書評  051230

養老孟司著 「死の壁」

 新潮新書(2004年4月初版)
 
かならず来るのに、目を背ける死の問題。「私」の死は存在しない。


これまで一連の「脳科学」に関する書を紹介してきた。今回の養老孟司著「死の壁」は脳科学の書ではない。身体の問題(自然の問題)である。そういう意味で気楽に読める本であり、学術的内容はすくなく、どちらといえば人生の心構えについて教わるところが多かった。死は厭なものとして日常は片隅に追いやっている。人間は意識が都市化してゆくものらしく、死という肉体的なものはいつも疎外される。ところが死ぬことは極めて恐ろしいものと考える。この辺が矛盾するのであるが、現代人は目を背けながら恐怖心をいだくおかしな動物らしい。中世の時代では死は日常的に身辺にいつでも見られるものであった。だから無常観や宗教が付きまとうのである。

ところが最近「臓器移植」と「脳死」問題に見られたように、死の定義は実に難しいことが分かった。だけど臓器は欲しいという実利のため、脳死を死と見なす判断は避けて、条件を設けて臓器移植だけは可能とした法律が出来た。しかし日本の村社会のルールに縛られて誰一人脳死から移植をする医者はまだ現れてこない。この辺がいかにも日本的な常識ルールで動いている。たしかに生物学的な生の定義や死の定義は難しい。個体内では死と増殖は絶えず進行しているし、意識も翩々極まりない。確立した自分なんて存在しないように、自分は変化し続けるものだ。生死の境界の定義も極めて困難だ。そこで死を正面から考える必要がある。

養老先生によると死には三通りあるそうだ。一人称の死(自分の死)、二人称の死(あなた、親族の死)、三人称の死(赤の他人の死)である。一人称の死(自分の死)は死んだ本人が知り得る問題ではないから実体のないことである。このことで悩むことはバカだ。二人称の死(あなた、親族の死)は大切な経験を共有する身近な人が亡くなることであり極めて精神的影響が大きい。このことで人は人生を考え豊かにしてゆけるのである。考えるべき死の問題はまさにこの二人称の死(あなた、親族の死)である。三人称の死(赤の他人の死)は人口問題のような統計的数値でしか知れないことである。

ホスピスでの安楽死を行う医者(日本でも条件を設けて最近可能になったがやはり日本では誰一人実行する医者はいない)、昔の間引きをやった産婆、死刑執行人、昔腑分けをやった非人、戦争をおこなう国家元首などはやはり人を死に追いやるとか死人を扱うという意味で、汚れた手を意識しなければ人ではない。養老解剖学教室での供養のお話は非常に感動を受けた。「解剖学実習の最終コースに差し掛かった時、ある学生が机に一輪の花を供えた。それを見てお!いいことをするな学生も捨てたものではないなと思ったのであるが、翌日教室へ行くと何と全員の机に花が一輪供えてありました。これは東大にいた間で一番感動した瞬間です。彼らは解剖をしてゆくうちにどこかで他人の痛みを背負うということが身についたようです。」


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