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橋本治著 「乱世を生きる −市場原理は嘘かもしれない

 集英社新書(2005年11月)

 橋本治氏初めて経済への疑問をのべる 「バブル崩壊後何が起きたんだろう」

作家橋本治氏は、1977年清少納言の枕草紙の現代丸文字風翻訳書「桃尻娘」で講談社新人賞受賞され、幅広い創作活動を続けられている。また「ひらがな日本美術史」という、平たい面白い視点での日本美術解説の書を著された。日本古典文学で活躍される橋本治氏からこんな経済に関する本が出るとは思っていなかった。勿論経済評論でもないし、氏自身の平たい疑問を述べられているが、結論として平たいさわりの経済評論序文としてなかなかの出来ではないかと思う。日本経済への疑問の一歩である。私も最近アメリカの世界経済戦略の目的と日本経済の混迷という課題で何冊も本を読んで書評を書いてきた。そのなかで本書はまさに入り口での疑問を平たい口調で述べた本である。言わんとするところは良く分かるし、ただどうすればいいかということを氏に性急に求めても意味の無いことである。入り口で疑問を共有することに意味がある。

今はやりの言葉に「勝ち組」、「負け組」がある。芸能界では品の無いタレントを「セレブ」と呼んで面白がっている。ずいぶん馬鹿にした言葉だと思っていたが、こんな風に言うことが、昭和末期のバブル崩壊後の、平成1990年代の社会の混迷を覆い隠すことにほかならない。飽和した産業の投資先を失い、危険な金融資本主義に狂乱する日本社会の支配者が、貧困に追い込まれた国民を無能者呼ばわりして文句を言わせない風潮を作ることが目的のキャッチコピーである。

橋本氏は「今の日本の社会のありかたはおかしい」という。これが「負け組」のひがみでなく、経済的貧富の差を固定化する方向がおかしいというのである。「不必要な富を望まない選択肢だってある」というような痩せ我慢を主張するようでもあり、氏の論旨の持って行き方は大変面白いのだが、「負け組の言うことは聞かないという日本社会の方向がめちゃくちゃだ」ということが氏の入り口になっている。とにかく現在の世界を動かしているのは投資家だということは事実のようだ。別に現在だけでなく昔から投資家はいた。1980年代に日本の生産力は世界一になって、輸出先と投資先は飽和しもう何処へ投資していいか分らなくなったのだ。アメリカの要請もあって、日本は内需を喚起すべくリゾート法などを作って土地価格の上昇は無限だという神話に埋没した。もう完全にあの時は狐がついていたのだ。狂ったように土地に投資した銀行・不動産などは昭和の終わりと同時にはじけた。これをバブル崩壊という。時を同じくして東欧・ソ連邦の社会主義国が崩壊し冷戦は終わった。アメリカの軍需産業は縮小統合の時代になって経済の氷河期に落ち込んだ。アメリカは日本の生産力と冷戦というダブルパンチによって死に体から必死の脱出策を講じた。それが金融資本主義(投機資本主義)によって、世界(ロシア、東南アジアと日本・韓国など)から蓄積を略奪する方向へ向かい、各国へ破壊ビジネス(ヘッジファンドM&Aや規制緩和)を仕掛けていった。方向を見失った日本の金融資本はめぼしい投資先もない状況で、アメリカの要求通りに金融ビッグバンを実施して、デフレスパイラルに陥った。金を貸す相手がいないので金利はどんどん下って、金が流通しなくなった。経済は流れていなくてはならない(自転車操業とは違うが)それが流れないのだから閉鎖観や「何にも出来ない」手詰まり観が支配したのだった。そこで橋本氏独特の(経済学者ではないので)方向みたいなものをいう。「経済はもう満杯になったのだから、そこから出るにはもう経済の発展を考えても仕方がない。ただ人間には我慢する力が残っているだろう。現状が攻めてきても主体的に抵抗しよう。」しかしこれは何をいいっているのか分らない。霞を食っては生きていけない、人が食えるということは経済のシステムに乗っかっていることである。私の結論は日本の方向が分らないではいけない、間違った方向の経済は是正し国家百年の計をたてて出なおそうということです。危険なヘッジファンド金融資本を排除して企業の健全な発展を促す投資を行い、国民の生活と活力を回復する施策を実施して国家再建に力を合わせることです。金融資本や超大企業の一人儲けでは,社会はいずれ衰退します。
以上が本書を読んでの感想です。つぎに本書で著者の言い分を聞いてゆこう。大きくは二つの内容に分けます。

たった一つの価値観に抗する

著者は「勝ち組、負け組」という二分法によほど頭にきたのでしょうか、経済への入り口の枕にしたかったのでしょう、1章を割いてねちねち反論しています。「負け組には未来への展望がなく、知性もないと評価される」バブル崩壊後従うべき理論が存在しなくって、どう生きてゆけばいい分からなくなった日本人は勝ち負け(経済的)の結果だけで判断するしかなかった状況があった。みんながバブル崩壊後どうしていいか分らない状況は「乱世」だと橋本氏はいいます。変わらない不況感から脱出するため、金融資本(投機資本)による見かけの成功を日本経済のけん引役と期待したのです。村上ファンドやホリエモンを英雄のようにもてはやしたものでした。ところが彼らの実態はヘッジファンドであり証券法違反の不法商売でした。また彼らには投資銀行・証券会社・監査法人・投資シンクタンクなどが群がって甘い儲けをたくらんでいたのです。これを金融モラルの崩壊といいます。政府も彼らが動きやすいように数々の法律規制を亡き者にしました。もうまるで日本の悪が総結集したようなものです。そんな動きを日本経済の牽引車にしていいのでしょうか。エコノミストという現代の救世主は経済の破綻とは決して言いませんが、確実に国民全体が投資に参加するよう仕向ける。つまり国民の財産を増やすことより、飲み込むことに狙いがあるようだ。博打の胴元みたいだ。「エコノミストにとっての乱世はバブル崩壊後の世界経済のことでしょうが、我々にとっての乱世とはエコノミストが絶対の権限を握ってしまった危険な状態のことだ」と橋本氏は指摘する。つまりたった一つの方向性とは、ある秩序を守るため金融資本が主導する社会に誘導する世界的な動きのことである。2001年に小泉首相が誕生してからは、(小泉流の政治術は省くが)「改革」とはアメリカのように金融資本中心の日本へ「改革」することであった。

悲しき経済

たった一つの価値観(方向性)しか持たない経済というものの悲しさを述べる。「経済は循環するもの」であって「経済は利潤を得るものではない。損をしていいわけではないが、利潤の最大化のみに終始すると富が一極に集中し流れなくなる。ここで橋本氏の経済観が披露される。「物や金が動くということに連動して生きることは幸せだという幸福感が廻っているのだ。人と人の間に感情が循環することによって幸福な現実が出来る。経済とは金銭の損得とは別のものである」といかなり広義の「経済」の定義であり、「人間活動」と置き換えることも可能だ。日本では律令の昔から「経世済民」が政治の目的とされた。つまり経済が国家の政策として考えられ官が主導して施すものだった。欧米のように経済が独立してあるのではなく日本では政府の政策であったため、自分の生活から考える経済が存在しなかった。日本はまるで国家社会主義のようだといわれる。明治以降経済政策は支配者(官僚の手を通して)のなすことで、富国強兵以来国家が企業体を育成し強化した。護送船団方式というのもこのことである。戦後は米国に軍事を握られ、独立国家としてやることはひたすら経済規模の拡大と国富の蓄積にあった。ところがそれが成長の限界をこえてしまったのである。世界の市場の限界も超えた。バブルまで官主導で行われた。日本によって追い詰められたアメリカを始めとして、欲望には限界がって生産がそれを超えたとき、資本は生産から手を引き始めた。「作るから売る」までの活動は他人に任せて、自分はそこへ投資して利潤を得る立場に移っていった。米国流金融資本主義の登場だ。世界中に巨大な蓄積を持つ米国資本が投資先を探して動き回る「ヘッジファンド」が徘徊した。当面の利を狙って、東南アジアの金融崩壊を引き起こした。


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