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橋本治著 「人はなぜ美しいが分るのか」

 ちくま新書(2002年12月)

人はそれぞれの文脈のなかで美しいと感じる

この本は脳科学の本ではありません。美を感じる脳細胞部位を特定する仕事ではない。ある人には美しいが分り、他の人には美しいが分らないのが人間だ。美しさとは各人がそれぞれに創り上げてきた人生そのものだということが本書の結論である。

美しいとは合理的な出来上がり方を見たり聞いたりしたときに生まれる感動だという第一段階の規定から本書は始まる。形の美しさにはある程度そのような仮説が当てはまるかもしれない。しかし合理的といわれてもその定義は難しい。黄金分割比やギリシャ彫刻の美しさを合理的という人は多いが、その内容は不明確だ。「合理的」という理性による解釈は返って問題を困難にする。合理的という言葉が感動してしまった自分自身の実感をきちんと捕捉しているかどうか極めて怪しい。「美しい」は感動です。それに対して「いい」とか「かっこいい」とか言う言葉はある種の利己的・実用的で必要性から出ています。美しいを苦手とする人は主体的で意思的が好きな人達です。それは自分の都合だけが分って、対象のあり方が理解できない、いたって悲しい人だそうだ。美しいには直接の効用はなく「自分以外の他者の発見」である。次の二章について簡単に紹介しよう。

なにが美しいか

美しいとは、他者(対象物、自然、人など)のありようを理解するだ。利己的な感動・恣意的な判断は総体としては美しいにはならない。バランスを欠いた醜いものになってしまう。美しいものは価値があるとは錯覚である。所謂美術品は王侯貴族の玩具であって昔の既存の制度のことである。夕焼けを見て美しいと感じた著者の少年時代の経験は幸福感の裏付けがあったからだ。反対に著者の少年時代、友達がいなくて青空を見てもむしろ辛い気持ちにさせた。この世のありとあらゆるものはそのものの必然に従って美しいのです。利害から離れたところで人が美しいと感激するのは、存在する他者をあるがままに容認し肯定しているからだ。反対に人の存在のみに美醜がある。醜いのは自己である。柳宗悦の「民芸運動」のテーゼ「美しいのは特別なことではない。生活の中から生み出されたものは、それ自体が固有な美しさをもっている」も「美しい」を言い当てている。

背景としての物語

人は文脈の中で美しいを感じる。幸福なときは何をみても美しい。幸福にするのはその人の人間関係に由来する感情である。ブルーな人間関係(環境)のときはなにを見ても味気ない。この章で著者は平安貴族文学の清少納言の「枕草子」と、鎌倉末期の隠遁者兼好法師の「徒然草」の二つのエッセイを比較して日本人の美意識の変遷を解説する。「美の冒険者」として王朝文化の美をエンジョイした成り上がり者清少納言、「美の傍観者」として美しさから逃避した没落下流貴族の兼好法師の対比のくだりは大変面白い。兼好法師は王朝文化に魅了されながら、現実の自分の立場のギャップから美から逃避したのだ。清少納言は春を愛し、兼好法師は冬枯れに心惹かれた。美しいは「人間関係に由来する感情」で王朝社会の花形であった清少納言はうつくしいを連発したが、人間関係を必要としない人(兼好法師)には美しいは不要な言葉であった。ただ豊かな人間関係に埋没しているだけでは不十分で、豊かな人間関係の欠けたことに気付くことでさらに人の美的感覚は育てられる。


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