書評  060504

茂木健一郎  「脳と創造性ーこの私というクオリアへ」

 PHP出版(2005年4月初版)
 
人間は予測不可能の世界で一回きりの生を生きる。これが創造的生き方である。

脳科学に関する書評において、茂木健一郎氏の著作は何回も取り上げてきた。「脳の中の人生」、「脳整理法」、「意識とはなにか」、「脳と仮想」などである。今回取り上げたのは「脳と創造性」であるが、氏のキャッチフレーズである「クオリア」(脳が生む質感豊かな生の体験)で新潮社小林秀雄賞を受賞した。養老孟司氏の脳が生み出した文明の予測可能性世界の限界に対して、茂木健一郎氏はその解法になるかどうか分からないが予測不能性の中にこそ生の躍動があると力説する。

茂木健一郎氏の経歴が面白い。東大理学部を卒業してから彼女の影響からか自己否定して法学部に学士入学して、恐らく彼女に振られてためか法学部を卒業して大学院は理学部物理学科を卒業した。現在は脳科学者としてソニーコンピュータサイエンス研究員である。恐らくこの会社も直ぐにやめるのは目に見えている。なんと回りくどいことをやっている。彼女の影響で自身喪失というところが面白い。お門違いの法学部に何をしにいったのか?現在の職業である脳科学の本道は医学部の大脳生理学か精神医学か、心理学あたりからであろうが、氏の経歴ではどうも物としての脳は扱った経験はないようだ。したがって氏の脳科学はどうみても情報辺りから入ってきたようだ。そのため脳の解剖的な部位や機能論を前面に出さないためか、氏の説くところは私たちには文学論として、生き方の問題として心に迫るものがある。氏自身は脳科学者というが、これは科学なのか。科学のあつかう実証可能性と反証可能性の限界領域で個々の生を実り多いものしてゆく活動は宗教家のようでもあり、教育者でもあるようだ。

第1章 創造性の脱神話化

創造性とは一人天才のものではなく、誰にでも備わっている無意識の脳機能である。有意義な会話は状況判断、思いやりなどの高度な創造性を支える脳の働きなしには不可能である。価値の相対性、おかれた文脈の相対性において人間の内なる創造性を十分に発揮することが生きることであり、個人と社会の幸福にもつながる。人間が生きるために働かせる当たり前の機能が創造性であり、結果としての歴史的重要性には違いがあってそれが天才たる所以であろう。

第2章 論理と直感

リアルタイムに情況を把握して判断する能力(直感)、はコンピュータのアルゴリズムにはない人間の高度な脳機能である。情況に応じて新しいものを生み出す創造性は、そのような直感に基づいて生きる力である。直感を支える脳機能が人間には備わっている。

第3章 不確実性と感情

脳は自発的に絶えず学習し続けている。情報は不十分でコントロールも不可能な情況でも何とか生きてゆくために、脳の感情系システムが重要な働きをしていることが最近明らかになってきた。生存を可能ならしめる価値体系の探索に、脳の感情システムの方向つけがなくてはならないである。予測不可能な情況でもリスクを負って飛び込む勇気が生物進化に繋がる。安全地帯とリスクのバランスをとるのが感情システムである。この脳の感情システムは人間の欲望を形成する。即ち資本主義という貪欲な装置である経済活動を生むのも感情システムの働きである。これを最近の学説では神経経済学という。

第4章 コミュニケーションと他者

創造のプロセスには本質的に人と人とのコミュニケーションがかかわっている。創造は偶然に起きるものではあるが、なかば起きそうな雰囲気が醸される環境が必要である。誰かがやりそうな雰囲気が必要だ。これを遇有性という。これにはコミュニケーションによる意思伝達が発生しなければならない。(神経学的にはミラーニューロンという)

第5章 リアルさとずれ

私たちの脳はそもそも出力をおこなう環境なしでは情報のループが完成しないような構造をしている。私達はなにか言いたいことがあっても、書いたり、話したりしてその結果を見ながら言いたいことを構成してゆかざるを得ない。頭の中で全てを構成して完結できる人はいない。「運動し出力する自分」と「感覚し受容する自分」の二人が存在する。頭の中だけで立案したことは実際やってみてだめな場合が多い。出してみて外部性を通じてのずれが脳の中を生き生きと活動させるのである。即ち私たちの脳はオープンシステムである(自己完結型ではない)。人や環境に教わりながら自分を是正する学習能力の問題とも言える。

第6章 感情のエコロジー

第3章 不確実性と感情でみたように、感情はこの世界で生きるということに必然的に伴う不確実性に対処する仕組みである。創造性を支える直感や判断の背景にはこの感情システムの働きがある。苦しい経験の時に確実に脳が鍛えられている。乗越えられた時の成功体験が学習能力をアップする。しかし成功ばかりが人生ではない。暗澹たる気持ち、流れなくて澱んだ気持ち、退屈という空白感もすべて糧にしなければならない意味のある状態である。

第7章 クオリアと文脈

ハイパーリンクという形で高度に文脈化されたインターネットの世界(受験戦争から官僚社会、会社社会の人生の文脈)から一旦停止して、そのような現代社会の文脈に回収されないユニークなクオリアに満ちた日常体験の質を高めることを「クオリア原理主義」という。これが氏の伝教師面目たる所以だ。本来的には私的な経験である内なるクオリアに立脚することが、多くの人の心を動かす創造性作品につながる。(内なる感動なくしては人を動かすことはできない)

第8章 一回性とセレンディピティ

人生は有限だということはよく分かっている。人生は一回性だからこそ普遍につながる共感を受ける。だから有意義なすばらしい生にしようと努力するものだ。これをセレンディピティという。初めは間違いでも良いものに変えようとする努力、偶然の出来事を良い方向へ持ってゆく能力がそれである。発見という出来事も偶然にやってくる。しかし何もなくてやってくるのではない。長い間脳に記憶された事象が脳の自発活動によって変容を受けたり、組みかえられたりしてとんでもないことを表現することがある。これが大発明につながる。だから人間はすばらしい。捨てたものではない。


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