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内山融著 「小泉政権」

 中公新書(2007年4月)

情念の人 小泉首相 強いリーダシップで改革の5年半 政権の功罪と歴史的意義

2001年4月26日大方の予想に反して首相に就いた小泉純一朗氏の政権5年半を総括してみよう。とにかく話題の多い挑戦的言辞を弄して、道路公団民営化、公務員改革、郵政民営化、靖国参拝、北朝鮮訪問と拉致問題など、受動的イメージであった日本の首相を強いリーダーシップを発揮する存在に変えた。とかく批判が多い政治手法で「古い自民党をぶっ壊す」と宣言し、派閥・族議員・官僚の利益共同体ら抵抗勢力と対峙して、世論を味方にして派手な立ち回りで改革を遂行した。この国内政治の改革には彼独自の信念というべきか「言ったら聞かない」強い意志で情念に訴え続けた。二元論的(敵=悪、自分=正義)に分りやすい勧善懲悪的小泉劇場を演じ続けた。これが異様に国民に人気を集め、2005年9月の郵政民営化衆議院解散選挙で与党は2/3を占める圧勝となった。新自由主義的政策を強く推し進めた内政改革の結果格差社会が深刻な様相を呈し、頑固に毎年6回も靖国参拝を強行した結果、中国、韓国との外交は破壊され、アジア経済外交も混迷を深めた。小泉政権は2006年9月安倍政権にバトンタッチをしたが、その安倍政権も1年を待たずして小泉政権の負の遺産に押しつぶされ、2007年9月末に「均衡」と「常識」を標榜する福田総裁が就任した。小泉が潰したとする昔の自民党に戻るような気配もする。小泉政権の目指したものは何だったのか、政権の功罪と歴史的意義を明らかにするのが本書の狙いである。なお本書はどちらかというと、国内政治制度改革が中心で、国際外交や経済問題は取り扱いが少ないのは否めない。

著者内山融氏は東大卒業後2年間だけ通産省に在席し、大学へ戻り現在東京大学総合文化研究科准教授で、専攻は日本政治・比較政治論である。政治学というものはまじめに勉強したことは無いが、本コーナーで飯尾潤著 「日本の統治構造」ー官僚内閣制から議院内閣制へーを取り上げたことがある。官僚内閣制と省庁代表性 、政府与党二元体制と政権交代なき政党政治ー55体制、議院内閣制の確立と政党政治の限界と意義といった話題を検証したが、小泉内閣については「小泉内閣では閣僚候補に関する派閥推薦を受けず首相専断とした。さらに経済財政諮問会議を多用して重要な課題に関しては首相の前で閣僚が会議を行い首相が裁断するという閣議の実質的な活性化を図った。」と評価している。また「さらに2000年に私立した「地方分権一括法」による地方自治体の自立は相対的に中央官庁の権力の地盤低下につながっている。こうして官僚による自己完結的な官僚内閣制的な運用は難しくなり、小泉内閣の下で議院内閣的運用が大きく進展した。」という官僚主導型政治からの脱却と議院内閣制の確立という点でも評価している。かっての自民党政冶の特徴は「政府与党二元体制と政権交代なき政党政治ー55体制」という章に詳しい。内山融著 「小泉政権」は政治制度に限定せず、総合的な小泉内閣の総括となる史書(中国の王朝交代時に前王朝の史書が必ず編まれたのにちなんで)である。総合的なるがゆえに、是が学問かという疑問はついて回る。そこで著者は総合文化研究科国際社会科学専攻らしいので、学者としても許されるのかな。一政冶家の史書として読めばこれほど面白いものは無い。

第一章 小泉純一郎の政治運営

本書の小泉氏を見る眼は「情念パトスの首相」、「強い首相」という観点である。「パトス」とは個人の性格であるが、「強い」とは個人の性格以上にむしろ制度の問題である。強くありたいと思っても権限が制度として存在しなければ気違いに過ぎない。その制度とは内閣法の改正による「官邸主導」である。小泉首相は細川護熙首相も利用した国民的人気をねらう「ポピュリスト的手法」によって2001年4月大方の予想を裏切って自民党総裁選に勝利した。小泉首相のポピュリスト的手法の特徴は、メディア戦略、善悪二元論の構図、得意な言語様式というものが挙げられる。特にテレビメディアを利用した劇場型政冶劇の果たした役割が絶大である。また大新聞よりも週刊誌やスポーツ紙を重視したセンセーショナル報道である。自民党族議員と官僚の結びつきを改革の「抵抗勢力」と呼び、かれらは「悪」で自分は「善なる悲壮なヒーロ」と二元論的構図を創り上げた。そして最後の特徴は小泉の得意な言語様式である、分りやすい(思考停止の)「ワンフレーズ・ポリティック」である。「自民党をぶっ潰す」とか「抵抗勢力」「三方一両得」などの名言、迷言、珍言がそれだけで面白いしゃれになっている。行動様式も復讐型、目には目を、居直り強盗など優雅な大宮人がみたら腰を抜かすこと請け合いである。小泉首相がパトスの人といわれる由縁は、一度言い出したら絶対に退かない強い信念である。良い方へ作用したのが構造改革路線である。絶対に妥協しない、ウルトラ級の離れ業で衆議院選挙で大勝して郵政民営化に成功したことはその端的な例である。まずいのが靖国神社参拝である。対中国・韓国外交を無にしてまで、「総理大臣になっても毎年靖国神社を参拝する」という発言を貫徹し計6回参拝した。個人の信念(右翼っぽい)を重く見て、国際外交を無視した首相にあるまじき子供じみた行為であった。

55体制は細川内閣の成立で終焉したかのように見えたが、自民党の内部では依然と力を持っていた。真の意味での55体制の打破を試みたのが小泉首相ではなかったか。派閥は総裁選出、資金配分、役職・大臣分配という機能を果たし、それが派閥に属するメリットであった。内閣は派閥均衡人事である。小泉は最大派閥橋本派を狙い撃ちにした派閥の役職分配機能を奪った。そして政治資金1億円スキャンダルを利用して橋本派を小泉支持の青木と反小泉の野中とに分裂させた。55体制の実質利益集団である族議員、官僚、経済界の「鉄のトライアングル」という同盟関係と、官僚内閣制と省庁代表性、内閣と与党の二元的政策決定機構(政策では政調会、総務会、法案の与党審査)によって、これまで首相は大臣の権限に寄りかかった受け身の調整役に過ぎなかった。小泉首相はこのボトムアップ型の政策決定に代え、「官邸主導」によるトップダウンの政策決定を導入しようとした。官僚内閣制から議院内閣制の確立である。官邸が主導して官僚に指示を出し、省庁の対立には首相が裁定した。政策論議も官邸が主催する「経済財政諮問会議」の場で詰め、法案作成も郵政民営化では官邸で作成し、道路公団民営化の不満の原因であった族議員と官僚の法案作成を軽視した。橋本内閣で強化された官邸制度が小泉首相の強力なリーダーシップを生む制度的保証となったのは皮肉な話というか、一代ではどうにもならぬ事項なのであろう。55体制の経済政策は瀬胡散者重視と消費者軽視、地方重視と都市軽視という特徴があった。1980年代のレーガン、サッチャー、中曽根の世界的な新保守主義(新自由主義)潮流は、日本では中曽根の「リゾート法」で土地バブルを生んで不良債権という負の遺産を残した。しかし英国では市場原理の重視と規制緩和、民営化による「サッチャリズム」を生み成果を挙げたが格差拡大が政治課題となっていた。米国は製造業から金融資本主義へ急展開し、世界へグローバリズムを強要した。小泉は失敗した中曽根の新自由主義を引き継いで、「日本版サッチャリズム」を定着させた。その骨子は
@財政改革と公共事業費の削減
A不良債権処理と金融再生
B社会保障制度改革: 年金制度と医療制度改革
C特殊法人改革: 石油公団の廃止と特殊法人の民営化、道路公団の民営化郵政事業の民営化
D地方財政制度改革: 補助金の削減、地方への税源移動、地方交付税改革という三位一体改革
E規制緩和:構造特区制度、市場化テスト
からなる改革である。この間外交や安全保障では、急速にアメリカの安全保障のもとに傾斜して、テロ特措置法やイラク特措置法の基づいて自衛隊が海外派遣できるようになった。経済政策が新自由主義的な一貫した戦略が取れたに比べて、外交面では戦略があるようでない対米従属路線に追随したにすぎず、アジア外交の不在と合わせて戦力性が見られない。

小泉氏の行動様式の特徴は時間軸が短いことである。中長期のメリットは殆ど考えていないようである。二元論対決的行動様式に随伴して小泉氏の態度の特徴は「ブレない」ことである。意見を左右しない。言い出したら退かない。このような行動様式が何処から来たのだろうか。55体制は自民党長期単独政権での安定を反映して、中長期的な利害得失を勘案して長いスパンで、人事から政策にいたる利害の貸し借りが行われた。小泉氏は派閥人事を排して、「一本釣り」人事をやった。郵政民営化法案は自民党の事前審査抜きで国会提出された。是は小泉自身が自身の派閥を持たないことから気楽にやれたことである。小泉首相は世論の支持を背景とした権力資源の調達(金と票)のしやすさから他の派閥との協議は不要であった。国民に直接話しかけることで自民党という巨大な権力集団を介する必要が無かったのである

第二章 内政ー新自由主義的改革をめぐる攻防

小泉政権が最も重視したのは経済と財政の構造改革である。その中核となったのが内閣府におかれた「経済財政諮問会議」である。議長は首相、官房長官、経済財政担当大臣(竹中平蔵)、総務大臣、財務大臣、日銀総裁と四名の民間議員牛尾二郎、奥田碩、本間正明、吉川洋であった。従来の政策決定システムでは官僚が議題アジェンダ設定の主導権を握っていた。諮問会議はこのアジェンダ設定の主導権をかなりの程度官僚から取り上げることに成功した。昔からあった諮問会議では「骨太の方針」というのは、官僚が作る案には口を挟まないという否定的な意味合いだったが、小泉首相は閣議できめる「骨太の方針」に内閣の基本方針を織り込んだ。諮問会議には政府外部からの新自由主義による各種のアイデアも注入された。経済界の要求がどんどん取り上げられた。竹中平蔵氏が指示した第一回の「骨太の方針」には@財政改革と公共事業費の削減A不良債権処理と金融再生B民営化C規制緩和の項目が全て盛り込まれていた。「骨太の方針」は予算編成や税制までに枠を嵌めるようになった。その結果政策決定過程が透明になり、首相の裁断の場として機能した。

次に小泉改革を上に挙げた項目別に成果を見てゆこう。まず財政改革である。小泉政権成立前の2000年度予算は国債発行額34兆6000億円(38.5%)で、公共事業費は9兆4335億円であった。2002年度予算で公共事業費は10.7%削減され、それ以降毎年3%から4%づつ削減され2006年度予算では7兆2015億円となった。2001年度予算から比べると2006年度予算はマイナス23.7%となった。大蔵省が握ってきた予算編成の主導権を諮問会議に移そうとした。1月に「改革と展望」という中期の方針とに通しを出して、6月には「骨太の方針」を出して7月末には「予算の全体像」を決定する。そして8月末には各省の概算要求がで、12月に「予算編成の基本方針」が決定される。という予算編成プロセスの改革が進行した。まだこのプロセスは流動的である。

次に道路公団の民営化を見て行こう。道路公団の民営化のいきさつについては、本読書ノートコーナーで猪瀬直樹著 「 道路の決着」、「 道路の権力」を取り上げて解説したのでそちらのほうがずっと詳しい。道路公団という特殊法人の民営化は実は郵政民営化と連動した表裏一体の改革である。なぜなら道路公団の建設資金の多くは、郵便貯金や簡易保険を原資とする財政投融資金が流れ込んでいる特別会計であるからだ。郵政民営化によって資金の流入を阻止すれば道路公団の無制限な道路建設は大きな制限を受けざるを得ない。2001年7月石原伸晃行革担当相が首相より特殊法人の見直しを迫られた。小泉が最も意欲を示したのが道路四公団の民営化である。扇国土交通相に民営化案の提出を迫った。自民党道路族は民営化事態はやむをえないとしながら高速道路建設整備計画の凍結には激しい拒否反応を示した。2002年6月に民営化推進委員会を設立した。今井委員長、中村委員(建設推進派)、猪瀬委員、大宅委員、松田委員、川本委員,田中委員ら5人は建設抑制派であった。この人選自体が矛盾に満ちたもので初めから議論は紛糾し分裂となることは自明であった。どうもこの人選には小泉首相の意向は十分反映されておらず、道路族や国交省官僚中心に議論が進行した。2002年12月今井委員長は辞任して、道路公団民営化委員会最終報告が提出された。内容は分割民営化だけが貫かれたものの、妥協だらけの道路建設推進も出来るという矛盾に満ちた結論であった。2003年石原国交相は藤井総裁を罷免したが、意外な総裁の抵抗にあい首相が入ってやっと近藤新総裁がきまるという官僚の強さを見せ付けられた。道路公団民営化法案の作成作業は国交省官僚で進められ、その過程で法案は道路建設に有利な内容に変質していた。委員会も猪瀬氏と大宅氏を残して全ての委員が辞任するという前代未聞の椿事と迷走を行ってなんとも後味の悪い結末になった。最も強力な道路族を相手にして何とか道路公団の分割民営化にこぎつけた成果は大きいが、道路建設はかなり実行できると道路族は勝利宣言した。これらは小泉首相が石原氏と猪瀬氏に「丸投げ」といわれたように、首相自身の戦略性がなかった。郵政民営化に比べてあまりに見劣りがする結末であった。

次に不良債権処理と金融再生である。土地バブル崩壊後、金融機関の不良債権と企業の過剰債務がデフレスパイラルを招いて、日本経済は失われた10年で低迷を続けた。2001年森政権で不良債権の最終処理促進などを内容とする緊急経済対策が発表されたが、はかばかしい成果は得られなかった。2002年9月竹中平蔵経財相が金融相をかねて金融再生プロジェクトを発足させ、10月「金融再生プログラム」が始動した。厳格な資産査定、銀行資産(自己資本の充実)の検討、銀行経営の統治力を金融行政の3原則と定めた。2004年度末までに主要銀行の不良資産比率を現状の半分以下にする目標を掲げた。大手銀行七グループの不良債権を厳しく査定して赤字は4兆円を超えることが明らかになり、公的資金の投入、一時国営化、銀行系列再編成という荒治療が施された。2003年4月産業再生機構設置法が成立し金融と企業の一体再生が始まり、大手銀行の不良債権率は2001年の8.7%から2004年度には2.9%に減少した。これまでの内閣が恐ろしくて目隠しをし先送りを続けてきた不良債権は、小泉政権下の竹中氏によって見事膿を出し切った。

次は医療制度改革である。公共事業費と並んで予算を圧迫していたのが社会保障費であった。2001年度予算で17兆円6000億円、一般会計の21%を占めていた。年金改革と医療改革が行われたが、医療改革を取り上げる。強力な日本医師会と厚生族議員が医療費の削減に強い抵抗を示した。2002年医療制度改革関連法案が成立し、患者自己負担比率が1割から3割に引き上げ(高年齢者は1割)、健康保険料の引きあげ、老人医療費の抑制がきまった。中央医療審議会では「医療報酬制度」の見直しを行い、2006年度には医療部門でマイナス1.36%、薬価を含めて全体で3.16%の引き下げとなった。これらを成果というべきかどうか疑問が残る。社会保障費を経済指標と連動していいものかどうか、聖域とされてきたセーフティネットを破壊していいものかどうか今後の議論で是正がなされることが期待される。

次は三位一体改革とされる補助金および地方交付税削減と税源移譲の改革である。2002年6月に小泉首相から総務相に三位一体改革の指示が出された。経済諮問会議で補助金の廃止の首相発言もあったが議論は難航し、2004年11月に補助金削減について政府・与党合意に至った。2005年10月に義務教育負担金は堅持する方針が確認された。同じ年11月には三位一体改革の全体像が政府・与党合意を得た。税源移譲は概ね3兆円として地方公共団体は補助金削減案を提出するというものであった。結局三位一体改革がどう具体化されるは今後の課題に残った。

最後に「改革の本丸」といわれ小泉首相が最も情熱を注いだ郵政民営化である。当時の最大派閥で郵政族議員の巣窟であった橋本派を切り崩すために、1億円献金問題で橋本派の番頭野中氏を政冶活動引退へ追い込み、さらの橋本氏の弟高知県知事橋本大二郎氏のスキャンダル事件をでっち上げようとしたが是はあまりにお粗末で失敗した。この手あの手で小泉首相は国家権力機構を使って橋本派の壊滅作戦を続けた。幸か不幸か当の橋本元首相が病死したのをきっかけに、小泉氏は一気に郵政民営化に手をつけたようだ。郵政公社には貯金と簡保の360兆円の資金があり、財政投融資を通じて特殊法人などに投資されている資金の流れを断ち切ることは、特殊法人の整理や廃止に追い込み、膨大な国庫債務の元凶であった道路建設公団の民営化に追い込む戦略の一方の要であった。2001年6月首相の私的諮問機関「郵政三事業のあり方を考える」が発足して、2002年7月郵政公社関連法案が成立した。2004年6月経済財政諮問会議の「骨太の方針」で郵政民営化方針を出し、同年9月には「郵政民営化の基本方針」を閣議決定した。2005年4月に郵政民営化法案を作成して国会へ提出した。7月には衆議院を通過したが、8月多くの造反議員を出しながら参議院で否決され小泉首相は民意を問うとして直ちに衆議院を解散、9月の総選挙には大勝した。10月再度衆議院で2/3以上の賛成を得て民営化法案は成立した。郵政民営化の骨子は12007年10月郵政公社を4分割して株式会社とする。2政府は純粋持株会社を設立。10年間で株式を売却B職員は国家公務員ではなくなるC郵便事業には全国一律を義務つけるD郵貯、簡保には民間会社と同様な法令を適用というものである。綿貫、平沼、亀井ら37名の反対票が出たり、「刺客」選挙という週刊誌を喜ばせる椿事に満ちた劇場型選挙が演じられた。

最後に道路公団民営化と郵政民営化の明暗を分けた戦略的政策決定における首相の条件について比較してみる。道路よりも郵政のほうが市場原理の導入という点で民営化の趣旨に忠実な成果を挙げた。郵政のほうが現行制度の変更の程度が大きかった。道路公団民営化後も国は株式を1/3以上を保有し、直轄高速道路方式により引き続き道路建設を実行でき、かつ債務保証を政府が与えるなど国の関与が大きく残っていてはたして是を民営化というのか疑問符がつく。郵政民営化では2017年には郵貯、簡保の両会社の株式がすべて売却され完全民営化が実現する。この民営化の差がどうして出たのかというと、それは政策決定の場の問題であった。道路公団民営化では方針の立案は民営化委員会であり、委員の人選から既に失敗しており分裂辞任という迷走となって分解し,最後の法案作成を国交省官僚が行い骨抜きが行われたことによる。これに対して郵政民営化では諮問会議が大きな役割を果たし、首相も出席してさまざまな指示や裁定を出し、竹中氏を初めとする戦略家やブレーンもそれに沿って動いた。そして最後の民営化法案作成では内閣官房が実施して官僚を排除した。公団民営化委員会には首相は出席せず、未熟な石原行革相と作家の猪瀬氏に丸投げしたことは首相の関心の薄さを如実に示している。経済財政諮問会議での竹中氏の存在は大きいかった。竹中氏は首相の軍師として経済専門家と戦略家として働いた。裏会議での戦略作成、民間四議員の意見、総理の指示を強力な推進力として利用し、経済財政諮問会議は戦略的決定の場として機能した。また竹中氏は「戦略は細部にある」という信念で法案作成などに決して手を抜かずに参加し、官僚の骨抜きを許さなかった。ということであると小泉首相は自民党の最大「抵抗勢力」を郵政族橋本派とみて徹底した破壊工作を行った。道路族の亀井や古賀には激しい攻撃は加えていない。郵政と道路民営化は入り口と出口の関係にあるので、どちらかを優先するとすれば金の流入を阻止する郵政民営化に的を絞ったようだ。それにしても道路民営化委員会の委員は小泉の気まぐれの犠牲者なのだろうか。

第三章 外交ー近づく米国、遠ざかる東アジア

小泉首相の外交政策を云々するまえから、外務省は前代未聞の混乱のきわみにあった。2001年初めから松尾要人外国訪問支援室長が機密費5400万円を横領したり、沖縄サミットの公金詐欺事件、デンバー総領事の公金不正流用、APECホテル代水増し請求問題、外務省公金裏金つくり調査結果発表など不祥事があいついだ。2名が懲戒解雇、328名の処分、1億6000万円の幹部による返済などが決定された。小泉首相が任命した田中真紀子外務相が混乱した外務省を立て直すかと期待されたが、官僚人事へ強引な干渉を行いかえって外務省の混乱を増幅した。田中外務大臣は、官僚のみならず族議員鈴木宗男の外務省介入を不快として、北方四島問題スキャンダルを企て国会を空転させた。そのあおりを食らって外務省ロシア担当調査官佐藤優もスキャンダルに巻き込まれ逮捕された。小泉首相は喧嘩両成敗で田中氏と野上事務次官を更迭した。今となっては鈴木宗男事件は何処が問題なのか不可解である。リクルート未公開株スキャンダルと並んで国家の冤罪事件といわれている。

小泉氏の問題というよりは国際情勢からして当然どの首相でも選択の余地は無かったと思われるのが、2001年9.11テロ事件と2003年イラン戦争への対米協力の強化と自衛隊の海外派遣の問題である。テロ対策法案と自衛隊の海外派遣については本コーナーで前田哲夫著 「自衛隊 変容のゆくえ」を取り上げ紹介した。自衛隊の海外活動は以下に整理した。
1)1991年の湾岸戦争後ペルシャ湾での機雷除去作業、1994年カンボジア政治不安現地待機
2)1992年からは国連PKO活動としてカンボジア、東チモール、ゴラン高原、ネパールなどへ派遣
3)2001年よりテロ対策特別措置法で対テロ戦争協力、インド洋で実施 過去三回延長し6年間実施中
4)2003年単独行動のアメリカを支援したイラク支援特別措置法 
小泉内閣では9.11テロを契機に主に米軍に協力するための自衛隊の海外派遣が強化されてきた。米軍再編に伴い日米の軍事協力も強化された。沖縄米軍基地移転問題、キャンプ座間への陸上自衛隊司令部の設置、横田基地への共同統合運用調整所の設置と空自航空総隊司令部の移転など、殆ど自衛隊の司令部が米軍管理下に置かれるが如き、自衛隊と米軍の連携機能が強化された。米国の脅かされると歴代首相はほぼ無条件で米国を支持し、いわれがままの金を提供してきた。今度は具体的に自衛他の海外派遣により、にわかに「集団的自衛権」の行使へむけた法的勉強が開始された。

日米関係の強化に対して、混迷を深めたのが対中国・韓国関係である。その原因は小泉首相の靖国神社参拝問題であった。小泉の前政権小渕敬三内閣までは日本は隣国中国と韓国とは非常に良好な関係が保たれていた。小泉首相の対東アジア外交の暗雲は2001年4月台湾の李登輝前総統の日本訪問から始まった。そして小泉首相の靖国神社参拝発言である。5月には韓国の「新しい教科書を作る会」の歴史教科書問題の修正要求である。中国の江沢民主席、韓国の金大中大統領との会談では強い懸念が表明された。その懸念をよそに小泉首相は発言通り毎年1回靖国神社参拝を強行したのである。そのため2004年中国は尖閣諸島の魚釣島への中国人侵入事件、東シナ海でのガス田開発強行、2005年中国で大規模な反日デモ、韓国とは独島(竹島)占拠問題、教科書問題、従軍慰安婦問題もおこり、日中・日韓関係は冷却して安倍首相の訪問まで首脳会談も1年半中断した。

日中・日韓関係が冷え込む中、拉致問題で北朝鮮への圧力強行外交へ傾いた。2002年9月小泉首相は日本の首相としては初めて平壌を訪問し、金正日と日朝会談を行った。国交正常化を早期に実現することを謳った「日朝平壌宣言」に署名した。その席上で金総書記は拉致問題について謝罪し、拉致被害者14名、8名死亡、5名生存という情報がもたらされた。この成果は田中均アジア太平洋局長がミスターXと極秘交渉してきた結果だとされる。そして拉致問題体制が整えられ中山恭子を内閣官房参与として安倍晋三を議長とする「拉致問題に関する専門幹事会」が作られた。10月15日拉致被害者5名が帰国したが、北朝鮮の核疑惑情報によって政府内で田中らの対朝宥和路線と安倍ら強硬路線が対立した。安倍は国民感情に訴えて対北朝鮮封じ込め「圧力と対話」(中身は圧力のみ)を煽った。11月には拉致被害者支援法が成立した。2003年8月北朝鮮の核問題を協議する第一回六カ国協議が北京で開かれた。日本は拉致問題を6カ国協議の議題にしようとしたが北朝鮮は硬化した。同年11月「外国為替・外国貿易法改正案」と「特定船舶入港禁止法案」という二つの経済制裁法案がまとまり2004年に成立した。その間北朝鮮との対話は閉ざされたままであったが、2004年5月拉致被害者蓮池さんと地村さんの家族五名の帰国が、民間のルートと自民党山崎氏の交渉で実現した。小泉首相は平壌を再度訪問し、金総書記との会談で食糧25万トンの人道援助を行うこと、国交正常化交渉再開を約束した。そして7月曽根さんの家族はジャカルタで再会し帰国した。2005年9月北朝鮮はミサイル発射実験を行い国連から非難声明がだされ、2006年10月には北朝鮮は核実験を行った。結局的は小泉首相は初めて平壌を訪問するという成果を挙げたようだが、是は自身の決断によるものではなく色々なルートの闇交渉の成果が実った結果をつまみ食いしたにすぎず、拉致問題では安部晋三氏の強硬路線に寄りかかることが多く成果を着実に実らせることは出来なかった。まして6カ国協議では日本は拉致問題を条件にして5カ国のお荷物に過ぎなかった。

何故外交では戦略性が欠如したのか。小泉首相の米国への軍事的協力を基調とする日米関係の強化は、米国の要求には素直に応じる追随型の受け身外交に過ぎない。主体的に日本外交の基本を選択する戦略性はなく、東アジア外交や対外経済政策の無策は経済界の危機感をも生んだ。やはり小泉首相の最大の関心は内政の新自由主義的改革にあって、外交には関心は無かった。これでは日本がずるずると戦争に巻き込まれ、また東アジア戦略から排除される可能性すらある。

第四章 歴史的・理論的視座からの小泉政権

政治とは何かといえば、まず第一には「利益の政冶」であり、第二には「理念・アイデアの政冶」であろうか。物質的利益に最大にする複雑な連合(政党)や政策(企業の規制緩和)は前者であり一番分りやすいが、後者は直接的な物質的利益につながらなくとも中長期的に見ると制度の改革、属する勢力の拡大などによっても利益になる。結局はすべて利益につながる。戦後の対米外交関係から日本の政冶は四分する考えを永井陽之助が提出した。面白いので紹介する。対米同盟から自立を軸とし、もうひとつの軸は経済福祉を重視するか軍事を重視するかで分けると、日米同盟を重視し経済福祉を重視する戦後自民党の政治は「政治的リアリズム」と呼び、自立を重視し経済福祉を重視する立場は戦後野党の「非武装中立論」と呼び、日米同盟を重視し軍事を重視する最近の保守政治家や憲法改正を叫ぶ政治は「軍事的リアリズム」と呼び、自立と軍事を重視する北朝鮮並みの立場は極右ファシズムにつながる「日本的ゴーリズム」と呼ぶ。戦後の日本の政治は吉田首相以来、基本的には軍事は日米同盟で米国に依存し,その笠の下で経済的利益を最大にする道すなわち「政治的リアリズム」であった。経済成長期は日本型重商主義(護送船団方式)で、農業など脆弱なセクターを保護しつつ、ケインズ式財政出動で景気を調整する公共事業では利益共同体が形成された。1990年以降は日米構造協議で構造改革を要求され、グローバリゼーションの進展で国際的規格に日本社会が対応しなければならなくなった。又国際政治では米国の軍事覇権戦略に否応無く組み込まれ、逆にこれに便乗して自衛隊海外派遣などを積極化しようとする「軍事的リアリズム」が台頭した。小泉首相はこの新潮流の中でまずバブル崩壊後の金融企業再生を行い、金融関係では米国型グローバリゼーションの要求に押されて各種の規制緩和を行った。銀行金融界は最初かなりの痛みを伴った改革が行われ、財政再建では新自由主義的民営化を遂行した稀有な実行力の有る内閣であった。経済自由主義を掲げる小泉内閣に対して、格差是正などの中道左派的政策を掲げる民主党は(自民党の中にも存在する)基本的政治軸が一致している。

小泉首相のリーダシップとそれを支えた制度は何であったのか。与党と政府の集権性が高いことで首相はリーダーシップが発揮できる。55体制の自民党は政治的資源は自分で集める(派閥も関与)するいわば寄り合い世帯で、全員一致の合意形成を基礎としてきた動きの鈍い政党であった。しかし人材が豊富で如何なる政治的危機にもウルトラC級の離れ業が可能であった。内閣制度では首相は派閥に決めた大臣と官僚の政策を追認するだけの首相であった。内閣制度が首相を制約していた。「官僚内閣制」といわれた。この辺のことは飯尾潤著 「日本の統治構造」ー官僚内閣制から議院内閣制へーを読んでいただければ判明する。その55体制を変えたのが細川内閣の選挙制度改革(小選挙区制と比例代表制並立型)と政治資金制度改革(政党助成金)である。個人を売り物にしてきた過去の選挙から、政党のマニフェストと党首の個人的人気に依存する選挙に変わった。議員は政治資源(金と公認)を党に仰ぐ形が定着した。そして橋本内閣での内閣法改正によって、首相が閣議の主宰者で基本的方針を発議する立場になった。首相を補佐する内閣官房機能の充実、内閣府の新設と特命担当大臣を設置が出来るようになり、財政諮問会議などの諮問会議を内閣府に置いた。各省大臣の下に副大臣をおいて官僚に対する政党優位性を補充した。小泉内閣では竹中氏ら特命担当大臣の活躍ぶりが著しい。小泉首相が誕生する前にこれらの改革があって、首相権限と内閣機能が発揮できる体制が整っていたのである。

第五章 小泉政権が遺したもの

小泉首相は2001年4月から2006年9月まで5年5ヶ月の長きにわたって政権を担当した(歴代三位の長寿政権)。確かに多くの仕事が出来た稀有の首相である。小泉政権が終わって1年たち、政権を引き継いだ安倍政権が1年足らずで崩壊した今、小泉政権の功罪を総括しておくことは意義がある。強い首相というイメージは、政治改革と中央省庁改革によって増大した制度的権限と、無党派層を中心に国民的人気を集めた小泉首相のポピュリスト的手法であった。経済面では利益政治を超えて新自由主義政策が大きく進展した。財政赤字の削減を民活利用で克服して経済成長を可能にした。しかし2006年度より野党は一斉に格差問題を追及した。規制緩和によりライブドアーや村上ファンド事件のような成金の犯罪も発生し、耐震強度偽装事件は建築法緩和の負の成果であろうか。そして何よりセーフティガードの破壊が進行した。老人福祉、生活保護、健康保険、年金の負担増と切り捨て、偽装請負や派遣による非正社員若年労働者の貧困化など社会の貧困化を格差が著しく進行し、公共事業に頼っていた地方は疲弊して地方格差も拡大した。このような規制緩和と財政経費削減に対する小泉首相政策決定と政治手法は明らかに排除の論理(切り捨ての論理)に立っていた。「抵抗勢力」を敵とする劇場型政治手法である小泉首相のポピュリスト的手法もやはり排除の論理である。社会がこのままいけば分断され崩壊すること請け合いである。少数の富裕層と圧倒的多数の貧困層に分断された社会が繁栄を持続できたためしは無い。池田隼人首相は「寛容と忍耐」で日本の高度経済成長を導いた。小泉首相の後の政治家はこの社会的ひずみを取り除くことが課題であろう。

小泉首相はロゴス(理性)よりパトス(情念)を好んだ。メディア宣伝やテレビを利用した「ワイドショー的政治」、「小泉劇場」は、たしかに閉塞した小市民は感情の捌け口として楽しんだようだ。悪の勢力の反対を押し切って進むヒーロ的演出というこの手法は、外交面で頑固な靖国神社参拝強行で中国韓国関係を破壊した。公的な帰結を熟慮せずパトスに基づいて行動することが、一国の首相として妥当なのか真剣に問われるべきであろう。ある意味ではブッシュの「悪の枢軸」や「テロ国家」と闘う英雄的アメリカなど原理主義的行動と通じるところがある。確かに小泉もブッシュもおつむの足りないところは似ている。最後に小泉首相のロゴスの無い迷答弁を挙げておこう。
「この程度の約束を守らないことは大したことではない」 居直り発言
「大量破壊兵器が見つからないといって、大量破壊兵器が無いと断定できるか」へ理屈にもならない発言
「何処が非戦闘地域か私に聴かれても分るわけが無いでしょう」政治家とはいえないむちゃくちゃ発言
「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」わるふざけ発言
昔、吉田首相が「バカヤロー」発言で衆議院を解散したことを思えば、小泉は随分議会をバカにして反省が無い。この発言で首相辞任に追い込めない野党が今や些細なことで安倍首相を辞任させたことの変化をどう考えたらいいのだろうか。当時の民主党の幹部のふがいなさと馬鹿さ加減も相当なものだ。


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