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北村龍行著 「借金棒引きの経済学ー現在の徳政令」

 集英社新書(2000年8月)

1990年代バブル崩壊と金融ビッグバン時代に現れた公的資金投入という徳政令

北村龍行著 「借金棒引きの経済学ー現在の徳政令」と言う本は2000年8月発行時点で読んでいたが、金融危機を乗越えて現在に至る金融機関が近年米国流金融資本主義を踏襲するのを見るにつけ、何故こうなったのか検証するつもりで再読した。金融ナショナリズムに陥ることなく是々非々で規制緩和の効果や金融の自由化を検証してゆかなければならない。確かに振り返ると昨日のように日産生命営業停止や長銀・日債銀・足利銀行などの国有化、山一證券自主廃業、ゼネコンや住専の不良債権と債権放棄、銀行の合併再編成、大蔵省の不祥事と改組、日銀の超低金利政策などが走馬灯のように思い出される。その過程を振り返ってゆこう。著者北村龍行氏は毎日新聞「エコノミスト」編集者として、15年のあいだ金融業界の危機と再編成を見てこられた生き証人である。勿論私は経済学は専門ではないので、勉強のつもりで纏めてみたい。

1991年、地価値上がりに端を発するバブルが崩壊し、不況と金融危機が日本を襲った。そして苦境に陥った大手ゼネコンや流通グループに対して金融機関が債務免除に応じた。その銀行に七兆円以上の公的資金が投入されたのである。また中小企業特別保証(国が保証人)枠には30兆円が投入された。加えるに2000年の民事再生法はきわめて簡単に債務免除を可能とする法である。このような借金帳消しを白昼堂々と国が行うというやり方はまさに中世の徳政令である。権力者が一部の支配層を保護するために借金を棒引きにしたやり方と同じである。中世では幕府による政令による強制のみであったが、現代では政府が税金という真水を直接投入する点で桁違いに露骨な富の移転である。国民から企業への富の強制移転である。いわば富の収奪である。戦後日本経済の成功を支えたのは預貯金の低金利政策であった。戦後の企業の設備投資は未成熟な株市場からの直接金融によるものではなく、銀行からの借り入れという間接金融であった。だから国際的にも例外的に低い金利で金が借りられたことにより、旺盛な設備投資が日本経済の繁栄の要因となった。低金利により国民の資産運用は抑えられ国民個人の富は増加せず貧しいままであったが、その経済成長と金利の差額が企業の株や不動産という「含み益」になって膨大に蓄積された。企業や銀行同士は持株という運命共同体で結ばれていた。そして銀行は足先から手先まで大蔵省に管理され「一行たりとも倒産させず」という護衛船団方式で保護育成されてきた。しかし1990年のバブル崩壊で株価と地価は暴落し、一挙にこの含み益蓄積を崩壊させた。銀行や企業は不要な資産を処分するため、株式の持合いも音を立てて崩壊した。1996年の金融ビックバンで金融自由化になり、あらゆる金融商品を誰が扱っても良いことになった。ここに弱者としての個人投資家はリスクを負いながらも資産運用への道が開かれた。国に資産を略奪されることはない。自分で資産を活用できるわけだが、まだ身につかない運用技術が今後の課題でもある。そこでこの悪夢のような1990年代に行われた金融機関救済と金融システムの改編を検証し、勉強しなおして自分を鍛えようと言いうのが本書の目的である。なお本書は鎌倉時代から戦国時代に至る徳政令について面白い解説をされているが、本論のメインではないと私は考えるので中世の「徳政令」は現代の借金棒引きと理解して割愛させていただく。いきなり戦後の大蔵省の金利政策から入り、バブル崩壊と金融ビックバンによる金融システム崩壊と公的資金投入や金融再編成の動きを追ってゆこう。

大蔵省の金融支配時代から金融ビックバンまで

戦後大蔵省は敗戦からの経済復興を目指して、預貯金の低金利政策を実施した。これは産業への低金利融資になり戦後復興に大いに役立ったが、つまるところ国民の資産拡大分をそっくり産業界・銀行へ貢いだといえるいわば徳政令であった。護送船団方式として名高い大蔵省の銀行対策は、経営基盤の弱い銀行でも生き残れる「一行たりとも潰さない」保護政策となって、銀行経営への監視と合併促進により体力強化策という大蔵省支配を確立した。銀行行政は、都市銀行、長期信用銀行、信託銀行、地方銀行、相互銀行、信用組合・信用金庫という業態別の枠組みの中で大蔵省の管轄下で、銀行自体の経営努力と創意をなくしていった。しかし大蔵省は証券市場の育成には無関心で証券市場は未成熟のまま放置され、産業界の資金調達は銀行からの間接金融に頼った。この間経済成長率は石油ショックまでは10-20%、1191年までは4-8%を維持し、企業に貸す短期金融の公定歩合は石油ショックまでは4-8%、1991年までは2-7%で推移した。一方預貯金の金利は1947年以来臨金法で低く抑えられ続けた。この臨金法がなくなったのは1994年の完全金利自由化まであるが日銀は公定歩合という政策金利をなんと0.5%以下に(最低は0.25%)抑え続けている。(2007年2月で9年ぶりに0.5%に復帰したことがニュースになった)いわんや預貯金預け入れ金利はなんと0.06%以下とゼロに限りなく近い。日本の高度経済成長を支えたメカニズムは低預金金利政策とという戦後型徳政令ともうひとつは財政投融資制度であった。自由主義国家とはいい難い官僚統制国家の経済政策であった。政府政策金利で恩恵を受けたのは膨大な含み益を蓄積した銀行と産業界、被害者は資産を形成できなかった預貯金預け入れの国民であった。

その大蔵支配の金融界と産業界を襲ったのは1991年のバブル崩壊と1994年の金融ビッグバンである。そして大蔵省の支配が終焉を迎えた。この悪夢の1990年代を特徴つけるのは、一つは金融ビッグバンによる金融自由化ではじめて投資信託などの金融商品の開発競争が始まった。そして二つ目の特徴は銀行への公的資金投入という救済と、ゼネコン・流通業界の債務放棄という信義違反が叡山僧の強訴のように白昼堂々と行われたことであった。ここでバブル経済崩壊を年を追って振り返ってみる。
1)1991年6月 銀行と地上げ屋の癒着、商社イトマンと闇の勢力と銀行の癒着腐敗、四大証券会社の大口投資家に対する損失補填という「株式リスク回避優遇」事件が曝露された。
2)1992年2月 景気後退 住宅金融専門会社(住専)不良債権発覚 9月都市銀行・長期信用銀行・信託銀行21行の不良債権8兆円 3)1993年8月 コスモ証券経営破綻大和銀行吸収 11月村本建設倒産 東京証券取引所から客が逃げ始めた
4)1995年3月 大蔵省・税関不祥事 9月ニューヨーク大和銀行損失隠し発覚して営業停止 大蔵省の無策が国際的に批判された 住専問題再燃し不良債権6兆4000億円  銀行は債権放棄したが農協系金融機関は5兆円を回収(政治問題として大蔵省完敗)
1995年は阪神大震災、地下鉄サリン事件、超円高(1ドル79円)、株価最安値(14295円)と実に不吉な年になった。
5)1996年1月 村山内閣総辞職 橋本内閣発足 4月から不良債権問題で逮捕者続出(野村興産、コスモ証券、桃源社、木津信組、ハウジングローン) 11月橋本総理金融ビッグバン宣言 ここから銀行崩壊が開始された
6)1997年4月 北海道拓殖銀行、日債銀、長銀、日産生命倒産 11月三洋証券倒産 山一證券自主廃業で金融危機がピークを迎えた 1兆円を超える日銀特融実施 大蔵省の支配力と政策が完全に破綻しだれもコントロールできなくなった 5月総会屋利益供与で野村證券告発され野村證券・第一勧銀・日興証券・大和証券のトップ逮捕 金融経営者のモラル崩壊 11月28日財政改革法 12月中央省庁改編 財政改革で公的支出を絞るデフレ政策実施 大蔵省不祥事(風俗店接待)で逮捕・辞任相次ぐ 大蔵省の権威・信頼は名実ともに地に落ちた 12月12日金融システム安定化法成立し金融機関救済に向かう
7)1998年2月  金融機能安定化法、改正預金保険法成立 そして預金保険機構内に「金融危機管理審査委員会」が設置され公的資金投入のザル審査始まる 長銀に1300億円、日債銀に600億円投入 この公的資金投入は要するに銀行に中小企業への貸し渋りを止めさせる一点にあった。  6月金融監督庁発足し大蔵省は終焉した。もうひとつ見逃がせない救済策が中小企業に対する貸し渋り対策のための30兆円の特別融資枠である。無担保で5000万円まで借りられて政府が保証人になる。まじめに会社を再建する人にとっては恵雨だが、会社を潰して5000万円ただで貰える小遣い稼ぎに利用されたようだ。なんという金融モラルの崩壊だ。

平成の徳政令(公的資金投入と債権放棄)と金融再編

1998年は6月に金融監督庁発足し大蔵省終焉すると同時に、長銀、日債銀一時国有化して公的資金を投入、問題企業への銀行の不良債権放棄を行い、それが大規模な銀行再編につながった。年代順に金融再編の動きをたどってゆこう。
1)1998年6月金融監督庁発足と4月の新日銀法施行により金融危機管理の主役は大蔵省から金融監督庁と日銀に移った。10月12日民主党案による金融再生法成立(与党自民党無為無策) 10月16日に成立した金融早期健全化法は合計60兆円の公的資金投入を設定して同時に金融再生委員会と整理回収機構が創設された  これに基づいて長銀の救済と譲渡が行われた 10月に長銀を一時国有化し1999年9月リップルホールディング投資NLPへの移譲が決まり2000年2月には新生銀行に生まれ変わった。そして新生銀行を引き受けた外資家に対して瑕疵担保責任(1兆5200億円)と貸倒引当金(8000億円)を政府が保証した。政府は新生銀行に合計2兆5601億円を投入したことになる。国税からこんな大きなお土産(熨斗)をつけて外資系に引き取ってもらうとはなさけない限りだ。
2)1999年3月長銀への公的資金投入により不良債権処理は終了したと柳沢金融再生委員会委員長発言があったが、本当にそこまでして長銀を譲渡する必要があったのか、長銀を完全に清算する手もあったはづという疑問は消えない。結局は長銀が抱えた大手企業(ゼネコンや流通業)への債務放棄のためであった。政府系銀行のみに発行が許されたリスクの高い金融債の政府保証にくわえて10月には銀行社債発行が解禁された。これも国が保証するらしい。勿論これらの債権の危険性が高いので素人は手出しは困難である。
3)2000年6月には日債銀のソフトバンクグループへの移譲が決定した。新生銀行と同じように政府は最大3兆2000億円程度の公的資金投入の可能性がある。以上をまとめると、1999年には銀行15行に対して7兆4582億円の投入を決定したことになる。公的資金の投入目的は国際決済銀行の基準での自己資金比率の改善にあったが、実質は債権放棄の損失補填に使われた。
公的資金投入により国は銀行の債権者になってしまい銀行経営は再び国の影響下におかれた(大蔵省から金融監督庁へ)。三菱銀行のように早く公的資金を返済して金融ビッグバンに即応した自由な経営体質に変える必要がある。1999年の金融検査マニュアルと経営監視基準にそった銀行経営者の自己責任が求められる。金融界では大手四大グループへの再編が進み、1999年8月みずほ系、1999年10月三井住友系、2000年4月三菱東京系、2000年3月三和東海東信銀系へ一大企業統合となった。それでも2000年5月には長銀系のそごう、第一ホテル、ライフ信販が倒産した。1999年兼松、セゾングループ、2000年2月トーメン、長崎屋、4月そごうが相次いで債務免除を要請した。
企業の経営危機を救済する法律には会社更生法があり、債務免除要請は法にない強訴である。債務免除要請は会社にとっては縁を切られることだが、経営者は責任を取らないという悪質極まりない処置である。ところが何故建設業界に債務免除を許して銀行に公的信投入をさせたかと言うと、これは将に政治問題で自民党の選挙母体であり資金源でもあったからで、そのため建設業界へ特別な計らいをしたようだ。さらに2000年4月には「民事再生法」が成立し、会社更生法より手続きが簡単になった会社救済法が出来た。危なくなったら民事再生法だ。

金融の官僚支配を脱して、今後の日本金融界は普通の会社に生まれ変わらなければならない。ところが日本の先進国では最悪の財政赤字国である。1992年の総合経済対策以来なんと100兆円を越える景気浮揚対策を繰り返した。200年時点での政府債務残高は647兆円、GDPの130%に相当し、これ以上の財政悪化は公的資金投入を不可能にする。政府当事者は責任も放棄したようで舵取り不在のまま、国富が目の前の利害関係(政治的配慮)のために消えてゆく有様だ。政府の弊害は誤りを認めない体質、抜本策をとらない無責任性、外国での無力さ、過保護から来る金融界の無責任培養、新商品・技術開発を妨害し、権威に頼るため専門家が不在と言う点にある。そして財政投融資の財源も危ない。郵便貯金に頼りすぎの体質は郵便貯金の流出が予想される現在極めて不安定である。今後日本の家庭の資産運用が米国型へなってゆくとしたら1300兆円の資産の20%は(260兆円)銀行や郵便局から流出する。2001年4月より郵便貯金を市場で運用できることも財政投融資資産運用部資金不足に拍車をかけるだろう。いまや個人がリスクを判断すべき時代になろうとしているが、しかし「只今勉強中」と言うところである。経済分野では規制緩和とグローバル化によってしばらくは市場主義的な傾向が続くが、違う価値観、多様性は今後の課題である。2007年社会保険庁が解体される予定だが、高度経済成長とおなじ財政のばら撒きを続ける政治と要求する経済団体、その権益で甘い汁を吸う勢力(特殊法人など)は未だにうごめいている日本社会に本当の未来はあるのだろうか。


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