書評  051228

茂木健一郎著 「脳整理法」

 ちくま新書(2005年12月初版)
 
「私の人生の遇有性」と脳の働き


茂木健一郎氏は「意識とはなにか」で、クオリア(感覚質)に満ちた人の意識の形成を述べた。本書では、一回きりの儚い遇有性(ある程度予測は出来るが,何が起きるかは分からない)の人生で、脳が経験を整理し生活知に高める働きと、偶然を必然に換える能力によってダイナミックで生き生きとした生活を目指すことが出来ると熱く語る。なお間違いがないように言っておくが、本書は「整理法」でイメージされるようなハウツー本でも、生活指南本、青少年向け本のようなお気楽なものではない。それほど脳科学は進歩したわけではない。しかし科学の進歩が人生応援歌になればそれはそれでいいと思う。
人の文明はある程度方向性のある発展をしてきた。それを支えてきたものは科学という世界知であった。しかし個たる私の人生は偶然の生誕に始まり悩み輝き一回きりの生を終える。遇有性は生命の本質であり、犯罪や事故で今日命を終えるかもしれない生の割り切れなさを含んでいます。映画の主題歌のように(モーツアルトのピアノ協奏曲をバックにして)、だからこそ人生は「儚くとも美しく燃える」ものなんです。
なお茂木氏は養老氏のように医者ではないので脳という実体(物質)に密着していない。氏は脳実体との対応関係で話をしていない。脳科学とは大脳生理学に縛られない総合的・境界領域である。「脳」という表現を多用するが、これは「脳」=「人」といってもいいくらいである。脳の構造・機能論をはるかに超えた高次な働きはすなわち人そのものであろう。さて本書の構成を、各章の内容を要約した形で次に示す。

  1. 遇有性を持つ人生体験を整理し、創造される生活の知。

  2. 生活知と世界知における時間の意味ー生活知では私にとって今は大事な時間、世界知(科学)では4次元空間の絶対的時間。

  3. 遇有性の経験によって脳は成長する。

  4. 情報・経験という入力、他人との関係におけるコミュニケーション能力、身体範囲の知覚とコントロール可能性(必然)・不可能性(偶然)の認識

  5. 偶然を必然に変える能力(セレンディピティ)は幸運の女神を捉えると同時に科学的発見の源泉でもある

  6. 科学は私を離れて認識的距離(デタッチメント)を置くことで発展した。それに対して思想は常に感情に訴える(パフォーマンス)。

  7. 他人との関係で公共性の概念が生まれた。大きな公共性は絶対的な存在に転化して遇有性の生を疎外する。

  8. 絶対的公共概念が遇有性を取り戻すには私に置き換えてみることが必要。それには遇有性(多義性)をもつ自然言語の力が大きい。

  9. ネガテイーブな感情を持ち反省することも能力だが、遇有性のなかで行動に出る勇気を持とう。

  10. まとめ

本書の流れを目次に従って一つの文章で求めると
「人は遇有性を特徴とする私の人生体験を意味つけ整理して記憶する能力を持ち、かけがえのない一回だけのクオリティに満ちた今の私の意識を生活知に成長させる。生活知は不確実で遇有性に満ちた生を逆に楽しもうとする力を意識に与えるのである。人は幼児のころより学習によって自分の身体範囲の認識と他人の関係を学びコミュニケーション能力を身につけ、コントロール可能性(必然)と不可能性(偶然)の認識する。そして行動し失敗した中で偶然から見つけたことを必然性に転化するセレンディピティ能力によって幸運を掴むこともできる。ネガテイーブな感情を持ち反省することも人の能力だが、不確実性の中で行動に出る勇気が必要だ。この能力は科学における新発見につながる重要な人の能力である。科学は私を離れて認識的距離(デタッチメント)を置くことで発展したが、他人との関係で大きな公共的概念(国、思想、組織など)が生まれそれが人を束縛し疎外することにもなった。しかし絶対的概念を遇有性に満ちた私の言葉で捉えなおすことにより、生き生きとした関係を築くことが出来る。」

上の文章で茂木氏が「脳」というところをすべて「人」に置き換えて表現しましたが、別に違和感はないことが分かりました。整理法という言葉は売らんかなとする営業上の言葉であって(養老氏の本「バカの壁」も同様な営業上の言葉)、本論の展開には必須の言葉でないことも分かった。そして本の題名「脳整理法」という言葉も分かりにくい。脳が記憶などを整理するのか、私が意識的に脳を整理するのかという二義性を含んでいる。本当の意味は本書を読めばわかるように前者の「脳が情報を整理する」ことなのだが、恐らく「意識的に脳はコントロールできない」のに後者のように誤解させることが狙いの命名法だ。ジョークを含んだ題名である。それはさておき、茂木健一郎著 「意識とはなにか」においてクオリアに満ちた私の意識の成長を述べたが、その私の存在の儚さ(たまたまそうなんだという遇有性)を人生の美しさと強さに変えよう。観念の肥大化・社会の拘束から自由になって生き生きした関係を持とうと逆転の発想を提案しておられる。尤も話だと思う。


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