書評  060727

米本昌平著 「バイオポリティクス」
 中公新書(2006年6月 初版)


内なる生命研究の最先端と各国の生命倫理法と行政


米本昌平氏は三菱化成(現三菱化学)生命科学研究所において30年間科学史・科学論の研究に従事されたそうだ。私が知っている三菱化成生命科学研究所は民間会社の常識からいえばありえないほど学問的研究を推進されているところである。民間企業組織というよりは、企業のリソナ基金で運営されている財団法人研究所に相当する。さすが短期の利を追わない財閥三菱の長期戦略ではないかとやっかみ半分で眺めていたものだ。バイオ研究そのものではなく、科学論や科学行政の比較研究という分野は大学でも現在の成果主義研究体制ではやりたくない研究分野である。(自然科学研究そのものではなく半分は社会科学に足を突っ込んだ政策論は自然科学者はやらないものだ。)しかも内容は権力に対する痛烈な批判にもなるので、何処までも三菱化成の度量の大きさを思いやられる。

この本が書かれたきっかけはやはり韓国の黄教授によるヒトES細胞樹立捏造スキャンダルにある。これは科学技術分野における後進国韓国が成功を焦ったために起きた事件ではあるが、このような無制限なヒト卵子の提供ということを可能にした韓国の儒教文化を背景とする女性差別前近代社会に起因した。さらに2003年ヒトゲノム計画の完了は20世紀生命倫理(バイオエシックス)から21世紀バイオポリティクスヘ大きな転換を求めている。生命という内なる自然をどう把握し理解し管理して利用するかという価値問題に本格的に向かわざるを得ない。そして問題は科学と社会の関係の見直しに及ぶことになる。

バイオポリティクスには大きくは四つのアプローチがある。(1)フランスの哲学者ミッシェルフーコは生物学的種の側面に介入してこれを管理しようとする権力の働きをバイオポリティクスと呼んだ。誕生・死亡、健康衛生、優生の管理である。厚生省の役割である。(2)政治行動に生物学的理由を考えるいわゆる生物行動学、進化論的政治学である。(3)南北問題の視点から生物資源に関する政治行政をさす場合。バイオピラシーともいう。(4)先端医療や生命科学技術政策論を言う場合。遺伝子組み換え農産物(GM食品)やES細胞研究指針など現代医療の法と倫理を対象とする。本書は無論第四のアプローチである。
1970年代米国で生まれた生命倫理バイオエシックスは患者と医者の間の倫理学であった。体外受精、臓器移植、遺伝子治療、遺伝子診断などの倫理問題を扱ってきたが、2003年のヒトゲノム解読が終了した時点で対象が大きく拡大した。また米国流「自己決定」自由主義によるインフォームドコンセントは単純なため無制限の人体利用(臓器移植)を可能にした。人体組織の商品化や臓器売買の横行に対して欧州から価値観の異議申し立てがなされ、バイオポリティクスの論議が盛んになった。

2006年7月23日の朝日新聞読書蘭にノンフィクション作家最相葉月氏が読後感を述べられているので紹介したい。「生命倫理の諸問題を政治課題として扱うことの重要性を説いてきた著者の言動に文化的歴史的文脈の意識が流れている様に思える。あえてバイオポリティクスという言葉を提示したことに最も大きな意味があるのではないか。背景にはヒトゲノム研究や発生工学の急展開で科学研究の主軸が物理的自然から身体の内なる自然へ移行したこと、さらに身体が分解・解体され素材として編集される対象となったことがある。このため医者と患者の関係をインフォームドコンセントや自己決定といった米国式生命倫理学の考え方で対処できない事態が顕在化した。人体の商品化は商業主義が自己決定を巧みに利用した結果であり、臓器移植ツアーや韓国の論文捏造事件で発覚した卵子の大量採取は経済格差に起因する南北問題だ。本書は身体の処分をプライバシーの範疇と見なす米国型自由主義を反面教師に、連帯といった新たな価値を見出した欧州の動向をたどりつつ、日本が取り組むべき政策を示す。生命倫理的課題には個人の自由より上位に公序が位置することを確認し国内法を整備したフランスの議論が、人間の尊厳を規定するEU憲法案の生命倫理原則に結実する経緯は示唆に富む。」

纏めてしまえばこのように味も素っ気もなく内容の理解は遠のいてしまう。しかし本書の利用価値は実は、各国の法整備や研究規制対応などの比較表にある。表1:全米各州の遺伝プライバシー法の比較、表2:世界の各国のバイオバンクとその特徴、表3:アメリカ=EU間での個人情報保護に関する政治決着、表4:イギリスおよび北米における犯罪捜査DNA型データベースの比較、表5:ヒトES細胞研究の規制比較、表6:着床前診断に関する各国の規制と実施状況比較、表7:生命倫理関係法立法年表である。
これらを解説することは煩雑になってしまうので一切行わないが、実はこれらの表は世界の情況が一目で分かる便利な纏めになっている。つまらぬお説教よりは世界情勢を知りたい方は、是非本書を買われて一読されることを進めたい。


随筆・雑感・書評に戻る   ホームに戻る
inserted by FC2 system