省庁代表性というバイパスで官僚原理を利用した社会的利益の集約を行って民意を吸収しつつ政策決定に資するのである。自民党長期政権は選挙による首相選択を奪われた選挙民に対して、派閥抗争による首相交代劇場を演じて有権者のうさばらしを提供してきた。1990年以降経済の破綻を解決する日本の政治システムの機能不全が明らかになり、なかなか成果が上がらない。
では日本の政冶システムには何処に問題があるのだろうか。第一に政治の方向を決める「権力核」の不在である。(戦前の日米開戦に陥った国家体制におなじ)改革という言葉は溢れているが何をどう改革するのか論理がない。第二に権力核の民主的統制の強化が課題になる。選挙による政権選択の問題である。第三の問題は政策の首尾一貫性の確保の難しさである。

議院内閣制を存分に機能させるにはどうしたらいいのだろうか。衆議院選挙における政権選択選挙の実現と内閣総理大臣の強化である。有権者が選挙で政権政党と首相候補と政権公約の3つを同時に選ぶことが必要だ。1994年の選挙制度改革で衆議院議席の6割に小選挙区制が導入された。しかしそれから13年経つがいまだに政権交代はなされていない。自民党の問題というより、野合野党「民主党」にほうに宿命的な問題があるようだ。議院内閣制度を強化するには首相自身の魅力も大事だが、内閣官房の強化(首相官邸のホワイトハウス化)が必要かもしれない。特に日本の閣僚の危機管理にはお寒いものがあるからだ。
近年政冶行政改革によって政治構造も変化し始めている。なかでも選挙制度改革1996年10月橋本内閣の衆議院選挙で敗北した小沢一郎の新進党は解党し、1998年民主党が発足した。1998年7月の参議院選挙で自民党は少数派となって橋本内閣は退陣した。小渕内閣、森善郎内閣は短命に終わり、小沢一郎の自由党は2003年民主党へ合流し二大政党の兆しが現れた。2001年4月小泉内閣が発足し、改革路線に反対する自民党の保守派を壊すと宣言し高い支持率で政権を維持した。道路公団民営化、郵政民営化、公共事業削減を「断行」して2005年9月の郵政衆議院解散で小泉は大勝し与党で議席の2/3を占めた。しかし2007年7月安倍首相での参議院選挙では自民党は大敗を喫した。橋本内閣の内閣官房を強化したことは後の内閣にも継承されていった。小渕内閣では副大臣政務官制度が導入されたことは政治家の行政への監督責任強化になった。小泉内閣では閣僚候補に関する派閥推薦を受けず首相専断とした。さらに経済財政諮問会議を多用して重要な課題に関しては首相の前で閣僚が会議を行い首相が裁断するという閣議の実質的な活性化を図った。

参議院選挙民主党圧勝  2007年7月29日

2007年は12年に一度の統一地方選挙と参議院選挙が重なる「亥年選挙」の歳で、統一地方選挙で力を使い果たした地方ではどうしても参議院選挙への取り組みが集中を欠く選挙となる。2月民主党長妻議員は年金の納付記録漏れが5000万件ある事を柳沢厚生労働大臣に認めさせた。後手に回った自民党は年金記録5000万漏れ問題で大きく守勢に立たされた。また閣僚の政治資金報告書問題での不祥事が相次ぎ、最後には松岡農水相大臣自殺を受けた赤城農水大臣の絆創膏と云うメデイアのいじめを受けていた。安倍首相はまさにサンドバック状態であった。7月9日小沢代表と連合の高木会長は参議院選の政策協定に署名した。連合の組織内候補七名を民主党比例代表候補35名の中に入れた。連合も労働組合組織率の低下と云う地盤低下で労働格差是正が課題となっていた。小沢民主党代表はエネルギッシュに動き、四国では四県にすべて新人を立て全員を当選させたのである。自民党は岡山選挙区の片山虎之助、島根の景山俊太郎と云う大物までも落選する始末であった。7月29日第21回参議院選挙の結果、改選議席121のうち、民主党は60議席(開戦前32)と伸ばし、自民党は37議席(開戦前64)と激減させた。比例区では民主党は20議席、自民党は14議席、公明党は7議席、共産党は3議席、社民党は2議席、新党日本は1議席、国民新党も1議席であった。8月24日自民党は参議院惨敗を受けて参議院選総括報告書で次のように反省した。

1:年金記録不備、政治と金、閣僚の失言の逆風三点セットで国民の怒りと失望を買った。
2:安倍首相の指導力、統治能力に国民が疑問を呈した。
3:政策の優先順位が民意とずれていなかったか。「美しい国」、「戦後レジームからの脱却」が空疎に聞こえたのか。
4:都市部との格差で地方が自民党離れしていた。
5:国民本位の政策実現能力と説明責任を果たす内閣をつくらなければならない。
6:弱者の痛みのわかる政治、安心・安全な生活が出来る政策を推進しなければならない。
7:新たな支持層開拓、国民の心を掴む政治家、候補者の日常的地元活動の活発化などが必要。
というように殆ど安倍首相不信任に近い内容か、大幅な政策転換を迫る内容であった。安倍首相の右翼イデオロギー主導政策から、生活重視政策への転換が焦眉の課題となった。

安倍首相自壊  2007年9月12日

安倍首相は参議院選敗北を受けて、橋本首相のように辞任するかと思われたが、続投を表明した。「安倍を選択するか、小沢を選択するか」と二者択一をせまるヒステリックな安倍首相の声と、「この選挙に政治生命をかけている。負ければやめる」という小沢の背水の陣の心構えの声で、国民は小沢を選んだようだ。しかし安倍は首相の座に未練を残したのか、自民党は止めさせてくれなかったのか、安倍首相継続で進んだ。8月19日から25日の日程で安倍はインドネシア、インド、マレーシア訪問に発った。この旅で安倍首相は水が悪かったのか胃腸の調子を崩したことが、体力・気力失調の基になったようだ。訪問から帰った安倍首相は8月27日内閣改造をおこなった。「お友達内閣」と批判されていたので、今回の改造は側近を排してベテランで固めた。首相補佐官を5人から2人に減らし、側近中の側近塩崎官房長官を更迭した。安倍前内閣の目玉であった首相補佐官制度は崩壊した。麻生は幹事長に、与謝野が官房長官となった。ここから麻生幹事長の「反小泉路線」が明確に示された。小泉が禅譲した安倍政権の膝元から「反小泉路線」、「郵政反対議員復党問題」が起きたのである。これに反発したのが「小泉チルドレン」であった。安倍政権は出発から麻生に牛耳られていた。9月3日、松岡、赤城と続いた農水相の不祥事から懲りもせず、遠藤農水相が不正補助金受給問題で辞任した。すばやく対応したのは麻生と与謝野であったことから、「与謝野・麻生政権」と揶揄されガバナビリティを発揮できない安倍首相の印象のみが目立った。安倍首相は9月7日APEC首脳会議のためシドニーに発った。9月9日シドニーでの記者会見で阿部首相は給油活動の継続を公約して「職を賭してゆく、職務にしがみつくことはございません」と云う発言に国民は驚いた。自分の進退を法案審議の前にあからさまに言及するのは異例なことであった。

9月12日午後1時から国会で所信表明演説に対する代表質問が予定されていた。「安倍首相辞意」という報道が流れたのが1時前であった。1時30分麻生幹事長、二階総務会長、石原政調会長、尾辻参議員会長、山崎参議院幹事長が官邸に出かけたが、辞意は決まっていた。直ちに次期首班候補の取り沙汰が始まった。政治の空白は許されない。

福田内閣発足  2007年9月23日

9月12日の夜、麻生、二階、大島らが集まって今後の対応を協議した。この時点ではすばやい総裁選挙を実施して流れを作りたい麻生は「14日告示・19日投票」といい、それに対抗して時間をとって対応しようとする小泉派の駆け引きとなった。派閥的にいえば森、小泉、安倍と三代の首相は同じ派閥から出ている。この時点では同じ派閥の福田と云う線は出ていなかった。13日朝、森と青木は福田支持を打ち出し、古賀、武部も小泉改革路線堅持で福田支持をうちだして事態は一挙に全派閥が福田支持に傾いた。この福田支持へ動いた派閥の裏の動きは詳しくは分からないが、13日を境に麻生待望論はスローダウンした。9月14日には自民党の9つの派閥のうち麻生を除く8派閥が福田支持を表明した。9月23日自民党総裁選が行われ福田が330票、麻生は197票で、福田が第22代総裁に就任した。自民党は小泉・安倍内閣の路線を引き継ぎながら綻びを繕う福田の抜群のバランス感覚と安定性に期待したのであろうか。福田は「平和外交と環境問題」が以前からのキーワードであった。規制緩和による格差拡大、市民生活のネット−ワーク破壊については新たな保護政策でバランスをとろうというのが福田の考えである。福田は総裁選を通じて、政策転換を公約にしていた。格差是正(地域格差、所得格差、医療格差、労働格差などあらゆる歪の緩和)が最大の課題と福田は考えた。

9月26日福田内閣が成立した。閣僚は殆ど改造安倍内閣を継承し13名の閣僚は再任された。官房長官には町村、外相に高村、防衛相に石破、財務相に額賀、文部相に渡海らが任命された。一方党人事は幹事長に伊吹、政調会長に谷垣、総務会長に二階、選挙対策委員長に古賀の四役も決まった。福田の公約はある意味では民主党のスローガンと同じである。あえて対立点は避けて共通点だけで民主党と交渉しようとするのが「失点のない内閣」といわれる所以である。こうして福田内閣は過渡期を乗り切る運命を担わされた。同時に2008年に予定される次の衆議院選挙を視野に入れた対応が自民党の最大課題である。古賀を選挙対策委員長、菅を副委員長にして候補者選びが始動した。武部は小泉チルドレンの教育係りとして次期選挙での待遇が問題となっている。郵政選挙の刺客と当選復帰組との調整なども問題である。次回の衆議院総選挙では2/3の議席を取ることは不可能であろう。政策課題も重要である。党内若手の改革続行組による「プロジェクトJ」では財政再建の問題は避けて通れない。地方票を理由にして今自民党では公共事業のばら撒きが復活している。「道路特定財源の一般財源化」も暗礁に乗り上げたままである。与謝野が主催する「財政改革研究会」では消費税の値上げを「2009年と2010年の2段階で消費税を現行の5%から10から15%に引き上げ」を考えているようだ。2008年度は福田が公約したように消費税は値上げしないようだ。

2007年10月1日より日本郵政公社が民営化して、JPグループ5社となった。国民新党は民主党と会派を組むために「郵政民営化見直し法案」を申し入れている。小泉政権はアメリカの金融制度改革プランにしたがって、329兆円の資産を持つ日本郵政公社を解体した。ところが連合は郵政民営化に賛成したので民社党の態度は煮え切らない。「郵政民営化凍結法案」が廃案になった8月から国民新党は民主党に共闘凍結で脅しをかけたので、10月23日民主党の小沢代表と国民新党の綿貫代表は参議院で統一会派を結成することで合意した。全国特定郵便局長会(大樹)の票は侮れない。

福田・小沢党首会談・大連立の乱 2007年10月30日

10月19日与党幹部懇親会で福田首相は「韓信の股くぐり」という言い方で民主党との協力路線で望もうと考えていた。衆参のねじれ現象は当然ありうる事態である。そこをどう打開するかが日本の議会制民主主義の正念場である。途上国なら軍事クーデターがいつも行われる。日本は先進国であり文治国家である。ここをうまくやる智恵がないようでは国際的な信用をなくする。政治は別に自民党のためにあるわけではなく、国民のためにあるというたいどであれば「大連立」でなくとも、色々な手があるはずである。「政策協議」から「パーシャル連合」なんでもありではないか。「大連合」なる言葉は武部が言い出した言葉である。柔軟な態度は小泉も取っている。「民主党は自民党の反主流派だ」というのである。民主党の主導的立場の人には自民党出身者も多い。いくらでも話し合えるチャンネルもある。

10月29日夜公明党の太田代表と谷垣政調会長に、福田首相から「民主党代表小沢氏と党首会談を行う」と云う電話が入った。この会談は自民党伊吹幹事長と民主党大島国対委員長が交渉して決まったものだ。これには11月1日の給油支援期限切れを前にしての打開策であった。裏では読売新聞の渡邊恒夫、自民党の森元首相、中川秀直が動いていたといわれるが確証はない。10月30日午前10時から国会内で福田・小沢の初の党首会談が行われた。両党の幹事長と国会対策委員長が同席した。会談内容は小沢は「殆どがテロ特措置法関連であった」という。小沢は国連中心主義を述べアメリカへの援助に過ぎない新給油法案には反対であった。2回目の会談は11月2日午後3時となった。公明党の太田代表に対して福田首相は「政策実現のためには政策協議機関から連合と云う話になるかもしれない」と匂わせていた。小沢代表には、8月8日にアメリカシーファー駐日大使が面会して、新テロ法案への理解を求めるなどのプレッシャーが掛かっていた。小沢の主張する「恒久法制定」について議論が進み一時中断した。小沢の恒久法では却って武力行使を容認することになり憲法違反であると云うのが石破防衛相の考えであったが、政策協議で福田は何でも飲む態度で出てきたようだ。6時29分から会談は再開され、そして会談終了後「政策協議、政策実現への新しい大勢を作ることで連立することについて、小沢代表は党に持ち帰った」と云う福田の説明があった。しかし党首会談が単なる政策協議なのか、大連立構想だったのか、今でも不明である。

11月2日夜の民主党役員会で小沢から説明を受けたが、6名の役員が反対意見を言い小沢は孤立した。小沢は福田へ「党内を説得できなかった」と断りの電話を入れた。11月3日夜小沢氏は代表辞任と身柄を執行部へ預けるという書類を書いて、側近の樋高剛に岐阜にいる鳩山民主党幹事長へ届けさせた。鳩山は急遽東京へ帰り4日午後1時過ぎ小沢事務所で小沢を捉えた。小沢は午後4時に党本部で辞任会見を開くと云う。小沢は民主党を簡単に自分の意思で動くと想っていたのだろうが、民主党は大分成長していたのである。トップダウンで唯々諾々と従う民主党ではなかった。石井、鳩山、菅、岡田、羽田、渡部などは辞任に反対であった。午後4時40分から記者会見で読み上げた小沢代表の見解を以下に示す。
1:11月2日の党首会談で福田首相がねじれ国会打開の為の政策実現のためわが国の安全保障政策に関してきわめて重要な政策転換を決断した。自衛隊の海外活動は国連安全保障理事会または総会決議にかぎる。新テロ特措法にはこだわらないというものだった。
2:国民の生活が一番大事と云う民主党の政策実現を図りたかった。
3:民主党が政権をとるのが正道だが、民主党と自民党の政策協議は有効な道であると確信した
4:11月2日夜の民主党役員会で政策協議案は否決された。
と民主党から不信任を受けたも同然であるから、けじめとつける意味でも自分は辞任する。辞任届けを提出し、私の進退は執行部と民主党に委ねたい。また11月3、4日の朝日新聞と産経新聞を除く新聞報道は全く悪意に満ちた報道であり、強く抗議する。

11月5日夕方、富士屋ホテルに菅、輿石、鳩山の三役メンバーが揃って小沢の慰留に伺った。一晩考えさせてくれと小沢は言った。6日朝、昭和44年当選組の同級生である羽田、渡部、石井の三人は小沢に面会して、小沢は留任の意志を確認したようである。午後二時半議員懇談会で小沢続投承認を取った。11月7日午後4時半過ぎ民主党本部で両院議員懇談会が行われ、小沢は代表留任の挨拶を行った。二代政党制を確立し、日本に議会民主主義を定着させることが小沢の行動原理であり、次の総選挙で楽観論を見直して勝つ意志で代表を続けたいというものであった。小沢代表は良く話し合って意思疎通を図ること、大連立はない事の釘を刺されて、小沢代表は同意した。「連立ではなく選挙で政権交代」と「説明責任」を果たしたことになった。では自民党側で今回の党首会談ではどの程度根回しが行われていたのだろうか。やはり自民党では「総裁一任」が基本である。小沢もその自民党体質を濃厚に身につけていたので、代表の自分に党がついてくるだろうと思っていたのではないか。自民党側のメリットはまず新テロ特措法の対応に突破口が開ければと云う思いがあった。自民党では恐らく選挙協力を前提とする公明党との連立ほどは考えていなかったであろう。緩やかな政策協議が優先されていたと思われる。大連立騒動の後、朝日新聞が行った世論調査では、民主党支持率は変化なし、読売新聞では民主党支持率は3.5%アップ、産経新聞はマイナス1.6%であった。


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