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金賛汀著 「朝鮮総連」

 新潮新書(2004年5月)

在日朝鮮人のために生まれた組織が北朝鮮金日成親子の手先に変質、
在日の生活に背を向けた朝鮮総連は今や軋みをあげて崩壊している。

朝日新聞の2007年06月29日記事によると「親密に「裏ビジネス」 緒方元長官と満井元社長」という見出しで「朝鮮総連中央本部が入る建物・土地の登記移転をめぐり、公安調査庁の元長官・緒方重威(しげたけ)容疑者(73)が詐欺の疑いで逮捕された。事件の背景には、住宅金融専門会社(住専)の大口融資先だった不動産会社の元社長・満井忠男容疑者(73)との不可解な関係が浮かび上がる。満井元社長はバブル後も「裏ビジネス」の世界で暗躍、緒方元長官を引き込んで再開発や投資話に関与していた。 」という記事があった。朝鮮総連中央本部の入るビルの所有権移転をめぐる詐欺事件に元国家公安委員長緒方弁護士が絡む奇奇怪怪な事件であった。その背景は朝日新聞の2007年07月13日記事によると「朝鮮会館側対象の執行文求め提訴 整理回収機構」という見出しで「整理回収機構は13日、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の中央本部が入る「朝鮮中央会館」(東京都千代田区)の土地と建物の所有者となっている合資会社「朝鮮中央会館管理会」に対して強制執行ができるよう、管理会を対象とする執行文の付与を求める訴訟を東京地裁に起こした。 同地裁は6月、在日朝鮮人系の金融機関から融資された627億円を機構に返済するよう総連に命じた。その後、機構は同地裁から執行文の付与を受け、強制競売を申し立てていたが、提訴に伴い13日、いったん取り下げた。」という要旨の記事に明らかなように、先に1997年に朝銀大阪の破綻に公的資金が導入され、再建した朝銀近畿も1998年に2次破綻した。朝銀の破綻は朝鮮総連が食い物にした結果であり、627億円の融資金を朝銀に返済するよう整理回収機構が総連に命じた。その矢先の詐欺事件である。

朝鮮銀行と朝鮮総連はいわば一体化した北朝鮮政府の政治経済機関であり、金正日軍事独裁国家北朝鮮の謀略と経済破綻した北朝鮮への送金を担当する機関であった。朝銀の経済的救済問題から端を発した問題は、北朝鮮政府と朝鮮総連による政治的問題が裏にあることは明白で、日本政府も拉致問題や昨年9月の核実験問題から急速に経済制裁の動きを強め、総連から北朝鮮への送金を断つことが急務であると判断した。総連の身から出たさびであるが、整理回収機構は朝銀の破綻の不良債権の返済を総連に命令し、総連関連施設の殆どは差し押さえか抵当権設定に組み込まれた。これにより経済的にも朝鮮総連は崩壊しつつあった。その腐臭に悪徳弁護士や不動産屋が群がった事件が今回の詐欺事件であろう。私には詐欺事件なんかはどうでもいいのである。朝鮮総連という北朝鮮の出先機関の本質を知りたいと思っていたところ、本書に出遭った。本書の著者金賛汀氏は勿論在日であるが、1955年朝鮮総連発足時に「朝鮮帰国運動」に未来を見た青年時代から、在日朝鮮人の生活をよくする運動からだんだんと変質してゆく朝鮮総連の動きに違和感を感じ1980年代初期に組織運動から離れ、フリーのライター記者となった。歴史に翻弄された朝鮮民族について執筆をを続け、1992年「パルチザン挽歌ー金日成神話の崩壊」を書いて、金日成・正日独裁宗教国家の神話を暴いた(日本の天皇制におなじ、神話は「古事記」)。氏もかって身をおいたことがある朝鮮総連の変質と反民族・反民主的政策の歴史を陳述されたのが本書である。金日成の革命神話なぞ日本人なら誰も信じる人はいないが、彼らは大真面目に自分達が北朝鮮革命史の中核をなす「朝鮮人民革命軍」で抗日パルチザン独立戦争を闘ったと自称しているのである。実は金日成は中国共産党の指導した東北抗日蓮軍の一指揮官で、日本軍に追われた金日成はソ連領に逃げ込み「ソ連極東軍第88特別狙撃旅団」に属して大尉としてソ連内ハバロスク郊外の兵営にいた。ソ連参戦にともない金日成はソ連軍として南下し日本降伏後朝鮮領にはいった。金正日が白頭山のパルチザン基地で生まれたというのは真っ赤な嘘で、じつはソ連内ハバロフスクの野営地でソ連名「ユーラ」として生まれたらしい。このことを筆者は現地での証言を元に実証し、金日成神話を否定した。このことで朝鮮総連から「民族反逆者」の烙印を押された。私にとって金日成神話なぞどうでもいいのだが、こんな馬鹿げた神話を否定するにも命がけというのは、日本でも戦前の国粋主義者を相手にしているようで実に大変なことなんだという感慨を強くした。

2002年の日韓ワールドカップ開催で盛り上がった、在日朝鮮人学校の青少年と韓国済州島の学校とのサッカー交歓試合に朝鮮総連が妨害行動に出たことで多くの父母の反感と批判が総連に集中した。一般の在日同胞は総連とは距離を置き始め、総連の締め付けを無視するようになった。従来朝鮮総連を支えてきたのは二本の柱、民族学校と朝鮮信用組合であるといわれる。一方の朝鮮信用組合は朝鮮総連の不正融資や不良債権で既に破綻し、公的資金導入による再生の条件として朝鮮総連と手を切ることを金融関係者から要求され、その条件を呑んだ。そして今民族学校にも反乱の火があがった。そして拉致問題を北朝鮮が認めた後約1年で約1万人の朝鮮籍保持者が「韓国籍」に切り替えた。朝鮮総連は在日同胞からも見放されようとしている。朝鮮総連は音を立てて崩れてゆく。

朝鮮総連の結成

日本が太平洋戦争で敗北した1945年時点で日本国内にいた朝鮮人は200万人であった。このとき強制連行者の帰還問題で1945年10月10日に朝連結成大会が開かれた。その結果共産主義者が指導する左派グループが支配権をとり活動した。そのときの活動費は強制労働者の未払い賃金であった。これらの豊富な活動資金は日本共産党再建資金としても使用された。在日朝鮮人の殆どは南朝鮮(韓国)出身者であったが、この帰還運動で200万人いた朝鮮人のうち140万人が帰国した。帰還者も1946年で頭打ちになり在日朝鮮人数は60万人前後で推移することになる。そして在日朝鮮人問題も占領軍の管轄となった。1946年10月南朝鮮出身者による民団が結成され1948年に建国された李承晩独裁政権の大韓民国系として組織された。しかし当時の民団は組織力もなく在日朝鮮人の指示は圧倒的に朝連にあった。1949年になると日本国内での占領軍による赤狩りが浸透し日本共産党と朝連は解散させられた。そして日本政府は「外国人登録令」を改定し、在日朝鮮人を外国人として扱った。1950年朝鮮戦争が勃発し、朝連の中では民戦日本共産党派と民族派の主導権争いが激化し、朝鮮戦争停戦によって1955年5月朝鮮総連が民族派によって結成され、日本共産党と朝鮮総連は組織としても運動としても一線を画して干渉しないという取り決めになった。朝鮮総連の綱領には@在日同胞を北朝鮮に結集するA韓国から李承晩を追放し祖国の平和的統一B在日の民主的民族権益と自由の擁護C民族教育D国籍選択の自由E朝日人民の友好F原爆や大量破壊兵器の製造使用禁止G世界の平和友好を掲げた。

在日朝鮮人の生活面では、就職の場は差別され、職業としてはくず鉄屋、パチンコ屋、ホルモン焼き屋ぐらいで就業率も1956年では40%にすぎなかった。被保護世帯は14000世帯で在日の24%に達した。朝鮮総連の中には1957年「がくしゅう」組みという地下組織が設けられ、朝鮮労働党に日本支局を目指し、益々先鋭化していった。1956年北朝鮮より「教育援助金」の支援によって民族教育が始まり生徒数は35000人が勉強できるようになり、かつこの資金は1970年代半ばまで実質的な朝鮮総連の活動資金になった。朝鮮戦争で労働力を失った北朝鮮政府は在日朝鮮人の帰国運動を国際赤十字を通じて働きかけ、1959年日本政府と合意に到った。「地上の楽園」と朝鮮総連は在日同胞に帰国建国を働きかけ、実情を知らない人々はこれに乗って1984年までに93000人が帰還した。しかし北朝鮮の実態と生活の惨状を見た帰還者からの手紙などで、早や1962年から帰還者は激減した。これに焦った北朝鮮は朝鮮総連幹部の家族を帰国させ人質にして、北からの指示命令に絶対服従させる仕組みを作った。1960年代になって朝鮮総連は反民主主義、反人民的団体に転落してゆくが、それを阻止する組織内の民主主義は破壊されていた。

朝鮮総連の変質

1963年ごろには、朝鮮総連は韓徳銖、金炳植らが組織を私物化して、北朝鮮への従属を強めていった。北朝鮮の直接的指導は新潟港に入港する「万景峰号」船内で行われていた。1967年ごろまで朝鮮総連を支配していた思想は共産主義思想であったが、1967年6月労働党中央委員会で主体思想(チュチュ思想)を党の唯一思想体系とし、朝鮮総連の指導もチュチュ思想学習に変わった。チュチュ思想は理論的というに価しない「金日成の命令は絶対だ」ということである。金日成を教祖に祭り上げた宗教的思想と理解したほうが早い。日本の天皇制に極めて類似した思想であり、神道という理論も何もない宗教を背景に天皇絶対主義を急ごしらえした飛鳥時代と思えば分りやすい。その中で金日成パルチザン神話(日本では古事記)がでっちあげられた。あまりにバカバカしいのでこれくらいにしておきたい。

韓国の瓦解を目論む秘密工作

1965年日韓条約を締結した韓国は国家賠償金という形で日本の経済協力を得て、軍事独裁者ながら朴正熙大統領は産業インフラの整備に邁進し、経済発展の基礎を築いた。この南の経済発展に驚いた北朝鮮政権内部でも動揺が起きたが、結局金日成は武力強硬派の南北統一路線を支持した。そして国際テロ活動が息子の金正日の手で小児病のように繰り広げられた。1968年1月朴正熙大統領暗殺の目的で大統領官邸近くで銃撃戦をおこなった。2日後アメリカの情報収集艦プエブロ号を拿捕事件、韓国地下活動支援などを行い挑発を繰り返した。この時期朝鮮総連内部では反金炳植派の摘発と粛清を行い、穏健派を一掃し北の指導体制を確立した。そして秘密組織「ふくろう部隊」を作って内部監視の憲兵組織とした。朝鮮総連は北朝鮮の「統一戦線部」に属するが、タイ韓国政治工作を強化した。対韓国政治工作とは革命活動を行う人材を養成し北朝鮮の工作機関にに引き渡すことである。1969年4月北は米国の偵察機EC121を撃墜し再度挑発に出た。ソ連はこの事態を憂慮し北を説得して融和策を取らせ、1972年一時的ではあるが赤十字を通じて朴正熙との南北会談が持たれた。この融和策は朝鮮総連内で金炳植指導体制に不満を持つ人の分派活動が成功し、金炳植は北へ呼び戻され、韓徳銖議長が再度支配権を取り返した。1974年韓国で在日の青年文世光が朴正熙を狙撃する事件で大統領夫人が死亡した。この事件が当時誰が指示したか不明であったが、2002年金正日が北の指示を認め謝罪した。この対韓工作の延長上に1970年後半の一連の日本人拉致事件が発生する。これらの拉致工作に朝鮮総連が関係していないとはとても断言できない。

朝鮮総連 反在日同胞的存在に

1971年の金日成還暦祝いの50億円送金以降、北朝鮮は彼らの計画経済の失敗から在日同胞の献金がきわめて重要な資金源になっていた。1980年より北朝鮮としては輸入代金の支払いが何処の国へも滞り、利子さえ払えない状況であった。1979年より始まった「短期祖国訪問団」で同胞の財産を寄付させる運動を展開した。年間15から20回おこなうと北朝鮮への収入が30億円から60億円にもなったようだ。たとえば1000万円寄付すれば北にいる家族の特権を付与するというものである。朝鮮信用組合は在日商工人の相互扶助組合として発展してきた。1955年ごろから設立され1990年には日本全国で38組合176店舗、預金総額約2兆円の巨大信用組合に成長した。朝鮮総連は北への送金ノルマからこの朝鮮信用組合の金に目をつけ、朝銀の人事権をコントロールした。1980年から1990年後半までに朝鮮総連が北朝鮮に送金した金額は諸説あるが年間100億円を超えていたのではないだろうか。1984年北朝鮮へ帰還した在日の惨状をルポした「凍土の共和国」が出版された。短期祖国訪問団で帰国し寄付させられた在日商工人が見た記録であったし、これは在日商工人の北への反乱であった。1985年金日成は在日商工人のいわゆる「4.24教示」で有利だとする融資話を持ちかけ、その10%から20%を北に寄付させるというあくどい商売を企んだ。そのときから融資の一部を総連経由で送金するという、金融機関としてはあるまじき行為を歩み始め、一部は総連の活動資金にも化けた。公して事業資金として融資させ不良債権化した朝銀東京の総額は360億円となった。そして1986年からは北からの朝鮮総連への教育援助金は停止し、総連は経済的に自立せよという指示が届いた。仰天した総連幹部は武士の商法でとんでもない事業を展開せざるを得なくなった。総連直営のパチンコ屋を全国に約20店舗展開したといわれる。建設資金は勿論朝銀からの融資で200億円は越したであろう。その担保物件が総連所有の不動産である。近畿学園、幼稚園、教育文化会館、朝鮮学級、大阪総連本部、朝銀大阪本店、朝鮮大学校、総連中央学院などの担保資産総額は692億円であった。そして極めつけは不動産取引である。それもかなりやばい詐欺師ややくざがからむリスクの大きい物件ばかりである。そしてご他聞に漏れずバブル崩壊で巨額の負債となった。1997年朝銀大阪信用組合と近畿五朝銀は破綻した。負債総額160億円である。そして連鎖的に全国の朝銀は破綻し、東京朝銀は1999年3月に535億円の債務超過になった。総計1兆3600億円の公的資金の導入により、整理回収機構から譲渡された再建「ハナ信用組合」や「ミレ信用組合」には日本人理事長を入れ、総連とは距離を置く経営体になった。朝鮮総連を支えてきた二つの柱、民族教育と朝鮮信用組合のうち、朝鮮信用組合は完全に総連から離れた。

朝鮮総連の暴力的言論恫喝事件

北朝鮮や朝鮮総連に対する言論を暴力的に封殺するような反民主主義的体質、脅迫的体質は北朝鮮政府の軍部独裁性と金一族支配体制維持勢力による必然の組織体質から由来する。1984年4月週刊朝日の記事「遂に在日肉親が語り始めた北朝鮮帰国者10万人の絶望」がでると、朝鮮総連は全国から活動家の動員をかけ朝日新聞社へ連日抗議行動という暴力行為に及んだ。1987年11月北朝鮮特殊工作員による「「対韓航空爆破事件」、1997年2月「朝鮮労働党書紀黄長Yの韓国亡命」でも総連は事実無根とマスコミに抗議して失笑を買っている。中でも1997年12月毎日新聞の記事「日本と北朝鮮 ヒト・モノ・カネ」で朝銀大阪問題を書かれると早速抗議行動に出た。あまりに執拗な抗議に毎日新聞は記事のトーンを下げたいきさつがある。しかしこれらマスコミに対する「抗議行動」はかえって日本のメディアの反発を招き、関連記事が連日掲載されるという逆効果になってしまったようだ。1994年4月在日市民団体「救え、北朝鮮の民衆 緊急行動ネットワーク」の集会を暴力で流会させ「威力業務妨害」で大阪府警は大阪朝鮮総連を捜索した。総連組織は在日社会で退潮を続け、朝鮮半島での緊張が続き、北の経済政策無能から飢餓が発生し手入る時期、北朝鮮や総連関連記事に対してヒステリックになり、組織防衛のために敵対勢力にたいして暴力を加えるというこの反社会的行動は如何に総連が事態を冷静に判断する自浄能力を失くしていることの証明である。

朝鮮総連の終わりの始まり

在日社会はその百年の歴史で北も南もない汎民族的思考で動いてきた。日本の敗戦後150万人が南に帰還した。北へは北朝鮮帰還運動で10万人が帰還した。その後日本の高度経済成長と日韓条約締結によって在日社会の生活レベルは上がり、永い間日本で生活した人々にとって生活習慣や、意識の極端な相違から帰国しても生活できないことを実感させた。又総連の民族教育の眼目である金日成親子へ忠誠を誓う教育は世界の民主主義や基本的人権運動にも背を向けた教育であり、在日の人々は朝鮮総連系民族学校へ子女を送らなくなった。1975年には約3万人いた学生数も2004年には1万人を切るまでになった。そして日本での生活向上に目を向け、さまざまな制度的差別問題に取り組むことに視点が変った。まず地方自治体での地方公務員就職運動である。そしてなによりも在日の人々の明確な日本定住の意思表示はさらに多様な動きを生んだ。1990年代はじめには「日本社会との共生」という考えが芽生えていた。地方参政権と住民投票権運動は、2001年滋賀県米原市は定住外人を住民と認定し住民投票参加を認めた。2004年現在95の自治体が住民投票参加への道を開いた。2002年小泉首相の北朝鮮訪問で拉致問題を北朝鮮が認めて謝罪し、拉致家族が帰国することが出来た。日本社会の拉致問題批判の前に総連幹部は窮地に陥った。外国人登録証明書の国籍を朝鮮から韓国へ書き換える人が増加し、また日本国籍取得者も増加して、2003年では「朝鮮国籍所有者」は約65万人の在日のうち10万人を切っている。朝鮮総連の財政も破綻している。朝銀融資の担保物件となった学校や本部建物は不良債権の担保として既に幾つかは差し押さえられている。こうして朝鮮総連の組織は軋みを上げて崩壊の過程にある。


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