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なだいなだ著 「神 この人間的なもの」

 岩波新書(2002年9月発行)

宗教をめぐる精神科医の対話
宗教とは不安と絶望から逃れるための、一つの集団的心理療法である

なだいなだ氏は言うまでもなく慶応大学医学部出身の精神科医・作家である。一般向けの著書として「権威と権力」、「民族という名の宗教」、「神 この人間的なもの」、「アルコール問答」(いずれも岩波新書)がある。私は「民族という名の宗教」、「神 この人間的なもの」の2冊を読んだので、順次紹介したい。まず本書を読んで極めて明快に理解できたことは「宗教とは不安と絶望から逃れるための、一つの集団的心理療法である」ということである。三大宗教の祖、キリスト、ブッダ、ムハンマドはいずれも呪術で民衆の苦悩を救い、連帯の輪を広げ、不安と絶望との中で生きるすべを教えた。これが宗教の始まりで、あとはひたすら宗教の堕落の道であったことを知った。近年オウム真理教という宗派が大量殺人事件を起して日本社会を恐怖に陥れた。戦争中の日本の狂気とオウムの狂気を同じ視野の中で見ることが出来る。日本は戦争中オウム同様の宗教的狂気のなかにあったし、集団的神がかりの状態にあったと精神科医は見る。国家という宗教、民族という宗教、革命という宗教全て集団的精神病である。そうした呪縛から自由になるには、呪縛された人間のほうから宗教を考えなければならない。なだいなだ氏の論の持って行き方はなぜか私の心にしっくり収まる。久しぶりの名著だ。本書の舞台立ては、二人の同僚の精神科医が70歳を過ぎてから、宗教論議を再開するという対話形式で始まるのである。平易な言葉使い、うまく仕組まれた会話形式の筋立てと展開は大変分りやすくて読みやすい本となっている。2,3時間で読みきれるのではなかろうか。早い人なら1時間で、内容をメモしながらじっくり読み進めれば3時間ぐらい(今回の私の読み方)である。

1)人は何故宗教に入信するのか

信者のなり方にもいろいろあって、一つは家族の慣習から意味も分らずに入信する場合が殆どである。これは宗教を必要とはしていない。二つは絶望と孤独にさいなまれ哲学に救いを求めたが満たされず自ら救めて入信する場合は大概病気にかかったときが多い。そして三つは折伏を受ける場合も多い。折伏を受けやすい人間はすでに神経症的な人間である。教団はなんでもない人間を不安に落としいれて、絶望の淵を見させ神経症の状態へ追いやるのである。教義なんかどうでもいい「信じないと不幸になる」という脅かしをする。この手法は威圧的で集団に入れば安堵できるという意味ではファシズムの手法である。社会主義や共産党などの入信手法もこれである。イデオロギーも宗教と変りない。新興宗教はこの集団性に傾いている。こうして宗教のほうもイデオロギー集団も指導者を神格化する。

三大宗教には大概教義という大部な経典があるが、教祖は実は教典を知らない。あとで弟子達が書き付けたものである。教祖がそれに同意したという証拠はない。したがって宗教は前から教義で引っ張っているのではなく、信じるものが自分自身「不安と絶望」に後ろから押されて宗教に出会うのである。キリストに求めたのは「不安と絶望」を解決してくれる神ではなくキリストという人間だった。人は悩んでいるときは益々孤独になる。その孤独が恐ろしいのだ。人間の不安の根源は独りにされるという恐怖ではないだろうか。不安と絶望を癒すのは神でなく人間と「共にいるという安心感」なのだ。それまでの部族社会にいた神々は何の力にもならない。キリストは唯一神を説いて部族の神々を追放したのだ。唯一神の前の人間の平等が説かれた。人間を救うのは人間なのだ。(キリストは自分を人間だといったが、後世の信徒は彼を神に祭り上げた。滑稽極まりない所作である。)

2)宗教は集団精神療法だった

キリストは天才的なグループ精神療法の臨床家ともいえる。当時の人々には心因性の病気(ヒステリー)のかかっている人が多く、ガンなど身体性の病気は治らないにしても50%ほどの心の病には呪術で直った場合も多い。これを奇跡という。しかも暗示はグループでかけたほうが効果的で、キリストは一神教という世界観で呪術治療を革命的に進歩させた。当時の社会は部族の数だけ神がいる多神教で、ひとびとはすべての災害や病気をそれらの神様のせいにしていた。人間に恵みを与えるのは神(唯一神)で悪をなすのは旧来の部族神(悪魔)ということにしたのである。又治らない病気の人を絶望から救うにはどうしたらいいかを考えた時同じような病気を持つ人々といっしょに生活をすることだという結論であった。いわば治療コミュニティーというべきものが信徒集団になった。唯一神に首長は人間は神の前では平等ということになり、部族社会の支配体制への革命である。そして部族社会の被差別者や社会に不満を持つ人間を集めることになり、キリストは危険人物となって処刑された。ブッダやムハンマドもまちがいなく集団精神療法家であった。ブッダ自身が神経症であった。難行で超能力を身につけようとしたが、悟りは得られず菩提樹のもとでふっと「人間が不安なのは生きているからだ。治ろうとじたばたするより現実を受け入れていきてゆけ」ということが分かった。ブッダは最初から治療のために呪術は行わなかった。ブッダは心理学的洞察を持っていて、「お前は罪深い」というよりは「もっと慈悲を」といったほうが受け入れやすい。ムハンマドは徹底した現実家で理想主義よりは生活指導で人間の心を正そうとした。

3)宗教はこの二千年堕落の一途をたどった

部族社会を滅ぼして世界の帝国的統一を考えていた政治的天才たちには、これらの一神教の始祖の説いたことは、自分達の政治体制にぴったりであった。非常に利用価値の高いものであった。キリスト教はローマ帝国の維持に使われた。一神教の始祖たちがいなければ、こうした多民族の巨大な帝国は存在しなかった。キリスト教は「愛」、「博愛」を、イスラムは「慈悲」、仏教も「慈悲」がキーワードになった。古代日本も仏教伝来とともに聖徳太子によって律令国家形成が為された。しかしながら教義の重要な部分には部族社会からの死後世界の考え方(天国と地獄)という迷信が残滓として引きずっている。これは民衆を指導する上で「天国地獄」は実に脅迫的な誘導効果を発揮した。更にわるいことに教祖の神格化、偶像化(キリスト、ムハンマド、ブッダらは自分は人間だといっているにもかかわらず)がなされた。始祖たちの言葉は経典として編集された。正しい言葉もあるが多くは間違ったまま経典化され以降2000年間反論を加えることはできない。イエスはメシアだとして神格化された。聖人や経典崇拝は部族社会への逆戻りである。9.11後「戦争だ、復讐だ」と国民を部族的狂気に駆り立てるブッシュの横で、「右の頬を打たれたら・・・」というキリストの言葉は全く現代的な意味を持つ。原理主義とは経典まで引き戻すことだが、今必要なのは原点主義つまりイエスならどうしたかという質問をする気持ちである。愛国心は形を変えた部族中心感情の復活である。天国の約束などは偽の癒しで平和こそが根本的な心の癒しであろう。政治家達が国民を駆り立てるときに使う言葉は二元論的な考えで、敵と味方、善と悪、神と悪魔である。普通の神経では人を殺すことは出ないが、集団ヒステリー状態では悪と呼ぶ人を殺すことが出来る。人は完全な孤独状態に置けば幻想や妄想が生まれることは分かっている。人は集団から離れることは孤独になることであり耐えられないことなのである。この弱さが宗教を堕落させていった。それが組織の宿命と重なって、宗教の世俗階級化(教皇、巨大教会など)をもたらした。1455年に始まったジャンヌダルクの魔女狩りは実に1692年セーレムの魔女まで続いた。魔女狩りは異端尋問と同時に起きている。キリスト教も大きくなる過程で地方の呪術信仰を取り込んでいる。これが習合である。日本でも親鸞の浄土真宗は江戸時代には幕府支配の一端をにない、明治時代には天皇家と婚姻を結んで貴族化したのである。また仏教勃興の折、神道やアニミズム信仰や修験道などを取り込んで、お手軽な神仏習合が平気で行われている。ようするに近代と中世が曼荼羅模様に出来上がったのが宗教である。国民国家、民族国家といわれているものも部族国家の再生で、国家が宗教になった。日本は明治時代国民国家を作るときにあたって、天皇制神道という古代宗教まがいの新宗教をつくった。これが神風特攻隊という自殺行為を生んだのである。アラブの自爆テロと寸符変わらない。完全な部族社会への逆戻りである。始祖たちの理想主義は2千年早すぎたのである。出来もしないことを二千年以上も前から言い出したのだ。

4)精神医療という宗教

三大宗教は生きた人間が作り出した、これが出発点である。これを原点主義という。旧約聖書の部族社会の残虐性、これは当然世の中が狂っていると思う。残念ながら歴史が見るように絶対的な正常も来ないだろう。三大宗教の登場は狂気によって狂気を制するという意味合いはあった。毒をもって毒を制する効果があった。精神科医が治療として行う精神療法・心理療法にはどこか宗教的なにおいがする。精神科医と呼んでいい人は16世紀のヨハネス・ワイヤーで、彼は当時の医学では患者を治すことは出来ないが、患者を迫害する健常者側の狂気を取り除こうとした。精神病は悪魔ではなく病気なんだということを叫んだのである。18世紀のピネルの時代でも患者を治療することではなく、患者を牢獄(監禁)から解放したのである。行政と医学の闘いであった。分裂症という診断が出来るようになったのは1911年のことである。彼ら精神科医は狂気の人を宗教的迫害から救うため、これは病気だ信じたのである。21世紀の世界では科学の進歩で教会や宗教が口を挟む領域はなくなったと考えられる。しかし自分の人間としての価値を守るために妄想でも何でも信じずにはいられない人も多い。科学を神の、医学を神にしなければいられない人間もいる。無神論を宗教にしてしまう人もいる。それでも宗教はある。孤独から人間を救い出し一つにまとめるための原理、それが唯一神である。日本人には日本を宗教として(日本教、会社教)として、まとまるものを神聖だと持っている。そして人間を纏めるもの、民族主義、社会主義、国民国家もみんな宗教である。集団の狂気ほど正気意識を持つものはない。それが宗教だ。このようにして宗教は拡散した。20世紀ニーチェは「神は死んだ」と嘯いた。恐るべき程の戦争に明け暮れた20世紀は狂気そのものだった。残虐行為というものは、特別の人間だけがやることではなく、戦争という集団的狂気の中で誰でもやりうる事であった。ファシズムは集団的狂気の伝染病だ。靖国神社参拝論者にはその宗教的酔いが生きて残っているのである。まだ醒めていないのである。日本は天孫民族という優越人種の神話を作り、他民族の蔑視、奴隷化を正当化した。その結果が太平洋戦争敗戦である。あの妄想から抜けられない人がいて、南京虐殺はなかったとか、従軍慰安婦はいなったとか、日本民族の新しい教科書をつくろうとか、皇軍・神風に英雄的行為を見たい人、天皇制宗教にまだ酔っている人を心情的右翼という。まだ集団的妄想から覚めていないのである(右翼的言動で人を暗殺したり、金を脅し取って生活している人は暴力的右翼である)。
精神医療は20世紀に始めフロイトのおかげで心理学という武器を手に入れた。おかげで宗教が不安と絶望から逃れるための集団心理療法であることがわかった。狂信ということは集団的妄想による目前の絶望からの救いである。薬で治るものを精神病といい、治らないものは宗教と呼び分ける。宗教は慣習や伝統的癖、儀式と呼び捨ててもいい。不安を麻痺させるために手を合わせたり、ナンマイダと唱えたり、胸で十字を切ってお払いしたり、肥大した習慣に押し潰されているのが宗教だ。イエスもブッダもムハンマドも今精神科医は病人として扱う。貧しくて弱い人間は、抑圧され、心に傷を持つ。不満と不安と悲惨を重ね持つ。宗教に変って彼らを病人として引き受けるのが精神科医である。精神科医も教祖様のようにその不幸な大多数の人々の救済を考えないか。精神科医が自分オコミュニティーに積極的にかかわってゆこうではないか。精神科医よ病院を出よ!


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