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猪瀬直樹著 「空気と戦争」

 文春新書(2007年7月)

日米開戦で日本は敗北すると予測した擬似内閣の結論が、御前会議で開戦論の空気に破れた理由

本書は2006年10月から翌年1月まで東京工業大学学部学生を対象とした講座「日本の近代」を元に原稿を起こしている。目から鱗の名講義という評判が生まれたようだ。「時代に流されずに生きるとは、論理とデータで考え同調圧力に屈せず、周りの空気とは無縁のオンリーワンになることだ」というメッセージを東工大の若者に送ったようだ。本書のテーマは戦前は天皇・軍部独裁制、戦後は平和・民主主義という断絶した捉え方ではなく、むしろ戦前と戦後派日常性という点で連続しているという視点である。実質的に日本を動かしてきたのは、明治時代に形作られた天皇の僕「官僚」である。天皇主権でもなく主権在民でもなく官僚主権(官僚内閣制)が続いているのである。官僚制だけではない、お上任せの享楽的な庶民の日常性にも連続性があった。いまだに日本国民は思想的・政治的に自立していないのである。自我の確立は明治の福沢諭吉の願望に反して西欧なみには程遠い。

本書の内容は1983年世界文化社刊行の「日本人は何故戦争したか 昭和16年夏の敗戦」に同じである。1941年、時の近衛内閣が日米開戦の可能性をシュミレーションするため総力戦研究所をつくり、そこへ30代の俊英である官僚・軍人・民間人36名(内27名が官僚)に擬似内閣(シャドーキャビネット)をつくって、日米が闘った場合の分析と戦争遂行の可能性を議論させたのである。約4ヶ月に議論を経て8月に「日本は敗戦する」という結論を近衛内閣に報告したが、東条英機陸相はこれを「机上の空論」として排除した。そして時代は真珠湾攻撃で日米は開戦へ突入し、翌年日本は南進しインドネシアへ進駐した。太平洋戦争の勃発である。その結果は1945年8月の敗戦となって国土は焦土に化した。どうして負けるという結果の出た戦争を遂行したのだろうか。日米開戦でしか活路が見えなかったのだろうか。本書は簡単のためにか、国力を石油資源量だけで計っている。米国の石油輸出禁止から始まって、インドネシア進駐による石油資源確保と生産量と消費量のバランスシートからのみ戦争能力を見て、擬似内閣は戦争に負けるという結論を出したことにしている。恐らく検討は全ての物資動員計画に基づいた結論であったろうが、いまは簡単のため石油資源量のみから戦争遂行能力をおってゆこう。なお本書の第四章「霞ヶ関との戦い」は猪瀬氏が道路公団民営化委員会での国交省官僚との戦いが、戦前の官僚(軍部・統帥部も官僚機構)との戦いに共通することを言わんが為の章である。これについては猪瀬氏の著書「道路の権力」、「道路の決着」に詳細に述べられているし、本書評コーナーでも紹介したので第四章は省略する。

最近日米戦争を「米国の謀略で日本はうまくアメリカの罠にはまってしまった」というような論が右翼や自民党系政治家・論客でもてはやされている。これは真っ赤な嘘である。これを「謀略史観」という。戦争を人のせいにして、反省しない輩のたわ言である。戦争は自分の力をしり、相手の力を推し量り、その優劣を計量的に判断しなければ出来るものではないことは太古の昔からの鉄則である。無謀としか言いようがない、自信過剰と神風期待で戦争を始めてしまった時代の空気は恐ろしい。そのようなことを繰り返さないためには、技術者、政策担当者らは論理とデータに基づいて提言し、脅しの圧力に屈しないことを肝に銘じて教訓としたい。

1:人造石油技術開発の遅れ

人造石油技術開発のことは戦争遂行上、石油資源を持たない日本が液化石炭から高温高圧の触媒改質技術で人造石油を製造する技術開発に遅れてしまったため、結論的には戦争には間に合わなかったということである。総合的な反応技術の環がなかったために高圧に耐えず爆発事故を起こしていたので生産量は微微たるものにすぎなかった。人造石油はドイツでは年産350万トンに達していたが、日本では1937年より促進法を作って開発したが1941年で年産30万トンであった。火力や兵力も考慮し石油だけで戦争が決まるものではないが、日本の人造石油は戦争を決意させる要因にはならなかった。陸軍省にいた技術将校高橋中尉が陸軍燃廠で石油の配分計画(物資動員計画)を担当していた。1941年6月米国の輸出禁止を受けて一滴の石油も入手できない状態となった。時の陸軍大臣東条英機に報告して南進の決意を迫ったところ、東条は「泥棒せい、というわけだな」と皮肉った。最初からオランダ領インドネシアへの石油奪取の南進計画であったのだ。この頃の状況は高橋氏が回想するところによると、「昭和16年6月頃、緩んだ水道栓からポトポト水が落ちるように何とか続いていた米国からの輸入石油は禁輸のためにポトリとも音がしない状態に立ち至った」と表現されている。戦争は石油がなくても石油奪取のために戦争をする日本も有れば、石油は湯水のようにありながらさらに石油を支配するためイラク戦争を起こす米国もある。石油の有無が戦争の要因ではない。しかし石油がなければ確実に敗因になる。

2:総力戦研究所擬似内閣のシュミレーション

1941年4月総力戦研究所が首相官邸の裏に木造2階建てのバラック建物として出現した。集められた人材は35歳以下の大尉・小佐クラスの軍人とキャリア官僚と民間人の俊英ばかりである。いつかその道でトップに立つ人材を集めたようだ。研究所所長は陸軍の飯村中将である。官中心(軍人は5名)で民間人は6名(日銀、日本製鉄、三菱鉱業、日本郵船、中央金庫、同盟通信)といわば文官中心の作業チームである。研究生は模擬内閣を構成したが、同時に「統監部」は「統帥部」の機能を受け持った。すなわち当時の国体そのままの機構であり、統帥を担う「大本営」と、国務を担う「政府内閣」に2分されたのである。(統帥権を持つ天皇は神聖にして犯すべからずだから、統帥権に関しては内閣は関与できないのである。このような軍部の独走は明治憲法の欠陥から生み出されたのである) 統帥を担う「大本営」が状況をみて次々と出す意向を模擬内閣がデーターに基づいて政策が可能かどうかを検証するのである。模擬内閣総理大臣窪田角一は連日閣議を行い、各大臣は基本的データを揃えて議論する。データは(模擬大臣)が出身官庁へ往って調べてくるのである。このシュミレーションでは当然遅かれ早かれ日米開戦を念頭に入れて戦略を立てる。さまざまなデータと観点から検証が加えられ摸擬内閣の経済閣僚は開戦に拒否反応を示した。すでに1941年の国民生活は統制経済の時代にあり日常物資は配給制になっていた。物資持久力の差が国防時給能力総体の優劣を決定付けるが、日本の物資供給力はは綿花を除いてアメリカの数十分の一に過ぎなかった。圧倒的な国力の差から出る結論は戦争遂行不可能以外にはなかった。しかし日本の軍人は太古の昔から奇襲作戦による勝利になれており、夜討朝駆けの習慣から脱した近代的兵站理論(ロジスティック)をとなえれば、大和魂を持ち出して戦意を高揚するのである。商船保有量は300万トン、造船応力は年60万トンで日米開戦での消耗量は120万トンと予想されるので、3年で2/3が失われる勘定になる。オランダ領インドネシアに進駐して石油資源を確保する計画においても、開戦1年目の石油保有量は775万トン、消費量520万トン、第二年度では550万トンが供給量で消費量は475万トン、3年目には供給量は545万トン、消費量は475万トンと南進すれば何とかつじつまは合う計算になった。しかし重要なタンカーの米国潜水艦による撃沈損失を10%と計算していた。ところが実際はタンカーは殆どが撃沈されに商船隊は全滅し日本には石油は届かなかった。海軍はシーレーンの確保や商戦護衛作戦は場当たりで、撃沈されて結局南進した石油増産効果は無に帰した。つまり当時の空気は座してジリ貧になるよりは何進して活路を開くという勇ましい言葉に支配されたのであった。

模擬内閣は8月27・28日首相官邸において研究発表をおこなった。模擬内閣が出した結論は「12月中旬、奇襲作戦を敢行し、成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、しかし物量において劣勢な日本には勝機はない。戦争は長期戦になり、終局にはソ連が参戦して日本は破れる。だから日米開戦はどうしても避けなければならない」であった。東条英機陸相はこれを「机上の空論」として退けた。そして口外を禁止した。内実は東条も敗戦必至論を感じてはいたが開戦の空気で踏み切ったようだ。

3:御前会議開戦決定まで

それから一週間後 9月6日天皇臨席の「御前会議」が開かれた。そして日米開戦やむなしとする「帝国国策遂行要領」が承認された。「御前会議」では天皇は発言しない。「君臨すれど統治せず」なのだ。この天皇の無責任は上から下まで一貫して官僚の無責任体制の源になってきた。この会議では主戦派である陸軍省と統帥部(大本営参謀本部)が、和平派の近衛文麿と海軍出身の豊田貞次郎外相を押し切ったのである。10月近衛文麿は「戦争には自信がない。自信があるひとでおやりなさい」といって辞任した。そして10月17日東条英機に組閣の命が下る。天皇は開戦の御前会議の結果を再検討するようという意向で東条に命を下した。そして11月5日の「御前会議」は開戦の方針は変らなかったが、対米交渉の12月初頭までの成果を期待するとの一項も11月26日の「ハルノート」で進退極まった。鈴木貞一規格院総裁は御前会議で問題だらけの石油バランスシートを説明し、何とかつじつまを合わせた。そして真珠湾攻撃となって日米は開戦した。海軍と陸軍の敵は米国ではなく互いが当面の敵であった。海軍からいわすれば「陸軍が中国から撤退すれば日米開戦は防げる」といい、陸軍は「アメリカと実際に戦争をするのは海軍なのだ。陸軍は自分の腹は痛まないから勝手なことを言っている。最終的な判断は海軍がすべきで、海軍ははっきり出来ないとは言わなかった」とお互いの開戦の責任を擦り付けている。山本五十六連合艦隊司令官も「1年なら存分に勝ってみせる」と無責任なことを言う。こういった無責任な意思決定の本質を「空気」といい、天皇を頂点とする国体での忠勇ぶりを自慢したいがために、同胞300万人の戦死に到ったのである。一昔海軍は和平派で理性派、陸軍は主戦派で国粋主義者つまり無謀とみなす論があったが、冷静に見てみると海軍も山本五十六に見るようにかっこいいことばかり言って戦争に反対という立場は明確にせず、その上海軍の戦争方式が空母中心の空軍に変わっていたのを知らないで、飛行機の大量生産を行わず、日露戦争の日本海海戦の奇跡的勝利に埋没して「戦艦大和」という無用の長物を作って、南海の藻屑になるという愚行を犯している。海軍理知派という図式はかならずしも当らない。


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