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工藤隆著 「古事記の起源」

 中公新書(2006年12月発行)


無文字時代(縄文〜古墳時代)のヤマト民族の生きた神話と歌垣を反映する古事記は日本社会の二重構造の基になって、良くも悪くも日本人のアイデンテティとなった

岩波書店「広辞苑」(第三版)によると「古事記」については次のように記述されている。「現存する日本最古の歴史書。三巻。稗田阿礼が天武天皇の勅で暗誦した帝紀及び先代の旧辞を、大安万侶が元明天皇の勅により撰録して712年献上。上巻は天地開闢から鵜葦草葦不合命まで、中卷は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説と多数の歌謡とを含みながら、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語っている。ふることぶみ」古事記は8世紀(奈良時代)に編纂された日本最古の書物である。しかし古事記は天皇家が忽然として創作した書物ではない。縄文、弥生期から1万年以上連綿と続く日本列島に住む民族の無文字時代の神話がその源にある。著者は本居宣長以来の「訓詁注釈学」の行き詰まりを打開する新たな「生きている神話」、「生きている歌垣」を、中国長江流域の少数民族文化、沖縄、アイヌ民族文化に求めて、神話の成立過程のモデルを大胆にも構築して、古事記の起源の解明を試みた画期的な古事記研究の始まりであろうか。

古事記にはおおまかに四つの顔があるという。神話の書、文学の書、神道教典の書、天皇神格化のための政治の書というものだ。本書の著者は文学者であるから、当然古事記を文学の書として見て行くのである。文学的な基礎作業的研究は、本居宣長の「古事記伝」に代表される江戸国学の訓詁注釈的な伝統を継承して、既に戦前までにかなりの水準に到達していた。同時代の「日本書紀」、「風土記」、「万葉集」、「続日本紀」などとの比較対照研究、使用漢字の分類などの研究が膨大に蓄積されてきた。しかし神話には文字によるもの以外に、無文字の低生産力段階の社会で謡われた「生きている神話」が欠かせない。著者らは中国周辺の少数民族の創成神話調査をおこなった。「生きている神話」には中国帝国による近代化から取り残され今も文字を持たない少数民族の数百人程度の村に、人々の心を一つの共同体に纏める政治的な役目も持ち、歴史や智恵を教える総合性を持ち、宴会や客の接待宴で謡われる娯楽的な役目も持ち、葬式・結婚式・村の儀礼に欠かせない。日本列島に住む我がヤマト民族(単一とは言わない、歴史的な交雑をした上での共同体民族)は、幸か不幸か中国大陸とは海を隔ててているので帝国の直接的侵略や言語・文化支配もうけなかった。中国文明からすると中国大陸内の少数民族と同じ運命を持った文字を持たない少数民族であった。したがってヤマト民族には縄文狩猟文化村社会の形成(BC11000〜BC300)から弥生農耕文化国社会(BC300〜AC300)をへて、古墳時代豪族国家の形成(AC300〜500)となった。そしてついに飛鳥奈良時代には広域国家の形成(AC600〜700)と中国文明による近代化が進み漢字文字、律令制、仏教の吸収が行われ、中央集権国家をめざした。「古事記」の編纂はまさにこの古代の近代化の只中で生まれた。神話としての古事記にはどの程度まで縄文・弥生・古墳時代の残影が残っているのだろうか。そういう意味では本書の研究は折口信夫の沖縄文化の研究、柳田国男の日本民俗学の延長上に位置するが、神話研究をはるか古代へ遡った点で一線を画する。

古事記の成立事情

古事記が伝える神話をどこまで時代的に遡れるか。いま本書は縄文・弥生の村社会から地方小国時代を古代の「古層」といい、古墳時代の豪族の国形成時代を古代の「中間層」といい、飛鳥時代以降の国家の成立を古代の「新層」と呼ぶ。本居宣長の「古事記伝」は訓詁注釈的研究の一大成果であると同時に、ヤマトのアイデンティティを見出そうとする研究でもあった。宣長は日本書紀は漢心の書物として古事記をヤマト心の結晶として高く評価する。古事記の全てを「上代の清らかなる正美」と絶賛するのである。これが明治時代の皇国史観につながるのであった。本書はそして古事記の書かれいる神話について検証に入る。無文字時代の「生きている謡われる神話」はさまざまな変化をもつ乱立状態にあるのが普通である原型的な神話のなかから、古事記は「たった一つの神話」を権威化して編纂するのである。それはまさに強力な国家の成立と宮廷文化・都市文化の成立、文字の国家統治への手段としての普及といった条件が熟した時期に似誕生した書物なのである。古事記成立(712年)に先立つ7世紀始めには大和朝廷で文献資料の編纂事業も始まった。620年推古帝のとき聖徳太子と蘇我馬子らが「天皇記」、「国記」、「臣連本記」を編纂したといわれるが、大化の改新の戦争で蘇我入鹿とともに焼失した。681年天武天皇のときに川嶋皇子以下9名(この中には大安万侶はいない)に命じて帝紀、上古の事を記録したといわれる。大安万侶による「古事記の序」によれば、「諸家の持たれる帝紀および本辞」の資料に拠ると同時に、稗田阿礼という語り部の暗誦する文字化されていない氏族の古伝承を参考にしたといわれる。「古事記」と「日本書紀」の決定的な違いは、「古事記」が「神代」を一つの系統に纏めたのに対し、「日本書紀」は「神代」の資料については一つに纏めて権威あるたった一つの神話を作ろうとする意志を持たなかったことである。「日本書紀」の編纂は720年であり、「古事記」に遅れること僅か八年である。用いた文献資料集はほぼ同じであったはずだが、明らかに「古事記」の編集者は、日本書紀の編集者に入れなかった(命令者が違うのと編集目的が違うので、編集者の重複は無かった)ようだ。できあがった二つの書物は、「日本書紀」は正調漢文で書かれ中国王朝へ提出してもおかしくない「日本の現代史」であり、「古事記」は和文混交体で和臭が強く中国人なら頭をひねる文章で公に出来るものではなく、あくまで万世一系の天皇家の神格化を狙う天皇家の私的な書物である。はっきりいうと「日本書紀」は藤原不比等が天皇家の権力の空洞化による中央集権律令国家をめざし、「古事記」は疎外感・心情を同じくする神祇官の大(多)家と権力を奪われた女性元明天皇による天皇家の神格化と血脈の永遠化を願う書である。

「古事記」と日本の二重構造

大安万侶による「古事記の序」によると、ヤマト族の「古」、「上古」、「先代」の至高の価値を見出す思想を強調し、そのためすこしでもヤマト語の文脈に近づける変則漢文体を採用すると宣言している。600〜700年代は飛鳥時代といわれ、天皇家の血を血で洗う後継者争いに明け暮れたいわば最も天皇家が実力(軍事力)を持っていた大王の時代から、しだいに中央集権体制を敷くために中国から急速に文明を移植した激動の国家建設の時代であった。国家運営に必要なあらゆる分野の知識技術が流入した時代である。これを著者は「古代の近代化」と呼ぶ。日本は過去3回猛烈な文化輸入の大嵐に見舞われた。第一回がこの中国文明による「古代の近代化」であり、第二回目は「明治維新」の西欧文明の近代化であり、第三回目は第二次世界大戦敗戦によるアメリカ文明による民主化・高度経済成長期である。この三回の文明流入時に柔軟に文物を受け入れ国家の発展に成功しているのだが、つねに意識の底層には古層の伝統的ヤマト意識が「バランスをとるという形が支配している。この相反するものの同時存在という二重構造が日本を特徴付けている。戦後の著名な知識人で日本政治思想学者丸山真男はこれを音楽との比喩で「通奏低音」と呼んだ。それはそうとして古代の近代化は中国外来文化の圧倒的流入は、ヤマト的なものすなわちアイデンティティの危機を招いた。時流に乗る人(藤原不比等ら律令太政官僚貴族層)は積極推進派であるが、時流から疎外されてゆく人々(天皇家と神祇官僚貴族層)らは特にこの危機感を強くした。天武、持統、文武、元明という700年前後の天皇たちの時代の政治状況は、天皇の神格化を強力に推進し、その神格化された天皇を中心とする中央集権国家の時代である。もはや血刀をさげて闘う天皇の姿はなく、万世一系にこだわる生殖機関に成り果てた。天皇の血統を保証する代わりに藤原不比等ら律令太政官は権力を手中にした。天皇の神格化は天皇の存在が神祇官という祭祀の官僚制度に隔離され、現実政治から遮断されたところに「祭り上げ」という日本的権力の二重構造が出来上がった。686年天武天皇が没し、大津の皇子が謀反で死罪にされたのは、天皇の皇后(後の持統天皇)の実子草壁の皇子を天皇位につけるためであった。草壁皇子は天皇にならぬうちに没したのでやむなく690年持統天皇が自ら天皇になる。草壁の皇子の子軽皇子が697年の即位して文武天皇となる。文武天皇も若くして707年に没し、首皇子(後の聖武天皇は小さかったので、草壁皇子の妻が元明天皇として即位する。この二人の女性天皇の子や孫が即位することが保証されると同時に政治的実権は縮小していった。そして698年政治的実権とあわせて神祇官も藤原氏と同族の中臣氏が掌握した。710年藤原氏の提唱で平城京へ遷都した。奈良時代の到来である。神祇官の大(多)氏の没落と元明天皇の疎外感が共有されたとき、天皇家の万世一系と神格化を謳う「古事記」が編纂された。

こういう政治状況から、「古事記」は「古」いにしえへの回帰とヤマト語文体・口誦性へのこだわりが貫かれている意味がわかる。これに対して「日本書紀」は神代記を「一書にいう」と多数の伝説を列記して相対化し、神武天皇から持統天皇までを一つの本文だけで記述した。そして持統天皇に近づくに連れ記述内容も膨大になってゆくのである。すなわち「日本書紀」の目的は日本の現代史を書くことであった。「古事記」は推古天皇までで、倭の五王時代から推古天皇までの記述は極めて簡潔に記述されている。すなわち「古事記」は「神代」を万世一系に書くことが目的であった。「古事記」は最初から時流に「遅れた書」(抗した書)で、満たされぬ心情がエネルギーとなって古事記を名作・古典にした。「古事記」の遅れとは人間の生存の原点に直結する原型生存型の文化に対する執着であった。「古事記」が持つ神話・呪術的世界は日本文化論・日本人論の全体にかかわる根源に迫ることでもあり、宗教感、人間生存の原点、国家と関係を持つのである。「古事記」は生きている原型的な神話の総合性、実用性、儀礼性、歌唱性を継承するととも宗教や国家論にも及ぶ作品である。

「古事記」の持つ天皇神格化の書は初代の神武天皇の出自を高天原の天照大神に求め、代々の天皇を荒人神に仕立てたことである。「古事記」が虚構の神話といわれるのはその一つの体系的論理で書かれた文学的創作にある。合理性を追求した明治維新以降の西洋文物による近代化においても、天皇は政治的実体のない権威のよりどころとして利用され、「古事記」は皇国史観の聖典として再び日本を大きく動かした。戦後民衆主義憲法の下でも象徴天皇制が維持された。少数民族の村段階の神話は多民族との国際関係において生存できないはずであるが、日本古代国家において原型生存型の神話が国家の中枢部において継承された。これは天皇家の維持と原型生存型神話の共存という極めて日本的な事情である。近代国家に求められるリアリズムと村段階の神話的反リアリズムが同時存在する二重構造が形成された。明治以降では西欧的合理主義と呪術的・神話的皇国史観の同時存在である。これは政治権力を遂行する支配層はリアリズム的合理主義で動いているにもかかわらず、政治的実権のない天皇家に呪術的・神話的価値観が引きずられていることにある。そしてこの矛盾が爆発する時、現政権権力層は政策的失敗を塗口するため天皇家の呪術的・神話的価値観を強引に国民全体の価値観に押し付け、ファシズムに走ったのである。日本では仏教という宗教さえ神話的・呪術的世界に引き寄せられ、アニミズム的教義に変質した。「草木国土悉皆成仏」とか「葬式仏教」という日本独特の仏教である。現代日本文化の基層には、縄文・弥生期に由来する自然と密着したアニミズム(精霊信仰)・シャーマニズム(呪術体系。払い禊)文化がしっかり根付いている。海によって隔てられた日本列島は外国勢力に武力征伐されることもなく、中国王朝文化に直接支配されることもなかったので、古代のヤマト族の村段階文化を国内向け文化として熟成させて現代にまで継承した。この文化が最も熟蘭したのが鎖国状態の平安時代から室町時代、そして江戸時代であった。この時期に最も日本的な文学(物語り、和歌、俳句)・芸術(能、茶、花道)が発展した。

原型生存型民族神話の口誦表現

弥生時代から豪族時代のヤマト民族も大陸の中国文化から見れば少数民族であろう。原始的な村生活が基本で都市国家の段階に達しておらず、文字を持たずなお未熟な文化状態であったという意味では中国周辺部にいた少数民族と共通の「原型的な生存形態」であった。無文字の音声言語表現で、歌う神話や歌を掛け合う風習などを持っていることが重要であった。筆者らは中国の長江の西南部の諸民族(雲南省、四川省、貴州省、湖南省)、タイ、インドネシア地域の民族に今尚存在する神話と古事記神話を比較研究することが重要だとしてフィールド調査(丸ごと神話録音採集)にはいった。村段階の社会の神話を文明化の進行度によって8段階に分類し、第一段階(村の祭礼と密着した歌う神話)、第二段階(祭礼とは別に客などに作為的に歌われた神話)、第三段階(語り口調の神話)、第四段階(散文長に説明する神話)、第五段階(複数の神話の合流)、第六段階(聞き取りや文字資料から再構成した神話)、第七段階(国会意志で書かれた神話、古事記はこの段階)、第八段階(国家編集の神話の変形神話)となる。神話採集で一番原型的な段階は第三段階までの神話である。古事記にも第三段階(古代)神話や第五段階の整理複合した神話も混入して(中間)、そして文字化した神話の編集が始まり第七段階で古事記が生まれた。中国少数民族イ族の創世神話「ネウォテイー」は実に長大な創生期の神話であり、古事記の創世神話に通じるものがある。そしてこの神話は韻文で歌われた。日本ではヤマト族以外に原生民である蝦夷(アイヌ)、土蜘蛛、国巣、佐伯、隼人、熊襲などいたが、ヤマト民族(古くは外来民族だという説もあるが、数千年の混血により民族形成がされた)によって征服されてゆく過程が創世神話にあたる。日本古代国家は原型生存型文化をアニミズム・シャーマニズム的な神話・呪術的世界だけでなく、歌垣という韻文恋歌までも含めて、国家の中枢において継承したのである。

天地開闢 無文字の古層と文字の新層

古事記の天地開闢神話には歌う神話と兄妹始祖神話が色濃く残っている。宇比地爾神から伊邪那美神にいたる神の系統神話には、創世神話の歌が存在していた。古事記には「次に成れる神の名は、宇比地爾神、次に妹須比智爾神。次に角杙神、次に妹活杙神。次に意富斗能地神、次に妹大斗乃弁神。次に於母陀流神。次に妹阿夜訶志古泥神。次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神。上の件の国之常立神以下、伊邪那美神以前を併せて神代七代と称ふ。」とあるが、この神代七代の記述の裏には次の歌う神話が存在していたのである。「泥土に 泥土に   杙を打ち込み  杙を打ち込み   立派な門 立派な門   整った 整った   なんと畏れ多いこと なんと畏れ多いこと   いざどうぞ いざどうぞ 」  ここで 泥土=ウイジニ(宇比地爾神)  杙=ツノグイ(角杙神) 門=オホトノベ(意富斗能地神) 整う=オモダル(於母陀流神) 畏れ多い=アヤカシコネ(阿夜訶志古泥神) いざ=イザナキ(伊邪那岐)という対応関係が存在しているのである。ただ神の数を三、五、七という陰陽思想に基づく陽数にしたいがため、二つの神が省略されている。この神の系譜は兄妹の二神が対になっているので七代に固執したのであろう。そしてこの兄妹の二対神は世界に広く分布する兄妹始祖神話(兄妹相姦関係 兄妹夫婦関係)が色濃く流れている。日本書紀にはこの兄妹始祖神話は注意深く排除されている。古事記には未だその残影が陰を射しているのである。古い小さな村では家の維持のために兄妹が結婚する風習もあったようだ。

イザナミの死

イザナミは次々と子供を生んだが、最後の火之迦具土神(火の神)を生んでやけどをして病に臥した。そのときの嘔吐物から金の神、水の神、土の神、木の神、食物の神、生成の神が生まれたとされる。これらの神は木・火・土・金・水の五元素であり中国の五行思想の影響意が読み取れる。排泄物が役に立つということは、農耕生産に人糞肥料が欠かせないという事情の反映もあるのかもしれない。

黄泉の国 死霊との戦い

イザナギがイザナミの腐乱死体を見て黄泉の国から逃げ帰り、黄泉の大軍を追い払うという神話は、死霊との戦い(あの世へ送るとか穢れ思想)である。この神話は中国雲南省のヌー族葬送歌に「この世とあの世は違うのだから死者よ帰ってくるな」という思想がある。弥生期には禍をもたらすものとして死霊一般を追い払う観念と死者を丁重に黄泉の国に送り届けようという観念が同時存在していた。仏教が伝来して古代が近代化されると、死者を忌避しない仏教思想が登場して死者を慕う思想のみが残ったようだ。

スサノオ神話

イザナギが左の目を洗って天照大御神が生まれ、右の目を洗って月読命、鼻を洗ってスサノオノミコトが生まれた。中国古代の盤古神話には左目=太陽、右目=月の対応関係が有り古事記はこの古代神話と共通であるが、鼻を洗ってスサノオが生まれたというのは日本独特の神話である。スサノオが母イザナミを慕って激しく泣く神話は中国少数民族イ族の創世神話「ネウォテイー」にもある。このスサノオ出生の秘密はスサノオ神話の混沌を象徴するようである。姉アマテラスと弟スサノオが激しく争う神話にはおおくの民族対立と征服過程の神話が合流している可能性がある。出雲国の国譲り神話に代表されるように、民族対立、政治的対立、階級的対立、宗教的対立、民族文化的対立、神話表現の対立、王権論の対立、神祇制度の対立、政治制度の対立、神統譜的対立などが入り込んでいるようで一筋縄ではこの姉アマテラスと弟スサノオの抗争は説明できない。

ヤマトタケルの死 古層の死生観

ヤマトタケルの悲劇(白鳥の歌)はよく出来た文学作品である。全国の征服の旅に出て武功華々しいがために、その武力を恐れて大王からは帰国を許されず、伊勢でなくなったヤマトタケルの哀歌(葬送歌)は多くの人の涙を誘うのである。この葬送歌は古層では復活蘇生の呪詞であるが、同時に新層では行きたくも行けないという「分かれの口実」の死生観が出ている。

サホヒコ・サホヒメ 兄妹始祖神話

この兄妹の二対神は世界に広く分布する兄妹始祖神話(兄妹相姦関係 兄妹夫婦関係)が色濃く流れている。これには民族の生き残りには兄妹結婚も有ったということの反映である。天皇家でも奈良時代では異母兄妹の結婚は常にあったが、しかし同母兄妹の結婚はなかったようだ。日本書紀においては実情としては天皇暗殺クデータ事件を扱った物語であるが、古事記では歌謡を多用することで二人の兄妹の恋物語の情の部分を強調している。古い情を引きずった話である。

歌垣神話と政冶

武烈天皇の皇太子時代に影姫を真鳥大臣の子鮪と争った歌垣には、闘争性と歌垣を成立させる協調性が必要である。結局は天皇の権威を否定する鮪の政治闘争であるが、歌垣には高度の専門性と機知と粘り強い精神が必要だ。万葉集にも妻争い(畝傍山恋しと、香具山と耳成山が争う)がある。この歌垣にも8段階の成長があるとされる。第一段階(実用的な目的で即興的に掛け合う)、第二段階(作為性、芸能性)、第三段階(専門芸能者による歌垣の芸能化)、第四段階(国家による保護弾圧)、第五段階(宮廷や都市における普遍性獲得)、第六段階(宮廷的な恋歌の登場 万葉集)、第七段階(現場と遮断して変質)、第八段階(文学への傾斜)である。


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