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上田篤著 「都市と日本人」ーカミサマを旅するー

 岩波新書(2003年9月)

都市とはカミサマがいる場所である。やおろずの神の国では国つくりに貢献した人がカミサマ 

著者上田篤氏は建築空間設計家というべきだろうか、詳しくは知らないが専門的な構造建築家というよりは空間設計技術者である。まあ公園設計をイメージしておけばいいのかな。京都文化人の端くれでやたら雑学的である。懐が深いというか文明評論家というか京都文化人では一番有名な梅棹忠夫氏と会い通じるところがある。従って氏の説くところあまりまじめに考えるとはぐらかされること請け合いだ。ただ発想と目の付け所にははっとさせられ、論理の展開は自由でとりとめがない。そして結論ははてなと首をかしげる。百以上の反論が可能である。これが人を食った京都文化人のやり方だ。それが面白いと京都大学人文科学研究所はそんな人間を集めてサロンを作り自由闊達な議論をさせて、そして多くの文化文明評論家を生んだ。上田篤氏は30代前半で役人を止め京都精華大学の先生となった。著書には「日本人と住まい」、「橋と日本人」、「京町家」、「数奇屋町家」、「五重の塔は何故倒れないのか」、「空間の演出力」、「気合の建築・混化の都市」、「鎮守の森の物語」など多数。

まず都市とは何だろうか。「情報の生産の場」という定義が一般的である。そして情報を独占するのが国であれば都市は権力が存在するところである。上田氏は「昔々情報生産の担い手はたいてい神さまだった」とのっけからわけのわからないことを断定される。村落の権力者は最新情報を使って生産をおこない諸々の建築を行う。権力者イコール神と考えれば上田氏の言も理解できる。「そもそも都市とは神さまのいる場所、つまり神殿のあるところ」というセリフは実は梅棹忠夫氏の言葉である。これが本書のメインテーマで且つ結論である。本書でいろいろな事を取り上げられるが、一貫して流れるテーマは「そもそも都市とは神さまのいる場所、つまり神殿のあるところ」というテーゼである。たしかに古代文明であるシュメール文明には神殿を持つ集落即ち都市遺跡が見つかるが、これは殆ど全ての古代文明に当てはまるであろう。中国の「周礼」にも「東に宗廟、西に社稷、南に朝廷、北に市場」という都市の構造がしるされている。多神教のギリシャ・ローマ文明でもすばらしい神殿を残している。一神教イスラム都市の同心円的な都市の中心にはモスクがある。欧州の一神教のキリスト教都市の中心には広場があり教会が立っている。求心的都市構造である。南米のインカ文明の空中都市の宮殿には祭を行った宗教的場所がある。日本の弥生時代の集落吉野ヶ里遺跡でも祭の遺跡がある。イギリスではセントポール大聖堂とビッグベンという象徴的な特定の建築物は何処からでも見えるように戦略的眺望が保証されている。フランスではノートルダム寺院とエッフェル塔である。都市の中心に神殿があるということはある程度納得できるのである。昔は人々が拠るべきは神のいる神殿だったのだろう。

「吉備の穴海」にみる日本古代の国土開発

弥生・古墳時代には海岸線や湖岸線が大きく変動したようであるが、それを記す書は何もない。ただ古事記・風土記・日本書紀の神話を読むと「国引き」という言葉があり、これを侵略戦争と読むかあるいは国土改造によってあらたな耕作地の開発と読むことも出来る。その代表が出雲の大国主の命である。日本書紀の崇神紀に大物主神と百襲姫の話は大和三輪山のふもとの湖の干拓事業と読むことが出来る。岡山市倉敷市にまたがる吉備の穴海というのもこの地域は昔海であったものを干拓して吉備の国という古代国家が生まれたという神話である。このような古代の巨大な土木事業を成功させた力には、巫女のご信託で人々を結束させ組織化したのではないかというのが著者の推測である。開拓地に大きな村落(国)が出来、その中心に神事を執り行う神殿と政庁が置かれたことであろう。その土木技術は同時に権力者の墳墓(前方後円墳など)を生んだ。カミサマの神は「クム」(隠れる)から転じたとされる。つまり目に見えない権力者と目に見える巫女の二人三脚で古代国家の事業が進んだようだ。その原型は「邪馬台国」の卑弥呼と弟の関係みたいなものである。これを「巫政国家」(山上伊豆母)とよぶ。権力者の男性は巫女なるカリスマ女性に隠れて政治を行った。この体制は平城京奈良時代の女性天皇のときまで続いた。百済からの帰化人が支配したと思われる吉備の国が大和朝廷に服するようになってから、多くの吉備出身の女性が天皇の后になっている。応神天皇の兄媛、仁徳天皇の黒比売、雄略天皇と若媛という関係である。「真金吹く吉備」といわれた吉備の国は中国山脈の砂鉄から製鉄をおこなう帰化人技術集団であったろう。出雲の「ヤマタノオロチ」神話は製鉄集団と稲作民との抗争の話ではないかといわれる。

東京の神殿「皇居」

皇居は言うまでもなく徳川家の千代田城であった。そこに明治維新後薩長に担がれた天皇が京都からのこのこ入ってきたのである。間違いなく皇居は新都東京の中心たる宮殿であり、荒人神のおはす場所となった。日本の都市は中国や中央アジアやヨーロッパと違って城壁をもたない。城とは中国では都市のことである。日本の都市は城壁は持たなかったが宮城はあったのである。戦国江戸時代の城下町(お国の首都、領主のいる場所)はすべからく城が中心にあった。これはよく言われるよう日本では異民族による略奪侵略がなかったせいである。むろん中世から戦国時代には領主間の戦争があるたびに町は焼かれたが、農民を殺しつくすことが戦争の目的ではなかった。むしろ農民らは戦争を見物していた気配もあったのである。そして本書の趣旨に矛盾するようだが、平城京以来日本の都市には城壁も神殿もなかった。神殿は離れた伊勢神宮にあったのである。すると天皇のいるところ御所が宮殿ともいえる。御所内で天皇はいろいろな神事を執り行うからだ。ということで皇居は宮殿である。「東京の中心は空虚である」といわれる。真空地帯という人もいる。つまり天皇制自体が奈良時代から「象徴性」であって天皇は「神聖」で「親政」していなかったのである。血刀を握った天皇が親政していたのは飛鳥時代までである。奈良時代から権力の実権は藤原氏が握っていた。天皇は生殖器官と化していた。この伝統は明治維新のときにも受け継がれ、天皇は統帥権を有する主権者といわれながら御前会議で政事に発言することも許されなかった。

東寺の平安仏教は商業の基点

東寺の五重の塔は平安京のシンボルであった、羅生門は焼かれて再建されなかったが、東寺の五重の塔は何回焼かれても再建された。ご存知のように東寺は空海が教王護国寺という密教寺院にした。日本の律令制という官僚中央集権制は長続きはしなかった。日本のこまごまとした国柄に合わなかったのであろう。直ぐに荘園制という私有地制国家にかわった。荘園制を支えたのが寺院の経済活動である。中世の寺は賽銭が集まり実はそれらの貨幣を商人にかしつけて利息をとった。つまり寺は高利貸しか銀行だった。寺や寺院の周りに商人たちの座が立ったのもそこから来ている。門前市のはじまりである。今日の東寺でも21日は弘法さんの命日で縁日がたつ。室町時代の末期北陸や大阪で勢力をふるったのが浄土真宗の自治都市(寺内町)である。一向一揆や石山本願寺では寺侍を雇った自治都市が形成され承認や職人が居住した。東寺の五重の塔が建築構造的には心柱の柔構造で、建築物は心柱の周りの鞘に過ぎなかった。だから東寺の塔は地震台風でも倒れないのであるという落ちもついている。

鎌倉は要塞都市

源頼朝が開いた鎌倉は、これを都市というには実に小さな地である。そして鎌倉は三方を小さな山に囲まれた要塞都市であった。鎌倉への出入り口は七口の切通しがある。狭い道またはトンネルでこれでは大軍は通れない。城壁を持った都市それが鎌倉幕府である。鎌倉幕府以来700年武家政権が続く。中国では武力で前王朝を倒しても直ぐに官僚制文治政冶に移行する。日本では700年も戦士階級の支配が続いて、貴族化しなかった。戦争がなくなった江戸時代からは藩候は貴族化したけれども、武士階級は貧困化し「武士は食わねど高楊枝」というありさまであった。将軍と御家人は安堵と奉仕の関係で結ばれ「イザ鎌倉へ」と忠誠を誓った。鎌倉の中心には源氏の守り神である鶴岡八幡宮がありそのそばの大倉御所で政治を取った。頼朝の廟所は北の山腹にある大倉法華堂に鎮座した。源氏将軍は三代でおわり北条家の執権政治に移った。合理主義と権力政冶は長くは続かなかった。

京都の町衆と氏神さん

京都の町は中世以来、大体商人が道路の両側に住んだ、これが町家の始まりである。間口が狭くいわゆる「うなぎの寝床」の町家が密集した。夏は案外風通しのいい家である。町家の特徴は数奇屋風(茶室)である。京町家にはさまざまなカミサンが祭られている。竈には「三宝荒神(おくどさん)」、店の壁には「大黒さん」、台所の神棚には「鬼子母神」、「歳徳さん」、座敷には仏壇、離れ座敷には「弁天さん」、茶室には「達磨さん」、祭りの時には表に祭礼札や注連飾り、正月には門松といった按配にカミサンが平然と雑居している。中世の京都の町は自治町でいわば「祭礼共同体」で、近くの氏神さんを中心に結束した。その典型が祇園神社の祇園祭である。そのほか伏見稲荷祭、松尾大社祭などの神輿の常設お旅所が町内に設けられる。かくて庶民の暮らしと氏神さんの結びつきはつよい。送り盆が過ぎて地蔵盆がやってくると地蔵さんのまえで盆踊りが盛大に行われた。私の子供時代は地蔵盆と盆踊りが楽しみの一つであった。今はどうなっているのだろう。地蔵盆はやっているようだが。

安土城は織田信長の神殿

日本各地の城はここ10-20年の間に見違えるように美しくなったそうだ。城の中に作られた学校や官庁が移転して公園として整備されたからである。城には天守閣が必要だ。江戸城(皇居)の天守閣は焼失ご再建されなかった。織田信長が全国布武の途上に建築した安土城は今はないが、琵琶湖に飛び出した199メートルの安土山にあった。信長公記によると「言語同断面白き有様、見物群集に候」と謳われた天守閣であった。織田信長は中世の商業を握っていた仏教勢力から商業を奪いとる「仏を殺して商人を奪う」戦略で、悉く中世寺院を焼き払った。そして自治都市堺も屈服させ、重商主義政策を展開した。キリスト教に興味を示したのも貿易の利に気がついていたからである。信長は全国制覇を部下の武将にまかせた。朝廷からは「征夷大将軍か太政大臣を授けよう」という申し出は無視して、自らをカミサンにしようと企んでいた。その具現化が安土城と総見寺ではなかったのか。

東京の鎮守の森と町制

東京には浅草神社、神田明神、山王神社、根津権現さんがある。そしてその祭礼準備活動こそが京都の町衆と同じ、町内結束の源泉でもあった。鎮守の神さんを中心に町が組織され、まちは祭礼共同体であった。神さんは森にいる。これは森を居住場所とする縄文文化人と里を居住場所とする稲作弥生文化人の拮抗関係でもあり共存関係でもある。神の森を神聖視する態度は何処でも同じである。京都では下賀茂神社は糺の森にある。山王神社、根津権現も鬱蒼とした森がある。子供の遊び場所として、避難場所として、火災延焼防止空間として、コミュニティセンターとして、鎮守の森は地域社会を統合するカミサマの場所であった。ところがいまその社会が崩壊に瀕しているのである。森と人間の共生というか妥協を図らなければならない。

京都の小学校は行政の中心地

明治5年に学制ができ、初めて東京で6つの公立小学校ができた。京都ではなんと明治2年に64の私立(町共同体の寄付)小学校が出来ていた。福沢諭吉も明治5年に京都を訪れこの小学校を絶賛している。これは京都府知事槇村正直が京都の全町組に一つづつ小学校をという、学校と消防と警察と兵隊を一緒くたにした行政の単位を置いたのである。しかも建設は町の寄付で出来た民間の小学校である。つまり京都は64の町から出来た行政体となった。校舎の上には火の見櫓をおき、半鐘や時刻を知らせた。講堂は集会場として布の役人が出向いては町と会議をする場所となった。運動場は地域運動会の会場でいわば祭りがおこなわれたし、鎮守と同じように避難所、集会場ともなった。明治13年には中央官僚支配が強化され教育も国の管理下に置かれて京都の町の小学校は消滅した。今では当たり前のように思われる運動会は日本の文化行事で、他国の小学校では運動場もないのである。明治22年欽定憲法が出来「教育勅語」が発布されてから、学校は点天皇制一色の官僚支配の道具になった。「御真影」というカミサマが学校に祀られた。終戦後学校に出来たプールも日本だけの文化である。戦後民主主義の象徴になった。

都市論の将来

日本の都市は欧州の都市とは異なる。欧州の都市が一元的な中心(それは教会と広場)がある、いはばリンゴ構造であるのに対して、日本の都市には多元的で中心がないいわばブドウ構造である。リンゴ構造の都市では市長という絶対者が君臨する。しかし日本のブドウ構造では市長の権限は無視されるに等しい「ヤマタノオロチ」権力構造で頭がいくつもある。絶対者がでれば狙い撃ちにされて下ろされるか、ひどいときには殺される。日本が村社会であった名残である。いいかえると国家はなかった。運命共同体的な集団の集まりが国家であった。そして誰も都市を愛さなくなった。資本の無慈悲な活動による市民の貧困化によって離散する都市が増加した。役所職員も使命感に燃えて仕事をする人はいない。市長や知事自ら汚職や利権に走っているのだから。そこで上田篤氏はとんでもない提案をする。カミサンが何処からでも見える都市にしようという。つまり象徴的景観が戦略的に眺望できるように建築物の高さ制限と場所制限をするということだ。そして極めつけの提案は京都の小学校のように、房構造の行政単位、つまり人口5000人程度の24000の学区からなる国にしようというのである。これが梅棹忠夫氏の言う「出入り自由のコミュニティ」なのだ。景観制限はともかくとして、どうですか荒唐無稽の提案でしょう。これが京都人特有のギャグです。しかし面白いではありませんか。


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