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吉本隆明・梅原猛・中沢真一鼎談 「日本人は思想したか」

 新潮文庫(1999年1月 単行本は1995年新潮社より発行)


体系的な思想は日本人からは出なかったが、歌や宗教などに縄文的な日本人の思想の流れがある。

三人の哲学者、宗教学者による日本文化論である。梅原氏は京都市に住む京都学派の重鎮で、私は「神々の流竄」、「水底の歌」、「地獄の思想」、「聖徳太子論」など氏の殆ど全ての著作を興味深く読んできた。この世の争いに敗れた歌人や思想家の独特の怨念論を展開されて面白かった。最近は「脳死臨調」で宗教的論点から自説を展開され、生命倫理にも踏み込んだ発言がある。吉本隆明氏は在野思想家・詩人で、私は「共同幻想論」、「源実朝」などを読んだ。かなり難しく表現する思想家でとっつきにくい感じがした。吉本バナナ氏の父親でもある。中沢信一氏はネパールでチベット密教を修行された新進気鋭の宗教学者であるそうだが、私は著書は何も読んでいない。

日本人は思想したかという本書の題名からして、結論は日本には西洋的な形而上学的哲学の系譜はなく体系的な思想は遂に形成されなかったのである。一神教宗教(キリスト教)が存在しなかったことが、デカルト的近代的自我の確立と思想と科学テクノロジーの展開を生まなかったのである。日本は縄文の昔からどろどろした情念とアニミズムの支配する狩猟民族であったする考えがこの三人の共通的認識で、外来の大和朝廷の成立と中国的律令制の施行にもかかわらず、これが通奏低音となって日本人の考えの底を流れているとするものである。このような認識に賛意を表するか、たわ言と捨て去るかはどちらでもいいのである。結論は出ているのだから、その理由付けは無数にあっていい。どっちにしても実証不可能なんだから。そうはいってもこの三人のたわ言は結構面白いので振り返る価値はあろうか。本書の鼎談という座談会形式は実は、中沢真一というすばらしく頭の切れる新進気鋭の宗教学者が問題点を提起し、二人の大御所吉本隆明・梅原猛から意見を引き出し闘わせる形式である。意見の明確な対立は殆ど存在しないというよりは梅原猛節が主流となって展開し、つまり中沢真一と梅原猛の縄文文化や宗教論が中心である。私にはこの縄文文化論には実証性が全く感じられないのでそうかなーと、どちらとも判断不能でついてゆけない所がある。あまりに大雑把で情念的解釈なのである。また対談は一触即発で話題は飛び、歴史に現在の話題もまぎれこんでくる賑やかなきらびやかな言葉の世界であるが、ここはあくまで話の文脈にそってまとめてゆく。文脈から外れた刺激的な話は惜しいけれどもあえて省略する。あしからず。面白そうなところは本書を読んでください。

まずは日本人の「思想」の土台に思いを馳せてみよう。中沢氏は冒頭で「たしかに日本人は体系的で普遍的な思想というものは創らなかったけれども、具体性と結びつく形で思想は表現してきた」と結論する。体系的思想はないが日本独特の思想は具体性を以って表現したというのだ。ではその日本独特の思想とはなんだろうか。梅原氏は「西洋の哲学のようなものを求めても日本にはない。僅かにあるとしたら仏教か儒教である。しかし歌論には非常に緻密な感情論がある」という。吉本氏も「思想を思想自他として抽象的に述べたものはない」といい三者ともに「日本には体系的抽象的思想は生まれなかった」という点で一致した。日本国家成立期を律令制に求めると、それ以前に存在していたアイヌなどの縄文人文化と共存する時期もあったし征服する時期もあった。稲作弥生文化の大和朝廷が被制服原住民・部族・国の全てを完全に滅ぼしたのでなく、神道の禊、祓いは征服過程での儀式であったがかなりの縄文的文化や言語も内包してきた。例えば万葉集の枕詞にはアイヌの言語が二重構造で入り込んでいる(枕詞を古代朝鮮語で解釈する人もいるが)し、「一切の生きとし生きるものはあの世へ行ったら又生まれ変わってくる」というのはアイヌの考えである。これが狩猟採取時代人の共通の意識だったと梅原氏は言う。和歌には枕詞以外にも訳のわからない部分が存在するが、それは言語体系やリズム感の違う部族間の調整であったのであえて異質な物を残したのではないか。本居宣長も「和歌を通じて日本人の思想が出来上がるのだ。体系なんかもっていないからこそ日本思想なんだ」といっている。梅原氏の歌論は一貫して「魂鎮め」で、新しい政治変動に破れたものの気持ちであるという論を展開されてきた。

日本人の「思想」の形成

西洋の思想はギリシャ形而上学の発生に始まるとされるが、神話に拠らず、儀式に拠らず、言葉の表現に至ったとき形而上学としての西洋哲学の始まりを見た。「始めに言葉ありき」が西洋哲学、宗教の始まりである。それにたいして日本の思索は山岳宗教にはじまる過剰な生命にあふれた自然の力を造形的に仏像に変化させた。それが日本人が自然を思索の対象にする行為の始まりであった。日本人の思想はこういう自然芸術的なものの周辺から発生したといえる。行基の木彫佛がそれである。これは中国から伝達された釈迦仏教ともちがう。釈迦仏教も儒教も人間中心主義である。そして平安時代には天台本覚論でいう「山川草木悉皆成仏」という人間中心から自然中心へという思想の流れがあるようだ。日本神道の「天つ罪」と「国つ罪」という分類も、律令体制に反抗するのは「天つ罪」で、「国つ罪」は部族社会の奇形や個人的な性のタブーという縄文的な思想では無いだろうか。スサノオの尊などは縄文的な荒ぶる神のイメージで、アマテラスは弥生的な農耕の神である。縄文土器は紀元前1万年前、稲作文化は中国の揚子江流域で紀元前5000年という最新の考古学成果がある。縄文と稲作文化の同居時代も長かったといわざるを得ない。日本仏教は聖徳太子の時に始まるといわれるが、もう一方の流れとして山岳役行者の修験道がある。これは農耕民族ではなく狩猟民族の宗教を色濃く受け継いでいる。死の世界にいって帰って来る修行を特徴とする。日本では仏教が山と結びついて行基、良弁、道鏡、最澄、空海と密教に流れるのである。日本の仏教も体系的な思弁をつくらず、山での行に結びつく縄文的なものの存在を考えないといけない。死という観点をもとに他界と現世を考えるやり方は北方のシャーマニズムや南中国の土俗的道教の宗教観も受け継いでいる。日本のアイヌや土俗民族は結局文字や国を創らなかった。外来政権のにおいが強い少人数の大和朝廷が日本の主要部分を支配し原日本人と交雑し、律令制という中国式支配体制と漢字で日本支配を確実なものに変えていったようだが、原日本人的(これを縄文的というようだが)文化と交流して通奏低音にように縄文的なものが日本人の思想の底に流れているということが日本文化の本質だという。ここに縄文文化とは何だろうか。象徴的には中国殷時代の青銅器の奇怪な動物図形や日本の縄文式土器の炎紋の情動的な文様という荒らしい感情をいっているようだ。荒ぶる神のイメージである。

歌と物語による「思想」

和歌の成立は記紀歌謡と万葉集にあることは自明である。記紀歌謡には明らかに七五調でない四六調のようなものもあるし韻律は定まっていない。七、八世紀を代表する万葉集の成立は律令社会の成立ということと、七五調の成立はつながっているようだ。これは中国の五言絶句や七言絶句を意識した中国の考えが反映している。アイヌや沖縄の歌はかならずしも七五調には統一されていない。五七五七七という短歌韻律は前半(五七五)と後半(七七)という二人の掛け合いから生まれたもので外国から見ると極めて特殊な形式らしい。息の継ぎ方、喩の作り方に日本人独特の形式が現れている。また和歌の成立の決定的な役目を果たしたのが柿本人麻呂であるというのは梅原猛氏の持論である。万葉集の編纂にも深く関係していたようだ。古事記は純然たる歴史書である日本書紀と違って歴史を主題とした歌物語と考えられる。つまり古事記には神話、歴史、歌物語という三つの要素からなるのである。軽皇子や倭建尊の悲劇には歌と物語りは切り離せないほど深い文学的関係を持っている。逆に神話の部分は余りにできすぎた作り話の感が否めない。風土記の神話のほうが流れるような物語性があるのに反して、古事記の神話はぎこちない、高度の作意が見られる。中国の歴史書「史記」には神話は無いのに、日本の歴史書「古事記」に神話を入れたのかというとそれは藤原不比等の編集者の意図が見え見えである。日本の天皇の祖先はどうも外から来たようで征服した氏族の伝承も巧みに取り入れて妥協融和する姿勢のため、異質な話を繋げるためにギクシャクしているのだろう。歌には反政治的人間の悲哀表現が濃厚だという梅原氏の意見を踏まえて、「竹取物語」、「伊勢物語」には明らかに現政権貴族と天皇をあざけるようなうらむような表現がある。「平家物語」は平家への鎮魂である。ということで日本の歌や物語には鎮魂という調整の意図が流れているようだ。「万葉集」では律令以前の氏族の歌が多く採用され、いわば政治の妥協産物である。しかし「古今集」では紀貫之という没落貴族が政冶を排して文学そのものが永遠がという非政冶の歌集である。それは「新古今」の幽玄へとつながってゆく。「古今集」で四季という季節感(自然)と恋歌が確立され、「源氏物語」では空間構造としての季節が構築された。「新古今」の幽玄は中世になると「太平記」の武士軍団のリズムにかき消されて、和歌のリズムからむしろ歌謡的なものへ崩れていったようだ。これで和歌の伝統の灯は消えた。近世の江戸時代には和歌は亡び、連歌からでた俳句に次がれてゆく。

日本宗教の源流

日本の原宗教を追求した「毛坊主考」の柳田国男の功績は大きい。毛坊主とは在家仏教徒で密教行者のことである。親鸞の真宗にはこの毛坊主的集団を多く取り込んでいた。北陸の一向宗には武力を持った毛坊主と組んで織田信長に徹底的に抵抗した自治都市もあった。毛坊主とは日本仏教史では遠く縄文共同体の宗教観念にまで遡る。親鸞は「還相回向」というあの世に言って又帰って来る構造を真宗の本質であるとまで言っている。極楽へ行くだけでなく、この世の人も救うということである。これはアイヌ的縄文的回向感である。死んで甦る思想はは聖徳太子の愛読した「維摩経」にあり、この世とあの世を行き来する疑似体験を夢や入眠や脱魂でやっていた(法隆寺の夢殿)。そのときマリファナ(大麻)を使うこともあったようだ。仏教がシャーマンとつながる。平安時代の国家護持加持祈祷の密教も同じような秘密主義がある。法然は神や鎮守などは一切否定して阿弥陀仏以外は信じるなという明晰な理性に基づく一神教的な仏教だが、親鸞は全く情念的である。一遍和尚においては神仏混交の時宗では踊りも取り入れ、親鸞にいたって法然を壊して、神的なものともう一度合体するような原理が含まれていた。妙に雑然とした情念的な官能的な宗教である。これが原日本人の宗教感なのか。この毛坊主の系譜は西行や芭蕉、山頭火にも通じ日本の芸術の重要な流れを作っている。

「平家物語」は法然の浄土教の教えに従っている。つまり観念の浄土教は宇治平等院のようなすばらしい芸術を作っている。法然は親鸞を優れた弟子とは思っていない。法然は南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生するといったが、明恵はそういう言葉に出すこと自体が仏教の教義のねじ曲げだと批判している。つまり本覚論に対する批判であった。人間に佛性はあるというのが本覚思想である。佛性を持っている人間が難行苦行してやっと仏になれるというのが南都仏教の教義である。最澄は法華経によって全ての人間には佛性があり何べんか生まれ変わって最終的には仏になれるといった。円珍や円仁は人間ばかりか全ての生きとし生きるものは仏になれるという説まで発展した。そして最終的な言葉が「草木国土悉皆成仏」である。源信の「往生要集」は仏になる一番の方法は極楽往生だといったが、日蓮は更に来世で仏になるだけでなく、お題目を唱えてれば現世で仏になれるという説を唱えた。禅宗の道元はこの世で仏になるには釈迦のような修行を積めばいい、その妙手が達磨だというわけである。4世紀までのインド仏教で固定すると教条的な仏教になるが、日本では昔からのアニミズムと仏教が結合して、人間中心主義からだんだんと自然主義に変った。4世紀以降インド仏教がインドで衰退して、アジアの内陸部や東に移動するにつれ独自のアジア的仏教に展開するのである。日本では天台真言宗仏教は国家鎮護、怨霊鎮魂という日本的仏教になっていった。中国では老荘思想と結合して無の思想を生み出し、道教と結合して加持祈祷、祖先礼拝につながったように。

現代の超克

この話題の始めに、京都学派の哲学をレビューしている。西田幾多郎、田辺元、高山岩男、高坂正顕、西谷啓冶、和辻哲郎、波多野精一、九鬼周造、三木清、戦後は桑原武夫、吉川幸次郎、湯川秀樹、今西錦司、梅棹忠夫、梅原猛などなどである。あと2倍くらいの人名を書くべきだが省略する。一人ひとりは独創性に富み、特異な行動と言動で知られたが、ユニークな集まりは学者の輩出という教育機関でもあった。戦後京大人文科学研究所が果たした役割は(今も変りないが)大きかった。日本のアカデミズムはカントやヘーゲルの小さな分野での問題追及に終始していたが、京都学派は雑学的にスケールの大きな展開をした。明治以降に入ってきた西洋哲学の自己翻訳を進めてゆく中で、日本の思想の近代化が図られた。日本の哲学で西田幾多郎が自分の思想をした始めての哲学者であったことは異論が無い。西田哲学は認識観念論では有ったが、行動や教唆ということで影響を与えた。戦前の京都学派は哲学中心であったが(マルクス主義へいった人も多いが)、戦後はフランス文学から中国文学、南極探検、生物学、数学、文化人類学、生物社会学などさまざまな種類の学問の坩堝となって学問の新しい展開に貢献した。

西田幾多郎も批判したが、人間の自我が対立する自然を征服してゆく、その征服の道具が科学であり技術であるということが歴史の進歩であるということが近代の前提になっている。これはもう環境破壊を前にして通用しなくなっている。小麦農業と牧畜生活が12000年前に発生し、チグリスユーフラチスに5000年前に都市文明が興った。それ以来急速に中東の森の伐採は西進し紀元前には中東からギリシャの森は丸裸になった。ローマ帝国の西進に従ってヨーロッパの森もなくなっていった。人間中心主義を唱える近代文明では神もなくなって、自然は徹底的に搾取され、産業革命や科学の進歩で巨大な破壊力を持った現代文明が支配している。それに対して中国南部に発生した米文明は(黄河文明は小麦農業と牧畜生活)は水を利用する灌漑農業のため自然破壊には自ずとブレーキがかかり、近代文明の超克には東洋の米文明が役に立つというのが梅原氏の持論である。今はやりの「東洋が世界を救う」の原型である。大東亜共栄圏にならなきゃいいのですがね。思想面から見ると、柳田国男の農村共同体論も注目される。近代になって人間と自然の関係も深く変化したが、人間が違ってしまったのではないかという心配がある。柳田氏は「近代の超克」というテーマを正面から受け止めて、農民文化、農民的共同体の中で形成された精神文化に自分を食止めておこうとしたようだ。共同体の中心には祖霊があってその眼を通じた世界観を大事にした。

私にはこのような農村共同体論が世界を救うとはとても考えられない。梅原氏の目はもう時代に逆行している気もする。「日本人は思想したか」という本書のテーマを総括してみよう。日本人は明治時代に西欧文明の大量輸入によって、国の独立と科学技術の進歩を確実にした。(富国強兵政策)それまでの平安時代と江戸時代の鎖国政策、飛鳥時代と室町戦国時代、明治時代の外国文明の受容時代を繰り返してきた。縄文文化が果たしてどんな文化だったのか(文化というにあたいするものか?)知らないし、日本国家の起源もあやふやで私達は何処から来たのかはっきりした解は無い。飛鳥時代前には日本に文字がなかったから、思想の跡形も無い。古事記や記紀歌謡、風土記などから痕跡を追求しているのである。漢字と言う文字を得て言葉が固定された7世紀以降、中国から政治制度や仏教、儒教、歴史書、詩書、暦などの文明が堰を切ったように流入した。おそらく日本語と中国語の対応関係(翻訳、明治期の西洋文明の翻訳におなじ)から訓読みや仮名文字が出現して、日本人は漢字混じり日本語表記法を発明した。それ以来日本人には体系だった哲学や政冶思想が生まれた気配は無い。しかし生活に必要な実用的な考えは存在していたし、貴族社会では歌、物語、仏教、政治には儒教などが浸透していった。系統だった思想の萌芽はやはり仏教に始まったといえる。政治的イデオロギーは儒教に始まったのである。仏教・儒教で日本人がどれだけ思想したかについては、仏教書や政治制度史からかなりのことはわかっている。しかし西欧的な体系的思弁(形而上学)は遂に生まれなかった。明治時代に西欧哲学や啓蒙思想(人権・自由・憲法)の翻訳に忙しく、それらが日本的な形を取るのはようやく大正時代に入ってからである。しかしそのときには既に軍事独裁による天皇制国家が完成して自由民権運動・社会主義運動を圧殺してゆくのである。芽のうちから思想は摘まれてしまった。日本では福沢諭吉や夏目漱石、森鴎外も悩んだように太平洋戦争による敗戦後まで個人は存在しなかった。個は村に最終的には天皇還元された。個人が存在しないところに思想があるわけはなく、徹底して自己を問い詰める西欧哲学は戦後の民主主義憲法の下ではじめて公民権を得たようだ。ということで日本人は思想したかと問われれば、戦後以降から独り立ちして思想し始めたといえる。私はどう考えても、仏教や歌や物語や能やお茶に思想があるとは思えない、宗教的・美的境地はあってもそれは思想とはいえない。本書の論点は瑣末なものにずれている。


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