書評  060819

高橋哲哉著 「靖国問題」
 ちくま新書(2005年4月 初版)


靖国神社問題は施設や宗教の問題ではなく、戦争歴史問題と政治システムの問題である。


2006年8月15日にあの鉄火場首相は、小泉劇場の幕引きにふさわしい終戦の日に靖国参拝を決行し、将来に多大の禍根を残した。首相の靖国参拝問題は私はブログ「ごまめの歯軋り」で時事的に何回も取り上げて批判してきた。A級戦犯を分祀する、靖国を特殊法人化する、国立追悼施設を建設するなどの案が出てきたが、実現性がなく闇に葬られている。ただ時事的に個個に反発していても、相手はへとも思わない鉄面皮人だから、まさにごまめの歯軋りにしかならない。そこで自分の理論武装をするためと、靖国問題を多面的歴史的に整理する意味から一冊のタイムリーな本に出会って熟読した。それが本書 高橋哲哉著 「靖国問題」 ちくま新書である。著者高橋哲哉氏は東京大学大学院総合文化研究科教授で本人は哲学者だといっている。本書は別に哲学の本ではなく、むしろ政治・社会・歴史の分かりやすい啓蒙書である。以下目次に随い五章に分けて著者の論じるところを見て行こう。その前に忙しい人のために、全ての結論を言おう。「戦争遂行能力を持った政権は兵士の再生産のために、どのような施設をも靖国化する。本質的解決は脱軍事化の努力しかない。」という悲観的な結論だ。何をやっても空しい行為で政治的に利用される。しかし脱軍事化が一番空理空論である。世界に軍隊を持たない国がどこにある。この本を読んで振出から出て振り出しに戻ったような脱力感が残った。自称知りすぎた人の行動性欠如というか、相手の力を過大評価して諦めが早いというか、ひとつひとつ漸次的に進歩しようという野蛮力が欠けているように思われる。力を得るため本を読むはずが、鎮静剤を飲まされたような感じが残った。

第一章:感情の問題ー遺族感情を悲しみから喜びへ変える天皇制国家イデオロギーの錬金術

靖国神社は戦争でなくなった人の遺族に対して、感情を悲しみから喜びへ、不幸から幸福へ転換する錬金術師であった。それはイスラム教とおなじく聖戦で戦って神に召されたという文脈で死んだ人の生と死に意味つけを与えるものである。日本の場合、アラー神は天皇であって、天皇を頂点とする国家神道が国家主義と固く結びついていた。天皇の子である臣民(つまり国民)が天皇のために死ねば神(英霊)になって靖国神社に祭られるのが靖国信仰である。聖戦と英霊と顕彰は三位一体の教義である。すなわち靖国神社は小泉が言う追悼や哀悼の意を捧げるところではなく、戦死を美化し功績として後への模範とする顕彰である。それが明治以来靖国神社の役割であった。したがって靖国神社の管理は陸軍省と海軍省にあった。(現在は靖国神社は宗教法人であるが、どちらかといえば厚生労働省の遺族対策の管理下か)

第二章:歴史認識の問題ー侵略戦争と植民地主義がもたらした戦争責任

物知り顔にA級戦犯を列記して記憶に残そう。
連合国戦争裁判で絞首刑になったのは東条英機首相、板垣征四郎陸軍大将、土肥原賢二陸軍大将、松井岩根陸軍大将、木村平太郎陸軍大将、武藤章元陸軍中将、広田弘毅首相の七名であった。このほかに公判中に病死・獄死した松岡洋右外相、白鳥敏夫イタリア大使(この二人が昭和天皇メモで登場した、天皇が忌み嫌った戦犯)、永野修身海軍大将、東郷茂徳外相、小磯国昭陸軍大将、平沼騏一郎首相、梅津美治郎陸軍大将の14名が1978年10月に靖国神社に合祀された。B・C級戦犯は約5000名が起訴され1000名近くが刑死した(「私は貝になりたい」という映画の主人公理髪店の主もこれに含まれる)。B・C級戦犯は既に1970年までに秘密裏に合祀されていた。
靖国神社は明治維新の英霊を祭るために明治9年に建てられて以来、西南戦争、日清戦争、台湾征伐、北清事変、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日支事変、大東亜戦争をへて日本人246万人、台湾・朝鮮人約5万人が祀られている。満州事変、日支事変、大東亜戦争の軍民あわせての戦死者は310万人といわれ、軍人の死者は約230万人であった。結局「先の戦争」は何だったのだろうか。大東亜共栄圏という名で謳われた戦争も、後れて植民地争奪戦に出てきた日本とドイツが起した帝国主義的植民地戦争であったというのが歴史の定説である。東洋を西欧のくびきから開放するというスローガンで自分が新しい植民地支配者になるだけのことであった。その過程で中国・朝鮮・台湾・東南アジアの人々に耐え難い犠牲と過酷な運命を背負わせた。朝鮮が南北に分かれて今北朝鮮によって日本が様々な迷惑を蒙っているのももとはといえば日本の朝鮮併合に端を発する。中国と朝鮮人が日本を憎むこと骨髄に達していると考えなければ彼らの行動は理解できない。靖国参拝問題が中国・朝鮮の猛反発を招く原因は、日本帝国主義の植民地政策にあることは肝に銘じなければならない。

第三章:宗教の問題ー政教分離、靖国を非宗教化することは不可能(靖国神社は天皇制国家神道)

政教分離の立場から首相の靖国神社公式参拝問題は、1991年岩手訴訟では仙台高裁は違憲と判断した。小泉首相の参拝を福岡地裁は違憲と踏み込んだ判断をした。中曽根首相の参拝を大阪高裁は違憲の疑いと認定し確定した。中曽根は1985年に靖国神社参拝をして中国から猛烈な抗議を受けそれ以来参拝は自粛した。そこで政府部内では公式参拝を定着化するために取るべき方策を協議してきた。それには憲法を改正するか、靖国神社の脱宗教法人化つまり特殊法人化が検討されている。靖国神社は脱宗教法人化には絶対反対である。宗教儀式をはずして国営化することについては存続をかけて抗争するらしい。(儀式だけではなくあの神社式建築物はどうするのかな?)
戦前戦中を通じて靖国神社は国家施設であって宗教法人ではなかった。それは国家神道は伊勢神宮を頂点とする神社制度を国家システムとして確立し、神道教義を天皇を神とする国家皇国への忠誠心と愛国心という国民道徳にまで非宗教化したものである。つまり靖国神社は天皇神道国家の機関であって、仏教やキリスト教のような一宗教法人ではなかった。この国家の機関という機能は敗戦による国家崩壊によってなくなり、一宗教法人になったのである。靖国神社の脱宗教法人化つまり特殊法人化は歴史を逆に戻すようなことになる。これも危険である。
私はいつも考えるのだが、神道というものには教義もなく倫理観もなく全くの空っぽの宗教であった。神道はアニミズムの流れにあるとよく言われる。しかし聖典をもたず教義らしきものもないものは宗教なのだろうか。もっともらしい屁理屈を付けて体系化しだしたのが神皇正統記である。室町時代にようやく神道らしいものが出来た。それまでは天皇さえ神道は知らない仏教徒であった。明治維新において天皇を担ぎ出した新政府では天皇イデオロギーをでっち上げて国内をまとめる必要性にかられた。そこで利用されたのが神道である。最初から宗教としての神道ではなく、国家イデオロギーとしての天皇を神とする国家神道体系が構築されていった。明治天皇も急に今日から神さんだといわれて面食らったに違いない。しかし天皇が総帥権を持ち、天皇の名で戦争が行われる国家ができたのである。兵士は天皇のものであって家族のものではなく、生きるも死ぬも天皇に召された命であった。

第四章:文化の問題ー江藤淳氏の日本文化(死者との共生)からの靖国擁護論批判

江藤淳氏の日本文化論からの靖国神社擁護論は、いまはやりの日本文化論(血液型性格判断と同じように当たっているようでもあり、そんな単純な脳細胞ではないよ言いたいこともある、文化人好みのあいまいな日本人論)で汚い物を洗い流そうとするヌエ性を持っている。侵略と植民地支配の過去を水に流す日本文化の権利を主張する。まさに時代的歴史的支配構造と国体を、記紀・万葉から今日にいたる日本人特有の文化というものに溶け込まそうとする。
江藤氏が言うような靖国神社が果たして日本固有の国柄かというと、それは個々の事実と論理を拒絶するムード論(感情論)で覆い隠すようなものだ。日本においては中世から江戸幕府まで時の幕府は戦死者を敵味方の区別なく祭ってきた。ところが靖国神社は1969年の創建以来、敵や賊軍や外国の敵の慰霊は祭ってこなかった。つまり靖国神社が祀ってきたのは、天皇のために死んだ兵士のみ(民間人も祀っていない)で、天皇国家に歯向かった死者は祀らないのが原則であった。ということで江藤淳氏の日本文化論はウソだらけで体制のオブラート役でしかない。

第五章:国立追悼施設の問題ー問題は施設(ハコ)ではなく、国家の政治問題である。第二の靖国化は避けられない。

2002年12月福田康夫官房長官の私的諮問機関「追悼・平和祈念のための記念碑等施設のあり方を考える懇談会」が「国立の無宗教の恒久的施設が必要である」という報告書が提出された。賢明な福田氏はこれを棚上げしたが、いつか再燃しないとも限らない。「外国人や民間人も含めて追悼する」という点は前進である。しかしながら、A級戦犯が含まれているのか不明なまま戦争の歴史認識から逃避している。やはり歴史認識は1995年の村山首相談話に立脚するのがひとつのマイルズストーンになるだろう。さらにこの報告書は「日本の平和の維持と独立を害したり国際平和の理念に違背する行為をしたものの死没者はこの施設の追悼対象にはならない」としている。これはきわめて危険な見解であるといわざるを得ない。なぜなら時の政府が自分の戦いを正義のため平和のためと称するのは常套行為であって、敵は全て平和の理念に違背するといえば、敵の死亡者(外国人)は祀らないことになる。これでは戦前の靖国神社と同じである。さらに現在アメリカは自分以外の敵は全てテロとよび平和を害するものとして排斥攻撃してきた。植民地独立ゲリラだって今で言えばテロになる。これでは自分以外の存在を許さない原理主義者だ。戦争の片方は聖戦で正義の戦い、片方は悪魔という図式はイスラム教の原理主義者と同じではないか。限りなくグレーだというような戦争遂行者はいない。
結局国立追悼施設は第二の靖国化になる。ただし違うところは明確な天皇国家神道の形は憲法上タブーであるから、宗教色や天皇のために今後も歓んで死ねとはいえない。しかし戦争を行うためには戦意高揚と顕彰は必要だ。つまりアーリントン墓地のようなものになるのかもしれない。このような心配や懸念は日本が憲法九条を厳守すれば生じない。「国権の発揚として戦争はこれを放棄する。交戦権はこれを行使しない。」 しかしながら現在世界中で軍隊を持たない国はない(ドイツも国防軍を持っている)ので、日本だけが絶対に本当に交戦しないというならこれほど攻めやすい国はない。北朝鮮なら三日で攻略するだろう。じつは米軍が日本の軍事同盟者であるので、日本は本土専守防衛のみで、相手国には米軍が世界最高の軍事力で攻め込んでくれるという了解のもとで議論することになる。虚実まじえての憲法議論は尽きることはない。


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