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東谷暁著 「金融モラル崩壊ー金より大事なものがあるー」

 文春新書(2006年12月)


 著者東谷曉氏はフリージャーナリストで政治経済問題に健筆を振るう。
 本書は序章に「日銀福井総裁のモラル」を取り上げた。福井総裁は民間研究所時代に宮内オリックス会長の勧めで村上ファンドに1000万円の出資をし、日銀総裁となっても継続していたことで問題になった。問題はそんなけちな話にあるのではなく、首相さえ罷免することは出来ない地位にあり流通する貨幣量をコントロールする要職にある総裁の規範意識の欠如である。内規にないとか、儲けた分を返せばいいだろうと居直ることは下の下だった。総裁になったときに個人金融資産を第三者に預ける「ブラインドトラスト」をしておくのが世界の常識であった。
 今日本では規制緩和の嵐が吹きすさんでいる。特ひどいのが金融規制緩和問題で、あたかも米国の金融資本に脅かされて日本の会社を売り払ってしまう感がある。金融のいろいろなタガがはずされて、何でもありで儲けたものの勝という按配になってきた。だからこそあの金儲けの天才詐欺師村上世彰をして「お金儲け、悪いことですか」と居直らせてしまう。その本質ははげたかファンドであることは分っていたはずで、会社の経営なんぞやる気もないくせに阪神タイガースの経営権を奪おうという姿勢をポーズとして見せながら株価を上げる派手な立ち回りをして、株が上がったところで売り抜けると言うヘッジファンドの本質をさらけ出した。
 村上に乗せられて日本放送の株を買い占めようととしたホリエモンは、悪質度からすると村上の足元にも及ばないお調子者で、フジテレビとの連携を盛んにいっていたが「シナジー効果」以外の経営方針はあるわけもなかった。結局株価を上げるパフォーマンスであることは百も承知で臆面もなくお祭り騒ぎをくりかえし、株価が上がったところでフジテレビに買い取らせて数百億円を手にしてドロンをきめた。資金を融資したのはアメリカの投資銀行リーマン(800億円を融資し、リーマンは100億円を儲けた)と大和証券であったといわれる。
 こういった村上やホリエモンのために企業は上げられた株価差額を負担させられ損害を蒙った。此の手口は大昔から分っていたことなのだが、米国流ファンド資本主義で金儲けをたくらむ米国資本と日本の投資銀行、証券会社、監査法人、弁護士らの共演合作による上場(IPO)ビジネスが横行するのは何故だろうか。このまま行くと規制緩和で日本の会社が大きな損害を出して日本経済そのものが立ち行かなくなることは必至である。北越製紙を乗っ取ろうとした王子製紙のM&A騒動(野村證券が仕掛けたと言われる)はあまりに杜撰な結果に終わったのは幸いであったが、今後日本企業の活力をそぎ失業者など社会的損失も大きい。
 規制緩和はすなわち規範の喪失である。人間の生活の破壊である。まさに「資本という化け物(ヘッジファンド)が世界を徘徊する」といったマルクスの共産党宣言序文の言葉通りとなった。金融資本で世界支配を目論むブッシュの恫喝に手もなく屈した小泉前首相(2001年小泉・ブッシュ合意)のもと、宮内オリックス会長の誘導で打ち出された金融規制緩和政策が全ての出発点である。ではそのからくりと出来事をみてゆこう。

第一章  村上ファンド事件 

 昨年インサイダー取引で逮捕された村上世彰は、逮捕前日記者会見で臆面もなく「お金儲け、悪いことですか」とのたまわった。彼の犯罪は単純極まる証券取引法違反であり決して複雑なものではない。彼は簡単な法律さえ遵守する気は全くなかったようだ。ひたすら決まり文句と自己称賛と自己正当化に埋没していたナルシストである。華僑出の貿易商を父に持つ典型的な金亡者であったようだ。この金亡者がなぜメディアでは「日本の産業構造変える革命児だとか、物言う株主」としてもて囃されたのだろうか。私を含めて誰も彼をそのようなヒーローとは見ていなかった。株高資本主義に棲息する派手な立ち回りで株価が高騰すれば売りぬいて利ざやを儲ける「はげたか買収ファンドまたははげたかヘッジファンド」と見ていた。村上のはげたかぶりと狡猾さは200年の「昭栄事件」に明らかに見られた。社名と登記を頻繁に変え自分の会社でTOBを仕掛けて株価を上げ自分の別の会社が昭栄株を売りぬくという構図で利ざやを稼いでいた。
 この詐欺師に引っかかったのがライブドアーのホリエモンである。2005年ライブドアーが大量のニッポン放送株を買い占める直前既に18.57%も取得していた村上は売りぬいて利ざやを稼いだ。ちょっとした誤算はライブドアーに投資銀行と証券会社がついて巨大な資金をつかって買収を仕掛け、社会問題化することまで見込んでいなかった。それが彼の命取りになった。そこそこ儲ければ逃げるのが彼の神髄で、経営参加など法螺のひとつにすぎないのだ。
 村上の手法は別に革命でもなく、米国で1980年代に急速に広がった企業買収の方法LBOを真似たものだった。巨大に儲けるには巨大な資金がまずは必要である。それを提供するのが機関投資家、投資銀行、証券会社などである。米国では中東のオイルマネーが流入し資金が潤沢に存在していた。またジャンク債(屑企業の株を集めて経済価値があるように仕上げる)を発明したミルケンや、企業に働きかけて株価を吊り上げるアクティビスト投資化として有名なゲッコーや乗っ取り屋ピケンズらの天才(?)がいてさまざまな株式証券の財テク手法を編み出した。村上はこれらの手法を真似たにすぎっず、構造改革など高い志はなかった。M&Aは買収側からすると企業価値を高めるものではなく企業価値を毀損するものだ。経済全体から見ても損失のみが残る。

第二章  ライブドアー事件

 ホリエモンだけ見ていても何も分らない。ホリエモンはある意味では巨大な投資資本の操り人形で甘い汁を吸ったのはホリエモンよりむしろ巨大資本であった。ライブドアーはどこからニッポン放送株を買い占める資金を得たのだろうか。ライブドアーはMSCB(転換価格修正付き転換社債)を発行し800億円という巨大な資金を米国の投資銀行リーマンから得た。からくりはまずライブドアーはMSCBを発行する。リーマンはMSCBを購入した後ライブドアー株をわざと空売りして株価を下げ、安くMSCBを株式に転換して、買収騒ぎでライブドアーの株が上がったところで一気に売却した。すなわちライブドアーはニッポン放送株の株高で利ざやを稼ぎ、リーマンはライブドアーの株高で利ざやを稼ぐ仕組みである。リーマンは百億円を稼いだといわれる。また同時に大和証券SMBCはニッポン放送株高で儲けたと言われる。問題は日本の政財界が協力し合って金融の自由化、企業統治の米国化、M&Aの円滑化を図るために次々と規制緩和でタガをはずしてきたからである。1997年独金法改正で持株会社を解禁し、証券取引法改正で公開買い付け条件を緩和し、1998年金融のビッグバンを断行、1999年商法改正で株式交換・株式移転制度を導入、2001年の商法改正によって会社分割制度を決めた。2001年6月小泉・ブッシュ合意により外国企業のM&A手段活用規制緩和を行った。そしてさらに2007年「三角合併」や「現金合併」も解禁されようとしている。
 ライブドアーのホリエモンらは自社投資組合を何重にも組み合わせた粉飾決算で逮捕された。ライブドアー事件で有名になった「株式の分割交換」で株価の高騰をもたらし、此の頃にはライブドアーの経営実態は稀薄で、ひたすら株価を吊り上げることだけに邁進していたといってよい。実業ではなく虚業家であった。ライブドアー事件の教訓は実は、米国プロバイダー最大大手AOL社の経営者たちのストックオプション(自社株購入権)漬けから来る株価吊り上げに見られる。一時はAOL社がワーナーしゃを買収したが何もワーナー社の経営改善策も打つ出せず、切り売りしたことだけだった。このように経営者が株価吊り上げに狂奔するとき、虚妄の経営といわれる。ライブドアーもAOLも、急成長を遂げて巨大な企業を乗っ取ろうとしたが(蟻が象を飲みこむ)、やがて経営の実態が暴かれ没落した。太く短い生命だった。

第三章  IPOビジネス

 確かに日本はベンチャー企業化は育ちにくいといわれる。日本の90年代のITブームの頃、クレイフィッシュというベンチャーがホームページ作成ビジネスからインターネット商店街をやって2000年ナスダックと東証マザーズに上場棄て話題をまいたが、ITバブルがはじけると急落し会計疑惑が持ち上がった。同じような例は携帯電話販売の光通信というベンチャーの重田康光は世界第5位の大資産家になったが、詐欺罪で逮捕、株価も急落した。米国では「アボイド・ドット・コム」といわれIT ベンチャー株は買うなという教訓が囁かれていた。
 米国の経済学者ジョゼフ・シュペーターは「創造的破壊」という言葉で企業化をこう定義つけた。「新しい生産方式だけでなく、あたらしい商品、販路、原料の獲得、組織を組み合わせて新しい産業を起すこと」  ところがそういう真に革命的な産業創造はなかなか出るものではなく、まずはどこかにトリックがあると疑いの目で見ることが賢明である。ところが日本の経済マスコミは話題さえあれば村上やホリエモン、重田康光らの行動を創造的破壊の企業家と礼賛する。米国で1980年代後半に巨大な投資銀行もシリコンバレーのベンチャー企業に目をつけ上場後の巨大な収益を得るためIPO(上場)ビジネスを展開するに至った。まさにゴールドラッシュの雪崩の如き金が動いた。投資銀行は上場で得た資金の7-8%を手数料としていただくストーリーである。もっと悪いことに本当に企業が成功しなくともよく「仮の成功」という仮構で数多くの上場(実体の伴わない噂だけの)が仕組まれ、赤字を飛ばして黒字になるまでごまかして成功を演出するいわゆる「飛ばし」が常態化した。ライブドアーの粉飾決算はまさにこれにあたる。

第四章  ウェルチ革命 GEの金融資本化

金融工学(財テク)は儲かると言う伝説的なお話を紹介する。米国のゼネラルエレクトリック(GE)という会社は東芝・日立のような電気会社だと思っていた。ところがウェルチが1981年に会長兼CEOに就任してから、物つくりから金つくりの会社に変容させ、いまや世界に冠たる金融サービス会社にした。ウェルチは自社の持つ製造部門を強いものだけ残して次々と売却し、金融部門や情報部門を買いあさるM&A戦略を展開した。その結果40万人いた社員は20万人に激減し、348の事業を売却した。その買収資金は買収の成功時に急騰する自社の株価を現金のように使った。ウェルチの強欲と性急さは社内の忠誠心とモラルを抹殺するものだった。株高のみが富でありそのためにM&Aに狂奔するのがウェルチの哲学である。かくもGEは富の生産からマネーに急激にシフトしたアメリカの経済の縮図である。その原因は日本・ドイツの生産力がアメリカを追い詰め、米国の製造業の不振が長引いたので巻き返しのため強いドルを目指して金融ビジネスで世界支配を目指したことによる。それは成功し世界中のドルが米国に還流するようになった。日本の生産力が中国に追い詰められる時が日本も挙げて金融王国を目指すことになるのだろうか。そのための準備が金融規制緩和なのであろう。

第五章  「三角合併解禁」により日本企業のM&A解禁

惨めな結果に終わった王子製紙による北越製紙への敵対的買収の試みで、日本にも本格的なM&Aがやってきたとマスコミは騒いだ。この王子製紙の背後に野村證券がいて猿芝居を演出した。M&Aは大きな周辺ビジネスを抱えている。コンサルタント、弁護士、証券会社、投資銀行、信託銀行が買収側、守る側の両方について成功報酬を荒稼ぎする構図が出来上がっている。買収・再生案件を中心に協調融資はいまや30兆円を超えた。野村證券も5000億円をこえる買収資金を用意している。企業活動はそもそも地道な努力が日夜繰り返されて着実に進展するものなのだ。企業は経営者と働く者のものであって、金をふりかざす株主のものではない。彼らは地道な努力はしない。手っ取り早く稼ぐためファンド資本主義の仕組みを学ぶ。まさにハゲタカかハイエナのように企業に群がって儲けることを考えている。彼らにとって企業は金儲けの手段であって目的ではない。ところが経営者や働く者にとって会社は人生であり、会社の業績向上が目的なのである。
2007年5月に「三角合併解禁」が予定されている。「三角合併」とは外資系企業が日本に子会社を作り、その子会社が日本の企業を合併するさいに親会社の株式を用いる方法である。さらに日本政府は「三角合併」を容易にするため税制面での整備に乗り出す。株式交換方式でM&Aを進める際、株主が外国株を受け取った時点での課税はしない方向で検討されている。この株高経営論の要には米国式会計基準が適用される。米国ではエンロン事件の後2002年にサーベンスオックスリー法が成立した。これは新独立監視機関を設置しSEC(証券取引委員会)の傘下に置くことである。サーベンスオックスリー法は企業統治(コーポレートガバナンス)として独立取締役を半数以上おくことで経営CEOから取締役会を独立させることが目的である。この米国流の会計監査と企業統治法が本当に透明性を確保して公正を約束するかと言えば抜け穴はいくらでもある。そのシステムを日本が踏襲しようというのである。2004年金融庁に「公認会計士・監査審議会」が設置された。それでもカネボウ粉飾事件がおき、中央青山監査法人による不正工作であった。
日本では2001年の商法改正で「新株予約制度」が創設され、ストックオプションとはこの「新株予約権の付与」と解釈される。資本市場を開放して金融資本を活性化させるのはIT産業を後押しすることと並んで、いまや米国の国策である。米国の経済の牽引車は金融産業と情報技術産業であり、日本はいまでも半導体・液晶や自動車の製造業である。日本経済の技術革新はいまも大企業が担っている。日米の経済構造の違いが大きいのに、日本が米国の追随をしてはたして企業は繁栄するのか壊滅するのか岐路に立たされている。ところがヨーロッパでは原則敵対的買収は制限されている。日本の選択肢をよく考えなければならない。

第六章  金融規制緩和を進めた人

日本では官民一体となった特定業種への利益誘導は明治維新以来の伝統で政商の独壇場であった。1994年に「規制緩和小委員会」に起用されて以来、1996年に「規制改革会議」の議長となったレンタル業と生命保険会社の雄たる宮内義彦氏は以降11年間政府の中枢に入り込んで規制緩和の音頭を取ってきた。自社も関わる分野への規制緩和を推進すると言う公民混同を続けてきたことになる。規制緩和の師匠は宮内氏と並んで米国保険会社AIG社のモーリスグリーンバーグであった。規制緩和は2004年「市場化テスト」といわれる官民競争入札を打ち出したが、日本は今でも公務員数や政府支出はGDP比率で国際的に見て十分小さな政府となっている。英国の例では市場化テストはダンピングを招いて公共サービスの質を低下したので廃止された。米国では主として戦争業務の民間請負に市場化テストが利用された。日本ではリース業界がいちばん関心があるのは宮内氏の影響が大きいからだ。

終章   金より大事なものは信頼である。社会経済の基本

2006年に亡くなった経済学者ガルブレイスによると、バブルを見抜くのはそれほど難しくはない。金融にレバレッジ(梃子原理)をきかせて資金を何倍にする仕組みが生まれ様々な起業家や投資家が跳梁跋扈していれば、それはもうバブルなのだということだ。お粗末な起業家が跋扈している日本でも常態化したバブルj経済の中にいるようだ。ファンド資本主義の雄である米国はアダムスミスの定義によると「富」はそれほど生産していないことになる。これを「カジノ資本主義」と呼ぶ人もいる。あらゆる物を金融財産として仮構して投機の対象とする(買収対象とする会社の業績資産を担保にして買収資金を借りることも出来るのだ)セキュリタイゼーション(証券化)の流れは拡大した。さて近代資本主義を創り上げたのは、物つくりのための産業資本主義だったのか、金を操る金融資本主義だったのか、未だに結論は出ない。規制緩和は規範の弛緩であるといわれるが、まさにシカゴ大学教授のポズナーは「正義の経済学」で「富の最大化が正義である」と述べているがこれこそが倫理の喪失であろう。金を儲ければ正義だということだ(村上の言葉でもある)と言うことは経済活動の倫理観(たとえばウエーバーのプロテスタント倫理)を解体する論理である。ベンサムの功利主義(ご都合主義)と酷似している。米国では法律は倫理に替わるものだという見解を受け入れ、相対主義で社会の倫理基準を見つけるものである。したがって「法律に違反していなければ」とか「法に無いので」とかいう(日銀福井総裁の言葉)ことが公然といわれ、倫理観が金融化される。社会の原理と金融の原理は相互に浸透しているのが現実ではあるが、金融の論理のみが優先していけば、「信用」と言ういちばん社会の安定にとって重要な規範させなくなってゆくことが恐ろしい。


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