著者中野麻美氏は弁護士で、NPO派遣労働ネットワーク理事長・日本労働弁護団常任理事である。つまり弁護士の立場から労使関係と労働基準法の崩壊を論じた本である。私も2003年末まである企業に勤めていたので労働事情の変化には感度は悪いが気がついていたが、私たちの世代は一応日本的労働慣行が守られていたので自分の問題ではなかった。しかし私の息子が90年代後半の就職氷河期に大学を出て就職に失敗して職を転々としていたのを見ると、戦後の「大学はでたけれど」を思い出した。事態はそんな甘いものではなく、確実に社会構造が変わったのだと言うことに早く気がつくべきだった。かってこの書評コーナーで橘木俊詔 「格差社会」をとりあげたが、地域、世代、階層での格差進行の原因が決して若者の労働観ではなく経済政策から来ていることを知り愕然とした。中野麻美著 「労働ダンピングー雇用の多様化の果てに」の本も、この格差社会を労働する側から検証したものになっている。そして全ての原因は新保守主義経済の規制緩和(小さい政府に騙されてこれはいいことだと持っていた自分が恥ずかしい)が、90年代に入りバブル崩壊後にグローバル資本の自由を最大化する政策を取り始めたことによる結果、貧富の拡大、労働環境の崩壊につながった。本書によってその過程をいやと言うほど労働現場から突きつけられると、さすがに私も気分が悪くなった。読み続けるのが苦痛になったのである。気を強くして2日でわずか200ページ強の本を読了した。読後感は実にいやな気分である。革命でも起こしたくなる。
1990年代後半から日本の格差問題が議論され始めた。時間給賃金が1996年から2001年には250円強もダウンしさらに下落し続けている。更に正社員も成果主義処遇によって二極化した。このように労働現場を厳しく変えたのは、1986年に労働法制が再編され機会均等法と労働者派遣法が制定され労働基準法が大幅な規制緩和にあったためである。正社員の男性の残業が青天井で許され、女性労働を中心としてパート化・派遣労働者化が進んで労働現場は激変した。それが低賃金化への推進力となったのである。1995年日経連は「新時代の日本的経営」で雇用を次の3つで管理すると宣言した。@基幹を担う長期蓄積型能力活用A専門能力活用B定型業務を中心とする雇用柔軟型である。このBが労働現場のすべての禍の元になった。2001年には正社員は170万人削減され、非正規社員は200万人増加した。私の経験から見ると、確かにこの時期周辺から製造現場から正社員は主任だけになり実務労働者は請負子会社(組)社員が殆どになった。こうして安上がりな非正規社員雇用は価格競争を通じて正社員常用雇用労働者を駆遂していった。(これを悪貨は良貨を駆遂するという)現代社会が直面しているのはただの格差ではなく、深刻な貧困化を伴うものでありそれがいかに不合理な差別の上に成り立っているのである。資本の前に働く人の人権が否定され「健康で文化的な生活」は憲法の飾り文句に過ぎなくなった。「食べていけない」、「自立できない」、「健康に生きられない」労働がもたらすものは、活力ある社会とは全く似ても似つかない破綻ではないだろうか。
低賃金化・細切れ雇用がすすむ非正規雇用はいまや究極の商品化とも言うべき「日雇い派遣」を生み出すに至った。この低賃金労働は正規雇用を追い詰める。「正規常用代替」は正規雇用の烈しい値崩れをもたらした。雇用者が正規雇用であることに特別の意義を見なくなった結果である。規制緩和政策は経済を回復基調に導いたかの様にみえるが、一方で激しい二極化と貧困化を進めた。労働者を犠牲にして企業の人件費削減策が成功したのである。労働者の人権と生活を奪って、いやなら外人を雇うよと脅しをかけているようだ。正規労働者と非正規労働者(女性が多い)と外人労働者の三者を競争させて人件費コスト低減するのである。「分割して支配せよ」とは植民地主義の原則であったが、いまや労働界は分断されて抑圧されている。労働界の体たらくは企業内労働組合の不勉強と貴族化・総務課支配の結果である。日本の産業社会に未来があるとするならば、それは競争による敵対と差別・排除ではなく、働き手を大切にする協働のシステムを構築することであろうか。その際に低賃金化を引き起こした女性の非正規雇用を克服する男女平等社会(ジェンダー)の視点が必要である。また正規雇用は自らを守るため非正規雇用を差別するのではなく、非正規雇用との均等待遇を確保する方向に行かなければ自らも守れない。
規制緩和が労働者の選択権(自己決定権)というイデオロギーを伴って導入されたことは、取り返しのつかない被害を社会に与えた。つまり「自己決定」というポジティブな像をもって人を欺き、格差を認めさせ、生み出される矛盾を働き手の「自己責任」にすり替えるという米国流自由の論理は労働法をないがしろにし差別を固定化するものであり、不公正社会をもたらし人から活力と再生可能な労働を奪うものである。労働は自立した人生を創り上げる人権そのものなのだ。その人権を奪うことは資本が人々を奴隷化することである。許されるものではない。政府こそが労働活動の適正な配分を保証し差別を抑制する機能を果たすべきで、小さな政府と言う規制緩和は健全な社会を守る任務放棄になる。日本の社会において人々が雪崩をなして社会的弱者に転落する事態は現実のものであり、格差は努力や能力の欠如の結果とみなされ脱落者になったのは努力や能力の不足だという弱者いじめになっている。米国流自己責任論は人々から自立と人間としての尊厳さえも奪い社会の不公正是正や差別に立ち向かう力と勇気さえ削ぎ落としてしまう。グローバル資本の一人勝ちになって、規制緩和はもはや善ではなく、不公正の源になりつつある。規制緩和に反対し、人を商品化する資本から新しい労働システムを構築することこそが大切である。まるでマルクスの「共産党宣言」になってしまった。それほどグローバル資本のなすがままでは私たちの生活と社会は崩壊するといことだ。さて憤懣はそれぐらいにして、少し本書にそって日本の労働格差について考えてゆこう。各章の本質的な論点のみを以下に示したい。
第1章 今何が起きているか1986年に制定された労働者派遣法は1999年改正派遣法において、高度に専門職の政令指定業務以外の一般業務の仕事でも原則自由に派遣できるようになった。こうして規制のたががはずされるとダンピング競争が始まった。派遣・請負・委託であろうと、商取引が介在して雇用や労働条件が決められると労働も商品化されてゆく。低コストでダンピング可能、権利を保障した労働法上の規制を受けない「商品」としての労働の競争力は正規労働を値崩れさせた。正規労働の契約社員化やパート化も進んだ。経済分野でのグローバル化とともに激しい国際的コスト競争が展開され、国内産業労働者を保護してきた労働法の規制が見直され規制緩和で働く現状が一変した。最近景気が回復基調になり失業率も低下したが、しかし雇用された労働の質の低下は改善されず、労働の競争関係を激化させる経済社会構造が維持される限り労働環境は劣悪なままである。
第2章 ダンピングの構造非正規雇用の特徴は「短時間労働」、「有期間雇用」、「間接雇用」にあり、この要素が結局ダンピング可能な低賃金不安定雇用として利用されてしまった。非正規雇用の賃金はパート労働者(主婦)の「家計補助的賃金」が原型になった。だから低賃金でも良いという考えが支配した。また有期間の条件は契約更新時に労働条件を使用者側から勝手に変更されても(差別)、労働側は雇用維持のため不利益を抗議できない。労働経費のため正規雇用がアウトソーシングされ激しい価格競争に曝された。つまり賃金の値崩れは正規・非正規雇用の両方に雪崩を打って広がった。特に女性労働者の低賃金化は著しい。それにつれ貧富の格差は拡大してゆく。世代間格差も広がった。若者の約半分は非正規雇用で働いている。皮肉って言えば、安部首相が言う「働く人が報われる社会」とは「貧しい人は働らかないからだ」とも解せられれ、「再チャレンジ可能な社会」とは「成功するわけはないでしょう」とも理解される。人は職業を通じて生活を営み、教育や情報など人との社会的関係を確保できるのであって、貧困化はそうした基本的な権利を剥奪し基本的人権をもないがしろにしてゆくのである。「貧すりゃ鈍する」とか、「デフレスパイラル」はこのためにある言葉である。
第3章 労働は商品ではない市場原理に曝された労働は商品以上に値崩れしやすい。雇用や労働条件の劣化が進み、貧困と暴力(ハラスメント)が蔓延して「心もすさみ」、経済社会を衰退させてしまう。労働法とは働き手が市場原理に曝されたとき、労働条件など一定の水準を下回らないために競争を抑制する規則である。労働市場法には労働基準法、最低賃金法、労働安全衛生法、育児介護休業法、雇用均等法、パート法、労働派遣法、職業安定法や労働者派遣法、高齢者雇用安定法などが存在する。にもかかわらず資本側はこれらの法を骨抜きにしようと規制緩和を推進するのである。政府は防波堤にもならない。むしろ規制緩和の提灯持ちになってしまっている。商品化する非正規雇用の厳しい現実と格差はそのままにこれまで相対的に守られてきた正規雇用に融解に向けた法的受け皿が用意された。それが「解雇の金銭的解決」と「ホワイトカラーエグゼンション」である。日本の2005年年間労働時間は1802時間であるがこれは会社が把握している「支払い労働時間」であって、実際のサービス残業を含む年間総労働時間は2230時間だと言われている。「ホワイトカラーエグゼンション」はそうした労働時間でさえ否定する究極の姿である。無制限の奉仕が要求されるのである。「解雇の金銭的解決」とは会社が解雇権乱用で訴えられるリスクうを防止するために導入されようとしている。
第4章 隠された差別を可視化する差別は女性から始まった。男女の職務分離、非正規雇用の女性化、非正規雇用を含む男女間賃金格差の拡大、職業と家庭の両立における男女格差はいまだ非常に深刻な状況にある。改正機会均等法は体力、転勤、昇進において男女を差別してはいけないとなっているものの、間接差別は残っている。すなわち女性の職務、雇用形態から賃金の格差はなくなってはいない。雇用の多様化が使用者側の人件費コスト削減によって歪められ臨時労働・派遣労働などによる弾力的活用を広げたことからすると、均等待遇保障は低賃金・不安定雇用をなくするうえで強く実施が求められる。労働ダンピングと失業の構造的悪循環を断ち切るためには、世帯賃金から個人ベースの仕事賃金(同一労働同一賃金)への転換を図り、労働時間性差別をなくする必要がある。今日深刻な社会問題となっている少子化問題も、こうした均等待遇保障の立ち遅れと雇用における競争の拡大がもたらしたものである。少子化は近い将来確実に深刻な労働力不足をもたらし、企業活動や社会保険制度の根幹が危機にさらされる。安部政府は深刻な格差の拡大と少子化を前に短絡的に「再チャレンジ支援策」を打ち出そうとしているが、新保守主義(新自由主義)に基づく政策との決別なしには安定した労働と社会のシステムの構築は不可能である。
第5章 現実の壁に向かって実はダンピングの最前線は公共事業と自治体・国の労働競争入札制度である。最悪は民間企業より公共セクターにある。労働の商品化を極端に進めたのが競争入札制度であった。公共事業の入札価格低落は事業の質のみならず働くものの生活賃金さえ圧迫している。欧州のように生活賃金(リビングウエッジ)や安心して働ける仕事(ディーセントワーク)という政策の導入が必要である。仕事は個人として自立しながら人間相互の関係で生きる基盤である。仕事とは本質的に人権そのものなのである。決して商品化してはならない。安定した社会の崩壊をもたらすことに気がつくべきである。登録派券や日雇い派遣、常用代替はあってはならない。いまこそ非正規雇用を正規雇用に切り替え、均等待遇保障を要求しなければならない。職務の客観的内容が曖昧なまま、ノルマや能力によって賃金を支払という契約関係は、もはや労働契約ではなく、請負や委託という商取引関係に等しい。生活の場では働き手が契約の名のもとで包括的に拘束される。雇用主と労働者の1対1の契約は労働契約ではない。