070515

浅田次郎著 「壬生義士伝」

 文春文庫(2002年9月  単行本は2000年4月文藝春秋社刊)


壬生浪士南部藩脱藩下級武士吉村貫一郎の妻子に貫いた一生

私は「壬生義士伝」という映画は見ていない。2002年テレビ映画化され吉村役は渡辺謙で、2003年の映画化では吉村役は中井貴一である。見られた方も多いと思うが、私は文春文庫本で読んだ。浅田次郎氏の小説は「鉄道屋 ぽっぽ屋)など何冊かを読んでいる。大変面白いが、どこかでいつもあの世の人が出てきてこの世の人と交流するところがあり、多少異常な世界である。感情では理解できるがやりすぎである。それはそうと幕末の血で血を洗う新撰組という勤皇の志士を討伐する浪士隊の幹部吉村貫一朗と言う下級武士が南部山形に残した妻子に必至でためた金子を仕送りするという切り口が、いかにも現代風の出稼ぎスタイルを思わせる点が斬新であった。時代は維新倒幕の形勢になって鳥羽伏見の戦いで新撰組は薩長の鉄砲隊にもろくも破れバラバラになって敗走した。その鳥羽伏見の戦いで吉村貫一朗は戦死したとされる。官軍が江戸へ向かうと新撰組幹部は殆どが遁走して関東へのがれたが近藤勇は逮捕処刑され、土方歳三は函館五稜郭へ、そのほかの隊士は会津で壊滅した。奥羽列藩の足並みは乱れ降伏し、そして官軍の東北遠征も終わった。吉村貫一朗の生涯でわかっていることを示す。

サイト「新撰組名鑑」より吉村貫一朗の略歴を記すが、伝えるところが正しいのかは保証の限りではない。
吉村貫一郎は陸奥国南部藩士の次男として生まれた。武術で身を立てようとした貫一郎は、剣術修行に精を出し、新当流に入門して頭角をあらわす。文久3(1863)年には江戸行きがかない、北辰一刀流・玄武館に入門し、千葉周作の跡を継いだ千葉道三郎に剣を習った。ここから、北辰一刀流で修行できるだけの経済的背景があったとする説も唱えられている。慶応元(1865)年、江戸での新選組隊士募集に応じ、入隊する。「誠を貫く」として貫一郎を名乗ったのはこのときのことである。同年の秋には山崎烝、尾崎俊太郎と並ぶ諸士取締役兼観察、そして沖田総司や永倉新八、斎藤一と並ぶ剣術師範頭に大抜擢される。また、近藤勇の2度の長州出張に同行し、山崎とともに現地に残留し、長期の探索活動を行なった。貫一郎が文武両道に精通していたことがうかがわれる。慶応3(1867)年の新選組幕臣お取立てに際しては、貫一郎は見廻組並の格式を受け、感激のあまり涙したと言われている。新選組監察方として、隠密行動が多かったのか、剣に関する記録はほとんど残されていない。副長土方の意を受け、新選組内外での交渉役などに活躍している。鳥羽伏見の戦いでは軍艦として出陣し、激戦の中、銃弾に倒れたという。享年29歳。

新撰組幹部組織図(慶応元年 1865年6月 )
 大規模な隊士募集を行い総員134名にまで増大する。そのため、隊が編成され隊長の下には2人の伍長がつき、伍長の下に平隊士(約5名)が編成され、一隊が13名程度で組織される。またこの時に伊東甲子太郎が参謀に迎えられる。新選組が戦力、組織としてもっとも充実した時期です。この時期に吉村貫一朗は監察方という役職についている。隠密もしくは憲兵というべき役職である。
局長 近藤勇
参謀 伊東甲子太郎
副長 土方歳三
副長助勤 一番隊 沖田総司 二番隊 永倉新八 三番隊 斉藤一 四番隊 松原忠司 五番隊 武田観柳斎 六番隊 井上源三郎 七番隊 谷三十郎 八番隊 藤堂平助 九番隊 三木三郎 十番隊 原田左之助
監察方 山崎烝 篠原泰之進 新井忠雄 服部武雄 芦屋昇 吉村貫一郎 尾形俊太郎
勘定方 河合耆三郎 尾関弥四郎 酒井兵庫 岸島芳太郎

以下は創作である。
吉村貫一郎といえば浅田次郎著「壬生義士伝」姿が先行してしまっているが、そのイメージは子母澤寛ら後世の筆者の創作であるようである。
下級武士で東北飢饉の折生活苦から南部藩を脱藩し、江戸へ出て新撰組に参加する。新撰組の間は南部の妻子のために為替で金の仕送りを続け、鳥羽・伏見の戦いでは、乱戦の中行方知れずとなる。数日後、貫一郎は南部藩邸に逃げ込み、匿って欲しいと願い出るが、咎められ、切腹を迫られる。妻子を思いためらったが、ついに意を決し、藩邸の中で切腹して果てた。その部屋には、2分金が10枚入った紙入れが置いてあり、家への送金を言付けてあったという・・・」という妻子を養う下級武士のイメージで出来上がっている。
(小説の出だし) 慶応四年一月。鳥羽・伏見の戦いの大勢は決し、幕軍は潰走を始めていた。そんな中、大坂の盛岡藩蔵屋敷に満身創痍の侍が紛れ込む。かつて盛岡藩を脱藩し、新選組の隊士となった吉村貫一郎であった。保護を求める吉村に対し、蔵屋敷差配役であり吉村の旧友であった大野次郎右衛門は冷酷にも彼に切腹を命じる。 時は流れ、大正時代。吉村を知る人々によって彼の生涯が語られる。
(映画版の出だし) 江戸時代が終わり、明治の御代となってのちの話である。感冒に罹患したと思われる孫を連れて、老人が町医者に駆け込んでくる。町医者は新天地である満州に医院を移すため、引っ越しの最中であった。医者の夫人が孫を診察し、老人は待合室で一息つく。ふと老人の目に、古びた一枚の写真が映った。その写真に写った武士は、老人のよく知る人物であった。老人は町医者に問わず語り、昔を思い出して行く。老人が昔「斉藤一」と呼ばれていた頃に出会った壬生狼、「吉村貫一郎」という男の生き様だった…京都で活気盛んだった新選組の、入隊してきたばかりの吉村貫一郎と出会った頃から語り始める。

身分は違うが吉村貫一朗の幼馴染で南部藩大阪蔵屋敷差配役5百石武士大野次郎衛門が、吉村貫一朗の子息のことを案じてその養育を南部藩崩壊後新潟の豪商江藤彦左衛門に依頼する手紙が小説の最後に書かれている。これが実物の手紙かどうかは知らない。恐らくは著者の創作であろう。なぜなら切腹前にこだけの長文の手紙を大勢・歴史から書き起す冷静さはあるまい。手短に要点のみを記すはずである。またくだくだ繰り返しが多い。ということで此の手紙は作者の創作と理解するが、候文で小説の締めになっている。なかなかの名文なので全文を記す(ルビは記さない)。

謹啓
寒中之砌 御全家御揃益々御清穆の御座在せられ候段 大慶之至に存じ奉候 大阪在勤以来久々御無沙汰に罷り過ぎ恐れ入り候処 突然寸翰を以って斯様大事御願申上げ 恐懼至極に存じ上げ候 御無礼重々承知乍ら 此段 拙者畢生之御頼事と御忖度候て 何卒後聞届願い度 垂首合掌御願奉り候
此度奥州騒動之一条に付き 御風聞御座有る可く嘸々御心配御座候やと存じ奉り候 甚だ不本意乍ら 干戈之事不取敢落着 随而は拙者儀 逆賊首魁之大罪を蒙り 目下盛岡城の寺にて御沙汰待受け致し居り候 
此書状御尊台様許に届き候頃は 既にご沙汰下され候可く 拙者遺書と御心得御座候て 何々卒 御無理御無礼之段 御聞入れ願い度 御願上奉り候
扨 拙翰を持参仕り候者 名儀佐助と申し 拙家に永らく忠勤致し中間にて御座候 容貌魁偉に候得共 此度の騒擾にては常々拙者の馬口取りを相勤候忠義者にて 宜しく御安心下さる可く候
御願之儀は 寒中盛岡表より佐助に同行罷り越し候少年之事にて御座候 此者弊藩縁故之御子息には非ず 無論 拙者係累にても無之 只 拙者組付配下足軽之子息にて御座候 
主家縁故の子息も扨置き 況や拙者係累も扨置き 足軽輩の子息の一身 御尊家に委ね候所以 万端御聞入御座有る可く候 此者之父 姓名之儀は吉村貫一朗と申す者にて 既に去る鳥羽伏見の戦中 討死致し候
文久二壬戌之年 盛岡国表を脱藩の折 此者之母は決死の夫の帰盛せざるを察し 未だ生まれざる一子に貫一郎の同名を与え候 依って此者 姓名之儀 吉村貫一朗と申し候
重て庶幾は御尊台 往々此者之姓名変え不給御配慮御養育賜れば幸甚と存じ奉候 然者 斯様大事御願候の上 更成御無理申述候由 縷々説分申上候  此者之父者 誠之南部武士にて御座候 義士に御座候 身代僅 二駄二人扶持の小身に候得共 其人格質実誠実 高遇潔癖にして不賎 正に本邦武士之亀鑑に御座候
去る天保五甲午年 盛岡城下上田組丁同心屋敷に出生 爾来 日々不怠勉学に勤み 撃剣に励み遂に 藩校講学助教兼剣術教授方の大任務め居候
其学識技倆 藩士中抜群に御座候て 立身出世之段 可然処に御座候得共 何分足軽小身之出自に御座候て 累進相不叶 併せ藩政窮乏之折柄 御役料の御代物 別段之給ふ不能 只 代々之小禄を以って妻子を養い居り候  雖然 生来之質実分限弁え敢て富貴欲せず 道を得て貧賤を憎まず 同輩之窮乏に鑑て 拙者始め 上司の情にも頼らず 赤貧洗うが如き窮乏切実の日々過し居候
重て申上候 此者之父者 誠之南部武士にて御座候 義士に御座候 天保年来 百姓領民飢渇し 凍餒に転転たる惨状を察するに付き 此者の父者 己一身の栄達を潔とせず 仁慈之衷情を以って貧賤に甘んじ居候
塾々慮るに 学識技倆之卓越は 遍に各人努力精進の賜物にして 其質力を評価不能る段々 組頭拙者の不徳と致す処にて御座候 面目次第も無之候
拙者儀
弊藩勘定方差配之御役目与り候て依り 多年奮闘努力致し候得共 如斯 藩財政の恢復相不及百姓領民の苦渋救済する不能 藩士の生計又言うに不及 遂に 吉村始め有為之士をして 脱藩の挙に出さしめ候 多条罪禍悉く 勘定方一身に有之候 然者拙者 不倶戴天之賊にして 天朝之御沙汰御待申上ぐ身に候得共 錦旗に弓引き奉候 随而は 毫も悔悛之情有間敷候 只々御役目不到処 万死に価ふ大罪と已存じ居候 無論近々馘首之土壇場に臨み候ては 拙者非力の為 窮状救う不能百姓領民足軽同輩諸士に向い奉り 衷心御詫申上候
抑々 拙家累代四百石之大禄賜り 組付足軽三十余を与る身上にも不拘 只管藩政之安泰に粉骨 御殿様御家名之御安泰に已奔走致候事 大過謬にて御座候 畏多くも此度御公儀幕閣失態之因 拙者之謬に同様 百姓領民足軽郎党の苦難毫も斟酌不致候 多年幕府御安泰御家名大事と執心罷り越し候処に御座候と拝察仕り候 斯如事 即 忠義に有間敷 只各々の保身にて御座候
愚拙儀
忠義に言籍りて不知保身計略仕候 然者幕府御?覆 公方様御災難之顛末 悉く天誅と存じ候 愚拙4百石之禄は民之脂 御公儀八百万石亦民之汗 民之血にて御座候 爾来仍之 武士は武士たる多年の優位保ち罷り越し候 況や士農工商の分別等笑止千万勝手の理屈に御座有る可く 早速天誅下り 武士相撃つ処と相成り候
即 黒船来航以来 攘夷之論 世に蓋い候経緯悉く幻影に御座候 幕府開闢以来二百六十有余年 各家門世襲之代を重ね 士道喪れ 保身汲々たる獣群と相成り果て候 乍併 蛮勇無能之獣中唯一人 赫々たる武士之亀鑑有之候 重て御願奉候 此者未だ少年に御座候共 此者之父者 誠之南部武士にて御座候 義士に御座候
拙者
御家老楢山佐渡様始め御重臣方々指嗾致し 天朝に対し奉り干戈之儀に及し理由 只々此一如にて御座候 此者之父吉村輩 身命不惜妻子息女の為戦い候 此行い軽輩之賎挙と言下に申及び候者 多々御座候と雖 拙者塾々思料仕り候処 此一挙 正に男子之本懐 士道之精華と思い至り候
依って拙者
吉村貫一朗之士魂 南部一国と 取替申し候 妄挙狂気の沙汰 誹は万々覚悟之上にて御座候 雖然 向後 縦 御一新目出度相成候て御一統皇国御具現致し候段万端相運び候得共 万一 一兵の妻子息女をさて置きて滅私奉公之儀 以って義と為す世に至り候はば 必至 国破れ 異国之奴隷と相成果て候やと拙者塾々信じ奉り候
本邦日本者 古来以義至上徳目と為し候也  乍併 先人以意趣 義之一字を剽盗変改せしめ義道 即 忠義と相定め候 愚也哉 如斯 詭弁天下之謬にて御座候 義之本領は正義の他無之 人道正義之謂にて御座候  義の一度喪失せば 必至 人心荒廃し 文化文明之興隆如何不拘 国危しと存じ候 人道正義之道さて置き 何の繁栄欣喜有之候也 日本男児 身命不惜妻子息女に給尽御事 断じて非賎卑 断じて義挙と存じ候 後世万民の御為と思い定め且つ信じ候
母国南部 父祖之地盛岡 郷士之山河悉く 御殿様始め御家門 御朋輩 郷友皆々様 無論拙者一族郎党之命 御一新皇国に捧げ奉候 幸い城下焼亡は免れ候得共 爾後御国替御減封之罰状免不得 亦 幸い一死免れ候得共 皆々様賊徒之汚名蒙り 辛酸嘗め候はん事必定にて御座候  乍併 南部士魂之一滴 苦難之後に残り候はば 其一滴 北上之大河と相成候て 御一新之皇国 必ずや正道に導奉候 吉村貫一朗の常々申居候事 南部之桜は巌すら摧き咲くと
拙者
其一言胆命致し候て 非力乍ら過分の精進成遂了ぬ 省て斯様始末 力の不及処に御座候得共 一個之努力精進に於て一片之憾 無之候 巌割開花の春は不来と雖 死力尽し候事 士道冥利と存じ居候 
畏友吉村貫一朗君之最後 誠見事にて御座候 一死に臨みて五体悉く妻子に捧げ尽し其亡骸 血一滴すら不残 僅に死顔 涙一垂を留め居り候 幾度言に不尽 此者之父者 誠之南部武士にて御座候 義士に御座候 庶幾くは御尊台 此少年御膝下に留置給り御配慮御養育之程 平伏合掌致て 依衷心 御願申上奉候 義士之血脈 何日か巌を摧きて万朶之開花致候御事 夢幻之内に慶賀致し奉候て 

恐縮謹言
明治二年己巳二月八日                       大野次郎右衛門 拝
江藤彦左衛門殿 御侍史

やはりこの書状は浅田次郎氏の創作に違いない。内容が武士の手によるものにしては民主主義的ではっと驚くような発想がちりばめられている。また漢文の順序が和風に間違っている。そんなことより「義」の定義が「妻子息女に尽すこと」とか、「妻子をさて置いた滅私奉公は国を滅ぼす」などという主張は、儒教を学んだ当時の武士から出る言葉ではない。全く現代風の解釈である、そんな儒教は聞いたことはない。


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