書評 061013

島田洋一著 「アメリカ・北朝鮮抗争史」   
  文春新書(2005年2月 初版)


北朝鮮という国を援助した人、抗争した人



核実験をめぐる北朝鮮とアメリカの抗争を考える時、まず簡単に歴史を振り返っておこう。1948年ソ連のスターリンを後ろ盾にした金日成によって朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が樹立された。国連は同年に、李承晩を大統領とする大韓民国を承認した。1950年6月朝鮮戦争が始まった。国連軍の参加と中国義勇軍の参加で膠着し1951年7月に停戦し、1953年7月停戦協定が結ばれた。境界線として北緯38度線が固定された。  その後1968年青瓦台襲撃事件、プエブロ号事件、1976年ポプラ事件、1983年ラングーンテロ事件、1987年大韓航空爆破事件と北のテロが続いた。
 北は1980年に黒鉛減速型原子炉を建設し、ソ連の援助で軽水炉の導入検討を行うと同時に北は1985年12月核拡散防止条約に加入した。そして使用済み燃料再処理施設の疑惑がおこり1991年IAEAは特別査察を北に要求した。いよいよここからが北朝鮮の核疑惑抗争の始まりである。1991年12月韓国・北朝鮮は「朝鮮半島の非核共同宣言」に調印し、国連への同時加盟が実現した。1992年1月北はIAEAによる査察協定に調印した。ここから北の約束違反の常習化が始まる。
1993年2月IAEAと国連安保理事会は査察実施を決議したが、五月北朝鮮はノドンミサイル発射で答えた。1994年IAEAは対北援助を凍結し、米国日本は制裁措置を出したが、米国大統領クリントンはカーター特使を北に派遣し「米朝間で合意された枠組み」が1994年10月に調印された。これはクリントンの「太陽政策」といわれ援助ばら撒き政策であった。軽水炉原子炉に切り替えるためのKEDO機構を作る、毎年50万トンの重油を北に提供する、その代り北は黒鉛炉施設の凍結とIAEA査察の受け入れであった。さらに1999年長距離ミサイル発射実験凍結と引き換えに貿易投資解禁を決めた。この枠組み合意により、一旦米朝関係は蜜月時代を迎えそうに見えた。そして1998年金大中が大統領に就任すると「太陽政策」と称する贈り物外交を展開し、北は援助物質で一息ついたようだった。ところが北は査察を逃れる口実を繰り返し1998年ついに北はテポドンT号試射を行った。米国日本は制裁措置に動いたが、クリントンは2号の発射を凍結する見返りに経済制裁緩和を約束した。こうしてクリントンは北朝鮮の要求に次々と屈した。その裏で北は着々と核開発を続けていた。これが北には米朝直接交渉の甘い記憶となった。
ところが2000年ブッシュが大統領になると、対北朝鮮政策を見直し一挙に強硬路線に転じた。慌てたのは北朝鮮であった。ブッシュは金大中の政策の見直しを要求した。2001年7月北の中東へのミサイル輸出を禁止するとしたが実効はなく、9.11テロ後はブッシュは北、イラン、イラクを「悪の枢軸」と名指しで非難し、金正日体制の孤立圧殺に向けてはっきり動き出した。同年12月北工作船と日本保安庁の銃撃戦があり、2002年6月ワールドサッカー戦中に起きた黄海交戦があった。2002年8月拉致家族問題解決のため小泉首相が平壌入りし、「日朝平壌宣言」が結ばれ、正常化の後に核問題解決と資金協力経済協力というお土産を小泉首相は約束した。拉致家族五人の帰国問題で又北への不信観は増大した。2002年10月米国のケリー長官が北の核疑惑を正すために訪朝しいよいよ疑惑が増大し、11月KEDOは重油供給凍結を決定した。同年12月北はIAEA査察官に国外撤去を求めた。2003年1月のIAEA決議にも北は無視し、核拡散防止条約から脱退した。本書はここまで。以降は皆さんご存知の通りで、脅しとペテンと罠を繰り返し、2006年10月核実験を強行した。  このように北朝鮮は最初から守るつもりのない条約を結んで破っては、見返りに援助を要求する手を繰り返した。韓国は2002年12月より盧泰愚が大統領になり金大中の「融和政策」を引き継いでいる。アメリカには叱られ、日本には相手にされず仕方なく中国に助けを求めているようだ。北朝鮮制裁論議の盛んな今日一番の障害は盧泰愚で、2番は中国、3番はロシアである。一番正しい北への見解を持っているのが、拉致被害者家族の会ではないかという著者の意見に同意する。


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