書評  051227

茂木健一郎著 「意識とはなにか」

 ちくま新書(2003年10月初版)
 
「私」とクオリアを生成する脳の働き


茂木健一郎氏については「脳と仮想」(新潮社)をかって取り上げた。脳には現実から離れたイメージを創造する能力があり、これがヒトの偉大な属性であるとするものである。この見解は養老氏が「世界は脳の産物だ」ということと同じことであった。幽霊を見ることも数学・科学を考えることも文明社会を作ることも脳の働きである。そのとおりであり別に異を唱えることもない。養老氏が医者の立場から脳科学をアプローチしているとすれば、茂木氏の立場は何だろうか。氏の経歴から見て行こう。氏は東大理学部と法学部の二つの学部をご苦労にも卒業し、大学院は理学部物理専攻を修められた。現在はソニーコンピューターサイエンス研究所上級研究員である。そして脳科学を専門とされるといういわくいい難い経歴である。脳科学は物理学と直接何の関係もない。コンピュータサイエンスならニューラルネットワーク(模倣神経回路)ということから多少は関係するようだが、氏の研究手法からみるとあまり関係はない。とにかく異才に違いない。こんな変わった経歴の持ち主から案外いいアイデアが出るものである。(遺伝子工学が異分野の人から始まったように)

クオリア論を展開する茂木氏は「意識とはなにか」において、「個体のクオリア(質感)、それを感じる<>という主観性の構造は様々な文脈を反映しつつダイナミックに変化する脳神経活動のネットワークによって、同一性を維持し世界を把握する」という主張になったようだ。

なおクオリアとは氏の定義によると「一般的にさまざまな関係性、文脈が反映されたあるものの認識の結果をユニークな質感として把握する脳・意識の働き」である。つまり「透明感」というものをある空間の広がりの中の色の関係性をコンパクトな質感に反映させた結果として捉えることである。これでも分かりにくいのでさらに平たく言えば「存在するある物を様々な関係性の中で、私のあざやかな感覚として落とし込み認識することである。」ということだ。これでも分からなければ本書を読んでください。

「特別扱いを認めないことで発達してきた科学が、いまだに特別扱いせざるを得ないのが私たちの意識,主観的体験である」。茂木氏は本書の前書きにおいて「脳を理解するという人類の試みは、なぜ脳の中の神経活動によって、私たちの意識が生み出されるかが皆目分からないという絶望的な壁にぶつかっている」と述べ、脳科学の研究手法上の行き詰まりを指摘している。そこで茂木氏は脳科学でもない、認知科学(心理学)でもない、哲学でもない中間的領域を模索していられるようだ。

T 心と脳のミステリー −クオリアと同一性ー

普段生活に追われて何も考えていないのが普通の人の生活であるが、ひとたび周りのものをよくみると実に不思議な存在であることに気がつく。それは実にいとおしいものであったり、意味がわからくて不安に陥れられるものであったり、自分の幼児期の懐かしい思い出につながった景観であったりする不思議の国に誘惑されるものだ。氏は「世界の森羅万象がまさにこのように存在すること、すなわち<あるもの>が<あるもの>であること(同一性)の不思議さ」とか「私たちが世界について把握できるものは、結局自分の中で<あるもの>として捉えられものだけであるという人の意識「自我・私の起源)」の不思議さをプロローグとして提示される。
私たちが何気なしに見ているもの、何気なしに使っている言葉には心の中でひとつのユニークな質感として立ち上がるクオリアによって構成されている。「それ以外の何物でもないという存在感が基礎になっている」

U 「私」というダイナミズム −コミュニケーションと生成ー

「言葉は、それぞれの心の中で立ち上がっている様々にユニークなクオリアを、自分に対して指し示し、相手との間で共有する時に不可欠な手段である」というコミュニケーションの成立条件を示される。何気なしに使っている言葉はとりあえず<易しい問題>として扱う態度でコミュニケーションが成立するが、「ただいま」、「こんにちは」、「ありがとう」などの言葉には意識せずとも、次にかもし出される情景を期待する文脈の中で使用され効果がある経験に裏打ちされているのである。つまり良いイメージ(報酬系を最大にする)の脳機能が働いているのである。私達の脳はそのような<難しい問題>としても考える能力を持っているのだ。氏によると「私たちが本来難しい問題をやさしいこととして扱って日常生活を営むことが出来る一方、必要に応じて立ち止まり、難しい問題として扱うことも出来るという能力は、私たちの認知プロセスを特徴づける驚くべき柔軟性の一つの表れ」である。
さらに相手の立場になって考える(相手の心を推定する)能力と定義される「心の理論」や、自分の行為と相手の行為の両方に伴って活動するミラーニューロンがヒト言語中枢(ブローカ野)の近くに発見されたことは氏のコミュニケーション論を後押ししている。「ミラーニューロンはシステム論志向を持つ先進的な科学者の予想を飛び越して、自分の行動の運動情報と他人の行動の感覚情報を結びつける最も高度な統合を実現している」と氏は最近の脳科学の進歩に期待を寄せている。
さらに「私」が他人に接する時に、さまざまな面をつくって対応する能力や、偽装的態度だけでなく情況に合わせて心(モード)を切り替える能力(ふり・パーソナリティ)をするのも「私」の存在の多面性を構成し、人間が社会的存在として生きてゆく能力になっている。これが社会生活でのコミュニケーションの基盤になるのである。それによって自分が社会の構成員として認められ評価され生きてゆけるという報酬系の最大化につながるのである。これはヒトの脳が生み出した巧みな能力である。

V 意識を生み出す脳 −「私」とクオリアの起源ー

「一番大切なことは、クオリアも<私>も世界の中で最初から存在するものでなく、脳の神経活動を通して生み出される(生成される)物であるという事実を認識することだ」という脳の成長能力を指摘される。幼児の母親や他人を認識する能力の形成(つまり敵か味方か)は学習と呼ばれる。ヒトは学習によって、かかわりの中で脳が自律的にイメージを生成させてゆくのである。このような生成プロセスを支える脳内プロセスは大脳辺縁系を中心とする情動系(報酬系を支える扁桃核)や前葉頭の前頭眼窩皮質の役割が注目されている。近年の脳科学の知見によると、脳の自発的(自律的)活動によって、外界から刺激が入力された時に喚起される情態が既に用意され存在しているようだ。これをクオリアのレパートリーの準備という。
「入力と出力の関係で脳を捉えるのを脳の機能主義という。それはニューラルネットワークと呼ばれきわめて限定された範囲で応用可能であるが、クオリアや私の根源的問題を問う現象学的アプローチへは応用は出来ない」と茂木氏は「私の起源」を物理主義・計算主義・機能主義では解明できない難しさを述懐されて今後の方法論に夢を託されているようだ。


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