書評  051224

養老孟司著 「脳の見方」、「からだの見方」

 ちくま学芸文庫(1993年12月初版、1994年12月初版)
 
「唯脳論」にいたる養老氏の軌跡


養老孟司著 「脳の見方」は1986年に、「からだの見方」は1988年に哲学書房と筑摩書房より刊行されてから文庫本になった。養老氏未だ若かりし40代後半の知の軌跡である。「唯脳論」が1998年に刊行されたからこれら2冊の書物は約10年も前の本になる。これらの著作以後の自分と以前の自分の変化を氏はこう述べられている。「恐らく一番大きな変化は世の中で言う科学と、自分なりに縁を切ってもいいと思ったことであろう。いわば人生の折れ目に当たっている。」

解剖学とは普通の科学と違って実験をしないいわば眼の知識や博物学(氏の大好きな昆虫分類)に近いが、医学の中ではなぜか科学のように扱われてきた。その違和感がしだいに氏の中で蓄積し医学の本道から逸れていったようである。そういう意味で医学界ではタブー視されてきた心身論を自由に取り扱うために、氏は定年を待たずして東大医学部解剖学教室(古いなー)教授を退官されフリーの作家に転身されたようだ。「科学との決別」といえばセンセーショナルな時代錯誤的態度であるが、そうではなく「脳科学の成果に基づいた文明論・人間論」試論への飛躍とも言うべき若き時代の一連の軌跡をたどってみよう。

「脳の見方」

本書は六章からなり、第一章「神経」にいわば「唯脳論」の萌芽が見られる。第二章「解剖」では解剖学の開祖と解剖学の特徴を素描し、第三章「時間」はゲーテ、モンテーニュ-など文学的随筆からなり、第四章「博物」では生物学雑学を披露し、第五章「綺想」では自分がいかに変人だったかと言う回想録、第六章「発生」では発生と進化論の関係(系統発生学)、視覚/聴覚と咀嚼器官の進化の関係を述べている。脳機能を扱う第一章のみを紹介したい。

第一章で「ヒトの脳の拡大は末梢神経系と不釣合いなほど脳が増大することを意味する。それが思考という余分な機能を生むことになる」という。これは脳の「剰余価値」(動物の生存にとって最低限必要な反応という機能以上の、考えるという機能を生み出す)のことを言っているようだ。脳は自分で自分を機能させることが出来るために「アナロジー機能」で抽象的概念の世界(文明、科学、芸術)の構築が可能となった。眼の哲学者フーコから養老氏は多大な影響を受けているようである。言語発生でいつも話題になる視覚言語(文字)と聴覚言語(音声)の関係について、フーコの言葉から引用して「アルファベット文字を持つ場合人間の歴史は一変する。音節と語を形成する少数の決まった記号を創り出したのだ。象形文字が表象それ自体を空間化しようとして相似関係の法則に従い思考の諸形式から離れていくのに対して、アルファベット文字は表象の相似関係を断念することによって理性そのものにとって有効な規則を音の分析に導入した。書かれたものを含む言語全体を分析の一般的領域に置いて文字表記の進歩と思考の進歩を並行させることができるのである。」
このフーコの言語発生の考えは養老氏の言語論の全ての基礎である。養老氏が言う脳の視覚言語中枢と聴覚言語中枢の交差によって運動性言語中枢が働いて言葉が発音されると言う仮説はそうだとしても、なぜ言語機能が出来たのかというところは説明できているとは思えない。近いから神経細胞が接触するというならわかるが、全ては神秘の闇に包まれている。ここに科学のメスが入るのはもっと先の天才的思考に期待するしかないか。抗体の遺伝子研究でノーベル賞を受けたMITの利根川進氏は目ざとくも遺伝学の次は脳科学だとして早くも脳研究に移行している。

「からだの見方」

本書は三章からなるが、身体論は前半にあり、後半は随筆的雑学である。随筆的雑学と言って見下すわけではなくそれぞれが氏の見解の片鱗を顕しており興味深い。前半の身体論では「性」、「耳」、「嗅覚」、「視覚」、「知能」、「頭部」、「眼」、「骨・構造」、「脳とこころの並行関係」などの各論が述べられている。面白いところを紹介したい。

「性」についてはこれはよく聴く論ではあるが、女が本来の生物学的原型であって男はその派生に過ぎないという論である。驚かれるかもしれないが、遺伝子学的には日本の天皇制と反対に女の体細胞遺伝のみが系統的に遺伝される。いわゆるヒトの起源をアフリカの一人の女性に求める人類のイブ説である。もうひとつの根拠は発生学的には性腺原基はホルモンが働けば男性の精巣に分化するがそのままだと女性の卵巣になる。細菌のような無性生殖(細胞増殖)の基本は女だということで、性の分化(これが効率的かどうかは別だが)のために男性がホルモン作用で生み出されたいう学説である。男は生殖のきっかけにすぎず種付け馬みたいな存在で、「卑弥呼の時代、女は太陽であった」という女系社会を髣髴させられる。魚や爬虫類の性もやはりホルモン支配であり、かって環境ホルモンと騒がれた化学物質で魚やワニがメス化するという事態はこれをさす。
「脳とこころの並行関係」において養老氏は「心と体の関係は医者にとってもともと切り離せない縁のものである」といっている。今までの医学では心と体を切り離なしてきた(身体一元論)が、脳死=死かという問題でここにおいて現実の便宜上哲学医学は意識一元論に近づいてきたようだ。といっても日本では一例も臓器移植は出来ないままでいる。西洋哲学ではデカルト以来心身二元論である。脳と心・精神作用の並行関係を求めるということは、見掛けは心身二元論であるが行き着く先は当然心身一元論になるだろう。科学といっても脳が生み出す数学など概念科学は自己言及的正当性(アプリオリな公理から出発して結果に論理上矛盾がないこと)が要求される閉鎖系である。一方実証科学は仮説から実験観察をおこなう開放形であり、結果は常に暫定的で常に訂正される。
「医学は科学か」において養老氏は「医学はいまでは自然科学なのである。しかし臨床医学が本来自然科学とは程遠い事情をたくさん含んでいることはいうまでもない」という。つまり生命倫理(バイオエシックス)がなければ医学は自然科学足りえないのである。この点韓国の胚操作技術で世界のバイオのトップへ這い上がろうとするあがきは極めて危険なのである。「臓器移植、胚操作、脳死など現代医学の主題から生じる問題は、私には個体の規定とその起源の問題に見える。そして個体性の問題は結局脳と意識の問題に還元する」と養老氏は述懐する。難しい言い回しであるが、個人を成立させるのは脳機能の差異に在るのではないかと言うことである。クローン人間が同じような意識を示すとしたらそれは個体かどうか疑わしい。聖なる領域というと誤解される向きもあるが、ヒトをヒトたらしめるものは意識にあるという考えである。
最後に「精神科では常識的に患者と医者の間には距離を置く。置かないと患者が二人になるからである」というしゃれにならぬしゃれを養老氏はいう。ところが文科系では小林秀雄のように読むものと著者が同一化することを理想とする人もいる。この辺が文科と理科の相違かもしれないという思いには私も同感する。それだけ文学は歴史的に奥が深いようでもある。いろいろな曲芸をやってのける兵どもがいるようだ。


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