書評 060826

藤原和彦著 「イスラム過激原理主義」
 中公新書(2001年 初版)


なぜテロに走るのか エジプトの過激原理主義組織「イスラム集団」と「ジハード団」の歴史

本書の題名が「イスラム過激原理主義」とあるのだが、書いてあることはエジプトの原理主義組織のことだけなのはなぜだろうか。その理由の一つとして著者が読売新聞外報部記者としてエジプトのカイロに足かけ八年滞在されてエジプトの情報に精通されていたことによるものであろうか。しかし読む側としてはいまいち本書からその理由なるものが見えてこない。アラブ・アフリカ・欧州・アジアのイスラム諸国は数限りなく存在して、あちこちでテロを繰り返している。本書の題名からすればイスラム圏の過激原理主義組織の全貌が見えるものと期待する。過激組織はすべてエジプトに発するので、エジプトの例だけ見れば全貌は推して知るべしと言うのだろうか。理由は分からないがとにかくまずは与えられたエジプトの過激原理主義組織の歴史を紐解いてみよう。さらに別の本を読んで疑問を追及すればいいだろう。

記憶に新しいイスラム過激原理主義者が引き起こしたテロ事件としては、チェチェン共和国での小学校占拠事件、アメリカニューヨークの貿易センター飛行機突入をはじめとする「アメリカ中枢同時多発テロ」すなわち9.11事件であろうか。2001年9月11日ハイジャックされた四機の飛行機が世界貿易センタービル、国防省、もう一機は郊外に墜落した。この事件は世界を驚愕させた。アメリカ政府は直ちにこの事件の首謀者をイスラム過激原理主義者国際派オサマ・ビンラディーンと断定し、アフガニスタンに報復侵攻したが、結局オサマ・ビンラディーンもアルカーイダも殲滅逮捕することはできなかった。西側自由主義国の関心は「イスラム過激原理主義とは何か」に集中した。この問いに答える上で欠かせないのが1997年11月に上エジプト(ナイル川上流)の古代遺跡でおきた「ルクソール事件」である。無防備無抵抗の外国人観光客58人(内11人は日本人)を虐殺した事件である。この事件で特徴的なことは、銃殺後ナイフで遺体の喉を破り、心臓を切り裂き、女性の陰部を抉り出したりするとんでもない残虐性にある。この事件を起したのはエジプトのイスラム過激原理主義組織「イスラム集団」6人である。「イスラム集団」は1992年に、「世俗主義」のムバラク政権打倒(政治的革命)と「真のイスラム社会」(宗教主導社会)の建設を目標にテロを中心とした反政府武装闘争に決起した。この「集団」組織は当時、獄中指導部、野戦指導部、国外指導部の三つに分かれ、獄中組みは武闘反対派、事件を主導したのは国外指導部といわれる。あまりの事件の残虐さに厳しい非難を招いて1999年国外指導部は自己批判を行いついに武闘中止を発表した。この「集団」の歴史は、1928年発足したイスラムこそが解決の道とする「ムスリム同胞団」がエジプトに生まれたときに始まる。思想家クトウブがエジプトの原理主義に戦闘性を与えて、「ムスリム同胞団」の穏健路線を反対した。1970年半ばから「イスラム集団」、「ジハード団」が組織された。そしてこれらの組織は貧困者の多い都市のスラム街、上エジプトの砂漠地帯にひろまり、貧困という社会的矛盾と閉塞感に悩む若者や敬虔なイスラム教徒の間に支持者を拡大し、各地に色々な名を持つ組織「細胞」がテロ活動の担い手となった。いわばマルクス主義革命運動の組織に似ている。

このイスラム過激原理主義組織に対して日本人とメディアは全く無関心であった。1979年のイラン・イスラム革命にはイラン石油合弁会社の利権が絡んだので非常に関心が集まった。ホメイニ師の「マホメットの教えによるイスラム法の統治」がイラン革命の指導原理だった。ようやく東西関係からイスラム圏を加えた「文明の衝突論」が流行したのもこの頃からである。イスラム過激原理主義が世界のメディアにはっきりと認識されたのは、1979年末のソ連軍のアフガニスタン社会主義政権擁護のための侵攻からである。イスラム各国より過激原理主義者が義勇兵としてアフガニスタンに入ってソ連と戦った。サウジアラビヤからオサマ・ビンラーディンも参戦し豊富な資金と技術で一躍アラブ・アフガンの英雄になった。欧米社会はこの戦いを東西関係の中で捉え、反ソの立場で兵器や資金を援助した。1989年ついにソ連が撤退し、その後遺症で1991年にソ連は崩壊した。欧米諸国は自由主義の勝利と手放しで喜んだが、これは無宗教ソ連社会主義とイスラムの戦いでイスラムが勝利したのだ。その間にアラブ・アフガンの英雄オサマ・ビンラーディンはアルカイーダというイスラム過激原理主義国際派を創立した。この組織が次のターゲットに欧米キリスト教社会と民主主義社会を考えていたとは誰が想像しえたであろうか。アフガニスタン戦争後アラブ・アフガンは残留組、他地域転戦組(コソボ戦争)、帰国組の三つに分かれた。帰国組はアルジェリアとエジプトで現政権打倒の武装闘争の主力になった。エジプトではルクソール事件を起した「イスラム集団」の殆どは帰国組であった。一方、アフガン残留組(オサマ・ビンラーディンのアルカイーダ)と転戦組が欧米陣営にたいするジハード聖戦となった。イスラム過激原理主義国際派のオサマ・ビンラーディンは継続してイスラム革命(全世界をイスラム化する)を遂行中である。共産主義革命における一国革命主義のレーニンに対する世界同時革命派のトロッツキーの相似である。オサマ・ビンラーディンはいまやキリスト教民主主義帝国・米国に牙をむいたのである。 1998年ケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件、2001年 9.11「アメリカ中枢同時多発テロ」で世界特にアメリカは彼らの意図をはっきりと認識した。オサマ・ビンラーディンへのアメリカの報復がアフガン戦争と新政権樹立、そしてイラクのサダム・フセイン打倒へと歴史は流れた。ただし「ルクソール事件」後1999年にイスラム集団は武闘を中止し「和平派」がうまれ合法政党の動きも見られる。


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