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菅谷明子著 「メディア・リテラシー」

 岩波新書(2000年8月)

英国、カナダ、アメリカの教育現場でメディア・リテラシーがどう教えられているのか、
5年間のインタビュー取材レポート

著者菅谷明子氏はかって米国「ニューズウィーク」雑誌の日本語版スタッフ。メディアの仕事を続ける中でコロンビア大学において「国際関係論とメディアジャーナリズム」を学んで修士号を得た。現在は日本に帰ってジャーナリストになり、滞米中の5年間にメディア・リテラシー(メディア教育)を取材し諸外国における先進的な取り組みを紹介してきた。本書はその成果の一里塚である。なお本書を著した後、著者は2001年から2006年の5年間東京大学大学院情報学環MELL(Media Expression, Learning and Literacy Project)に移り、そこでチーフ・ディレクターを務めた。MELL活動の総括文には「この5年の間、80余名のメンバーは、700名前後のサポーターに支えられつつ、約20のサブプロジェクト、約10の関連プロジェクトを展開し、42回の公開研究会、6回のシンポジウムをこなし、6冊の本をまとめることができました。メルプロジェクトとしての活動は、あと一冊の本の出版をのぞき、これで終わりです。しかしこの企てで花開いたメディア表現やリテラシーのアイディアやプロジェクトの数々は、綿毛のついた種子となってあちこちに飛散し、さまざまな地域やメディアのなかに根をおろし、ぱっちりと芽吹きつつあります。メルの拠点となった東京大学情報学環からは、あらたな球根もほこほこと生み出されつつあります。」とある。

菅谷明子氏はこの本のきっかけをこういう。「ニューズウィークの日本版編集部にいたころ、ニュースは現実そのものを伝えているものではないと、考えるようになった」メディア媒体が持つ特性、イデオロギー、地域性、読者層、企業的判断、スポンサー、記者の興味、国情によってニュースは形作られる。ニュースが中立公平であるということは神話に近い。決して一つの「真実」が存在するわけではない。視点を変えればいくつもの「真実」が存在するのである。メディアが伝える情報は取捨選択の連続によって現実を再構成した恣意的(一面的)なものであり、特別な意図がなくても、製作者のしわくや価値判断が入りこまざるを得ない。「真実とは何か」という疑問はメディアリテラシーの原点である。メディア・リテラシーとは一言で言えばメディアが形作る「現実」を批判的に読み取るとともに、メディアを使って表現する能力のことである。メディア・リテラシーは主に北米で使われている言葉で、イギリスではメディア教育と呼ばれている。何かメデイア教育というと分りやすいし、主として若い人向けの教育という意味合いが強く、本書の内容からもぴったりの言葉である。メディア・リテラシーといえば批判的(否定的)にメディアを捉え「騙されないぞ」という側面が強い言葉である。

私はメディアの政治性についてはノーム・チョムスキー著 「メディアコントロールー正義なき民主主義と国際社会ー」を紹介した。また米国の財閥によるメディア複合体支配については広瀬隆著 「アメリカの経済支配者」で紹介した。それいらい私はメディアとは一定の距離をおいてむしろ「騙されないぞ」という姿勢を維持した。批判的に捉えることはメディア・リテラシーの一側面であって、ウエブにおいて自分が情報を発信する際に重要な意味も持つ。本書において菅谷明子氏はメデイァ教育のユニークな取り組みをしている現場を取材し、メデイア教育という未知の領域の理論を構成しようという意気込みである。本書はイギリス、カナダ、アメリカの教育現場とデジタル時代のメディアリテラシーの4つの章で構成される。

第一章:イギリスに根付くメディア教育

イギリスでは国語の授業が確実に変わってきている。自分がどんな文化の中にいるかを知ることが国語であり、メデイァを学ぶことはその理解を深めるという姿勢である。活字だけでなく、テレビ番組などの映像の読解が求められる。情報の批判的思考を育成する土壌が国語の授業に備わっている。メディアを理解鈴には現代の政冶・社会・文化を理解することは困難であるとして、メデイア教育は現代の読み書きの基本であるとされる。映画が戦略的であることはナチスのベルリンオリンピック「民族の祭典」でも明らかである。1985年マスターマン教授は「メデイアを教える」で分析的アプローチを主張した。メディアが送り出す情報や娯楽は誰かが何らかの目的で作ったものであり、誰がどんな目的で、どんな情報源を元に内容を構成したかに注目して読み込んでゆけば、メディアにどんな価値観が隠されているかが分るというっものだ。1980年代より教育の民主化がすすみ、大衆メディア(テレビ映画)抜きには教育が語れなくなったのでメディア教育が起こったのである。メディア教育のリーダーとなったのは英国映画協会(BFI)である。BFIはメディア教育に熱心に取り組み、動画教育をカリキュラムに入れた。1988年全国カリキュラム制定を期にメディア教育が制度化された。イギリス放送BBCはニュースが政治的に成りやすい事情があるので、物事が決められてゆくプロセスを学ぶ必要性からニュース制作にかかわるような教育を主張した。メデイア教育に欠かせないのが、優れた教員養成と教材になる。「ニュースパック」、「公告パック」といった教材を使って実践的な教員のトレーニングを行ってきたが、BFIの調査では国語の授業に取り入れているのはまだ23%に留まっており、やはり教員訓練不足が大きい。重要な発見は、映像は我々が活字(小説、詩など)からイメージする物を誰かが代わりにやってしまうものだから解釈が限られるのである。イメージの映像化は決定的な印象を人に与えるだけに、恐ろしくもあり重要な作業である。しかし学校現場では映像文化が国語に取り入れられることは少なく、労働者子弟が通う公立学校では大衆メディアの授業は行われているが、エリートの子弟が通う有名私立学校でいまだに書き言葉が主流である。イギリスではメディア教育の目的が、メディアを理解し、それによって文化を育むといった視点から捉えられている。イギリスで映画がテキストに選ばれるのはBFIの影響である。

第二章:カナダに広がるユニークな実践

カナダのメディアリテラシー運動の生みの親はオンタリオ州立高校のダンカン先生である。「メデイアと地球市民」という先生のテキストには「我々が見たり聞いたり読んだりするものは、編集者の写真の選び方や映像の送り手のものの見方、書き手の物事の捉え方にかぎられたもの」と書かれている。カナダオンタリオ州ではイギリスに先んじて1987年世界で初めて国語のカリキュラムにメディアリテラシーを取り入れた。国語初等教育では「読み書き」と「口頭と映像によるコミュニケーション」、高等教育では「読み書き」、「言語」、「メディア研究」が行われる。カナダではイギリスと違うところは大学や組織などの後ろだけを持たない教師の活動が実を結んだことである。1960年代トロントでは映画教育協会が設立され全国規模の会議ももたれたが、保守政権による経費削減で立ち消えになった。今度は映画の過激な性表現や暴力描写、刺激的なミュージックビデオなどの流行でメディアの悪影響が問題視されるようになり、ダンカン先生が中心になって1978年メデイアリテラシー協会(AML)が創設された。AMLによって教師向けのガイドブックが制作された。メデイアリテラシー教育によってメデイァを楽しみながら批判的な目を持つ余裕のある学生が出来ている。ハローウインの商業的意味を分析したり、メディアの暴力度を格付けしたり、ニュースの生放送を制作する授業を行っている。生徒たちはテレビは映像が出てくる魔法の箱ぐらいにしか思っていなかったが、今ではこの魔法の箱がどんな経済構造を基盤にして、どんなプロセスで出来上がっているかが分るようになった。1997年メデイァリテラシーを支援する世界初のテレビ局「チャムテレビ」がトロントで生まれた。チャムテレビの社長は独特の哲学を持ち「テレビの本質は流れであって番組ではない」として、「インテリジェンスのある視聴者を育てる」ためにメディアリテラシーの発展を援助するのである。そしてメディアのプロセスを検証する番組手法をビデオ教材を作り教育に役立てている。しかし1998年オンタリオ州政府の保守化でAMLの活動は下火になっている。教師が主体で学校中心の活動であるが為、時の政策によって活動が制約されるのは当然であろう。しかしAMLは2000年トロントでのメディアリテラシー国際会議のホストをつとめ、世界にAMLの先進的取り組みを伝えた。

第三章:アメリカの草の根メディア活動

学校教育としての活動にはどうしても教師が生徒に教えるという形にならざるを得ない。それが子供を主体とする創造的な学びのハードルになる。マスターマン教授は「メディア教育の18の基本原則」において「メディアリテラシーは重大で意義深い活動である。その中心となるのは多くの人が力をつけ、社会の民主主義構造を強化することにある。メディアの送り手に必要に応じて変化を迫り、合理的な選択をし、メディアに積極的関わる事で効果的なコミュニケーションをはかることが出来るかどうかにかかっている」という。 確かに体制側にとって批判的な市民を育成することはありがたいことではなく、むしろ体制側は学校教育でやってほしくないと思っているだろう。このようにメディアリテラシーは政治的ならざるを得ない性格を持つ。アメリカでは学校教育とは別のメディアの民主化に向けた草の根活動が興った。オッサン・オバハンからなる小泉チルドレンとは違う、NPOチルドレン・エクスプレス(CE)が1975年に設立された。いまではアメリカとイギリスに七つの支局を持ち750人の記者を抱える。CEがニュースで扱うテーマは10代を取り巻く社会問題がおおい。学校での銃乱射事件に子供の視点で迫るのである。有る学校では優良な生徒がおおくて安全面でもなんら問題はないことは一般紙のニュースにされず、面白半分に事件が起きそうなふうに取材するという偏見を突くのである。確かにニュースにはそういうところがある物だ。「犬が人に噛み付いてもニュースにはならないが、人が犬に噛み付くとニュースだ」とはよく言われることだ。子供の視点にもバイアスがあるが、メディアにもっとも欠けている見方を出すところに意義があるのである。
メディアを監視する番犬(メディアウォッチドック)という団体が全米に100以上あるといわれる。メディアは権力の番犬といわれるが、このメディアの番犬である。中でのユニークなのがロッキーマウンテンにあるRMMWで全米のローカルニュースを詳細に分析し報告書を出す。放送時間にしめる番組の比率はニュースが41%、コマーシャルが30%、スポーツが11%、天気予報が10%である。中でもニュースの内容は殺人が27%、火災事故が12%、政府関係報道が10%、経済が10%、健康が10%であった(RMMW1998年調査)。またメディアの公正さと正確さをチェックするため「フェア」という団体がある。創始者の弁によると「レーガン政権が強いアメリカを演出するため行った報道戦略をみて、アメリカのジャーナリズムは政府のPR誌に成り下がったという観を強くした」ことによる。そのほかカルフォニア州の「検閲プロジェクト」は主流とは違うリベラルな視点を供給する「オルタナティブメディア}である。意義に少ないくだらないニュースの以下に多いかを摘発する「ジャンクフード・ニュース」、PR監視団体、意見広告を行う「公共メディアセンター」、NPO市民チャンネル「マンハッタンネイバーフッドネットワーク」(MNN)がつくる「メディアは張子の虎」(ペーパータイガーテレビ)では誰でもテレビ番組を作ることが出来る。このNPOは「湾岸戦争プロジェクト」で一躍有名になり、コマーシャルを分析する「メンタルエンジニアリング」などユニークな番組を作って活躍している。

第四章:デジタル時代のマルチメディアリテラシー

英国BBCが指摘したように、映画を理解する鍵は制作プロセスにおいてどのような選択がなされているかを知ることであり、出来上がった作品を批判するだけでは映像を理解したことにはならない。英国メディアセンタが制作した「ピクチャパワー」はスクリーンで映像編集と効果音楽が出来る学習ソフトCDROMである。また英国BFIが2000年の報告書「エディットプレイ」(編集)では動画リテラシーを習得すべきであるという提言をしている。ここでいうリテラシーとはかなり技術的な意味合いで使われている。簡単な操作でこれだけ受ける印象が異なってくるぞということをいうのである。事実の白黒が変るわけではないが、同情的になるか反発をするか正しいと思うかなどの印象を替えるのは容易である。それほど映像は恐ろしいが、現実的には毎日そんな作られた映像に曝されているのである。デジタルテクノロジーの登場はメディアリテラシーを学習する上で既存の枠組みに加えて、時代に対応した新しいリテラシーの獲得を迫るのである。インターネットでは確かに屑のような情報が氾濫しているが、ウエブリテラシーを必要とする。まずはホームページの目的を理解しよう。著者はどんな人物か(偏った意見、右翼)を別途調査しよう。URLより情報タイプ(Govなら政府系)を確認する。多様な情報源にあたることなどである。特に人種差別サイト、怪しいサイト(日本では2チャンネル)には近づかないこと。そしてパソコンの個人情報保護やセキュリティーには十分な対策を講じておくこと。迷惑メールにも十分な対応をしておくこと。サイバー攻撃にも注意すること。などなどのウエブ上必要最低限の身構えをしたうえで、マルチメディアを制作しよう。そこでリテラシーを学んでゆくのである。ホームページやブログを作って自ら情報を発信しよう。世界とつながろう。パソコン上での写真の合成/編集やカメラ映像の修正は容易である。カメラマンが写真を撮る時点で被写体、角度、明るさ、ぼかしのテクニックを駆使して選択した末に自分のイメージを焼き付けるのである。写真はもともと真実を写していない。すべからく製作者のイメージがなせる技である。


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