書評 060831

広河隆一著 「パレスチナ」
 岩波新書(2002年 初版)


58年間に及ぶイスラエルのパレスチナ人追放戦争は終わりを知らない



 著者広河隆一氏は中東諸国と核問題を中心にした報道カメラマンである。数々の報道写真賞を受賞した。広河隆一氏のホームページを参照ください。まさに泥沼化した流血の対立の渦中にあるパレスチナとイスラエル。それは1948年のイスラエル独立とパレスチナ難民発生の日に遡る。それからざっと58年、1948年の第1次中東戦争に始まり、1956年のエジプトのスエズ運河国有化に端を発した第2次中東戦争、1967年の第3次中東戦争、1982年のレバノン戦争、1987年の民衆蜂起(インティファーダ 石の革命)を経て和平の構図が模索され、1993年ラビン首相とアラファト議長はオスロ合意に基づいて暫定自治協定を結び世界を衝撃を与えた。ところが僅かな蜜月時期が過ぎラビンが暗殺されてからは時代の歯車は逆に回り始め、ペレス首相、ネタニヤフ首相、バラク首相、シャロン首相と変わるたびに、イスラエルシオニズム派によって、事態はパレスチナ人追い出しと入植地建設に対するパレスチナ人の抵抗運動が激烈になっていった。正に血を血で洗う泥沼の民族抗争に陥った。その間にアラファトは病死し、シャロンも回復不能の病気で舞台から消えた。イスラエルとパレスチナの抗争の全ての根源はイギリス植民地主義が生んだ「中東の火薬庫」戦略に起因する。両民族が宿命つけられた歴史から見て行こう。現在もなお解決の糸口さえ見つけられない抗争が生み出す、人間の残虐さ愚かさをいやというほど見て行こう。

1:ユダヤ人とパレスチナ人とは何か、その歴史

 本論に入る前に、ユダヤ人とかパレスチナ人の定義を見て行こう。「ユダヤ人」の起源は旧約聖書に書いてあるが、神はアブラハムにカナンの地(パレスチナのこと)を与えると約束した。アブラハムの末裔はやがてエジプトに住み、モーゼに率いられて「出エジプト」カナンの地に移る。ダビデが治めるがソロモンのあと国は亡びた。イスラエルの民はバビロンに幽閉された。その後ローマ帝国がヘロデ王朝を滅ぼしたときユダヤ人はカナンの地を追われた(紀元70年)。このカナンの地は紀元前4000年ごろから様々な人が住み着いたが、ペリシテ人(パレスチナの名はここから来ている)が移住した。この地のエルサレムはよく知られるように姉妹関係にある三大啓示宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の聖地となった。7世紀マホメットがイスラム教を興し,イスラム教を信じたアラブ人が640年この地を征服した。アラブ支配下のパレスチナでは比較的迫害もなく平穏な時代であったが、1069年キリスト教の十字軍が来襲して虐殺や流血の地に変わった。この地は1291年にはトルコが支配して、1516年以降はオスマントルコ帝国の支配下にあり20世紀始めまで人は宗派を超えて共存していた。このように紀元前後まで確かにユダヤ人はこの地の一部族として共存していたが、それ以降20世紀初めまではこの地にはユダヤ人は居なかった。
 ユダヤ人の定義は難しい(日本人だって難しい、所詮交雑可能なヒト科であって遺伝的に特定するのは出来ない。)が、ユダヤ教の宗教指導者たちは「ユダヤ人を母親として生まれた人、またはユダヤ教に改宗した者」とラビ会議が定義した。つまりシオニズム(神から約束の地を貰ったから、パレスチナに戻る)という政治運動の宗教的動議付けに同意するものをユダヤ人と呼ぶ。一方パレスチナ人は宗教や民族とは全く関係なしに定義される。PLOが制定したパレスチナ国民憲章では「1947年まで正常にパレスチナに居住していたアラブ住民、またはパレスチナ人を父親として生まれた者」と定義された。現在イスラエル内に居るパレスチナ人は119万人、難民登録されているパレスチナ人387万人(2000年)である。ユダヤ人は西欧諸国から締め出されパレスチナの地へ押し込められ、パレスチナ人はアラブ諸国からお荷物扱いされてパレスチナの地へ移住して欲しいと思われている。哀れな身でありながら、たがいに殺しつくすような宿命を負わされているような気がする。

2:イスラエル建国から占領へ

 西欧資本主義帝国主義が第1次世界大戦前から老大国オスマントルコの解体を進め、植民地化のために東欧に居たユダヤ人を迫害してパレスチナへ送り込んだ。西欧植民地主義列強はオスマントルコの解体後、様々な民族主義を利用して西欧各国は自分の植民地(委託統治国)を作った(イギリスはイラク南部とヨルダンとパレスチナを、フランスはレバノン、シリア、イラク北部を分割した)。ユダヤ人のシオニズム運動が興ったのはこの頃でパレスチナの地を買い求めるベングリオンの建国路線が主流となった。イギリスは植民地主義の長い経験からパレスチナを支配するために外部から対立要因を持ち込む戦略をとった。欧州で迫害にあっているユダヤ人と現地のパレスチナ人を戦わせようとするものである。ここに中東の火薬庫の悲劇が宿命つけられた。1922年ヨルダン川西だけをパレスチナと決めてイギリスの委託統治が始まった。1929年にはパレチナ人による反英運動が起き独立を求めた。
 イギリスは植民地統治に失敗して1947年ついに国連に委ねた。ナチスによるユダヤ人大量虐殺が明るみに出てユダヤ人への同情世論に後押しされて、国連はパレスチナをユダヤ国家とアラブ国家と国連特別統治地区にに分割した。1948年五月イスラエルは建国を宣言した。ユダヤ人国家に反対するアラブ連盟7カ国はパレスチナに侵攻した。これが第1次中東戦争となった。サウジアラビヤに侵入したアメリカは既に中東の石油利権の半分を手に入れていたが、アラブに肩入れして石油利権奪回を狙うイギリスに対抗して早々とイスラエルを承認した。戦争はイスラエルの勝利の終わりこうしてパレスチナ全土の77%を手に入れた。一方パレスチナ人は難民化して追い出され、そこに大量のユダヤ人が流入した。1956年エジプトのナセル大統領は親ソ連政策を採ってスエズ運河の国営化宣言を行った。ナセルの勢力を恐れたフランス、イギリスはイスラエルを抱き込み第2次中東戦争が勃発した。イスラエルはシナイ半島に侵攻した。ドイツからの巨額の賠償金支払いが終了するとイスラエルは経済危機を迎え、1967年エジプトを奇襲攻撃して第3次中東戦争が始まった。この戦いでイスラエルは勝利しシナイ半島とパレスチナ全土を手に入れた。アラブ諸国はパレスチナ問題には全く無策無能を露呈した。
 1965年パレスチナゲリラ「ファタハ」が武装闘争を開始した。アラブの敗北が決定的になってファタハは自力で「民主主義的・非宗教的」パレスチナの奪還を狙った。1969年にはアラファトがPLO議長になり武装勢力の中心になった。この間イスラエルは占領地の拡大、弾圧を強化し、抵抗するテロも熾烈を極めた。1970年パレスチナ武装勢力PFLPは飛行機をハイジャックしてヨルダン王国に革命をおこすヨルダン内戦が始めた。1971年ヨルダン王国は勝利しPLOはヨルダンを追放されパレスチナ人は弾圧された(黒い九月)。日本人赤軍派がテルアビブ空港襲撃をしたのもこの年であった。PLOはレバノンに本拠を移した(レバノンにいるパレスチナ難民は35万人にふくれあがった)。1973年第4次中東戦争でイスラエルは勝利はつかめなかった。アラブ諸国は第3次中東戦争の占領地からイスラエルの撤退さえ勝ち取ればイスラエルを認めてもいいという現実路線をとり始めた。1975年パレスチナとレバノン民族運動が共闘してレバノン内戦が興った。そこへPLOが全面介入してレバノン国土の80%を支配した。これに危機感を持ったシリアが介入してPLOは敗北しレバノンの実質支配者はシリア大統領アサドに代わった。PLOはレバノン南部に留まった。
 国際舞台でのPLOの活躍は著しくイスラエルは政治的軍事的存在としてPLOを敵と認めるようになった。1979年キャンプデービット合意によりイスラエル占領地はアラブへ返され、パレスチナ自治交渉が開始された。当時イスラエルは国内的にはインフレ、ベギン政権危機があったので敵を外に求める意味で1982年イスラエルはレバノン南部を中心に爆撃を開始してレバノン戦争となった。シリアが全面介入して戦争の火が広がった。イスラエルはベイルートへ爆撃を行いベイルートは廃墟となった。紛争の当事者PLOはヨルダンからの撤退を余儀なくされ戦争は終結した。1982年パレスチナキャンプはイスラエルに包囲されサブラ、シャティーラの大虐殺事件が起きたのはこのときである。ヨルダン戦争後自爆テロに移ったが、PLOの責任問題からPLOは内部分裂が起き、ファタハ左派はチェニジアに撤退した。1986年PLOはレバノン南部を占拠した。

3:和平への模索と挫折

 1987年投石の抵抗運動が始まり民衆蜂起(インティファーダ)と呼ばれた。これはPLOが居ない状態での占領下パレスチナ人の草の根抵抗運動になった。その代りイスラエルの弾圧で凄まじい犠牲者を出した。1988年臨時アラブ首脳会議はインティファーダ支援とPLOをパレスチナを代表と認め、パレスチナ独立国家樹立を支援することになった。PLOの現実路線も明確になった。1967年の第3次中東戦争前のイスラエル国境を承認することであった。1991年湾岸戦争が起き中東での実権を手にしたアメリカに対してイスラム原理主義が台頭した。それはアメリカがフセインを打倒したためにイスラム化の阻害要因がなくなったためである。歴史の皮肉とはこのことを言うようだ。
 1989年でアフガンからソ連が撤退し、その後遺症で1991年にソ連邦が崩壊した。それに伴い旧ソ連からのユダヤ人移民が急増した。それを受け入れるには更なる入植地が必要になった。ソ連が崩壊したことで中東全域の管理はアメリカの手に移った。レバノンではヒズボラガ、占領地パレチナではハマスというイスラム原理主義者が勢力を拡大し、アメリカはイスラム原理運動を抑圧するためにPLOの利用を考え、アメリカの中東和平の働きかけが強まった。1993年9月ワシントンでイスラエルのラビン首相と、PLOのアラファト議長がクリントン大統領の仲介で「パレスチナ暫定自治協定」に署名するという電撃的な和解が始まった。イスラエルとPLOは相互に承認し、イスラエルはガザとジェリコから撤退することが決まった。パレスチナ自治体には警察、内政権が委譲される。1994年にヘブロン虐殺事件などのイスラエル右派の巻き返しがあったが、1995年ラビンはパレスチナ拡大自治協定に署名した。しかしその直後1995年11月ラビンはユダヤ過激派に暗殺され、一挙に暫定自治は挫折した。
 1996年暫定自治政府の選挙でアラファトが政府代表に選ばれた。 ラビンの後はペレスが継いだが、ハマス軍事指導者の暗殺事件が起き、自爆攻撃も激化して和平を推し進めることに失敗した。1999年ネタニアフ首相の後はバラクが継いだが和平交渉は難航し、イスラエルはレバノン南部のヒズボラの攻撃を受けレバノンから撤退した。アラファトは2000年9月の独立宣言を延期せざるを得なかった。2001年2月シャロンがバラクをやぶって首相に当選した。シャロンはいよいよエルサレム拡張と入植を進め占領地を返還できない既成事実を進めた。といってもイスラエルが全パレスチナ人を追放することは不可能だ。周辺アラブ国ではパレスチナ人の増加を心配し(ヨルダンでは約40%がパレスチナ人)イスラエルの野望には反対だ。アメリカも石油利権を確保する上で、アラブ支配の構図の変更は望まない。2001年9月貿易センタービルなどの同時多発テロ事件が勃発した。アメリカは直ちにオサマビンラーディンとタリバンを攻撃するためアフガニスタンを空爆した。アメリカのブッシュ大統領はイスラエルの暴虐を黙認してきたことがイスラム社会の怨恨を招いた遠因だとぢて、パレスチナ問題を中心とする中東問題の解決に向かわざるを得なかった。イスラム諸国と敵対関係の構図しか構築できないと、石油利権の安定は望めないという石油産業資本の意見がブッシュを動かしたようだ。
 2001年イスラエルのズエビ観光相がPFLPに暗殺されイスラエルの報復作戦と自爆テロの応酬が繰り返された。2002年以降明らかに戦争の様相は変わっていた。民衆蜂起の時代は終わり、過激なパレスチナ独立戦争の時代が始まった。自爆テロを押さえる立場にあったアラファトの力パレスチナ内部では弱くなった。シャロンは2002年イスラエルは戦車でパレスチナ自治区のアラファト議長府を包囲した。これより「怒りの壁」大規模軍事作戦が開始された。国連のイスラエル非難やアメリカの戦争不拡大声明が出された。パレスチナ自治区の道路による隔離,入植地を道路で結んでパレスチナ人の移動を不可能にするなど、かっての南アフリカの人種隔離政策(アパルトハイト)を彷彿とさせる。第2次大戦ではナチスにより残虐な人種絶滅策を受けたユダヤ人が、そのままナチスになって弱い民族を抹殺にかかっていることを見るにつけ、人間は何処まで残虐になれるのかと問わざるを得ない。また歴史の教訓を全く無視して恐ろしい経験を生かさない人間の愚かさをいやというほど見せつけられた。


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